『I f 』⑩「大伴家持が藤原氏に対する対抗意識を捨てていたら」

『I f 』⑩「大伴家持が藤原氏に対する対抗意識を捨てていたら」
 現存最古の歌集『万葉集』の実質的な編集者とされている大伴家持が、藤
原氏に対する対抗意識を捨てていたら、間違いなく彼はもっと出世していた
と思われます。『万葉集』は全20巻に及び、中に長歌と短歌合わせて実に
4500余首の歌が収められています。この4500余首の1割を超す479首もの歌が
大伴家持の歌なのです。

新興勢力・藤原氏に阻まれた大伴氏の権勢と出世の道
 こうしてみると、家持はよほど優れた歌人だったのでしょうが、彼は同時
に名門大伴氏の長、すなわち武人的貴族としての顔もあったのです。その面
からみると、家持は新興勢力・藤原氏の台頭を常に苦々しい思いで眺めてい
たに違いなく、またそれゆえに対抗意識を持ち続け、何度も出世の妨げにな
ったことは間違いありません。
 大伴氏の長としての立場を忘れることができたなら、歌人・大伴家持は藤
原氏と中立的な距離を保つことで、中央政界でももう少し重職に就くことが
できたのではないでしょうか。揺るぎない権勢を手にしつつあった藤原氏に
とって、当面敵とならない存在であれば、藤原氏も家持の処遇に作為的に口
をはさむことは避けるでしょうから、後代にも長く重んじられた『万葉集』
の最大の歌人、家持のより高い官位へ昇る道は開かれていたはずです。

物部氏と並んで軍事力の中心となっていた大伴氏
 そもそも大伴氏は、大和王権の段階から大連(おおむらじ)として、物部
氏と並んで軍事力の中心となっていた家です。一時衰えはしましたが、「壬
申の乱」(672年)のときに大海人皇子方について家運を挽回し、安麻呂・
旅人の活躍によって、名族復活を印象付けており、旅人は大納言まで出世し
ています。
 その旅人の長男が家持で、旅人の死後、大伴氏の長として一族を束ねる地
位にあったのです。しかも、それは苦難の道のりでした。藤原氏でない者が
置かれた宿命的なものでしたが、彼の一生は藤原氏の専横に対する不満の一
生でした。
 例えば757年(天平宝字元年)、橘奈良麻呂の乱のときには、家持自身は
これに加担しなかったが、一族の者が加わっていたということで、一時失脚
しています。この乱は、藤原仲麻呂(恵美押勝)の専横に反対する勢力が橘
諸兄の子、奈良麻呂を担ぎ出して反乱を起こしたものでした。
 また、762年(天平宝字6年)にも、反仲麻呂のクーデターが計画され、
今度は家持もそれに加わっていましたが、この計画は未然に発覚してしまい、
家持自身、官位昇進などでは相当なハンディを背負ってしまいました。

藤原氏への対抗意識が邪魔した家持の生涯
 その結果、家持は中納言どまりで、とうとう父・旅人の大納言の位まで昇
ることができませんでした。古く、大連として物部氏と並んで軍事部門を担
当する家だったという伝統から、当然のように782年(延暦元年)陸奥按察
使鎮守府将軍、784年(延暦3年)、持節征東将軍に任じられていますが、
これなどは大伴氏を中央政界から遠ざけてしまおうという藤原氏の陰謀によ
るものでしょう。邪魔者を遠ざけ、しかも危険な場所に送り込むということ
は、いつの時代にもみられることです。藤原氏にとっての対抗勢力の一つ、
大伴氏がこのような形で地方に追いやられたということです。

 

『I f 』⑨「聖徳太子が蘇我馬子に敗れていなかったら」

『I f 』⑨「聖徳太子が蘇我馬子に敗れていなかったら」
 聖徳太子については様々な謎があります。突き詰めていえばその存在自体
が謎といわれます。実は聖徳太子という人物はいなかった-という説もある
のです。確実にいたのは厩戸皇子です。倭=日本という国を、対外的に決し
て野蛮な国ではなく、男性大王のもと、きちんとした治政がおこなわれてい
る国であることを対外的にPRするために、聡明で神がかり的な“聖徳太子
像”がつくられたようです。

蘇我馬子抜きに聖徳太子の事績は語れず
 聖徳太子には様々な事績や功績があったといわれています。太子は摂政と
して、「冠位十二階」制定(603年)や「十七条憲法」を制定(604年)し、
小野妹子を隋に派遣(607年、608年)し、隋との国交を開くなど華やかな活
躍をしたことになっています。しかし、その背後には蘇我馬子の強大な存在
がありました。当時の最高権力者、馬子の存在を抜きにして、聖徳太子を語
ることはできません。それが、どのようなことであれ、馬子の賛意もしくは
了解を得ずに進められたことはなかったはずです。
 しかし、ある時点で聖徳太子の「思い」と馬子の「思惑」にずれ、あるい
は隔たりができたとき、太子と馬子の間に対立が生まれたのです。聖徳太子
は仏教や道教を学んで、人間平等主義の思想を育てていきました。それとと
もに、仏教を政治の道具として利用する馬子に反発するようになっていきま
す。

聖徳太子の治政に立ちはだかった巨人・馬子
もともと馬子がどこまで仏教を理解していたかは疑問です。神祇権を持つ
物部氏に対抗するためと、大王家のカリスマ的権威を落とすために、仏教
を担ぎ出したまでで、敬虔な仏教徒だったとは思えません。馬子はリアル
な政治家、聖徳太子は理想主義的なロマンティスト。こんな二人が所詮、
合うはずがないのです。
その結果、太子の施政の、それまで確固とした庇護者だったはずの馬子
が、とてつもなく大きなカベとなって立ちはだかったのです。その時期は
恐らく、601年(推古9年)、聖徳太子が斑鳩に宮を建て、そこに遷った
ころからでしょう。太子は斑鳩宮にいってから、自分なりの政治や生活を
模索し、馬子と一線を画すようになり、自分は大王という意識を持ち始め
ていたのではないでしょうか。

馬子に敗れた聖徳太子、譲位の目消える
 608年(推古16年)、遣隋使・小野妹子の帰国と一緒にやってきた裴世清
(はいせいせい)が隋の皇帝・煬帝(ようだい)の使者として聖徳太子に
会います。このとき太子は倭王として応対するわけですが、裴世清は倭王は
聖徳太子だと完全に認識して帰っていきます。この後、610年(推古18年)、
新羅と任那の使者が来るのですが、このころから馬子は太子を警戒し、推古
女帝と手を組んで、太子から権力を奪い始めていくのです。

年少の太子が馬子の死後に照準を置いて治政に臨んでいたら…
もし、聖徳太子が蘇我馬子に敗れていなかったら、あるいは対等の関係を
保持できていたら、推古女帝から譲位を受け、太子は天皇になり(実は聖
徳太子は天皇になっていたという説もあるのですが)、太子一族の血脈を
その後も残していたかも知れません。対中国(隋・唐)を考えた場合、律
令のもとでは、女帝は考えられなかったわけですから。何事もなければ、
聖徳太子が皇位に就くのは自然な成り行きだったはずです。もちろん、
その場合、聖人君子的な太子像はもう少し薄れていたでしょうが。そうな
ると、太子は馬子より当然長生きし、その後の歴史はかなり変わったもの
になっていたのではないでしょうか。
 聖徳太子は622年(推古30年)に49歳で亡くなり、その4年後、蘇我馬子が
亡くなります。76歳ぐらいだったと思われます。ですから、聖徳太子と馬子
は20歳以上違うのです。太子が馬子の死後に照準を置いて、辛抱強く摂政と
して治政に臨んでいたら、太子自身、絶望することはなかったはずです。
惜しまれます。

『I f 』⑧「藤原秀衡がもう少し長生きしていたら」

『I f 』⑧「藤原秀衡がもう少し長生きしていたら」
 奥州藤原氏の全盛期を築いた藤原秀衡。その秀衡がもう少し長命だったら、
その後の様々な歴史が変わっていたでしょう。

秀衡健在なら「平泉王国」の栄華は続いていた
まず奥州藤原氏による「平泉王国」はまだまだ続いていたはずです。秀衡
が健在なら、慎重に事を運ぶ源頼朝が奥州藤原氏に戦を仕掛けることはな
かったでしょう。頼朝にとって奥州藤原氏を攻め滅ぼすことは重要な課題
でした、が、かなり高い確率で、頼朝は秀衡の死を待つ作戦にでたはずで
す。
なぜなら無理に仕掛けるとすれば、豊富な財力に裏打ちされた「奥六郡」
の軍事力と、軍略の天才、源義経の指揮の下に逆襲されたら、鎌倉頼朝軍
は簡単に攻め落とすことなどできません。長期戦になってしまうからです。
それに伴うダメージを考えるなら、秀衡の死後がポイントとみていたはず
です。
 また、秀衡が健在で藤原氏の栄華が続いている以上、秀衡に匿われていた
義経も健在で、近い将来の対鎌倉軍の戦のための訓練や準備に忙しい日々を
過ごしていたでしょう。秀衡の全面的なバックアップがあれば、義経は縦横
無尽な働きをみせるべく、準備していたことは間違いありません。そうなる
と、秀衡が存命な限り、鎌倉の世と一定の距離を取りながら「平泉王国」も
命脈を保ち続けたのではないでしょうか。

秀衡は義経を匿い通すことを遺言
 ところが、1187年(文治3年)その秀衡が死んでしまったのです。60代半
ばでした。そして、後を継いだのが初代清衡、二代基衡、三代秀衡に次ぐ四
代目の泰衡でした。33歳でした。秀衡は亡くなるに際し、義経を匿い通すこ
とを遺言したと思われます。そのことは、泰衡がしばらくの間、頼朝からの
義経引き渡し渡し要求を突っぱねていることによって分かります。

秀衡の死後、わずか2年で平泉王国は滅亡
 しかし、奥州藤原氏にとって秀衡の死は大きな痛手でした。単なる一人の
当主の死にとどまりませんでした。継いだのが33歳の当主なら普通、問題は
ないはずですが、家の“束ね役”はそれなりの人格と見識を必要とするもの
なのです。泰衡が家督を継いでから、奥州藤原氏の権勢は下り坂になり、わ
ずか2年後、義経を攻めて殺し、やがて「北方の王者」と呼ばれた「平泉王
国」が、坂道を転げ堕ちるように滅亡に追い込まれていくのです。

 

 

 

『I f 』⑦「田沼時代に異常気象と大飢饉がなかったら」

『I f 』⑦「田沼時代に異常気象と大飢饉がなかったら」
 田沼意次といえば、一般に賄賂をむさぼった悪徳政治家のイメージが強い
のですが、近年は彼が打ち出した、従前には見られなかった様々な政策が見
直され、評価が一新されつつあります。意次は、いわゆる由緒ある家柄の幕
閣・保守グループに足を引っ張られながらも、斬新な政策を次々に打ち出し
た開明派の政治家でした。

賄賂政治家から開明派の政治家に評価一新の田沼意次
田沼意次による政権運営がもうすこし続いていたら、江戸時代を通じて見
ても、もっとみるべき実績を挙げていたでしょう。少なくとも、時代遅れ
の松平定信による「寛政の改革」などよりは、客観的に見て経済政策面で
はるかに優れていたはずです。
その田沼意次が失脚した要因は、保守的な譜代大名たちの巻き返しによる
部分が大きかったのですが、この「田沼時代」、未曾有ともいえる飢饉や
異常気象が頻繁に起こったことが意次の足を引っ張ったのです。
 根本順吉氏の『歴史気象学の進展-“江戸小氷期”と飢饉』によると、江
戸時代は全体として寒い時代で、とくに寒い「小氷期」が3回あったといいま
す。この時期は冬の寒さが厳しく、夏も冷涼・多雨でした。そこで「田沼時
代」をみると、暴風雨・洪水・火山の噴火など、自然災害が相次いでいるこ
とに驚かされます。

未曾有の飢饉、異常気象に足を引っ張られた田沼政治
 例えば、意次が老中に就任した1772年(安永元年)、7月に九州で暴風雨、
8月上旬には東海から関東にかけて、やはり暴風雨と洪水、下旬には中国・
四国・近畿・東海各地を暴雨風と洪水が見舞っており、ちょうどその時期、
稲刈り間近で、せっかく実らせた稲が流されたり倒れたりして、農作物に甚
大な被害が出てしまったのです。元号の「明和」をやめて「安永」へ改元し
たくらいですから、被害の大きさは並みではなかったことが分かります。し
かも、前々年、前年は干ばつで、3年連続の不作になったのです。

相次ぐ火山の噴火、春に大雪、大地震、大飢饉頻発の不運
 しかも、どうしたわけか、「田沼時代」は、火山も活発な活動をしていま
す。1778年(安永7年)春と秋には、伊豆大島の三原山が噴火、この時期、
三宅島の雄山、浅間山、桜島なども噴火しているのです。こうした影響もあ
ってか、春の大雪など異常気象に見舞われています。1779年(安永8年)に
は4月に大雪が降っています。旧暦4月は現在の5月ですが、5月の大雪など
あまり例はありません。
さらにその年8月には、東海・関東から奥羽にかけての広い範囲に暴風雨
と大洪水の被害が起き、また大地震もあり、次から次に、まさに天災に狙
い撃ちにされたような状況でした。そして、決定的なものが1783年(天明
3年)の浅間山の大噴火です。この年も異常気象で、夏に綿入れを着なけ
ればならないほどの寒さだったといわれます。浅間山の噴火の火山灰が空
を覆い、冷夏に拍車をかけ、関東から奥羽にかけて大飢饉になりました。

保守グループの攻勢と息子・意知、後ろ盾・将軍家治の死で失脚
 こうした自然災害の場合、普通「あれは天災」と、為政者の責任にはしな
いものです。ところが、この意次の場合、常に保守グループが意次のあら探
しをし、「失政がないか」と虎視眈々とみており、天災をも意次のせいにし
ようとする動きがあったのです。
 さらにもう一つ、意次にとって不幸な事件が重なりました。1784年(天明
4年)、意次の子で若年寄になっていた意知(おきとも)が江戸城中で新番
士の佐野善左衛門政言(まさこと)に斬られ、それがもとで死んでしまった
のです。そして、意次にとって不運だったのは1786年(天明6年)、田沼政
治の後ろ楯だった十代将軍家治が亡くなったことだった。その結果、遂に保
守グループの攻勢に抗し切れなくなり、意次は政権の座から引きずり下ろさ
れてしまったのです。

陽の目見なかった田沼意次の斬新な政策
 このため、意次が打ち出した斬新な政策も、多くは陽の目を見ず頓挫、
実施・断行されないままに、葬られてしまいました。後は保守派の松平定信
などの全く新鮮味のない、場当たり的な政治に終始していきます。田沼意次
による政権運営が続いていたら、蝦夷地の開発はじめ、旧来の幕閣政治とは
一線を画した政治が具体化されたはずです。意次の挫折が惜しまれます。

 

『I f 』⑥「『奥の細道』が単なる紀行文でなかったら」

『I f 』⑥「『奥の細道』が単なる紀行文でなかったら」
 松尾芭蕉の有名な著作、『奥の細道』は優れた旅行文学の古典として今も
なお多くの人々に愛読されています。だが、この『奥の細道』には実は多く
の謎が隠されているのです。

同行した曾良の日記とは80カ所も日時と場所が異なる
 端的に言えば、芭蕉に同行した弟子・河合曾良(かわいそら)の日記との
食い違いが実に多いのです。曾良という人は几帳面な性格だったらしく、旅
をした場所と天候、それに日付を毎日欠かさず、初日からメモ風に書き残し
ていました。『奥の細道』が仮にフィクションだったとしても、曾良の日記
とは80カ所も日時と場所が異なっているのです。それは2日に1度の割合で違
いを見せています。こうなると、果たしてどちらが本当の行動だったのか、
首をひねらざるを得ない。

芭蕉には史跡を巡るほかに、別の目的があった
 曾良は師匠・芭蕉に同行していたはずなのに、日記と比較してみると、互
いに別々の宿に泊っていたり、会った人の名前や場所が違うなど、常に二人
が一緒ではなかったことが明らかになります。芭蕉は何か別の目的があっ
て、この旅に出て、弟子とは別行動を取る必要があったと考えれば、この食
い違いは納得がいきます。
 つまり『奥の細道』は、芭蕉と弟子の曾良が2日に1度ぐらいの割合で会い
ながらも、芭蕉が史跡を巡る旅をして句を詠むほかに、ある意味で、芭蕉は
重要な別の目的を持って旅をしていたことを裏付ける旅行記でもあった、と
見た方が自然です。したがって、『奥の細道』の日付・内容など事実とは明
らかに違う、加工が施されている部分があるというわけです。
 例えば伊達藩の平泉のくだりです。『奥の細道』では中尊寺の経堂に安置
されている仏像を見たことになっているのですが、曾良はここで仏像を見る
ことができなかったと書いています。

旅のペースが緩急極端・不自然で不可解な旅程
 また、不思議なのは旅のペースです。何かを追いかけるように急いだり、
あるいは何かを待つように何日も同じ場所に逗留しています。曾良の日記に
基づいて検証すると、現在の埼玉県の春日部から、日光を目指して歩き、6
日後に東照宮を参拝しています。そして、一泊すると福島県にほど近い黒羽
まで3日間で歩くという強行軍で、そこで今度はなぜか13日間も逗留していま
す。旅の疲れが出たとも考えられますが、普通の旅ならいかにも不自然で
す。こうした不自然、あるいは不可解な旅程が続くのです。
 『奥の細道』では福島に入るときに数時間で42㌔㍍歩いたようにすらなっ
ています。こうなると、芭蕉は単なる45歳の俳人ではなく、忍者のような頑
健な体力の持ち主だったということになります。

俳聖・芭蕉、実は”諜報員”説さえ浮上
 まだあります。芭蕉は仙台の松島をぜひ見たいと楽しみにしていたはずな
のです。ところが、なぜかこの松島では一句も詠んでいません。松島は伊達
藩にあり、その行程をみると仙台から塩釜を通り、松島そして石巻へと抜け
るのですが、各地でそれぞれ一泊しかしていません。二人はまるで逃げるよ
うにして、旅の目的でもあった名勝地を通り過ぎているのです。その後、
芭蕉のペースはまた緩やかになりますから、不可解としか言いようがありま
せん。
 こうしたことを考え合わせると、俳聖・芭蕉は実は諜報員だったのではな
いか、という説が浮上しても全く不思議ではありません。むしろ、そのよう
に考えた方がつじつまが合うようです。

 

『I f 』⑤「乙巳の変で蘇我入鹿が殺害されていなかったら」

『I f 』⑤「乙巳の変で蘇我入鹿が殺害されていなかったら」
 蘇我入鹿は周知の通り、皇極女帝の時代、「乙巳(いっし)の変」で暗殺
され、それが大化の改新の口火となります。そして、蘇我本宗家が滅びます。
しかし、もしここで蘇我入鹿が殺害されず、この難を逃れていたら、彼は最
終的に大王位の禅譲を受けていたかも知れません。

学識者で大陸の情勢にも明るかった入鹿
 蘇我入鹿は開明的な人物で、学識も備えていました。遣隋使として中国に
渡り、隋・唐と24年間にわたって留学していた僧・旻(みん)は帰国後、学
問所、講堂を開いています。その講堂に入鹿も中大兄皇子、中臣鎌足も通っ
ています。その僧・旻が「わが講堂に入る者で、宗我(蘇我)大郎(=そが
のたいろう)より優れた者はいない」と伝えています。

入鹿は禅譲制で大王位に就くことを考えていた?
 通説では、入鹿は大王になることまでは考えていなかったといわれている
のですが、彼は相当な学識者で大陸の政治情勢や文化に明るい人物でした。
ですから、蘇我本宗家の権勢を永続させるためにも、大王位に就くことを考
えたはずです。
 入鹿が狙いとしたその方法が、中国帰りの学問僧たちによってもたらされ
た禅譲制という制度です。入鹿は、祖父・蘇我馬子の娘が舒明天皇の妃にな
って産んだ古人(ふるひと)大兄皇子を大王にして、その大王から位を禅譲
させるという方法を考えていたようです。実はこれは、隋・唐で行われた方
法なのです。

いくつもある、入鹿が大王位を意識していた傍証
 蘇我入鹿が大王位を意識していた傍証は実はいくつもあるのです。『日本
書紀』によると、入鹿の父・蝦夷が葛城の高宮で、中国の天子にのみ許され
る「八佾(やつら)の舞い」を行ったり、今来(いまき)に双墓をつくって、
これを「大陵・小陵」と呼ばせ、大きい方を自分の、小さい方を息子の入鹿
の墓と定めたとも書かれています。
それから、645年には甘橿(あまかし)丘に巨大な屋形を建て、蝦夷の家を
「上の宮門(みかど)」、入鹿の家を「谷(はざま)の宮門」と呼ばせ、
子供たちを王子(みこ)と呼ばせています。これらはすべて入鹿の発案で、
彼が父の蝦夷を説得して行ったことなのです。中国では禅譲の前に権力者
が皇帝と同じようなことをするのです。

最大の豪族の家に生まれたエリートの弱さが、野望を未達に終わらせた
 ここまで準備しながら、入鹿の野望はなぜ成就しなかったのでしょうか。
それは入鹿が最大の豪族の家柄に生まれたエリートで、人間の苦界を見ない
で育った点にあるのではないでしょうか。「乙巳の変」の主導者の一人、
中臣鎌足などは地を這うようにして育ち、そこからのし上がってきた人物で
す。そんな鎌足に比べると、やはり入鹿には性格の甘さが感じられます。
入鹿の野望(=大王位)を真っ先に見抜いたのは恐らくこの鎌足でしょう。