伊豆高原美術館長の對中如雲氏は、その著書「広重『東海道五十三次』の秘密」で、安藤広重の名作浮世絵版画『東海道五十三次』は、司馬江漢(しばこうかん)作といわれる画帖をもとに描かれたものだった-と書いている。あの広重の名作が、彼自身のオリジナルと信じて疑わない人たちにとっては、かなりショッキングなことだ。司馬江漢は、それほどに様々な分野に関心を持ち、銅版画を制作し、洋風画、浮世絵などを描き、また自然科学に親しみ、地理・天文に関する書物も著す多芸・多彩の人物だった。司馬江漢こそ江戸時代を代表する奇人・怪人といっても過言ではない。
司馬江漢の生没年は1738?~1818年。ただ、没年ははっきりしているが、そのとき彼は72歳だという説と、81歳だという説の二通りあって定かではない。江戸で生まれ、芝に住んだ。司馬という姓はそれをもじったものだという。本名は安藤峻。無言道人・春波楼と号した。
幼いときから画才があり、はじめ狩野派を学び、後に浮世絵師である鈴木春信門下となり、春重の号を与えられる。その後、宋紫石の門人となり、人物・風景・山水画に秀で画名を挙げたが、平賀源内の影響を受け、洋風画の道を志した。そして1783年(天明3年)、江漢は日本最初の腐蝕銅版画の制作に成功した。また地理・天文に関する書も著した。
伝えられる司馬江漢の事績をみると、好奇心が旺盛で、実に幅広く様々なことに関心を持ち、様々な人物との交流もあり、作品も描き、書も著している。平賀源内とは一緒に鉱山探索のための山歩きなどもしているし、数多くの大名とも会っている。
江漢の周囲の人物が弾圧を受けていた最中、時の老中、松平定信を公然と批判している。江漢は定信に自作の地球儀を贈っているし、江漢の西洋画に対して定信は批評したりしているから、お互いに見知っていたはずだが、それでいて江漢は少しも弾圧を受けなかった。また、当時キリスト教は禁制だったが、江漢は絵の参考としてと言いながら使徒、聖パウロ像を持ち歩いていたという。それでも、何故か全く咎めを受けていない。
この他、幕府の隠密だったといわれている間宮林蔵が、樺太探検から江戸へ戻ってすぐに江漢宅を訪れている。また、ロシアに漂着して帰国した大黒屋光太夫にも会っているのだ。鎖国下で外国に行った人間は、一種の軟禁状態にあり、普通の人間には会うことができないはずだが…。不可解で、どうしてそんなことができたのか?と首を傾げることはかなり多い。だから彼自身が隠密だった、隠れキリシタンだった、物凄いハッタリ屋だった-などと、いろいろ酷評もされている。
まだまだある。自分でコーヒーを挽き、器を工夫してコーヒーを飲み、地球儀や補聴器、老眼鏡も作った。自分の年齢を詐称し、途中から実年齢に9歳加算した年齢を作中に書くようになった。友人や知人に偽の死亡通知を送り付けることもした。訳の分からない人物、奇人・怪人の面目躍如といったところだ。
江漢は晩年著した随筆「春波楼筆記」の中で奇人を返上するような、優れた言葉を残している。それは「上、天子将軍より、下、士農工商非人乞食に至るまで、皆もって人間なり」というものだ。この人間平等観は優れているといわざるを得ない。単なる奇人や“皮肉屋”ではとても発せられる言葉ではない
(参考資料)高橋嗔一・細野正信「日本史探訪/国学と洋学」、司馬遼太郎・ドナルド・キーン対談「日本人と日本文化」