『I f 』⑦「田沼時代に異常気象と大飢饉がなかったら」
田沼意次といえば、一般に賄賂をむさぼった悪徳政治家のイメージが強い
のですが、近年は彼が打ち出した、従前には見られなかった様々な政策が見
直され、評価が一新されつつあります。意次は、いわゆる由緒ある家柄の幕
閣・保守グループに足を引っ張られながらも、斬新な政策を次々に打ち出し
た開明派の政治家でした。
賄賂政治家から開明派の政治家に評価一新の田沼意次
田沼意次による政権運営がもうすこし続いていたら、江戸時代を通じて見
ても、もっとみるべき実績を挙げていたでしょう。少なくとも、時代遅れ
の松平定信による「寛政の改革」などよりは、客観的に見て経済政策面で
はるかに優れていたはずです。
その田沼意次が失脚した要因は、保守的な譜代大名たちの巻き返しによる
部分が大きかったのですが、この「田沼時代」、未曾有ともいえる飢饉や
異常気象が頻繁に起こったことが意次の足を引っ張ったのです。
根本順吉氏の『歴史気象学の進展-“江戸小氷期”と飢饉』によると、江
戸時代は全体として寒い時代で、とくに寒い「小氷期」が3回あったといいま
す。この時期は冬の寒さが厳しく、夏も冷涼・多雨でした。そこで「田沼時
代」をみると、暴風雨・洪水・火山の噴火など、自然災害が相次いでいるこ
とに驚かされます。
未曾有の飢饉、異常気象に足を引っ張られた田沼政治
例えば、意次が老中に就任した1772年(安永元年)、7月に九州で暴風雨、
8月上旬には東海から関東にかけて、やはり暴風雨と洪水、下旬には中国・
四国・近畿・東海各地を暴雨風と洪水が見舞っており、ちょうどその時期、
稲刈り間近で、せっかく実らせた稲が流されたり倒れたりして、農作物に甚
大な被害が出てしまったのです。元号の「明和」をやめて「安永」へ改元し
たくらいですから、被害の大きさは並みではなかったことが分かります。し
かも、前々年、前年は干ばつで、3年連続の不作になったのです。
相次ぐ火山の噴火、春に大雪、大地震、大飢饉頻発の不運
しかも、どうしたわけか、「田沼時代」は、火山も活発な活動をしていま
す。1778年(安永7年)春と秋には、伊豆大島の三原山が噴火、この時期、
三宅島の雄山、浅間山、桜島なども噴火しているのです。こうした影響もあ
ってか、春の大雪など異常気象に見舞われています。1779年(安永8年)に
は4月に大雪が降っています。旧暦4月は現在の5月ですが、5月の大雪など
あまり例はありません。
さらにその年8月には、東海・関東から奥羽にかけての広い範囲に暴風雨
と大洪水の被害が起き、また大地震もあり、次から次に、まさに天災に狙
い撃ちにされたような状況でした。そして、決定的なものが1783年(天明
3年)の浅間山の大噴火です。この年も異常気象で、夏に綿入れを着なけ
ればならないほどの寒さだったといわれます。浅間山の噴火の火山灰が空
を覆い、冷夏に拍車をかけ、関東から奥羽にかけて大飢饉になりました。
保守グループの攻勢と息子・意知、後ろ盾・将軍家治の死で失脚
こうした自然災害の場合、普通「あれは天災」と、為政者の責任にはしな
いものです。ところが、この意次の場合、常に保守グループが意次のあら探
しをし、「失政がないか」と虎視眈々とみており、天災をも意次のせいにし
ようとする動きがあったのです。
さらにもう一つ、意次にとって不幸な事件が重なりました。1784年(天明
4年)、意次の子で若年寄になっていた意知(おきとも)が江戸城中で新番
士の佐野善左衛門政言(まさこと)に斬られ、それがもとで死んでしまった
のです。そして、意次にとって不運だったのは1786年(天明6年)、田沼政
治の後ろ楯だった十代将軍家治が亡くなったことだった。その結果、遂に保
守グループの攻勢に抗し切れなくなり、意次は政権の座から引きずり下ろさ
れてしまったのです。
陽の目見なかった田沼意次の斬新な政策
このため、意次が打ち出した斬新な政策も、多くは陽の目を見ず頓挫、
実施・断行されないままに、葬られてしまいました。後は保守派の松平定信
などの全く新鮮味のない、場当たり的な政治に終始していきます。田沼意次
による政権運営が続いていたら、蝦夷地の開発はじめ、旧来の幕閣政治とは
一線を画した政治が具体化されたはずです。意次の挫折が惜しまれます。