一橋直子(ひとつばしつねこ)は伏見宮家の姫として京都に生まれたが、わずか11歳で一橋慶寿のもとへ嫁いだ。子に恵まれぬまま夫が他界したため、養子を迎えた。その養子が、後に徳川第十五代将軍となった慶喜だった。慶喜よりわずか7歳年上の彼女は、慶喜の母親として、そして当主・慶喜が不在の折は女当主として一橋家を見事に取り仕切り、才女ぶりを示した。また、京の中川宮、輪王寺宮、仁和寺宮らは直子の甥にあたり、朝廷工作をする慶喜を、直子は実家である伏見宮家の縁を利用し、陰から慶喜を助け支えたと思われる。直子は京都の有力公家の出の姫ながら、才覚のある女性だった。
一橋直子は東明宮直子といい、のち嫁ぎ先の夫に先立たれた以降は徳信院といった。直子は天保12年の暮れ、わずか11歳で江戸へ下り、一橋慶寿のもとへ嫁ぎ、不幸にも子宝に恵まれないまま夫は他界。そこで幼少の養子を迎えるが、その養子が2歳で死去。その養子として迎えたのが慶喜だった。直子とは系図上、祖母と孫養子の関係になるが、慶喜が一橋家を相続した12歳当時、直子改め徳信院はまだ19歳だった。つまり、わずか7歳年上の母親で、周囲の目には姉弟のように映ったといわれる。
慶喜が一橋家に入った当時は、ともに永代一橋別邸で穏やかな日々を送った。当時の十二代将軍家慶は、この少年当主(慶喜)を可愛がり、よく別邸を訪ね、その聡明さに感心していたという。そのため5年後、浦賀にペリーが来航した際、一橋慶喜が将軍家存続の要人として注目を浴びるもととなったのだ。
一橋家は田安・清水家と並び、将軍家となる資格を持つ三卿の家柄の一つで、本邸は江戸城の一ツ橋内、現在の皇居平川門に面する細長い土地にあった。一橋家は個人よりも家、家よりも主君、将軍家を大事とする。その家の主人である直子は、個人の幸せよりも将軍家を大事としなければならなかった。
十三代の新将軍家定が病弱で、この黒船騒ぎ以後、慶喜を次期将軍に推す動きが慶喜の実父、水戸藩主水戸斉昭、薩摩藩主島津斉彬、越前藩主松平春嶽らから起こり、紀州慶福(よしとみ)を推す大老井伊直弼らと対立。一橋家は当主が早世のために慶喜を迎えてやっと安定したというのに、この政争に一橋家が巻き込まれることを直子は悩み、慶喜に一橋家に留まるよう詰め寄ったといわれる。慶喜も一時はこれに応じ、大奥へ働きかけて、このときの将軍後継話は潰れている。直子が政治に関して自分の意見を言った点で、当時の将軍家周辺の女性としては珍しい存在だったと思われる。
大名ならば跡継ぎがなければお家断絶とされていた当時、三卿(田安家・一橋家・清水家)の場合は一代ごとに将軍から禄を拝領する形になり、当主不在でもお家の存続は可能だったため、女当主が取り仕切ることもできた。そのため、慶喜が「安政の大獄」で井伊直弼から隠居謹慎処分を受けた間、将軍後見職として京で政権を動かした間と、維新に至るまで直子が一橋家の当主として家を守ったのだ。
慶喜の三女、鉄子を一橋家跡取りの達道の妻に迎えたのを見届け、直子は明治26年、他界した。
(参考資料)遠藤幸威「女聞き書き 徳川慶喜残照」