『I f 』22「仕官の途を譲り運が拓け、将軍家政治相談役に昇った新井白石」
新井白石は江戸中期、第六代将軍家宣(いえのぶ)、七代将軍家継(いえつ
ぐ)に仕えた学者政治家ですが、この出世の経緯をみると、実は初めに師の
木下順庵が推薦してくれた加賀藩への仕官の途を、同門の加賀出身の岡島
仲道に懇願されて譲ったことによって、彼の道が開けたのでした。
出世のきっかけは甲府藩主・徳川綱豊に仕えた37歳のとき
白石の出世のきっかけは、彼が37歳になったときのことです。師の木下
順庵の推挙で、甲府藩主・徳川綱豊に仕えるようになりました。ところが、
この綱豊が子供のなかった五代将軍綱吉の養子になり、家宣と名を改めて
六代将軍に納まったので、自然と彼も横滑りして幕臣に昇格、1000石取り
にのしあがったのです。全く人間の運は分からないものです。
初めに師に推挙され譲った仕官の口は加賀100万石の大藩
白石が、師の順庵に初めに推挙された加賀藩(100万石超)に仕えていれば、
一生、地方の藩儒で終わっていたでしょう。加賀藩前田家の城下では知ら
れる存在になっていたとしても、幕府政治に影響を及ぼす器量の人物にま
でなることは絶対になかったはずです。それが、たまたま同門で加賀出身
の人物に懇願されて、最初、師に推挙された仕官の途を譲った結果、後に
めぐり巡って天下の将軍家の政治相談役にまでなってしまったのですから
…。
ところで、白石が断った最初の仕官の途、加賀藩といえば地方とはいえ、
学者として身を立てるには、大藩だけに好待遇が期待できる、いわば一流会
社のポストです。これを他人に譲ろうというのですから、自分本位の現代人
にはちょっとマネのできないことだったといえるでしょう。
同門の人物に懇願されて譲った白石を師・順庵は賞賛
当時としても、これは珍しいことだったようで、師の順庵も、白石のこの
所業に涙を流して感心したといわれています。事実、当時も学者としての
就職は、喉から手の出るほど魅力のあることだったはずです。そこを、じ
っと我慢したのは見事です。その代償として、後の甲府藩主への仕官につ
ながったとすれば、利己心を抑えた初めの白石の判断は十分報われたとい
えるでしょう。