あまり知られていないことですが、天下人になった豊臣秀吉が最も恐れていたのが蒲生氏郷(がもううじさと)です。なぜなら氏郷は織田信長子飼いの直臣だったからです。
信長のもとで子飼いの直臣として育った氏郷
氏郷は近江国(滋賀県)日野城主だった蒲生賢秀(かたひで)の息子です。賢秀は地方豪族にしては先見の明があり、それまで佐々木源氏系の六角氏に仕えていましたが、これからは織田信長の時代になると見抜き、そこで密かに使いを出し、従属を誓いました。
信長にはそういう豪族がたくさんいたので、すべて人質を取っていました。賢秀も息子の氏郷を岐阜城に人質に出しました。岐阜城には当時100人余りの同じような少年がいたといいます。しかし、信長はその中から氏郷に目を向けていました。というのは、氏郷が非常に賢く、今日風に表現すれば“経営感覚”を持っていたからです。
楽市・楽座での”規制緩和”など信長の都市経営を学んだ氏郷
信長は、今後の大名はすべて領国経営に算盤勘定をいれなければいけないと考えていました。また、岐阜の城下町で展開した楽市・楽座で、単に呼び集めた商工業者の負担減だけではなく、今でいう“規制緩和”を積極的に行いました。撰銭令の発布、道路を整備し物流ルートを設定したほか、関所や船番所の撤廃なども行いました。
こうした信長の新しい都市経営に、蒲生氏郷少年は目を向け、同時に信長の理念を自分のものとして体得していきました。そこで信長は人質の中でも氏郷は非常に期待できると考え、自分の娘を氏郷の嫁にしました。したがって、蒲生氏郷は信長の婿なのです。
信長の娘婿・氏郷を警戒し、会津に移封した天下人・秀吉
豊臣秀吉は巧妙な政略によって天下人の座を占めましたが、内心では若いながら人使いがうまく、人望もあるこの氏郷を恐れていました。そこで、秀吉は「伊達政宗は油断できない。これを抑えられるのはあなただけだ」とうまい名目を付け、思い切って氏郷を会津に移封しました。近畿・東海地区から何とか、危険な氏郷を遠ざけ、伊達政宗を抑える駒として使う“一石二鳥”の妙案だったのです。
会津移封で天下取りを断念した氏郷
この異動命令を受けた氏郷は、秀吉の巧みな意図をくみ取り、会津で大禄を得たにもかかわらず、「会津に行ったのでは、もはや天下の座は得られない。それが悲しい」と家臣に語り、さめざめと涙を流したと伝えられています。このことからも分かるとおり、一般にはほとんど知られていないことですが、実は氏郷にも天下取りの野望があったということです。
氏郷が近畿もしくは東海地区にとどまっていたら、“信長の婿”の立場を最大限に活かし、天下人はともかく、豊臣政権から徳川政権へ移行する過程で、少なくとも後世に残る様々な影響力を行使していたのではないでしょうか。
利休の死後、千家の息子を匿った秀郷
千利休の不慮の死の後、千家の息子たちはそれぞれ諸国に散っていきました。その一人を匿ったのが蒲生氏郷でした。秀吉は当然そのことを知っていました。現在、会津若松市にはこの千家の息子の匿われた家が、歴史的遺産として保存されています。
氏郷急死に、秀吉による毒殺説も
氏郷のこういう行為を秀吉は気に入りません。秀吉にすれば、氏郷はいぜんとして信長公の婿という誇りを持ち、自分(秀吉)に心から臣従していない。対抗心を持ち続けていると受け取ります。やがて、氏郷は京都に呼び戻され、そして急死するのです。世間では「蒲生氏郷は秀吉に毒殺された」と噂されました。