三井高利「単木は折れ易く、林木は折れ難し」

三井高利「単木は折れ易く、林木は折れ難し」
 これは『三井八郎兵衛高利 遺訓』の一節だ。この部分を正確に記すと、「単木は折れ易く、林木は折れ難し、汝等相恊戮輯睦(きょうりくしゅうぼく)して家運の鞏(きょう)を図れ」というものだ。1本の木は折れやすいが、林となった木は容易に折れないものだ。わが家の者は仲睦まじく互いに力を合わせ家運を盛り上げ固めよ-という意味だ。 
 伊勢松坂の越後屋、三井高俊の女房(法名を殊法)は、連歌や俳諧などにうつつをぬかして家業を省みない夫に代わって、毎朝七ツ(午前4時)に起きて酒、みその販売と質屋を切り回し、四男四女のわが子を育てるというスーパー女房だった。この四男が三井財閥三百年の繁栄の基礎を築いた三井八郎兵衛高利(1622~94)だ。少年期の高利は、この松坂の店で母から商家の丁稚として厳しくしつけられている。
 当時の商人の理想は「江戸店持ち京商人」だった。江戸時代、最大の商品である呉服(絹織物)を日本第一の生産地、京都に本店をおいて仕入れ、大消費都市江戸で売りさばくため店を構える。これが商人の念願でもあった。商才にたけた殊法は当然、長男の俊次(三郎右衛門)を江戸に送り本町四丁目に店を開かせた。
 高利は14歳になったとき、母の殊法から江戸の兄の店で商売を習ってきなさい-と修業に出される。が、彼は江戸で長兄の俊次が舌を巻くほどの商才を発揮する。長兄から店を任された高利は、10年間で銀百貫目ほどだった江戸店の資金を千五百貫目(約2万5000両)に増やしているのだ。俊次はこんな知恵のよく回る弟が空恐ろしく、将来高利が独立して商売敵になれば、自分の店はおろか、わが子たちはみな高利に押し潰されてしまう-と頭を抱えた。そんなとき、松坂にいて母と店をみていた三男の重俊が36歳の若さで急死してしまった。次男弘重は上野国(群馬県)の桜井家へ養子に行っていたので母と店をみる者がいない。そこで、俊次は高利に松坂に帰って母上に孝養を尽くしてくれと、江戸から追い払った。俊次にとって格好のタイミングで厄介払いできたわけだ。
 以来、高利は老母に仕え店を守り、江戸での独立の夢を抱きながら鬱々として20余年の歳月を過ごすことになる。江戸の俊次が死んだとき、高利はすでに52歳になっていた。しかし、彼のすごいのはこれからだ。かねてからこの日のために、わが子十男五女のうちから、長男の高平、次男の高富、三男の高治と3人の息子を江戸に送り、俊次の店で修業させていた。その息子たちを集めると、本町一丁目に呉服、太物(綿織物)の店を開き、故郷の屋号を取って越後屋と名付けた。後年の三井財閥の基礎となる巨富は、晩年の高利のこの店で稼ぎ出されたものだ。
雌伏20余年、高利が練りに練った、当時としては誰も思いいつかなかった卓抜な商法が次から次へと打ち出される。その頃の商人の得意先を回っての、盆暮れ二度に支払いを受ける“掛売り”(“屋敷売り”)商売ではなく、“現銀掛値なし”つまり定価による現金販売の実施だ。そして得意先を回る人件費を節約した「店売り」であり、今まで一反を単位として売っていたものを、庶民にも買えるように「切り売り」をしたのだ。この店頭売り商法は大当たりした。
そんな状況に“本町通りの老舗”の商人たちは越後屋に卑劣な嫌がらせに出る。そこで高利はつまらぬ紛争に巻き込まれることを避け、駿河町へ移った。駿河町でも高利の商法は江戸の人々に受け入れられ、巨富を築き上げていく。その繁昌ぶりをみると、井原西鶴の「日本永代蔵」には享保年間(1716~36)、毎日金子百五十両ずつならしに(平均して)商売しける-とある。新井白石の「世事見聞録」には文化13年(1816)、千人余の手代を遣い、一日千両の商いあれば祝をする-とある。まさに巨富としか表現のしようがない。
天和3年(1683)、高利は駿河町南側の地を東西に分けて、東側を呉服店、西側を両替店とした。これが後の三越百貨店、三井銀行となった。

(参考資料)童門冬二「江戸のビジネス感覚」、永井路子「にっぽん亭主五十人史」、神坂次郎「男 この言葉」、大石慎三郎「徳川吉宗とその時代」、小島直記「逆境を愛する男たち」、中内 功・中田易直「日本史探訪/江戸期の芸術家と豪商 三井高利」

正岡子規 「貫之は下手な歌よみにて古今集はくだらぬ集に有之候」

正岡子規 「貫之は下手な歌よみにて古今集はくだらぬ集に有之候」
 この言葉は1898年(明治31年)正岡子規が書いた『歌よみに与ふる書』に書かれているものだ。子規は日本の最も伝統的な文学、短歌の世界で革命を断行し成功させた。子規以後の歌人は、彼の理論に大きく影響された。また、彼は俳句・短歌のほかにも新体詩・小説・評論・随筆など多方面にわたり、創作活動を行い、日本の近代文学に多大な影響を及ぼした。
 革命は伝統的権威を否定することだ。短歌でいえば「古今集」がその聖書(バイブル)だった。子規はこの古今集の撰者であり代表的歌人である紀貫之を「下手な歌よみ」と表現、古今集をくだらぬ歌集と断言したのだ。子規は貫之だけでなく、歌聖として尊敬された藤原定家をも「『新古今集』の撰定を見れば少しはものが解っているように見えるが、その歌にはろくなものがない」と否定している。賀茂真淵についても『万葉集』を賞揚したところは立派だが、その歌を見れば古今調の歌で、案外『万葉集』そのものを理解していない人なのだとしている。これに対して子規は、万葉の歌人を除いては、源実朝、田安宗武、橘曙覧を賞賛している。
 子規の言葉は激越だが、そこには彼の一貫した論理が存在している。彼の革命はまさに時代の要求だったのだ。『歌よみに与ふる書』は日清戦争が終わって、戦争には勝利したのに列強の三国干渉に遭い苦渋を味わされた。それだけに、強い国にならなければならない。歌も近代国家にふさわしい力強い歌でなくてはいけない-というわけだ。
子規は、主観の歌は感激を率直に歌ったもの、客観の歌は写生の歌であるべきだと主張した。言葉も「古語」である必要はなく、現代語、漢語、外来語をも用いてよいと主張した。この主張は多くの人々に受け入れられ、子規の理論が近代短歌の理論となった。子規の弟子に高浜虚子、河東碧梧桐、伊藤左千夫、長塚節らが出て、左千夫の系譜から島木赤彦、斎藤茂吉など日本を代表する歌人が生まれた。
子規は伊予国温泉郡藤原町(現在の愛媛県松山市花園町)に松山藩士・正岡常尚、妻八重の長男として出生。生没年は1867年(慶応3年)~1902年(明治35年)。本名は常規(つねのり)、幼名は処之介(ところのすけ)、のちに升(のぼる)と改めた。1884年(明治17年)東京大学予備門(のち第一高等中学校)へ入学、同級に夏目漱石、山田美妙、尾崎紅葉などがいる。軍人、秋山真之は松山在住時からの友人だ。子規と秋山との交遊を描いた作品に司馬遼太郎の小説「坂の上の雲」がある。
1892年(明治25年)帝国大学文科国文科を退学、日本新聞社に入社。1895年(明治28年)日清戦争に記者として従軍、その帰路に喀血。この後、死を迎えるまでの約7年間は結核を患っていた。病床の中で『病床六尺』、日記『仰臥漫録』を書いた。『病床六尺』は少しの感傷も暗い影もなく、死に臨んだ自身の肉体と精神を客観視した優れた人生記録と評価された。
野球への造詣が深く「バッター」「ランナー」「フォアボール」「ストレート」「フライボール」などの外来語を「打者」「走者」「四球」「直球」「飛球」と日本語に訳したのは子規だ。
辞世の句「糸瓜咲て 痰のつまりし仏かな」「をととひの へちまの水も取らざりき」などから、子規の忌日9月19日を「糸瓜(へちま)忌」といい、雅号の一つから「獺祭(だっさい)忌」ともいう。

(参考資料)「正岡子規」(ちくま日本文学全集)、梅原猛「百人一語」、小島直記「人材水脈」、小島直記「志に生きた先師たち」

 

 

 

 

 

足利尊氏・・・「文武両道は、車輪の如し。一輪欠ければ人を度さず」

 これは室町幕府の創設者、足利尊氏が最晩年の延文2年(1357)に書き残した、二十一箇条からなる『等持院殿御遺言』の一節だ。国を治めるものは学問を身につけるべきである。とはいえ、戦だけを働きとする武者には学問などは無用である。

「五兵にたずさわる者に、文学は無用たるべし」。刀など五種類の武器をもって戦う男たちに学問は無用。生かじりの学問をもてあそべば、口先ばかり達者で心正しからざる侫(ねい)者となる者多し、心得るべきことだ-と尊氏は説く。

 足利氏の祖は八幡太郎源義家の第三子、源義国が晩年、足利の別業(別荘)にこもり、その次男の源義康が足利の庄を伝領したことから始まる。尊氏(初名は高氏)はこの直系、足利貞氏の嫡男として生まれている。彼の名前が歴史の舞台に表れるのは元弘元年(1331)9月、後醍醐天皇が鎌倉幕府の討伐を企て、途中で露見して笠置(現・京都府相楽郡笠置町)に潜幸したとき、幕府の差し向けた討手の六十三将の一人として登場する。27歳の時のことだ。

 ただ、高氏は鎌倉幕府への反逆を起こす立場になかった。なぜなら先祖は源頼朝や北条政子とも縁戚を結び、以後、足利氏は北条一門とも代々、密接な血縁関係を幾重にも結んできたからだ。本来彼は革新的な人物ではなかった。性格は保守的で、日和見主義者であったとさえいえる。現代風に表現すれば、名家のお坊ちゃんだ。足利家に代々伝わる遠祖義家の「置文」(遺言状)がなければ、後世の尊氏はなかっただろう。

「天下を取れなかった八幡太郎義家が、七代目の子孫に生まれ変わって、かならず天下を取る」がそれだ。そして足利家ではこれを信奉し、義家の七代後の子孫である家時は、ご先祖の「置文」の通りに天下が取れなかった自分を嘆き、恥じ、八幡大菩薩にわが命を縮めるかわりに、これより三代の後に今度こそ、望みを叶えてくれと置文を残して、切腹して果てた。その三代目が高氏だった。彼は周囲に押し上げられるように、謀反決起を考えねばならなくなった。

その点、尊氏は時代の趨勢を的確に読んでいた。鎌倉幕府に対する不平・不満は全国の武士の間に満ちていた。そこへ天皇が反旗を翻して、一部の公家が荷担した。幕府はこれを弾圧したものの、政権としての権威の失墜は明らかだった。

元弘3年、笠置で捕らえられ隠岐(島根県)に流された後醍醐帝は再び脱出。後醍醐帝軍を討つことを命じられた高氏は、密かに後醍醐帝の綸旨(みことのり)を得て丹波、篠村八幡宮で鎌倉幕府に反旗を翻して、軍を反転して六波羅探題を討ち、北条一族を滅亡に導いた。高氏は殊勲第一の者として鎮守府将軍に任ぜられ後醍醐帝の尊治の一字を賜り尊氏と改名する。ところが、尊氏はほどなく後醍醐帝と対立し、持明院統の豊仁親王を担ぎ皇位につけ、光明天皇として遂に足利十代にわたる悲願であった足利幕府を樹立する。

ただ、ここに至る行動の采配は実弟の直義や執事の高師直が振るっているのだ。室町幕府の創設期、幕府の実権は直義と師直の両者が握ることになる。この両者に実権を握られ続けながら、「人望」のある尊氏は時代の方向を的確に読み、カリスマ性を発揮しつつ、遂には征夷大将軍となった。
   
(参考資料)加来耕三「日本創始者列伝」、神坂次郎「男 この言葉」、海音寺潮五郎「覇者の条件」

在原業平・・・「つひに行く道とはかねて聞きしかど 昨日今日とは思はざりしを」

 人間の死に例外はない。誰にでも訪れる。しかし、昨日今日とは思わなかった-という驚きと不安と絶望、さらにはこの世に対する未練など様々な心情や思いが含まれた歌だ。 

 在原業平(825~880年)は平安初期の歌人で六歌仙の一人だが、「色好み」として知られている。業平の恋のアバンチュールの相手は二条后・藤原高子と恬子内親王とが主なものだ。藤原高子は清和天皇の后であり、陽成天皇の母だ。恬子内親王は文徳天皇の皇女であり、伊勢の斎宮として男性との一切の交渉を禁止されていた女性だ。このほか、清和天皇の后で貞数親王の母である姪の在原文子とも、仁明天皇の皇后で、文徳天皇の母である藤原順子、すなわち五条后とも男女関係があったとみられている。すべて貴顕の、いやもっといえば、通常は全くタブーの相手ばかりなのだ。

 こうみてみると、業平の恋の情熱は普通の形では燃え上がらず、なぜかタブーを犯した時に初めて激しく燃え上がるのではないか。その理由は彼の生まれにあるのではないだろうか。彼は平城天皇の皇子・阿保親王の第五子で、その母伊豆内親王は桓武天皇の皇女だ。平城天皇は嵯峨天皇の兄で、本来なら彼はこの平城天皇の系譜に伝えられるべきであった。しかし、「薬子の乱」によって一門は失脚し、阿保親王は親王の位として最も低い四品にとどまり、伊豆内親王は无品であり、その子供たちも826年、やむなく臣籍に下り、「在原」姓を名のったのだ。

 これは勝手な類推に過ぎないが、業平の心の中に“天皇”への野望が隠れていたのではないかと思われる。「薬子の乱」などの混乱が起こらなければ、本来、自分は天皇となるべき存在だったのに-との密かな思いがあったのではないだろうか。それで、現実には叶えられぬ痛切な、無念の思いを、タブーの天皇の后妃たちとの恋に身をやつし、人生のすべてを捧げたのではないか。

 業平はその容姿が美しく、美男の典型とされている。放縦で物事にこだわらず、天才肌で多くの優れた歌を残している。次の歌などはよく知られている。

 世の中に絶えて桜のなかりせば 春の心はのどけからまし
世の中に桜がなかったら、春の日々はもっとゆったりと暮らすことができるだろうに。桜があるために忙しくてしかたがない-という意味だ。それほど、この時代の人々は桜の咲く頃を、桜の美しさを讃えるとともに、桜に様々な思いを託して楽しんだのだ。
 
 『伊勢物語』は色好みの男としての伝説を歌物語に結晶させたものだ。この中のよく知られた秀歌も取り上げておきたい。

 名にしおはばいざ言問はむ都鳥 わが思ふ人はありやなしやと
これは武蔵と下総の境の隅田川で詠んだ歌だ。都鳥(ユリカモメ)という名をもつ鳥と聞いて都の恋人を想い起こすのは業平ならではだ。いま、東京の中心を流れる隅田川には言問橋(ことといばし)、その支流に業平橋がかかっている。

(参考資料)梅原猛「百人一語」、松崎哲久「名歌で読む日本の歴史」
                             

伊能忠敬・・・「緯度一度の距離を測る」 日本全土の精密地図をつくる

 伊能忠敬は19世紀の初頭、それまでは存在しなかった日本全土の精密地図を、50歳を過ぎてから取り組んだ第二の人生でほぼ独力でつくり上げた。その基本となるのが上記の「緯度一度の距離を測る」ということであった。

といっても、実測する以前に難しい点や高いハードルがいくつもあった。周知の通り、徳川時代は「幕藩体制」で「中央集権と地方自治の混合時代」だ。幕末時点でも全国に280の大名家・藩があり、藩と藩との間には厳しい国境が設けられ、関所がつくられていた。人の出入りや、ものの流れのチェックが、現在ではとても信じられないほど厳しい時代だった。

また、固く確立した「士農工商」の身分制があった時代のことだ。「一農民が何人もの大名の領地に入って、いろいろと測量することは大きな反発を招く」というわけだ。そこで、忠敬の身分は「公儀お声掛り」という幕府公認の測量者という体裁がつくられた。

 忠敬は寛政12年(1800年)、55歳のときから文化13年(1816年)、71歳のときまで16年間にわたり10回もの日本国内測量を続けた。測量のために歩いた距離は4万3000・・。地球を一周してなお、おつりのくる長さだ。総日数3753日にもなる測量の旅で、第一の人生で家業立て直しや村政で培った合理主義と創意工夫で問題を一つ一つ解決しながら、測量法や測量機器の改善を重ねて、精密な「大日本沿海輿地全図」を完成させた。

 ただ、残念なことに忠敬は自分の手では完成させることはできなかった。文政元年(1818年)、持病のぜんそくが悪化し、忠敬は74歳の生涯を閉じる。それから3年後、忠敬の測量による「大日本沿海輿地全図」が、門人たちの手で幕府に納められた。

だが幕府はこの地図を公開せず、秘蔵してしまう。「伊能図」の優秀さが世界に知られるのは、それから40年後のことだ。文久元年(1861年)、来日した英国の測量艦隊は、幕府から派遣された役人が所持していた伊能小図を見て、その精密さに驚嘆した。

そのため、その測量艦隊は改めて測量する必要がないと判断。それを写させてもらい、日本近海の深さだけ測って帰ってしまったという。明治になっても、陸軍参謀本部測量局が作成した20万分の1の地図の中心となったのは、伊能中図だった。

 「人生わずか50年」といわれた200年も前に、50歳を過ぎて新しい学問に取り組み、これをマスター。そして、日本列島北から南までのほとんどを踏査、また独自に測量機器に改善を加えながら、当時の外国人からみても驚嘆するほどの精密な日本地図を完成させた伊能忠敬のすさまじいエネルギーには脱帽するしかない。

(参考資料)童門冬二「伊能忠敬 生涯青春」、加来耕三「日本創始者列伝」

上杉鷹山・・・ 「国家は私すべきものにあらず」 江戸期に「主権在民」謳う

 これは米沢藩・九代藩主上杉鷹山が前藩主の実子、治広に藩主の座を譲り隠居するときに藩主の心得として与えた『伝国之辞(譲封之詞)』にある言葉だ。

全体を記すと、
一、 国家ハ先祖より子孫へ伝候国家にして、我私すべき物にハ無之候
一、 人民ハ国家に属し足る人民にして、我私すべき物にハ無之候
一、 国家人民の為に立たる君にて、君の為に立たる国家人民には是なく候

 ここでいう国家とは米沢藩、人民とは領民のこと。「藩と藩民は大名やその家臣が私するべきものではない」と力強くその公共性を説いている。これは今日でいう「主権在民」の思想だ。まだジャン・ジャック・ルソーも生まれていないし、フランス革命も起こっていない。米国でリンカーンが「人民による、人民のための、人民の政治」と声高に叫んだあの有名な演説よりはるか前に書かれたものだ。徳川の厳しい幕藩体制の枠組みの中での発言だけに、その勇気には目を見張らせるものがある。現代の政治家にも、大いにかみ締めてもらいたい言葉だ。米国大統領ジョン・F・ケネディが尊敬する日本人として挙げたのもうなずける。

 鷹山は明和4年(1767)、17歳で米沢藩主になった時に、自分の決意を和歌に詠んでいる。「うけつぎて国の司の身となれば 忘れまじきは民の父母」がそれだ。きょうからは家臣や藩民の父となり母となり、彼らを慈しむ政治を行おう-との覚悟を述べたものだ。

 上杉鷹山(1751~1822)は日向(宮崎県)高鍋藩3万石秋月種美の次男で幼名直丸、のち治憲、鷹山は号。宝暦10年(1760)出羽(山形県)米沢15万石の藩主、上杉重定の養嗣子となる。家督を継いだ時の藩財政は、万策尽きた前藩主重定が藩主の地位を放棄し、15万石の領土を幕府に返上しようという前代未聞の決断をしたほどの窮状ぶりだった。

この倒産同然の老朽会社ともいえる米沢藩を鷹山は・従来の諸儀式、仏事、祭礼、祝事を取り止めまたは延期・50人の奥女中を9人に減らす・藩主以下全員、食事は一汁一菜、綿服の着用、贈答の廃止-など12カ条に及ぶ倹約令を公布。また農村の復興に取り組み、藩士たちにも開墾を奨励したほか、農家の副業を奨励し桑・コウゾ・漆の栽培を指導し、製糸技術の改良、織布技術の輸入を図り、京都や越後の小千谷から職人を招いて、産業技術振興に務めた。その結果、藩内に大いに織布工業が興り、江戸でも米沢の織物の声価を高めた。

こうした様々な諸施策によって、天明5年(1785)米沢藩を黒字財政に乗せた後、まだ35歳の若さで鷹山は藩主の座を譲り隠居した。当時はもとより、現代ではとても考えられない見事な進退の処し方だ。

(参考資料)童門冬二「上杉鷹山の経営学」、童門冬二「小説 上杉鷹山」、藤沢周平「漆の実のみのる国」、内村鑑三「代表的日本人」、神坂次郎「男 この言葉」