『I f 』27「老中・阿部正弘が健在なら幕末の様相は変わっていた」
幕末、1840年代から1850年代、幕閣にあって幕府の民主的改革と開国政策
を推し進めようとした老中・阿部正弘が、急逝することなく健在なら、幕末
の様相はかなり変わったものになっていたでしょう。
老中・阿部正弘が健在なら条約調印、安政の大獄はなかった?
安政の大獄が起きる前、阿部伊勢守政権時代、大久保一翁ら幕府の一部の
官僚の中で、実は近代政治への芽が生まれていました。もし、老中阿部が
急逝していなかったら、恐らく井伊直弼が幕閣に名を連ねることはなく、
したがって大老・井伊直弼よる独断での日米修好通商条約の調印、そして
これに反対した武士、公家に対する大規模な弾圧、安政の大獄もなかった
のです。
開明派の阿部は当時の薩長より進歩的で欧州の近代政治に理解
阿部は備後福山藩主として男女共学などいろいろと新しい試みを手掛けた
人で、構想では日本を全国統一の郡県制度にして、国軍を設置し、開国政
策を進めようとしていました。大久保一翁もこのころ、議会民主制国家に
しようといったことを上申しています。
つまり、この時期は薩摩や長州などの在野の人よりも、阿部をはじめとす
る幕府の官僚たちの方がヨーロッパの近代政治に理解があったということで
す。そのため、薩長側が安政年間あたりは、ペリー来航以来の外圧に対応で
きるような新しい政治体制はどうあるべきか、アイデアを持っていなかった
のに対し、大久保一翁や勝海舟といった人たちはいろいろな知恵を持ち出し
ていました。それも、幕府中心の社会ではなく、もっと大きな日本国という
観点に立った国づくりをしなければダメだと最初に言い出したのは、むしろ
幕府側の人たちでした。
当時は西南雄藩より幕府に人材が豊富だった
私たちが今日、正史として学んだ日本史を、明治維新からさかのぼって考
えると、実に意外なことなのですが…。今日では西南雄藩、とりわけ薩・
長・土・肥の諸藩では優れた人材を数多く輩出し、幕府には人材がいなか
ったかのように表現されることが多いだけに、このあたり実態を正確に把
握しておきたいも。のです。“勤続疲労”や“マンネリ”で酷評されるこ
とが多かった幕府も、案外捨てたものではなかったということでしょう。
明治維新後、ジャーナリストになって「幕府衰亡論」を書いた福地源一郎
が、もし阿部伊勢守があと何年か生きていれば、ああいうことにはならなか
っただろうといっています。老中・阿部正弘が亡くなった後、日本という国
の、きちんとした責任と展望をもって決断できるリーダーが幕府にいなくな
ったのです。
安政の大獄が開明派に幕府重臣を失脚させたことが幕府崩壊に
徳川幕府の存続をのみ願う井伊直弼が、安政の大獄で橋本左内、吉田松陰、
さらには薩長をはじめとする西南雄藩の開国・勤皇派の志士たちを粛清。ま
た、大老・直弼が指揮した幕政に批判的だった多くの開国・開明派の幕府の
重臣たちを失脚させたことが、やがて幕府を崩壊に導いた一因といえるでし
ょう。