徳川斉昭・・・藩政改革に成功したが、幕政で井伊直弼と対立し急逝

 徳川斉昭は幕末、第九代水戸藩主として藩政改革に成功した名君の一人だ。海防参与、軍制改革参与などを務め幕政にも関与したが、将軍継嗣問題と米国との通商条約調印問題などで大老・井伊直弼と対立。謹慎を命じられ幕府中枢から排除された。

また、攘夷決行を巡って尊王思想の「水戸学」の本家、水戸藩に密勅を下されたことが大老・井伊直弼の逆鱗に触れ、斉昭は水戸での永蟄居を命じられ、事実上政治生命を断たれた形となった。そして、蟄居処分が解けないまま、心筋梗塞により急逝した。諡号・烈公の通り、気性の激しい、強烈な個性が災いし、死期を早めたとみられる。

 徳川斉昭は水戸藩第七代藩主・徳川治紀の三男として、水戸徳川家の江戸小石川藩邸で生まれた。幼名は虎三郎、敬三郎。諡号は烈公、字は子信。号は景山、潜龍閣。徳川第十五代将軍慶喜の実父。妻は有栖川宮熾仁親王の皇女、登美宮吉子。斉昭の生没年は1800(寛政12)~1860年(万延元年)。

 斉昭は幼少時から会沢正志斎のもとで、尊王思想「水戸学」を学び、聡明さを示した。1829年(文政12年)、長兄で第八代藩主・徳川斉脩の死後、家督を継ぎ、第九代藩主となった。この際、大名昇進を画策する附家老の中山信正を中心とした門閥派より、徳川第十一代将軍家斉の第20子・恒之丞(徳川斉彊)を養子に迎える動きがあったが、これを抑えて下士層の支持を得た。

 斉昭は藩校「弘道館」を設立し、下士層から広く人材を登用することに努めた。こうして戸田忠太夫、藤田東湖、安島帯刀、会沢正志斎、武田耕雲斎、青山拙斎ら、斉昭擁立に加わった比較的軽輩の武士を用い、藩政改革を断行した。1837年(天保8年)、斉昭が掲げた改革骨子は1.経界の義(全領検地)2.土着の義(藩士の土着)3.学校の義(藩校弘道館及び郷校建設)4.総交代の義(江戸定府制の廃止)-だ。また、「追鳥狩」と称する大規模軍事訓練を実施したり、農村救済に稗倉の設置などに取り組んだ。このほか、幕府に蝦夷地開拓や大船建造の解禁などを提言している。その影響力は幕府のみならず、全国に及んだ。

 斉昭は1844年(弘化元年)子の慶篤(よしあつ)に藩主の座を譲る。だが、決して楽隠居するためではなかった。その後は、自ら提言することも含め、幕政に様々な形で関与していく。海外の列強諸国の動きを見据え、恐らく性格的に幕政を黙視していることができなかったのだろう。

 1853年(嘉永6年)、ペリーの浦賀来航に際して、老中首座・阿部正弘の要請により、海防参与として幕政に関わったが、水戸藩の立場から斉昭は強硬な攘夷論を主張した。このとき江戸防備のために大砲74門を鋳造し、弾薬とともに幕府に献上している。1855年(安政2年)、軍制改革参与に任じられるが、同年の「安政の大地震」で藤田東湖や戸田忠太夫らのブレーンが事故死してしまうなどの不幸に遭った。そして、その後は誇らしい場面で脚光を浴びることはなかった

 1857年(安政4年)、阿部正弘が急死して、堀田正睦が老中首座になると、開国論に対して斉昭は猛反対し、開国を推進する大老・井伊直弼と対立。また、十三代将軍家定の継嗣に実子の一橋慶喜が候補に上ると、紀州・慶福派(のちの徳川十四代将軍家茂)に対する、一橋派の黒幕として登場。今度は大老・井伊直弼と対立し、謹慎、水戸での永蟄居を命じられ、事実上政治生命を断たれた。「安政の大獄」だ。そして、無念の思いが高じてか、激しい気性が災いし、蟄居処分が解けないまま急逝した。死因は心筋梗塞と伝えられる。

(参考資料)中嶋繁雄「大名の日本地図」、童門冬二「私塾の研究」

武市半平太・・・参政・吉田東洋暗殺の首謀者 藩政改革の志半ばで切腹

 武市半平太(たけちはんぺいた)は土佐勤王党の盟主で幕末、土佐藩政を担った公武合体派の参政、吉田東洋の暗殺を指示。その後の土佐藩を主導しようとしたが、“暗殺”という非常手段に訴える、その激烈な手法が明るみに出るに及んで支持を得られず、東洋暗殺の首謀者として真相発覚後、志半ばで死んだ。

しかし、彼は単なるテロリストの頭目だったわけではない。西南雄藩、とりわけ薩摩・長州両藩が表面的には討幕へ統一されていくのにひきかえ、土佐藩内が藩上層部および上・下士がばらばらで、これでは薩長と伍していくことができないと判断。そうした焦慮の思いから、短絡・直情的に事を運び断行したものとみられている。では実際に、彼は直情径行的な人物だったのか。いや、周囲の情勢を見極めたうえでも、そうした行動を取らざるを得なかったのか?半平太の生没年は1829(文政12)~1865年(慶応元年)。

 武市半平太は土佐長岡郡仁井田郷吹井(ふけい)村で、郷士・武市半右衛門正恒の長男として生まれた。幼名は鹿衛、諱は小楯(こたて)、号は瑞山。通称半平太。身長六尺、鼻が高く顎が張って、色は白く喜怒が分かりにくい容貌だったといわれる。武市家はもともと土地の豪農だったが、身分は低く、半平太より5代前の半右衛門が1726年(享保11年)、郷士に取り立てられた「下士」の家だ。

後に半平太は上士格に昇格するが、これも「白札」という身分としては郷士だが、当主は上士に準ずるといった扱いだった。幕末においても土佐藩では上士・下士の間で動かし難い、また厳しい階級・身分格差があった。そのため、「下士」身分の者は生涯、「上士」の者からは動物と同等の卑しい者と見なされ、たとえどのような理不尽なものであれ、「上士」に斬り殺されても「下士」の者は口ごたえすることは許されず、苦しめられていた。

 1856年(安政3年)、半平太は江戸の桃井春蔵の門に入り、鏡心明智流を学び、その後、剣客として知られるようになった。そして文久元年、長州の久坂玄瑞、薩摩の樺山三円らと会して薩長土三藩が提携し、尊攘運動を推進することを約束して、帰国。「土佐勤王党」を結成し、盟主となった。その盟約書には坂本龍馬はじめ中岡光次(慎太郎)、間崎哲馬(滄浪)、浜田辰弥(田中光顕)、平井収二郎ら192名が署名血判しており、そのほとんどが終身二人扶持の武市と同じような身分の低い「下士」である郷士・庄屋・従士・足軽階級の若者だった。

 半平太はまず当時、土佐藩政を握っていた公武合体・開国派の参政、吉田東洋を那須信吾、大石団蔵、安岡嘉助に指示、暗殺させ、その首を城下雁切橋のたもとに晒した。そして、彼は諸藩の有志と接触し、勅使・三条実美、姉小路公知の雑掌、柳川左門と名乗って随うなどの活躍で同志の間に重きを成し、上士格に出世した。この頃がいわゆる「天誅」が横行する時期の始まりだ。彼は吉田東洋暗殺による藩首脳人事の変化をみて、暗殺という非常手段の効果の大きさを知ったのだ。したがって以後、配下の岡田以蔵、薩摩の田中新兵衛らによる一連の「天誅」「斬奸」は、必ずしもすべてが半平太の指示によるものではないが、彼が深く関与していたものとみられる。

 土佐藩主後見役の山内容堂は、勤王党による「天誅」「斬奸」が横行している状況を苦々しい思いでみていた。ただ、対策として打つ手はなかった。ところが、事態は京都の「八月十八日の政変」(1863年)を境に激変する。この政変でこれまで朝議をリードしていた長州藩は京都政界から追われ、三条実美ら七人の公家が長州に落ちたためだ。

昨日までの正義派は一夜にして、朝廷の不興を被っている者どもということになったのだ。容堂にとっては、待ちに待った機会だ。「天朝に対し奉って、そのままにさしおき難き不審の者ども」という名目で、半平太をはじめ勤王党の主だった者数人に出頭を命じ、一網打尽に入牢させた。

 東洋暗殺の下手人は誰か?厳しい取り調べが始まった。拷問も行われたが、誰も白状しない。藩庁では苦慮していた。ところが、岡田以蔵が京都で捕えられて国許に移送されてきたことで、事態は急変。以蔵が拷問に耐えられず、白状したため遂に一切が明らかになり、半平太以下処刑される。半平太は切腹、岡田以蔵は梟首、岡本次郎、村田忠三郎、久松喜代馬は斬首、その他は永牢となった。1867年(慶応元年)のことだ。

 この事件は土佐勤王党を壊滅させた。同党の同志は藩庁の処置を憤って反抗したため、捕えられ斬首され、生き残った連中はそのほとんどが脱藩してしまったからだ。維新運動の末期に、土佐藩は薩摩・長州両藩と協力して、後藤象二郎は大政奉還運動の立役者となり、板垣退助は藩兵を率いて伏見・鳥羽に戦い、東征し会津にも行って武功を立てているが、二人とも「上士」出身で、この時点ではアンチ武市派で、勤王党を迫害した仲間だ。

(参考資料)海音寺潮五郎「幕末動乱の男たち」、司馬遼太郎「司馬遼太郎が考えたこと 4」、司馬遼太郎「歴史の中の日本」、童門冬二「坂本龍馬の人間学」

徳川宗春・・・独自の藩“経営”ビジョンで将軍吉宗に目一杯反抗

 尾張藩七代目藩主・徳川宗春は、御三家の立場にありながら、「享保の改革」を断行した徳川幕府八代将軍・徳川吉宗に、目一杯反抗した稀有な藩主だ。そのため、吉宗の逆鱗に触れ、最終的に宗春は監禁され、死後、墓石にまで金網がかけられた。そして尾張藩藩祖の義直(家康の九男)の血筋は絶えて、吉宗の子孫が藩主になった。そうした事実をつなぎ合わせていくと、宗春には当然バカ殿のレッテルが張られ、愚かな主君だったと思われ勝ちだが、果たしてどうか?生没年は1696(元禄9年)~1764年(明和元年)。

 尾張藩藩祖・徳川義直は、二代将軍秀忠の三男・忠長が自害して、三代家光の長男・家綱が生まれるまでは、将軍後継候補No.1だった。また、六代将軍家宣は家継という実子があるにもかかわらず幼少だったため、尾張藩四代目の吉通に将軍位を譲ろうとしたほどだ。ところが、吉通は七代将軍になった家継より先に死んだので、八代将軍に経験豊かな紀州藩の吉宗がなってしまったという経緯があるのだ。それだけに、宗春には吉宗に対して様々に含むところがあったわけだ。

こうした背景もあって宗春は、幕府財政を立て直すためとはいえ、家財道具から衣服、それに祭礼などの行事、賭博や男女関係の乱れに対してまで、こと細かく藩士・領民に“強いる”だけの吉宗の倹約令に対抗。彼らを精一杯働かせるためには、ストレスを発散できる場や施策も必要と判断。吉宗の倹約令を無視して自らも範を示すべく贅沢な生活をし、藩士にもそれを許し、規制を緩和し、遊興も奨励した。

したがって、宗春は表面的にはバカ殿呼ばわりされるが、事実は違ったのだ。吉宗とは異なった、独自の藩経営ビジョンを持っていた藩主だったといってよい。その証拠に、彼は死刑の執行を停止するというユニークな政策も実行している。宗春の考え方を記したものに「温知政要」という本がある。この中で「慈」「忍」について説いている。これが彼の藩政を与かる根本の思想だった。この思想自体は当時、儒教を学んだ者が考え得るものだったかも知れないが、彼が他の人々と違っていたのは、この思想を人間尊重の最も深いところで捉えていたということだろう。

この結果、名古屋の町には倹約令にあえぐ三都から芸人や遊女たちが流れ込み、活況を呈した。名古屋が東京、大阪とは異なる、独自の気風を持ち、大消費都市として三都に続く存在になったのは、ひとえにこの宗春の時代の遺産なのだ。また、名古屋城の天守閣は、1657年に江戸城の寛永年間建造の天守閣が明暦の大火で焼亡してから、1931年に大阪城天守閣が鉄筋コンクリートで再現されるまで、274年もの間、日本最大の城郭建築だったのだ。

時の為政者(吉宗)からは完全に異端児と見做され、屈辱的とも思える“バカ殿”のレッテルを張られ、成敗の対象となった宗春だが、その実、お仕着せの政策を排除し、藩士・領民に極めて近い感覚を持った名君だったのかも知れない。

(参考資料)海音寺潮五郎「悪人列伝」、八幡和郎「江戸三百藩 バカ殿と名君」
      奈良本辰也「叛骨の士道」、神坂次郎「男 この言葉」、大石慎三郎「徳川吉宗とその時代」

竹中半兵衛・・・元の主君には柔弱・愚鈍の人物が、「天下人」の軍師に

 竹中半兵衛は羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の参謀として活躍した名将だ。秀吉が仕えた織田信長に、家臣として仕えるように請われたが、これを断り、後に「天下人」となる秀吉の器量を見込み、参謀として仕えた。その戦(いくさ)上手は稀有な存在で、黒田孝高(官兵衛)と並んで戦国時代を代表する軍師として知られる。半兵衛の生没年は1544(天文13)~1579年(天正7年)。

 竹中半兵衛は美濃斎藤氏の家臣で不破郡岩手城主・竹中重元の長男として生まれた。名は重治、諱は重虎、ただし通称の「半兵衛」が有名。弟に重矩。従兄弟に竹中重利。子に竹中重門(しげかど)がいる。

 竹中半兵衛は1560年(永禄3年)、父の死去により家督を継ぎ、美濃菩提山城主となって、斎藤義龍に仕えた。1561年(永禄4年)、斎藤義龍が死去すると、その後を継いだ斎藤龍興に仕えた。しかし、この龍興が若年で凡庸だったために、家臣団が動揺。そんな状況を察知した織田信長の侵攻を受けることになる。ただ、ここで“知将”半兵衛が動く。1561年(永禄4年)、1563年(永禄6年)と2度にわたる織田勢の侵攻には、半兵衛の巧みな戦術で切り抜け、勝利した。

ところが、主君の龍興は酒色に溺れて政務を顧みようとしなかった。そこで、半兵衛はそんな主君に猛省を促すため、一計を案じ“ショック療法”に打って出る。大胆な「稲葉山城乗っ取り事件」がそれだ。彼は弟の重矩や舅の安藤守就ら一族16~17人の配下とともに、龍興の居城、稲葉山城(後の岐阜城)を、わずか1日で奪取することに成功する。あれだけ織田信長が攻めあぐんだ居城をである。半兵衛、19歳のときのことだ。

半兵衛が何故、このような“暴挙”とも思える挙に出たのか。それは、主君・龍興とその側近たちの半兵衛に対する評価、見方が関係している。半兵衛は少年のころから読書が好きだったばかりでなく、柔弱・愚鈍にみられたので、龍興は軽侮して、ややもすれば無礼をはたらいた。そのため、龍興の近習の者たちも半兵衛を軽く見て、折に触れては侮辱的な言動をした。この時代、男は強剛な上にも強剛、激烈な上にも激烈であることを良しとし、男たるもの絶えず煮えたぎっているような、激しい気概を持っているべきものと、皆が考えていたのだから、半兵衛はこれとは正反対だっただけに、双方にあつれきが生まれるのも無理はなかった。

こうして、日頃の汚辱を晴らすべく、心理作戦を織り込んだ、半兵衛の渾身の「稲葉山城乗っ取り作戦」が展開され、狙い通り稲葉山城は彼の手に帰した。城主・龍興は歯噛みをして悔しがりながらも、城外に逃げた。

 しかし半兵衛は半年後、稲葉山城を龍興に返還した。戦国の“下克上”の時代、主君に叛旗を翻し有力大名に伸し上がるケースも少なくないが、半兵衛の目的はそうではなかったのだ。彼は決して主君に叛旗を翻したのではないことを、身をもって示した。そして、自らは斎藤家を去り、北近江の浅井長政の客分として仕えたのだ。半兵衛が去った美濃斎藤氏は1567年(永禄10年)、信長の侵攻により滅亡した。

 この後、竹中半兵衛は浅井長政から、請われるままに羽柴秀吉へと主君を変え、秀吉の天下取りに向けた数々の戦場において、効果的かつ巧みな調略活動などで秀吉軍を勝利に導いた。1579年(天正7年)、播磨三木城の包囲中に病に倒れ、36年の生涯を閉じた。死因は肺炎もしくは肺結核という。

(参考資料)海音寺潮五郎「武将列伝」

伊達宗城・・・蘭学に傾倒した開明派で、軍制の近代化に着手

 伊達宗城(だてむねなり)は開明派の第八代宇和島藩主で、七代藩主宗紀の殖産興業を中心とした藩政改革を発展させ、木蝋の専売化、石炭の埋蔵調査などを実施した。また、開明派のこだわりがそうさせるのか、幕府から追われ江戸で潜伏していた蘭学者・高野長英を招き、さらに長州より村田蔵六(後の大村益次郎)を招き、軍制の近代化にも着手した。生没年は1818(文政元)~1892年(明治25年)。

 伊達宗城は大身旗本・山口直勝の次男として江戸で生まれた。母は蒔田広朝の娘。正室は鍋島斉直の娘・益子。祖父・山口直清は宇和島藩第五代藩主・伊達村候の次男で、山口家の養嗣子となった人物だ。宗城の幼名は亀三郎。1827年(文政10年)、参勤交代による在国に際し、宇和島藩主伊達宗紀の仮養子となった。1828年(文政11年)、宇和島藩家臣・伊達寿光の養子となったが、翌1829年(文政12年)、なかなか嗣子と成り得る男子に恵まれない藩主宗紀の養子となった。宗紀の五女・貞と婚約し、婿養子の形を取ったが、貞は早世してしまい婚姻はしなかった。

 宗城は1844年(天保15年)、宗紀の隠居に伴い藩主に就任した。宗城は福井藩主・松平慶永(隠居後、春嶽)、土佐藩主・山内豊信(隠居後、容堂)、薩摩藩主・島津斉彬とも交流を持ち、「幕末の四賢候」と称された。彼らは幕政にも積極的に口を挟み、老中・阿部正弘に幕政改革を訴えた。ところが、阿部正弘が急死し、事態は一転、四賢候ら開明派大名と幕閣との距離は一気に遠くなる。

1858年(安政5年)、第十三代将軍家定の将軍後継問題で対立する立場の井伊直弼が大老に就いたからだ。紀州藩主・徳川慶福(よしとみ)を推す井伊に対し、一橋慶喜を推した四賢候、水戸藩主・徳川斉昭らは真っ向から対立。井伊は大老の地位を利用し強権を発動、結局、慶福が十四代将軍・家茂になることになり、一橋派は排除された。いわゆる「安政の大獄」だ。これにより宗城は春嶽、斉昭らとともに隠居謹慎を命じられた。

 先代の宗紀は隠居後に実子の伊達宗徳をもうけており、宗城は宗徳を養子として藩主の座を譲ったが、隠居後も藩政に影響を与え続けた。謹慎を許されて後は再び幕政に関与するようになり、1862年(文久2年)、生麦事件の賠償金支払いに反対している。また島津久光とも交友関係を持ち、公武合体を推進した。

 1867年(慶応3年)、王政復古の後は新政府の議定(閣僚)に名を連ねた。しかし、1868年(明治元年)戊辰戦争が始まると、心情的に徳川氏寄りだったので薩長の行動に抗議、新政府参謀を辞任した。1869年(明治2年)、民部卿兼大蔵卿となって、鉄道敷設のため英国からの借款を取り付けた。

 宗城は長州から村田蔵六を招き、医学しか知らなかった彼にオランダ語の専門書を翻訳して、船を設計するよう命じた。一方で、和船に大砲を積んで砲撃実験を始め、さらに黒船に似た外輪を持つ人力の和船を取り寄せ、研究させた。肝心の蒸気機関は、城下にいた嘉造(後の前原巧山)という提灯屋の男を抜擢して、製作を命じた。藩を挙げての試行錯誤の末、遂に実験的な蒸気船が完成した。黒船来航からわずか3年後のことだ。一般には外国人技師を雇った薩摩藩の船が日本初の蒸気船とされているが、宇和島藩の船は日本人だけでつくった蒸気船の第一号だった。

(参考資料)司馬遼太郎「伊達の黒船」、司馬遼太郎「花神」、吉村昭「長英逃亡」

長井雅楽・・・幕末、一時は国論をリードするが挫折、不当に低い評価

 長井雅楽(ながいうた)は、幕末の長州藩にあって一時期、直目付(じきめつけ)の要職を務めるとともに、「航海遠略策」を建白して朝廷や幕府にも歓迎され、国論を開国に導こうとしたほどの傑物だ。ところが、当時、予想以上に激しさを増していた尊皇攘夷派と対立。その後、幕府の公武合体派老中らの失脚で、追い詰められ孤立。そして、時代の流れは彼に全く味方せず、悲しいことに最終的に長州藩の奸臣として切腹を命じられ、散った。享年45だった。

 司馬遼太郎氏は、「幕末の長州藩は多彩な人物を出したが、その中で長井雅楽を超えるほどの人物は容易に見あたらない。それほどの人物が時代の狂気に圧殺されたというか、実に困った死を遂げる」と記している。そして、長井について「非常な秀才で堂々たる美丈夫でもあり、人物も重厚で、しかも見識の高さは及ぶものがない」と絶賛している。そのため、藩では彼を抜擢し周布政之助という秀才官僚とともに、藩の対外政策面での推進者にした。長井は長州のホープのように期待され、桂小五郎(後の木戸孝允)なども水戸藩の志士に「わが藩は長井・周布という優れた両翼を持っている」と自慢したほどだった。

 長井雅楽は萩藩士大組士中老、長井次郎右衛門の長男として生まれた。諱は時庸、通称は雅楽のほか、与之助、与左衛門など。長井の始祖は、鎌倉幕府を支えた大江広元の次男で、主家の毛利家はその四男だったという。つまり、長井家の始祖は、主家と同格だというわけだ。したがって、長井家は毛利家臣団の中でも名門中の名門で、長井自身、藩主の信頼厚い重臣だった。長井の生没年は1819(文政2)~1863年(文久3年)。

 長井は1822年(文政5年)、4歳のとき、父が病死したため家督を継いだが、このとき彼が幼少のためということで、家禄を半分に減らされた。その後、藩校の明倫館で学び、時の藩主、毛利敬親の小姓、奥番頭となった。その後、敬親から厚い信任を受け、敬親の世子、毛利定広の後見人にもなった。そして、1858年(安政5年)、長州藩の直目付の要職に抜擢された。

 国内で外交をめぐる政争が熾烈となった1861年(文久元年)、長井は公武一和に基づく「航海遠略策」を藩主に建白し、これが藩論とされた。その後、朝廷や幕府にこれを入説して歓迎され、藩主毛利敬親とともに江戸へ入り、老中久世広周、安藤信正と会見。正式にこの「航海遠略策」を建白して、公武の周旋を依頼されたのだ。

 長井の「航海遠略策」は、端的に表現すれば、通商を行って国力を増し、やがては諸外国を圧倒すべし-というのが論旨。当時、吉田松陰が唱えていた「大攘夷」に通じるものがあった。松陰も攘夷論者でありながら、攘夷をするためには外国を知らねばならないとして密航を企てたが、その思想からの行動だ。だが、両者はその実行論において対極にあった。長井は松陰の行動主義を批判し、松陰も長井を姑息な策を弄する奸臣と見做し憎悪した。

 幕府からこの「航海遠略策」で公武の周旋を依頼されるほどの立場にあった長井だが、実は困った状況にあった。それは、長州藩内の尊皇攘夷派とは対立関係にあり、藩政運営は容易ではなかったからだ。とくに井伊直弼が断行した「安政の大獄」のとき、吉田松陰の江戸護送を直目付の長井が、制止も弁明もしようとしなかったことから、職務上のこととはいえ、松下村塾系の藩士から強い恨みを買うことになった。このため、松陰の弟子、久坂玄瑞や前原一誠らに命を狙われることになったのだ。藩論は対立したまま、事態は一進一退を繰り返していた。

 その後、長井にとって事態はさらに悪化する。1862年(文久2年)、幕府で公武合体を進めていた老中安藤信正や久世広周らが「坂下門外の変」で失脚したのだ。すると、長州藩内の攘夷派が勢力を盛り返し、長井の排斥運動が激しくなった。そして、時間の経過とともに、尊皇攘夷・激派の著しい台頭で、長井の立場はさらに厳しく、追い詰められていった。

こうなると、まだわずか1年前、国論をリードしようかという「航海遠略策」をまとめ上げ、建白した人物を、長州藩はためらいもなく斬ってしまう。1863年(文久3年)長井雅楽は“長州藩の奸臣”のレッテルを張られ、切腹を命じられ、その生涯を閉じた。

 明治維新後、この長井の積極開国論を長州人たちは維新史の恥部として、すべて長井の個人的運動で、藩は何ら関知していなかったと主張して、やり過ごしてきた。その結果、現代において長井は、高杉晋作、木戸孝允らの事績と比べ、不当に低い評価しか与えられていないようだ。

(参考資料)司馬遼太郎「世に棲む日日」、司馬遼太郎「歴史の中の日本」、三好徹「高杉晋作」、童門冬二「伊藤博文」、松永義弘「大久保利通」、海音寺潮五郎「西郷と大久保」