『菜根譚(さいこんたん)』は、ご存じの方も多いと思いますが、当サイト「壮・魂・慈・齢」が対象とする中高年の皆さんはもちろん、社会に出て間もない若い世代の方々にも心に響く、人生訓や座右の銘にしたくなるような、示唆に富んだ名言が散りばめられた名著の一つといえるでしょう。
著者、洪自誠(こうじせい)が生きたのは中国・明代末期ですが、儒教・仏教・道教の三教が混然一体となったその思想は現代を生きる私たちに、永遠の真理、物事の本質の捉え方など、興味深い示唆を与えてくれるのではないでしょうか。
 そこで、菜根譚が発信する様々な珠玉の言葉、名言・格言を詳細にみていきたいと思います。「逆境を乗り切る知恵」「人付き合いの極意」「人間の器(器量)の磨き方」「真の幸福とは?」などを考えるうえで、ぜひヒントや参考にしてください。*『菜根譚 全訳注』(中村璋八・石川力山 訳注、講談社学術文庫)参照

1.真理を住処とする
 真理を自分の住家としてこれを守る者は、ある時は不遇で寂しい境涯になるが、権勢に寄りかかりおもねりへつらう者は、ある時は栄えても、遂には永遠に寂しく痛ましいものである。真理に達した人は、常に世俗を超越したところに真実を見出し、この身が終わって後の不朽の名声を得ることに心がけている。
 だから、むしろある時は不遇で寂しい境遇になることはあっても、永遠に寂しく痛ましくなるような、権勢におもねる態度をとってはいけない。

2.純朴で、世俗には妥協しない
 世間をまだ知らない若い者は、世俗の悪い習慣に染まることもまた浅いが、世の中の裏表をよく知った者は、世の中の様々なからくりに通じることもまた深い。
 だから、君子という者は、世俗のことによく通暁しているよりは、むしろ飾り気がなく愚直である方がよく、またつまらない遠慮をして謹しみ深いよりは、むしろ世間知らずで人から狂人といわれる方がまだよい。

3.忠言と甘言を聞き分ける
 耳にはいつも聞きづらい忠言を聞き、心にはいつも思い通りにならないことがあったならば、それで初めて人間を徳に進ませ、行いを修めさせることのできる砥(と)石のような役割を果たすものとなるだけである。
 もし、言われる言葉がすべて快く耳に聞こえ、物事がすべて心に満足するようなら、そんなことではこの人生を自分で猛毒の中に投げ沈めてしまうようなものである。

4.淡々として平凡に生きる
 味の濃厚な美酒美肉や、辛いものや甘いものは、本当の味ではなく、本当の味は、ただ淡白なだけの味である。
 これとおなじように、優れた人や他に抜きん出た人は、本当に道を究めた人ではなく、本当の至人は、ただことさらでない平凡ながけの人である。

5.好調の時もおごらず、失意の時もあきらめず
 恩情があつい時は、昔から災害を起こしやすい。だから、自分の思い通りになり、心地よい時には早く反省して引き返すようにしなさい。
 また、物事が失敗した後には、逆に成功するものである。だから、自分の思い通りにならない時でも、やたらに手を放ち投げ出してはいけない。

6.心はゆったり、恵みは深く
 生きている間の心構えは、できるだけ広く心が放たれていることが大切で、そうすれば不平不満に嘆く人がないようにさせるさせることができる。

7.平凡な生き方の中に道が備わる
 平凡な人間と生まれて、特別に何も高尚で遠大な事業をしなくても、ただ名誉や利益にひかれる世俗的な心を払い落とせたなら、それでもう名士の仲間に入ることができる。
 学問をなして、特別に何も学識を増す努力をしなくても、ただ外物によって心を煩わされることを減らし除くことができさえすれば、それでもう聖人の境地に到達できる。

8.義侠心・純心を常に持って生きる

 友人と交わる時には、三分ぐらいの義侠心は持つことが必要である。また、人間として生きていく上では、少しぐらいの純粋な心は持っていることが必要である。

9.分を守って生きる

 人から寵愛や利益を受ける時には、他人を押しのけてまで取ろうとしてはいけないが、世のため人のためになる道徳や事業を行う時には、人に率先して行い、人のあとからするようなことはしてはいけない。
 人から物を受け取る時には、一定の限度を越えてはならないが、自分が修行する時には、与えられたことを行うだけではなく、それ以上に努めなくてはいけない。

10.自らは一歩譲り、他には完全を求めず
 人が世の中を生きてゆく時には、自分から一歩を譲ることがより優れた道である。この一歩を譲ることが、それがそのまま一歩を進める根本となるのである。
 人を遇する時には、完全なことを求めないで、九分ぐらいに止めて、後の一分は寛大にして見過ごすようにするのがよいことである。

11.功にも誇らず、罪過も潔く改める
 天下を覆うほどの大きな手柄でも、それを矜(ほこ)る心が生じたなら、この一個の「矜」の字には耐えられず、大きな手柄も意味をなさなくなってしまう。
 また、天に届き空いっぱいに満ちるような大きな罪悪も、悔い改める心が生じたなら、この一個の「悔」の字には耐えられず、どんな大きな罪悪も消滅してしまう。

12.名誉は独占せず、密かに徳を養う
 完全で立派な名誉や節操は、自分ひとりで独占してはいけない。その一部を他人にも分け与えてやるようにすれば、危害を遠ざけ天寿を全うすることができる。
 恥ずかしい行為や悪い評判も、全部が他人の責任だと押し付けてはいけない。その一部を自分で引きかぶるようにすれば、自分の才能というものをあまりひけらかさないで、その人柄を磨き高めることができる。

13.十全を求めず、余裕を持って
 何事につけ、多少余裕を残し控えめにする気持ちを持ち続けていると、造物主も私を忌み嫌って、禍(わざわい)を加えることはできないし、鬼神も私に対して害を加えることはできない。
 しかし、もし仕事は必ず十分完成することを求め、功績は必ず十分であることを求めたならば、必ず内部からの変事が起こったり、外部からの心配事を招くであろう。

14.家族団らんの中に道は実現している
 家庭の中には一つの真実の仏がおり、日常生活の中にも一つの真実の道がある。すなわち、人間同士が真心を持って仲良くし、にこやかな顔色に優しい言葉を使うことにより、父母兄弟の間柄を、体も気持ちもお互い通じるようにさせたならば、息を整えて気を養ったり、心を観察して特別な修行をして悟りを開くよりもずっと勝(まさ)っている。

15.人を叱責し導く秘訣
 人の悪を責める時には、あまり厳し過ぎるようにはしないで、その人が果たして叱責の(しっせき)の言葉を受け容れることができるかどうかの程度を考慮しておく必要がある。
 また、人に教えて善い行いをさせる時にも、目標を高く置き過ぎないで、そのことが実行できる範囲に留めさせるべきである。

16.冷静な判断が正しい行動を生み出す
 十分に食べて食欲を満たした後で、味わいのことを思ってみても、味の濃淡の区別も全くできなくなってしまう。また色欲を満たした後で、色欲のことを思い浮かべてみても、異性を求める心も全くなくなってしまう。
 だから、人はそのことの終わった後に生じてくる後悔の心で、そのことに臨んだ時に起こる愚かな迷いの心を打ち破ったならば、本心もしっかりと定まって落ち着き、その行動はすべて正しくないものはなくなる。

17.真実の功名・真実の恩恵
 人間が現実の世界で生きていく時には、必ずしも功名を期待してはいけない。大きな過ち(あやまち)がなく過ごすことができれば、それがそのままとりもなおさず功名である。
 また、他人に対して恩恵を施す時には、その恩恵に感謝されることを求めてはいけない。他人に怨(うら)まれるようなことをしなかったならば、それがそのまま恩恵である。

18.苦労も枯淡も度を越さず
 種々の状況を考慮し苦労して仕事に努めることは、それはよい行いであるが、しかし限度を越えて苦労しすぎると、その人の本性を楽しくし、心情を喜ばせることができなくなる。
 これに対して、心がさっぱりして無欲であることは、それは高尚な心であるが、しかし限度を越えて枯淡になりすぎると、世の人を救ったり役に立ったりすることができなくなる。

19.初心を忘れず、行く末を見つめて
 なにか事に行き詰まり、かつての勢力も衰えた人は、その出発点となった時の心をもう一度思い出し考えてみるべきである。
 これに対して、功績を成し遂げ事業を十分に果たしたひとは、その先の行く末をよくよく見極めて自分の進退を決めることが必要である。

20.富貴な人、聡明な人の実態
 財産があり身分の高い人は、物心両面に恵まれているから、当然他人に対しては寛容であるべきなのに、逆に他人を妬(ねた)み残酷なことをする人が多い。これは物資的には富貴であっても、その行いは貧しく卑しいからである。こんなことではどうして人生の福を受けることができようか。
 また、ものの道理に明るく、才智優れた人は、その才智をおさめ隠して控えめにすべきなのに、かえってその才能を外に見せびらかす人が多い。これは才智の面では聡明であっても、その欠点をそのままにして暗愚なことに気がつかないからである。こんなことでは、実際生活の面でどうして失敗しないことがあろうか。

21.富貴も捨て、仁義にもとらわれない心
 功績を立て名声を得、財産や高い地位を得ることを望む心を捨て去ることができたなら、凡人の境地を脱することができる。
 また、道徳仁義というような人為的な心を捨て去ることができたなら、それでやっと聖賢の域に達することができる。

22.慢心が道を遮(さえぎ)る
 利益を求める欲望の心は、それがすべて本心を害するとは限らないが、自分なりの意見が意外にも、それに固執して本心を害する悪虫になりかねない。
 また、耳や目などの感覚の対象となるものは、必ずしも道を得る障害となるとは限らないが、かえって聡明ということが意外にも道に入るのを妨げる大きい障害物となる。

23.人生の難事には譲る心で対処する
 人の心は時々刻々と変わりやすく、人生の行路は本当に険しい。そこで、行こうとして行くことができない時には、まず自分の方から一歩退くというやり方を知らなければいけない。
 また、行こうとすれば行けるところでも、そのまま自分だけの思い通りに行ってしまわないで、なるべく三分は人に譲る方法を考えなさい。

24.子弟教育の要訣
 若者を教育する時は、ちょうど箱入り娘を養育するのと同じようにすべきである。その出入りを厳重に監督して、交際する友人にも注意することが最も大切である。もし、いったんよからぬ者に近づいたなら、それは清らかな田地に一個の不浄な種を蒔くように、若者も悪風に染まってしまう。そのようなことをしたら、その後ずっとよい苗を植えられなくなるように、若者も善に導くことはできなくなる。

25.欲望に流されず、道理を守って
 欲望上のことは、そのことが手軽に楽しいからといって、かりそめにもそれに食指を動かしてはいけない。一度食指を動かしたなら、その味を覚えてしまってそれに溺れ、遂には深く底知れない欲望の谷に落ち込んでしまうだろう。
 これに対して、道理上のことは、そのことが難しいからといってためらい、ほんの少しでも尻込みなどしてはいけない。一度尻込みしてしまうと、遂に道理はたくさんの山々をも隔てるような遠くに行き、手が届かなくなってしまうであろう。

26.よそ見をせず、名誉を求めず
 学問の道を志す人は、精神を散らさないで整理し、1箇所に合わせ集中させることが必要である。もし道徳を修めようとしながら、その心を世俗の功績や名誉のために用いたならば、きっと真実の修養の道には至らないし、また書物を読みながら、興味を詩文の遊びや風雅の道に向けたならば、決して書物の深い心に至ることはできない。

27.経国済民は無心から
 内に徳を行い道を修めるには、一つの木石のような、世俗の富貴にとらわれない無心な心が必要である。もし一度それを喜んだり羨ましく思ったりする心が生じたならば、たちまち欲望の世界に走ってしまうであろう。
 また、外に救い国を治めるには、一つの行雲流水のような無心な趣が必要である。もし一度むさぼり執着する心が生じたら、たちまち危険な状態に陥ってしまうであろう。

28.善人と悪人の違い
 善人というものは、日常の起居動作が安らかで整っていることはいうまでもなく、その眠っている時の魂までも、和らいでいないということはない。
 それに対し、凶悪な人というものは、そのなすことすべてが、ねじけて道理に反していることはいうまでもなく、その声音(こわね)の笑い声までも、すべて荒々しい働きがある。

29.多心は禍のもと、少事は幸福のもと
 人生の幸福は、事件が少ないことより幸福なことはなく、また災難は気持ちが多いことより災難なことはない。
 ただ、平生(へいぜい)事件が多いことに苦労している人だけが、やっと無事平穏なことが幸福であると知り、またただ気持ちを平静にするように心がけている人にして、初めて気持ちの多いことが災難であると知る。

30.忘れてはならないことと、忘れなければならないこと
 自分が他人に何かをしてあげたとしても、そのことを心に留めておいてはいけない。しかし、他人に迷惑をかけたならば、そのことを忘れてはいけない。また他の人が自分に対して恩義を与えてくれたなら、そのことを忘れてはいけない。しかし、他人に対する恨みは、いつまでも覚えておかずに、忘れ去るようにしなければいけない。

31.恩に着せずに施す
 人に恩恵を施す者は、心の内に施す自分を意識せず、また施す相手に感謝や賞賛されることも期待しなければ、わずかな恩恵を施しても、それが莫大な価値に相当する。
 これに対して、人に利益を与える者が、自分がどれだけ施したかを計算したり、また施した相手に報酬を求めるような心を起こしたならば、莫大な金額を与えたとしても、それは少しの価値もなくなってしまう。

32.人間に順・不順はつきもの
 人間の身の上というものは、満足できる状態もあり、満足できない状態もある。であるから、どうして自分ひとりだけいつも満足できるような状態を望めようか。
 また、自分の心情の動きというものは、平穏な状態もあり、乱れる状態もある。であるから、どうして他人にだけいつも平穏な状態でいることを望めようか。
以上の例から、斉・順と不斉・不順の双方があることをよく理解して、自分自身の迷いを正すということも、人生における真実の生き方の一つである。

33.倹にして拙を守る人生にこそ真実がある
 ぜいたくな生活をする人は、いくら富んでいても心に満足することがない。どうして、慎ましい生活を守る人が、貧しくともいつも余裕があるのに及ぼうか。
 また、才能のある人はいくら苦労をし骨を折っても、人生の恨みを買うことが多い。どうして才能に乏しい者が、いつも気楽で居ながら自然の本性を保っているのに及ぼうか。

34.三態の富貴名誉
 徳望によって得られた富貴や名誉は、自然や野に咲く花のようなものである。それは自然に枝や葉が伸び、自由自在に茂っていく。
 これに対して、事業の功績によって得られた富貴や名誉は、人工の植木鉢や花壇の花のようなものである。それは移し代えたり、捨てたり拾われたりして、人間の心に左右されてしまうものである。
 もし権力によって得られた富貴や名誉であったならば、花瓶にさしたり切り花のようなものである。それは根がないのだから、やがてしぼんでしまうのは目に見えている。

35.大巧は拙なるがごとく、大弁は訥なるが如し
 本当に清廉潔白な人には、清いというような評判は立たないものである。清いという評判が立つのは、実はまだ欲望の心が残っている証拠である。
 本当に巧妙な術を体得した人は、巧妙な術を見せるようなことはないものである。巧妙な術を見せるというのは、実はそれがまだ未熟な証拠である。 

36.善と悪の分かれ目
 悪いことをしても、それを他人に知られることを恐れる人は、悪事の中にもそれでもし善に向けう良心がある。
 善いことをしても、それを他人が知ってくれるようにとあせるひとは、善事を成したところが、それがそのまま取りも直さず悪の根源である。

37.福を招き禍を避ける妙案
 幸福はことさらに求めようとしても求め得られるものではない。ただ楽しみ喜ぶ心を養い育てることことが、幸福を招き寄せる根本の条件になるだけである。
 災禍(さいか)は人の思うように避けようとしても避けられるものではない。殺気立った心の働きを取り去ることが、災禍を遠ざける唯一の方法となるだけである。

38.心温かい人には福徳も篤い

 自然に巡ってくる四季の気候が、温かいと万物は生え育ち、寒いと枯れて死んでしまう。だから、人の心が冷ややかだと、、天から受ける幸福も少なく薄い。ただ心が和やかで、熱意ある人だけが、その福徳も篤く、その恵みもいつまでも続く。

39.真実の道と迷いの道
 天地の真理の大道は、ゆったりとたいそう広いもので、ほんの少しでもこの道に心を遊ばせてみると、そこは気持ちも大らかで、のびのびと明るいところであることが分かる。
 これに対して、私利私欲の迷道は、大変狭いもので、一歩踏み込むやいなや、目の前はどこもいばらやぬかるみの困難な道である。

40.苦楽・疑信の繰り返しが本物をつくる
 苦しんだり楽しんだりして、磨きあい、磨きあった結果が最高に達して幸福が成就されたなら、そのような幸福にしてやっと永続するものである。
 また、疑ったり信じたりして考え抜いて、考え抜いた結果が最高に達して知識が体得されたなら、そのような知識にしてやっと本物となる。

41.邪欲邪念は除き、正義真理で一杯にする
 心はいつでも空虚にしておかなくてはいけない。空虚にしておけば、そこには正しい道理が自然とやってきて落ち着く。また、心はいつでも充実しておかなくてはいけない。充実しておけば、そこには欲望が入ってくることがない。

42.水清ければ魚住まず
 雑物を含む土壌には多くの作物ができるが、きれい過ぎる水には、いつも魚はいない。だから君子というものは、世俗の垢(あか)や汚れでも受け入れられるだけの広い度量を持つべきであるし、潔癖すぎて他人を意に介しないような節操は持ってはいけない。

43.むさぼる心が品位を落とす
 人間は、ほんの少しの欲張りの心が生じただけでも、強い心も衰えて弱くなり、澄んだ知恵も抑えられて鈍くなり、恩情も変わって残酷な心になり、潔白な心も悪に染まって汚れてしまい、その人の一生の風格をすっかり台無しにしてしまう。

44.常に現実を見据える

 まだ成就していない仕事の出来具合をあれこれと考えるのは、すでに完成した仕事を持続させることには及ばない。また、すでに済んでしまった過失を後悔するのは、将来に起こり得る失敗を予防するのには及ばない。

45.心の保ち方の秘訣
 気概は高く広くなければならないが、だからといって世事に疎く常軌を逸しているようであってはならない。心遣いは細かく注意深くなければならないが、だからといってあまりにこせこせと細かいことに、こだわりすぎてはならない。
 心持ちは穏やかであっさりとした方がよいが、だからといって偏りすぎて融通がきかないようであってはならない。心にかたく守るところは厳正ではっきりしていなければならないが、だからといって激しすぎてはならない。

46.窮地にあっても心は高潔に
 貧しい家でもきれいに庭先を掃き清め、貧しい女性でもきれいに髪をとかしていれば、外見は華やかで美しいとは言えないが、品格は自然と趣が出てくるようになる。
 だから、一人前の男たる者は、いったん困窮の境遇や失意の状況に陥ったとしても、そんなことでどうして安易に自分から投げやりになってよいことがあろうか。