『I f 』25「旧体制を覆す『大化の改新』は本当にあったのか?」
「大化の改新」(645年)は果たして本当にあったのか?日本史学者、考古
学者が著した文献によると、大化の改新以後の政策は蘇我氏によって準備さ
れていたもののようです。天皇家の外戚となり、権勢を飛躍的に強化した蘇
我氏独裁のなかで、その大臣・蘇我馬子が構想していた政治路線を入鹿が断
行していくのです。
大化の改新以後の政策は蘇我氏が立案したもの
が、その専横ぶりに嫌気した中大兄皇子、中臣鎌足、軽皇子らが、軍事ク
ーデターを起こして入鹿を殺害し、その政策を横取りしたのです。正確に
いえば、蘇我氏の本家が滅んだ後、皇極朝を継いだ孝徳天皇(軽皇子)が実
権を握って蘇我氏の政治路線を実行していったのです。これが実態なら、
真に政治改革「大化の改新」と呼べるものは存在したのかどうか、いささ
か怪しくなってきます。
中大兄皇子、皇極・斉明天皇は保守派、だから孝徳天皇と対立した
従来は、実際の推進者は中大兄皇子(後の天智天皇)というのが通説のよ
うです。ただ、中大兄皇子も母親の皇極・斉明天皇も保守的な、反動的な人
物だったと思われます。その点、孝徳天皇は新しい官僚制をつくるなど、蘇
我氏の路線に乗って非常に進歩的です。皇極・斉明天皇とは同母姉弟関係、
中大兄皇子とは甥・叔父関係にありながら、こうした対立があったからこそ
孝徳は、中大兄と斉明の一種のクーデターに遭い、難波宮にひとり残されて
失意のうちに亡くなったのです。
大化の改新で政治方針の変更はなかった
だから、今日「大化の改新」と呼称していますが、正確には政治方針の変
更はなかったようなのです。となると、「大化の改新」の実態は、軍事ク
ーデター「乙巳(いっし)の変」で、為政者が蘇我蝦夷・入鹿から中大兄
皇子一派に代わっただけで、外交を含め政治方針は継続されたままだった
ということです。