阿部忠秋 家光・家綱時代 松平信綱と対極にあった実務・実力派老中

阿部忠秋 家光・家綱時代 松平信綱と対極にあった実務・実力派老中

 阿部忠秋は、徳川三代将軍家光の小姓を務め、そのまま老中に出世した人物だ。彼は、当時の失業・浪人問題や、社会治安対策に相当思い切ったことをやった、徳川幕府の安定期に出てきた新しいタイプの閣僚だった。三代家光、四代家綱の2代にわたって老中を務めた。同じく老中の阿部重次は従兄にあたる。忠秋の生没年は1602(慶長7)~1675年(延宝3年)。 阿部忠秋は父・阿部忠吉(阿部正勝の次男)、母・大須賀康高の娘の次男として生まれた。名ははじめ正秋、1626年(寛永3年)に徳川二代将軍秀忠の諱を一字拝領し、忠秋と名乗った。長兄の夭折により、家督を相続した。息子があったが夭折し、その後も子に恵まれず、従兄の阿部正澄(重次の兄)の子で、甥の阿部正令(まさよし、後に正能と字を改める)を養子として迎えた。

 忠秋は1651年(慶安4年)、由比正雪や丸橋忠弥らが起こした「慶安事件」後の処理では、浪人の江戸追放策に反対して就業促進策を主導して社会の混乱を鎮めた。その見識と手腕は明治時代の歴史家、竹腰与三郎の『二千五百年史』で「政治家の風あるは、独り忠秋のみありき」と高く評価されている。家光の側近の中で、性格が対照的だったのが松平信綱と、この阿部忠秋だ。信綱は“知恵伊豆”といわれ、頭が鋭く、口も達者で、動きもきびきびして、処世術もかなりうまいというタイプだった。これに対し、忠秋は“石仏の忠秋さま”といわれるくらい、ほとんど口も利かない、動きもゆっくりし、とくに処世術にかけては全くだめだった。

 信綱と忠秋、二人の性格を表すのにぴったりなこんな話がある。家光は猟が好きだった。よく鳥や獣を捕まえた。そして、獲物をみんなで食べるのが楽しみだった。ある日、鎌倉河岸の堀にカモがたくさん群れていた。これを見た家光は家臣たちに「カモを捕まえろ」といった。だが、銃がないので、まごまごしていると、家光は「石で打て!」といった。ところが、道はよく清掃されていて石もない。困った家臣たちは、そばにいた忠秋と信綱を見た。が、忠秋はぶすっとしたまま知らん顔をしていた。信綱は突然、道路わきの一軒の魚屋を指差し、「あの店先にハマグリがある。あれを石の代わりにしろ」と叫んだ。家臣たちは走り出し、魚屋から手に手にハマグリを掴んで堀に投げ始めた、魚屋の主人は呆気に取られて、見守っていた。カモがたくさん捕れ、家光も家臣もワイワイ言いながら行ってしまった。忠秋だけが残った。信綱が振り返って聞いた。「阿部殿、どうされた?」と。忠秋は、何でもない、と首を振った。全員が立ち去ると、忠秋は魚屋に行った。そして、店主に「すまなかったな、ハマグリの代金を払う。いくらだ?」といった。

 店主は驚いて、「とんでもない!将軍様のお役に立っただけで光栄でございます!代金は要りません」と手を振った。忠秋は「そうはいかない。お前たちの商売ものを石の代わりにしたのだ。払わせてくれ」といって、きちんと金を払った。そして、このことは城に戻っても、一切誰にも言わなかった。城に戻ると、カモ汁で大宴会だった。酔った家光が小姓の一人に、「お前、櫓から飛んでみろ」といった。小姓は真っ青になった。高い櫓から飛び降りれば死んでしまう。助けを求めるように回りを見回した。が、みんな目を合わせるのを避けた。「早く飛び降りろ!」家光はいら立つ。このとき忠秋がふいと立ち上がった。そして、廊下に出ると納戸から傘を一本出してきた。そして、小姓に突き出した。「おい、これをさして飛び降りろ」といった。座はどっと笑い出し、家光も苦笑した。そして「もうよい」と手を振った。

 が、これは家光にとっては痛烈な戒めだった。忠秋は庶民の食べるハマグリを石の代わりに使って、その代金も払わずにさっさと帰ってしまう驕り高ぶった家光の神経に、一撃を加えたのだ。まして、部下の命を座興の一つにするなどとは、とんでもないことだ、と忠秋は腹の中で怒っていたのだ。忠秋と信綱の性格を表すこんなエピソードもある。家光が、ある寺の僧を越前(福井県)の寺に転勤させようとしたことがあった。この命令を伝える役に二人が命ぜられた。信綱は理路整然と家光の命令を伝えた。しかし、僧はじっと考え込み、やがて「お話はよく分かりましたが、なぜ私が?」と聞き返した。信綱はむっとし「あなた以外いないからです」と応じた。

僧は「そんなことはありません。ほかにも適任者はたくさんおります」「いないからこそ、あなたにお願いしているのです」「ご辞退します」「上意ですぞ!」「いかなるお咎めを受けても、この転勤だけはお受けできません」僧も強情だ。信綱の眼は怒りに燃えた。が、こういう疑問にきちんと答えなければ、納得は得られない。まして、信綱のように権柄(けんぺい)ずくで押し付ければ、よけい反発する。空気は険悪になった。

 このとき、忠秋が「ご坊」と僧を見た。「はい」「あなたは先程、いかなるお咎めを受けてもと申されましな?」「申しました。どんな罰を加えられようとも、お受けできません」「よろしい」忠秋はニコリと笑った。そして「あなたは将軍様の命に背いたので、罰を科します。罰として越前の寺へ転勤を命じます」「えっ?」と驚いたのは僧よりも信綱の方だった。呆れて忠秋を見た。忠秋はまたいつもの石仏の顔に戻っていた。僧は苦笑した。そして、こう言った。「これは、知恵伊豆さまよりも阿部さまの方が一枚上ですな」僧は円満に越前に転勤して行った。

 簡単に忠秋の出世の足跡をたどると、1624年(寛永元年)、父の遺領6000石を継ぎ、1626年(寛永3年)加増され、1万石の大名となった。そして1635年(寛永12年)下野壬生藩2万5000石に転封され、老中となった。1639年(寛永16年)、武蔵忍藩5万石、1647年(正保4年)6万石、1663年(寛文3年)8万石となった。1666年(寛文6年)、老中を退任、1671年(寛文11年)隠居した。

(参考資料)童門冬二「人間の器量」、徳永真一郎「三代将軍家光」、綱淵謙錠「徳川家臣団」、中嶋繁雄「大名の日本地図」

ジョン万次郎 漂流してアメリカに渡り教育を受け、幕府通訳を務めた英才

ジョン万次郎 漂流してアメリカに渡り教育を受け、幕府通訳を務めた英才

 ジョン万次郎が、アメリカ東部フェアヘブンの町に上陸したのは、1843年(天保14年)春だった。当時、16歳になったばかりの四国土佐出身の漂流漁民・万次郎のことを、町の人々はジョン・マンと呼んで親しんだ。幕末、彼の乗り組んだ小さな漁船が嵐に遭わなかったら、この少年の名は恐らく歴史に記録されることはなかったに違いない。ジョン万次郎(中浜万次郎)の生没年は1827(文政10)~1898年(明治31年)。

 ジョン万次郎は1827年(文政10年)足摺岬に近い土佐国幡多郡中浜に生まれた。生家は代々の漁師だったが、万次郎が9歳のころ父を失ったため、彼は付近の漁師に雇われては、鰹釣りの手伝いなどをして家計を助けていた。高知城下に近い高岡郡宇佐浦の漁師、筆之丞の持ち船に乗り組んで、筆之丞、五右衛門、寅右衛門、重助の4人の仲間とともに土佐湾を出漁したのは、万次郎14歳の1841年(天保12年)正月だった。この日を境に、万次郎は10年にわたる数奇な漂流生活に巻き込まれるのだ。

 出漁3日目、嵐に巻き込まれた万次郎たちの漁船は、黒潮に乗って東へ東へと流され、やがて無人島に漂着した。伊豆南方の孤島、鳥島だ。5人の漂流民は島の洞穴で雨露をしのぎ、アホウドリを食べて命をつなぐこと40日余り、たまたま沖を通りかかったアメリカの捕鯨船に救助されたのだ。

万次郎は、その船長ホイット・フィールドの故郷、フェアへイブンで徹底的にアメリカ的な教育を受けた。万次郎にはもともと語学の才能があったようで、彼はたちまち英語をマスター、現地で高等学校まで行った。彼の旺盛な知識欲とその学力の高まりには、アメリカ人たちも驚いたほど。

彼はアメリカの政治、経済はじめ様々な制度を見聞し学び、いまでは23歳の青年になり、捕鯨船の一等航海士として押しも押されもしない船乗りになっていた。だが、彼にはどうしても諦めきれない思いがあった。日本への帰国だ。アメリカの進んだ制度や仕組みをどうしても日本に伝えたいと考えたのだ。そして1851年(嘉永4年)、ペリー来航の2年前、彼は帰国した。

鎖国下の幕末だったが、幸運にも彼は幕府に通訳として採用された。それは幸運が重なった結果だった。まず最初に上陸したのが、開明派の島津斉彬が藩主だった薩摩だったことだ。また、その当時の幕府の老中首座が、斉彬と仲のよかった阿部正弘だったことだ。そのため、彼は見聞したことは精細に説明を求められることはあっても、罪に問われることはなかったのだ。

大黒屋光太夫の例をはじめ、江戸時代、漁師が嵐に遭い遭難、漂流して外国に漂着した事例は何件かあるが、鎖国令のもとで、帰国が許されても軟禁状態に置かれたり、日本の社会にうまく溶け込めずに、半ば隔離された状態で後の生涯を送るケースも少なくない。だが、彼の場合は数少ない成功例といってもいいのではないか。

 米フェアへイブンで、万次郎は「何でもみてやろう」という旺盛な精神を持っていた。だからアメリカのいろいろな制度に注目した。とくに彼の関心を惹いたのは政治だ。政府の要人は全市民の選挙によって選ばれる、任期は4年だ。どんな身分の者でも大統領になれる。日本のような身分制度はない。

議会があって、これが市民の代表として市民のニーズを掲げ、互いに議論する。経済は資本主義で行われている。海外事情に飢えていた幕末の日本にとって、万次郎は大きな話題となったろう。島津斉彬や阿部正弘に会った際、彼はこうしたアメリカの様々な仕組みや制度を余すところなく語ったに違いない。

 島津斉彬からジョン万次郎のことを聞かされて、老中阿部は「ぜひ、その万次郎の話を聞きたい」といった。当時、これまで国際語だったオランダ語は、その座を滑り落ち、英語に変わっていた。しかし、日本には英語が読めたり話せたりする人間はほとんどいなかった。そこで、阿部は万次郎を幕府の通訳に使えないかと考えたのだ。万次郎は幕府に召し出され、新しく設けられた蕃所調所(ばんしょしらべしょ)に通訳として採用された。

 老中阿部は、万次郎を土佐藩に預けた。だが、土佐藩は万次郎の始末に困り、当時海外のことに強い関心を持っているといわれていた高知の画家、河田小龍(かわだしょうりゅう)に預けた。知識欲が旺盛な河田は、毎日飽きずに万次郎の話を聞いた。河田は万次郎から聞き取りした内容を著作にまとめ、画家だけに挿絵をいれて、藩に提出している。そして、この河田小龍のところによく遊びにくるのが坂本龍馬だった。この小龍が後年、龍馬が「亀山社中」(のち「海援隊」)を始めるヒントを与えたといわれる。

 ジョン万次郎は、非常に適応力に富んだ人物だった。帰国直後、彼は日本語を忘れていた。また元来、日本語の読み書きはできなかった。ところが、彼は当時の日本の多くの知識人に取り囲まれるわけで、帰国当初はコミュニケーションにも苦労したことだろう。しかし、彼は短期間に適応し、知識の力で階段を駆け登るようにステータス(地位)が上がっていく。それで最後は開成学校(後の東京大学)の教職に就いている。生来の図抜けた適応力が、土佐の雇われ漁師を、異例の大学教授にまで押し上げる原動力となったのだ。

(参考資料)安岡章太郎「日本史探訪⑱海を渡った日本人」、童門冬二「江戸商人の経済学」、津本 陽「椿と花水木」

細川勝元 名門出身の若き陰謀家で、室町・幕政に影響力を及ぼし続ける

細川勝元 名門出身の若き陰謀家で、室町・幕政に影響力を及ぼし続ける

 細川勝元は13歳で家督を継承、16歳で管領職に就任、以後3度にわたり、通算23年間も管領職を歴任し、室町幕府の幕政に影響力を及ぼし続けた人物だ。また、彼は京の地を焦土と化した、不毛の戦役、「応仁の乱」の東軍の総大将だったことは周知の通りだ。細川勝元は、三管領の一つ、細川氏嫡流の父・細川持之の嫡男として生まれた。幼名は聡明丸。通称は六郎。正室は山名宗全の娘、春林寺殿。勝元の生没年は1430(永享2)~1473年(文明5年)。

 細川氏は初代、義秀が三河国額田郡細川郷(現在の岡崎市)に居住したところから、地名を氏とした。足利尊氏に従って軍功があり、とくに六代・頼春は尊氏の側近となり、阿波、備後の守護に任命された、以後、細川氏は阿波、讃岐、摂津、丹波など畿内周辺と四国7~8カ国の守護職となり、惣領家は室町幕府の三管領(細川氏、斯波氏、畠山氏)の筆頭となった。

 勝元は1442年(嘉吉2年)、父が死去したため13歳で家督を継承した。このとき室町幕府の第七代将軍・足利義勝から偏諱を受けて勝元と名乗り、叔父の細川持賢に後見されて、摂津、丹波、讃岐、土佐の守護職となった。1445年(文安2年)、畠山持国に代わって16歳で管領職に就任すると、以後3度にわたって通算23年間も管領職を歴任した。勝元が管領職にあったのは1445年(文安2年)から1449年(宝徳元年)、1452年(享徳元年)から1464年(寛正5年)、1468(応仁2年)から死去する1473年(文明5年)までだ。

 勝元は当初、山名宗全(持豊)の女婿となることで、宗全と結んで政敵・畠山持国を退けるなど、宗全との協調によって細川氏の勢力維持を図り、幕政の実権を掌握した。しかし、「嘉吉の乱」(1441年)で没落した赤松氏の再興運動が起こると、勝元はこれを支援したため、赤松氏と敵対関係にある宗全とも対立するようになった。また、勝元は畠山政長と畠山義就による畠山氏の家督争いには政長派を、斯波義廉と斯波義敏の家督争いには義敏派を支持するなど、宗全とことごとく対立。さらには足利義視と足利義尚の、八代将軍・足利義政の後継争いにおいて、勝元は義視を支持。山名宗全は義尚とその母・日野富子に与したため、両派の対立は一層激化した。

 これらは、すべて名門出身の若き陰謀家・細川勝元が、山名宗全の勢力拡大を抑えるため、実は意識的に取った戦略だった。そして、この対立が、やがて有力守護大名を巻き込み、「応仁の乱」を引き起こしたことは周知の通りだ。いずれにしても、1467年(応仁元年)~1477年(文明9年)の11年間にわたる「応仁の乱」により、京の都は廃墟と化した。義理の父親で、26歳年上の山名宗全に対しては、徹底して陰謀家あるいは策謀家の顔をみせた勝元だが、禅宗に帰依し、京都に龍安寺、丹波国に龍興寺を建立している。また、和歌・絵画などを嗜む文化人でもあった。医術を研究して医書『霊蘭集』を著すなど多才だったという。

(参考資料)井沢元彦「逆説の日本史⑧中世混沌編」、童門冬二「日本史に刻まれた最期の言葉」

千葉周作 北辰一刀流の創始者で 水戸藩の剣術師範を務める

千葉周作 北辰一刀流の創始者で 水戸藩の剣術師範を務める

 千葉周作は江戸時代、先祖伝来の「北辰無想流」を発展させた「北辰一刀流」の創始者で、千葉道場の総師範だ。その道場、玄武館は幕末三大道場の一つとして知られ、この北辰一刀流門下から多数の幕末の著名人を輩出した。千葉周作の姓は平氏。名字は千葉、通称は周作、諱は成政。生没年は1793年(寛政5)~1856年(安政2年)。出生地には岩手県陸前高田市、宮城県栗原市花山の2つの説がある。先祖をたどると、桓武平氏・良文の流れで、坂東八平氏の名門の一つ千葉氏で、千葉常胤にたどりつく。

 周作は7、8歳のころから父について家伝の北辰流を習い、その偉才ぶりを発揮した。15歳のとき、一家は江戸を目指して出郷。水戸道中松戸宿(現在の千葉県松戸市)に落ち着き、父は浦山寿貞(じゅてい)と号して馬医に、周作・定吉兄弟は中西派一刀流の浅利又七郎義信のもとに入門した。やがて非凡の才を認められて、江戸の宗家、中西忠兵衛子正(つぐまさ)に学び、寺田宗有(むねあり)、白井亨(とおる)、高柳又四郎らの指導を受けて、修行3年で免許皆伝を許された。

 1820年(文政3年)、周作は27歳のとき北関東から東海地方への廻国(かいこく)修行を試み、各流各派の長短得失を知り、伝統的な一刀流兵法を改組する必要性を痛感した。そこで、周作は1822年(文政5年)、北辰・一刀流を合わせ、さらに創意を加えて「北辰一刀流」を標榜し、日本橋品川町に道場を開き、玄武館と称した(後に神田於玉ヶ池に移転した)。この玄武館は、初代・斎藤弥九郎が1826年(文政9年)九段下の俎橋付近に開設した練兵館(神道無念流)、桃井春蔵が京橋河岸に開設した士学館(鏡新明智流)とともに、幕末江戸三大道場と呼ばれた。これらの三大道場にはそれぞれ特徴があって、練兵館は「力の斎藤」、士学館は「位の桃井」、そして玄武館は「技の千葉」と称された。

ところで、周作の弟、定吉は京橋桶町に道場を持って、「桶町千葉」と称された。北辰一刀流門下から坂本龍馬、山岡鉄太郎(後の鉄舟)、清河八郎(浪士組幹部)、さらに新選組幹部の藤堂平助、山南敬助、伊東甲子太郎らを輩出している。また、練兵館からは桂小五郎(後の木戸孝允)、高杉晋作ら長州藩士を中心とした面々、士学館からは武市半平太、岡田以蔵らが出ている。

 北辰一刀流は精神論に偏らず、合理的な剣術だったため人気を得た。それまでの剣術は、習得までの段階が8段階で、費用も時間も多くかかるのに対し、北辰一刀流の教え方は主に竹刀を使用し、段階を3段階と簡素化したことが大きな特徴だ。坂本龍馬は安政年間、この江戸・千葉定吉道場で剣術修行した。1856年(安政3年)8月から1858年(安政5年)9月まで籍を置いた。そして、千葉定吉より「北辰一刀流長刀兵法、一巻」を授かっている。

 1835年(天保3年)、周作の盛名を聞きつけた水戸藩前藩主の徳川斉昭の招きを受けて剣術師範とされ、馬廻役として100石の扶持を受けた。また、弟の定吉は鳥取藩の剣術師範となっている。

(参考資料)司馬遼太郎「北斗の人」、津本陽「千葉周作」、宮地佐一郎「龍馬百話」

保科正之 名君と誉れ高い会津藩藩祖だが、評価は“割引”が必要

保科正之 名君と誉れ高い会津藩藩祖だが、評価は“割引”が必要
 会津藩藩祖の保科正之は、徳川二代将軍秀忠の隠し子という血筋の確かさから、また三代将軍家光の死に際して、四代将軍家綱の後見役を仰せつかり、理想的な名君と誉れ高い存在だが、果たしてどうか?生没年は1611~1672年。
 会津藩主としての保科正之の評判はいい。これは、高遠藩3万石から山形藩20万石という破格の加増によって、家臣の給与を3倍から4倍に上げたからだ。戦いで命を張ったわけでも、民政で功労があったのでもないのに、禄高がこれだけ上がれば、藩士や領民が“名君”と感謝感激しても当たり前だ。さらに、会津に23万石で転封されたときも、2割から3割もの加増が一律に行われている。
 飢饉対策として、正之が儒学者・山崎闇斎の助言で古代中国に倣って社倉(米や麦を貯蓄する倉)制度を推進したのはそれなりに成功したが、これも手放しで評価できない部分がある。というのは、これは一種の強制預金で、運用の仕方では租税に上乗せした収奪になりかねないからだ。また、90歳以上の高齢者に生活費を与えたのはすばらしい高齢者対策で、「国民年金の創設」などというのも、ちょっと的外れの評価といわざるを得ない。当時の90歳以上など現在の100歳以上より少なかったはずで、そのような全く例外的扱いをもって福祉対策が充実していたなどと表現することはおかしい。
 幕政の担当者としての事績をみると、「殉死の禁止」「大名証人制の廃止」「末期養子の許可」が四代将軍家綱のもとでの三大美事とされ、正之の功績とされている。殉死は戦場で功を立てることが難しくなったこの頃になって急に流行りだしたものだ。殉死者は家康にはいなかったし、秀忠にも一人だけだった。ところが、家光の死に際して5人になった。そこで、この愚劣な流行を抑制すべきというのは当たり前の考え方だ。
大名証人制の廃止は、主要35藩の家老嫡子の江戸在住だけが廃止されたのであって、決して大名家族の人質政策が廃止になったのではない。末期養子の許可は、嫡男がいないだけでお家取り潰しするのは、もともと厳しすぎる、極端な政策だったから緩和は妥当だ。ただこの廃止により、できの悪い大名を残すことになった。そして石高の固定化は、大名についても一般の武士や庶民についても、有為な人材にとってチャンスが少なくなることを意味した。
まだある。明暦の大火(1657)の後、蔵金が底を尽くという批判をものともせず、罹災者に救援金を与えたことや、江戸の大々的な都市改造を行ったことも美談とされる。しかし、その結果、家光時代に金銀だけで400万両から500万両、物価水準を考えると、およそいまの1兆円の蓄えがあったのを、ほぼ使い果たしてしまった。単なるばらまきで財政を破綻させたのだ。
刑罰の軽減化などに具体化された独特の「性善説」に基づく正之の哲学は、ユニークで魅力があり、江戸時代の名君の原型に挙げる人が少なくない。ただ、あるべき指導者の姿としての「名君」としては、かなり割り引いて考えざるを得ない。カネと権力あればこその「名君」だったといえるのではないか。

(参考資料)八幡和郎「江戸三百藩 バカ殿と名君」、司馬遼太郎「街道をゆく33」

 

槇村正直 東京奠都後の京都の近代化政策を推進した中心人物

槇村正直  東京奠都後の京都の近代化政策を推進した中心人物
 槇村正直(まきむらまさなお)は明治時代初期、東京奠都で衰退しつつあった京都の近代化政策を強力に推進した中心人物だ。当時、全国に先駆けて行おうとしたものも少なくなかった、槇村の施策に呼応した「町衆」と称される商工業者たちにより、京都の近代化が確立していった。槇村の生没年は1834(天保5)~1896(明治29年)。
 槇村正直は山口県美東町出身。長州藩士羽仁正純の二男として生まれ、槇村満久の養子となった。初名は半九郎、のち龍山と号した。
 槇村の出世は藩閥を抜きには語れない。1868年(明治1年)、長州出身で維新政府の要職に就いた木戸孝允は、幕末時代から連絡役として重用してきた同じ長州出身の槇村を京都府に出仕させ、政治の世界の経験に乏しい初代京都府知事の長谷信篤の補佐をさせた。槇村は議政官試補皮切りに、徴士・議政官、大阪府兼勤。そして権弁事を経て京都権大参事となった。1870年の小野組転籍事件に関連し、謹慎を命じられたが、その後、34歳の若さで1871年、京都府大参事となり、実質的に京都府の政治の実権を左右できる立場になった。長谷知事退任に伴い、1875年京都府権知事になり、1878年第二代京都府知事(1875~1881年)に就任した。彼は会津藩出身の山本覚馬と京都出身の明石博高ら有識者を重用して、果断な実行力で文明開化政策を推進した。
 槇村が行った主な京都近代化政策は①1869年(明治2年)、小学校の開設②1870年(明治3年)、舎蜜局(せいみきょく)の創建③1871年(明治4年)、京都博覧会の開催④1872年(明治5年)、都をどりの創設⑤1872年(明治5年)、新京極の造営⑥女紅場(にょこうば)の創建-などだ。
全国に先駆けて学区制による小学校開設に着手し、町組ごとに64校の小学校をつくった。大阪市本町の舎蜜局とは独立して、京都における舎蜜局(理化学工業研究所)を明石博高の建議により、京都の産業を振興する目的で、槇村が勧業場の中に仮設立した。理化学教育と化学工業技術の指導機関として、ドイツ人科学者ワグネルら外人学者を招き、島津源蔵ら多くの人材を育て京都の近代産業の発達に大きく貢献した。博覧会は日本で最初で、三井八郎衛門や小野善助、熊谷直孝ら京都の有力商人により主催され、西本願寺を会場に1カ月間開催され入場者は約1万人。
 都をどりは槇村の提案で京都博覧会の余興として開催された。これにより、本来座敷舞だったものを舞台で大掛かりに舞うようになった。新京極は寺町通の各寺院の境内を整理して、その門前の寺地を接収して寺町通のすぐ東側に新しく1本の道路をつくり、恒常的に賑わう繁華街をつくり上げた。女紅場は女子に裁縫、料理、読み書きなどを教えるため設立された日本で最初の女学校だ。
 こうして生産機構や技術面で飛躍的な発展を遂げた京都の産業は、海外貿易などでも躍進を遂げた。これは槇村の積極的な助成と西洋の技術文化導入による近代化の成果だった。ただ、近代国家の体制ができ上がり、地方政治の制度が整ってくると、槇村の裁量権の幅も次第に縮小し、やや強権的な政治手法は新たにできた府議会などとの対立も引き起こした。
 槇村は1881年(明治14年)辞表を提出、知事の座を北垣国道に譲って京都を去った。そして東京へ移って、元老院議官となり、行政裁判所長官(1890~1896年)、貴族院議員(1890~1896年)などを歴任した。

(参考資料)奈良本辰也「男たちの明治維新」