今川寿桂尼は今川氏の七代目、今川氏親の妻だった。これはもちろん、夫氏親が大永6年(1526)に病没してしまった後、髪をおろし出家してからの名前だ。残念ながら、それ以前の彼女の名前は分からない。
今川氏は足利氏からの分かれだ。足利氏から吉良氏が出、吉良氏から今川氏が出ている。初代今川範国が南北朝内乱の時代、足利尊氏にしたがって各地で戦功を上げ、しかもその過程で兄弟5人中、出家していた1人を除き、範国以外全員討ち死にしてしまったため、兄たちの恩賞も全部含まれて、駿河・遠江二カ国の守護に任命され、引付頭人といった幕府の要職にも就いた。その後、遠江の方は三管領の一家の斯波氏にとって代わられたが、以来十代目の今川氏真が武田信玄、徳川家康に攻められて滅びるまで、およそ230年余にわたって東海地域に覇を唱えた名門中の名門だ。
寿桂尼は、京都の公家中御門宣胤の娘だった。中御門氏は甘露寺氏や万里小路氏などと同様、藤原北家勧修寺派の一つで、鎌倉時代の後期に坊城家より分かれたもの。寿桂尼の父中御門宣胤は権大納言になっており、権大納言のお姫様が地方の戦国大名に嫁いだというわけだ。
とはいえ、京都の公家が応仁の乱後、生活が困窮して経済援助が期待できるなら、どんな家にでも嫁がせるというわけではなかった。落ちぶれたとはいえ、京都の公家もそれなりの家格はみていたのだ。その点、今川氏は代々、京都志向が強く、今川了俊・今川範政など文化面で業績を残した人物も輩出した、教養の高い文化人大名として知られていた。中御門宣胤が娘を氏親に嫁がせたのはこうした点を踏まえたうえでのことだったのだろう。
彼女が氏親といつ結婚したのか分からない。永正10年(1513)に長男氏輝を産み、同16年(1519)には五男の義元を産んでいる。氏親には、はっきりしているだけで6人の男子、4人の女子がいたが、そのうち何人が寿桂尼の子で、何人が側室の子かは分からない。五男義元が生まれて少しして、一つのアクシデントに見舞われる。氏親が中風になってしまったのだ。大永元年(1521)頃のことだ。氏親51歳、寿桂尼の30代前半のこと。これは、結果的に彼女にプラスになることだった。病床に就いた夫を手助けしながら、実地に「政治見習」をすることができたからだ。
戦国大名今川氏といえば分国法、すなわち戦国家法の「今川仮名目録」が有名だ。これについても重要な役割を果たしたようだ。夫氏親の死が近いことを悟った寿桂尼が中心になってこの策定作業をしたのではないかとみられる。この「今川仮名目録」が制定された大永6年(1526)4月14日から、わずか2カ月後の6月23日、氏親は死んでいるのだ。そして、氏親の死後、形の上では後を子の氏輝が継いだことになっているが、それから2年間、実質的に今川家の当主は寿桂尼だったという。
氏輝にやっと政治を任せられるようになったと思った矢先、その氏輝が24歳の若さで死んでしまったのだ。氏輝は結婚していなかったらしく、子供もいなかった。そこで、夫と一所懸命築き上げた今川家を、寿桂尼は自分の産んだ子に後を継がせるべく差配する。義元より年上の玄広恵探を推すグループとの家督争いでこれを退け、義元を第九代当主の座に就けるのだ。京都の公家のお姫様だった彼女が、さながら“女戦国大名”として見事に力を発揮したわけだ。
(参考資料)小和田哲男「日本の歴史がわかる本」