三井高利「単木は折れ易く、林木は折れ難し」

三井高利「単木は折れ易く、林木は折れ難し」
 これは『三井八郎兵衛高利 遺訓』の一節だ。この部分を正確に記すと、「単木は折れ易く、林木は折れ難し、汝等相恊戮輯睦(きょうりくしゅうぼく)して家運の鞏(きょう)を図れ」というものだ。1本の木は折れやすいが、林となった木は容易に折れないものだ。わが家の者は仲睦まじく互いに力を合わせ家運を盛り上げ固めよ-という意味だ。 
 伊勢松坂の越後屋、三井高俊の女房(法名を殊法)は、連歌や俳諧などにうつつをぬかして家業を省みない夫に代わって、毎朝七ツ(午前4時)に起きて酒、みその販売と質屋を切り回し、四男四女のわが子を育てるというスーパー女房だった。この四男が三井財閥三百年の繁栄の基礎を築いた三井八郎兵衛高利(1622~94)だ。少年期の高利は、この松坂の店で母から商家の丁稚として厳しくしつけられている。
 当時の商人の理想は「江戸店持ち京商人」だった。江戸時代、最大の商品である呉服(絹織物)を日本第一の生産地、京都に本店をおいて仕入れ、大消費都市江戸で売りさばくため店を構える。これが商人の念願でもあった。商才にたけた殊法は当然、長男の俊次(三郎右衛門)を江戸に送り本町四丁目に店を開かせた。
 高利は14歳になったとき、母の殊法から江戸の兄の店で商売を習ってきなさい-と修業に出される。が、彼は江戸で長兄の俊次が舌を巻くほどの商才を発揮する。長兄から店を任された高利は、10年間で銀百貫目ほどだった江戸店の資金を千五百貫目(約2万5000両)に増やしているのだ。俊次はこんな知恵のよく回る弟が空恐ろしく、将来高利が独立して商売敵になれば、自分の店はおろか、わが子たちはみな高利に押し潰されてしまう-と頭を抱えた。そんなとき、松坂にいて母と店をみていた三男の重俊が36歳の若さで急死してしまった。次男弘重は上野国(群馬県)の桜井家へ養子に行っていたので母と店をみる者がいない。そこで、俊次は高利に松坂に帰って母上に孝養を尽くしてくれと、江戸から追い払った。俊次にとって格好のタイミングで厄介払いできたわけだ。
 以来、高利は老母に仕え店を守り、江戸での独立の夢を抱きながら鬱々として20余年の歳月を過ごすことになる。江戸の俊次が死んだとき、高利はすでに52歳になっていた。しかし、彼のすごいのはこれからだ。かねてからこの日のために、わが子十男五女のうちから、長男の高平、次男の高富、三男の高治と3人の息子を江戸に送り、俊次の店で修業させていた。その息子たちを集めると、本町一丁目に呉服、太物(綿織物)の店を開き、故郷の屋号を取って越後屋と名付けた。後年の三井財閥の基礎となる巨富は、晩年の高利のこの店で稼ぎ出されたものだ。
雌伏20余年、高利が練りに練った、当時としては誰も思いいつかなかった卓抜な商法が次から次へと打ち出される。その頃の商人の得意先を回っての、盆暮れ二度に支払いを受ける“掛売り”(“屋敷売り”)商売ではなく、“現銀掛値なし”つまり定価による現金販売の実施だ。そして得意先を回る人件費を節約した「店売り」であり、今まで一反を単位として売っていたものを、庶民にも買えるように「切り売り」をしたのだ。この店頭売り商法は大当たりした。
そんな状況に“本町通りの老舗”の商人たちは越後屋に卑劣な嫌がらせに出る。そこで高利はつまらぬ紛争に巻き込まれることを避け、駿河町へ移った。駿河町でも高利の商法は江戸の人々に受け入れられ、巨富を築き上げていく。その繁昌ぶりをみると、井原西鶴の「日本永代蔵」には享保年間(1716~36)、毎日金子百五十両ずつならしに(平均して)商売しける-とある。新井白石の「世事見聞録」には文化13年(1816)、千人余の手代を遣い、一日千両の商いあれば祝をする-とある。まさに巨富としか表現のしようがない。
天和3年(1683)、高利は駿河町南側の地を東西に分けて、東側を呉服店、西側を両替店とした。これが後の三越百貨店、三井銀行となった。

(参考資料)童門冬二「江戸のビジネス感覚」、永井路子「にっぽん亭主五十人史」、神坂次郎「男 この言葉」、大石慎三郎「徳川吉宗とその時代」、小島直記「逆境を愛する男たち」、中内 功・中田易直「日本史探訪/江戸期の芸術家と豪商 三井高利」

正岡子規 「貫之は下手な歌よみにて古今集はくだらぬ集に有之候」

正岡子規 「貫之は下手な歌よみにて古今集はくだらぬ集に有之候」
 この言葉は1898年(明治31年)正岡子規が書いた『歌よみに与ふる書』に書かれているものだ。子規は日本の最も伝統的な文学、短歌の世界で革命を断行し成功させた。子規以後の歌人は、彼の理論に大きく影響された。また、彼は俳句・短歌のほかにも新体詩・小説・評論・随筆など多方面にわたり、創作活動を行い、日本の近代文学に多大な影響を及ぼした。
 革命は伝統的権威を否定することだ。短歌でいえば「古今集」がその聖書(バイブル)だった。子規はこの古今集の撰者であり代表的歌人である紀貫之を「下手な歌よみ」と表現、古今集をくだらぬ歌集と断言したのだ。子規は貫之だけでなく、歌聖として尊敬された藤原定家をも「『新古今集』の撰定を見れば少しはものが解っているように見えるが、その歌にはろくなものがない」と否定している。賀茂真淵についても『万葉集』を賞揚したところは立派だが、その歌を見れば古今調の歌で、案外『万葉集』そのものを理解していない人なのだとしている。これに対して子規は、万葉の歌人を除いては、源実朝、田安宗武、橘曙覧を賞賛している。
 子規の言葉は激越だが、そこには彼の一貫した論理が存在している。彼の革命はまさに時代の要求だったのだ。『歌よみに与ふる書』は日清戦争が終わって、戦争には勝利したのに列強の三国干渉に遭い苦渋を味わされた。それだけに、強い国にならなければならない。歌も近代国家にふさわしい力強い歌でなくてはいけない-というわけだ。
子規は、主観の歌は感激を率直に歌ったもの、客観の歌は写生の歌であるべきだと主張した。言葉も「古語」である必要はなく、現代語、漢語、外来語をも用いてよいと主張した。この主張は多くの人々に受け入れられ、子規の理論が近代短歌の理論となった。子規の弟子に高浜虚子、河東碧梧桐、伊藤左千夫、長塚節らが出て、左千夫の系譜から島木赤彦、斎藤茂吉など日本を代表する歌人が生まれた。
子規は伊予国温泉郡藤原町(現在の愛媛県松山市花園町)に松山藩士・正岡常尚、妻八重の長男として出生。生没年は1867年(慶応3年)~1902年(明治35年)。本名は常規(つねのり)、幼名は処之介(ところのすけ)、のちに升(のぼる)と改めた。1884年(明治17年)東京大学予備門(のち第一高等中学校)へ入学、同級に夏目漱石、山田美妙、尾崎紅葉などがいる。軍人、秋山真之は松山在住時からの友人だ。子規と秋山との交遊を描いた作品に司馬遼太郎の小説「坂の上の雲」がある。
1892年(明治25年)帝国大学文科国文科を退学、日本新聞社に入社。1895年(明治28年)日清戦争に記者として従軍、その帰路に喀血。この後、死を迎えるまでの約7年間は結核を患っていた。病床の中で『病床六尺』、日記『仰臥漫録』を書いた。『病床六尺』は少しの感傷も暗い影もなく、死に臨んだ自身の肉体と精神を客観視した優れた人生記録と評価された。
野球への造詣が深く「バッター」「ランナー」「フォアボール」「ストレート」「フライボール」などの外来語を「打者」「走者」「四球」「直球」「飛球」と日本語に訳したのは子規だ。
辞世の句「糸瓜咲て 痰のつまりし仏かな」「をととひの へちまの水も取らざりき」などから、子規の忌日9月19日を「糸瓜(へちま)忌」といい、雅号の一つから「獺祭(だっさい)忌」ともいう。

(参考資料)「正岡子規」(ちくま日本文学全集)、梅原猛「百人一語」、小島直記「人材水脈」、小島直記「志に生きた先師たち」

 

 

 

 

 

足利尊氏・・・「文武両道は、車輪の如し。一輪欠ければ人を度さず」

 これは室町幕府の創設者、足利尊氏が最晩年の延文2年(1357)に書き残した、二十一箇条からなる『等持院殿御遺言』の一節だ。国を治めるものは学問を身につけるべきである。とはいえ、戦だけを働きとする武者には学問などは無用である。

「五兵にたずさわる者に、文学は無用たるべし」。刀など五種類の武器をもって戦う男たちに学問は無用。生かじりの学問をもてあそべば、口先ばかり達者で心正しからざる侫(ねい)者となる者多し、心得るべきことだ-と尊氏は説く。

 足利氏の祖は八幡太郎源義家の第三子、源義国が晩年、足利の別業(別荘)にこもり、その次男の源義康が足利の庄を伝領したことから始まる。尊氏(初名は高氏)はこの直系、足利貞氏の嫡男として生まれている。彼の名前が歴史の舞台に表れるのは元弘元年(1331)9月、後醍醐天皇が鎌倉幕府の討伐を企て、途中で露見して笠置(現・京都府相楽郡笠置町)に潜幸したとき、幕府の差し向けた討手の六十三将の一人として登場する。27歳の時のことだ。

 ただ、高氏は鎌倉幕府への反逆を起こす立場になかった。なぜなら先祖は源頼朝や北条政子とも縁戚を結び、以後、足利氏は北条一門とも代々、密接な血縁関係を幾重にも結んできたからだ。本来彼は革新的な人物ではなかった。性格は保守的で、日和見主義者であったとさえいえる。現代風に表現すれば、名家のお坊ちゃんだ。足利家に代々伝わる遠祖義家の「置文」(遺言状)がなければ、後世の尊氏はなかっただろう。

「天下を取れなかった八幡太郎義家が、七代目の子孫に生まれ変わって、かならず天下を取る」がそれだ。そして足利家ではこれを信奉し、義家の七代後の子孫である家時は、ご先祖の「置文」の通りに天下が取れなかった自分を嘆き、恥じ、八幡大菩薩にわが命を縮めるかわりに、これより三代の後に今度こそ、望みを叶えてくれと置文を残して、切腹して果てた。その三代目が高氏だった。彼は周囲に押し上げられるように、謀反決起を考えねばならなくなった。

その点、尊氏は時代の趨勢を的確に読んでいた。鎌倉幕府に対する不平・不満は全国の武士の間に満ちていた。そこへ天皇が反旗を翻して、一部の公家が荷担した。幕府はこれを弾圧したものの、政権としての権威の失墜は明らかだった。

元弘3年、笠置で捕らえられ隠岐(島根県)に流された後醍醐帝は再び脱出。後醍醐帝軍を討つことを命じられた高氏は、密かに後醍醐帝の綸旨(みことのり)を得て丹波、篠村八幡宮で鎌倉幕府に反旗を翻して、軍を反転して六波羅探題を討ち、北条一族を滅亡に導いた。高氏は殊勲第一の者として鎮守府将軍に任ぜられ後醍醐帝の尊治の一字を賜り尊氏と改名する。ところが、尊氏はほどなく後醍醐帝と対立し、持明院統の豊仁親王を担ぎ皇位につけ、光明天皇として遂に足利十代にわたる悲願であった足利幕府を樹立する。

ただ、ここに至る行動の采配は実弟の直義や執事の高師直が振るっているのだ。室町幕府の創設期、幕府の実権は直義と師直の両者が握ることになる。この両者に実権を握られ続けながら、「人望」のある尊氏は時代の方向を的確に読み、カリスマ性を発揮しつつ、遂には征夷大将軍となった。
   
(参考資料)加来耕三「日本創始者列伝」、神坂次郎「男 この言葉」、海音寺潮五郎「覇者の条件」

在原業平・・・「つひに行く道とはかねて聞きしかど 昨日今日とは思はざりしを」

 人間の死に例外はない。誰にでも訪れる。しかし、昨日今日とは思わなかった-という驚きと不安と絶望、さらにはこの世に対する未練など様々な心情や思いが含まれた歌だ。 

 在原業平(825~880年)は平安初期の歌人で六歌仙の一人だが、「色好み」として知られている。業平の恋のアバンチュールの相手は二条后・藤原高子と恬子内親王とが主なものだ。藤原高子は清和天皇の后であり、陽成天皇の母だ。恬子内親王は文徳天皇の皇女であり、伊勢の斎宮として男性との一切の交渉を禁止されていた女性だ。このほか、清和天皇の后で貞数親王の母である姪の在原文子とも、仁明天皇の皇后で、文徳天皇の母である藤原順子、すなわち五条后とも男女関係があったとみられている。すべて貴顕の、いやもっといえば、通常は全くタブーの相手ばかりなのだ。

 こうみてみると、業平の恋の情熱は普通の形では燃え上がらず、なぜかタブーを犯した時に初めて激しく燃え上がるのではないか。その理由は彼の生まれにあるのではないだろうか。彼は平城天皇の皇子・阿保親王の第五子で、その母伊豆内親王は桓武天皇の皇女だ。平城天皇は嵯峨天皇の兄で、本来なら彼はこの平城天皇の系譜に伝えられるべきであった。しかし、「薬子の乱」によって一門は失脚し、阿保親王は親王の位として最も低い四品にとどまり、伊豆内親王は无品であり、その子供たちも826年、やむなく臣籍に下り、「在原」姓を名のったのだ。

 これは勝手な類推に過ぎないが、業平の心の中に“天皇”への野望が隠れていたのではないかと思われる。「薬子の乱」などの混乱が起こらなければ、本来、自分は天皇となるべき存在だったのに-との密かな思いがあったのではないだろうか。それで、現実には叶えられぬ痛切な、無念の思いを、タブーの天皇の后妃たちとの恋に身をやつし、人生のすべてを捧げたのではないか。

 業平はその容姿が美しく、美男の典型とされている。放縦で物事にこだわらず、天才肌で多くの優れた歌を残している。次の歌などはよく知られている。

 世の中に絶えて桜のなかりせば 春の心はのどけからまし
世の中に桜がなかったら、春の日々はもっとゆったりと暮らすことができるだろうに。桜があるために忙しくてしかたがない-という意味だ。それほど、この時代の人々は桜の咲く頃を、桜の美しさを讃えるとともに、桜に様々な思いを託して楽しんだのだ。
 
 『伊勢物語』は色好みの男としての伝説を歌物語に結晶させたものだ。この中のよく知られた秀歌も取り上げておきたい。

 名にしおはばいざ言問はむ都鳥 わが思ふ人はありやなしやと
これは武蔵と下総の境の隅田川で詠んだ歌だ。都鳥(ユリカモメ)という名をもつ鳥と聞いて都の恋人を想い起こすのは業平ならではだ。いま、東京の中心を流れる隅田川には言問橋(ことといばし)、その支流に業平橋がかかっている。

(参考資料)梅原猛「百人一語」、松崎哲久「名歌で読む日本の歴史」
                             

伊能忠敬・・・「緯度一度の距離を測る」 日本全土の精密地図をつくる

 伊能忠敬は19世紀の初頭、それまでは存在しなかった日本全土の精密地図を、50歳を過ぎてから取り組んだ第二の人生でほぼ独力でつくり上げた。その基本となるのが上記の「緯度一度の距離を測る」ということであった。

といっても、実測する以前に難しい点や高いハードルがいくつもあった。周知の通り、徳川時代は「幕藩体制」で「中央集権と地方自治の混合時代」だ。幕末時点でも全国に280の大名家・藩があり、藩と藩との間には厳しい国境が設けられ、関所がつくられていた。人の出入りや、ものの流れのチェックが、現在ではとても信じられないほど厳しい時代だった。

また、固く確立した「士農工商」の身分制があった時代のことだ。「一農民が何人もの大名の領地に入って、いろいろと測量することは大きな反発を招く」というわけだ。そこで、忠敬の身分は「公儀お声掛り」という幕府公認の測量者という体裁がつくられた。

 忠敬は寛政12年(1800年)、55歳のときから文化13年(1816年)、71歳のときまで16年間にわたり10回もの日本国内測量を続けた。測量のために歩いた距離は4万3000・・。地球を一周してなお、おつりのくる長さだ。総日数3753日にもなる測量の旅で、第一の人生で家業立て直しや村政で培った合理主義と創意工夫で問題を一つ一つ解決しながら、測量法や測量機器の改善を重ねて、精密な「大日本沿海輿地全図」を完成させた。

 ただ、残念なことに忠敬は自分の手では完成させることはできなかった。文政元年(1818年)、持病のぜんそくが悪化し、忠敬は74歳の生涯を閉じる。それから3年後、忠敬の測量による「大日本沿海輿地全図」が、門人たちの手で幕府に納められた。

だが幕府はこの地図を公開せず、秘蔵してしまう。「伊能図」の優秀さが世界に知られるのは、それから40年後のことだ。文久元年(1861年)、来日した英国の測量艦隊は、幕府から派遣された役人が所持していた伊能小図を見て、その精密さに驚嘆した。

そのため、その測量艦隊は改めて測量する必要がないと判断。それを写させてもらい、日本近海の深さだけ測って帰ってしまったという。明治になっても、陸軍参謀本部測量局が作成した20万分の1の地図の中心となったのは、伊能中図だった。

 「人生わずか50年」といわれた200年も前に、50歳を過ぎて新しい学問に取り組み、これをマスター。そして、日本列島北から南までのほとんどを踏査、また独自に測量機器に改善を加えながら、当時の外国人からみても驚嘆するほどの精密な日本地図を完成させた伊能忠敬のすさまじいエネルギーには脱帽するしかない。

(参考資料)童門冬二「伊能忠敬 生涯青春」、加来耕三「日本創始者列伝」

上杉鷹山・・・ 「国家は私すべきものにあらず」 江戸期に「主権在民」謳う

 これは米沢藩・九代藩主上杉鷹山が前藩主の実子、治広に藩主の座を譲り隠居するときに藩主の心得として与えた『伝国之辞(譲封之詞)』にある言葉だ。

全体を記すと、
一、 国家ハ先祖より子孫へ伝候国家にして、我私すべき物にハ無之候
一、 人民ハ国家に属し足る人民にして、我私すべき物にハ無之候
一、 国家人民の為に立たる君にて、君の為に立たる国家人民には是なく候

 ここでいう国家とは米沢藩、人民とは領民のこと。「藩と藩民は大名やその家臣が私するべきものではない」と力強くその公共性を説いている。これは今日でいう「主権在民」の思想だ。まだジャン・ジャック・ルソーも生まれていないし、フランス革命も起こっていない。米国でリンカーンが「人民による、人民のための、人民の政治」と声高に叫んだあの有名な演説よりはるか前に書かれたものだ。徳川の厳しい幕藩体制の枠組みの中での発言だけに、その勇気には目を見張らせるものがある。現代の政治家にも、大いにかみ締めてもらいたい言葉だ。米国大統領ジョン・F・ケネディが尊敬する日本人として挙げたのもうなずける。

 鷹山は明和4年(1767)、17歳で米沢藩主になった時に、自分の決意を和歌に詠んでいる。「うけつぎて国の司の身となれば 忘れまじきは民の父母」がそれだ。きょうからは家臣や藩民の父となり母となり、彼らを慈しむ政治を行おう-との覚悟を述べたものだ。

 上杉鷹山(1751~1822)は日向(宮崎県)高鍋藩3万石秋月種美の次男で幼名直丸、のち治憲、鷹山は号。宝暦10年(1760)出羽(山形県)米沢15万石の藩主、上杉重定の養嗣子となる。家督を継いだ時の藩財政は、万策尽きた前藩主重定が藩主の地位を放棄し、15万石の領土を幕府に返上しようという前代未聞の決断をしたほどの窮状ぶりだった。

この倒産同然の老朽会社ともいえる米沢藩を鷹山は・従来の諸儀式、仏事、祭礼、祝事を取り止めまたは延期・50人の奥女中を9人に減らす・藩主以下全員、食事は一汁一菜、綿服の着用、贈答の廃止-など12カ条に及ぶ倹約令を公布。また農村の復興に取り組み、藩士たちにも開墾を奨励したほか、農家の副業を奨励し桑・コウゾ・漆の栽培を指導し、製糸技術の改良、織布技術の輸入を図り、京都や越後の小千谷から職人を招いて、産業技術振興に務めた。その結果、藩内に大いに織布工業が興り、江戸でも米沢の織物の声価を高めた。

こうした様々な諸施策によって、天明5年(1785)米沢藩を黒字財政に乗せた後、まだ35歳の若さで鷹山は藩主の座を譲り隠居した。当時はもとより、現代ではとても考えられない見事な進退の処し方だ。

(参考資料)童門冬二「上杉鷹山の経営学」、童門冬二「小説 上杉鷹山」、藤沢周平「漆の実のみのる国」、内村鑑三「代表的日本人」、神坂次郎「男 この言葉」

勝海舟・・・ 「党派をつくるな、子分をもつな」

 勝海舟が遺した言葉には様々な名言があるが、これは『氷川清話』に出てくる言葉だ。
その件(くだり)を引用すると

「なんでも人間は子分のない方がいいのだ。見なさい。西郷も子分のために骨を秋風にさらしたではないか。おれの目でみると、大隈も板垣も始終自分の定見をやり通すことができないで、子分にかつぎ上げられて、ほとんど身動きもできないではないか。およそ天下に子分のないのは、おそらくこの勝安芳一人だろうよ。それだから、おれは、起きようが寝ようが、しゃべろうが、黙ろうが、自由自在、気随気ままだよ」

人を食ったような、皮肉たっぷりな口ぶりで語っている。
確かに、勝海舟は徒党を組んで事を運ぶということはなかった。幕末~明治維新の大きな節目の一つとなった江戸城の“無血開城”にしても、幕府軍すべての実権を掌握、軍事取り扱いに昇進した海舟が、西郷隆盛との会談でまとめあげたものだ。

当時は慶応4年(明治元年、1868)鳥羽伏見の戦いに幕軍を撃破し、勢いに乗る官軍が江戸城総攻撃を叫んでいたわけで、西郷に対する相手が海舟だったからこそできたことといわざるを得ない。
 とはいっても海舟は幕臣であり、生涯“一匹狼”的に行動したわけではない。海舟のもとに様々な人が群がり集まった時期もあった。万延元年(1860)正月、海舟は軍艦咸臨丸の艦長として太平洋を横断、米国へ渡った。帰国後海舟は14代将軍家茂の信任を得て軍艦奉行並、従五位下安房守となり、神戸海軍操練所を建設。

こんな幕府海軍きっての高官で、当代随一の海外新知識の持ち主である海舟のもとに勤皇・佐幕を問わず様々な人材が集まった。坂本龍馬、吉村寅太郎、桂小五郎(木戸孝允)などで、中には“人斬り以蔵”の異名で恐れられた土佐の岡田以蔵までやってきて、結局は海舟に説かれて心服し、彼の身辺警護を務めるという時期もあったほど。

しかし、海舟は彼らと“党派”を組むこともなければ、誰かを“子分”にすることもなかった。大胆かつ沈着冷静な進言により、抜擢・登用と失脚を繰り返した幕臣、海舟。彼は最終的に「西南戦争」で散った盟友、西郷に対し、「西郷も、もしあの弟子がなかったら、あんなことはあるまいに、おれなどは弟子がないから、このとおり今まで生きのびて華族様になっておるのだが、もしこれでも、西郷のように弟子が多勢あったら、独りでよい顔もしておられないから、何とかしてやったであろう」と人間の弱さを認めつつ、「なんでも人間は子分のない方がいいのだ」と子分を持つことを戒めている。

(参考資料)「氷川清話」(勝海舟 勝部真長編)、「男 この言葉」(神坂次郎)
      「江戸開城」(海音寺潮五郎)、童門冬二「小説 海舟独言」

河村瑞賢・・・「なすところはみな夢幻にして、実相を悟るべし」

 これは河村瑞賢が晩年、その著書『農家訓』の中で語っている言葉の一節だ。長いので中略して主旨部分を記すと「夢幻の身を以って夢幻の身を養い、夢幻の身を育て夢幻の身を厭い、なすところはみな夢幻にして、不思議(思考を超えた)の法門に入り、すなわち実相(真理)を悟るべし。(略)すみやかによろしく有縁(仏法に縁のある)の教法によって、未来の解脱(現世の苦しみから解放され絶対自由の境地に入る)を得るべし」だ。

 徳川・元禄時代、天下有数の政商となり、旗本にまでのし上がった瑞賢にしては、ずいぶん気弱な無常観に満ちた言葉だ。これが功成り名遂げた人間がたどりついた、枯れた境地なのか。
 瑞賢は元和4年(1618)伊勢国度会郡東宮村の貧しい農夫太兵衛の長男に生まれた。通称を十(重)右衛門。生活の道を求めて13歳で江戸へ。だが、江戸での車力(車曳き)暮らしに絶望した彼は、やがて都落ちする。その失意の道中の小田原宿で、彼は旅の老僧に諭され、再び江戸へ引き返して行く。そして品川の海岸まで来たとき、折から盂蘭盆過ぎで浜辺には仏前に供えた、おびただしい量の胡瓜や茄子が打ちあげられていた。「これだ」と感じた彼は、乞食たちに銭をやり、それを拾い集めさせ漬物にして売り出し、大もうけした。一般によく知られている瑞賢の出世譚の一つだ。 

こうして稼いだカネを資金に、大八車を買い求め車曳きたちを集め車力業の第一歩を踏み出した。大江戸開発ブームの花形である車両運送の親方になった十右衛門は、稼ぎ集めたカネを投入して材木商となり、さらに普請と作事、つまり土木と建築の請負業へと転進する。 

 そして明暦3年(1657)江戸城をはじめ江戸市街の大部分を焼き尽くした未曾有の大火が起こる。「いまだっ」と感じた瑞賢は手元にあった10両を懐中にして木曾へ走った。江戸大火の風評も届かぬ先に木曾にたどりついた彼は、山林王といわれる屋敷の門に駆けつけ、庭先で遊んでいたその家の子供を見ると、懐から小判3枚を取り出し、小柄で穴を開けこよりを通してガラガラ玩具をこしらえて与えた。

子供がもらった小判の玩具に驚いた主人は、瑞賢をよほどの分限者(富豪)と思い、後からカネを持ってくる番頭を待っているという瑞賢を信用し、持ち山すべての材木を売り渡す証文に印を捺した。そして、瑞賢が雇った人夫たちが伐り出してきた材木に「河村」の刻印を打っているころ、ようやく江戸の材木商たちが木曾材の買い付けになだれ込んできた。

 が、もう遅い。彼らは瑞賢から彼の言い値で高価な材木を買うしかなかった。材木商たちに売却した代金で山林王への支払いを済ませ、残りの大量の材木を江戸に運んだ瑞賢は、他の材木商よりはるかに安い材木を売り出し、すべて売り尽くして巨利を博したという。抜群の知恵者、瑞賢の一端を示すエピソードの一つだ。

 ディベロッパーとしての瑞賢の偉大さも見落とせない。彼は「幕府御用」の金看板のもとに海運界の地方分権(諸国大名領)を解体し、幕府のお声がかりの事業として奥州(福島、宮城、岩手、青森)からの東廻りの航路、そして近世海運史上画期的ともいう出羽(山形)からの西廻り航路を開発したのだ。この航路の出現によって、江戸、大阪はもとより諸国の都市に飛躍的な繁栄をもたらした。

(参考資料)童門冬二「江戸の賄賂」、神坂次郎「男 この言葉」

                             

黒田官兵衛・・・ 「分別過ぐれば大事の合戦はなし難し」

 これは、黒田官兵衛が臨終の床で紫の袱(ふくさ)に包んだ草履片方、木履片方と溜塗の面桶(弁当箱)を形見として嫡子長政に与え、語った言葉の一部だ。全体を記すと、「軍(いくさ)は死生の界なれば、分別過ぐれば大事の合戦はなし難し」だ。戦さは生きるか死ぬかの大ばくちゆえ、思慮が過ぎては大事の合戦はできぬ。時によっては草履と木履を片々にはいても駆け出す心構えがなくてはならぬ。また、食物がなければ何事もできぬものなり。ゆえに金銀を使わず、兵糧を貯え、一旦緩急の軍陣の用意を心がけておけ-そう語ったという。

 黒田官兵衛(孝高・号して如水、1546~1604)。幼名を万吉といい、播磨国(兵庫県)御著(ごちゃく)城の主、小寺政職の猶子(養子)、美濃守職隆の子。黒田家の出自は、戦国大名の多くがそうであるように、はっきりしたものではないが、近江国伊香郡黒田だといわれている。黒田氏が近江から備前国福岡に転じたのは永正のころで、戦乱を逃れてさらにそこから播磨の御著に移り住んだ。この地で黒田家は家伝の目薬「玲珠膏」を商い、小地主になった。官兵衛の父のころになると、近隣に鳴り響くほどの大地主にのし上がり、黒田家の郎党、下男は200人にも及んだという。こうして彼は小寺官兵衛の名で歴史の舞台に登場する。

 中国攻めの軍を率いて播磨に下向した当時の羽柴秀吉を姫路城に迎えた官兵衛は、秀吉に三つの策を献じている。いずれも卓越した策だった。この智謀に舌を巻いた秀吉は官兵衛と誓書を交わし、兄弟の約を結んだといわれる。以来、官兵衛は秀吉の参謀の竹中半兵衛とともに、帷幄(本陣)の謀臣として数々の卓絶した作戦を展開した。

中でも京都・本能寺の変に接したときの官兵衛の策は見事だった。ただ、少しやりすぎた。本能寺の変の飛報を受けて秀吉が呆然としているのを見て、官兵衛は微笑を浮かべて「ご運の開かせ給うべき時が来たのでござりまする。この機を逃さず、巧くおやりなされ」と囁いた。秀吉は自分の心中の機微を苦もなく見抜いた官兵衛の鋭さに驚き、以後、警戒し心を許さなくなったという。

秀吉が官兵衛ほどの天下第一流の参謀に生涯、豊前中津で12万2000石の小禄しか与えなかったのは、このことがあったからとだといわれる。後に官兵衛は、このことを秀吉が側近の者に洩らしたという噂を耳にするや、髪を下ろして隠居し、如水を号し、家督を嫡子の長政に譲ってしまった。さらに官兵衛は、秀吉の疑心を避けるために側近を離れず参謀として小田原征伐、朝鮮の役に従っている。官兵衛の芸の細やかなところだ。

秀吉の死後、官兵衛は家康に与したが、心底では「あわよくば天下を」と虎視眈々、野心を燃やし続けた。関が原の争乱に乗じ、豊前中津を打って出て豊後、筑前、筑後など手当たり次第に攻略し、我が手に納めるという怪物ぶりを発揮した。そして、官兵衛の心中はこうして九州全土を制圧したうえで、徳川家康と石田三成が戦い疲れたころを見計らって中央に進出し、天下を掴もうという魂胆だったという。しかし、世の形勢が家康に動いていると見るや、関が原の戦後、いままでの謀反気など全くなかったかのように、ぬけぬけと家康に祝いを述べ、息子の長政のために筑前福岡52万石をちゃっかりせしめている。戦国の勝負師、黒田官兵衛の面目躍如といったところだ。

(参考資料)司馬遼太郎「播磨灘物語」、加来耕三「日本補佐役列伝」、神坂次郎「男 この言葉」

西行・・・ 「願はくは花のもとにて春死なむ そのきさらぎの望月のころ」

 この歌は西行が62~63歳のころ詠んだものといわれるが、後世、その辞世の歌と喧伝されるようになった。きさらぎ(陰暦2月)の望月(満月)のころ-釈迦の命日-に満開の桜の下で死にたい-の意。建久元年(1190)2月16日、南河内の弘川寺において、享年73歳で西行はその数奇に富んだ生涯を閉じているから、冒頭の歌の通り、10年後ほぼ望みどおりの死を迎えたといえる。

 西行は俗名を佐藤義清といい、元永元年(1118)、武門の伝統を誇る検非違使・佐藤康清の嫡男として生まれた。同年、平家の総帥となる平清盛も生まれている。義清の佐藤氏は平将門の乱を平定した“俵藤太”こと、藤原秀郷の流れで、義清の祖父・佐藤季清も、出雲国に狼藉を働いた源義親(義家の子)の処刑に立ち合うなど、その名を知られた人物だった。父・康清も検非違使の宣旨を受け、白河院(第七十二代天皇)の「北面の武士」にも召されている。

 この「北面」は白河院の時に設置された制度で、御所の北面に詰める警備の者。下級官人の子弟から厳選され、弓・馬術に優れているのはもとよりのこと、容姿端麗で詩文・和歌・管弦・歌舞の心得も必須であり、官位は五、六位と低かったものの、宮廷の花形として注目を集める役職だった。義清も北面の武士にやがて選抜されるが、任官まで苦労し時間がかかった。父が若くして急逝したため、父の功績によっての任官が叶わず、当時盛んに行われていた財物によって官職を買い取る道-「年給」、「成功(じょうごう)」-によらねばならなかったからだ。18歳の時一族、必死の「成功」に応募、やっとの思いで「兵衛尉」へ任官した。これだけ苦労した末の任官だったが、保延6年(1140)、名を「西行」と改め23歳の若さで出家してしまう。

 西行の実家は紀伊国に「田仲庄」という荘園を持っていた。家庭は裕福である一方、西行の母は「監物源清経の女(むすめ)」(尊卑分脈)とあり、この清経は今様の達人として世に聞こえた粋人だった。西行はこの祖父にも薫陶を受けていた。その結果、西行は蹴鞠では世に聞こえた使い手だった。また騎馬・弓術の精華といわれる「流鏑馬」にも熟達。文武を極めた彼の前途は洋々たるものがあったはずだが、突然、世の栄達を捨て出家した真相は明らかではない。

 西行はまず洛外の嵯峨に草庵を結んだが、仏法修業と和歌に励みながら陸奥、四国、中国、九州と諸国へ漂泊の旅を繰り返した。彼は平清盛の全盛期、その主催の法会にも参加し、平家一門とも親しく付き合っている。治承4年(1180)伊勢に居を移し、平家滅亡後、平重衡が焼いた東大寺復興の勧進にも携わり、奥州・平泉に藤原秀衡を訪ねる途中、鎌倉で源頼朝と語り明かしている。

 西行の遺した秀歌は数多いが、伊勢参宮の際の歌を取り上げておこう。
 なにごとのおはしますかは知らねども かたじけなさに涙こぼるる
この歌は日本人の自然観、宗教観を歌った名歌だ。五十鈴川の清冽な流れを見て、聳え立つ杉並木の参道を歩む時に、恐らく万人が感じるであろう敬虔な気持ちがそのまま表れている。

(参考資料)辻邦生「西行花伝」、松崎哲久「名歌で読む日本の歴史」、加来耕三「日本創始者列伝」

                             

渋沢栄一・・・ 「一物に接するにも必ず満身の精神を以てすべし」

 これは渋沢栄一が生涯の信条とした家憲三則の「処世接物の綱領」の条のごく一部の言葉だ。主な部分を抜き出してみよう。

一. 凡そ一事を為し、一物に接するにも必ず満身の精神を以てすべし。瑣事(さじ)たりとても之をゆるかせ(おろそか)に付すべからず。
一. 富貴に驕るべからず、貧賤を患(うれ)うべからず、唯知識を磨き徳行を修め          
  て、真誠(まこと)の幸福を期すべし。
一. 口舌は禍福の因って生ずる処の門なり、故に片言隻語と雖も、必ずこれをみだりにすべからず。
一. 人に接するには必ず敬意を主とすべし、宴楽遊興の時と雖も、敬礼を失うこ          
  とあるべからず。
一. 益友を近づけ、損友を遠ざけ、苟(いやしく)もおのれにへつろう(諂う)者を友とすべからず。

 渋沢栄一は天保11年(1840)2月、武蔵国血洗島村(現在の埼玉県深谷市血洗島)に生まれた。本家では、当主は代々市郎右衛門と名乗った。父の市郎右衛門美雅は晩香と号するような雅人だったから、子供の教育には熱を入れた。物心がつくと栄一はこの父から孝経、小学、大学、中庸、そして論語を学んだ。7歳になると、父は栄一の従兄弟に当たる尾高惇忠という学者に学問を習わせた。惇忠は、福沢諭吉と同じように「士農工商」という身分制に激しい怒りを抱く、かなり激しい思想の持ち主で、単なる学者ではなかった。論語をテキストの中心に置いていたが、頼山陽の『日本外史』など日本の歴史に関する本も副読本として使っていた。

 栄一は24歳のとき、尾高惇忠と従兄弟の渋沢喜作とともに69人の同士を集め武装蜂起して「高崎城乗っ取り、横浜焼き打ち」の一大攘夷計画を企てる。が、幕吏の知るところとなり、計画は頓挫。彼は血洗島村を出奔、江戸に向かう。この後、彼は人生の大転換を迎える。一橋家の用人、平岡円四郎の勧めで攘夷論を捨てた栄一は、一橋慶喜の御用談下役として出仕するが、たちまち算勘の才を認められ一橋家の財務を預かる御勘定組頭となる。2年後の慶応2年(1866)一橋慶喜は徳川宗家を継ぎ十五代将軍に。家臣の栄一もまた幕臣となる。

翌年、慶喜の命を受けた栄一は、パリ万国博に向かう慶喜の弟、徳川昭武に随行して欧州各国を巡歴することになった。この西欧視察の旅で栄一は、攘夷思想の無意味さと、欧州の工業や経済制度の重要さを、嫌というほど思い知らされた。そして、これからの日本は「一に経済、二に経済」だと、経済の仕組みや金融制度、株式制度の知識の吸収に没頭する。こうして明治元年(1868)11月、徳川昭武一行は帰国。が、この間、日本は大きく変わっている。徳川幕府はすでに瓦解し、将軍慶喜は静岡の地で謹慎の身だった。

その静岡藩に勘定組頭として出仕した渋沢栄一は、わが国最初の「共力合本法(株式会社制度)」組織の商事会社、商法会所(取引所)を設立した。この成功がやがて明治新政府の知るところとなり、大蔵省に招かれた栄一は、租税正(局長クラス)として大蔵省の実力者、井上馨の右腕となって活躍する。が、政府内部の各省と意見が合わず、井上とともに辞職し、野に下った。以来、60年、合本主義の旗手として実業界に乗り出し「経営の指導者」「会社づくりの名人」として彼が果たした役割は極めて大きい。

第一国立銀行を設立し頭取となり、続いて国立銀行条例の改正、銀行集会所の設立、日本銀行の設立…。彼が着手した事業で成功しなかったものはないといわれたくらい、経営の世界における彼の洞察力と指導力は卓絶していた。渋沢栄一が関わった業種は500余り、日本の産業すべてが網羅されているといっても言い過ぎではない。
 
(参考資料)城山三郎「雄気堂々」、童門冬二「渋沢栄一 人間の礎」、神坂次郎「男 この言葉」                            

菅原道真・・・ 「東風吹かば匂い起こせよ梅の花 主なしとて春な忘れそ」

 これは延喜元年(901)正月、菅原道真が政敵、藤原時平一派の讒言、策謀にはめられ九州・太宰権帥に降され、出発するときに詠んだ有名な歌だ。この数日前に九州への配流が決まった時、宇多法皇に哀訴した歌が次だ。

 流れ行く我は水屑となりはてぬ 君柵(しがらみ)となりてとどめよ
 老齢で病を持つ道真は、すっかり打ちのめされ抵抗するすべもなく、恐らく出発する直前まで宇多法皇の執り成しによる窮状打開を期待していたことだろう。しかし、それは結束した時平一派のクーデターの前に叶わず、道真は無念の思いで太宰府への旅程についた。任官していた子息たちも左遷されて、それぞれ任地に下向した。その後の大宰府での幽閉に等しい生活をうかがわせるものに、道真自身の手で編まれた『菅家後集』という詩文集がある。この中から一首を次に掲げる。

  家を離れて三四月。
  涙を落とす百千行。
  万事皆夢の如し。
  時々彼蒼(大空)を仰ぐ。

延喜3年(903)2月、道真は失意のうちに大宰府で病死した。59歳だった。
 桓武天皇の孫を母として生まれ、藤原氏とは全く血縁関係がない宇多天皇と、道真の敵は摂関政治を独占する藤原氏だった。寛平3年(891)1月、太政大臣で、人臣で最初の「摂政」となった藤原基経が没すると、英邁な宇多天皇はこれを千載一遇の好機ととらえ、讃岐守だった道真を起用。蔵人頭(天皇の秘書官長)に抜擢し、政界にデビューしたのが3月29日。そして4月11日には佐中弁、翌年の12月には左京大夫と昇進し、次の年の2月には公家会議に参加できる参議にまで出世するのだ。道真49歳のことだ。現代の会社に置き換えて表現すれば、係長がわずか2年で取締役になるのと同じようなものだろう。この出世の早さはやはり異常だ。バランス感覚を欠いた“ひいき”と映ったことは間違いない。そして、道真は51歳で中納言に昇任する。

寛平9年(897)7月、宇多帝は31歳の壮年でありながら、敦仁親王(13歳)に譲位。この折も帝は道真ただ一人と相談したといわれている。目指すは“天皇親政”の復活だった。宇多上皇と道真は二人で醍醐帝を教導し、その治世中に権門藤原氏を排除し、律令政治本来の姿へ、朝廷を戻そうと考えたわけだ。昌泰2年(899)2月、左大臣となった時平は29歳。一方の道真はこの時、すでに55歳になっていた。
 道真をめぐる形勢は延喜元年(901)正月に急変する。時平一派が醍醐天皇に対して道真追放の工作を開始したからだ。時平は道真が天皇を廃し、皇弟で自分の女婿の斎世親王を皇位に立てようと企み、すでに宇多法皇の同意を得ていると述べた。時平は年少の天皇の不安感に鋭く触れて、道真の陰謀なるものを認めさせることに成功した。天皇はことの真否を法皇に質すいとまはなかった。その25日に詔を発して道真の行動に非難を加え、これを貶して太宰権帥とした。

こうして時平一派のクーデターが遂行された。
 ところで、道真がなぜ学問の神様である天神様に祀り上げられたのか。現在でも全国各地に天神様を祀る社は1万2000もあるという。道真の死後、京の都では異変が続出。まず彼を死に追いやった時平が6年後に39歳の若さで死去し、気象は荒れ放題で都では旱魃や飢饉が続いた。さらに死後20年後の923年に皇太子の保明親王が亡くなったことで、誰もが道真の怨念を感じたのだ。930年には左遷を認めた醍醐天皇までもが急死し、怨霊は「御霊」と呼ばれるようになり、恐怖が貴族たちに蔓延する。
そこで、霊を鎮めるための御霊会が始まるのだ。これは次第に公のものとなり政府が主催することにもなり、天暦元年(947)には京都の北野に神殿が建てられ天満天神として奉られる。だが、時代を経るにしたがって、怨霊は人々によって別の解釈がされるようになった。菅原氏が多くの学者を輩出したこともあり、学問の神様に変化していくのだ。さらに、それは発展し書道や文学の神様としても崇められるようになる。神様は皮肉にも藤原氏によって作り出されたのだ。波乱の人生を歩んだ道真は、その後没落していく藤原氏とは対照的に、1000年以上の時の中を生き続け、21世紀の現代でも学問の神様として毎年受験生たちの心の支えとなっている。

(参考資料)北山茂夫「日本の歴史4 平安京」、加来耕三「日本補佐役列伝」、歴史の謎研究会編「日本史に消えた怪人」

                    

高杉晋作・・・「おもしろきこともなき世をおもしろく すみなすものは心なりけり」

 これは肺結核で明治維新直前の慶応3年(1867)4月14日に29歳で死んだ高杉晋作の辞世だ。正確に言えば、晋作が詠んだのは「おもしろきこともなき世をおもしろく…」までだ。ここで彼は息苦しくなり、筆を置いてしまった。そこで枕頭にいた野村望東尼が下の句を「すみなすものは心なりけり」と続けると、彼はにっこりとうなずいて息を引き取ったという。

ただ、動乱期を破天荒な生き方をした人間だっただけに、上の句だけで切れていても、いや切れているからこそ彼らしいのではなかったかという気がする。おもしろくするのは心次第だ-というような常識的な下の句がつけられると、一気にその世界が小さくまとまってしまったかのような印象を受ける。

 吉田松陰の門人の中で最も波乱に満ちた生涯を送ったのが高杉晋作だ。彼が作った「長州奇兵隊」が事実上の維新の原動力になったといっていい。彼は毛利家譜代の家臣で禄高150石の中士ともいうべき家系に生まれた。しかし祖父や父が、蔵元頭人役や小姓役として藩主の側近く仕えていたので、家計はかなり裕福だったようだ。

 晋作は14歳で藩校明倫館に通うようになるが、型にはまった学校の教育に幻滅。学問はなかなか好きになれず、19歳の頃まで剣の道に勤しみ、柳生新影流の免許皆伝を得た。そんな彼に学問の面白さを教えたのが吉田松陰の「松下村塾」だ。松陰の烈々たる憂国の情に惹かれて真っ先に入塾した久坂義助(玄瑞)に誘われたのだ。この出会いが彼の一生を決めた。

とはいえ、松下村塾に通うそのこと自体が大変なことだった。松陰は萩の城下では危険思想の持ち主と見られていたし、晋作の家は保守的だった。だから、彼が松下村塾に通っていることを知ると、何日も彼は家の中に閉じ込められたほど。それでも松陰の人格や識見が晋作を惹きつけて放さなかった。彼は親や家族の目を盗んでは松下村塾に通い続けた。その結果、彼の才能は一挙に花開いていく。
 晋作は師、松陰の死、結婚、軍艦修業、武者修行などを経て一回りも二回りも大きくなった。とくに信州松代に師、松陰の師でもあった佐久間象山、越前福井に招かれていた横井小楠という当時、一頭地を抜いた学者であり、卓見の二人に会えたことは大きかった。

 文久2年(1862)、24歳の晋作は清国に派遣される幕府使節の随員となり、長州藩を代表して上海に赴くことになった。この上海渡航は、その後の彼の人生に、計り知れない大きな意味を持つことになった。彼が上海に行ったときは、太平天国の乱の最中だ。書物で勉強するだけでは得られない、近代戦争の実態を初めてそこで見ることになったからだ。

 晋作が奇兵隊を組織したのは、文久3年(1863)6月、下関を舞台に展開された馬関攘夷戦の最中だった。戦闘は長州藩の惨憺たる敗北で終わった。敗れた長州軍の中で、最も勇敢に戦ったのが彼の組織した独創的な軍事組織、奇兵隊だった。以来、日本で最初の組織的な国民軍、奇兵隊は長州四境戦争、鳥羽・伏見の戦い、そして奥羽北越の戊辰戦争に至るまで長州藩最強の軍団として、転戦していくことになる。

 もし高杉晋作という青年がいなかったら、幕末の長州藩はよほど違った針路を取っただろう。また、晋作の行動が革命の原動力となったことについては、吉田松陰の思想を抜きにしては考えられない。幕府は松陰を斬首したが、その思想までを殺すことができなかったのだ。

(参考資料)奈良本辰也「不惜身命」、同「幕末維新の志士読本」、三好徹「高杉晋作」、「日本史探訪/幕末の日本を操った鍵人間 高杉晋作」(大岡昇平・奈良本辰也)、司馬遼太郎「世に棲む日日」

田中正造 ・・・「自ら善と信じ利と認むる点を、遂行し収拾する時に当たりては聊(い ささ)か奪ふべからざる精神を有す」

 田中正造は日本の近代化過程で起こった「公害」第一号の「足尾鉱毒事件」 の告発者として、天皇に直訴したことで広く知られているが、鉱毒垂れ流しに よって農地を汚染され、大きな被害を受けた農民救済に後半生を捧げた。冒頭 のこの言葉は1895年(明治28年)、当時55歳の田中正造が読売新聞に連載し た自叙伝『田中正造昔話』にある一説だ。

 彼は下野小中村(現在の栃木県佐野市小中町)の名主の子として生まれた。 17歳の時、父の跡を継いで名主となり、まもなく主君六角家をめぐる騒動に巻 き込まれ、主君の権威を傘に着て私服を肥やす林三郎兵衛という悪党の退治に 全力を挙げ、入獄・追放などあらゆる苦難を経験した。この六角家の問題は、 結局「明治維新」により、正造らの勝利に帰したが、そのために正造は全財産 を失った。

また、正造は1870年(明治3年)、江刺県花輪支庁(現在の秋田県鹿角市に 下級官吏として赴いたが、そこで上司の木村新八郎殺害の嫌疑を受け、3年の 獄中生活を送った。これは物的証拠もなく冤罪だったと思われるが、正造の 性格や言動から当時の上役たちに反感を持たれていたのが影響したらしい。
 1874年(明治7年)、無罪釈放となった正造は郷里に帰るが、今度は自由民 権運動の影響を受け1880年(明治13年)栃木県県会議員となった。1882年(明 治15年)、立憲改進党が結党されると入党。福島県令・三島通庸が栃木県令を 兼ねて、住民の意向を無視して、大規模な土木工事を起こし強引に近代化を進 めようとしていた。これに対して正造は徹底的に抗戦しつつ、政府に上訴し、“悪 党”を追放しようとする作戦を取った。この「三島事件」は三島が異動によっ て栃木県を去ると解決。

正造は1890年(明治23年)、第1回衆議院議員総選挙に初当選する。ここで直面したのが「足尾鉱毒事件」だった。これは今日的に表現すれば、国家発展を優先するのか?正義を貫くのか?の問題だった。すなわち明治政府が積極的に推進した富国強兵策の一環として、鉱業の開発は必須で、足尾銅山の開削は近代国家としての日本の発展には欠かせないものだった。しかし、この足尾銅山は多量の鉱毒を渡良瀬川に流すことになり、この鉱毒の垂れ流しで渡良瀬川下流の農地は汚染され、農民は大きな被害を受けた。

 正造は、農民を困苦に陥れて何が国家の発展か!と判断、「公害」を国家発展の必要悪と見る明治政府と戦ったのだ。正造は議員を辞職し、天皇に直訴したが、失敗。巧妙な政府の分断政策により孤立した下流の谷中村に、正造は敢えて移り住み、村に残った農民とともに抵抗し続けたが、1913年(大正2年)73歳で死亡した。そして4年後、谷中村は遊水池の中に消えた。この事件は長い間忘れられていたが、高度成長の過程で「公害」が大きな社会問題となってから、再び注目されるようになった。

(参考資料)城山三郎「辛酸 田中正造と足尾鉱毒事件」、梅原猛「百人一語」
      奈良本辰也「男たちの明治維新」、三好徹「獅子吼」

田沼意次・・・ 「貯えなきは、事ある時の役に立たず」 進歩的政治家

武家社会においては、凡夫のトップに代わって毀誉褒貶を一身に浴びねばならない場合も少なくなかった。徳川九代将軍家重、十代将軍家治の二代に仕えた田沼主殿頭意次もその一人だ。唯一の庇護者であった将軍家治の死後、失脚した田沼意次に浴びせかけられたデマや中傷、ワイロ伝説は、彼の卓越した政治手腕に対する保守派門閥大名や旗本たちの嫉妬と憎悪によるものだ。

江戸時代を通じて、ワイロにまみれた代表的な“汚れた政治家”の一人に挙げられる田沼意次だが、近年の様々な角度からの研究で彼が執った、それまでの米経済を軸とする重農主義を、貨幣経済を軸とする重商主義に切り換えた大胆な経済政策を評価。偉大で進歩的な政治家の一人ともいわれるようになっている。

今回の田沼の言葉は唯ひとつ子孫のために残した家訓とも言うべき遺書にある処世信条で、財政問題について『勝手元不如意にて貯えなきは、一朝事ある時の役に立たず、御軍用に差し支え、武道を失い、領地頂戴の身の不面目、これに過ぐるものなし』とあるものだ。武士の収入は予定以上に増えることはない。凶作による収入減、不時の出費、それらが重なれば憂うべき結果を招くものだ。したがって、『常に心を用い、いささかの奢りなく、油断せず要心すべし』と格別の注意を与えている。
ワイロはいつの時代にもあった。例えば平安貴族は国司になるために権門の筋に莫大なワイロを贈って、その職を得るための猟官運動が盛んだった。中世では、国司になると任期中は莫大な富が得られ、都に戻ってからも生涯を安泰に暮らせたという。それは江戸時代も同様で全国(藩)でまかり通っていた。究極的な例を挙げると、あの清廉潔白をもって鳴った白河藩主・松平定信が、四位の官位の依頼に田沼邸を訪れているのだ。

では、そのワイロの額は?江戸時代、大老や老中職の場合はよくわからないが、長崎奉行職は2000両、目付職は1000両と相場が決まっていたといわれる。
猟官運動にこれほどのワイロが動いたのは、他の時代と比べるとやはり少し異常といわざるを得ない。しかし、それは幕府の創始者であった徳川家康の「権力の持てる譜代大名の給与は安く、権力の持てない外様大名の給与は多くする」という統治法にこそその温床があった。江戸城で老中その他の要職に就いた者の給与は、ほとんどが数万石であり、家重の小姓から異例の大出世を果たし大名にまで上った田沼自身にしても、遠江相良藩の6万石にすぎない。

“ワイロ”政治ともいわれた田沼のどこが特別で他と異なっていたのか?田沼は収賄を決して悪事だとは思っていなかった。彼自身が言っていることを意訳、換言すれば、「収賄は正当なもの。そして、それに報いるために請託をうけるのも当たり前」と言っている。現代の感覚でいえば呆れた話だが、徳川期の基準でいえばそれは異常ではなかったのだ。徳川時代における武士の収賄は構造的なものであって、田沼個人の私意に基づくものではないということだ。

だからこそ、そのことに何のうしろめたさも感じることなく、それまでタブーとされていた様々な諸施策を打ち出せたのだ。まず「米経済」にこだわらず、貨幣経済を進行させている連中=商人と手を組んだことだ。彼は「士農工商」の最も劣位に置かれ課税対象外の存在だった商人に、新しい税「運上」と「冥加金」を課した。次に本来的には鎖国の下だが、フカヒレ・イリコ・アワビ・コンブなどの海産物をはじめ地域産品の付加価値を高めて積極的に外国(中国・オランダ)と交易する施策を打ち出す。また漢方薬の国産化を図り、平賀源内に日本国内での薬草探しを命じている。

このほか、中国の本以外は読むことが禁じられていたが、田沼はオランダの本を読むことを許可した。これが杉田玄白や前野良沢らの翻訳本「解体新書」となる。これは彼の失脚によって実現しなかったが、下総(千葉県)の印旛沼と手賀沼の干拓、そして蝦夷開発(北海道に116万町歩の開拓、7万人移住の計画)、千島・樺太の開発にも関心を寄せた。広い視野からのこうした大構想は、当時の諸大名や旗本たちにはとても思いもつかぬ施策であったし、ただ妬ましさを覚えるだけだった。この鬱屈が失脚後の“田沼バッシング”を増幅させたわけだ。

(参考資料)童門冬二「江戸の賄賂」 神坂次郎「男 この言葉」、佐藤雅美「主殿の税 田沼意次の経済改革」

徳川吉宗・・・ 「苦は楽の種、楽は苦の種と知るべし」

 徳川幕府中興の祖、八代将軍吉宗が晩年、座右の銘として寝所の壁に貼り付けていたと伝えられる言葉を記す。

一、 苦は楽の種、楽は苦の種と知るべし。
一、 主と親は無理な(ことを言う)者と思え、下人(下級の使用人)は(考えが)足らぬ者と知るべし。
一、 掟に怖じよ、火に怖じよ、分別無き者に怖じよ、恩を忘れることなかれ。
一、 欲と色とを敵と知るべし。
一、 朝寝すべからず、話の長座すべからず。
一、 少なることも分別せよ、大(きな)事とて驚くべからず。
一、 九分は足らぬ、十分はこぼるると知るべし。
一、 分別は堪忍にあると知るべし。
                          (「享保世話」)

 これを見る限り決して難しいことを言っているわけではない。今日でも十分通用する、説得力のあることばかりだ。度量の大きな吉宗だったからこそできた、幕府政治の大改革を担った当時の心情が込められていると読むこともできる。将軍の座にあること30年。彼が断行した「享保の改革」(1716)は江戸時代で最もスケールの大きい、成功した改革だった。後年、松平定信の「寛政の改革」(1787)、水野忠邦の「天保の改革」(1841)がいずれも失敗しただけに、特筆されよう。

 吉宗は貞享元年(1684)、紀州徳川家の二代藩主・光貞の四男として生まれている。この年は後世、天下の悪法として伝えられた五代将軍綱吉の「生類憐みの令」が発せられた前年に当たる。吉宗の母はおゆりという城内奥の湯殿番の婢女であったが、彼はいくつもの幸運に恵まれ遂に八代将軍にまで上りつめた。

 その幸運のスタートが将軍綱吉のお声がかりで越前丹生(福井県北部)三万石の藩主の座についたこと。吉宗(当時は頼方)、14歳のことだ。2番目の幸運は三代藩主の長兄が死に、4カ月後に四代藩主の次兄も急死したこと。思いもかけない偶然が22歳の吉宗を一躍、紀州徳川家55万5000石の五代藩主の座に押し上げてしまった。まだ終わりではない。藩財政の再建に取り組み、成果を挙げた吉宗のもとに3番目の幸運が舞い込み、八代将軍になる。33歳のときのことだ。

この裏には、将軍家と尾張徳川家の不運が重なり合っていた。六代将軍家宣の子で、わずか5歳で七代将軍となった家継が8歳で死去し、次の将軍候補に推されていた御三家筆頭の尾張徳川家の吉通はすでに3年前25歳の若さで逝き、その子の五郎太も続いて死亡したからだ。こうして彼は普通ならまず望むべくもなかった栄光の座に就いたのだ。

将軍職に就いた吉宗は・上げ米の令・目安箱の設置・小石川養生所の設置・町火消しの制度を設け、民家の屋根を瓦葺きに・足高(役付手当)の制で人材登用・西欧の学問(蘭学)の奨励-など様々な施策を打ち出し、骨太の改革に取り組んだ。人事面では間部詮房・新井白石ら、六代将軍家宣以来、幕閣の枢要を占めてきた権力者=補佐役たちを排除した。また、普請奉行・大岡越前守忠相の江戸南町奉行への抜擢なども行った。

(参考資料)神坂次郎「男 この言葉」、加来耕三「日本補佐役列伝」

二宮尊徳 ・・・「多く稼いで、銭を少く遣うは富国の達道」

 この言葉は『二宮夜話』にあるもので、正確にはその一部だ。この件の全体を記すと、「多く稼いで、銭を少く遣い、多く薪を取って焚く事は少くする。是を富の大本、富国の達道という。然るに世の人是を吝嗇といい、又強欲という、是心得違いなり」だ。

 二宮金次郎、実名を尊徳(たかのり)、世間での名は“そんとく”。農政家としての尊徳が救った村は605カ町村、彼独自の仕法をもって根本から建て直したもの322カ村、一人の困窮民も借財もなく村を再生させたもの200カ村を超える。

 尊徳がユニークなのはその卓抜な金銭感覚だ。一枚の田から何石の米がとれるか、その米を換金すればいくらになるか。「米倉に米俵を積み上げ、何年持っていても米は増えぬ」。が、この米を売った金を巧みに運用すれば、二倍も三倍もの利息が稼げるのだ-と説く。「農民たち個々の零細な金でも、まとまれば大きくなる」。それを貸し付け、利に利を生ませ、その利益を村に還元し農地を改良し…と尊徳は、農民信用金庫への構想を熱っぽく語り続けてやまない。今から140年前のことだ。

 尊徳の仕法は「勤労」「分度」「推譲の精神」に徹することによって実行される。推譲の精神とは、「人間の勤労には欲がある。それが当然だ。欲があればあるほど、働き甲斐があり、また得られるものも多い」としながら、「しかし、得られたものを自分のためだけに使うのは、自奪というべきで、決して褒められたことではない。成果が得られたら、今度はそれを他人に譲るべきで、他人のために用立てるべきだ」ということだ。だから、推譲というのは、働いて得られた益を譲るということで、ただあるものを譲るということではない。尊徳の推譲の前提には、勤労ということがはっきり据えられている。勤労のない譲与など意味がないということだ。

 武家の家政の建て直しを乞われて、尊徳が行った独自の仕法を端的に表現したものが次の言葉だ。「推譲の道は百石の身代の者、五十石の暮しを立て、五十石を譲ると云。この推譲の法は我が教え第一の法にして則ち家産維持かつ漸次増殖の方法なり。家産を永遠に維持すべき道は、此外になし」(『二宮夜話』)。

 また、1000両の資金で1000両の商売をするのは危ないことだ。1000両の資本で800両の商売をしてこそ堅実な商売といえる。世間では100両の元手で200両の商売をするのを働きのある商人だとほめているが、とんでもない間違いだ-という。バブル経済のなかで狂奔していた虚業家たちはもとより、金融ベンチャー企業の事業家たちにとくに聞かせたい言葉だ。

 二宮金次郎は戦前、小学校の校庭にあの銅像、薪を背負い歩きながら本を読んでいる苦学少年といったイメージが強い。しかし、その実家は相模国栢山村(神奈川県小田原市栢山)の裕福な農家で、二町三反の地主でもあった。ところが、父の代でまたたく間に財産を減らし、酒匂川の氾濫で田畑は濁流にのみこまれ、後に残されたのは石河原だけだった。二宮家が貧乏のどん底に叩き込まれ、薪を背負った少年「二宮金次郎」が登場するのはこのころのことだ。14歳で父を、16歳で母を失った金次郎は母の実家に引き取られた弟二人と別れ、伯父のもとで働くことになった。これが苦学少年イメージの原点だ。

(参考資料)内村鑑三「代表的日本人」、童門冬二「小説 二宮金次郎」、神坂次
      郎「男 この言葉」、奈良本辰也「叛骨の士道」                              

藤原道長・・・「この世をばわが世とぞ思ふ望月の 欠けたることもなしと思へば」

 これは天皇の后を三代続けてわが娘で独占した=“一家三后の栄”を実現した藤原道長が、自邸で開催された華やかな祝いの宴で、即興で詠んだといわれる有名な「望月の歌」だ。 幸せの絶頂期と思われるこの時期、53歳の道長はすでに当時の不治の病に冒されていたのだ。今日でいう「糖尿病」や心臓神経症などを患う身であった。さらに晩年には「白内障」と思われる病状にも襲われていた。

 奈良時代を代表する政治家が藤原鎌足-不比等の父子二人であったとすれば、平安時代を通しての第一人者は、その子孫、藤原道長だといっても異論はないだろう。ただ、その個性、あるいは人間性といった面ではかなりタイプが違う。新しい時代を自らの手で切り拓いていった前二者に比べ、平安朝の故実先例を尊ぶ時代の、道長の政治は受け身に終始した消極的な印象が強い。また、彼は身分の高い、年上の女性に好かれて出世の階段を昇った人でもあった。

 康保3年(966)、道長は後に摂政・関白となる藤原北家の主流、名門・藤原兼家の四男として生まれた。名門の出自だが、兄が三人(道隆・道兼・道綱)で、一族には他にも男子が多い。摂政・関白の独占は道長の後継者からで、この時点で尋常に考えれば、政権の座が道長に回ってくること自体、不可能なことだった。

 ところが長徳元年(995)、30歳の道長に将来を決定づける思いがけない異変が起こった。朝廷政治をあずかる公卿14人のうち、実に8人までが流行の麻疹にかかって、次々とこの世を去っていったのだ。この時、道長の兄三人も相次いで病死。政権を担う候補として、長兄で関白を務めていた道隆の子・伊周とともに、体力堅固な道長の存在がクローズアップされることとなる。道長は姉の詮子を後ろ楯として、伊周に打ち勝って右大臣の地位を得た。翌年7月左大臣となった道長は、一条-三条の二帝(66代、67代)の治世、あくまで最高行政官=左大臣としての地位を貫いていく。

 長保2年(1000)2月、道長は13歳になったばかりの長女・彰子を一条天皇の中宮として内裏へ送り込む。寛弘5年(1008)、彰子は待望の皇子・敦成親王を産む。3年後、一条帝が崩御し、三条帝が立つと、敦成親王は皇太子となった。道長はなお攻め手を緩めず、三条帝には次女の妍子を入内させる。孫の敦成親王を天皇とし、「みうち人」とすることで、権勢を名実ともに得ることが狙いだった。
三条帝との激しい攻防戦の末、遂に長和5年(1016)正月、三条帝は退位した。この時、孫で新帝となった後一条天皇(第68代)は9歳。道長は50歳となっていた。後一条天皇の即位から1年後、寛仁2年(1018)10月16日、道長の邸内で三番目の娘・威子が、天皇の「中宮」となったことを祝う宴が開催された。冒頭の歌はこの時のものだ。

道長は万寿4年(1027)12月、屋敷の隣に建立していた東大寺を凌ぐ規模の法成寺の阿弥陀堂の中で、その62年の生涯を閉じた。背中にできた腫れ物が悪化し、死ぬ直前までその痛さに苦しむ呻きの声が聞こえたという。

(参考資料)加来耕三「日本創始者列伝」、永井路子「この世をば」

                             

正岡子規・・・ 「貫之は下手な歌よみにて古今集はくだらぬ集に有之候」

 この言葉は1898年(明治31年)正岡子規が書いた『歌よみに与ふる書』に書かれているものだ。子規は日本の最も伝統的な文学、短歌の世界で革命を断行し成功させた。子規以後の歌人は、彼の理論に大きく影響された。また、彼は俳句・短歌のほかにも新体詩・小説・評論・随筆など多方面にわたり、創作活動を行い、日本の近代文学に多大な影響を及ぼした。

 革命は伝統的権威を否定することだ。短歌でいえば「古今集」がその聖書(バイブル)だった。子規はこの古今集の撰者であり代表的歌人である紀貫之を「下手な歌よみ」と表現、古今集をくだらぬ歌集と断言したのだ。子規は貫之だけでなく、歌聖として尊敬された藤原定家をも「『新古今集』の撰定を見れば少しはものが解っているように見えるが、その歌にはろくなものがない」と否定している。賀茂真淵についても『万葉集』を賞揚したところは立派だが、その歌を見れば古今調の歌で、案外『万葉集』そのものを理解していない人なのだとしている。これに対して子規は、万葉の歌人を除いては、源実朝、田安宗武、橘曙覧を賞賛している。

 子規の言葉は激越だが、そこには彼の一貫した論理が存在している。彼の革命はまさに時代の要求だったのだ。『歌よみに与ふる書』は日清戦争が終わって、戦争には勝利したのに列強の三国干渉に遭い苦渋を味わされた。それだけに、強い国にならなければならない。歌も近代国家にふさわしい力強い歌でなくてはいけない-というわけだ。

子規は、主観の歌は感激を率直に歌ったもの、客観の歌は写生の歌であるべきだと主張した。言葉も「古語」である必要はなく、現代語、漢語、外来語をも用いてよいと主張した。この主張は多くの人々に受け入れられ、子規の理論が近代短歌の理論となった。子規の弟子に高浜虚子、河東碧梧桐、伊藤左千夫、長塚節らが出て、左千夫の系譜から島木赤彦、斎藤茂吉など日本を代表する歌人が生まれた。

子規は伊予国温泉郡藤原町(現在の愛媛県松山市花園町)に松山藩士・正岡常尚、妻八重の長男として出生。生没年は1867年(慶応3年)~1902年(明治35年)。本名は常規(つねのり)、幼名は処之介(ところのすけ)、のちに升(のぼる)と改めた。1884年(明治17年)東京大学予備門(のち第一高等中学校)へ入学、同級に夏目漱石、山田美妙、尾崎紅葉などがいる。軍人、秋山真之は松山在住時からの友人だ。子規と秋山との交遊を描いた作品に司馬遼太郎の小説「坂の上の雲」がある。
1892年(明治25年)帝国大学文科国文科を退学、日本新聞社に入社。1895年(明治28年)日清戦争に記者として従軍、その帰路に喀血。この後、死を迎えるまでの約7年間は結核を患っていた。病床の中で『病床六尺』、日記『仰臥漫録』を書いた。『病床六尺』は少しの感傷も暗い影もなく、死に臨んだ自身の肉体と精神を客観視した優れた人生記録と評価された。

野球への造詣が深く「バッター」「ランナー」「フォアボール」「ストレート」「フライボール」などの外来語を「打者」「走者」「四球」「直球」「飛球」と日本語に訳したのは子規だ。
辞世の句「糸瓜咲て 痰のつまりし仏かな」「をととひの へちまの水も取らざりき」などから、子規の忌日9月19日を「糸瓜(へちま)忌」といい、雅号の一つから「獺祭(だっさい)忌」ともいう。

(参考資料)「正岡子規」(ちくま日本文学全集)、梅原猛「百人一語」、小島直記「人材水脈」、小島直記「志に生きた先師たち」

松尾芭蕉・・・ 「月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也」

 これは周知の通り、松尾芭蕉の紀行文「奥の細道」の冒頭の言葉だ。単純に考えると、「月日」も「年」も旅人だというのは、冒頭の言葉に続く、次の「予もいづれの年よりか、片雲の風にさそはれて、漂泊の思ひやまず」遂に奥の細道の旅に出た、という言葉を導くための前口上のようなものと思われる。しかし、俳諧の天才、芭蕉はこの言葉をもっと奥深い言葉として表現しているのではないか?

梅原猛氏によると、月日は目に見えるが、年は決して目に見えるものではない。ところが、それは厳然として存在する。「年」にもまた「春夏秋冬」すなわち生死があるという。つまりこの芭蕉の言葉は、目に見える天体「月日」も永遠に生死を繰り返す旅人で、目に見えぬ「年」という宇宙の運行そのものもまた、永遠に生死を繰り返す旅人という意味なのだ-と分析する。

このように考えると、芭蕉の宇宙論は地球を固定して考える天動説でもなく、太陽を固定して考える地動説でもなく、すべての天体を含む宇宙そのものを永久の流転と考える宇宙論なのだ。そして、この宇宙論は最近、現代科学が展開した宇宙論に似ており、芭蕉はまさに時空を超えた宇宙論を持っていたとも考えられる。

また、この「奥の細道」には多くの謎が隠されている。詳細にこの旅行記を分析した歴史家たちの間では、実は芭蕉は諜報員だったのではないかという説がささやかれている。この説には3つの根拠がある。1.「奥の細道」で訪ね歩いた場所が、ほとんど外様大名がいる藩2.芭蕉の生まれ育ちが伊賀3.同行した弟子の河合曾良が毎日几帳面につけていた日記から浮かび上がる芭蕉の不可解な行動-だ。「奥の細道」は芭蕉が45歳のとき、奥州地方と北陸地方を150日間かけ2400km近くを歩いて回った経験をもとに、3年後の元禄5年に書かれたものだ。

全国統治のため、徳川幕府が各藩の大名の行動や考え方を知るには、幕府お抱えの諜報員たちに実際に調べてもらうしかない。幕府の諜報員たちは薬売りなど商人に姿を変えたりして、全国各地を飛び回った。だが、地方分権に近い当時は治安維持のために藩内のどこにでも誰もが近づけるわけでもなく、ましてよそ者が好き勝手に行動することなどできなかった。

諜報員としての理想の条件は、どこにでも行ける旅の目的があり、藩内を自由に動ける権限を与えてくれる高官や、地元に詳しい人物とのコネを持つ人間だった。著名な俳人である芭蕉は、その条件にピッタリなのだ。

「奥の細道」と曾良の日記とは実に80カ所も日時と場所が異なっている。それは2日に1度の割合で違いをみせており、どちらが本当の行動なのか多くの歴史家が首をひねっている。互いに別々の宿に泊まっていたり、会った人の名前や場所が違うなど、常に2人が一緒ではなかったことが明らかだ。芭蕉は何か別行動を取る必要があったのか?

旅のペースも不思議だ。何かを追いかけるように急いだり、あるいは何かを待つように何日も同じ場所に逗留している。「奥の細道」の記述をもとに類推すると、芭蕉はまるで忍者のように頑健な体力の持ち主なのだ。こうしてみると、芭蕉への謎は深まるばかりだ。

松尾芭蕉は伊賀国(現在の三重県伊賀市)で松尾与左衛門と妻・梅の次男として生まれた。松尾家は農業を生業としていたが、松尾の苗字を持つ家柄だった。幼名は金作。通称は藤七郎、忠右衛門、甚七郎。名は宗房。生没年は1644年(寛永21年)~1694年(元禄7年)の江戸時代前期の俳諧師。蕉風と呼ばれる芸術性の高い句風を確立し、“俳聖”と呼ばれた。

 弟子に蕉門十哲と呼ばれる宝井其角、服部嵐雪、森川許六、向井去来、各務支考、内藤丈草、杉山杉風、立花北枝、志太野坡、越智越人や野沢凡兆などがいる。
 芭蕉の“俳聖”の顔と、裏の諜報員の顔、十分両立する気もするが、果たして現実はどうだったのか。

(参考資料)梅原猛「百人一語」、歴史の謎研究会編「日本史に消えた怪人」

吉田松陰・・・「身はたとい武蔵の野辺に朽ちるとも 留めおかまし大和魂」

 これは安政6年(1859)10月27日、江戸・伝馬町の牢内で斬首された吉田松陰の“最期の言葉”辞世の句だ。もう一つある。「かくすればかくなるものと知りながら やむにやまれぬ大和魂」だ。これは安政元年(1854)正月、米艦六隻を率いたペリーが、前年に続いて浦賀港に現れた時、この米艦に乗り込み嘆願書を渡し、密航を企て交渉しようとして失敗。自首して江戸の獄に下る時に詠んだものだ。両句とも「大和魂」で結ばれているように、日本という国の行く末を見つめた“憂国の心情”があふれている。

わずか30年の生涯を閉じた吉田松陰は、日本の教育者の中でもまれにみる魂のきれいな学者だった。彼が開いた松下村塾が輩出した数々の門人たちが、明治維新の立役者となったことは周知の通りだ。教育現場の荒廃が叫ばれる今日、彼の生き方と彼が遺したものの一端を見てみたい。

 松陰、吉田寅次郎は、1830年8月4日、長門国萩松本村護国山の麓、団子岩に生まれた。父は家禄26石、杉百合之助常道。母は児玉氏、名は滝。幼名を虎之助といい、杉家七人兄妹の二男だった。杉家から数百歩離れた所に父の弟、玉木文之進が居を構えていた。虎之助に対する基礎的な教育は、父以上に封建武士に特有な精神主義者のこの叔父に負うところが多かったようだ。松陰は父と同時に、この叔父の大きな影響を受けて成長した。

 松陰が養子に入った吉田家は、長州藩の山鹿流軍学師範を家職としていた。世襲制である。したがって、吉田家の当主が早く死んだ後は、幼い松陰がこの家職を引き継いだ。天保6年(1835)6歳の時のことだ。厳格な叔父の、年齢を無視した求道者的な教育を受け、早熟な彼は11歳のときにすでに藩主の前で講義を行っているほど。

 松下村塾は松陰が開いたものではない。叔父の玉木文之進が開いたのだ。やがて、この塾を叔父から引き継ぐ。松陰は藩に正式な手続きを取らないで、東北など日本各地を歩き回った。その罪に問われて牢に入れられた。牢から出た後も、今後は一切他国を出歩いてはならないと禁足処分となった。そうした制約を加えられて、門人を教えることを許されたのだ。

 八畳と十畳の二間しかないこの狭い塾から高杉晋作、久坂玄瑞、入江九一、吉田稔麿、寺島忠三郎、井上馨、山県有朋、伊藤博文、野村靖、品川弥二郎、前原一誠、山田顕義、山尾庸三、赤根武人など、錚々たる人材が育っていった。また、驚くのは松陰がこの塾で若者たちを教えた期間がわずか2年にも満たないことだ。こんな短い期間に、あれだけ多くの英才が輩出したのだ。まさに奇跡といっていい。こんな指導者はどこにもいないだろう。

 松陰は死学ではなく、生きた学問を教え、「人を育てつつ、自分を育てる」ということを実行。そして、彼には私利私欲というものが全くなく、「人間は生まれた以上必ず死ぬ。だからこそ生きている間、国のため、人のためになるような生き方をしなければならない」と考えていた。弟子たちは松陰のそういうところに心を打たれ、敬慕の念を募らせたのだろう。

(参考資料)奈良本辰也「吉田松陰」、司馬遼太郎「世に棲む日日」、童門冬二「私塾の研究」、海音寺潮五郎「幕末動乱の男たち」