高杉晋作・・・「おもしろきこともなき世をおもしろく すみなすものは心なりけり」

 これは肺結核で明治維新直前の慶応3年(1867)4月14日に29歳で死んだ高杉晋作の辞世だ。正確に言えば、晋作が詠んだのは「おもしろきこともなき世をおもしろく…」までだ。ここで彼は息苦しくなり、筆を置いてしまった。そこで枕頭にいた野村望東尼が下の句を「すみなすものは心なりけり」と続けると、彼はにっこりとうなずいて息を引き取ったという。

ただ、動乱期を破天荒な生き方をした人間だっただけに、上の句だけで切れていても、いや切れているからこそ彼らしいのではなかったかという気がする。おもしろくするのは心次第だ-というような常識的な下の句がつけられると、一気にその世界が小さくまとまってしまったかのような印象を受ける。

 吉田松陰の門人の中で最も波乱に満ちた生涯を送ったのが高杉晋作だ。彼が作った「長州奇兵隊」が事実上の維新の原動力になったといっていい。彼は毛利家譜代の家臣で禄高150石の中士ともいうべき家系に生まれた。しかし祖父や父が、蔵元頭人役や小姓役として藩主の側近く仕えていたので、家計はかなり裕福だったようだ。

 晋作は14歳で藩校明倫館に通うようになるが、型にはまった学校の教育に幻滅。学問はなかなか好きになれず、19歳の頃まで剣の道に勤しみ、柳生新影流の免許皆伝を得た。そんな彼に学問の面白さを教えたのが吉田松陰の「松下村塾」だ。松陰の烈々たる憂国の情に惹かれて真っ先に入塾した久坂義助(玄瑞)に誘われたのだ。この出会いが彼の一生を決めた。

とはいえ、松下村塾に通うそのこと自体が大変なことだった。松陰は萩の城下では危険思想の持ち主と見られていたし、晋作の家は保守的だった。だから、彼が松下村塾に通っていることを知ると、何日も彼は家の中に閉じ込められたほど。それでも松陰の人格や識見が晋作を惹きつけて放さなかった。彼は親や家族の目を盗んでは松下村塾に通い続けた。その結果、彼の才能は一挙に花開いていく。
 晋作は師、松陰の死、結婚、軍艦修業、武者修行などを経て一回りも二回りも大きくなった。とくに信州松代に師、松陰の師でもあった佐久間象山、越前福井に招かれていた横井小楠という当時、一頭地を抜いた学者であり、卓見の二人に会えたことは大きかった。

 文久2年(1862)、24歳の晋作は清国に派遣される幕府使節の随員となり、長州藩を代表して上海に赴くことになった。この上海渡航は、その後の彼の人生に、計り知れない大きな意味を持つことになった。彼が上海に行ったときは、太平天国の乱の最中だ。書物で勉強するだけでは得られない、近代戦争の実態を初めてそこで見ることになったからだ。

 晋作が奇兵隊を組織したのは、文久3年(1863)6月、下関を舞台に展開された馬関攘夷戦の最中だった。戦闘は長州藩の惨憺たる敗北で終わった。敗れた長州軍の中で、最も勇敢に戦ったのが彼の組織した独創的な軍事組織、奇兵隊だった。以来、日本で最初の組織的な国民軍、奇兵隊は長州四境戦争、鳥羽・伏見の戦い、そして奥羽北越の戊辰戦争に至るまで長州藩最強の軍団として、転戦していくことになる。

 もし高杉晋作という青年がいなかったら、幕末の長州藩はよほど違った針路を取っただろう。また、晋作の行動が革命の原動力となったことについては、吉田松陰の思想を抜きにしては考えられない。幕府は松陰を斬首したが、その思想までを殺すことができなかったのだ。

(参考資料)奈良本辰也「不惜身命」、同「幕末維新の志士読本」、三好徹「高杉晋作」、「日本史探訪/幕末の日本を操った鍵人間 高杉晋作」(大岡昇平・奈良本辰也)、司馬遼太郎「世に棲む日日」

田中正造 ・・・「自ら善と信じ利と認むる点を、遂行し収拾する時に当たりては聊(い ささ)か奪ふべからざる精神を有す」

 田中正造は日本の近代化過程で起こった「公害」第一号の「足尾鉱毒事件」 の告発者として、天皇に直訴したことで広く知られているが、鉱毒垂れ流しに よって農地を汚染され、大きな被害を受けた農民救済に後半生を捧げた。冒頭 のこの言葉は1895年(明治28年)、当時55歳の田中正造が読売新聞に連載し た自叙伝『田中正造昔話』にある一説だ。

 彼は下野小中村(現在の栃木県佐野市小中町)の名主の子として生まれた。 17歳の時、父の跡を継いで名主となり、まもなく主君六角家をめぐる騒動に巻 き込まれ、主君の権威を傘に着て私服を肥やす林三郎兵衛という悪党の退治に 全力を挙げ、入獄・追放などあらゆる苦難を経験した。この六角家の問題は、 結局「明治維新」により、正造らの勝利に帰したが、そのために正造は全財産 を失った。

また、正造は1870年(明治3年)、江刺県花輪支庁(現在の秋田県鹿角市に 下級官吏として赴いたが、そこで上司の木村新八郎殺害の嫌疑を受け、3年の 獄中生活を送った。これは物的証拠もなく冤罪だったと思われるが、正造の 性格や言動から当時の上役たちに反感を持たれていたのが影響したらしい。
 1874年(明治7年)、無罪釈放となった正造は郷里に帰るが、今度は自由民 権運動の影響を受け1880年(明治13年)栃木県県会議員となった。1882年(明 治15年)、立憲改進党が結党されると入党。福島県令・三島通庸が栃木県令を 兼ねて、住民の意向を無視して、大規模な土木工事を起こし強引に近代化を進 めようとしていた。これに対して正造は徹底的に抗戦しつつ、政府に上訴し、“悪 党”を追放しようとする作戦を取った。この「三島事件」は三島が異動によっ て栃木県を去ると解決。

正造は1890年(明治23年)、第1回衆議院議員総選挙に初当選する。ここで直面したのが「足尾鉱毒事件」だった。これは今日的に表現すれば、国家発展を優先するのか?正義を貫くのか?の問題だった。すなわち明治政府が積極的に推進した富国強兵策の一環として、鉱業の開発は必須で、足尾銅山の開削は近代国家としての日本の発展には欠かせないものだった。しかし、この足尾銅山は多量の鉱毒を渡良瀬川に流すことになり、この鉱毒の垂れ流しで渡良瀬川下流の農地は汚染され、農民は大きな被害を受けた。

 正造は、農民を困苦に陥れて何が国家の発展か!と判断、「公害」を国家発展の必要悪と見る明治政府と戦ったのだ。正造は議員を辞職し、天皇に直訴したが、失敗。巧妙な政府の分断政策により孤立した下流の谷中村に、正造は敢えて移り住み、村に残った農民とともに抵抗し続けたが、1913年(大正2年)73歳で死亡した。そして4年後、谷中村は遊水池の中に消えた。この事件は長い間忘れられていたが、高度成長の過程で「公害」が大きな社会問題となってから、再び注目されるようになった。

(参考資料)城山三郎「辛酸 田中正造と足尾鉱毒事件」、梅原猛「百人一語」
      奈良本辰也「男たちの明治維新」、三好徹「獅子吼」

田沼意次・・・ 「貯えなきは、事ある時の役に立たず」 進歩的政治家

武家社会においては、凡夫のトップに代わって毀誉褒貶を一身に浴びねばならない場合も少なくなかった。徳川九代将軍家重、十代将軍家治の二代に仕えた田沼主殿頭意次もその一人だ。唯一の庇護者であった将軍家治の死後、失脚した田沼意次に浴びせかけられたデマや中傷、ワイロ伝説は、彼の卓越した政治手腕に対する保守派門閥大名や旗本たちの嫉妬と憎悪によるものだ。

江戸時代を通じて、ワイロにまみれた代表的な“汚れた政治家”の一人に挙げられる田沼意次だが、近年の様々な角度からの研究で彼が執った、それまでの米経済を軸とする重農主義を、貨幣経済を軸とする重商主義に切り換えた大胆な経済政策を評価。偉大で進歩的な政治家の一人ともいわれるようになっている。

今回の田沼の言葉は唯ひとつ子孫のために残した家訓とも言うべき遺書にある処世信条で、財政問題について『勝手元不如意にて貯えなきは、一朝事ある時の役に立たず、御軍用に差し支え、武道を失い、領地頂戴の身の不面目、これに過ぐるものなし』とあるものだ。武士の収入は予定以上に増えることはない。凶作による収入減、不時の出費、それらが重なれば憂うべき結果を招くものだ。したがって、『常に心を用い、いささかの奢りなく、油断せず要心すべし』と格別の注意を与えている。
ワイロはいつの時代にもあった。例えば平安貴族は国司になるために権門の筋に莫大なワイロを贈って、その職を得るための猟官運動が盛んだった。中世では、国司になると任期中は莫大な富が得られ、都に戻ってからも生涯を安泰に暮らせたという。それは江戸時代も同様で全国(藩)でまかり通っていた。究極的な例を挙げると、あの清廉潔白をもって鳴った白河藩主・松平定信が、四位の官位の依頼に田沼邸を訪れているのだ。

では、そのワイロの額は?江戸時代、大老や老中職の場合はよくわからないが、長崎奉行職は2000両、目付職は1000両と相場が決まっていたといわれる。
猟官運動にこれほどのワイロが動いたのは、他の時代と比べるとやはり少し異常といわざるを得ない。しかし、それは幕府の創始者であった徳川家康の「権力の持てる譜代大名の給与は安く、権力の持てない外様大名の給与は多くする」という統治法にこそその温床があった。江戸城で老中その他の要職に就いた者の給与は、ほとんどが数万石であり、家重の小姓から異例の大出世を果たし大名にまで上った田沼自身にしても、遠江相良藩の6万石にすぎない。

“ワイロ”政治ともいわれた田沼のどこが特別で他と異なっていたのか?田沼は収賄を決して悪事だとは思っていなかった。彼自身が言っていることを意訳、換言すれば、「収賄は正当なもの。そして、それに報いるために請託をうけるのも当たり前」と言っている。現代の感覚でいえば呆れた話だが、徳川期の基準でいえばそれは異常ではなかったのだ。徳川時代における武士の収賄は構造的なものであって、田沼個人の私意に基づくものではないということだ。

だからこそ、そのことに何のうしろめたさも感じることなく、それまでタブーとされていた様々な諸施策を打ち出せたのだ。まず「米経済」にこだわらず、貨幣経済を進行させている連中=商人と手を組んだことだ。彼は「士農工商」の最も劣位に置かれ課税対象外の存在だった商人に、新しい税「運上」と「冥加金」を課した。次に本来的には鎖国の下だが、フカヒレ・イリコ・アワビ・コンブなどの海産物をはじめ地域産品の付加価値を高めて積極的に外国(中国・オランダ)と交易する施策を打ち出す。また漢方薬の国産化を図り、平賀源内に日本国内での薬草探しを命じている。

このほか、中国の本以外は読むことが禁じられていたが、田沼はオランダの本を読むことを許可した。これが杉田玄白や前野良沢らの翻訳本「解体新書」となる。これは彼の失脚によって実現しなかったが、下総(千葉県)の印旛沼と手賀沼の干拓、そして蝦夷開発(北海道に116万町歩の開拓、7万人移住の計画)、千島・樺太の開発にも関心を寄せた。広い視野からのこうした大構想は、当時の諸大名や旗本たちにはとても思いもつかぬ施策であったし、ただ妬ましさを覚えるだけだった。この鬱屈が失脚後の“田沼バッシング”を増幅させたわけだ。

(参考資料)童門冬二「江戸の賄賂」 神坂次郎「男 この言葉」、佐藤雅美「主殿の税 田沼意次の経済改革」

徳川吉宗・・・ 「苦は楽の種、楽は苦の種と知るべし」

 徳川幕府中興の祖、八代将軍吉宗が晩年、座右の銘として寝所の壁に貼り付けていたと伝えられる言葉を記す。

一、 苦は楽の種、楽は苦の種と知るべし。
一、 主と親は無理な(ことを言う)者と思え、下人(下級の使用人)は(考えが)足らぬ者と知るべし。
一、 掟に怖じよ、火に怖じよ、分別無き者に怖じよ、恩を忘れることなかれ。
一、 欲と色とを敵と知るべし。
一、 朝寝すべからず、話の長座すべからず。
一、 少なることも分別せよ、大(きな)事とて驚くべからず。
一、 九分は足らぬ、十分はこぼるると知るべし。
一、 分別は堪忍にあると知るべし。
                          (「享保世話」)

 これを見る限り決して難しいことを言っているわけではない。今日でも十分通用する、説得力のあることばかりだ。度量の大きな吉宗だったからこそできた、幕府政治の大改革を担った当時の心情が込められていると読むこともできる。将軍の座にあること30年。彼が断行した「享保の改革」(1716)は江戸時代で最もスケールの大きい、成功した改革だった。後年、松平定信の「寛政の改革」(1787)、水野忠邦の「天保の改革」(1841)がいずれも失敗しただけに、特筆されよう。

 吉宗は貞享元年(1684)、紀州徳川家の二代藩主・光貞の四男として生まれている。この年は後世、天下の悪法として伝えられた五代将軍綱吉の「生類憐みの令」が発せられた前年に当たる。吉宗の母はおゆりという城内奥の湯殿番の婢女であったが、彼はいくつもの幸運に恵まれ遂に八代将軍にまで上りつめた。

 その幸運のスタートが将軍綱吉のお声がかりで越前丹生(福井県北部)三万石の藩主の座についたこと。吉宗(当時は頼方)、14歳のことだ。2番目の幸運は三代藩主の長兄が死に、4カ月後に四代藩主の次兄も急死したこと。思いもかけない偶然が22歳の吉宗を一躍、紀州徳川家55万5000石の五代藩主の座に押し上げてしまった。まだ終わりではない。藩財政の再建に取り組み、成果を挙げた吉宗のもとに3番目の幸運が舞い込み、八代将軍になる。33歳のときのことだ。

この裏には、将軍家と尾張徳川家の不運が重なり合っていた。六代将軍家宣の子で、わずか5歳で七代将軍となった家継が8歳で死去し、次の将軍候補に推されていた御三家筆頭の尾張徳川家の吉通はすでに3年前25歳の若さで逝き、その子の五郎太も続いて死亡したからだ。こうして彼は普通ならまず望むべくもなかった栄光の座に就いたのだ。

将軍職に就いた吉宗は・上げ米の令・目安箱の設置・小石川養生所の設置・町火消しの制度を設け、民家の屋根を瓦葺きに・足高(役付手当)の制で人材登用・西欧の学問(蘭学)の奨励-など様々な施策を打ち出し、骨太の改革に取り組んだ。人事面では間部詮房・新井白石ら、六代将軍家宣以来、幕閣の枢要を占めてきた権力者=補佐役たちを排除した。また、普請奉行・大岡越前守忠相の江戸南町奉行への抜擢なども行った。

(参考資料)神坂次郎「男 この言葉」、加来耕三「日本補佐役列伝」

二宮尊徳 ・・・「多く稼いで、銭を少く遣うは富国の達道」

 この言葉は『二宮夜話』にあるもので、正確にはその一部だ。この件の全体を記すと、「多く稼いで、銭を少く遣い、多く薪を取って焚く事は少くする。是を富の大本、富国の達道という。然るに世の人是を吝嗇といい、又強欲という、是心得違いなり」だ。

 二宮金次郎、実名を尊徳(たかのり)、世間での名は“そんとく”。農政家としての尊徳が救った村は605カ町村、彼独自の仕法をもって根本から建て直したもの322カ村、一人の困窮民も借財もなく村を再生させたもの200カ村を超える。

 尊徳がユニークなのはその卓抜な金銭感覚だ。一枚の田から何石の米がとれるか、その米を換金すればいくらになるか。「米倉に米俵を積み上げ、何年持っていても米は増えぬ」。が、この米を売った金を巧みに運用すれば、二倍も三倍もの利息が稼げるのだ-と説く。「農民たち個々の零細な金でも、まとまれば大きくなる」。それを貸し付け、利に利を生ませ、その利益を村に還元し農地を改良し…と尊徳は、農民信用金庫への構想を熱っぽく語り続けてやまない。今から140年前のことだ。

 尊徳の仕法は「勤労」「分度」「推譲の精神」に徹することによって実行される。推譲の精神とは、「人間の勤労には欲がある。それが当然だ。欲があればあるほど、働き甲斐があり、また得られるものも多い」としながら、「しかし、得られたものを自分のためだけに使うのは、自奪というべきで、決して褒められたことではない。成果が得られたら、今度はそれを他人に譲るべきで、他人のために用立てるべきだ」ということだ。だから、推譲というのは、働いて得られた益を譲るということで、ただあるものを譲るということではない。尊徳の推譲の前提には、勤労ということがはっきり据えられている。勤労のない譲与など意味がないということだ。

 武家の家政の建て直しを乞われて、尊徳が行った独自の仕法を端的に表現したものが次の言葉だ。「推譲の道は百石の身代の者、五十石の暮しを立て、五十石を譲ると云。この推譲の法は我が教え第一の法にして則ち家産維持かつ漸次増殖の方法なり。家産を永遠に維持すべき道は、此外になし」(『二宮夜話』)。

 また、1000両の資金で1000両の商売をするのは危ないことだ。1000両の資本で800両の商売をしてこそ堅実な商売といえる。世間では100両の元手で200両の商売をするのを働きのある商人だとほめているが、とんでもない間違いだ-という。バブル経済のなかで狂奔していた虚業家たちはもとより、金融ベンチャー企業の事業家たちにとくに聞かせたい言葉だ。

 二宮金次郎は戦前、小学校の校庭にあの銅像、薪を背負い歩きながら本を読んでいる苦学少年といったイメージが強い。しかし、その実家は相模国栢山村(神奈川県小田原市栢山)の裕福な農家で、二町三反の地主でもあった。ところが、父の代でまたたく間に財産を減らし、酒匂川の氾濫で田畑は濁流にのみこまれ、後に残されたのは石河原だけだった。二宮家が貧乏のどん底に叩き込まれ、薪を背負った少年「二宮金次郎」が登場するのはこのころのことだ。14歳で父を、16歳で母を失った金次郎は母の実家に引き取られた弟二人と別れ、伯父のもとで働くことになった。これが苦学少年イメージの原点だ。

(参考資料)内村鑑三「代表的日本人」、童門冬二「小説 二宮金次郎」、神坂次
      郎「男 この言葉」、奈良本辰也「叛骨の士道」                              

藤原道長・・・「この世をばわが世とぞ思ふ望月の 欠けたることもなしと思へば」

 これは天皇の后を三代続けてわが娘で独占した=“一家三后の栄”を実現した藤原道長が、自邸で開催された華やかな祝いの宴で、即興で詠んだといわれる有名な「望月の歌」だ。 幸せの絶頂期と思われるこの時期、53歳の道長はすでに当時の不治の病に冒されていたのだ。今日でいう「糖尿病」や心臓神経症などを患う身であった。さらに晩年には「白内障」と思われる病状にも襲われていた。

 奈良時代を代表する政治家が藤原鎌足-不比等の父子二人であったとすれば、平安時代を通しての第一人者は、その子孫、藤原道長だといっても異論はないだろう。ただ、その個性、あるいは人間性といった面ではかなりタイプが違う。新しい時代を自らの手で切り拓いていった前二者に比べ、平安朝の故実先例を尊ぶ時代の、道長の政治は受け身に終始した消極的な印象が強い。また、彼は身分の高い、年上の女性に好かれて出世の階段を昇った人でもあった。

 康保3年(966)、道長は後に摂政・関白となる藤原北家の主流、名門・藤原兼家の四男として生まれた。名門の出自だが、兄が三人(道隆・道兼・道綱)で、一族には他にも男子が多い。摂政・関白の独占は道長の後継者からで、この時点で尋常に考えれば、政権の座が道長に回ってくること自体、不可能なことだった。

 ところが長徳元年(995)、30歳の道長に将来を決定づける思いがけない異変が起こった。朝廷政治をあずかる公卿14人のうち、実に8人までが流行の麻疹にかかって、次々とこの世を去っていったのだ。この時、道長の兄三人も相次いで病死。政権を担う候補として、長兄で関白を務めていた道隆の子・伊周とともに、体力堅固な道長の存在がクローズアップされることとなる。道長は姉の詮子を後ろ楯として、伊周に打ち勝って右大臣の地位を得た。翌年7月左大臣となった道長は、一条-三条の二帝(66代、67代)の治世、あくまで最高行政官=左大臣としての地位を貫いていく。

 長保2年(1000)2月、道長は13歳になったばかりの長女・彰子を一条天皇の中宮として内裏へ送り込む。寛弘5年(1008)、彰子は待望の皇子・敦成親王を産む。3年後、一条帝が崩御し、三条帝が立つと、敦成親王は皇太子となった。道長はなお攻め手を緩めず、三条帝には次女の妍子を入内させる。孫の敦成親王を天皇とし、「みうち人」とすることで、権勢を名実ともに得ることが狙いだった。
三条帝との激しい攻防戦の末、遂に長和5年(1016)正月、三条帝は退位した。この時、孫で新帝となった後一条天皇(第68代)は9歳。道長は50歳となっていた。後一条天皇の即位から1年後、寛仁2年(1018)10月16日、道長の邸内で三番目の娘・威子が、天皇の「中宮」となったことを祝う宴が開催された。冒頭の歌はこの時のものだ。

道長は万寿4年(1027)12月、屋敷の隣に建立していた東大寺を凌ぐ規模の法成寺の阿弥陀堂の中で、その62年の生涯を閉じた。背中にできた腫れ物が悪化し、死ぬ直前までその痛さに苦しむ呻きの声が聞こえたという。

(参考資料)加来耕三「日本創始者列伝」、永井路子「この世をば」