歴史に学ぶ人生の生き方・過ごし方の指針・極意
 21世紀の第一・第二四半世紀は100年後、先端半導体の開発、進行そして深耕により、グローバルにはおそらく産業革命以来の、国内では「鎌倉武家政権誕生」、「江戸・幕末動乱時代」、「明治維新」に匹敵するほどのエポックメーキングな、激動の変革時代だったと回顧されることになるのではないでしょうか。今、私たちはそんな時代に生きているのです。
生成AIの開発・普及、そしてビッグデータの集積による飛躍的拡大と、様々な分野への広がりに伴って、私たちの近未来は産業構造はじめ社会の仕組みを含めて、劇的に変わっていくことでしょう。その結果、私たちの周囲の様々な「こと」や「もの」が陳腐化、古くなっていき、そのテンポが加速していきます。
しかし、そんな中でも変わらないものが少なからずあります。その一つが「歴史」です。良い意味ではもちろん、その弊害を懸念される生成AI”全盛”の時代を迎えても、古代「ヤマト王権」時代以降、時代の変遷をたどる中、折々の歴史を彩った人物たちの様々な”生きざま”は、少しも色あせることはありません。
むしろ、生成AIの拡大・深耕が進むほど、変わらないものへの愛着心が際立って、歴史好きの人たちにはリスペクトすべき”先達”たちの生きざまに、より魅力を感じたり、心癒(いや)されるのではないでしょうか。それはAIがどれだけ進歩しても、人の精神的内面、心・情緒の領域には簡単には入り込めないからではないでしょうか。
今回『歴史くらぶ』をリニューアルするにあたり、歴史の教訓に学ぶポイントをと思われる点を逐次、紹介・指摘していきたいと思います。
このサイトにアクセスしていただく方々の率直なご意見をお寄せください。ぜひ一緒に考え、味わいたいと思います。『菜根譚』に学ぶ
『菜根譚』は、中高年の皆さんはもちろん、若い世代の方々にも心に響く、人生訓や座右の銘にしたくなるような、示唆に富んだ名言が散りばめられた名著の一つといえるでしょう。
著者、洪自誠(こうじせい)が生きたのは中国・明代末期ですが、儒教・仏教・道教の三教が混然一体となったその思想は現代を生きる私たちに、永遠の真理、物事の本質の捉え方など、興味深い示唆を与えてくれるのではないでしょうか。(*『菜根譚 全訳注』中村璋八・石川力山 訳注、講談社学術文庫 参照)。
『菜根譚』を味わう
【著者】洪自誠(こうじせい)
【訳注】中村璋八・石川力山1.真理を住処とする
【意味】真理を自分の住家(すみか)としてこれを守る者は、ある時は不遇で厳しい境遇になるが、権勢に寄りかかりおもねりへつらう者は、ある時は栄えても、遂には永遠に寂しく傷ましいものである。真理に達した人は、常に世俗を超越したところに真実を見出し、この身が終わって後の不朽の名声を得ることを心がけている。
だから、むしろある時は不遇で寂しい境遇になることはあっても、永遠に寂しく傷ましくなるような、権勢におもねる態度をとってはいけない。
【ポイント】これは誰もが人生訓とすべき考え方だが、会社など組織の中で日々過ごす人(ビジネスマンなど)にとっては、ときには難しい選択を迫られる時があり、貫徹するのは容易ではない。ただ、常に念頭に置いておきたい言葉だ。

2.純朴で、世俗には妥協しない
【意味】世間をまだ知らない若い者は、世俗の悪い習慣に染まることもまた浅いが、世の中の裏表をよく知った者は、世の中の様々なからくりに通じることもまた深い。
だから、君子というものは、世俗のことによく通暁しているよりは、むしろ飾り気がなく、愚直である方がよく、またつまらない遠慮をして慎み深いよりは、むしろ世間知らずで人から狂人といわれる方がまだよい。
【ポイント】組織の代表者は、若い、あるいは経験の浅い人の意見を退け、キャリアの長い人の意見を聞き勝ちだが、そうした考え方に疑問を呈した提言。

3.心は公明正大に、才能はひけらかさず
【意味】君子の心のありようは、青天白日のように公明正大であって、常に人に分からないことがないようにさせるべきである。
一方、君子の才能の優れたところは、珠玉を深く包み隠しておくように、常に知られやすいようにしてはならない。
【ポイント】組織の代表者は、常に公明正大に、隠し事や人に分からないことがないようにすべきである。ただ、自身の才能や、組織運営の”肝”となる部分は、ひけらかしてはいけない。

歴史を知る 日本史検定 幕末編
1

1843年、「天保の改革」に失敗した水野忠邦に代わり老中、1845年に老中首座となり、大胆な人材登用を行い、幕政改革を推進。ペリーと日米和親条約を締結した第7代福山藩主は、次のうち誰?

  • 松平定信
  • 堀田正睦
  • 保科正之
  • 阿部正弘

正解!正解!

不正解!不正解!

阿部正弘

2

1853年、4隻の黒船(蒸気軍艦)を率い浦賀沖に現れたアメリカ東インド艦隊司令長官ペリーが携えてきた国書は、次のうちどの大統領のもの?

  • マッキンレー
  • フィルモア
  • ルーズベルト
  • ジェファーソン

正解!正解!

不正解!不正解!

フィルモア

3

1854年、ペリーは再び7隻の軍艦とともに江戸湾へ姿を現したが、このときの蒸気軍艦の旗艦名は、次のうちどれ?

  • サスケハナ号
  • ポーハタン号
  • エノラーゲイ号
  • エンデバー号

正解!正解!

不正解!不正解!

ポーハタン号

4

締結された日米和親条約で開港した下田港ともうひとつは、次のうちどこ?

  • 箱館
  • 長崎
  • 神戸
  • 新潟

正解!正解!

不正解!不正解!

箱館

5

米国との通商条約の締結に関する勅許を得るため京都に赴き、朝廷を説き伏せようとしたのは、次のうち誰?

  • 堀田正俊
  • 阿部正弘
  • 堀田正睦
  • 間部詮房

正解!正解!

不正解!不正解!

堀田正睦

6

朝廷の勅許を得ないまま1858年、アメリカ総領事ハリスとの間で通商条約に調印した大老は、次のうち誰?

  • 酒井忠清
  • 板倉勝静
  • 水野忠邦
  • 井伊直弼

正解!正解!

不正解!不正解!

井伊直弼

7

この日米修好通商条約で、日本が一方的に不利とされる点は?

  • 治外法権を認める
  • 輸出品目に数量制限があった

正解!正解!

不正解!不正解!

治外法権を認める

8

日本は海外列強5カ国と修好通商条約を結ぶが、オランダ,ロシア,英国,米国と他の1カ国を次の中から選べ?

  • スペイン
  • ドイツ
  • ポルトガル
  • フランス

正解!正解!

不正解!不正解!

フランス

9

13代将軍・徳川家定に子供がなかったことから、将軍継嗣をめぐり対立した二派は、次のうちどれとどれ?

  • 倒幕派
  • 南紀派
  • 一橋派
  • 尊攘派

正解!正解!

不正解!不正解!

南紀派

10

大老・井伊直弼が断行した大弾圧「安政の大獄」で処刑された、越前藩主・松平慶永の側近は、次のうち誰?

  • 藤田東湖
  • 高野長英
  • 橋本左内
  • 横井小楠

正解!正解!

不正解!不正解!

橋本左内

11

わずか9歳のときに長州藩校・明倫館の教授見習となり、後に叔父、玉木文之進が主宰する「松下村塾」を継ぎ、幕末・明治維新で日本を動かした数多くの俊秀を育てた幕末の思想家は、次のうち誰?

  • 吉田松陰
  • 佐久間象山
  • 頼三樹三郎
  • 藤田東湖

正解!正解!

不正解!不正解!

吉田松陰

12

水戸藩校・弘道館を設立して「水戸学」と呼ばれる尊王思想を教授し、志士たちに強い影響を与えるとともに、条約調印、将軍継嗣問題をめぐり、井伊直弼と激しく対立した人物は?

  • 徳川光圀
  • 徳川斉昭
  • 徳川頼宣
  • 徳川慶勝

正解!正解!

不正解!不正解!

徳川斉昭

13

大老・井伊直弼を桜田門外で暗殺した浪士は、脱藩者を含め次のうちどの藩出身者が多かったか?

  • 水戸藩
  • 会津藩
  • 土佐藩
  • 長州藩

正解!正解!

不正解!不正解!

水戸藩

14

幕末、京都守護職にあった会津藩主は、次のうち誰?

  • 松平容保
  • 松平慶永
  • 松平定敬
  • 保科正之

正解!正解!

不正解!不正解!

松平容保

15

幕末、京都で尊攘派・倒幕派の弾圧に活躍し、恐れられたのは次のうちどれ?

  • 天狗党
  • 新撰組
  • 敬神党
  • 天誅組

正解!正解!

不正解!不正解!

新撰組

16

1863年8月18日、薩摩藩と会津藩が手を組み過激な尊皇攘夷派を京都から一掃するため起こしたクーデターで公家7人が京都を追放された。これを何という?

  • 禁門の変
  • 七卿落ち
  • 生麦事件
  • 大津事件

正解!正解!

不正解!不正解!

七卿落ち

17

1864年6月、尊皇攘夷派の再起をかけ、京都の旅籠で決起を画策していた長州藩士たちを新撰組が襲撃、殺傷する事件が起こったが、これは次のうちどれ?

  • 池田屋事件
  • 生麦事件
  • 天狗党の乱
  • 寺田屋事件

正解!正解!

不正解!不正解!

池田屋事件

18

1864年7月、巻き返しを図る長州藩兵が公武合体派排除を企図して京都に攻め上るが、薩摩・会津両藩兵に惨敗した事件は、次のうちどれ?

  • 坂下門外の変
  • 生野の変
  • 天誅組の変
  • 禁門の変

正解!正解!

不正解!不正解!

禁門の変

19

断絶状態にあった薩摩、長州両藩の連合を実現に導いたのは坂本龍馬と誰?

  • 武市瑞山(武市半平太)
  • 中岡慎太郎
  • 宮部鼎蔵

正解!正解!

不正解!不正解!

中岡慎太郎

20

「松下村塾」で吉田松陰の教えを受け、長州藩の尊攘運動の中心として活躍、民兵による画期的な軍隊「奇兵隊」を創設したのは、次のうち誰?

  • 桂小五郎
  • 久坂玄瑞
  • 山県有朋
  • 高杉晋作

正解!正解!

不正解!不正解!

高杉晋作

歴史を知る 日本史検定 維新編
1

後の明治維新の三傑と称されるのは西郷隆盛、木戸孝允と誰?

  • 大隈重信
  • 坂本龍馬
  • 木戸孝允
  • 高杉晋作
  • 大久保利通

正解!正解!

不正解!不正解!

大久保利通

2

宇和島藩主・伊達宗城は洋学を重んじて殖産興業に努めたほか、長州藩のこの人を招き軍艦を建造した。それは誰?

  • 井上馨
  • 村田蔵六(後の大村益次郎)
  • 山県有朋
  • 高杉晋作

正解!正解!

不正解!不正解!

村田蔵六(後の大村益次郎)

3

越前藩主・松平慶永は熊本藩からこの人を招き重商主義による富国強兵論で藩政を改革したが、それは誰?

  • 山田方谷
  • 河田小龍
  • 横井小楠
  • 佐久間象山

正解!正解!

不正解!不正解!

横井小楠

4

土佐藩主・山内豊信はこの人を抜擢し門閥政治の打破、専売の強化など藩政改革を断行させたが、その人は誰?

  • 武市瑞山(半平太)
  • 後藤象二郎
  • 吉田東洋
  • 坂本龍馬

正解!正解!

不正解!不正解!

吉田東洋

5

土佐藩は山内容堂の腹心、後藤象二郎が坂本龍馬が立案した新国家構想をもとに大政奉還を幕府に建白したが、その新国家構想とは次のうちどれ?

  • 船中八策
  • 五箇条のご誓文
  • 民撰議院の設立建白書
  • 大日本帝国憲法草案

正解!正解!

不正解!不正解!

船中八策

6

長岡藩家老として藩政改革を進め、兵制を近代化。新政府軍に求めた中立が認められず、戊辰戦争最大の激戦を率いたのは誰?

  • 河井継之助
  • 山田方谷
  • 高島秋帆
  • 江川英龍

正解!正解!

不正解!不正解!

河井継之助

7

戊辰戦争・長岡の戦いで、長岡藩は最新火器で武装。当時日本に3門しかなかった最新の火器のうち2門を入手していたが、それは次のうちどれ?

  • ミニエール銃
  • アームストロング砲
  • ゲベール銃
  • ガトリング砲

正解!正解!

不正解!不正解!

ガトリング砲

8

新撰組で副長を務め、後に新政府軍との戊辰戦争で甲州勝沼・宇都宮・五稜郭の戦いと転戦したのは次のうち誰?

  • 土方歳三
  • 沖田総司
  • 永倉新八
  • 新見錦

正解!正解!

不正解!不正解!

土方歳三

9

会津藩が、新政府軍約3万の軍勢に対抗するべく戊辰の会津戦争に際して組織したのが次の部隊だが、間違っているのはどれ?

  • 奇兵隊
  • 青龍隊
  • 玄武隊
  • 白虎隊
  • 朱雀隊

正解!正解!

不正解!不正解!

奇兵隊

10

1867年の大政奉還、そして王制復古の大号令が発せられ摂政、関白、幕府などの制度に代わって、新たに設けられた三職とは総裁と議定(ぎじょう)とどれ?

  • 弾正台
  • 参与
  • 神祇官
  • 五衛府

正解!正解!

不正解!不正解!

参与

11

1868年、新政府軍の江戸城総攻撃が噂される中で、新政府軍と旧幕府軍を代表してこの2人が会談し江戸城が無血開城された。西郷隆盛と誰?

  • 小栗上野介忠順
  • 勝海舟
  • 大久保利通
  • 木戸孝允

正解!正解!

不正解!不正解!

吉田松陰

12

旧幕府海軍を率いて箱館・五稜郭で新政府軍と戦ったのは誰?

  • 沖田総司
  • 小栗上野介忠順
  • 榎本武揚
  • 大久保忠世

正解!正解!

不正解!不正解!

榎本武揚

13

旧幕臣ら約3000人で結成された彰義隊を上野に攻め、わずか1日で壊滅させた新政府軍の司令官は次のうち誰?

  • 山県有朋
  • 高杉晋作
  • 西郷隆盛
  • 大村益次郎

正解!正解!

不正解!不正解!

大村益次郎

14

明治初期、新政府の政策によって士族の特権は次々に失われていき、多くの士族を困窮に陥れた。そのため西日本で反乱が続出した。次の事件はいずれも不平士族が起こした反乱だが、これに該当しないのはどれ?

  • 佐賀の乱
  • 萩の乱
  • 天狗党の乱
  • 敬神党の乱

正解!正解!

不正解!不正解!

天狗党の乱

15

不平士族の反乱・西南戦争は旧薩摩藩士ら約1万3000人が西郷隆盛を擁して挙兵したものだが、次のうち西郷軍に加わっていなかったのは誰?

  • 桐野利秋
  • 篠原国幹
  • 川路利良
  • 別府晋介

正解!正解!

不正解!不正解!

川路利良

16

鹿児島県には、西南戦争後の1879年まで地租改正も行われず、薩摩藩時代の因習制度が残っていた。そのうち青少年をまとめる制度は次のうちどれ?

  • 郷中制
  • 奉公制度
  • 若衆組
  • 郷士

正解!正解!

不正解!不正解!

郷中制

17

警察制度の創始者で、大久保利通を助け明治新政府の確立に努めた薩摩藩の出身者は次のうち誰?

  • 副島種臣
  • 川路利良
  • 大山巖
  • 黒田清隆

正解!正解!

不正解!不正解!

川路利良

18

1872年の身分別人口データによると、農民や町人が平民になったが、全人口3313万2000人のうち、その平民の構成比率は次のうちどれ?

  • 70%
  • 90%以上
  • 65%程度
  • 80%

正解!正解!

不正解!不正解!

90%以上

19

1873年の職業別人口データによると、農業・商業・工業などの明細に分類されているが、全人口1919万8000人のうち商業・工業を合わせた人口はおよそ次のうちどれ?

  • 180万人以上
  • 130万人
  • 80万人
  • 50万人

正解!正解!

不正解!不正解!

180万人以上

20

1879年、巡査の月給10円、米一升七銭だったとき、太政大臣・三条実美の月俸はおよそ次のうちどれ?

  • 1000円
  • 800円
  • 500円
  • 300円

正解!正解!

不正解!不正解!

800円

歴史を知る 検定 江戸時代編
1

徳川幕府は巧妙なシステムと鎖国などにより長期支配を実現させたが、その期間はおよそ次のどれ?

  • 260年
  • 160年
  • 300年
  • 200年

正解!正解!

不正解!不正解!

260年

2

大名の力を抑えるシステムとして参勤交代があった。この大名行列の人数は家格・石高によって異なるが、諸大名中最大の加賀藩(102万2000石)の場合は次のどれ?

  • 3000人
  • 1500人
  • 4000人
  • 800人

正解!正解!

不正解!不正解!

4000人

3

加賀藩が参勤(金沢から江戸)時、約480㌔㍍に要した日数はおよそ次のうちどれ?

  • 18泊19日
  • 15泊16日
  • 9泊10日
  • 12泊13日

正解!正解!

不正解!不正解!

12泊13日

4

参勤にかかる費用は旅籠代、川越代、幕府高官への土産代など莫大な額となった。加賀藩の場合、現在の金額に換算して、1泊の旅籠代だけで要した金額は次のうちどれ?

  • 5000万円
  • 2000万円
  • 4000万円
  • 3000万円

正解!正解!

不正解!不正解!

4000万円

5

物資輸送のため、西廻り海運(酒田から日本海、瀬戸内経由で大坂に至る航路)および東廻り海運(酒田から津軽海峡、太平洋経由で江戸に至る航路)の海路を整備した豪商は次のうち誰?

  • 淀屋常安
  • 河村瑞賢
  • 三井高利
  • 安井道頓

正解!正解!

不正解!不正解!

河村瑞賢

6

河川の水路整備によって知られた京都の豪商は次のうち誰?

  • 高田屋嘉兵衛
  • 安井道頓
  • 角倉了以
  • 銭屋五兵衛

正解!正解!

不正解!不正解!

角倉了以

7

徳川幕府は陸路では日本橋を基点とする五街道を中心に全国的に街道を整備した。奥州道中、日光道中、東海道、甲州道中、後1つ五街道はどれ?

  • 青梅道中
  • 大山道中
  • 中山道
  • 岩槻道中
  • 川越道中

正解!正解!

不正解!不正解!

中山道

8

徳川の幕藩体制を支えたのは、財政基盤である年貢の負担者として最重要視された農民だが、その全人口に占める比率は次のうちどれ?

  • 5割
  • 4割
  • 8割
  • 6割

正解!正解!

不正解!不正解!

8割

9

幕府が朝廷の統制を図るため「禁中並公家諸法度」を制定した将軍は次のうち誰?

  • 徳川秀忠
  • 徳川家光
  • 徳川綱吉
  • 徳川家康

正解!正解!

不正解!不正解!

徳川秀忠

10

1627年、幕府と朝廷が衝突した事件とは次のうちどれ?

  • 安和の変
  • 紫衣事件
  • 承久の乱
  • 承和の変

正解!正解!

不正解!不正解!

紫衣事件

11

大名が1年おきに領国と江戸に移り住む参勤交代を制度化した将軍は次のうち誰?

  • 徳川秀忠
  • 徳川綱吉
  • 徳川家康
  • 徳川家光

正解!正解!

不正解!不正解!

徳川家光

12

将軍の下に老中、若年寄、三奉行(寺社・町・勘定)の制度を定めたときの将軍は次のうち誰?

  • 徳川吉宗
  • 徳川家綱
  • 徳川家宣
  • 徳川家光

正解!正解!

不正解!不正解!

徳川家光

13

3代将軍家光は派手好みで、日光東照宮造営の57万両はじめ11回を数える日光社参や、寛永11年の上洛の際、多額のカネを使った。この上洛の際、どれくらいの行列を引き連れたか、次のうちどれ?

  • 10万人
  • 5万人
  • 30万人
  • 20万人

正解!正解!

不正解!不正解!

30万人

14

多くの大名の改易に伴い激増した牢人の問題が社会問題化し1651年、ある兵学者が牢人、丸橋忠弥らとともに蜂起を企図した事件「慶安の変」が発覚した。この首謀者とされた兵学者は次のうち誰?

  • 由井正雪
  • 大塩平八郎
  • 江川英龍
  • 近藤源八

正解!正解!

不正解!不正解!

由井正雪

15

徳川吉宗が行った幕政改革、新田開発と倹約によって財政が安定し幕府の権威が回復したが、この改革は次のうちどれ?

  • 寛政の改革
  • 享保の改革
  • 天保の改革
  • 正徳の治

正解!正解!

不正解!不正解!

享保の改革

16

吉宗の改革路線を継承し、重商主義を積極化。株仲間を奨励するなど商人を保護、殖産興業の推進に努めたのは次のうち誰?

  • 新井白石
  • 田沼意次
  • 柳沢吉保
  • 酒井忠清

正解!正解!

不正解!不正解!

田沼意次

17

江戸中期の徳川家の直轄領(幕領)はおよそ次のうちどれ?

  • 350万石
  • 400万石
  • 300万石
  • 450万石

正解!正解!

不正解!不正解!

400万石

18

徳川時代の年貢は「六公四民」が原則だったが、実際には“目こぼし”があったといわれる。そうした点を加味すると本当の農民の年貢率は次のうちどれが実態に近い?

  • 40~45%
  • 50~55%
  • 30~35%
  • 20~25%

正解!正解!

不正解!不正解!

30~35%

19

1782年、東北地方を中心に冷害、翌年には浅間山が大噴火し、溶岩流による死者は2万人余、降灰被害は10余国に及び、冷害と相まって大飢饉に発展した。この際、弘前藩では1783~1784年にかけて多くの餓死者が出た。その数は次のうちどれ?

  • 5万人超
  • 10万人以上
  • 2万人
  • 8万人超

正解!正解!

不正解!不正解!

8万人超

20

重税や飢饉に苦しんだ民衆は、一揆や打ちこわしを起こした。これらはいずれも江戸時代に起こった一揆だが、これに該当しないのはどれ?

  • 佐倉惣五郎一揆
  • 大塩平八郎の乱
  • 永享の乱
  • 生田万の乱

正解!正解!

不正解!不正解!

永享の乱

歴史に学ぶ 歴史検証『If』

「歴史に『I f 』はない」。よくいわれる言葉です。が、その「I f」があったら、その後の歴史は大きく変わっていたのではないか-というケースは決して少なくありません。いや、かなり多いといった方が的を射ているかも知れません。そんなケースをこれから一つひとつ見ていきたいと思います。

『If』①「石田三成があれだけ武功派に嫌われていなかったら」?▼

豊臣政権下では「武功派」と「文治派」の争いが生まれていました。むろん、秀吉がまだ健在だったころのことです。直接の争いは、秀吉の朝鮮出兵時に起こりました。朝鮮に渡った諸大名の監察を行うために、石田三成が派遣されました。

三成の軽率な報告が招いた、その後の歴史をを左右した”禍根”
このとき福島正則、黒田長政、細川忠興、加藤清正たちは心を合わせて戦闘に従っていましたが、ある日、小康を得、たまたま碁か将棋を打っていました。その光景を、監察に来た三成が目撃、秀吉に報告しました。秀吉は怒って、諸将に引き揚げを命じたのです。このことが遺恨として残りました。前線で苦労していた諸将は、たまたま三成がやってきたときに将棋を打っていただけで、長い間のわずかな安らぎに過ぎない。それを三成は誇大に報告した-と一致して三成を恨んだのです。

「三成憎し」なければ、東軍・西軍の勢力図は大きく変わっていた
石田三成は近江(滋賀県)出身の文治派です。武功派の大名は三成を「算盤勘定と悪知恵だけで出世した奴」と軽蔑していました。ですから、三成とのこれほどの対立がなければ、これらの大名も果たして初めから徳川家康に味方したかどうか、全く分かりません。
関ヶ原の合戦で、豊臣恩顧の大名で、ひたすら「三成憎し」の思いから徳川家康に味方した人物は相当多かったのです。福島正則や加藤清正ら有力大名がそうでした。ですから、三成がそこまで武功派に嫌われていなかったら、東軍・西軍の勢力図は相当変わってしまい、様子見をしていた西軍の大名たちの戦への臨み方をも含め、勝敗の行方も分からなかったのです

『If 』②「豊臣秀頼が関ヶ原の合戦場に立っていたら」?▼
豊臣政権下の武功派大名の、豊臣秀頼の父・秀吉に対する恩は極めて深いものがありました。そのため秀吉が亡くなった後も、これら武功派大名が秀吉の妻、北政所(ねね)のもとへ相談に出向く者も少なくなかったのです。

豊臣家滅亡は関ヶ原の戦いで秀吉恩顧の大名を味方にできなかったためそれだけに、豊臣秀頼が大坂城から出て来て関ヶ原の合戦場に立っていたら、これらの大名はくるりと向きを変えて、秀頼のもとに駆け付けたのではないでしょうか。福島正則、加藤清正、黒田長政などはとくにそうです。そんな、秀吉恩顧の大名たちをつなぎとめ、味方にできなかったことが、豊臣
家の敗北、そして滅亡に追い込まれていくのです。
黒田長政は、小さいときに織田信長の人質となりました。父・黒田如水の行動が曖昧だったため、怒った信長が秀吉に「人質を殺せ」と命じたことがありました。が、秀吉は「そうします」といいながら、そうしなかったのです。長政の命を助けたわけです。したがって、長政にすれば豊臣秀吉は命の恩人なのです。

秀頼が戦場に赴かなかったことが、敵方の豊臣恩顧の大名を助けたその意味では、秀頼が大坂城から出なかったことは、この合戦の勝敗を決めた上で大きな役割を果たしたといえるでしょう。徳川家康にとっては実に幸運でした。周知の通り、小早川秀秋の裏切りもありましたが、それだけではありません。むしろ、この秀頼不出場の方が、影響が大きかったといえるのではないでしょうか。彼らは戦場で、敵方に恩ある太閤の遺児・秀頼の姿を見たら、とても討伐に向かえなかったことでしょう。

最後まで豊臣恩顧の大名を信用しなかった家康

それだけに、家康もこの豊臣系大名たちが、自分の味方をしても心の底からは信じませんでした。「何かあれば、彼らは必ず裏切る」と警戒していたといわれています。とくに福島正則や加藤清正に対してはその思いを深めていました。が、どうしたわけか加藤清正は、大坂の陣の前に急死しています。「徳川家康に毒饅頭を食わされた」という噂がとんだほど、彼の死に方は不自然でした。

関ヶ原の功績で120万石の大封得た福島正則は秀忠の代に改易に
福島正則は関ヶ原の合戦の功績で、毛利氏の拠点だった広島城を与えられ、120万石もの大封を得ました。ところが、家康が亡くなり、秀忠の代になって改易されてしまいました。徳川政権が安定したいま、警戒しながら大封を与えておく必要がない。「もう御用済み」というわけだ。不満があるならいつでも相手になるぞ-と威嚇されているにも等しい対応でした。
そして福島正則は辛うじて家名を残され、信州(長野県)川中島でわずかな俸禄をもらう存在にまでおとしめられてしまったのです。正則も、自分がここまで徳川将軍家に警戒され、信用されていないのだということを思い知ったことでしょう。

『If 』③「蒲生氏郷が会津へ移封していなかったら」?▼
あまり知られていないことですが、天下人になった豊臣秀吉が最も恐れていたのが蒲生氏郷(がもううじさと)です。なぜなら氏郷は織田信長子飼いの直臣だったからです。

信長のもとで子飼いの直臣として育った氏郷
氏郷は近江国(滋賀県)日野城主だった蒲生賢秀(かたひで)の息子です。賢秀は地方豪族にしては先見の明があり、それまで佐々木源氏系の六角氏に仕えていましたが、これからは織田信長の時代になると見抜き、そこで密かに使いを出し、従属を誓いました。
信長にはそういう豪族がたくさんいたので、すべて人質を取っていました。賢秀も息子の氏郷を岐阜城に人質に出しました。岐阜城には当時100人余りの同じような少年がいたといいます。しかし、信長はその中から氏郷に目を向けていました。というのは、氏郷が非常に賢く、今日風に表現すれば“経営感覚”を持っていたからです。

楽市・楽座での”規制緩和”など信長の都市経営を学んだ氏郷

信長は、今後の大名はすべて領国経営に算盤勘定をいれなければいけないと考えていました。また、岐阜の城下町で展開した楽市・楽座で、単に呼び集めた商工業者の負担減だけではなく、今でいう“規制緩和”を積極的に
行いました。撰銭令の発布、道路を整備し物流ルートを設定したほか、関所や船番所の撤廃なども行いました。
こうした信長の新しい都市経営に、蒲生氏郷少年は目を向け、同時に信長の理念を自分のものとして体得していきました。そこで信長は人質の中でも氏郷は非常に期待できると考え、自分の娘を氏郷の嫁にしました。したがって、蒲生氏郷は信長の婿なのです。

信長の娘婿・氏郷を警戒し、会津に移封した天下人・秀吉
豊臣秀吉は巧妙な政略によって天下人の座を占めましたが、内心では若いながら人使いがうまく、人望もあるこの氏郷を恐れていました。そこで、秀吉は「伊達政宗は油断できない。これを抑えられるのはあなただけだ」とうまい名目を付け、思い切って氏郷を会津に移封しました。近畿・東海地区から何とか、危険な氏郷を遠ざけ、伊達政宗を抑える駒として使う“一石二鳥”の妙案だったのです。

会津移封で天下取りを断念した氏郷
この異動命令を受けた氏郷は、秀吉の巧みな意図をくみ取り、会津で大禄を得たにもかかわらず、「会津に行ったのでは、もはや天下の座は得られない。それが悲しい」と家臣に語り、さめざめと涙を流したと伝えられています。このことからも分かるとおり、一般にはほとんど知られていないことですが、実は氏郷にも天下取りの野望があったということです。
氏郷が近畿もしくは東海地区にとどまっていたら、“信長の婿”の立場を最大限に活かし、天下人はともかく、豊臣政権から徳川政権へ移行する過程で、少なくとも後世に残る様々な影響力を行使していたのではないでしょうか。

利休の死後、千家の息子を匿った秀郷
千利休の不慮の死の後、千家の息子たちはそれぞれ諸国に散っていきました。その一人を匿ったのが蒲生氏郷でした。秀吉は当然そのことを知っていました。現在、会津若松市にはこの千家の息子の匿われた家が、歴史的遺産として保存されています。

氏郷急死に、秀吉による毒殺説も
氏郷のこういう行為を秀吉は気に入りません。秀吉にすれば、氏郷はいぜんとして信長公の婿という誇りを持ち、自分(秀吉)に心から臣従していない。対抗心を持ち続けていると受け取ります。やがて、氏郷は京都に呼び戻され、そして急死するのです。世間では「蒲生氏郷は秀吉に毒殺された」と噂されました。

『If 』④「足利尊氏が鎌倉で幕府を開設していたら」?▼
足利尊氏が幕府を鎌倉に置いていたら、足利氏による幕府政治も随分、様相の異なったものになっていたでしょう。

南朝勢力の帰趨を大きく左右した幕府設置場所
まず後醍醐天皇率いる吉野の南朝勢力が勢いを盛り返していたのは間違いないところです。楠木正成や新田義貞など後醍醐天皇の軍事勢力がそれまでとは違った攻勢にでることも十分考えられます。それに伴って、南朝方に付く勢力も出てきていたはずです。
ただ、それには、天皇親政のスローガン一点張りではなく、武家に対する論功行賞も約束する姿勢を打ち出すことが必要だったでしょうが。
九州で勢力を挽回した尊氏は1336年(建武3年、延元元年)4月、上洛行動を開始し、5月、楠木正成を大将とする建武政府軍を湊川の戦いで破り、6月には再び入京に成功。そして、重要なのはこのとき、尊氏が光明天皇を擁立した点です。一方、吉野に逃れた後醍醐天皇も「自分こそが正統の天皇である」と主張したため、ここに北朝と南朝の二つが並立する60年にわたる南北朝の争乱が始まることになったのです。

尊氏は「鎌倉」か「京都」か、幕府開設場所を諮問
尊氏は1338年(暦応元年、延元3年)8月に待望の征夷大将軍に任命されました。将軍になれば、当然、幕府をどこに置くかという問題が、にわかに
クローズアップされることになりました。候補として挙げられたのは鎌倉と京都です。源頼朝以来の武家政権の伝統から考えると、鎌倉ということにな
るでしょう。それが、京都に決められたのはどうしてなのでしょう。
この問題を考えていくうえでヒントになるのが、1336年11月7日に制定された「建武式目」です。これは全文17カ条からなる尊氏による成文化した施政方針というべきものですが、その冒頭に、幕府をそれまで通り鎌倉に置いた方がいいか、他所(京都)に置いた方がいいか諮問した一文があります。
尊氏関係者の間でも意見が分かれていたことが分かります。上層武士たちの多くは、鎌倉にそれぞれの屋敷を持っていたため鎌倉に幕府を置くことを主
張したでしょう。尊氏の弟・直義(ただよし)は「建武の新政」のときも鎌倉の守りについていたので、鎌倉を主張したのではないでしょうか。

南朝勢力を牽制するため尊氏が「京都」に決断
ところが、鎌倉主流と思われた情勢の中で、尊氏本人は鎌倉より京都の方がよいと考えていたようです。一つは軍事的に、幕府を鎌倉に置くと、吉野にいる南朝勢力が勢いを盛り返してくる可能性があるためです。吉野の動きを牽制するためには、幕府は京都に置かなければならないという論法です。
そしていま一つは政治的な理由で、「国家行政権を握るには、国家の中央に位置する必要がある」という考え方です。鎌倉にいて朝廷をリモートコントロールするのは大変です。それで京都に幕府を置いて直接的にコントロールしようとしたのではないでしょうか。

鎌倉に幕府を置いていたら南朝の御所奪還の動きは強くなっていた
もし、尊氏が周囲の意見に押されて鎌倉に幕府を置いていたら、後醍醐天皇の配下の者たちが暗躍し、その京・御所奪還への動きは活発になっていたでしょう。後醍醐天皇はかなり自己中心的な人物だったという印象は強いのですが、よくいえば「強烈な個性でぐいぐい引っ張って行った」ということです。賢明な判断に基づいて京都に幕府を置いた尊氏が京にいたにもかかわらず、後醍醐天皇はあれだけ粘り強く戦い続けたのですから。

『I f 』⑤「乙巳の変で蘇我入鹿が殺害されていなかったら」?▼

蘇我入鹿は周知の通り、皇極女帝の時代、「乙巳(いっし)の変」で暗殺され、それが大化の改新の口火となります。そして、蘇我本宗家が滅びます。
しかし、もしここで蘇我入鹿が殺害されず、この難を逃れていたら、彼は最終的に大王位の禅譲を受けていたかも知れません。

学識者で大陸の情勢にも明るかった入鹿
蘇我入鹿は開明的な人物で、学識も備えていました。遣隋使として中国に渡り、隋・唐と24年間にわたって留学していた僧・旻(みん)は帰国後、学問所、講堂を開いています。その講堂に入鹿も中大兄皇子、中臣鎌足も通っています。その僧・旻が「わが講堂に入る者で、宗我(蘇我)大郎(=そがのたいろう)より優れた者はいない」と伝えています。

入鹿は禅譲制で大王位に就くことを考えていた?
通説では、入鹿は大王になることまでは考えていなかったといわれているのですが、彼は相当な学識者で大陸の政治情勢や文化に明るい人物でした。
ですから、蘇我本宗家の権勢を永続させるためにも、大王位に就くことを考えたはずです。
入鹿が狙いとしたその方法が、中国帰りの学問僧たちによってもたらされた禅譲制という制度です。入鹿は、祖父・蘇我馬子の娘が舒明天皇の妃になって産んだ古人(ふるひと)大兄皇子を大王にして、その大王から位を禅譲させるという方法を考えていたようです。実はこれは、隋・唐で行われた方法なのです。

いくつもある、入鹿が大王位を意識していた傍証
蘇我入鹿が大王位を意識していた傍証は実はいくつもあるのです。『日本書紀』によると、入鹿の父・蝦夷が葛城の高宮で、中国の天子にのみ許され
る「八?(やつら)の舞い」を行ったり、今来(いまき)に双墓をつくって、これを「大陵・小陵」と呼ばせ、大きい方を自分の、小さい方を息子の入鹿の墓と定めたとも書かれています。
それから、645年には甘橿(あまかし)丘に巨大な屋形を建て、蝦夷の家を「上の宮門(みかど)」、入鹿の家を「谷(はざま)の宮門」と呼ばせ、子供たちを王子(みこ)と呼ばせています。これらはすべて入鹿の発案で、彼が父の蝦夷を説得して行ったことなのです。中国では禅譲の前に権力者が皇帝と同じようなことをするのです。

最大の豪族の家に生まれたエリートの弱さが、野望を未達に終わらせた
ここまで準備しながら、入鹿の野望はなぜ成就しなかったのでしょうか。それは入鹿が最大の豪族の家柄に生まれたエリートで、人間の苦界を見ないで育った点にあるのではないでしょうか。「乙巳の変」の主導者の一人、中臣鎌足などは地を這うようにして育ち、そこからのし上がってきた人物です。そんな鎌足に比べると、やはり入鹿には性格の甘さが感じられます。入鹿の野望(=大王位)を真っ先に見抜いたのは恐らくこの鎌足でしょう。

歴史に学ぶ 歴史検証『Why』Ⅰ
「家康はなぜ、将来の拠点として何もない江戸を選んだのか?」?▼
実は当初、徳川家康は江戸に居城を構えるつもりはありませんでした。周知の通り、家康に江戸を拠点とするよう命じたのは豊臣秀吉でした。秀吉は天下人となっても、最大のライバルとして警戒していたのが家康の存在で、その家康を京・大坂からできるだけ遠ざけるための策略だったともみられています。家康は入府後の江戸開発の青写真を描いたうえで決断
ただ、家康のこの国替え、秀吉に全面的に屈服して受け容れたというより、天下獲りの野望を胸に秘め、入府後の江戸開発の青写真を描いたうえで決断したのではないかとの見方があります。というのは、1590年(天正19年)小田原攻めの最中、すでに家康は家臣を江戸に派遣し、詳細な実地調査をさせていたといいます。
家康の伝記『武徳編年集成(ぶとくへんねんしゅうせい)』(1740年)によると、1590年(天正19年)7月5日の小田原城陥落に先立って、家康は5月に秀吉から関東への転封(てんぽう)の打診を受けていたといいます。そして6月には、拠点を江戸とすることを約束していたと記されています。[toggle heading=”h5″ title=”ゼロからの町づくりに家臣たちはこぞって不満もらす
しかし、この転封に対し、家康の家臣たちは大きな不満をもらしました。駿府や小田原に比べ、より京から離れた辺境の地へ国替えになるのですから当然でしょう。だが、家康は家臣たちをなだめ、北条氏滅亡後、東海5カ国を治めていた家康は、関東7カ国(伊豆・相模・武蔵・上総・下総・上野・下野の一部)への国替えに素直に応じました。そして、自らの居城を江戸に置くことになります。
とはいえ、歴史と文化があり、ある程度発展をみせていた小田原や鎌倉を拠点とすることと比べると、江戸入府は格段にマイナスからのスタートだったことは確かです。辺境の、東国のさびれた農村・江戸での、ゼロからの町づくりは、次代の覇権を目指す戦国武将にとって大きなハンディだったといえます。朝廷、豊臣政権の影響を受けにくく発展の可能性秘めた江戸に賭ける
だが逆に言えば、これは朝廷や豊臣政権の影響を受けにくい新たな土地で、自由に町づくりができるというメリットにもつながります。江戸の背後に広がる広大な関東平野も、発展の可能性を秘めた魅力的なものでした。江戸は「海運の拠点、交通の要衝地」を認識していた家康
また、意外に知られていないことですが、江戸は昔から海運の拠点となっていたのです。江戸は西から運ばれてきた物資が荷揚げされる海の玄関口でした。家康が入る以前は、北関東と南関東の対立があまりに激しく世情が不安定だったため、江戸で政権を樹立するほどの武将が現われなかったのです。
ところが、2度にわたる朝鮮出兵などで豊臣政権が疲弊していく中で、家康は着々と関東で力を蓄え、周知の通り天下分け目の関ヶ原の戦い(1600年)で大勝利を収めます。その結果、天下をほぼ手中に収めた家康にとって、海運の拠点、交通の要衝としての江戸は、非常に大きなメリットであり、江戸に拠点を構えた家康の思惑が理解できるのです。
「家康はなぜ、大々的な天下普請で築城と修築、河川の改修を行ったか?」?▼
徳川家康が「天下普請」で、盛んに城郭の修築や河川の改修工事を行ったのは、ずばり大坂の豊臣秀頼、そして各地の豊臣恩顧の外様大名の力をじわじわと削いでいくためでした。天下普請の狙いは豊臣恩顧の大名の金と労力使い、力を削ぐこと
江戸幕府が諸大名に命じて行わせた「天下普請」とは、この工事にかかる費用(労務費・交通費・宿泊費)は原則として命じられた諸大名が負担しなければならない公共工事でした。
そこで、国内における徳川家の磐石な体制を築くため、敵対する可能性のある勢力に、できるだけ多くの工事=天下普請を行わせることで、金と労力を使わせて弱体化を図ること。「天下普請」の狙いは、まさにこの点にあったのです。豊臣家の経済力&権威を警戒し続けた家康
では、豊臣家の力とはどれほどのものだったのでしょうか。「関ヶ原の戦い」の敗戦後、所領が激減し、一大名に過ぎなくなった秀頼ですが、その遺産は推定値で現在の1000億円とも2000億円ともいわれる莫大な”経済力”がありました。また、その家柄からくる権威も侮れませんでした。豊臣姓は秀吉が関白に就くにあたり、朝廷から勅許を得て使用が認められた家格で、秀頼は時の朝廷との関係も強かったのです。豊臣家の経済力&権威が再び西国大名の武力と結び付き、徳川に刃向かってくるかも知れないという不安は、家康の脳裏に染み付いていたのでしょう。関ヶ原直後から西国の外様大名監視と朝廷対策の拠点の築城開始
家康は関ヶ原の戦い(1600年)が終わるや、秀頼や西国の外様大名たちを監視するための拠点を築き始めます。膳所(ぜぜ)城(滋賀県大津市)の築城と、伏見城(京都市伏見区)の改修です。
また、朝廷対策の拠点として二条城(京都市中京区)の築城も開始します。娘婿にあたる池田輝政には居城の姫路城(兵庫県姫路市)の修築を、藤堂高虎には今治城(愛媛県今治市)の築城と甘崎(あまざき)城(愛媛県今治市)の修築を命じ、瀬戸内の海上路に砦を築くことで、中国・四国の外様大名の監視にあたらせました。10数名の大名に命じ、彦根城(滋賀県彦根市)の築城も行っています。征夷大将軍の宣下受け、名実ともに武家のトップに
1603年(慶長8年)2月、家康は念願叶って征夷大将軍の宣下(せんげ)を伏見城で受けます。将軍職に就いたということは、豊臣家の臣下という立場から脱し、自ら武家のトップとして全国の大名と主従の関係を持ち、主君となることを意味しました。徳川の世の到来でした。連日3万人以上の人夫が動員された江戸城の改修
江戸城の改修も「天下普請」の一環でした。家康の将軍宣下の翌月、天下普請による江戸の町の拡張・整備工事がスタートします。これらの工事には13組に分けられた70家の大名が参加。各大名は知行1000石当たり1人の人夫を出すように命じられました。毎日3万以上の人員が現場に動員されたであろう大公共工事でした。
築城される江戸城の規模は、秀頼の居城・大坂城をはるかに凌ぐものでした。この助役を命じられた外様大名たちに、徳川将軍家の威光を示す効果も大いにあったことでしょう。福島正則、加藤清正、前田利常ら親豊臣派大名を根こそぎ動員
1610年(慶長15年)、名古屋城の築城を命じられたのは、前年に篠山城の普請を終えたばかりの福島正則を含む西国大名20家、加藤清正をはじめとする九州大名11家、そして加賀の前田利常らでした。豊臣と関係の深い大名は根こそぎ動員させられているのです。しかも、その普請は大坂方が江戸に攻めてきた場合に備えた防衛の要を築くというものでした。”一石三鳥”の天下普請で外様大名の牙を抜く
豊臣恩顧の大名の力を使ってその力を削ぎながら、徳川家の防衛と豊臣家を封じ込める拠点を築き、その過程で将軍家の威光をも認識させるというわけです。まさに”一石二鳥”、いや”一石三鳥”の妙案です。こうして家康の天下普請戦略の前に、多くの外様大名はその牙を抜かれていったのです。
「外様大名の加賀藩がなぜ、百万石もの体制を長く保持できたか?」?▼
江戸時代、全国で多くの藩が改易や、藩の取り潰しを経験した中、これはかなり稀有なケースといえますが、加賀藩・前田家は、遂に百万石を超える家禄を幕末まで維持し、生き抜きました。幕藩体制確立に向け、横行した大名の改易
実は、江戸幕府による大名統制は厳しく、家康・秀忠・家光の徳川三代を通じて幕藩体制の確立に成功するのですが、この過程で多くの大名が改易となっています。福島正則49万石、小早川秀秋50万石、最上義俊57万石、松平忠輝75万石、松平忠直68万石、松平忠吉52万石、加藤忠広52万石、徳川忠長55万石、本多正純15万石といった具合です。大名が改易(領地没収)となる主な理由は、跡継ぎ断絶、武家諸法度違反、乱行でした。
大名の改易があまりに多く、これによって主君を失った武士たち(家臣)=牢人が激増、新たな社会問題に直面することになりました。そのため、四代将軍・家綱の治世下で、それまで禁止されていた「末期(まつご)養子の禁」が緩和されたほどです。こうした文治政策を推進したのが、家光の弟で将軍を補佐した会津藩主の保科正之らでした。文治政策への転換でした。忍耐強く将軍家とつかず離れずの関係を維持した前田家=加賀藩
このように大名の改易が横行した中、無傷で徳川260年余を過ごすことができたのは、前田家が代々、ポリシーとする、将軍家とつかず離れずの関係を忍耐強く保持したからに他なりません。これを実践することは、実は生易しいことではありません。なぜなら、当時、諸大名は幕府の意を迎えるために、学問・芸能や宗教行事、日常の作法に至るまで、徳川家へ右へ倣(なら)えしていました。でなければ、いつ幕閣の機嫌を損じて改易の憂き目に遭うかも知れないと怖れたのです。太閤治世下では「徳川とは同輩」意識、半面、恭順の意
ところが前田家は、「加賀には加賀の伝統がある」として、徳川将軍家に倣う風がなかったのです。それは、もともと徳川と前田は、太閤・秀吉治世下の武将という点では同輩で、家のしきたりはそれぞれの伝統によるべきもの-との意識が強かったからです。それが自然で無理がない-と。
とはいえ、権力者=徳川将軍家と、つかず離れずの関係を保持するには、藩主は自分自身を抑え込み、感情のコントロールを図り、将軍家に恭順の意を表するという姿勢が必要です。したがって、こうした姿勢を維持し続けるには格段の苦労があったに違いありません。「お家第一…母を棄てなさい」と戒めた利家の正室・松子
加賀藩の藩祖・前田利家の正室・松子にこんなエピソードがあります。利家没後、徳川家康はいつかは前田家を潰そうと謀り、二代藩主・利長に「謀反の動きあり」の噂を流して揺さぶりをかけます。そんなとき、母の松子は自らすすんで人質として江戸に赴き、両家の安全に寄与しようと努めます。
その際、思い悩む息子・利長に「武士はお家第一、(徳川将軍家から、投げかけられる揺さぶり・謀りごとに対し)思い迷うことがあれば、母を棄てなさい!」ときっぱり言い切ったといわれています。松子は、利長ら子供や家臣たちが、自分の身を気づかって家を棄てることを強く戒めたわけです。将軍家に嫌われず、媚びず、独自の伝統文化を維持
こんな松子の精神が代々、藩主に継承され、前田家の独自の伝統文化は維持しつつ、権力者=徳川将軍家に嫌われず、媚びず、つかず離れず、という何とも難しい、微妙なバランス感覚が求められる藩運営に努めたのです。
つまり幕府から無理難題持ちかけられても、耐え忍んで家を存続させ、文化の面で徳川を凌ごうと期するものがあったようです。家が滅びてしまったら、文化も何もないわけですから。万全の防衛体制を敷き、文化にうつつを抜かす振りを貫く
そのために前田家は万全の防衛体制を敷き、それをひた隠しにし、その隠れ蓑として表看板に文化政策を華々しく掲げていたのです。「非武装」では、藩の意思は決して貫けないことを理解していたのです。
その軍備が少しでも漏れたら大変な騒動になるので徹底的に隠し、前田
は幕府に臣従して、文化にうつつを抜かしている振りを貫いたのです。幕府は絶えず隠密を放ってそれを探りますが、証拠がつかめません。しかし何となく薄気味悪いものを感じて、うかつには手出しできず、江戸時代は経過してしまいます。
見てきたとおり、前田家は危機感もなく、お人好しにのんびりと文化を楽しんでいたのではないのです。三代藩主・利常の時代、五代藩主・綱紀の時代はとくに華やかな文化が花開いた印象があります。しかし、実は表と裏があったのです。表面上、そう見えるということは、前田家歴代藩主が、それだけ演技が上手だったということでしょう。
その結果、加賀藩前田家は他には例のない、無傷のまま幕末まで百万石を超える家禄を保持できたのです。見事というしかありません。
悲劇の貴人
    次代を拓く中年女性の強さと魅力
      歴史を彩ったヒロイン
        歴史の教訓 豪商列伝
          歴史に刻まれた男の言葉
            英傑・名将の知られざる実像
              中高年に人気の歴史群像
                歴史を楽しむ 小倉百人一首
                    歴史を味わう 万葉集

                    万葉集を味わう①

                    <巻頭歌-早春の妻問(つまど)い>
                    一.雄略天皇

                    「籠(こ)もよ み籠持ち 掘串(ふくし)もよ み掘串持ち この岡に 菜摘ます子 家告(の)らせ 名告らさね そらみつ 大和の国は おしなべて 我れこそ居(お)れ しきなべて 我れこそ居れ 我れにこそは 告(の)らめ 家をも名をも」
                    歌意は、駕籠も、良い駕籠を持ち、掘串も、良い掘串を持ち、この丘で若菜を摘んでいる娘さん。家がどこか言いなさい、名前をいいなさいよ。この広い大和の国は、ことごとく私が従え、隅々まで私が治めているのだが、この私には教えてくれるでしょうね。あなたの家も名前も。籠は摘んだ若菜を入れる。掘串は土を掘るヘラ。
                    『万葉集』全20巻の巻頭の歌です。第二十一代・雄略天皇の作とされていますが、万葉の当時から約200年も前の天皇なので、実作ではなく伝承された歌謡と考えられます。古代、名にはそのものの霊魂が宿っていると考えられていました。だから、名告(なの)りは重要なことで、男が女の名を尋ねるのは求婚を意味し、女が名を明かすのは承諾を意味しました。
                    早春、娘たちが野山に出て若菜を摘み食べるのは、成人の儀式でもありました。草木が芽吹く春の訪れとともに、天皇の結婚は繁栄の象徴です。いかにも万葉らしい素朴で大らかなリズムは、巻頭を飾るにふさわしい生命力に満ちた歌です。

                    <新羅遠征の途上>
                    八.額田 王(ぬかたのおおきみ)

                    「熟田津に 船乗りせむと 月待てば 潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな」
                    歌意は、熟田津(にきたづ)で、船出しようと月の出を待っていると、潮もちょうどよく満ちてきた。さあ、漕ぎ出そう。
                    斉明天皇6年(660年)、日本と親交のあった朝鮮半島の百済から、新羅と唐が連携して侵攻したとの報がもたらされました。この百済の支援要請に応えて斉明女帝は船団を組み、新羅に遠征するため西へ向かったのです。この歌はその際、愛媛県松山市、現在の道後温泉あたりにあった熟田津にしばらく留まった後、出港するときの歌です。
                    皇太子・中大兄皇子(後の天智天皇)、大海人皇子(後の天武天皇)はじめ、大田皇女、鸕野讃良(うののさらら)皇女(後の持統天皇)らも同行した賑やかな旅で、額田王は一行の高揚した気持ちを代表するように歌い上げているのです。額田王は初期万葉随一の女流歌人で、彼女が斉明天皇になり代わって詠んだものと考えられています。月の出と潮流とは密接な関係があり、ともに船旅には重要な条件でした。
                    この船団は3月末、博多に到着しますが、4カ月後、斉明天皇はその地(朝倉橘広庭宮)で崩御。中大兄皇子は翌々年、朝鮮半島に軍を進めましたが、白村江(はくすきのえ)で大敗を喫してしまいます。

                    <近江京遷都に伴う三輪山との別れ>
                    一八.額田 王

                    「三輪山を しかも隠すか 雲だにも 心あらなも 隠さふべしや」
                    歌意は、懐かしい大和の国の三輪山をどうしてそのように隠すのか。せめて雲にだけでも思いやりがあってほしい。何度も振り返り、見たい山なのに、そのように雲が隠してよいものか。
                    この歌は、当時の皇太子・中大兄皇子が断行した近江遷都にあたって、額田王が詠んだ長歌に添えられた反歌です。額田王は恐らく、前夫・大海人皇子と別れ、中大兄皇子(後の天智天皇)に従って、飛鳥から山城を経て近江へと下ったのでしょう。しかも額田にとって朝夕見慣れた懐かしい三輪山との別れだったのです。当時の飛鳥人にとって、三輪山は単なる山ではなく、山自体が大神(おおみわ)神社の御神体なのです。三輪の神大物主(おおものぬし)は蛇体で、篤く信仰されると同時に、しばしば祟りを及ぼすので怖れられてもいました。都を遷すには、三輪山をはじめ大和の神々の心を鎮めなければならなかったのです。この歌の前の長歌には、大和を離れ、道の曲がり角ごとに、何度も振り返っては、三輪山を見て別れを惜しむさまが詠われています。中大兄皇子の代わりに、額田王が大和の神々をなだめるよう仰せつかって詠んだものかも知れません。

                    <額田王と大海人皇子の贈答歌>
                    二〇.額田 王

                    「あかねさす 紫野(むらさきの)行き 標野(しめの)行き 野守(のもり)は見ずや 君が袖振る」
                    歌意は、美しい紫色を染め出す紫草の野を行き、立ち入りを禁じられた野を行き、野の番人が見るではありませんか、あなたが私にしきりに袖を振るのを。
                    二一.大海人皇子
                    「紫草(むらさき)の にほへる妹(いも)を 憎くあらば 人妻故に 我れ恋ひめやも」
                    歌意は、美しい紫草のように匂い立つあなたが憎いのなら、もう人妻なのに何で私が恋しいと思うだろうか。
                    天智天皇7年(668年)5月5日、近江大津の宮から一日の行程の蒲生野(がもうの)で、宮廷を挙げて薬狩りが行われました。薬狩りは、薬用の鹿の角袋や薬草を採る宮廷行事で、旧暦5月、夏の行楽でもありました。この贈答の歌は、今は天智天皇の後宮に入り近づくことのできない額田王に、かつての夫・大海人皇子が忍ぶ恋の心情を詠んだとみられます。ただ、ここまで大胆に、あるいはおおっぴらに心のうちを詠い込んでいるのは、恐らく狩りの後の賑やかな宴席で、天智天皇、額田王、大海人皇子の3人の関係を知っている人たちを前に、宴席を大いに盛り上げるやりとりだったのでしょう。
                    このとき、大海人皇子は40歳ぐらい、額田王は35歳ぐらいで、当時としてはもうかなりの年配だったはずです。したたかにホンネとタテマエの使い分けができ、そうした状況を楽しむ余裕もあったでしょう。とはいえ、この贈答歌には単なる座興では片付けられない、心のゆらめきが感じられます。
                    「紫野」は紫草を栽培している野で、根から染料を取りました。「標野」は一般の人は立ち入れない野、袖を振るのは求愛のしるしです。「妹」は男性が妻や恋人を呼ぶ語です。
                    この贈答歌が交わされたときから、わずか3年後、天智天皇は崩御。翌672年、大海人皇子は吉野で挙兵、近江朝廷の大友皇子との間で、日本の古代史上最大の内乱「壬申の乱」が勃発するのです。

                    <初夏の香具山>
                    二八.持統天皇

                    「春過ぎて 夏来(きた)るらし 白妙の 衣干したり 天の香具山」
                    歌意は、巷ではもう春が過ぎて夏が来るらしい。天の香具山に真っ白な衣が干してあるから。
                    したたるような香具山の緑を背景に、目に痛いほど真っ白な衣、そして真っ青な空。初夏の日差しが眩しく降り注いでいるさまが鮮烈に感じられます。夏の到来に弾む気持ちを爽やかに捉えた一首です。
                    持統天皇は天武天皇の皇后で、天武天皇崩御後しばらく皇后のまま政治を執り、息子・草壁皇子を皇位に就かせようとしましたが、草壁が病没したため自ら即位しました。持統8年(694年)、都を藤原京に遷しました。藤原京は大和三山を近くに臨む地でした。

                    <近江荒都>
                    三〇.柿本人麻呂

                    「楽浪(ささなみ)の 志賀の唐崎 幸(さき)くあれど 大宮人の 舟待ちかねつ」
                    歌意は、ささなみの志賀の唐崎は、昔のまま変わらずにあるけれど、あのころ大宮人が遊んだ舟は、いくら待っても、再び見ることはできないのだ。
                    三一.柿本人麻呂
                    「楽浪の 志賀の大わだ 淀むとも 昔の人に またも逢はめやも」
                    歌意は、ささなみの志賀の大きな入り江の、湖水は昔のままに淀んでいるが、ここに舟を寄せた昔の人に再び逢うことは、もうできないのだ。
                    この二首は「近江の荒れたる都を過ぐる時に、柿本朝臣人麻呂(かきのもとのあそんひとまろ)が作る歌」という長歌に添えられた反歌です。
                    壬申の乱で近江大津の宮は焼亡しました。天智天皇が造営した近江朝の壮麗な宮殿が廃墟と化したことを、人麻呂は自然の姿は変わらないのにと嘆いたのです。「楽浪」は琵琶湖西南岸地方。「神楽浪」の略。「唐崎」は大津市の北、大津の宮があった琵琶湖岸。「幸くあれど」は無事に、の意から、そのまま変わらずにあるけれど。「大わだ(曲)」は川や湖の岸で、大きく湾曲した地形。
                    柿本人麻呂は『万葉集』を代表する歌人です。生没年未詳。天武・持統・文武天皇の三代に仕えました。役人としての位は高くなかったのですが、とりわけ持統朝に、公的な儀礼の歌を詠む、宮廷歌人として活躍したようです。皇子らの死を悼む挽歌や、行幸を寿ぐ歌などを格調高く詠い上げました。この時代、歌は口承から記載文学へと転換しました。『万葉集』には人麻呂作の長歌約20首、短歌60首余りが収められています。

                    <廃墟と化した近江大津宮を詠んだ歌>
                    三二.高市黒人

                    「古(いにしえ)の 人に我れあれや 楽浪(ささなみ)の 古き都を 見れば悲しき」
                    歌意は、私が、昔のあの大津の都ころの人だからか、いやそうではないのに、楽浪の古い都を見ると悲しい。
                    柿本人麻呂の歌と同様、廃墟となった近江大津の宮を悲しむ歌です。この歌の次に、都の荒廃を土地の神の心が荒れすさんだためだ-と詠んだ黒人の一首、
                    「楽浪の 国つ御神(みかみ)の うらさびて 荒れたる都 見れば悲しも」
                    (歌意は、近江京が荒廃したのは、土地の神の心が荒れすさんだためだ)があります。

                    <持統天皇の伊勢行幸>
                    四〇.柿本人麻呂

                    「鳴呼見(あみ)の浦に 舟乗りすらむ をとめらが 玉裳(たまも)の裾に 潮満つらむか」
                    歌意は、あみの浦にお供をして、舟遊びをしているだろう乙女たちの、美しい裳の裾に、いまごろは潮が満ちているのだろうか。
                    四一.柿本人麻呂
                    「釧(くしろ)着く 答志(とうし)の崎に 今日もかも 大宮人の 玉藻(たまも)刈るらむ」
                    歌意は、あの答志の崎で今日もまた、大宮人たちは美しい藻を刈っているのだろうか。
                    四二.柿本人麻呂
                    「潮騒に 伊良虞(いらご)の島辺 漕ぐ舟に 妹(いも)乗るらむか 荒き島廻(しまみ)を」
                    歌意は、潮流がざわめく今ごろ、伊良虞の島のあたりを漕ぐ舟に、愛しい人も乗っているのだろうか。あの波の荒い島のまわりを。
                    持統天皇の伊勢行幸の折、飛鳥浄御原の宮に留まった人麻呂が、お供をした人々の華やかな舟遊びの様子を思い描いて詠んだ連作です。
                    「をとめら」は持統天皇のお供をした若い女官たち。「玉裳」の「玉」は美称。「裳」は当時女官が着用していた長く裾をひくロングスカート。「釧着く」は釧(=腕輪)を付ける意で、手首の連想で「答志(=)手節」にかかる枕詞。玉藻を刈るのは海辺の遊び。「潮騒」は潮流による波のざわめき。「伊良虞」は伊良湖岬、もしくは神島。「島廻」は島のまわり。
                    この行幸は晩春の候、伊勢神宮参拝と舟遊びを兼ねたものだったようです。お供の女官の中には人麻呂の恋人がいたといわれます。

                    <軽皇子の安騎の野の狩り>
                    四八.柿本人麻呂

                    「東(ひむがし)の 野にかぎろひの 立つ見えて かへり見すれば 月かたぶきぬ」
                    歌意は、荒野の東方に茜色の曙光が射し、振り返ると西方に残月が傾いてかすかな光を放っている。
                    軽皇子(後の文武天皇)が冬、安騎(あき)の野で狩りをした時の長歌に添えられた、反歌四首のうちの三首目。軽皇子は草壁皇子の息子で、このとき10歳。草壁皇子は天武天皇と持統天皇の間の皇子ですが、皇太子のまま病没しました。その折、人麻呂は挽歌を詠んでいます。すでに父・草壁が亡くなって3年半が経過していました。草壁は生前、安騎の野で狩りをしており、いま軽皇子も父ゆかりの地で狩りをしているのです。
                    「東の」は軽皇子を曙の光にたとえ、草壁を沈みゆく月の光にたとえて追慕しているのです。冬の荒野の東西の果てに日と月を見る雄大な歌です。

                    <廃都・飛鳥浄御原に吹く風>
                    五一.志貴皇子

                    「采女の 袖吹きかへす 明日香風 都を遠み いたづらに吹く」
                    歌意は、采女の華やかな袖を翻していた明日香の風も、都が遷り遠くなったので、今はただ、空しく吹いている。
                    持統朝、藤原京に遷都して間もないころ、廃都・飛鳥浄御原に吹く風を詠んだ歌。遷都に伴って采女たちも飛鳥を去って、いまはただ茫漠とした風景があるだけというさまが脳裏に浮かんできます。
                    志貴皇子は天智天皇の第七皇子。近江朝の生き残りで、もはや中央から外れた立場にある彼は、懐かしさを覚えつつ、時の流れを意識して、旧都を訪ねたのでしょうか。
                    「采女」は天皇の食事など日常の雑役に奉仕した後宮の女官。地方の国々の郡の次官以上の娘で、容姿の美しい者が選ばれました。いわば服属の証として献上された選りすぐりの美女で、天皇以外は近づくことができない禁忌の女性でした。

                    <持統太上天皇の三河国行幸>
                    五八.高市黒人

                    「いづくにか 舟泊(ふなは)てすらむ 安礼の崎 漕ぎ廻(た)み行きし 棚なし小舟」
                    歌意は、安礼の崎を漕ぎ廻っていったあの棚なし小舟は、いまごろはいったいどこに泊まっているのだろう。
                    大宝2年(702年)10月、持統太上天皇が三河国(現在の愛知県東部)に行幸されたとき、お供した高市黒人が詠んだ歌です。夜、旅寝の床で、昼に見かけた、いかにも頼りない粗末な舟が、今夜はどこで舟泊まりしているのかを想う。それは、そのまま旅をする我が身の拠り所のなさ、不安定さを吐露した部分もあったのでしょう。「棚なし小舟」は船べりの横板もない、粗末な小舟。「廻(た)む」は巡る、の意。

                    <文武天皇の難波離宮への旅>
                    六四.志貴皇子

                    「葦辺行く 鴨のは羽交(はが)ひに 霜降りて 寒き夕は 大和し思ほゆ」
                    歌意は、葦の間を縫って泳いでいく鴨の羽に霜が降って、寒く冷え冷えする夜は、ふるさとの大和がしきりに想われます。
                    文武天皇(持統天皇の孫、軽皇子)にお供して、志貴皇子が難波離宮へ旅したときの歌です。難波の葦は古来から有名でした。「羽交ひ」は、鳥の背中で翼の先が交差する部分。
                    当時の暦で9月末から10月初め、晩秋から初冬にかけての旅でした。寒い時期のたびの夜は殊更に淋しい。鴨の羽に降る霜はいかにも冷たそうで、夜の底冷えが伝わってきます。そんなとき、ひたすら思われるのは故郷であり、残してきた家族、妻や子供のことでしょう。自分の帰りを待っている人を想うとき、胸の奥がぽっと温かくなるようです。

                    <磐姫(いわのひめ)伝説>
                    八五.磐姫皇后(いわひめのおおきさき)

                    「君が行き 日長くなりぬ 山尋ね 迎へか行かむ 待ちにか待たむ」
                    歌意は、あなたが行かれてから何日も経ってしまいました。山の中を尋ねてお迎えに行こうかしら、それともじっと待っていようかしら。
                    八六.磐姫皇后
                    「かくばかり 恋ひつつあらずば 高山の 岩根しまきて 死なましものを」
                    歌意は、こんなふうに恋い続けていないで、いっそ高い山の岩を枕に死んでしまいたいのに。
                    八七.磐姫皇后
                    「ありつつも 君をば待たむ うち靡(なび)く 我が黒髪に 霜の置くまでに」
                    歌意は、このままいつまでもあなたをお待ちしましよう。長くなびく私の黒髪が白くなるまで。
                    八八.磐姫皇后
                    「秋の田の 穂の上に霧(き)らふ 朝霞 いつへの方に 我が恋(こい)やまむ」
                    歌意は。秋の田の頭(こうべ)を垂れた稲穂の上に、重くわだかまっている朝霞…。私の恋心はいったいどこへ消えてゆくのでしょう…、とても消えていきそうにありません。
                    仁徳天皇の皇后、磐姫皇后の作と伝えられる4首です。「死なましものを」は、事実と違うことを仮想して、「~だったらよいのに、でも実際は違う」という意。「霜の置くまで」は白髪になるまで。「霧らう」は「霧(き)=霞が立ったり、霧がかかったりする」という動詞に反復の助動詞「ふ」が付いた形。古代、霞と霧は区別がありませんでした。
                    一首目では、思い切って迎えに行こうか、我慢して待っていようかという二つの気持ちがせめぎあっています。そして二首目で、いっそ死んだ方が増しだと激しく昂ぶる想いを露わにしています。しかし三首目では気持ちは静まって、ひたすら待とうと思い冷静さを取り戻しています。最後の歌は、それでも、この晴らしようもない気持ちをどうしたらいいのか、と重く垂れ込める霧に重ね合わせ表現しているのです。
                    『古事記』や『日本書紀』には、磐姫皇后はひどく嫉妬深い女性として描かれています。仁徳天皇が侍女や妃を宮殿に入れることを許さず、ふだんと違う気配があると地団駄を踏んで嫉妬したといいます。

                    <鏡女王の忍ぶ恋>
                    九二.鏡女王(かがみのおおきみ)

                    「秋山の 木の下隠り 行く水の 我れこそ増さめ 思ほすよりは」
                    歌意は、秋の山の木の落ち葉の下を、隠れてそっと流れてゆく水のように、あなたが私を想ってくださるよりは、表には見えないけれど私の方こそ、より深くお慕いしています。
                    散り敷いた落ち葉の下に流れる水は表面からは見えないけれど、次第に水かさを増していく。それと同じように私も人目を避けて忍ぶ恋をしているが、水の流れが途絶えないように想い続けています-という慎ましい恋心を詠っているのです。
                    この歌は天智天皇が、
                    (九一.天智天皇)
                    「妹(いも)が家も 継ぎて見ましを 大和なる 大島の嶺(ね) 家もあらましを」(愛しいあなたの家だけでも見続けることができたらなあ。大和の大島の高い嶺にあなたの家があれば、いつも見られていいのに)と詠んだのに答えた歌です。
                    鏡女王は額田王の姉、あるいは舒明天皇の皇女ともいわれています。初め天智天皇の室。しかし、天智天皇の心がだんだん離れていき、やがて史料によると、後に藤原鎌足が妻として賜ったという。

                    <雪の朝 天武天皇と藤原夫人の贈答>
                    一〇三.天武天皇

                    「我が里に 大雪降れり 大原の 古(ふ)りにし里に 降らまくは後」
                    歌意は、我が里(飛鳥浄御原)に雪が降ったぞ。お前の住んでいる大原の古びた里に降るのはずっと後のことだろう。
                    一〇四.藤原夫人
                    「我が岡の おかみに言ひて 降らしめし 雪のくだけし そこに散りけむ」
                    歌意は、あら、どういたしまして、こちらにもちゃんと降っていますよ。あなたのところに降った雪は、うちの岡の水神にお願いして降らせてもらった雪の砕けたかけらがそちらに降ったのでしょう。
                    天武天皇と藤原夫人の軽口の応酬といった趣の贈答歌です。二人が我が里、我が岡と言い合っていますが、飛鳥浄御原と大原は1キロも離れていないのです。その日、同じように雪が降ったということを、軽口で詠んだのです。
                    藤原夫人は藤原鎌足の娘、大原大刀自(おおはらのおおとじ)、別名・五百重娘(いおえのいらつめ)のことです。壬申の乱の後に、天武天皇の妃となり、新田部皇子をもうけました。天武天皇とは父と娘ほど年が離れていたようです。天武天皇の崩御後、異母兄の藤原不比等との間に麻呂をもうけました。

                    『菜根譚(さいこんたん)』は、ご存じの方も多いと思いますが、当サイト「壮・魂・慈・齢」が対象とする中高年の皆さんはもちろん、社会に出て間もない若い世代の方々にも心に響く、人生訓や座右の銘にしたくなるような、示唆に富んだ名言が散りばめられた名著の一つといえるでしょう。

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