木曾義仲 後白河法皇の術中にはまり、死に急いだ悲劇のヒーロー

木曾義仲 後白河法皇の術中にはまり、死に急いだ悲劇のヒーロー

 木曾義仲(源義仲)は1180年(治承4年)、以仁王の令旨によって挙兵、都から逃れた以仁王(もちひとおう)の遺児を北陸宮として擁護し、「倶利伽羅(くりから)峠の戦い」で平氏の大軍を破って、源氏の中でもいち早く上洛した。ところが、①都の治安維持・回復に失敗した②皇位継承問題に介入した-ことなどから、後白河法皇と対立。不幸にも従兄弟にあたる源頼朝・義経と戦う破目になり、「粟津の戦い」で義経の軍勢に討たれた。わずか30年の生涯だった。

   歴史に「たら」「れば」を言っても仕方がないのだが、それを承知で、あえていわせてもらうなら、義仲がいま少しうまく立ち回っていれば…と考えざるを得ない。義仲が嫡子・義高を頼朝のもとに人質として差し出していることを考え合わせると、頼朝・義経との共闘・同盟を視野に入れて行動するという選択肢はなかったのだろうが、こうも簡単に後白河法皇の術中にはめられて身動きできなくなった格好で、“自滅”に陥ることもなかったのではないか。

   後白河法皇は、西国に退却した平氏を追討するように、義仲をけしかけながら、裏では鎌倉の頼朝と取引し「征夷大将軍職」を与えて、義仲追討の院宣を出しているのだ。法皇の腹黒い、したたかさには舌を巻かざるを得ない。これに対し義仲は手も足も出ない。木曽の山中で育ったためか、格式が重んじられる、都での公家との交渉ごとに不慣れだったことも当然あろう。不幸にもそういうことに長けたブレーンもいなかった。だが、どうみても粘り強く難局をしのぎ、打開していくというような姿勢が全くみられないのだ。そこには武骨で、死に急いだ悲劇のヒーローの姿があるだけだ。

 木曾義仲は河内源氏の一族、源義賢の次男。母は遊女。幼名は駒王丸、のち義仲。別名は木曾次郎、木曾冠者、朝日将軍。生没年は1154(久寿元)~1184年(寿永3年)。義仲の前半生に関する史料はほとんどなく、出生地は武蔵国の大蔵館(現在の埼玉県嵐山町)とする伝承もあるが、義賢が居住していた上野国多胡郡(現在の群馬県多野郡)の可能性もある。父義賢は甥の義平(頼朝の兄)に殺され、義仲は木曽に逃れ、元国司・中原兼遠の手で育てられた。義仲13歳のとき、京へ行き石清水八幡宮で元服し、「木曽次郎義仲」と名乗った。

 義仲が平家追討のため挙兵したのは1180年(治承4年)、27歳のときのことだ。そして、倶利伽羅峠の戦いで自軍のほぼ2倍の平家の大軍を破り、1183年(寿永2年)、遂に都へ攻め上った。上洛した義仲軍にとって期待されたのは、飢饉続きと、我が世を謳歌する平氏の狼藉で荒廃した都の治安回復だった。しかし、義仲はまずこの都の治安維持・回復に失敗してしまった。また、義仲軍の大軍が都に居座ったことにより食糧事情の悪化を招いた。さらには挙兵から上洛までの経緯から、以仁王の遺児、北陸宮を強引に推して、皇位継承問題に介入したことで、最高権力者・後白河法皇と不和となってしまったことも、取り返しのつかない、大きなつまずきとなった。

 義仲軍は西国へ退却した平氏を追討するため、山陽道にいた。義仲は水島で平家の水軍に破れ、法皇に裏切られたことを知る。頼朝が兵を差し向けてきたことを知ると、義仲麾下の軍は次々と離脱していった。必死の思いで都に戻った義仲軍3000は、八方塞がりの状況に直面し、いつのまにかわずか700になっていた。だが、ここで義仲は反転、攻勢に出る。法皇を討つ覚悟を決め、院の御所、法住寺を攻めて後白河法皇を捕らえ、幽閉した。

 1184年(寿永3年)、義仲は待望の征夷大将軍になったが、悲しいことに命運は尽きた。源範頼・義経率いる約2万の鎌倉軍が迫っていたのだ。そして、近江国粟津(現在の滋賀県大津市)が最期の舞台だった。義仲が戦死したとき、嫡子・義高は頼朝の娘・大姫の婿として鎌倉にいた。彼は身の危険を感じ、逃亡を図ったが討たれ、義仲の家系は絶えた。

 今日、木曾義仲の功績を正当に評価する史料は極めて少ない。ほとんだが義仲=敗者=悪-を前提に論じたものだ。意外にも江戸時代の学者の中には公正に評価した人物がいる。徳川六代将軍家宣の侍講、新井白石は著書『読史余論(とくしよろん)』で、「すべて平家の兵をやぶりて、都を追い落とせし事、ことごとく義仲が功なり」と義仲の功績を称える義仲論を説いている。そして、『平家物語』や『源平盛衰記』などは鎌倉時代になって作られた物語で、これらは後白河法皇、源頼朝の立場を正当として位置づけ、義仲の功績を覆い隠し、悪の一切を義仲の責めにして押し付けている-と後世の義仲に対する低い評価を断罪している。

(参考資料)杉本苑子「悲劇の風雲児」、海音寺潮五郎「武将列伝」、安部龍太郎「血の日本史」、松本利昭「木曽義仲」、永井路子「絵巻」、加来耕三「日本補佐役列伝」

 

平城天皇 早良・伊予両親王の亡霊に抗し切れず譲位した病弱な人物

平城天皇 早良・伊予両親王の亡霊に抗し切れず譲位した病弱な人物

 平城(へいぜい)天皇は皇太子(安殿親王)のとき、母の藤原薬子(ふじわらくすこ)が長女を後宮に入れるため、付き添いとして宮中に上がった際、気に入り、関係を結ぶに至り、後宮の秩序を著しく乱した人物だ。皇族としての品格や常識に欠ける側面があったことは確かだ。また、生来病弱だったため、在位わずか3年余りで弟。嵯峨天皇に譲位、平城上皇となった。だが、ほどなく健康はにわかに回復したため、国政への関心を示すようになった。そして上皇の威を借りた、側近の薬子やその兄の藤原仲成の暗躍に任せ、上皇の命令と称して政令を乱発。その結果、弟の嵯峨天皇と対立、「二所の朝廷」と呼ばれる分裂状態をつくり出し、国政を混乱させた。

    平城上皇は精神的に幼く、様々な行動が“悪あがき”や“○○ごっこ”と表現した方が的を射ているような幼児性が随所に垣間見られ、弟の嵯峨天皇の器量と比較すると悲しいほどだ。平城天皇の生没年は774(宝亀5)~824年(天長元年)。

 平城天皇は、桓武天皇の第一皇子。諱は安殿(あて)といい、皇后・藤原乙牟漏(おとむろ)を母として生まれた。父・桓武帝の弟、早良親王の廃太子に伴い、785年(延暦4年)12歳で立太子した。参議、藤原繩主(ただぬし)と藤原種継の娘・薬子の間に生まれた娘を後宮に迎えた。ところが、皇太子はこの娘の母・薬子との間でも関係を結んでしまったのだ。このとき薬子は三男二女の母親だったが、よほど中年の魅力的な女性だったのだろう。皇太子は薬子に夢中になってしまったのだ。父の桓武天皇はこれを知って激怒し、薬子を後宮から追放した。

 だが、806年(大同元年)、桓武天皇が崩御し、安殿親王が皇位に就くと、まもなく薬子は呼び戻されて、後宮を束ねる尚侍(ないしのかみ、天皇に常侍する女官の長)に就任した。これ以後、平城天皇と人妻、薬子との関係は一層深まった。薬子の兄は仲成だ。彼は薬子の支援もあって昇進、参議の地位に昇った。仲成は藤原式家、造長岡京の長官で暗殺された父の中納言種継の長子だっただけに、藤原四家の勢力争いを強く意識。妹・薬子を通して平城天皇との関係を強めることが、式家の繁栄および今後の栄進の第二の保証と考えた。

 平城天皇は809年(大同4年)、詔を発して皇太子(賀美能親王)への譲位を公表した。生来病弱だった天皇が、その年の初めに発病し、なかなか回復しなかったためだ。彼は、体の不調を怨霊の仕業だと思い悩み続け、王位を離れさえすれば、その禍から免れて生命を保ち得るのではないかと考えた。彼は遂に、無念の死を遂げた早良親王、伊予親王の亡霊の鬼気には抗し得なかったのだ。皇太子・賀美能(かみの)親王は平城天皇の12歳年少の同母弟だ。彼は即位し嵯峨天皇となった。ところが、譲位してから7カ月ほど経つと、上皇となった平城の病が快方に向かい、天皇との対立が表面化してきたのだ。疫病から逃れようという一念から、不本意にも退位した、後悔の思いが強まってきたのだ。恐らくは側近の仲成・薬子の兄妹が助言あるいは、たきつけ、煽った面もあったろう。

 平城上皇がその新居の地を旧都(平城京)に求め、慌しくそこに移ったころから、上皇と天皇との対立が表面化した。薬子と仲成がその動きを助長した面はあったろうが、そのきっかけをつくったのは上皇本人だった。いまや上皇の居所は、反嵯峨朝廷の策源地となった。愚かにも平城上皇は「二所の朝廷」の対立時代をつくってしまったのだ。そして、嵯峨天皇が発病、病臥中、上皇はとんでもないサプライズをやらかしてしまう。異例のことだが、上皇は独断で平安京を廃して都を平城の故地に遷すことを命令したのだ。嵯峨天皇と政府にとっては、この遷都宣言はまさに青天の霹靂ともいうべき大事件だったろう。全く子供じみた“暴挙”としかいいようがない。

 上皇の独りよがりの無謀な朝廷挑発行為には全く支持者は得られず、事態は早々に収拾された。嵯峨天皇は兄・平城上皇の王権への叛逆の罪を追及しなかったが、上皇の皇子・高岳親王から皇太子の地位を奪った。 

(参考資料)北山茂夫「日本の歴史④平安京」、笠原英彦「歴代天皇総覧」、杉本苑子「檀林皇后私譜」

平維盛 源平争乱の荒波に押しやられた、清盛の嫡孫・純愛カップルの愛

平維盛 源平争乱の荒波に押しやられた、清盛の嫡孫・純愛カップルの愛

 平維盛(たいらのこれもり)は、平重盛の嫡男、つまり清盛の嫡孫だ。彼は美貌の青年公家だった。そんな彼が見初めたのが、権大納言成親(なりちか)の娘。15歳と13歳で結婚した二人は、人もうらやむ似合いのカップルだった。しかし、源平争乱の荒波は、この二人にも情け容赦なく押し寄せてきた…。維盛の生没年は1157(保元2)~1184年(寿永3年)。

 維盛は、無事なら清盛の跡を継ぐはずだった重盛の嫡男として宮廷では順調に昇進。若くして従三位、小松三位中将などと呼ばれた。母は官女とされるが、出自など詳細は不明。一方、妻は権大納言成親の娘。妹は平清経の妻室になっていた。彼女たちの母・京極局は、歌人、藤原俊成の娘。後白河法皇に仕え、院中女房の第一といわれ、したがって姉妹は藤原定家の姪になる。彼女は10歳をすぎたころ、義理の叔母になる建春門院に仕えた。女院から特別に目をかけられ、御座所近くに局を与えられていた。

 二人が結婚した男子15歳、女子13歳は、往古に定められた『大宝令』以来の結婚可能な年齢だ。ほどなく二人の間に続いて子供が生まれた。兄を六代丸(ろくだいまる)と名付けられた。平家隆盛の基礎を築いた兵庫頭・平正盛(ひょうごのかみ・たいらのまさもり)から数えて六代目の嫡孫の意で付けられた。2年後に生まれたのは姫だった。夫婦の中は、二人の幼な児をはさんでいよいよ睦まじかった。

 ところが、夫婦にとって不幸な事件が突発した。治承元年、鹿ケ谷山荘で平家打倒の謀議がなされたとして、二人の状況が一変したのだ。事件の中心的や役割を果たしたとみられたのは、新大納言局の父、藤原成親だ。兄の成経(なりつね)も同じとされた。成親は同年1月の除目(じもく)で、望んでいた左近衛大将(さこんえのたいしょう)の地位を清盛三男の宗盛(維盛の叔父)に奪われた。その不満から西光(さいこう)法師が唱える平家打倒の強硬論に加担したのだ。

 皮肉なことに、成経の妻は清盛異母弟の平教盛(たいらののりもり)の娘だった。さらに、父重盛の妻も成親の妹だった。古代国家体制を維持してきた藤原氏と平家一門の公達は、幾重にも婚姻を結び、完全に貴族化し、一朝事があれば、身内が敵味方となる特異な側面を備えていた。この事件で、維盛の舅、妻の父、成親は備前の配流地で串刺しにされ殺された。清盛が断固とした処置を打ち出した結果だった。

 宮廷での評判とは裏腹に、武将としての維盛の経歴は散々なものだ。鎌倉軍と対峙した「富士川の合戦」には大将軍として出陣したものの、水鳥の羽音に驚いて、戦わずして逃げ帰り、そのころはまだ健在だった清盛に大目玉を食らっている。その後、木曽義仲の上洛を阻むために北陸路へ出陣したときも、彼は大将軍だったが、「倶利伽羅峠の合戦」に大敗し、平家滅亡の端緒をつくっている。ただ、彼にも同情の余地はある。富士川の合戦のとき、彼は23歳だった。武将として何の経験もないままに、重盛の嫡男だからというだけの理由で、将軍の座に据えられたのが悲劇だったのだ。この立場は彼には重荷に過ぎたのだ。この2度の合戦に彼は叩きのめされた。

 維盛の、いやこのカップルの悲劇は、平家の総帥・清盛の死から2年後、平家一門が幼い安徳天皇を奉じて西海に逃れたことに始まる。二人の子供、六代丸は10歳、姫は8歳だった。このとき、妻子や、ほかの家族も伴うべしという一門の総指揮・宗盛の命令に従わず、維盛はなぜか、泣きすがる妻と二人の子供を京に残したのだ。維盛は、自分もお前たちを伴って行きたいが、途中で敵勢が待つともいう。そんな厳しい逃れの旅にお前たちを伴って、辛い思いをさせたくないのだ-と自分にも言い聞かせた。彼は、それほどに前途に全く光明を持ち得なかったからだ。そして、たとえ自分の討ち死にを聞いても、尼などになってくれるな。再婚しても幼い子供たちを育ててくれ-と言い残した。

    翌年、平家一門は屋島に戦陣を構えた。ところが、維盛は妻子恋しさのあまり、わずかな郎党を頼りとして、密かにこの屋島の陣から抜け出した。京に潜入して妻子の行方を探すためだった。だが、源氏軍の平家狩りは厳しかった。京への潜入は断念せざるを得なかった。立場上、都で万一捕われて生き恥をさらすことは、絶対避けなければならなかったからだ。彼は妻子に再会できないまま、高野山に逃れ、失意のあまり、1184年(寿永3年)、那智の海に入水して果てた。享年27。しかし維盛は、実際には生き延びていたという様々な伝説が日本各地に残っている。平家落人伝説の一つだ。

 維盛の妻子はその後、妻は『吉記(きっき)』を著した権中納言・藤原経房(つねふさ)に後妻として嫁いだ。六代丸は頼朝の死後、平氏嫡流の根絶やしをはかる幕府の一部勢力により、当時彼は僧籍にあったものの26歳のとき斬首された。六代丸の妹の姫は、母とともに経房の屋敷に住み、18歳のとき経房外孫の藤原実宣(さねのぶ)に嫁している。夫婦として二人が生きたのは王朝時代の末期。維盛と妻の新大納言局の愛は、時代を激しく変貌させた源平争乱の中で泡沫と消えたわけだ。

(参考資料)永井路子「歴史の主役たち」、澤田ふじ子「平維盛と新大納言局 純愛カップルを待ち受けていた運命」、杉本苑子「平家物語を歩く」

徳川家定 幕末 将軍後継問題の原因をつくった病弱・暗愚の将軍 

徳川家定 幕末 将軍後継問題の原因をつくった病弱・暗愚の将軍 

 徳川家定は、嘉永~安政年間にかけて在職した徳川十三代将軍だ。家定は十二代将軍だった父・家慶の四男だったが、兄たちはすべて夭折・若死にしてしまい、唯一残ったため父の後継将軍に就いた。だが、彼は幼少時から虚弱体質で、脳性まひを患っていたといわれるくらい、将軍職を務められるかどうか、当初から不安視されていた人物だ。

    そのため、将軍就任直後から後継将軍問題が取沙汰される始末だった。後に紀伊藩主・慶福(よしとみ、後の十四代将軍家茂)を推す紀州派と、一橋慶喜を推す一橋派の両派が、幕閣はもとより朝廷をも巻き込んで争った将軍後継問題がそれだ。この両派の対立は急遽、大老に就任した彦根藩主・井伊直弼の決断で紀州派が勝利を収めた。その後処理を巡って、家茂の治世下、京都の公家をも含め処罰の対象にした、直弼による厳しい、かつ忌まわしい「安政の大獄」が断行された。その結果、吉田松陰、橋本左内ら無事なら後世に様々な功績を残したであろう数多(あまた)の英傑が処刑・処罰され、結果的に幕府にとっても大きな汚点を残した。

 徳川家定は、十二代将軍・家慶と本寿院との間に生まれた。家定を名乗る前は政之助、家祥とも呼ばれた。別名イモ公方。生没年は1824年(文政7年)~1858年(安政5年)。既述のとおり、家定は幼少時から虚弱体質だった。そのため、精神的な発達が遅れ、将軍職として執務することは重荷で、江戸城の庭にいるアヒルなどを追い駆けたり、豆や小豆を煎って側近に与えることが唯一の楽しみとするような性格だったという。父・家慶は家定の治療を指示し治そうとしたが、無理だったようだ。

 家定は公家から二度、そして武家から一度、計三度正室を迎えている。最初の縁組は1828年(文政11年)、5歳の時に決定した。相手は1823年(文政6年)誕生した一歳上の、鷹司前関白政煕(まさひろ)の末娘有君で、関白鷹司政通の養女として家定に嫁ぐことになった。この有君が江戸城西の丸に入輿したのは19歳のときのことだ。このとき家定は18歳だった。が、有君は1848年(嘉永元年)、疱瘡のため25歳の若さで死去した。このため、1849年(嘉永2年)、左大臣一条忠良の娘秀子を二度目の御簾中として迎えたが、不幸にもこの秀子も翌年、死去してしまった。

 家定の側室はお志賀の方一人しかおらず、子供もいなかった。したがって三度目の正室を迎えることや、誰を養君に立てるかということが、重要な政治問題になりつつあった。そこで、浮上してきたのが武家、島津家からの輿入れだ。二度まで正室を失った家定は、病弱な京都の公家の娘を好まず、長命で子孫が繁昌した茂姫(広大院、島津家から4歳で一橋家の松平豊千代=後の第十一代将軍・家斉の正室となった)の先例にあやかり、島津家から後室を娶ろうとしたのだ。もちろん、これが家定自身の発意かどうかは分からないが、阿部正弘を老中首座とする幕閣もこれを好感、支持していたようだ。

 こうした幕府の意向を受ける形で、島津斉彬の養女一子が「篤姫(あつひめ)」と称され、近衛家の養女「敬子(すみこ)」と改め、1856年(安政3年)、家定と婚儀を挙げたのだ。家定33歳、篤姫21歳の時のことだ。史料によると、家定と篤姫の夫婦仲はなかなか良好で、世子となる若君の誕生が期待された。だが、篤姫との間にも遂に子供はもうけられなかった。病弱な家定は1853年(嘉永6年)、将軍職に就いてから、1858年(安政5年)に病没するまでわずか5年の在任だった。

(参考資料)山本博文「徳川将軍家の結婚」、宮尾登美子「天璋院篤姫」、加藤蕙「島津斉彬」、綱淵謙錠「島津斉彬」

大内義隆 京の都かぶれ、公家かぶれが命取り 重臣に謀反起こされ自害

大内義隆 京の都かぶれ、公家かぶれが命取り 重臣に謀反起こされ自害

 大内義隆は戦国時代、周防の守護大名・大内氏の第十六代当主だが、京の都の居並ぶ公家たちを凌ぐ、当時の戦国大名としては抜群の高位の従二位を叙任されていた。そして彼自身、学問に理解が深く、なかなかの文化人でもあった。しかし、この京の都かぶれ、公家かぶれが命取りとなり、重臣の陶隆房(すえたかふさ、後の晴賢)に謀反を起こされ、「当代随一の実力者」を自認していた彼もあえなく敗北、自害して果てた。公家風に深入りし過ぎて、居館の館を手薄な防禦で済ませていたことが身を亡ぼす原因になった。

 大内義隆は、大内義興の嫡子として大内氏館で生まれた。母は正室、長門守護代の内藤弘矩の娘。幼名は亀童丸、別名は受領名・周防介、尊称・大内介。義隆の生没年は1507(永正4)~1551年(天文20年)。

 大内氏の京都趣味は、14世紀後半活躍した先祖の弘世のころから始まったという。周防国の大内村から身を起こし、中国地方の有力大名にのし上がった弘世は、南北朝時代、自ら都へ上り、そのありさまに一驚し、早速本拠の山口に、ミニ京都をつくることを思い立った。ここに○○大路、○○小路と京都もどきの名前を付け始めた。室町末期、父・義興のころは足利将軍家の権威も地に堕ち、家は分裂し戦にもまれる状態で、その将軍の一人、義稙(よしたね)ははるばる大内家を頼って居候になっていたことすらあった。つまり、大内家は将軍のスポンサーになれるほどの実力派だったのだ。

 義隆は幼いころから、こうした環境に育った。義隆にとっては京風、公家風はもう付け焼刃なものではなく、地に着いた、あるいは肌に沁みこんだものだった。それだけに、彼自身も学問に理解が深く、なかなかの文化人でもあった。しかも、明国相手の貿易も盛んで、半ば独占的にこれを手がけていた大内氏の利益は大きく、文字通りの「舶来品」がどんどん入ってきた。この大内家の繁栄を見抜いて、海の彼方からも珍客がやってきた。キリシタン・バテレンの宣教師フランシスコ・ザビエルだ。彼は義隆に大時計や火縄銃を献じ、ここを日本布教の根拠地として活動を始めた。こんなことが重なっただけに、義隆も我こそは当代随一の実力者と思い込んだとしても無理はない。

 そんな義隆の心情を如実に示したのが、彼の嫁取りだ。彼は政略結婚で周辺の有力戦国大名の娘との婚姻といった、当時ありがちな嫁選びはしなかった。妻には都の公家の姫君を迎えた。万里小路秀房(までのこうじひでふさ)の娘、貞子といい、15歳のときに輿入れしてきた。義隆はこの京人形のような妻を愛した。が、あるとき公家かぶれの義隆が、ふと浮気心を起こして貞子の侍女に手を出し、それが発覚。夫の浮気に憤慨した彼女は遂に都へ帰ってしまった。

    浮気がバレて妻に逃げられるとは戦国大名としてはとんだ赤っ恥だが、義隆にとって取り返しのつかない失敗が、居館の防備だった。万事公家好みの彼の山口の館は防備万全の城ではなかった。都の天皇や将軍の御所に倣って、周囲を土手で囲んだ「御館(おやかた)」しかつくらなかったのだ。食うか食われるかの戦国、こんな手薄な防禦ではひとたまりもない。重臣の陶隆房に謀反を起こされ、あえなく敗北してしまう。彼は船に乗って九州に逃れたかったようだが、風波に遮られてそれも果たせず、長門の大寧寺で自害して果てた。

 順序が相前後するが、義隆の若き日の姿を少し触れておく。彼は元服後の1522年(大永2年)から父・義興に従い、1524年(大永4年)には安芸に出陣した。岩国永興寺から厳島へ入り、陶興房とともに安芸武田氏の佐東銀山城を攻めた。しかし、8月には尼子氏方として救援に赴いた毛利元就に敗退した。また、山陰の尼子氏とも干戈(かんか)を交えた。1528年(享禄元年)、父の死去に伴い家督を相続した。

(参考資料)福尾猛市郎「大内義隆」、永井路子「にっぽん亭主五十人史」

足利義尚 ポスト義政の争いに勝ったが、25歳の若さで病没した九代将軍

足利義尚 ポスト義政の争いに勝ったが、25歳の若さで病没した九代将軍

 室町幕府の第九代将軍・足利義尚(よしひさ)は、第八代将軍・足利義政の子で、父とは異なり、将軍は武士の棟梁だというこだわりを持ち続け、文武両道の達人となることを目指した人物だった。ただ、悲しいことに、武士の棟梁=将軍の権威にこだわるあまり、戦争収拾の稚拙さが禍(わざわい)となり、結局彼は応仁の乱後、下克上の高まりによって大きく失墜した幕府・将軍家権威の回復に努めたものの、目指した成果は挙げ得ないまま、25歳の若さで病死した。

 足利義尚は母・日野富子の過度の願望と期待を背に受けて成長、父・義政の後を受けて九代将軍職に就いた。わずか8歳のときのことだ。その後は、政治顧問、一条兼良(いちじょうかねら)から帝王学をはじめ、政道や和歌などを学ぶなど文化人としての評価は高い。とりわけ、和歌に熱心で14歳ごろから盛んに歌会を主催した。義尚は1483年(文明15年)、『新百人一首』を撰定し、さらに姉小路基綱、三条西実隆、飛鳥井雅親、飯尾宗祇などの歌人を結集して和歌『撰藻鈔』の編纂を試みたが、義尚の陣没により未完に終わった。他に『常徳院集』など数種の歌集が伝わる。1487年(長享元年)、義尚は義煕(よしひろ)と改名しているが、一般的には義尚の名で知られる。生没年は1465(寛正6)~1489年(長享3年)。将軍在位は1473~1489年。

 義尚の運命を大きく転換させることになったできごとがある。それは近江国(現在の滋賀県)の南半分の守護だった六角高頼(ろっかくたかより)が、勢いに任せて北近江の社寺系の荘園や将軍家の直轄地の御料所を押領(おうりょう=横領)したという一つの訴えが義尚のもとに届けられたのだ。義尚が20代半ばの時のことだ。これを放置すれば将軍の権威はますます低下する。そう考えた義尚は、諸大名に招集をかけ自らも鎧を身に付け、高頼を討つべく近江へ出陣した。父・義政の時代には、実質的には絶えてなかった将軍親征だ。初めのうちは極めて順調に事は進んだ。斯波、畠山、細川、山名、一色、大内といった守護大名の大物たちが参集し、1487年(長享元年)の合戦では将軍方が大勝利を収めた。高頼は本拠の近江観音寺城を捨てて、近臣だけを連れて甲賀の里(現在の滋賀県甲賀郡)へ逃亡した。義尚の軍事デモンストレーションともいうべき親征は、とりあえず大成功を収めたのだ。

 ところが、実はこれが義尚にとって、そして室町幕府の将軍家にとっても、衰亡の大きなきっかけとなってしまったのだ。合戦に勝利することは確かにめでたいことだが、勝った以上は功労者に恩賞を与えなければならない。幕府は、いや政治は信賞必罰が基本であり、それを踏み外しては当事者に不満や不信を抱かせることになる。義尚が親征を敢行したのも、将軍家の権威の復活のためだったから、彼は六角高頼から「取り戻した」領地を、近臣たちに与えた。近習出身の結城尚豊を近江の守護職に任じた。合戦の成果として、これでよかった。六角高頼征伐はこれで十分なのだ。正確に言えば、この成果を持って都へ帰り軍を解散すれば確定するのだ。

 しかし、義尚は都へ凱旋せず、甲賀の入り口に近い鈎(まがり=現在の栗東市)で無理な滞陣を続けた。あくまで高頼を捕らえ成敗することにこだわったのだ。あまりの長期の滞陣に、管領・細川政元(勝元の子)が、とりあえず琵琶湖のほとりの坂本まで兵を引くように進言したが、義尚は全く耳を貸さなかった。怒った政元は都へ帰ってしまった。いうまでもなく、都の近くとはいえ、長期間の滞陣は多額の費用を必要とする。お坊ちゃん育ちの義尚は中級以下の武士たちの不満や窮状、そして大名クラスをも含めた滞陣に伴う武士全体に充満した、いつ終わるか分からない不自由さにはまるで気がつかなかった。その結果、義尚は将軍権威の復活の絶好の機会をみすみす逃してしまった。

 そればかりではない。長期間の滞陣によって、もともと病弱な体質の義尚は何回か病気になり、とうとう死に至る病に冒されてしまったのだ。そして、滞陣1年6カ月、義尚は結局この近江の鈎の陣中で病没した。享年25。死因は過度の酒色による脳溢血といわれる。仲違いした父・母の姿ばかり見て育ったという側面は差し引いても、自身の気負いすぎに気付かなかった、お坊ちゃん育ちの将軍の悲劇だった。

 「ながらえば人の心も見るべきに 露の命ぞはかなりけり」が辞世だ。

   義尚には継嗣がなかったため、従弟(叔父・義視の子)の足利義材(よしき、後の足利義稙=あしかがよしたね)が義政の養子(一説に義煕の養子とも)となって、1490年(延徳2年)に第十代将軍に就いた。

(参考資料)井沢元彦「逆説の日本史⑧中世混沌編」

足利義視 兄・義政から九代将軍を約束されながら、反古にされた弟

足利義視 兄・義政から九代将軍を約束されながら、反古にされた弟

 足利義視(あしかがよしみ)は、兄の室町幕府の第八代将軍・足利義政に口説かれ、後継者に決まった。万一、この後、義政の正夫人(御台所)日野富子との間に男子が生まれても、絶対に後継者にしない。出家させる-という確約も得た。そのために、幕閣第一の有力者で宿老の細川勝元を後見人にも立てた。これで、義視の九代将軍職就任は決まったはずだった。ところが、皮肉なことに、彼が後継者に決まって一年も経たないうちに、義政の妻・富子は懐妊し翌年、男子を産んだのだ。これが後に正式に九代将軍になる義尚(よしひさ)だ。哀れ、後継者を約束されたはずの義視は結局、まだ赤ん坊の存在に振り回され、義政の「将軍留任」のまま、結論が先送りされ、人生を狂わされてしまったのだ。

 足利義視はもともと天台宗浄土寺門跡として出家して義尋(ぎじん)と名乗って、僧籍にあった。何事もなければ、彼は僧籍で生涯を終えるはずだった。それを、将軍の座を引退し、大御所として気ままに「趣味に生きる」ことを考えた兄・義政に、後継者にと熱心に、そして強引に口説かれたのだ。それでも義尋は最初のうちはその申し出を何度も断っていた。義政も富子もまだ若い。二人の間に、もし男の子が生まれれば、即、邪魔者になり約束は反古にされる-と怖れた。

 だが、義政が冒頭に述べたとおり、後継者を確約し、義尋の後見人として細川勝元を付けてくれたからこそ、彼は遂に決断し還俗して、義視と名乗ったのだった。しかし、義視にとってそれは悲劇の始まりだった。それは、すべて無責任で、優柔不断で、この後継問題を放置し先送りした、将軍の兄・義政のせいで被ったものだった。

 この場合、いずれにしても義政という日本の最高権力者が、その権限と地位をもって決断しなければならなかったのだ。それを、妻・富子が腹を痛めた実子を後継の将軍職に就けたいと願う、極めて強い富子の要請に遭って、彼は将軍職を降りるに降りられず、無責任にも、不本意ながら将軍に居座り続けることになったのだ。その結果、義視・細川勝元の東軍勢vs義尚・日野富子・山名宗全の西軍勢の、やがて京都を焦土と化した「応仁の乱」に突入していく要因の一つとなった。

 足利義視は、室町幕府第六代将軍・足利義教の十男として生まれた。今出川の屋敷に住んだため「今出川殿」と尊称された。諡号は道存。母は日野重光の娘、日野重子。第七代将軍・義勝、八代将軍・義政らは同母兄、堀越公方の足利政知は異母兄にあたる。義視の妻(正室)は日野重政の娘、富子の実妹・妙音院。子に十代将軍となった足利義材(よしき、後の足利義稙=よしたね)がいる。義視の生没年は1439(永享11)~1491年(延徳3年)。

 11年間にわたる「応仁の乱」後、美濃に亡命。甥の義尚と、兄・義政の死後、リベンジするように、あるいは還俗してからの不運続きの人生を取り戻そうとするかのようなはつらつとした動きをみせた。義視は、将軍後継争いで対立したはずの富子と、にわかには信じ難いことだが今度は結託して、子の義材を第十代将軍に擁立して、自らは大御所(後見人)として幕政を牛耳ったのだ。まさに、波瀾万丈の人生だった。

(参考資料)井沢元彦「逆説の日本史⑧中世混沌編」

足利義嗣 父・義満の皇位簒奪計画に翻弄され、波乱の人生送る

足利義嗣 父・義満の皇位簒奪計画に翻弄され、波乱の人生送る

 足利義嗣は、室町幕府の歴代将軍の中でもとりわけ権勢を誇った三代将軍・義満の次男で、四代将軍となった義持の弟だ。義嗣は父・義満に溺愛されたばかりに、嫡男以外は出家するという足利将軍家の慣例を曲げて、異例のことに還俗させられ、義満の皇位簒奪計画の道具にさせられた。そして挙げ句、義満の急死でその計画は頓挫。庇護者を失った、その後の彼は、波乱の人生を送る破目になったのだ。

 足利義嗣は父義満の次男として生まれた。幼名は鶴若丸。嫡男以外は出家させる慣例に従って梶井門跡に入室したが、父は1408年(応永15年)、定めを破って義嗣を還俗させた。ここから、足利義満による皇位簒奪計画がスタートする。足利義嗣の生没年は1394(応永元)~1418年(応永25年)。

 義嗣の父・義満は天皇家から種々の権力を次々と奪っていき、最後は自分が太上天皇(天皇の父)となり、妻を准母(天皇の母)として、自分の息子、義嗣に次の皇位を継がせる計画を立てた。そして、それは義満の法号「鹿苑院太上天皇」が決まり、妻(日野康子)を准母とするところまで、この恐るべき大胆極まる陰謀は、九分通り成功していたのだ。が、日本史に類例のないこの暴挙は義満の急死で挫折したということだ。

 今谷明氏は「義嗣の皇位は、後小松天皇に強要して禅譲に誘導するか、あるいは気長に後小松の病死を待つか、ともかく後小松から皇位を義嗣に移すというのが、義満のもくろみだったということは間違いあるまい」としている。

  1408年(応永15年)3月、義満が10年の歳月をかけて完成した北山第に後小松天皇が招かれた。この「接待」は約20日間続いた。そして、それからわずか1カ月後の4月、義満は義嗣の元服式を宮中で行ったのだ。前代未聞の“暴挙”だった。その格式は「親王元服」と同等だった。将軍の息子に過ぎない義嗣が、天皇の子「親王」と同じ格式で元服をする。もちろん、関白以下の公家の面々も頭を下げて列席しなければならないのだ。これは、明らかに「立太子」の儀式だったろう。

 皇太子になってしまえば、あとは天皇が何らかの理由で退位すれば、自動的に天皇になれるからだ。義満の側から、一方的で勝手な見解をいえば、邪魔者は消せばいいのだ。皇太子は次期天皇を約束された身だから、誰もこの継承に異議をはさめなくなる。

 ところが、義満はこの義嗣の「立太子式」のわずか6日後に突然発病する。そして、さらに5日後、一代の“怪物”足利義満はあっけなくこの世を去ってしまうのだ。文字通りの急死だった。病名は咳気(風邪)または流布病(流行病)ともいわれるが、はっきりしない。義満には持病はなく、日頃から健康で頑健な体を持っていたという記録があるのだ。いよいよ不可解で、その死は謎だらけだ。義満は暗殺されたのか、もっとリアルに表現すれば毒殺されたのではないか。

 井沢元彦氏は「暗殺説」を公言している。そして、直接の実行犯について同氏は大胆な推理を披露している。結論をいえば、義満暗殺の黒幕は内大臣・二条満基(みつもと)、そして実行犯にあの世阿弥を挙げている。当時、最高の知識人だった満基の祖父・二条良基は、かつて世阿弥の「家庭教師」でもあった。アレキサンダー大王が、家庭教師のアリストテレスに影響を受けたように、世阿弥は良基の影響を受けたはずだ。

 二条満基は「これは殺人ではない。天皇家を乗っ取ろうとする大罪人を成敗するのだ。正義であり、忠義だ」と考えたに違いない。しかし、朝廷の高官といっても公家の満基に、毒を盛ることなどできるはずもない。第三者に依頼したのだ。義満に毒を盛ることができるほど「近い」人物、そして二条家に深い恩義を感じている人物、それは世阿弥だ-と井沢氏。

 いずれにしても、義満が死んで「天皇家乗っ取り計画」が挫折したということは、再び大名連合の力が強くなったということだ。その代表が幕府の長老的存在の管領・斯波義将(しばよしまさ)で、彼が最初にしたことは天皇家が言い出した義満の尊号宣下(太上天皇号)を辞退したことだった。これには父・義満を嫌っていた四代将軍義持の意向もあったが、有力大名と足利家は対立する存在だったからだ。これ以後、足利将軍家と有力大名との抗争の時代となる。

 話を義嗣に戻そう。「親王」元服した際、義嗣は従三位、参議に任官していたが、1408年(応永15年)5月、義満が死去すると、義満にないがしろにされていた四代将軍義持によって、義嗣と生母・春日局は北山第から追放されるなど冷遇された。だが、7月に権中納言に任官した。1409年(応永16年)1月には正三位、1411年(応永18年)11月に従二位、権大納言、1414年(応永21年)1月には正二位に叙せられた。父による不純な天皇への道は挫折したが、朝廷高官への階段は着実に昇っていたのだ。

  ただ、ここから先は義嗣自身の思いとは、だんだんズレが生まれていく。その後、不和だった兄の将軍義持を打倒するため、義嗣は伊勢国の北畠氏と結んで挙兵を企てるが、失敗。1416年(応永23年)、鎌倉府で義嗣の妾の父、前関東管領の上杉禅秀が鎌倉公方の足利持氏を襲撃した「上杉禅秀の乱」が起こった際、京都で義嗣が出奔する騒動を起こした。

  こうした状況をにらみ合わせた幕府は、義嗣の乱への関与を疑って、義嗣はじめ近臣を捕らえた。遂に義嗣は仁和寺へ、次いで相国寺へ幽閉され、出家させられた。若き日、父に強引に還俗させられたが、また元の道に戻ったわけだ。だが、今回はそれだけでは終わらなかった。1418年(応永25年)、義嗣は兄の将軍義持の命を受けた富樫満成により殺害された。父・義満が溺愛した義嗣は、容姿端麗で才気があり、とりわけ笙の演奏は天才的だったと伝えられている。

(参考資料)今谷 明「武家と天皇」、今谷 明「信長と天皇」、井沢元彦「天皇になろうとした将軍」、井沢元彦「逆説の日本史⑦中世王権編」、海音寺潮五郎「悪人列伝」

 

 

 

 

足利義輝 権謀家が策に溺れ、松永久秀に殺害された室町十三代将軍

足利義輝 権謀家が策に溺れ、松永久秀に殺害された室町十三代将軍

 足利義輝は室町幕府の第十三代将軍だが、神道流の達人、塚原卜伝(つかはらぼくでん)から免許皆伝を得たほどの人物で、その戦ぶりは生半可な武将の及ぶところではなかった。また、義輝は権謀家でもあった。それだけに、義輝は地に墜ちた幕府の権威を回復させるため、なりふり構わず権謀術数を凝らし、一つの企てを謀った。

  それは三好長慶の重臣、松永弾正久秀をそそのかし、主君を殺め三好家を乗っ取れば、天下の実権を握ることもできると煽り、久秀をその気にさせた。そして自分の手を汚さず三好家を屠った。当時、三好家は畿内、淡路、四国にかけて十カ国の所領を持つ勢力を保っていた。この力と将軍家の権威を合わせれば畿内を治めることは容易に思われたのだ。事実、三好長慶は将軍の相伴衆に加えるよう申し入れてきていた。相伴衆となって義輝を意のままに動かそうと目論んでいたのだ。裏を返せば、義輝にとっては三好家はそれだけ厄介な存在だったというわけだ。

  松永久秀が、義輝の思惑通り三好家を手中にした後、義輝は今度はその久秀を討つために上杉謙信と織田信長に上洛を求めた。義輝のその謀(はかりごと)の全貌を知った久秀は、屈辱と憎悪に打ち震え、たとえ自分の身はどうなろうと義輝だけは許さぬと決意させ、復讐のターゲットとなってしまった。そして、まもなく義輝は“憎悪”の鬼と化した久秀の刃の前に倒れた。1565年(永禄8年)のことだ。権謀家・義輝は、武人・久秀の心理をいまひとつ思いやることができず、策に溺れた格好だ。こうして幕府の権威の回復は成らなかった。

 足利義輝は、室町幕府の第十二代将軍・足利義晴の嫡男として京都・東山南禅寺で生まれた。第十五代将軍・義昭の同母兄。生没年は1536(天文5)~1565年(永禄8年)。義輝は1546年(天文15年)、わずか11歳のとき父義晴から将軍職を譲られた。

(参考資料)安部龍太郎「血の日本史」、井沢元彦「逆説の日本史」

浅野長矩 「忠臣蔵」が生まれる大本をつくった、藩主の器量に?の人物

浅野長矩 「忠臣蔵」が生まれる大本をつくった、藩主の器量に?の人物

 浅野長矩(あさのながのり)は播州赤穂藩主だ。周知の通り、江戸・元禄時代、江戸城内「松之廊下」で吉良上野介に斬りかかり、即日切腹。1年半後に赤穂の遺臣たちが吉良邸討ち入りを決行して仇討ちに成功する、いわゆる「忠臣蔵」が生まれる大本をつくった人物だ。悲劇のヒーローだ。だが、果たして浅野内匠頭長矩は、本当に悲劇のヒーローだったのか。

 そして、この浅野長矩を語るとき欠かせないのが、彼が切腹する前に詠んだ辞世だ。

 「風さそう花よりもなほ我はまた 春の名残(なごり)をいかにとやせむ」

 風に乗って最後の華やぎを舞うことができる桜よりも、同じ春に散る我が身の方が、なお一層、今生への想いが残っている。この想いをどうしたらいいのだろうか、という慨嘆だ。この藩主の問いかけがあったからこそ、無念の想いを晴らさなくてはならないと、四十七人の忠義の士を行動に駆り立てたのだ。

  浅野長矩はよき家臣を持ったことで、その存在が不朽となった。ただ、ご法度の江戸城内で吉良上野介に刃傷に及んだことだけを捉えれば、その行動自体が赤穂藩・浅野家の断絶か否かを賭けた、極めて重い行為なはずだ。冷静に考えれば、やはり世間知らずの、今日風にいえば“おぼっちゃん”大名の思慮に欠けた軽はずみな行為で、とても藩主の座に就く器量の人物ではなかったのではないかとの見方もできる。

 浅野長矩は、播州赤穂藩主・浅野長友の嫡子として生まれた。豊臣秀吉の正室・北政所(高台院)の妹婿、浅野長政を家祖とする安芸広島42万石の分家で、官名は祖父と同じ内匠頭(たくみのかみ)。父の長友は33歳で没したので、長矩は1675年(延宝3年)、わずか9歳で5万石の大名家を継いだ。

 赤穂藩・浅野家は塩田開発などで豊かな藩だった。瀬戸内海の乾燥した気候と遠浅の広い砂浜を利用して塩田開発が進んでいたから、米作中心の農業だけでなく、特産品としての塩で収入が上がる。商品経済への対応にも最も早い時期に成功した藩だったのだ。反面、そのことがこの藩に不幸を招く原因だったのかも知れない。赤穂藩は豊かだということで、1701年(元禄14年)に二度目の勅使饗応役が割り当てられた。勅使饗応役とは、毎年、京の朝廷から幕府へ年賀の挨拶に訪れる公卿を、大名家の出費で接待する役だ。現在の価格に換算すると3億円ぐらいの予算が必要となるだけでなく、極めて格式張った儀式のため、大名家からは敬遠されている。

 そのため、勅使饗応役選抜の時期には、事前に老中周辺に賄賂(?)を使って、そのリストから外してもらうように運動する藩もあったようだ。静観していて、勅使饗応役が割り当てられたら藩財政が破綻してしまう。そんな危機感をもってやむなくカネを使って、そうした事態を回避するために動いた藩もあっただろう。いったん下命を受けた以上は辞退できないのだから。そして、儀礼の細部まで、幕府の式部官である「高家(こうけ)」の指導を仰がねばならないのだが、それが敵役・吉良上野介の役割だ。下命を受ければ、自藩の判断で経費を少しでも抑えて対応するといったことは全くできないのだ。すべて吉良上野介の指示通り、まさに言いなりで、借金してでも必要だと言われれば、そのカネを工面、用意しなければならなくなる、つらい役割だ。

 浅野家と吉良家との間に、実際にどのような軋轢(あつれき)があったのか定かではない。しかし、吉良上野介の“ご機嫌取り”をあえてせず、次から次へと難題を吹っかける上野介に、人間的器量に欠けるがゆえに、“腹芸”のできない内匠頭が切れて、やむにやまれず、ご法度の刃傷に及んだ、ということになっている。その限りでは上野介は徹底して“悪役”となっている。だが、これではあまりにも公平さに欠ける気がする。むしろ、ここではどこが悲劇かという視点で考えてみれば、思慮に欠けた藩主の無念の思いを全面的に「是」として、四十七人もの忠臣が命を賭けて報復したことにある。四十七人の忠臣こそが悲劇のヒーローだったのだ。

(参考資料)松崎哲久「名歌で読む日本の歴史」、永井路子「にっぽん亭主五十人史」、井沢元彦「忠臣蔵 元禄十五年の反逆」、村松友視「悪役のふるさと」、<対談>司馬遼太郎・ドナルド・キーン「日本人と日本文化」、大石慎三郎「徳川吉宗とその時代 江戸転換期の群像」

 

織田信雄 “天下人”織田家を秀吉に乗っ取られた、愚かな三代目

織田信雄 “天下人”織田家を秀吉に乗っ取られた、愚かな三代目

 織田信長の二男・織田信雄(おだのぶかつ)は、人間として「かなり出来が悪い」あるいは「少し足りないお坊ちゃん」だった。そのため、事実上、天下人となったはずの織田家は、1582年(天正10年)に起こった「本能寺の変」で当主・織田信長と、その長男・信忠の天下人・織田家初代・二代目が同時に亡くなった後、いくつかの不運が重なり、今日風に表現すると、子飼いの役員・豊臣秀吉にまんまと乗っ取られてしまったのだ。織田家にとって最大の悲劇は愚かな信雄が生き残ったことだった。

 長男・信忠が父とともに亡くなった後、織田家には相続者として二男・信雄、三男・信孝がいた。これに、織田家の血筋を引く有力者として信長の孫、信忠の長男・秀信(当時は三法師)がいた。信雄・信孝の二人は仲が悪かった。二人は母が違う。信雄の母は長男・信忠を産んだ生駒氏の娘で、信孝の母は坂氏の娘だ。実は生まれたのは信孝の方が20日ほど早かったらしい。理由は分からないが、それでも信雄が二男ということになった。ともに側室とはいえ、長男の母で身分が高かったため、信雄が二男になったことと関係しているかも知れない。このことで、信孝も終生これが不満だった。

  また、当時の宣教師の記録をみても、信孝については性格や能力を誉めてあり、人並みの器量があったと判断できる。ところが、信雄は周囲から阿呆と呼ばれ、かなり出来が悪かった。信孝にしてみれば、自分より遅く生まれた男が、ひどく頭が悪いにもかかわらず、兄として自分より上に立っている。どうしてこんなバカを兄貴として立てねばならないのかと、不満で堪らなかったに違いない。こんな兄弟が、仲が良くなるはずもない。生母同士のライバル意識もその背景にあったかも知れない。

 織田家重臣による「清洲会議」で、秀吉の主張する正統論が勝ちを収め、信忠直系の幼少の秀信が織田家の正式な後継者と定められた。信孝は次善の策として、秀信の後見人の地位を得た。しかし、秀吉は信孝派の重鎮・柴田勝家の本拠地が北陸であるのを幸い、勝家が動けない冬の間に、信雄と誼を(よしみ)を通じ、岐阜城を攻めた。兄弟の不和を巧みに利用したのだ。

 信孝を降参させ秀信を奪い取り、降伏の条件として母と子を人質に差し出させた、その後、秀吉は勝家を「賤ヶ岳(しずがたけ)の戦い」で破り、居城の越前北ノ庄に攻め、完全に滅ぼした。こうして後ろ楯を奪った後、秀吉は信孝の母と妻子を講和違反で処刑、信孝自身も切腹させた。あとは意思のない子供(秀信)とバカ(信雄)が残っているだけだった。

 秀吉は、信雄に対し表面は主筋として尊敬するように見せながら、その実、巧みに挑発し、信雄の方から喧嘩を仕掛けてくるように仕向けた。ただ、誰が知恵をつけたか、信雄は徳川家康を頼った。これは家康にとっても、大義名分の点からみても得策だった。これを機に「小牧・長久手の戦い」が起こり、六分・四分で家康が勝ちを収めた。秀吉・家康の対立がさらに続けば、時代の様相はかなり変わっていたかも知れない。だが、この点、秀吉は役者が一枚上だった。これ以上、家康と争うことは、天下統一の障害になると判断、信雄との単独講和を図ったのだ。

 信雄の立場に立てば、まず講和はすべきではない。秀吉は織田の天下を奪おうとしているのだから、安易な妥協は絶対にすべきではない。また、どうしても講和せざるを得ない立場になったとしても、家康にはそれを知らせる必要がある。家康は信雄の要請を受けて戦いに乗り出したのだから、戦いをやめる場合、まず家康の労を謝し、講和について了承を得るのがスジだ。だが、信雄はこれをしなかった。勝手に秀吉と講和を結んでしまったのだ。家康は怒り、そして信雄のバカさ加減に苦笑したという。こうして信雄は世間から見放され、対照的に秀吉は天下人の座に就いた。

 信雄はこの後、国替えのことで不平をもらしたため、秀吉に流罪にされるという惨めな目に遭う。このとき、彼は頭を丸めて坊主となり、常真入道と号した。秀吉が死ぬと、彼は徳川方のスパイのような役目を務め、「大坂の陣」では城方の情報を流し続けた。豊臣家に対する憤懣と、失った領地を少しでも回復しようとする気持ちがあったのだろう。かつて100万石近くの領主だった己の姿を追ってのことか、分からない。ともかく大坂の陣後、信雄はスパイ活動の報酬として5万石を手にする。そして、家名を明治維新まで保った。

(参考資料)井沢元彦「神霊の国 日本 禁断の日本史」、童門冬二「家康合戦記」

聖武天皇 藤原氏の御輿に乗ったがコンプレックスに苛まれた孤独の帝王

聖武天皇 藤原氏の御輿に乗ったがコンプレックスに苛まれた孤独の帝王

 聖武天皇を「悲劇の貴人」として取り上げることに、少し違和感を抱かれる人もあるかも知れない。何しろ当時、権勢を誇った藤原氏に引きずられることが多く、結果として時の朝廷の首班・長屋王さえ葬る片棒を担いだくらいだ。その意味では“暗愚の帝王”と評してもいいのかも知れない。ただ、この天皇は哀れにも「藤三娘(とうさんろう)」を名乗る妻・光明皇后に頭が上がらず、裏切られても家出をすることでしか、妻の不倫を咎めることができなかったのだ。しかし、家出したのがただの人ではなく天皇だったので、それは目まぐるしい「遷都」ということで後世、語られることになった。人騒がせだが、その実、現実からの逃避でしか、癒やしや救いを求めることもできない、悲しい生涯を送った人物といえよう。聖武天皇の生没年は701(大宝元)~756年(天平勝宝元年)。

 聖武天皇は、文武天皇の第一皇子。母は藤原不比等の娘(養女)、宮子(藤原夫人、ぶにん)。名は首(おびと)皇子。714年(和銅7年)に立太子し、716年(霊亀2年)不比等と橘三千代との間に生まれた安宿媛(あすかひめ、光明子)を妻とした。驚くべき近親結婚ということだ。それだけに、藤原氏に丸抱えにされていた境遇というものがよく分かる。ただ、妻を娶ってもまだ即位は時期尚早と判断され、立太子から10年間皇位に就かず、その間、元明・元正の二女帝が在位した。そして724年(神亀元年)、首皇子は元正天皇から禅譲され大極殿で即位した。

 聖武天皇が即位してまもなく直面したのが藤原宮子大夫人称号事件だ。これは天皇が勅して藤原夫人を尊び、「大夫人(だいぶにん)」の称号を賦与することとした。ところが左大臣、長屋王らが公式令(くしきりょう)をタテに、それは本来、「皇太夫人(こうたいぶにん)」と称することになっているはずと問題視する奏言を行ったのだ。そこで、天皇は仕方なく文書に記すときは皇太夫人とし、口頭の場合は大御祖(おおみおや)とする旨を詔した事件だ。この事件が当時、天皇と藤原氏に対抗していた長屋王らの勢力との間での、遺恨を産むきっかけとなったことは確かで、後の「長屋王の変」(1729年)の伏線となった。

 聖武天皇の即位に際して左大臣に任命された長屋王は、天皇を支える藤原氏にとって侮り難い存在だった。加えて、天皇自身が統治に十分な自信をもっていなかったことも政情不安の大きな要因となり、藤原氏勢力の焦りを誘っていたとみられる。『続日本紀』によると、727年(神亀4年)、天皇が詔して百官を集め、長屋王が勅を述べるところによると、「この頃天の咎めのしるしか、災異がやまない。政が道理に背理し民心が愁いをもつようになると、天地の神々がこれを責め鬼神が異状を示す。朕に徳が欠けているためか」とあるのだ。天皇自身が認識していたのだ。

 「長屋王の変」の首謀者は藤原氏だったが、聖武天皇もこの計画の賛成者だったに違いない。天皇が賛成しなかったら、舎人親王以下の皇族が積極的に参加しなかったろう。では、聖武天皇はなぜ賛成したか。この点、梅原猛氏は「(母親の宮子が)海人の娘の子としての彼(聖武天皇)のコンプレックスにあったと思う」と『海人と天皇』に記している。天武天皇の長男であり、「壬申の乱」での戦功著しいものがあった高市皇子を父に、天智天皇の皇女、御名部皇女を母に持つ長屋王がそれに気付かなかったとしても、長屋王に対する血脈のコンプレックスが厳然としてあり、「聖武天皇にはどこかで心の奥深く長屋王に傷つけられた自尊心の記憶が数多くあったに違いない」と梅原氏。

 讒言で、長屋王を死に追い込んだ後も、災害や異変が発生し、また疫病も流行。737年(天平9年)、権勢を誇った藤原四兄弟(武智麻呂・房前・宇合・麻呂)が相次いでこの流行病、天然痘で亡くなったことが、聖武天皇および光明皇后を困惑させた。そして、唐より帰朝した玄●(昉、ボウ、日へんに方、以下同)を通じて、天皇は次第に仏教への帰依を強めていった。そこで、一応、光明皇后の異父兄・橘諸兄を右大臣に就けたものの、諸兄は実務的政治能力に欠け、政治の実権は天皇や皇后の信任の厚い、留学帰りの玄●(ボウ)と下道真備(しもつみちのまきび、後の吉備真備)にあった。

 740年(天平12年)、大宰少弐・藤原広嗣が時の政治の得失を論じ、玄●(ボウ)と吉備真備の追放を言上して、反乱の兵を挙げた。天皇は大野東人(おおのあずまひと)を大将軍にして討伐軍を九州に送り込んだが、九州で激しい戦闘が繰り広げられている最中、聖武天皇は平城京を捨て、伊勢へ出かけてしまう。この後、天皇はそのまま平城京に戻らず、山背(やましろ、山城)国相楽郡恭仁(くに)郷(現在の京都府相楽郡)に遷都することを命じ、恭仁京をつくらせている。この後、さらに紫香楽宮、難波宮と短期間に何度も都を変えており、この異常な行動が何のためなのか分からない部分が多い。

 正史『続日本紀』にははっきり記されていないが、後世の史書には、このとき玄●(ボウ)と光明皇后との間にスキャンダルがあったことが記されている。とすれば、藤原広嗣は暗に「あなたの奥さんは不倫をしているが、それでいいのですか」と責めているわけだ。そして、それに対する聖武天皇の答えが、都からの逃亡なのだ。妻の不倫を告げられて家出するほど、なぜ弱腰なのか。

  道成寺に伝わる伝承によれば、聖武天皇の母、宮子は道成寺のある紀伊国日高郡の九海士(くあま)の里の海人の娘だった。だが、その稀代の美貌に目をつけた藤原不比等は、彼女を養女にし、文武帝の妃とした。そして、宮子は首皇子、後の聖武天皇を産んだ。しかし、故郷を思う宮子の憂愁は深く、それを慰めるために道成寺は建てられたという。つまり、聖武天皇は本来、藤原氏の血を受けていない人物と考えると、妻の光明皇后に頭が上がらず、長屋王に抱いた強いコンプレックスの謎が解けてくるのだ。

 聖武天皇は奈良・東大寺に巨大な毘廬遮那仏をつくり上げることで、ようやく不安を癒やすことができ、都は無事、元の平城京に戻ったのだ。

(参考資料)梅原猛「海人と天皇 日本とは何か」、梅原猛「百人一語」、小和田哲男「日本の歴史がわかる本」、笠原英彦「歴代天皇総覧」、神一行編「飛鳥時代の謎」、永井路子「美貌の大帝」、杉本苑子「穢土荘厳」

松平定敬 慶喜に従ったが故に“敵前逃亡”のレッテル張られた桑名藩主

松平定敬 慶喜に従ったが故に“敵前逃亡”のレッテル張られた桑名藩主

 桑名藩主・松平定敬(まつだいらさだあき)は、1864年(元治元年)、京都所司代に任命された。このとき彼は、まだ19歳だった。その若さでこういう重要なポストに就けられたのは、何といっても実兄の会津藩主・松平容保(まつだいらかたもり)が京都守護職を務めていたことによる。しかし、確かに兄の縁と、出自が名門だったからこそ、用意された試練だったかも知れないが、このポストに就いたことによって、彼はその後、過酷な、あるいは悲劇的な体験を余儀なくされることになった。定敬は、兄・容保とともに最後まで徳川家のために戦おうとしたが、戦意喪失した前将軍・徳川慶喜につき従ったが故に、“敵前逃亡”という不名誉な敗軍の将として、後世に記憶されることになった。

 松平定敬は美濃国高須藩(現在の岐阜県海津市)藩主松平義建の八男。兄に尾張藩主徳川慶勝、一橋家当主一橋茂栄、会津藩主松平容保などがいる。江戸市谷の高須藩江戸屋敷で生まれた。幼名は銈之助。定敬の生没年は1847(弘化3)~1908年(明治41年)。

 慶応4年1月3日、鳥羽伏見の戦いが起こった。このとき、慶喜は風邪をひいて大坂城で寝ていた。後に彼が語ったところによると、「自分はあのとき風邪をひいて熱を出していた。部下を止めようと思ったが、いくら言っても聞かないので、うっちゃらかしておいた」という。これが徳川軍団のトップの言葉だった。無責任極まりないものだ。そして、1月5日、慶喜は決断した。彼は松平容保・定敬兄弟、板倉勝静(いたくらかつきよ、老中首座)、永井尚志(ながいなおむね、大目付)など数人の大名に供を命じ、夜、密かに城を抜け出し大阪湾に停泊していた幕府艦隊の一軍艦「開陽」に乗り込み、江戸に向かった。旧幕府首脳部の敵前逃亡だった

 定敬はこのとき何度も後ろを振り返った。戦線に残す部下が心配だったからだ。兄容保に「我々は残るべきではないでしょうか。部下を見捨てて江戸に戻るのは、気が引けます」といった。容保も「ひとまず江戸に行こう。江戸城で上様(慶喜)に、徹底抗戦の決断をお願いしよう。江戸城は無傷だし、榎本武揚率いる幕府艦隊も無傷だ。必ず勝てる」といった。定敬はその言葉を信じ、従ったのだ。

 定敬は、兄の容保とともに1月12日江戸城で、「江戸城で薩長軍を迎え撃ち、徹底的に殲滅いたしましょう」と慶喜に迫った。前勘定奉行・小栗上野介も同じだった。海軍総裁榎本武揚も同じ主戦論だった。小栗は戦略を立てた。「残った陸軍を至急、小田原に集結させる。無傷な榎本武揚の艦隊を、駿河湾に向ける。東下してくる薩長軍を、箱根の山と駿河湾から挟み撃ちにして、砲撃を加えれば殲滅できる」というものだ。榎本は賛成した。

 しかし、肝心の慶喜には、もうそんな気はなかった。主戦論者が次々とまくし立てると、慶喜は露骨に嫌な顔をした。そして、会議の場から去ろうとした。定敬や小栗はそれをとどめて、「上様、ご決断を」と迫った。会議では、勝海舟のような恭順論者もいた。「小栗殿や、あるいは松平様方(容保・定敬兄弟)のおっしゃることは、確かに一理はあります。が、肝心の天のときは、すでに新しい潮をこの江戸に押し寄せさせようとしております。これに逆らうことはできません。この際は、上様のご意向を尊重して恭順謝罪すべきです。ただし、それにはこちら側の言い分が通るような条件を出すべきでしょう」

 勝のこの発言を聞いて、主戦派は激昂した。もともと、主戦派は勝が嫌いだ。中には、「勝は薩摩に通じて、徳川幕府を滅ぼした」と裏切り者視している者もたくさんいた。定敬も怒った。「貴様如きが何をいうか!薩長に通じて、幕府を売り、上様を今日の窮境に押しやったのはその方ではないか!」と息巻いた。勝は黙って定敬を見返し、それ以上、何もいわなかった。

 後に福沢諭吉が書いたものによれば、このころの会議で議論をしているのはごく一部で、大半の武士は大広間の隅に転がって酒を飲むような不謹慎なものもいたという。全体に徳川武士団はやる気を失っていた。それほど堕落していたのだ。その中で、松平容保・定敬兄弟は「あくまでも徳川家に殉ずる」という純粋な考えを持っていた。徳川家に殉ずるのであって、徳川幕府に殉ずるのではない。このへんのけじめのつけ方が、幕府の役人たちにとっては、多少距離を置くものだったろう。

 2月12日、慶喜は「私は謝罪恭順の証を立てるために、江戸城を出て謹慎する」と宣言した。謹慎場所は、東叡山上野寛永寺と定めた。そして、主戦派に対し、「城を出るように」と命じた。たちまち抗議する容保や定敬、小栗、榎本たちには、慶喜は冷たい目を向けた。「松平容保は会津に戻って謹慎せよ。松平定敬は桑名に戻って謹慎せよ。小栗上野介は領地に戻って謹慎せよ。榎本は艦隊が動揺しないようにこれを鎮め、やがてくる政府軍の指示を待つように」とこと細かく指示した。君命だ。不満だったが、定敬もハッと平伏した。しかし、彼には桑名に戻る気はなかった。

 定敬は桑名藩の飛び地がある越後柏崎へ行くことに決めた。幕府から預かっている領地を合わせると10万石ぐらいになった。「至急資金を調え、藩兵を動員して徹底抗戦を貫きます」と兄・容保に告げた。「分かった。私も会津に戻って、至急軍備を固める。ともに徳川家のために戦おう」と改めて誓い合った。

 ただ、この時点の徳川家は決して慶喜のことではなかった。徳川三代将軍・家光の異母弟、保科正之を会津松平家の始祖とし、「会津保科家は、他の大名家とは違う。とりわけ将軍家に忠節を尽くす精神を養わなければならない」との訓戒を遺した正之の精神が、この兄弟にはまだ根強く息づいていた。

 柏崎での抗戦は決めたが、定敬は鳥羽伏見の戦いで藩士を置き去りにしたまま大坂城から脱出したことが、ずっと心のわだかまりになっていた。藩のトップとして部下を置き捨てにしたことを、自分なりに実に見苦しく卑怯だと自身を責めていた。この後の松平定敬の行動は流浪のひと言に尽きる。桑名軍は柏崎では家老・河井継之助が率いる長岡軍と協同して政府軍とよく戦ったが、敗れた。定敬は兄が籠もる会津城に向かった。そして、ここでも攻防戦に参加した。が、城が落ちる寸前に兄の口から発せられた「お前はここで死ぬことはない。城から逃れろ」の言葉に、「それでは、北の果てまで薩長と戦い抜きます」と宣言して会津戦から離脱した。

 仙台に着くと、たまたま榎本武揚の艦隊がいた。榎本は定敬を歓迎した。「これからエゾへ向かうところです」と榎本は言った。前老中の板倉勝静、肥前唐津藩主の世子・小笠原長行など多くの旧幕勢力が乗船していた。新しく定敬一行を加えて、榎本艦隊は仙台の港を離れ、一路、箱館に向かった。ここに上陸し、五稜郭に入った。明治2年4月、五稜郭に対する攻撃が始まった。定敬は一軍を率いて戦った。しかし、1カ月余り経つと劣勢になり、落城は時間の問題となった。このとき、松平定敬は何を思ったのか、城が落ちる寸前に、失礼するといって五稜郭を出た。そのまま横浜に向かった。ここで自首し、新政府から「長預け」の処分を受けた。彼の領地、桑名藩も11万石から6万石に半減された。明治5年まで、彼は禁固された。そして、罪を許された。

 明治10年の西南戦争には、旧桑名藩士によって編成された征伐軍が、意気軒昂と九州に向かっていった。松平定敬の、薩摩藩に対するせめてもの報復だった。定敬はその後、日光東照宮の宮司などを務めて明治41年に死んだ。

(参考資料)童門冬二「流浪する敗軍の将 桑名藩主松平定敬」、司馬遼太郎「最後の将軍」、司馬遼太郎「王城の護衛者」

山背大兄王 二度にわたり即位を阻まれ、入鹿に襲われて一族と自刃

山背大兄王 二度にわたり即位を阻まれ、入鹿に襲われて一族と自刃

 山背大兄王(やましろのおおえのみこ)は聖徳太子の長男で、「大兄」すなわち皇太子格の身分だったと思われるが。不運にも当時、権勢をほしいままにした蘇我蝦夷・入鹿父子により、推古天皇および舒明天皇没後の二度にわたって即位を阻まれ、最後は入鹿に襲われて、妻子とともに自殺。これにより、聖徳太子の一族、上宮王家(じょうぐうおうけ)の血脈は絶えた。聖徳太子は後世、人がいうように聖人であるという面もあるが、なかなかしたたかな政治家でもあった。ところが、山背大兄王は聖徳太子から思想家、あるいは道徳家としての側面を受け継いだが、したたかな政治家としての面は受け継がなかった。そのことが、後の彼とその一族の悲劇を生むことになった。

 推古天皇が聖徳太子の薨去後、皇太子を立てなかったことから、天皇の崩御に伴い、皇位継承をめぐる紛議が起こった。皇位継承者に擬せられたのは、押坂彦人大兄皇子の子、田村皇子と聖徳太子の子、山背大兄王だ。当時、朝廷を束ねる立場にあった大臣・蘇我蝦夷(えみし)は、いずれを後嗣とするかで大いに悩んだ。群臣会議の意見は二分し、評議は膠着した。蝦夷は推古天皇の遺詔が、田村皇子に対しては「天下を治めることは大任である」、山背大兄王には「群臣の言葉に従え」と極めて曖昧なのをいいことに、山背大兄王の擁立を主張していた境部摩理勢(さかいべのまりせ)を葬ることで田村皇子、すなわち後の舒明天皇を次の天皇に推戴した。

 ただ、山背大兄王は今回、舒明天皇が即位しても、その次の皇位は当然、自分のところへくると思っていたのだろう。ところが、舒明天皇の次に即位したのは舒明天皇の皇后・皇極天皇(宝皇女)だった。この女帝は後に重祚して斉明天皇となる歴史上稀な存在だ。この皇極天皇が病に罹り、皇位が不安定になったとき、悲劇は起こった。蝦夷の子・蘇我入鹿らが突如として、山背大兄王の斑鳩宮を時の政府の軍隊に包囲させたのだ。

 山背大兄王を攻めたのは蘇我入鹿、巨勢臣徳太(こせのおみとこだ)、大伴連馬飼(おおとものむらじうまかい)、中臣塩屋連牧夫(なかとみのしおやのむらじまきふ)、土師連娑婆(はじのむらじさば)らの有力豪族以外と軽皇子(後の孝徳天皇)らだった。軽皇子は当時の皇極女帝の同母弟だ。こうしてみると、聖徳太子・山背大兄王=上宮王家の存在が、入鹿だけでなく飛鳥朝廷の一群にとって、いかに邪魔な存在だったかがうかがわれる。もちろん、それは女帝の次の皇位問題にからんでのことだが、悲劇は山背大兄王をはじめ上宮王家の王族たちは、ほとんど認識していなかったことから起こった。上宮王家の人々は、嫌われていることは分かっていたが、その相手は蘇我本宗家だけであり、軽皇子までが加わって攻めてくるとは全く予想していなかった。

 山背大兄王はいったん、斑鳩宮に火を放ち生駒山に逃れる。そこで、三輪文屋君(みわのふみやのきみ)が王に「東国に行って軍隊を整え、再び戦えば、勝利は確実であろう」と進言した。だが、王は「あなたの言う通りにすれば、必ず勝とう。しかし私はそれによって民を滅ぼすことを好まない」と答え、戦いを避ける道を選んだ。すなわち、戦いに勝つのも丈夫の道だろうが、身を捨てて国を安泰にするのも、それ以上に丈夫の道ではないか-といったという。山背大兄王はこの言葉通り、戦いを避け再び斑鳩に戻って自刃した。妻子一族すべて彼と運命をともにした。

 山背大兄王はどうして、このような悲劇的な道を選択したのだろうか。それは、彼が父・聖徳太子から受け継いで、父以上に純粋に信奉した「仏教」という思想の、ある意味での“毒”によって死の道を選んだと言わざるを得ない。「捨身」こそが、山背大兄王の理想だった。それは仏教の菩薩行の理想だ。その理想に従って、山背大兄王は戦争を起こして、多くの人々を死なせることを拒否し、一族とともに、飢えた虎のような蘇我入鹿をはじめとする時の政府の軍隊に、その尊い身を投じたのだ。

(参考資料)梅原猛「百人一語」、黒岩重吾「斑鳩王の慟哭」、黒岩重吾「日と影の王子 聖徳太子」、笠原英彦「歴代天皇総覧」

後鳥羽上皇 朝廷権力の回復図るが、「承久の乱」で敗れ隠岐へ配流に

後鳥羽上皇 朝廷権力の回復図るが、「承久の乱」で敗れ隠岐へ配流に

 後鳥羽上皇は、後白河上皇とともに、歴代天皇の中でも際立って強烈な個性の持ち主だった。そして、後鳥羽上皇は「承久(じょうきゅう)の乱」で、鎌倉幕府と京都方との勢力争いにおいて、自ら乱の中心人物として修羅のちまたをくぐった帝王だった。ただ、後白河、後鳥羽の両上皇を比較すると、狡猾さの点で、後白河院が数段上だった。後白河院は機略を用いて、したたかに遂に動乱の時代を生き抜いたが、対照的に後鳥羽院はあえなく敗退、悲劇の結末を迎えることになった。1221年(承久3年)、隠岐に遷幸となり、遂にこの島で崩御した。後鳥羽上皇の生没年は1180(治承4)~1239年(延応元年)。

 鎌倉幕府が開設され、本格的な武家政治がスターとした時代、後鳥羽院の運命は、いわば「文」の支配から「武」の支配に転じていく大きな時代の転換を、一身に象徴していたともいえる。また、後鳥羽院はいうまでもなく『新古今和歌集』の成立に最大の役割を果たした帝王歌人だった。このほか、管弦、蹴鞠、囲碁、有職故実などの王侯のたしなみに精進し、武芸においても相撲、水泳、競馬(くらべうま)、弓術、狩猟に秀で、自ら刀剣を鍛えることさえした。後鳥羽院はまさに日本史上、文化的に大きな業績を残した帝王だったのだ。

 鎌倉幕府が成立した後も、京都の後鳥羽上皇は、新しい親衛隊「西面の武士」を設置したり、幕府寄りの公家・九条兼実らを排斥したりして、武家からの政権奪回に腐心、画策していた。源頼朝の死後、二代頼家、三代実朝で源氏の正統が途絶え、北条氏が台頭すると、後鳥羽院は好機が訪れたと判断し、1221年、執権・北条義時追討の院宣を発した。「承久の乱」の始まりだった。

 しかし、幕府側の結束は固く、院宣が出されてからわずか1カ月で乱は鎮圧され、後鳥羽院の計画はあえなく失敗に終わった。上皇側は院宣さえ発すれば大勢が決まると思って過信していたのだ。とくに上皇が期待した武将の三浦義村は起たず、執権体制への不満よりも武家政治の大義を守るために、御家人たちは結束したのだ。幕府は後鳥羽、土御門、順徳の3上皇を各地へ配流、関係した公家を処罰した。西国に多かった上皇方の所領は没収され、功績のあった御家人たちに分け与えられた。京都朝廷方の惨敗だった。

 後鳥羽上皇は高倉天皇の第四皇子。諱は尊成(たかなり)。母は七条院。平家とともに西海の壇ノ浦に沈んだ兄・安徳天皇の後を受け4歳で即位した。実権は祖父の後白河法皇に握られたままだったが、法皇が崩御(1192年)し、廷臣の土御門通親と謀って“親鎌倉幕府派”の九条兼実を退けると、1198年(建久9年)、第一皇子の土御門天皇に譲位して、院政を始めた。前述した通り、多芸多才の人だったが、時代の流れは読み誤った。

 「人もをし人も恨めしあぢきなく 世を思ふ故に物思ふ身は」

 これは『後撰和歌集』および『小倉百人一首』に収められている、「承久の乱」の9年前に詠まれた歌だ。歌意は、人よ、そなたのことがある時はいとしく、あるときは恨めしい。というのも、ただびとならば恋ゆえの物思いにふけっていれば済むものを、なまじ帝王の位に上ったばかりに、世間を相手の、およそ味気ない物思いをしなければならないからだ。

 帝王たるもの、私には個人に恋するが、公には世間、時世を相手に恋をしなければならない。当然その世は武家社会、表向き鎌倉幕府の源家を立てつつ、実際は北条執権家の支配する時世を意味する。過ぎ去ろうとしている、事実は過ぎ去ってしまった王朝時代の主である帝王にとっては、およそ心に染まぬ味気ない恋であり、物思いとならざるを得ないその意味では、この歌は9年後の「承久の乱」、その結果の隠岐配流を予見しているような歌といえる。

 「われこそは新島守(にひじまもり)よ沖の海の 荒き波風こころして吹け」

 この歌は配流の地で詠んだものだ。隠岐は、伯耆から舟で渡ること十余里の孤島だ。上皇にとって日本海の荒波に浮かぶその島が、これから終の棲み家となる。以後、18年間、崩御し遺骨になって帰京するまで島を出ることはなかったが、気性の激しい上皇は、配流の島の新島守-新しい主人だから、隠岐の海の波も風も、そのことをよく心得よ、と強気に詠んで島に入ったのだ。だが、

 「身の憂さを嘆くあまりの夕暮に 問ふも悲しき磯の松風」

と詠まざるを得なかった。配流の地の夕暮れは殊更に寂しさが募る。時代の流れから武家政治は歴史の必然だった。それを個人の力で強引に転換しようと謀ったところに、上皇の悲劇の根源があったのだ。

 御製は『後鳥羽院御集』、歌論には『後鳥羽院御口伝』がある。

(参考資料)笠原英彦「歴代天皇総覧」、大岡 信「古今集・新古今集」、松崎哲久「名歌で読む日本の歴史」、曽沢太吉「全釈 小倉百人一首」、高橋睦郎「百人一首」

古人大兄皇子「乙巳の変」発生で皇位に就けず、最後は異母弟に殺害される

古人大兄皇子「乙巳の変」発生で皇位に就けず、最後は異母弟に殺害される

 古人大兄皇子(ふるひとのおおえのみこ)は蘇我系の血を受けた舒明天皇の第一皇子で、もう少し早く生まれていたら、皇位に就いていてもおかしくない人物だった。ところが、彼が生きた時代が、一時、天皇家を凌ぐ権勢を誇った蘇我本宗家が勢いを失った末期、そして滅亡時期と重なったために、悲劇的な最期を遂げることになった。蘇我本宗家という、頼みとする後ろ楯を失い、最後は出家、隠退しても“魔”の手から逃れることはできず、彼は不幸にも異母弟・中大兄皇子が差し向けた刺客に殺害されたのだ。

 古人大兄皇子の生年は不詳、615年(推古23年)(?)ごろともいわれる。没年は645年(大化元年)。母は蘇我氏の娘、蘇我法提郎女(ほていのいらつめ)。娘に天智天皇の皇后となった倭姫王がいる。古人皇子・古人大市皇子、吉野太子とも称された。

 皇極天皇の後継天皇に、大臣の蘇我入鹿(いるか)は蘇我氏の血をひく古人大兄皇子を擁立しようと考えた。そのため、入鹿は有力な皇位継承資格者だった山背大兄王の存在が邪魔になった。そこで643年、入鹿は斑鳩宮を襲い、山背大兄王とその一族を滅ぼした。これによって、聖徳太子一族の血脈は絶えた。山背大兄王の死によって、古人大兄皇子のライバルはいなくなり、蘇我本宗家に何事もなければ、すんなり古人大兄皇子が皇位に就くはずだった。ところが、対抗勢力の大胆な蘇我本宗家討滅計画が秘密裏に進められていた

 645年、三韓から進貢の使者が来日し、宮中で儀式が行われた。このとき、古人大兄皇子は皇極天皇の側に侍していたが、その儀式の最中、異母弟、中大兄皇子(後の天智天皇)、中臣鎌子(後の藤原鎌足)らが蘇我入鹿を暗殺する事件が起きた。いわゆる「乙巳(いっし)の変」だ。ショッキングな事件を目のあたりにした古人大兄皇子は私宮(大市宮)へ逃げ帰り、「韓人が入鹿を殺した。私は心が痛い」と言ったとの記録がある。入鹿が殺害されたとの知らせを受けて、入鹿の父、蝦夷(えみし)も抗戦は利なしと判断。蝦夷は自邸を焼いて、自殺。こうして栄華を誇った蘇我本宗家は滅亡した。その結果、古人大兄皇子は、強力な後ろ楯を失ってしまった。

 「乙巳の変」後、古人大兄皇子には次から次に、巧妙な“魔”の手が襲い掛かる。皇極天皇の後を受けて皇位に就くことを勧められたのだ。だが、これを“罠”と見た古人大兄皇子は、それを断り、出家して吉野へ隠退した。これで危機を脱出したかにみえたが、追撃の手が緩められることはなかった。吉備笠垂が、古人大兄皇子が蘇我田口堀川などと改新政権の転覆を企てている-と密告したのだ。これを受けて645年、中大兄皇子は古人大兄皇子に追っ手を差し向けた。詮議のため捕らえるだけではなかった。皇子は中大兄皇子が差し向けた刺客により殺害された。

 この後、中大兄皇子は有間皇子(孝徳天皇の皇子)、そして改新政権の右大臣、蘇我倉山田石川麻呂らを、相次いで“謀叛”のかどで殺害あるいは自決に追い込んでいる。いずれも、きちんとした詮議もせずに、後顧の憂いを失くすために、死に追いやっているのだ。吉備笠垂の密告も謎だ。果たして本当に改新政権転覆の企てがあったのかどうか、不明だ。強引に嫌疑をでっち上げて、ターゲットの人物を罪人に仕立て上げたとみることができるのだ。

(参考資料)黒岩重吾「落日の王子 蘇我入鹿」、遠山美都雄「中大兄皇子」、関裕二「大化の改新の謎」

 

押坂彦人大兄皇子 蘇我系王族の隆盛期に対立候補として皇位を争い敗れる

押坂彦人大兄皇子 蘇我系王族の隆盛期に対立候補として皇位を争い敗れる

 押坂彦人大兄皇子(おしさかの ひこひとの おおえのみこ)は、第三十代・敏達(びたつ)天皇の後の皇位継承の最有力者だった。候補者の中では年長で、敏達天皇の皇后・広姫(息長真手王=おきながのまてのみこ=の娘)を母とし、身分も高いことで妥当な人選のはずだった。ところが、実際に天皇になったのは堅塩媛(きたしひめ、蘇我稲目の娘)の産んだ皇子、後の用明天皇(第三十一代)だ。それまでは皇位継承者の母は皇族の一員であることが条件だった。にもかかわらず、このときは豪族の娘を母に持つ皇子が天皇に即位したのだ。まさに前例のないことだった。ここから、押坂彦人大兄皇子の悲劇が始まった。

 押坂彦人大兄皇子は生没年とも不詳だ。舒明天皇(第三十四代)の父で、皇極・斉明天皇(第三十五代・第三十七代)および孝徳天皇(第三十六代)の祖父にあたる人物だ。蘇我氏の血をひかない敏達王統の最有力者で、忍坂部・丸子部などの独立した財政基盤を持ち、王都を離れて水派宮(みまたのみや)に住んでいた。水派宮は大和国広瀬郡城戸郷(現在の奈良県広陵町)にあったと思われる。

 母・広姫が実家の息長氏の経営する忍坂宮(現在の桜井市)に住み、彦人大兄皇子も幼少年期をここで送った関係から同宮に奉仕する服属集団、忍坂部(刑部)を相続したとみられる。この忍坂部や丸子部といった彦人大兄皇子伝来の私領は、息子の田村皇子(のちの舒明天皇)、さらに孫の中大兄皇子(のちの天智天皇)らへ引き継がれ、同系一族の強固な財政基盤を形成した。彦人大兄皇子は用明天皇の崩御(587年)後、皇位継承者として候補に挙がったが、対立する蘇我系王族が台頭したため、以後の史料には活動が一切見えず、蘇我氏によって暗殺されたとの憶測もある。ただ、非蘇我系の王位継承候補者として、蘇我系の竹田皇子や厩戸皇子と比肩し得る地位を保っていたことは間違いない。

 皇位継承の最有力者、押坂彦人大兄皇子を退けて、用明天皇が皇位に就いたのは有力氏族・蘇我馬子(大臣)の強力なバックアップがあったからだ。当時の蘇我氏には慣例を無視して、周囲に異を唱えさせない、無理を押し通すだけの権勢があったのだ。そのことが、押坂彦人大兄皇子にとっては不運であり、悲劇だった。というのは、彼は大臣・蘇我馬子、大連・物部守屋の権力争いに巻き込まれ、用明天皇死後、この両者の間で繰り広げられた戦争で、敗れた物部守屋側に引き込まれ、不本意にもその手駒に使われてしまったのだ。そして、この混乱の最中、蘇我馬子の指令で暗殺されたとする説もある。

 『日本書紀』によると、彦人皇子伝来の私領は代々、引き継がれ、大化の改新後に国家に返納されと考えられる。ただ、彦人大兄皇子伝来の私領が、後世の舒明天皇即位から大化の改新の実現を可能にした財政的裏づけとなったことは間違いない。押坂彦人大兄皇子は、天智・天武両天皇の祖父にあたるので、のちに「皇祖大兄」と呼ばれた。

(参考資料)神一行・編「飛鳥時代の謎」、黒岩重吾「磐舟の光芒 物部守屋と蘇我馬子」、笠原英彦「歴代天皇総覧」

以仁王 平家追討の「令旨」を全国の源氏に発し、平家崩壊の端緒つくる

以仁王 平家追討の「令旨」を全国の源氏に発し、平家崩壊の端緒つくる

 以仁王(もちひとおう)は、皇位継承の有力候補だったが、後見していた母方の伯父の失脚、そして父・後白河法皇とも疎遠だったことが大きく響き、異母弟・憲仁親王(後の高倉天皇)にその座を奪われた。しかし、周知の通り、平家追討の「以仁王の令旨(りょうじ)」を全国の源氏に発し、平家打倒へ向け武装蜂起を促した。計画が事前に露見し、準備不足もあって、最初に挙兵した以仁王、源頼政らは結局敗れ去った。が、これを機に平家打倒の烽火(のろし)は各地に広がり、平家崩壊の端緒となった。以仁王の生没年は1151(仁平元)~1180年(治承4年)。

 以仁王は後白河天皇の第三皇子。母親は閑院家・藤原季成の娘、成子。邸宅が三条高倉にあったことから高倉宮と称された。同母妹に歌人として名高い式子内親王がいる。祖父・季成は藤原北家の枝流で、御堂関白道長の叔父・公季を祖とする閑院家の分家、三条氏を称する一族だ。摂関家とは勢威を比べようもないが、王朝末期には後宮を独占する実力があった。ところが、平家の権勢が増していく中で、後白河院の寵愛は建春門院・平滋子に移り、高倉三位局は女御に昇れず、後白河院との間の子女たちもおのずと冷遇されていったのだ。以仁王が後白河院の皇子でありながら、親王宣下(しんのうせんげ)も受けられなかった原因もそこにあった。

 以仁王は幼くして天台座主・最雲法親王の弟子となったが、1162年(応保2年)、12歳のとき最雲が亡くなり、還俗。1165年(永万元年)15歳のとき、人目を忍んで近衛河原の大宮御所で元服したという。その後、八条院暲子内親王の猶子となった。彼は幼少時から英才の誉れが高く、学問や詩歌、とくに書や笛に秀でていた。以仁王は本来、皇位継承においても有力候補のはずだった。ところが、異母弟・憲仁親王の生母・平滋子(建春門院)の妨害に遭って阻止された。とくに1166年(仁安元年)、彼の後見役だった母方の伯父、藤原公光が突如、権中納言・左衛門督を解任され、失脚したことで、以仁王の皇位継承の可能性は消滅した。

 1179年(治承3年)、平氏のクーデターにより、後白河法皇が幽閉される事態となった。以仁王も長年知行してきた常興寺領を没収された(治承3年の政変)。こうした状況を睨み合わせ、平氏の専横も極まったとみて、以仁王に平家打倒を説いたのが、当時齢77歳の老武将、源頼政だった。頼政は「保元の乱」(1156年)で後白河天皇方につき、「平治の乱」(1159年)では清盛方につき、源氏一門が敗北した後も、源氏でただ一人、宮廷社会を生き抜いた、したたかな人物だ。

  以仁王は1180年(治承4年)、遂に平家討伐を決意した。彼は源頼政の勧めに従って、平家追討の「令旨」を各地の源氏に発した。そして、平家打倒の挙兵、武装蜂起を促したのだ。後白河院の皇子でありながら、冷遇され日の当たらない人生を余儀なくされた以仁王だが、こうして「以仁王の令旨」は時代を変える、そして歴史にその名を刻み込む、大きな決断となった。

(参考資料)笠原英彦「歴代天皇総覧」、松崎哲久「名歌で読む日本の歴史」

伊予親王 濡れ衣で叛逆の首謀者に仕立てられ、無念の死を遂げた皇子

伊予親王 濡れ衣で叛逆の首謀者に仕立てられ、無念の死を遂げた皇子

 伊予親王は、第五十代・桓武天皇の第3皇子で、父の寵愛を受け式部卿、中務卿などの要職を歴任し、政治家としての素養も持っていた。ところが、皇位継承を巡る貴族との抗争に巻き込まれ、謀略にはめられ、叛逆の首謀者に仕立てられてしまった。そのため、伊予親王は幽閉先で飲食を断ち、親王の地位を廃された翌日、自ら毒を飲んで、悲劇的な最期を遂げた。

 伊予親王の生年は不詳、没年は807年(大同2年)。母は藤原南家、藤原是公(これきみ)の娘、吉子。伊予親王は792年(延暦11年)元服し、四品(しほん)となり、次いで三品、式部卿(しきぶきょう)、中務卿(なかつかさきょう)などの要職を歴任した。政治家としての素養を持ち、管弦もよくし、父・桓武天皇の寵愛を受け、804年(延暦23年)には近江国(現在の滋賀県)蒲生郡の荒田53町を与えられた。806年(大同元年)、中務卿兼大宰帥に任ぜられている。

 ところが、翌807年(大同2年)伊予親王はいきなり、謀反を企てた首謀者として、母・吉子とともに大和国の川原寺(かわらでら、奈良県高市郡明日香村)に幽閉された。後世、「伊予親王の変」とも称されるこの事件は、背景に皇位継承を巡る貴族との抗争があり、実は後に分かったことだが、伊予親王が陰湿な謀略にはめられたものだった。母・吉子の兄・藤原雄友(南家)は大納言として、右大臣・藤原内麻呂(北家)に次ぐ台閣No.2の地位あり、政治的にも有力な地位にあった。そんなとき、伊予親王は異母兄・平城(へいぜい)天皇の側近だった藤原式家・藤原仲成に操られた藤原宗成に謀反をそそのかされた経緯を、平城天皇に報告した。

 そこで、朝廷は藤原宗成を尋問したところ、宗成は伊予親王こそ首謀者だと自白したのだ。そのため、母・吉子と子・伊予親王は逮捕された。二人は身の潔白を主張したが、聞き入れられず川原寺(弘福寺)に幽閉された。絶望した母・子は飲食を断ち、親王の地位を廃された翌日、自ら毒を飲んで、悲劇的な最期を遂げた。伊予親王には3人の王子女があったが、同親王が自害した後、いずれも遠流となった。また、この事件を仕掛けた貴族たちも当然、重い処罰を受けた。藤原宗成は流罪となり、伊予親王の伯父、大納言・藤原雄友も連座して伊予国に流された。このほか、この事件のあおりを受けて中納言・藤原乙叡(南家)が解任された。

 こうして無念の死を遂げたこの母子は怨霊となった。当時は恨みを抱いて亡くなった人物の御霊は、怨霊になると堅く信じられていた。このため、二人を死に追い込んだ平城天皇は、この怨霊に悩まされ続け、怨霊から逃れるため遂に同母弟の神野親王(嵯峨天皇)に皇位を譲るまでに追い込まれた。

 819年(弘仁10年)、伊予親王の無実が判明すると、遠流となっていた3人の王子女は嵯峨天皇により、平安京に呼び戻された。そして、没収されていた同親王の資産も王子女に返還された。863年(貞観5年)に催された神泉苑での御霊会(ごりょうえ)では、この母・子ともに祀られた。怨霊を鎮め、怨霊から逃れるには、そうするしか術がなかったのだ。

(参考資料)北山茂夫「日本の歴史④ 平安京」、永井路子「王朝序曲」、笠原英彦「歴代天皇総覧」

安徳天皇 平家とともに壇ノ浦で二位尼・時子に抱かれて入水した幼帝

安徳天皇 平家とともに壇ノ浦で二位尼・時子に抱かれて入水した幼帝

 安徳天皇は、高倉天皇を父、平清盛の娘で中宮の徳子(建礼門院)を母として生まれた。安徳天皇は平氏の政治的台頭の、いわば切り札だった。しかし、あまりにも幼い身で即位させられ、そして総帥・清盛の死を機に、不運にも坂を転げ落ちるような平氏の退潮期が重なった。その結果、悲しいことに幼帝の最期は、平清盛の妻、二位尼・時子(ときこ)に抱かれて入水、壇ノ浦の藻くずと消えた。在位5年、わずか8年の生涯だった。安徳天皇の生没年は1178(治承2)~1185年(寿永4年)。

 安徳天皇は、高倉天皇の第一皇子。諱は言仁(ときひと)。生後まもなく親王宣下を受け、立太子した。1180年(治承4年)、父、高倉天皇の譲位を受け即位した。1179年(治承3年)11月以降、後白河院は幽閉され、院政は停止されていたから、即位は清盛の意向を具体化したものにほかならない。父・高倉天皇11歳、母中宮・徳子17歳が結婚し、5年後に安徳天皇が生まれたとき、清盛は太政大臣を辞して入道だった。清盛入道にとってはこの男の子(孫)をなるべく早く帝位に就け、自分は外戚として後見する。それが理想の形だった。それによって、平家全盛の時代が当分続くはずだった。

 ところが、将来そのキーマンになるはずだった安徳天皇にとって、不運な点が二つ起こってしまった。一つは父・高倉上皇が21歳の若さで亡くなったことだ。そして、もう一つ、その父の死からわずか一カ月後、祖父・清盛が病死してしまったことだ。父・高倉上皇は実父の後白河法皇と、舅の清盛との仲がうまくいかず、後白河、清盛ともタフな人物だっただけに、二人に挟まれてノイローゼ気味だったといわれる。それでも、健在なら息子のために精神的な面でのサポートはできたはずだ。

 安徳天皇にとって、何より不運だったのは想定外の清盛の早い死だった。「清盛死す」の報に、源氏勢力は即、平氏打倒の好機到来と捉え、その動きが加速した。木曽義仲の挙兵、源頼朝の伊豆における挙兵。そして、やがて源義経・範頼の鎌倉軍が京へ攻め上ってくる状況が迫り、平家は都を落ちて西へ-。

 こうなると、どうしても考えたくなるのが、清盛が健在なら歴史はどう動いたかということだ。あと5年生きていたら、平氏のこんなに早い都落ちはなかったろう。源氏勢力にとって、また朝廷内部においても平氏の権勢の時代に嫌気がさしていても、大っぴらに平家を批判あるいは非難することはできなかった。それほどに総帥・清盛の存在は大きかったのだ。

 ある日、予想以上に早く清盛が亡くなり、そんな重しが取れたとき、平氏には清盛に代わる、統率力のある後継者がいなかったというわけだ。そして、何より不幸だったのは、平氏は武家でありながら官人たちはじめ、いずれも貴族化し、戦いに望む気概に欠けていた。それにしても、平氏は三種の神器を持ち、いくらよちよち歩きとはいえ、安徳天皇という日本の象徴を擁し、雅な衣装を身にまとった女性たちをはじめ、各ファミリーまでを含む混成軍を率いていくわけだから、これは大変な大移動だったと思われる。こんな布陣で、戦士の軍団と戦おうというのは、やはり無理がある。

 安徳天皇が、例えばあと五歳ぐらい年かさで13歳の、自分の意志をはっきりいえる立場にあったら、彼はどのような言葉を発しただろうか。あるいは京の祖父・後白河院を動かし、源氏勢力に対する牽制、そして平氏の名誉ある撤退へ導くような動き方を模索したのだろうか。成人といえないまでも、分別のつく年齢に達していれば、死に赴いて何か言葉が残っていても不思議ではないが、幼少の安徳天皇の場合、その種の史料は全くない。壇ノ浦の戦いでもういよいよ平家がダメだというときに、二位尼・平時子に抱かれた幼い安徳天皇が海に飛び込む直前、「どこへゆくの?」と聞く。そんな言葉が語り継がれているだけだ。これに対し、時子は「海の底にも都があり、ババがお伴するから行きましょう」と答え、真っ先に飛び込み、安徳天皇ともども浮かんでこなかったという。“不運の幼帝”というほかない。

(参考資料)笠原英彦「歴代天皇総覧」、永井路子「波のかたみに」、杉本苑子「平家物語を歩く」

 

 

 

 

 

 

 

安積親王・・・藤原一族による“排除の標的”となり、毒殺?される

 安積親王(あさかしんのう・あさかのみこ)は、都が奈良・平城京にあった時代、皇太子の基皇子が亡くなった年に生まれ、聖武天皇の唯一の皇子で皇太子の最有力候補のはずだった。だが、当時権勢を誇った藤原氏によって退けられ、あっけなく17歳の若さで死去した。死因は定かではなく、藤原仲麻呂に毒殺されたという説もある。いずれにしても、藤原氏の意向がその死と深く関わり、その背景にあることだけは確かだ。安積親王の生没年は728(神亀5年)~744年(天平16年)。

 安積親王は聖武天皇の第二皇子として、幼少の皇太子・基皇子が亡くなった年に生まれた。そのため聖武天皇の唯一の皇子であり本来、彼は皇太子の最有力候補のはずだった。ただ一点、問題があった。わずか一点だがそれが極めて大きな、死命を制する問題だった。彼の母が県犬養広刀自(あがたいぬかいのひろとじ)で、当時、揺るぎのない権勢を誇った藤原四卿(武智麻呂・房前・宇合・麻呂)の氏族の出ではなかったことだ。

 当時、藤原氏の権勢がいかに強大だったか。臣下の身分で異例にも皇后となった光明皇后との間にもうけられた聖武天皇の第一皇子、基皇子は生まれて間もなく立太子している。その基皇子は夭折したが、738年(天平10年)、光明皇后を母に持つ阿倍内親王(後の孝謙・称徳天皇)が立太子されたのだ。史上初の女性皇太子の誕生だ。藤原氏にはそれまでのルールや慣例を無視し、あるいは覆して、内親王をゴリ押しで立太子させるだけの権勢があったわけだ。唯一の皇子=安積親王の存在も容易に退け、有無を言わせないだけの、圧力をかける力があったといわざるを得ない。

 とはいえ、藤原氏にとって安積親王の存在は目障りだったことは間違いない。それまでのルールや慣例に従うならば当然、唯一の皇子(安積親王)が即位することになる。それでは、藤原氏の血をひかない天皇が誕生することになる-との思いだ。そうした心配のタネは、一日も早く摘み取っておかなければならないというわけだ。

それだけに、藤原一族は虎視眈々と安積親王を“始末”する機会を狙っていたのだ。744年(天平16年)閏1月11日、聖武天皇は安積親王を伴って難波宮に行幸する。その際、安積はその途中に桜井頓宮で脚病になり、恭仁京(くにきょう)に引き返すが、2日後の閏1月13日、17歳の若さでその生涯を閉じたとされている。詳細は定かではないが、そのとき恭仁京の留守を守っていたのが藤原仲麻呂であり、その仲麻呂に毒殺されたという説もある。それほどあっけない死で、いずれにしても藤原氏がその死にからんでいる可能性が高い。

 藤原氏の謀略で起こされた冤罪事件「長屋王の変」、そして大宰で起こった「藤原広嗣の乱」など血なまぐさい権力闘争が繰り広げられた時代。次代を背負う存在だったはずの安積親王の実像は、なかなか見えにくい。史料そのものが少ないのだ。『大日本古文書』によると、736年(天平8年)、すでに斎王になっていた姉の井上内親王のために写経を行い、743年(天平15年)には恭仁京にある藤原八束の邸で宴を開いていることが記されている。この宴には当時、内舎人だった大伴家持も出席し、そのとき詠んだ歌が『万葉集』に残されている。

(参考資料)杉本苑子「穢土荘厳」、永井路子「悪霊列伝」、小和田哲男「日本の歴史がわかる本」、井沢元彦「逆説の日本史・古代怨霊編」

大伴家持・・・藤原氏との対立の中で死後も含め時代に翻弄された人生

 大伴家持は「万葉集」の編纂に大きく関与し、「万葉集」に収められた作品も最も多い奈良時代後期の代表歌人・政治家だ。半面、彼の生涯は時代に翻弄される、波乱に満ちたものだった。家持の赴任地の足跡をみると、南は薩摩から北は陸奥多賀城まで、当時の日本国のほぼ両辺に及ぶ。いかに地方生活が長かったかを物語っている。

名門大伴氏の家名を挽回しようと意欲に満ちた、誇り高い青春時代から、大伴・藤原両氏対立の中で政争に巻き込まれて、失意の中年期を経て、晩年の復活と、死後の一族の悲惨-。信じがたいことだが、死後、家持はある事件に連座させられて、806年(大同1年)まで官の籍を除名されていたのだ。生没年は718(養老2)~785年(延暦4年)。古代、名門豪族だった大伴氏の本拠地は、大和盆地東南部(橿原市・桜井市・明日香村付近)だったらしく、皇室・蘇我氏の本拠と隣接する。

 大伴家持は大納言大伴旅人の長男、大納言大伴安麻呂の孫。母が旅人の正妻ではなかったが、大伴の家督を継ぐべき人物に育てるため、幼時より旅人の正妻、大伴郎女(いらつめ)の佐保川べりの屋形で育てられた。だが、その郎女とは11歳のとき、父の旅人とは14歳のとき死別。さらにたった一人の弟、書持(ふみもち)とも29歳のとき死別している。いずれにしても、大伴氏の跡取りとして貴族の子弟に必要な学問・教養を早くから、みっちりと身につけさせられていた。

しかし、出世の道は遠かった。745年(天平17年)にやっと従五位下。751年(天平勝宝3年)少納言。その後、長い地方生活を経て770年(宝亀1年)民部少輔、左中弁兼中務大輔、21年ぶりで正五位下に昇叙した。そして諸官を歴任して781年(天応1年)、右京大夫兼春宮(とうぐう)大夫となり、785年(延暦4年)中納言従三位兼春宮大夫陸奥按察使鎮守府将軍となった。長かった不遇の時代を経て、家持にもようやく春が巡ってきたかにみえた。しかし、彼にはもう残された時間はなかった。同年、任地先の陸奥で、68歳で病没したのだ。

 ところが、これで終わりではなかった。死者に鞭打つ残酷なできごとが起こったのだ。家持の死後20日、葬儀も終わらぬうちに、彼は藤原種継暗殺事件の首謀者とされ、除名・官位剥奪・領地没収のうえ、その遺骨が跡取りの永主とともに隠岐に流されるという事態に発展したのだ。無茶苦茶な裁きだったといわざるを得ない。冤罪などというものではない。藤原氏の謀略にはめられてしまったわけだ。そして、家持が晴れて無罪として旧の官位に復したのは、21年後の806年(大同元年)のことだ。

 「万葉集」の中で、大伴家持の作品は最も多く、長歌46、短歌425(合作首を含む)、旋頭歌1首、合計472首に上り、万葉集全体の1割を超えている。ほかに漢詩1首、詩序形式の書簡文などがある。防人歌(さきもりのうた)の収集も彼の功績だ。平安時代の和歌の先駆を成す点が少なくない。

(参考資料)梅原猛「百人一語」、小和田哲男「日本の歴史がわかる本」

足利義昭・・・うぬぼれ、過信が招いた足利最後の将軍のヘマ人生

 自分の力を過信し、オレが指示すれば世の中どうにでもなる-と思い込み、天下の策士を任じているが、実はその実力はゼロに近い。悲劇といえば悲劇、いや傍からみれば喜劇というべきかも知れない。そんな、うぬぼれの強かった人物が足利家の最期の将軍、足利義昭だ。

 足利義昭は、室町幕府の第十二代将軍足利義晴の次男として生まれた。母は近衛尚通の娘で、この女性は義昭の兄、義輝も産んでいる。父義晴は、義昭を仏門に入れることにした。仏門に入れば俗世との縁は切れるが、貴種として尊重され出世も早い。まして大寺院の勢力は、衰えた将軍家よりはるかに強かったといっても過言ではない。そこで、義昭は関白・近衛植家の猶子(養子扱い)として、奈良興福寺の一乗院門跡、覚誉(かくよ)の弟子として入門した。6歳のときのことだ。彼の弟、妹も後に仏門に入っている。こうして彼は覚慶(かくけい)と名を改め、30歳まで僧侶として日々を送ることになった。

 そんな彼の一生を一変させる事件が起こった。1565年(永禄8年)、29歳のときのことだ。父の後を継いでいた兄の第十三代将軍・足利義輝が松永久秀や三好三人衆のために暗殺されたのだ。覚慶は強大な力を持つ興福寺の保護下にあったからか、幸い殺されずに済んだ。しかし、彼は一乗院に監禁状態となり、行動の自由を奪われることになった。

 その後、義昭は前将軍の近臣だった細川藤孝らの手で救い出され、あちこち放浪の末、織田信長の支援を受けて、やっと都に戻って第十四代将軍となった。ところが、将軍になった彼は途端に、自分はオールマイティな人間だと思い込んでしまう。自分のことを都入りさせてくれた織田信長とも、瞬く間に仲が悪くなる。というのも信長は恩人だが、彼の態度からは将軍である自分に絶対服従してくれないと感じたからだ。

 そこで、義昭は信長を凌ぐ実力を持つ上杉謙信や武田信玄に、上洛して織田信長を討て-と頻繁に手紙を書くのだ。全く勝手気ままな人物としかいいようがない。ただ、こんな手紙が届いたからといって、海千山千の上杉や武田がそう簡単に動くはずもないのに、自分自身としては大いに権謀術数を尽くしたつもりになっているのは、少しこっけいでもあり、哀れでもある。

 結局、義昭は画策した“手紙”作戦が明るみで出て、怒った信長に都を追い出されることになる。そして、信長の在世中はとうとう帰京できなかった。柄にもない小細工をしたのが祟ったのだ。しかし、困ったことに彼自身は、案外そうは思っていない。自分が信長を制圧できなかったのは、頼みにしていた武田信玄、上杉謙信らが次々死んで、計画が実行に移せなかったからだ-としか考えない。だから、性懲りもなく別の大名に働きかける“手紙”作戦をやめなかった。

 怒った信長は遂に実力行使に出る。義昭は亡命した。いったんは紀州に逃れたが、やがて備後(広島県)鞆の港に落ち延びた。鞆の港は父祖尊氏が京都から追われたときに、院宣を得て南朝の新田義貞に対する討伐軍を挙げたところだ。いってみれば都落ちする足利家が再興のきっかけにした地域だ。義昭もそのことを知っていた。

 このうぬぼれやの、ほとんど実力のない将軍だからか、どうにもやること成すこと、少しずつピントが外れているのだ。だが、この義昭は強運の持ち主でもあった。“宿敵”信長が「本能寺の変」で明智光秀に殺されたために、彼は自分で手を下さずに、憎い信長を討つという望みを達したのだ。

(参考資料)井沢元彦「神霊の国 日本」、永井路子「にっぽん亭主五十人史」、

有間皇子・・・中大兄皇子の謀略にはめられ、謀反人に仕立てられ抹殺

 有間皇子は父・孝徳天皇の死後、次の天皇の候補者として浮かび上がり、結果的に「大化改新」の立役者であり、当時の事実上の最高権力者、中大兄皇子と対立。有間は謀略にはめられ、19歳の若さで処刑され、その生涯を閉じた。中大兄皇子の存在に脅威を覚え、狂人のふりをしてまで皇位継承争いから降りようとした有間だっただけに、狡猾に人を配して謀反人に仕立て上げられ、抹殺された最期は悲しく哀れをさそう。

 有間皇子は孝徳天皇の皇子で有力な皇位継承者の一人だった。孝徳天皇は中大兄皇子の母・斉明天皇の弟にあたり、中大兄皇子と有間皇子は従兄弟関係だった。640年、軽皇子(後の孝徳天皇)が小足媛(おたらしひめ)とともに有馬温泉に滞在中に生まれたので、皇子に「有間」と名付けたといわれる。有間皇子の生没年は640(舒明天皇12年)~658年(斉明天皇4年)。

 悲劇の序章は、中大兄皇子の強引な遷都要求を聞き入れなかった孝徳天皇および息子の有間皇子の一族だけを難波宮に残して、飛鳥に戻ってしまったことにあった。653年(白雉4年)、中大兄皇子が奏上して都を大和に遷そうとしたが、孝徳天皇は前年完成したばかりの難波長柄豊碕宮を放棄しようとせず、これを拒否した。

ところが、皇太子の中大兄は引き下がるどころか、母の皇極前天皇、妹・孝徳天皇の間人皇后、弟の大海人皇子らを伴って大和の飛鳥河辺行宮(あすかのかわらのかりみや)に遷った。そして、驚くことに公卿、百官らはみなこれに随行したのだ。皇太子・中大兄の独断専行に業を煮やした孝徳天皇が、威信をかけて拒否したわけだが、公卿・官僚たちは天皇ではなく、中大兄の顔色だけをうかがっていたのだ。

 孝徳天皇が無念の思いを抱き、寂しくこの世を去ってから、いよいよ孝徳天皇のたった一人の遺児、有間皇子に刻一刻、危機が迫る。そのため、18歳の有間は周囲の疑いを免れようと狂人を装ったといわれる。日本書紀にも記されていることだ。

 そして、運命の歯車が動き出す。658年、斉明天皇が中大兄皇子らとともに牟婁(むろ)の温泉(和歌山県西牟婁郡白浜町湯崎温泉)に行幸中のことだ。都に残って留守をあずかる蘇我赤兄が、有間皇子を訪ね、天皇の失政をあげつらい、挙兵、謀反するようそそのかす。これに対し、有間はこの謀略を見抜けず、赤兄の口車に乗せられて「わが生涯で初めて兵を用いるときがきた」などと応じた。そのため、赤兄に言質をとられる格好となり捕えられて、天皇のいる牟婁の温泉へ送られてしまった。

 紀の国へ護送される途中、有間皇子が詠んだ有名な句が二首ある。

 家にあれば 笥に盛る飯(いひ)を草枕 旅にしあれば 椎の葉に盛る

(歌意は、我が家にいれば器に食べ物を盛るのに、今は旅に出ているので椎の葉に盛っている)

磐代の浜松が枝を引き結び 真幸(まさき)くあらばまた還り見む

(歌意は、磐代の松の枝を結んだ 幸いにも無事に帰ることができたら、またこれを見よう)

 しかし、有間は藤白坂(和歌山県海南市藤白)で処刑された。19歳の若さだった。
 遠山美都男氏は、有間皇子を謀略に陥れられた哀れなプリンスと見做すのは大いに疑問として、実は有間皇子の大胆な挙兵計画があったとの説を打ち出している。斉明天皇らに牟婁温泉行きを勧め、天皇一族が都を留守にするという状況を意図的に作り出そうとしたのは有間自身だったという。そして、母の出身、阿倍氏が「軍拡」を推進し、有間皇子の背後にその勢力が結集していた。したがって、有間の挙兵計画も、船団を組織して淡路海峡を封鎖し、天皇一族の帰路を遮断するという大規模で実に用意周到なものだった-とかなり踏み込んだ説を提起している。こうして有間皇子は軍事行動を起こして、ライバルの中大兄皇子を倒し、斉明天皇に譲位を迫り、自ら即位しようと企てたとみるが、果たしてどうだろうか。現時点ではあくまでも少数派の仮説にすぎない。

 毎年11月、和歌山県海南市・藤白神社で若くして悲運に散った万葉の貴公子、「有間皇子まつり」が開催される。

(参考資料)杉本苑子「天智帝をめぐる七人」、神一行編「飛鳥時代の謎」、遠山美都男「中大兄皇子」

大津皇子・・・皇位継承めぐり対抗勢力の謀略にかかり23年の生涯閉じる

 大津皇子は文武両面、そして人格的にも優れた人物だったが、幼少時、母を亡くしていただけに、後ろ楯となっていた父帝、天武天皇崩御後は、皇位継承が俎上にのぼると、対抗勢力のターゲットとなり、皇后・持統ら草壁皇子擁立派による謀略にかかり、わずか23年の生涯を閉じた。生没年は663(天智称制12)~686年(天武15年)。

 大津皇子は天武天皇の第三皇子。母は天智天皇の長女、大田皇女。同母姉に大伯(おおく)皇女。妃は山辺皇女(天智天皇皇女)。異母兄に高市皇子、草壁皇子、異母弟に忍壁皇子らがいる。幼少時は学問を好み、そして成人後は武芸に長じ、文武両道に優れていたため、人気があった。大津の名は生地である那大津(現在の博多港)に因むと、また近江大津宮に因むともいわれる。

672年の「壬申の乱」に際しては、高市皇子らといち早く近江京を脱出し、大分君恵尺(おおきだのきみえさか)らとともに、伊勢の鈴鹿関で父、天武天皇(当時はまだ大海人皇子)と合流した。大津皇子10歳のときのことだ。大海人皇子が即位し、天武天皇の御世となった後、皇后の皇子、草壁が皇太子となるが、大津皇子は父帝からの信頼が厚かったらしく683年、太政大臣となり朝政を委ねられた。大津21歳のことだ。父天武天皇が皇后との間にもうけた草壁を皇太子とし期待を寄せたことは間違いないが、多くの皇子たちの中で、あるいはそれ以上に期待したのが大津だったようだ。685年(天武天皇14年)の「冠位四十八階」制定の際には草壁皇子の「淨広壱」に次ぎ、「浄大弐」に叙せられたことでも分かる。

 しかし、大津皇子の人生のピークはこのあたりにあったといっていい。大津皇子が父帝から信頼され、人気が高まれば高まるほど、彼は皇位後継者の有力候補者に擬せられ、大津皇子自身の思いや意識とは全く別に、反草壁皇子勢力が大津皇子のもとに結集しそうな事態となっていた。そのため、持統皇后ら草壁皇子擁立派は大津皇子に対する警戒を強めていた。

 いまや朝廷内に大津皇子のいる場所はなくなった。いや、それよりも陰謀を企む対抗勢力の首謀者として、敵対する立場に追いやられた。それでも、大津には持統皇后の疑惑を解くすべがなかった。そこで天武の死後、大津皇子がとった行動は、同母姉の大伯皇女を訪ねて、密かに伊勢に下ったのだ。このとき、大伯皇女は斎宮(いつきのみや)として伊勢神宮に仕えていた。

なぜ、この時期に大津皇子が天皇崩御後の本来、喪に服す禁を破ってまで都を離れたのだろうか。そこまで精神的に追い詰められていたのか、身に迫った危険を感じて、愛する姉に別れを告げに行ったか、それとも謀反を決意し、その旨を密かに伝えたのか、それは分からない。史料は何も語っていない。ただ、万葉集には大津皇子と別れる大伯皇女の愛惜の歌が残されているだけだ。

大津皇子の悲劇はまもなくやってきた。686年(朱鳥元年)、天武天皇の崩御後、わずか1カ月も経たないうちに、大津皇子が皇太子・草壁皇子に対して謀反を企てたとして、一味30人とともに捕えられたのだ。「懐風藻」によると、大津皇子の謀反を密告したのは川嶋皇子だったという。

大津皇子は逮捕された翌日、死刑を言い渡され、訳語田(おさだ)の自邸で自害した。24歳の若さだった。妃の山辺皇女(天智天皇皇女)は髪を振り乱し、裸足のままで駆けてきて、遺体にとりすがって号泣、後を追って殉死したという。

(参考資料)黒岩重吾「天翔ける白日」、笠原英彦「歴代天皇総覧」、神一行編「飛鳥時代の謎」、遠山美都男「中大兄皇子」

柿本人麻呂・・・身分は?刑死?か、数多くの謎に包まれる歌聖の人生

 日本の詩人というと、多くの人が頭に思い浮かべるのが、柿本人麻呂と松尾芭蕉だろう。そして、この二人を歌聖、俳聖と称えた。芭蕉については、とくに後半生、旅の生活については『奥の細道』をはじめとする彼の多くの紀行文などによってほぼその全容を知ることができる。それにひきかえ、柿本人麻呂の場合は違う。彼の歌は万葉集に数多く残されて多くの人々の心を捉えるが、その人生は数多くの謎に包まれている。いやむしろ、明確に分かっていることが少ないといった方が的を射ている人物なのだ。

 柿本人麻呂の出自、生没年には諸説あり、多くの部分が定かではない。後世の文献によると、柿本氏は第五代孝昭天皇後裔を称する春日氏の庶流にあたる。父は柿本大庭、兄を柿本_(佐留)とする。人麻呂の生没年は660年ごろ~720年ごろ。人麻呂は人麿とも書く。姓は朝臣。人麻呂以降、子孫は石見国美乃郡司として土着。鎌倉時代以降、益田氏を称して、石見国人となったとされる。いずれにしても同時代史料には拠るべきものがなく、確実なことは分からない。

 人麻呂の経歴は『続日本紀』などの史書にも書かれていないから、定かではなく、『万葉集』の詠歌とそれに付随する題司・左注などが唯一の資料だ。一般には680年(天武天皇9年)には出仕していたとみられ、天武朝(673~686年)から歌人としての活動を始め、主要な作品が集中している持統朝(686~697年)に花開いたとみられることが多い。700年(文武天皇4年)作の明日香皇女(あすかのひめみこ)の挽歌が作歌年時の分かる作品として最後のものになる。ただ、近江朝に仕えた宮女の死を悼む挽歌を詠んでいることから、近江朝(現在の滋賀県)にも出仕していたとする見解もある。

 各種史書上に人麻呂に関する記載がなく、身分・官位を含めその生涯については謎とされていた。古くは『古今和歌集』の真名序に五位以上を示す「柿本大夫」、仮名序に正三位である「おほきみつのくらゐ」と書かれており、また皇室讃歌や皇子・皇女の挽歌を詠むという仕事の内容や重要性からみても高官だったと受け取られていた。

 ところが、契沖、賀茂真淵らが史料に基づき、以下の理由から人麻呂は六位以下の下級官吏で生涯を終えたと唱え、以降、現在に至るまで歴史学上の通説となっている。
1.五位以上の身分の者の事跡については、正史に記載しなければならなかったが、人麻呂の名前は正史にみられない。

2.律令には三位以上は「薨」、四位と五位は「卒」、六位以下は「死」と表現することになっているが、『万葉集』の人麻呂の死をめぐる歌の詞書には「死」と記されている。
 人麻呂は『万葉集』第一の歌人といわれ、長歌19首・短歌75首が収められている。讃歌、挽歌、そして恋歌があり、その歌風は枕詞、序詞、押韻などを駆使した格調高い歌が特徴だ。代表作を挙げると、

・あしひきの 山鳥の尾のしだり尾の ながながし夜を ひとりかも寝む
・東(ひむがし)の野にかぎろひの 立つ見えて かへり見すれば 月かたぶきぬ
・近江の海(み)夕波千鳥 汝(な)が鳴けば 心もしのに いにしへ思ほゆ

などがある。
 梅原猛氏は柿本人麻呂についての力作『水底の歌 柿本人麿論』を著している。
この中で同氏は大胆な論考を行い、人麻呂は高官だったが、政争に巻き込まれて刑死したとの「人麻呂流人刑死説」を唱え、大きな話題となった。また、梅原氏は柿本人麻呂=猿丸大夫の可能性を指摘している。ただ、学界においてはいずれもまだ受け入れられるには至っていない。

(参考資料)梅原猛「水底の歌 柿本人麿論」、井沢元彦「猿丸幻視行」

孝明天皇・・・攘夷にこだわり、批判勢力のターゲットとなり毒殺されたか

 孝明天皇の崩御をめぐっては、『孝明天皇紀』にも肝心の死因についての記載がなく、毒殺説をはじめ多くの疑問がある。幕末、朝廷・公家、幕府・諸藩・志士たちを含めた開国派と攘夷派の対立は激化。攘夷の意思が強く、公武合体により、あくまでも幕府の力による鎖国維持を望む孝明天皇の考えに批判的な人々からは、天皇に対する批判が噴出ようになった。こうした人たちの勢力が天皇を追い込み、毒殺を謀ったのか?天然痘が原因なのか。その死因は謎だ。

 第121代・孝明天皇は仁孝天皇の第四皇子。実母は正親町実光の娘、藤原雅子(新待賢門院)。幼名は煕宮(ひろのみや)、諱は統仁(おさひと)。正妃は九条尚忠の娘、九条夙子。孝明天皇の生没年は1831(天保2)~1867年(慶応2年)。在位は1846(弘化3)~1867年(慶応2年)でこの間、幕府は十二代将軍家慶、十三代家定、十四代家茂、十五代慶喜の四代にわたっている。

 1840年(天保11年)に立太子。1846年(弘化3年)、父・仁孝天皇の崩御を受け践祚した。父同様に学問好きな性格で、その遺志を継いで公家の学問所、「学習院」を創設した。また、1853年(嘉永6年)のペリー来航以来、孝明天皇は政治への積極的な関与を強め、1858年(安政5年)、40年にわたって朝政を主導してきた前関白鷹司政通の内覧職権を停止して、落飾に追い込み、さらに2カ月後、現関白・九条尚忠の内覧職権も停止して朝廷における自身の主導権確保を図った。

さらに、孝明天皇は幕政に発言力を持ち、1858年(安政5年)、日米修好通商条約の締結にあたって、幕府が事前の了解を求めた際、これを拒否。大老井伊直弼が勅許を得ずに諸外国と条約を結ぶと、これに不信を示し、退位の意向も示した。そして、攘夷強硬派の公卿に動かされ、水戸藩に幕政改革を求める「密勅」を発したほど、攘夷の立場で幕府を強く指導した。1863年(文久3年)攘夷勅命を下した。これを受けて下関戦争や薩英戦争が起き、日本国内では外国人襲撃など攘夷運動が勃発した。

 しかし、「八月十八日の政変」(1863年)にあたっては攘夷派公卿と袂を分かち、三条実美ら七卿と長州藩兵を京都から追放した。そして、異母妹、和宮親子内親王を第十四代将軍家茂に降嫁させたのをはじめ徳川慶喜、松平慶永、山内容堂ら雄藩藩主を中心とする公武合体を目指し、岩倉具視ら一部公卿の王政復古倒幕論には批判的だった。それだけに、家茂が上洛してきたときは攘夷祈願のため石清水八幡宮などに行幸、京都守護職・会津藩主松平容保への信頼はとくに厚かった。

 こうした尊皇攘夷派・開国派による権力をめぐる争いに巻き込まれ、孝明天皇個人の権威は低下していくことになった。公武合体の維持を望む天皇の考えに批判的な人々からは、天皇に対する批判が噴出するようになったのだ。薩摩藩はじめ岩倉具視や、薩摩藩の要請を受けた内大臣・近衛忠房までもが天皇に批判的な動きをするようになった。

 1866年(慶応2年)、第二次長州征伐中に将軍家茂が急死すると、孝明天皇は征長の停止を幕府に指示。これに伴い、幕府の統制力の崩壊は決定的となった。そして、第十五代将軍に慶喜が就任した直後、孝明天皇は急逝したのだ。強硬な尊攘派公卿、とくに岩倉具視らが京都回復を狙い、薩長による武力倒幕の動きが具体化していたときだけに、陰謀による毒殺との説が有力視された。公式には天皇が痘瘡(天然痘)に罹っていたことは発表されたが、それが直接の死因だとするには、全く説得力がなかった。

 孝明天皇は長年の間、悪性の痔(脱肛)に悩まされていたが、それ以外ではいたって壮健だったという。公家・政治家の中山忠能の日記にも、「近年、御風邪の心配など一向にないほど、ご壮健であらせられたので、痘瘡などと存外の病名を聞いて大変驚いた」との感想が記されている。

(参考資料)笠原英彦「歴代天皇総覧」、安部龍太郎「血の日本史」

花山天皇・・・藤原兼家・道兼父子の謀略で在位わずか2年で退位

 第65代花山天皇は父の冷泉天皇と同様、藤原元方の怨霊にとりつかれ、乱心の振る舞いがあったと伝えられるが、藤原一家の策謀により、在位わずか二年で退位させられた人だ。少し奇異な所業が目立ったにしろ、荘園整理令の布告など革新的な政治路線も打ち出しており、無事ならまだまだ善政が敷かれていたはずだ。生没年は968(安和元年)~1008年(寛弘5年)。

 花山天皇は冷泉天皇の第一皇子。母は太政大臣正二位藤原伊尹(これただ)の娘、懐子(かいし)。諱は師貞(もろさだ)。984年(永観2年)、円融天皇の譲位を受けて即位した。17歳のことだ。即位式において、王冠が重いとしてこれを脱ぎ捨てるといった振る舞いや、清涼殿の壺庭で馬を乗り回そうとしたとの逸話がある。こうした所業が直ちに表沙汰にならなかったのは、天皇に仕えた賢臣、権中納言藤原義懐(よしちか)と左中弁藤原惟成(これしげ)の献身的な支えによるところが大きい。

 関白は先代から引き続き藤原頼忠(よりただ)だったが、実際の政治は義懐や惟成ら新進気鋭の官僚により推進されていた。饗宴の禁制を布告して宮廷貴族社会の統制、引き締めを図り、902年(延喜2年)に出されて以来、布告されていなかった荘園整理令を久々に布告するなど、革新的な政治路線を打ち出した。この荘園整理令は、受領らの間で高まってきていた荘園生理の気運を政策化したもので、以後、頻出する整理令の嚆矢となった。

 花山天皇については様々な多くのスキャンダルが聞かれるが、中でも大納言藤原為光の娘、女御・_子(きし)への寵愛ぶりはとくに知られている。そのため_子はほどなく懐妊したが、その後体調を崩して遂に妊娠8カ月の身で他界した。天皇の落胆ぶりは大きく、いかに神に祈祷すべきか悩みぬいていた。

 この様子を見て陰謀をめぐらせたのが右大臣、藤原兼家だ。兼家は天皇の不安定な心理状態を利用し、天皇に出家を勧めて、一日も早く外孫懐仁(やすひと)親王へ譲位させようと謀ったのだ。「大鏡」によると986年(寛和2年)、藤原兼家の次男、蔵人・道兼が言葉巧みに花山天皇を連れ出し元慶寺へ向かう。そのころ兼家の長男の道隆と三男の道綱は清涼殿に置かれていた神器を皇太子・懐仁親王の部屋へ移す。

いったんは出家を納得した花山天皇だったが、心変わりしそうな雰囲気に、道兼は涙ながらに自分もともに剃髪、出家するからと天皇を説き伏せ剃髪させてしまう。そして、次は道兼の番になったが、道兼はどこにもいない。花山天皇が騙されたと思ったころには、“役者”の道兼は丸坊主になった花山天皇を残して藤原家に帰ってきていた。そのころには兼家の末子、道長が関白、藤原頼忠(兼家の従兄弟)に天皇行方不明の報告をしていた。そこで懐仁親王(当時7歳)が即位して一条天皇となり、兼家は念願の外祖父となったのだ。

 こうして兼家・道兼父子の謀略によって、無念の思いで皇位を追われた花山上皇はその後、仏門修行、そして和歌と女に明け暮れたといわれる。とくに歌人として優れており、多くの和歌を残している。

(参考資料)永井路子「この世をば」、笠原英彦「歴代天皇総覧」、梅原猛「百人一語」

孝徳天皇・・・わが国最初の生前譲位で即位したが、実権を甥に握られる

 孝徳天皇は、形式的には実姉からわが国史上初の譲位により即位したにもかかわらず、その存立基盤は極めて脆弱だった。それは645年(皇極天皇4年)の、蘇我本家(蝦夷・入鹿)を滅亡に追い込んだ「乙巳(いっし)の変」により、この企ての推進者であった中大兄皇子が、“補佐役”の中臣鎌足の助言を入れて辞退したことと、“対抗馬”と目された古人大兄皇子が急遽、出家し僧形となったため、消去法で残った候補者(=軽皇子)が即位したという事情があるからだ。そのため天皇となってからも基盤が弱く、実権は甥にあたる、同母姉の皇極上皇の子、中大兄皇子が握っていた。このことが後の様々な悲劇を産むことになった。

 孝徳天皇は敏達天皇の孫で、押坂彦人大兄皇子の王子、茅渟王(ちぬのおおきみ)の長男。母は欽明天皇の孫、吉備姫王(きびつひめのおおきみ)。諱は軽皇子(かるのみこ)。その在位中には「難波長柄豊碕宮」に宮廷があったことから、後世その在位時期を難波朝(なにわちょう)という別称で表現されることもある。孝徳天皇の生没年は596年(推古天皇4年)~654年(白雉5年)。

孝徳天皇は中大兄皇子を皇太子とし、阿倍内麻呂を左大臣、蘇我倉山田石川麻呂を右大臣とした。新政権の立役者、中臣鎌足には大錦の冠位を授け、内臣(うちつおみ)とした。また、僧旻(みん)や高向玄理(たかむこのくろまろ)を国博士(くにのはかせ)とした。

 皇極天皇4年は大化元年に改められた。これが年号使用の始まりだ。孝徳天皇は皇極上皇の娘、間人皇女(はしひとのひめみこ)を皇后に立て二人の后妃を迎えた。一人は阿倍倉梯麻呂(くらはしまろ)の娘、小足媛(おたらしひめ)で、その間に有間皇子をもうけ、もう一人は蘇我倉山田石川麻呂の娘、乳娘(ちのいらつめ)だ。

 蝦夷・入鹿の蘇我本家を葬った「乙巳の変」は通常、中大兄皇子と中臣鎌足らが謀って起こしたクーデターということになっているが、異説もある。遠山美都男氏は、経緯はどうあれ、軽皇子が即位している事実から見るならば、クーデターの首謀者は軽皇子とその一派と見るのが最も妥当-としている。軽皇子一派とは、軽皇子の宮があった後の和泉国和泉郡やその周辺に何らかの拠点あるいは権益を保有していたとみられる蘇我倉山田石川麻呂、阿倍内倉梯麻呂、巨勢徳太、大伴長徳らだ。

 船史恵尺(ふねのふひとえさか)はクーデターの最終局面、蘇我蝦夷の自殺の現場に居合わせ、蝦夷によって蘇我氏累代の財宝とともに焼かれようとしていた『天皇記』『国記』のうち『国記』を持ち出したという。『天皇記』『国記』編纂のため日頃より蝦夷邸に出入りしていた恵尺は、クーデター派の命令で密偵的な働きをしていたのではないか、と遠山氏は見ている。

 遠山氏は中臣鎌足についても極めて興味深い見方をしている。鎌足は恐らく、摂津・河内・和泉の各地に居住した中臣氏同族から、軽皇子との関係を仲介され、早い段階から軽皇子に仕える立場にあったというのだ。鎌足は中臣氏の若い族長候補として、これら中臣氏同族を統括する立場にあった。彼らとの交流を通じて、鎌足は和泉国和泉郡に宮を構える軽皇子と深く知り合うことになったのだろう-という。

 遠山氏の見解は、クーデターの首謀者は中大兄皇子と中臣鎌足とする『日本書紀』の著述内容とは明らかに矛盾する。しかし、『日本書紀』のこの件は、藤原氏の始祖である鎌足の功績を顕彰するためにつくられた書物をもとにしているからだ。クーデターの勝者で、その後の政治の激動の最終的な勝者である鎌足や藤原氏のサイドに立って書かれた史料の陳述を鵜呑みにできないというわけだ。

 遠山氏の見解に近い姿で軽皇子が即位したのだとすると、軽皇子=孝徳天皇の悲劇の度合いは幾分、薄らぐ。しかし、653年(白雉4年)、不思議なことが起こった。皇太子の中大兄皇子は、天皇を難波宮に残したまま、母の皇極上皇や弟の大海人皇子(後の天武天皇)をはじめ、公卿・大夫・百官を引き連れて、突如、飛鳥川のほとりの川辺(河辺)行宮(かわべのかりみや)に移ってしまったのだ。

ショッキングなことにこのとき、孝徳天皇の皇后の間人皇女(はしひとのひめみこ)までが、夫の天皇を捨てて、中大兄皇子と行動をともにしているのだ。それは、中大兄皇子と間人皇后が近親相姦の関係にあったからだ。つまり、中大兄皇子はタブーを犯して同母妹の間人皇后と愛情を通じるようになり、叔父の孝徳天皇から奪ったのだ。それでも、孝徳天皇は黙って見ているほかなかった。天皇に実権はなかったのだ。ひとり取り残された天皇は654年、失意のうちに崩御した。

(参考資料)杉本苑子「天智帝をめぐる七人」、笠原英彦「歴代天皇総覧」、神一行編「飛鳥時代の謎」、関裕二「大化の改新の謎」、遠山美都男「中大兄皇子」

弘文天皇・・・明治政府により追号された大友皇子 壬申の乱の敗者

 江戸時代まで公式には弘文天皇は存在しなかった。あるいは、削除されていた。明治政府により「弘文天皇」と追号されたのは1870年(明治3年)のことだ。しかし、そのおよそ1200年前、大友皇子が671~672年のわずか2年弱だが、天智天皇崩御後、近江朝廷にあって実権を握り、事実上皇位にあったとする見解が今日、有力視されている。生没年は648(大化4)~672年(天智天皇11年)。

 天智天皇の崩御後、672年、皇位をめぐるわが国古代最大の内乱「壬申の乱」が起こり、大海人皇子率いる吉野側が勝利したため、その即位が疑問視され、在位を認めない見解もある。少なくとも「日本書紀」は弘文天皇紀を記しておらず、同天皇を一代と見做していない。これは同紀の編纂にあたった舎人親王が父、天武天皇による皇位簒奪の印象を拭い去ろうと大友皇子即位を省いたとされている。

それでも、事実上大友皇子が皇位を継いでいたとする様々な史料が残っている。「水鏡」や「扶桑略記」などでは、天智天皇崩御後の二日後に皇位を継いだとされている。また、徳川光圀も「大日本史」でほぼ同様の見方をしている。

 弘文天皇は天智天皇の第一皇子で、名は大友皇子、伊賀皇子。母は伊賀采女宅子娘(いがのうねめ・やかこのいらつめ)。日本最古の漢詩集「懐風藻」によると、皇子は風貌たくましく、頭脳明晰だったとされている。博識で文武両道を究め、詩文にも優れていたと伝えられている。皇妃は大海人皇子と額田王(ぬかだのおおきみ)との間に生まれた十市(とおち)皇女。皇女には葛野(かどの)皇子、与多王(よたのみこ)の子があった。

 天智天皇には8人の妃がいたが、皇子が誕生したのは4人。だが、1人は8歳で亡くなり、残る3人のうちの最年長が大友皇子だった。しかし、大友皇子が皇位を継ぐことは、当時の慣習からいえば困難だった。皇位を継承できる資格は、まず第一に皇族出身の皇后・皇妃を母とする皇子であり、第二は大臣の娘で后妃となっているうちに生まれた皇子でなければならなかった。この習慣は蘇我氏がつくりだしたものだ。だが、大友皇子の母は伊賀国山田郡の国造家の娘だ。他の2人の皇子も同じような身分の母から生まれていた。慣例に従えば、大友皇子は皇位継承の資格がなかったのだ。
 にもかかわらず、天智天皇はこの大友皇子に深い愛情を注ぎ、皇位を託そうと思うようになった。大友皇子が聡明で、ひとかどの人物だったからだ。ところが、天智天皇には皇太子として弟の大海人皇子がいた。いうまでもなく、皇太子は次期皇位継承者のナンバー1だ。たとえわが子とはいえ、即座には後継者にできない。それには周囲の承認がいる。

そこで671年、大友皇子は太政大臣に任ぜられた。太政大臣が官職として正式に登場するのはこれが初めてで、大友皇子に権威をつけさせるため、新しいポストを作ってまで大友を政治の中枢に置いたのだ。大友23歳のことだ。そしてこの前後に、障害となる皇太子の大海人皇子の地位を奪い、政界から排除する方向にあったとみられる。このときの大海人皇子の推定年齢は36歳だ。

こうして本来ならば最有力の皇位継承者である大海人皇子は働き盛りの年齢で、地位を奪われ、近江王朝の中で孤立し、大友皇子と敵対する立場に追いやられたのだ。大海人皇子は何の失政・失態を犯したわけでもないのに、理由もなく失脚させられたわけだ。

 天智天皇のこうした強引なやり方に反感を抱き、また非情な権力者、天智天皇を快く思わない連中は、当然ながら大海人皇子を支持したのではないだろうか。それが天智天皇自身の死後、朝廷から離反、多くの親・大海人皇子勢力をつくりだしていくことにつながったのではないか。そして、その決着点が「壬申の乱」での近江朝の敗北だったのだ。

(参考資料)豊田有恒「大友皇子東下り」、黒岩重吾「天の川の太陽」、井沢元彦「日本史の叛逆者 私説・壬申の乱」、神一行編「飛鳥時代の謎」 、遠山美都男「中大兄皇子」

早良親王・・・藤原種嗣暗殺事件の関係者の嫌疑で幽閉・配流、怨霊に

 早良(さわら)親王は第50代桓武天皇の弟で、皇太子の座にあったが、ある事件の関係者あるいは首謀者の嫌疑をかけられ、一言の弁明もできないまま幽閉され、配流の途中、衰弱して亡くなった悲劇的な人物だ。この後、桓武天皇はこの早良親王の怨霊に怯え続けることになった。そのため、早良親王の霊を祀るとともに、延暦19年、同親王に崇道(すどう)天皇を追号した。早良親王の生没年は750?(天平勝宝2?)~785年(延暦4年)。

 このきっかけとなったのは、桓武天皇が平城京へ赴いている最中、785年(延暦4年)に起こった長岡京造営の最高責任者、藤原種継暗殺事件だ。この事件は反桓武天皇勢力=早良皇太子の役所、春宮に仕える人々が長官、大伴家持の死後、暴発して起こしたものとみられる。桓武天皇は、自分が信頼し朝政の中枢を担っていた種継が暗殺されたことに怒り、大伴継人(つぐひと)など関係者数十人を捕縛、ただちに処刑した。この事件の背景には種継主導の下の遷都や人事などをめぐって、藤原氏と大伴・佐伯両氏との根深い対立があったとされる。

とりわけ問題を大きくしたのは、この事件の関係者の中に、春宮坊(皇太子の御所の内政を担当)の官人ら皇太子の側近が混じっていたためだ。その結果、嫌疑が早良皇太子にまで及んだ。その中には、万葉歌人として名高い大伴家持も加わっており、家持はすでに亡くなっていたが、官位を剥奪される憂き目に遭った。捕えられた早良親王は、皇太子を廃され、一言の弁明も許されないまま乙訓(おとくに)寺に幽閉された。そして、淡路への配流処分となった。早良皇太子は無実を訴えるため、自ら飲食を絶って、配流の途中、衰弱して河内国高瀬橋付近で憤死したとされている。

 早良親王は母が百済系の卑母だったので、幼いときに出家している。761年のことだ。奈良の寺に入れられ親王禅師と呼ばれていた。781年、兄、桓武天皇の即位と同時に父・光仁天皇の勧めで還俗し、皇太子に立てられている。平穏なら桓武天皇の後を受けて、皇位に就いていたはずなのだ。

 藤原種継暗殺事件に早良親王が関与していたかどうかは不明だ。だが、東大寺の開山、良弁が死の間際に当時僧侶として東大寺にいた親王禅師(=早良親王)に後事を託したとされること、また東大寺が親王の還俗後も寺の大事に関しては必ず親王に相談してから行っていたことなどが伝えられている。種継が中心となって推進していた長岡京造営の大きな目的の一つが、東大寺、大安寺などの南都寺院の影響力排除だったため、南都寺院とつながりの深い早良親王が、遷都阻止を目的として種継暗殺を企てたとする見方もできるわけだ。

 さらに、早良親王が種継暗殺を企てる可能性を示唆する伏線もあった。桓武天皇の治政下、大事は天皇自身が決したが、平常の事務は皇太子と藤原種継に委ねていたのだ。そして、長岡京造営が進むと皇太子と種継との間に確執が生まれ、二人の仲は次第に険悪になっていたともいわれる。

 一方、桓武天皇側にも早良親王を皇太子の座から外し排除したいとの思惑もあった。父、光仁天皇から譲位された際、父の強い要望で僧籍にあった弟、早良親王を還俗させてまで皇太子に立てたが、できることなら可愛い自分の息子たちを跡に据えたい思いが強かったのだ。

 早良親王の死後、皇太子には新たに桓武天皇の長子、安殿(あて)親王が立てられたが、その後、天皇の身辺では忌まわしいできごとが頻発した。藤原百川の娘で天皇の夫人だった藤原旅子が年若くして他界し、天皇の母、高野新笠、皇后の藤原乙牟漏らが次々と発病してこの世を去った。安殿皇太子も体調がすぐれず、陰陽師に占わせたところ、早良親王の祟りと出た。

桓武天皇はこれを聞き、早良親王の怨霊をとくに恐れた。そこで人心の一新を図るべく794年、平安京に遷都した。平安遷都は怨霊ゆかりの地である長岡を退去することが目的だったが、遷都後も長く天皇は早良親王の怨霊に怯え続けた。そのため、早良親王に崇道天皇を追号した。また、種継暗殺事件に連座した大伴家持の名誉回復も図られたのだ。

(参考資料)北山茂夫「日本の歴史/平安京」、永井路子「王朝序曲」、永井路子「続 悪霊列伝」

塩焼王・・・帝位目前に非業の最期を遂げた、藤原氏に対抗した反骨の王

 塩焼王(しおやきおう・しおやきのおおきみ)は、天武天皇の孫だ。天武天皇の子・新田部(にたべ・にいたべ)親王を父として生まれた、皇位をも望める血筋で、聖武天皇と県犬養広刀自の間に生まれた不破内親王の夫となった人物だ。彼は、隆盛を誇った藤原四兄弟(宇合・武智麻呂・房前・麻呂)の死後、以前の勢いを失ったとはいえ、いぜんとして権勢を持つ藤原氏に対抗、皇位を奪取しようと目論んだとみられている。しかし、その企みはあっけなく露見し、官位を奪われ、最終的に配流されてしまう。『続日本紀』にはその事実だけが記され、その理由は何一つ書かれていない。したがって、詳しいことは分からない。ただ、様々な類推が可能な情報は記されている。その後、復帰し栄達するが、担ぎ出されて帝位を目前に、非業の最期を遂げた。

 塩焼王の生年は不詳、没年は765年(天平宝字8年)。母は不明。758年(天平宝字2年)、「氷上真人」の氏姓を与えられて、臣籍降下し、「氷上塩焼」と称した。官位は従三位、中納言。
塩焼王は732年(天平5年)、親王の子に対する蔭位として無位から従四位下に叙された。740年(天平12年)、従四位上の昇叙。同年10月には聖武天皇の伊勢行幸に御前長官として供奉。同年11月には正四位下に昇叙。時期は不明だがこの間、中務卿に任ぜられている。当時の皇族の最長老、新田部親王の子としてはまず順調な出世の途を歩んでいた。

 ところが、742年(天平14年)女嬬4人とともに塩焼王は投獄され、伊豆国に流されたのだ。真相は不明だが、皇位継承問題などの政争に巻き込まれたものと推測されている。冒頭に述べた皇位奪取の目論見が露見したためと思われる。ただこの際、彼がどの程度、主体的な役割を果たしたのか、あるいは担ぎ上げられて巻き込まれたのか、詳細は分からない。

 しかし3年後の745年(天平17年)、赦免されて帰京、746年(天平18年)には官位も正四位下に復している。恐らくは、それほど主体的な役割は演じていないものと判断されたことと、妻の不破内親王が聖武天皇の皇女だったことから特赦されたとの見方が強い。ただ、これにより新田部親王の旧宅は没収され、勅によって鑑真に与えられて戒院とされ、のち「唐招提寺」となった。

 永井路子氏は塩焼王が伊豆に配流になった要因として、藤原氏に対抗して、県犬養広刀自一家の“祈り”にも似た意向を受けて、塩焼王がもっと積極的に皇位奪取の意志があったとみている。そして、藤原氏・聖武天皇に、彼にそう思わせる状況があったと指摘する。

 それは、聖武天皇が情緒不安定で、ノイローゼに陥ったことと、隆盛を誇った藤原四兄弟が疫病で相次いで急死し、宮廷内での藤原氏族の勢力が低下したためだ。また聖武天皇自身が藤原氏との関係に深入りし、先に讒言を信じ込み、結果的に藤原氏の策謀に乗せられて、左大臣で朝廷内きっての実力者、長屋王 一家を冤罪で自決に追い込んだ負い目も加わって、藤原氏を襲った相次ぐこれらの不幸を、気弱な聖武天皇は“祟り”と捉えて恐れたからだ。この後、聖武天皇が難波・恭仁・紫香楽と遷都、行幸を繰り返すのも、呪われた地、藤原氏の本拠・奈良を逃れたいとの思いからだったとみる。

 こうした状況を見た塩焼王が、いまがチャンスと思ったのも無理はない。彼には聖武王朝は崩壊寸前に見えたことだろう。これを支える藤原氏に昔の力がない今なら…。政権は自分の手の届くところにある。血の気の多い、この20代の皇族は暗躍を開始する。彼は聖武天皇を帝位から降ろし、義弟の安積親王(聖武天皇と県犬養広刀自との間に生まれた不破内親王の弟)を皇位に就けようとしたのか、自分自身が自ら帝位に就き、妻の不破内親王を皇后にしようと考えたのかは分からない。

 757年(天平宝字元年)、弟の道祖王が皇太子を廃されると、塩焼王は藤原豊成・永手らによって後任の皇太子に推されたが、かつて聖武太上天皇に無礼を責められたことがある(伊豆配流のことか)との理由で、孝謙天皇に反対され、実現しなかった。

 その後、恵美押勝(藤原仲麻呂)に接近して栄達を図った塩焼王は、765年(天平宝字8年)、その頼みの押勝が追い詰められて武装反乱を起こすと、押勝により天皇候補に擁立されて「今帝」と称された。だが、押勝の敗走に同行して、孝謙太上天皇方が派遣した討伐軍に捕らえられ、近江国で押勝一族とともに殺害された。

(参考資料)永井路子「悪霊列伝」、杉本苑子「穢土荘厳」、小和田哲男「日本の歴史がわかる本」、笠原英彦「歴代天皇総覧」

蘇我倉山田石川麻呂・・・中臣鎌足と中大兄皇子の卑劣な謀略で抹殺される

 蘇我氏一族の中で、馬子直系の氏族は大臣(おおおみ)として権力を独占、蝦夷・入鹿父子は我が世を謳歌したが、同族内で陽の目を見ず、これに不満を持っていた有力者がいた。それが蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだのいしかわまろ)だ。蘇我入鹿暗殺事件の際、中臣鎌足(後の藤原鎌足)に引き込まれ、彼が朝鮮使の上表文を読み上げ、これを合図に決行するという重要な役割を演じている。石川麻呂はクーデター成功後、その報酬として右大臣ポストを得ている。

そして、これを機に鎌足の仲立ちで、彼は娘を中大兄皇子の妃に送り込み、天皇家との結びつきを強くしている。これにより先々、これまでの蘇我本家に代わり、分家の蘇我倉家が隆盛期を迎えたかに思われた。ところが、大化の改新が一段落ついたところで、今度は彼の異母弟を使った、鎌足と中大兄皇子の卑劣な謀略によって抹殺されたのだ。蘇我倉山田石川麻呂の生年は不明、没年は649年。

 蘇我倉山田石川麻呂の父は蘇我馬子の子、倉麻呂。したがって、彼は馬子の孫だ。本宗家の蝦夷は伯父、入鹿は従兄弟にあたる。兄弟に日向(ひむか)・赤兄(あかえ)・連子(むらじこ)・果安(はたやす)らがいる。本宗家討滅計画に加わり、娘の造媛(みやっこひめ)、遠智娘(おちのいらつめ)、姪娘(めいのいらつめ)を葛城皇子(中大兄皇子)の妃に入れた。また、娘の乳娘(ちのいらつめ)は軽皇子(孝徳天皇)の妃とした。こうした閨閥づくりは後に花開くことになる。遠智娘は大田皇女(大伯皇女、大津皇子の母)、_野讃良(うののさらら)皇女(後の持統天皇)、姪娘は御名部皇女(高市皇子の妃<長屋王の母>)、阿閉皇女(後の元明天皇、草壁皇子の妃)をそれぞれ産んでいる。

 蘇我入鹿暗殺のクーデターの翌日、早くも新政権樹立の準備が始まり、皇極天皇の後継に年長の軽皇子が決定、孝徳天皇となった。当時、軽皇子は50歳、中大兄皇子は20歳だ。大化改新を推進するにあたって、クーデターで動揺している宮廷を治めるにも、こうした長老を立てておくのが人心を収拾するには上策だ。そして、従来の大臣・大連に代わって設置されたのが左大臣・右大臣だ。左大臣に元老格の阿倍内麻呂(倉梯麻呂)、右大臣に蘇我倉山田石川麻呂が就任した。

 しかし、石川麻呂は左大臣・阿倍内麻呂の死後、649年(大化5年)異母弟の蘇我日向に、石川麻呂に謀反の疑いがあると讒言され、これを信じた中大兄皇子の追討を受ける破目になった。難波から2子、法師(ほうし)・赤猪(あかい)を連れて、大和の山田寺へ逃げ帰った石川麻呂は、追討軍に周囲を取り囲まれた。それでも石川麻呂は天皇から遣わされた勅使の審問に応じず、天皇に直接対面して事の真相を語りたいと申し出た。だが、これは受け入れられず、石川麻呂は従容として死を受け入れようと、集めた一族に語りかける。長子の興子(こごし)らは抗戦を主張したが、石川麻呂はこの意見を退け、妻子らとともに自決した。連座した者のうち斬殺された者14人、絞刑に処せられた者15人に上ったという。この事件、実は中大兄皇子による謀略だったのではないか。

石川麻呂の異母弟、日向はまんまと中大兄皇子にいいように踊らされ、兄殺しを手伝わされた格好だ。
 石川麻呂の死後、彼の潔白が証明され、中大兄皇子は讒言した日向を筑紫に追放した。

(参考資料)関裕二「大化改新の謎」、神一行編「飛鳥時代の謎」、安部龍太郎「血の日本史」、遠山美都男「中大兄皇子」

聖徳太子・・・厩戸皇子=聖徳太子かを疑問視 事績に虚構の疑いも

 聖徳太子といえば、様々な事績を挙げるまでもなく、日本人なら幅広い世代の間で最も認知されている、賢人・貴人の代表格の人物だ。しかし近年の歴史学研究ではこれまで聖徳太子の事績と考えられていたことを否定する文献批判上の検証や、太子の実在を示す『日本書紀』などの歴史資料としての信憑性の低さから、聖徳太子自体を虚構とする説もある。

廐戸皇子が実在したのは確かだが、廐戸皇子=聖徳太子かどうかが疑問視されているのだ。事実、廐戸皇子の事績で確実だといえるのは「十七条憲法」と「冠位十二階」のみだ。随書にも記載されている事柄だが、その随書には、推古天皇のことも廐戸皇子のことも一切記載されていないのだ。『日本書紀』にも廐戸皇子のことは記載されていない。

聖徳太子は用明天皇の第二皇子。母は欽明天皇の皇女、穴穂部間人皇女。太子の生没年は574(敏達天皇3)~622年(推古天皇30年)。本名は廐戸(うまやど)、別名は豊聡耳(とよさとみみ、とよとみみ)、上宮王(かみつみやおう)とも呼ばれた。聖徳太子という名は平安時代から広く用いられ、一般的な呼称となったが、後世につけられた尊称(追号)であるという理由から、近年では「廐戸皇子」の呼称に変更している教科書もある。

 聖徳太子についての記述は日本最古の正史『日本書紀』をはじめ、いまは存在しないが最古の太子伝といわれる『上宮記(じょうぐうき)』、平安中期に完成した『聖徳太子伝暦(でんりゃく)』、『上宮聖徳法王帝説』、また『法隆寺伽藍縁起并流記資財帳(ほうりゅうじ がらんえんぎ ならびに るきしざいちょう)』や『四天王寺本願縁起』などにみられる。

 教科書ではこれらの文献をもとに、聖徳太子の人物像や事績を史実として紹介し、誰もがそれを紛れもない事実として受け止めてきた。父・用明天皇、母・穴穂部間人皇女の間に生まれた太子は、生まれるとすぐに言葉を話し、わずか3歳で合掌しながら「南無仏」と唱え、また幼少の頃から10人あるいは20人の声を同時に聞き分けることができたという。まさに超人的な聡明ぶりだ。
蘇我氏と物部氏が皇位継承をめぐり壮絶な戦いを繰り広げていた際も、蘇我氏に勝利の祈願を依頼されていた聖徳太子は、望み通り蘇我氏を勝利に導くことに成功した。弱冠14歳のときのことだ。また、高句麗や百済の知識人に帝王学を学び、天皇中心の中央集権国家が理想だと考えるようになったという。
 593年、19歳のときには、叔母で日本初の女帝、推古天皇の皇太子・摂政となり、内政の改革に努めた。また、607年には小野妹子を第二回遣隋使として隋に派遣し、隋との外交も進めている。飛鳥から、斑鳩の地に構えた新しい宮殿に移ってからは、世界最古の木造建築、法隆寺、四天王寺などの寺院を建立したほか、経典の注釈書『三経義疏』の著述をはじめ数々の歴史書の編纂を行うなど、様々な功績を残した-とされてきた。私生活では4人の妻をめとり、14人の子供をもうけている。そして622年、49歳で生涯を閉じた。

史実として語り継がれるこうした数々の事柄は、果たして事実なのだろうか。確かに、文献の中には過度に脚色されている部分があるが…。例えば聖徳太子は、伝えられる4回にわたって遣隋使を本当に派遣したのか?冠位十二階、十七条憲法は本当に聖徳太子によって制定されたのか?一つ一つ検証していくと、随書との食い違いは多く、謎は深まるばかりなのだ。聖徳太子はいなかったとする方が、無理がなく自然な部分さえあるのだ。また歴史上、廐戸皇子は、推古天皇の摂政として活躍したとされているが、その当時、摂政という官職はなかったとされている。

 もし実在しなかったと考えるなら、どうして「聖徳太子」という人物をつくり上げる必要があったのか?聖徳太子が日本書紀でつくり上げられたものだと仮定すると、責任者として編集に携わっていた藤原不比等の名前がクローズアップされてくる。不比等は日本書紀を編集する際に、自分にとって都合のいいように書き加える必要があったと思われる。

当時はもちろんのこと、後世の評価はどうあれ、藤原氏隆盛の原点ともいえる「大化の改新」を正しいものだと見せる必要がある。中大兄皇子と藤原鎌足の手柄をよく見せるためには、この二人によって滅ぼされた蘇我氏を悪者にしなければいけない。そのため、入鹿に滅ぼされた山背大兄王や、その父の廐戸皇子を聖徳太子としてつくり上げて、善人にしなければならなかったのではないか。
 不比等は藤原一族に次々と襲いかかる不幸なできごとは、蘇我氏の祟りではないかと考えた。そのため、蘇我氏の魂を鎮めなければならず、日本書紀という歴史書で蘇我氏の働きを褒め称え、魂を慰めようとしたわけだ。ところが、そうすると鎌足と中大兄皇子は蘇我氏を滅ぼした悪者になってしまうのだ。そこで、蘇我一族の善人としてシンボル的存在の、架空の人物=聖徳太子をつくり上げる必要があったのだ。これによって、藤原一族のメンツも立ち、蘇我氏の供養もできるのだ。こうして聖徳太子伝説ができあがったというわけだ。

 伝説とは別に、聖徳太子にまつわる説の一つに、聖徳太子=非日本人、具体的にいえばペルシャ人説がある。その根拠として歴史学者、小林惠子氏は聖徳太子が新羅征伐のためにつくらせ、今日まで法隆寺夢殿に伝承されてきた軍旗、四騎獅子狩文錦を挙げている。四騎獅子狩文錦はササン朝ペルシャの流れを汲む文様が最大の特徴で、翼の生えた馬、すなわちペガサスに乗って獅子を倒そうとするペルシャ人らしき騎士の姿が描かれたものだ。また、騎士が被っている冠はササン朝ペルシャの王、ホスロー2世のものと酷似しているばかりでなく、夢殿に安置されている救世観音像の冠の飾りとも同じデザインなのだ。救世観音像は聖徳太子をモデルにしたといわれており、聖徳太子=ペルシャ人説を裏付けている。

さらに小林氏は、聖徳太子は北朝鮮からイラン北部を征服していた遊牧騎馬民族、突厥人であり、しかもその中の英雄、頭達(たるどう)だとしている。突厥については『随書』の突厥伝に詳しく記載されている。有名人物の生死の記録はほとんど例外なく歴史書に残されているにもかかわらず、頭達は599年の戦いの記録を最後にぷっつりと歴史上から姿を消している。

頭達が姿を消したのとほぼ同時期、今度は日本で聖徳太子が登場する。これが頭達説根拠の一つだ。599年に消息を絶った頭達は実は翌年600年に北九州に上陸、北上して播磨(現在の兵庫県)の斑鳩寺に本拠地を置いたという。その証拠に、その際持ち込まれた西突厥製と思われる、いびつな形の地球儀が今でも斑鳩寺に残されている。また、ゴビ砂漠周辺にはカイルガナ(モンゴルひばり)と呼ばれる鳥が棲息しているが、斑鳩という名称もここからつけられたのではないかと推測されている。斑鳩は斑(まだら)の鳩と訳すことができ、実はササン朝ペルシャの女神、アナーヒターの使い鳥も鳩なのだ。

 聖徳太子の死もまた多くの謎に包まれている。621年、母の穴穂部間人皇女が死亡。翌年、聖徳太子が病に伏してしまう。太子を看病していた妃の膳大郎女が疲れから622年先立つとその翌日、聖徳太子も49歳の生涯を閉じ、3人は同じ墓に葬られたのだ。死因については一切解明されていない。恐らく3人とも異常死だったのではないかと推察されるが、研究が待たれるところだ。

(参考資料)黒岩重吾「聖徳太子」、黒岩重吾「斑鳩王の慟哭」、井沢元彦「逆説の日本史・古代怨霊編 聖徳太子の称号の謎」、笠原英彦「歴代天皇総覧」、梅原猛「隠された十字架 法隆寺論」、歴史の謎研究会編「日本史に消えた怪人」、小林惠子「聖徳太子の正体」、神一行編「飛鳥時代の謎」

崇峻天皇・・・当時最大の権力者・蘇我馬子に殺害された唯一の天皇

 第一代の神武天皇から第百二十五代の平成天皇まで、様々な個性あふれた天皇がいたが、実在を確認できない天皇はともかく、第三十二代の崇峻天皇ほど不運な天皇はいない。なぜなら、崇峻天皇は当時、政治の実権を握っていた大臣、蘇我馬子の命を受けた東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)の手で殺害されたのだから。崇峻天皇の生年は不明で、没年は592年。

 崇峻天皇は欽明天皇の第12子で、母は蘇我稲目の娘、小姉君(おあねのきみ)。「古事記」には長谷部若雀天皇(はつせべのわかさざきのすめらみこと)とあり、「日本書紀」には泊瀬部天皇(はつせべのすめらみこと)とみえる。崇峻天皇は大臣の蘇我馬子によって推薦され即位した。崇峻は馬子の娘、河上郎女を嬪としており、馬子にとって崇峻は女婿でもあった。

 崇峻天皇が皇位に就くまでに、実は大豪族間の駆け引き・抗争が熾烈を極めた時期があった。蘇我氏と物部氏の主導権争いだ。第三十一代・用明天皇(聖徳太子らの父)が崩御すると、皇位は穴穂部皇子を押し立てた大連(おおむらじ)・物部守屋と、これを阻止しようとする大臣(おおおみ)・蘇我馬子率いる豪族および泊瀬部皇子、竹田皇子、厩戸皇子(聖徳太子)ら皇族連合軍との戦いとなった。

当初、連合軍は劣勢だった。ところが、厩戸皇子が戦いに勝利できたならば四天王の像を造り、寺を建立するという誓い立て、仏に祈った効果があったか、戦いは連合軍の勝利となった。

 こうして泊瀬部皇子が即位し、崇峻天皇となった。587年のことだ。激しい物部氏と蘇我氏の対立時代を経て、物部氏の没落によって、第二十九代・欽明天皇以来の崇仏廃仏論争に決着がつき、崇峻天皇は法興寺(飛鳥寺)や四天王寺などの造寺事業を積極的に行った。しかし、皇位に就いた後も、政治の実権は常に馬子が握っており、崇峻は次第に不満を感じ、反感を抱くようになった。

 そして592年、崇峻天皇の運命の歯車が急回転し始める。10月に猪を奉る者があったが、このとき崇峻は「いつの日かこの猪の頸を斬るがごとく、自分の憎いと思うところの人(=蘇我馬子)を斬りたい」と思わず、胸の内を語ってしまったのだ。これが天皇自身の生死を決する決定的な言葉となってしまった。

崇峻天皇の胸の内を知った馬子が手をこまねいてみているわけがない。馬子にとっては、相手が天皇であろうと、自分が押し立て皇位に就けた、単なる皇子の一人に過ぎなかった。翌11月、馬子は配下の側近、東漢直駒に命じ、天皇を殺害した。ただ、狡猾な馬子のこと、その時期には非難の眼が少ないと思われるタイミングを待っていたフシがある。任那再興のため新羅を討つべく大軍を筑紫に向かわせた留守を狙った犯行だった。

 これは、崇峻天皇に限らず、厩戸皇子をはじめこの時代を生きた皇族および有力豪族らのすべてが感じていたことだろうが、蘇我氏の権勢がそれほどに強大で、とりわけ王権さえ軽視し、政治をほしいままにしていた馬子に、意見を言える者などいなかったのだ。あの厩戸皇子さえ、馬子の権勢をよほど恐れていたのではないかと思われる史料が数々ある。今日、聖徳太子の名で、様々な善政として知られる諸施策も、すべて馬子の承諾なしに推し進められたものはないはずだ。もっといえば、聖徳太子が天皇にならなかった、あるいは天皇になれなかったのも、蘇我馬子の存在を抜きには語れない。

(参考資料)黒岩重吾「日と影の王子 聖徳太子」、黒岩重吾「磐舟の光芒」、豊田有恒「崇峻天皇暗殺事件」、小和田哲男「日本の歴史がわかる本」

平 宗盛・・・武家の大将の器量に欠ける、妻子への愛情深い家庭人

 平清盛の没後、平家政権は惣領=内大臣の平宗盛を中心に、宮廷内の外交は時忠(宗盛の叔父、清盛の正室時子の兄弟)が補佐し、知盛が軍事の指導権を掌握する形で再編成された。つまり、源平争乱の決戦に向けた平家の布陣は、この宗盛を総帥として組まれ、差配されることになった。突き詰めていえば、権勢を誇り栄華を極め、並ぶ者のなかったはずの平家一門の不運は、この点にあった。一門滅亡の最大の要因ともいえよう。

平宗盛は清盛の正室・時子の長子として優遇されて育てられ、精神的な逞しさはなかった。そのため、源氏を筆頭とする東国武士団との闘いにおいて、総帥の宗盛は再三の挽回の機会を取り逃がし、最悪の道を選択してしまう。「平家物語」の表現を借りれば、宗盛はあくまでも妻子への愛情深い家庭人であって、武家の大将たる器ではなかったのだ。

 平宗盛は平清盛の三男。正室・時子の子としては長男で安徳天皇の母・建礼門院徳子は同母妹。官位は従一位内大臣。母が異なる重盛は10歳年上で、当初から重盛の小松家とは対立の芽が内包されていた。平安時代末期、後白河天皇-二条天皇-六条天皇-高倉天皇-安徳天皇および、「治天の君」の後白河院を主君とした。後白河の寵妃、平滋子(建春門院、宗盛の生母、時子の異母妹)の側に一貫して仕え、妻に滋子の妹、清子(高倉天皇の典侍)を迎えている。

生没年は1147年(久安3年)~1185年(元暦2年)。
 「平家物語」は平重盛賛歌の書であって、父清盛も好意的には書かれていない。とくに宗盛は優れた兄重盛との対比として愚鈍なうえ、傲慢な性格で思い上がった振る舞いが多く、そのため他氏族の反感を買う行為ばかりしていた愚かな人物として戯画化されている。

 また「玉葉」では妻清子の死後、宗盛は政治への意欲を失い、権大納言・右大将の官職を返上してその死を嘆き、その妻の遺児(宗盛にとっては第二子・能宗)を乳母に預けず、自分の手で育てている。複数の妻を持つのが当たり前の、平安時代のセレブの貴族社会に照らして考えてみると、高級官僚としては失格だし、どれだけ亡き妻を思ってのこととしても、ちょっと異常としか言いようがない体たらくだ。

 究極は、源氏との最終決戦となった壇ノ浦の戦い以降の宗盛の行動。敗色濃くなった時点で、母時子が夫清盛とともに築いたこの時代の一門の最後の幕引きをするかのように、幼い安徳天皇を抱いて入水。以下、平家の武将や女人たち、要人が次々に自決、入水するなかで、総帥の宗盛は伊勢三郎能盛に生け捕りにされ、息子の清宗とともに、一度は京都へ送られて、次いで鎌倉に護送されていることはどうにも理解できない。どうしてそこまで生き恥を晒すのか?潤色はあるかも知れないが、「吾妻鏡」に書かれている宗盛は愚鈍で、哀れを誘う。彼は勧められた食事も摂らず、泣いてばかりいて、源頼朝との対面では弁明もできず、ひたすら出家と助命を求め、これが清盛の息子かと非難されている。そして、助命嘆願が受け容れられず処刑の直前、「平家物語」によると、宗盛の最期の言葉は「右衛門督(宗盛の長子、清宗)もすでにか」とわが子を思うものだった。ここには、平家の総帥の姿はカケラもない。ただ、子を思う一人の親の顔があるだけだ。宗盛39歳、子の清宗はわずか15歳。父子の首はその後、京都六条河原に晒された。

(参考資料)永井路子「波のかたみ-清盛の妻」、加来耕三「日本補佐役列伝」

徳川忠長・・・兄・家光派勢力のリベンジに遭い、28歳で失脚・自決

 徳川忠長は徳川二代将軍秀忠の次男という確かな血筋で、一時は駿河・遠江・甲斐国の計55万石を領有、「駿河大納言」とも呼ばれた。だが一転、領国すべてを没収され、逼塞処分となり、幕命により28歳の若さで自害、悲劇的な最期を遂げた。果たして、その背景には何があったのか。忠長の生没年は1606(慶長11)~1634年(寛永10年)。極位極官は従二位権大納言。

 徳川忠長(国松)は幼少時、兄・家光(当時の竹千代)より父(秀忠)・母(浅井長政・お市の娘のお江)に寵愛され、次期将軍に擬せられる存在だった。兄が病弱で吃音(きつおん=どもり)だったのにひきかえ、彼が容姿端麗・才気煥発な少年だったからだ。そして、それらに起因する竹千代、国松それぞれの擁立派による次期将軍の座をめぐる争いがあったとされる。結局この争いは、竹千代派の春日局による家康への直訴により、竹千代派の勝利に終わった。

 国松は将軍位こそ逃したが、1618年(元和4年)、甲府藩23万8000石を拝領し、甲府藩主となった。後に信州の小諸藩も併合されて領地に加えられた。1620年(元和6年)、家光とともに元服し、名を忠長と改めた。1623年(元和9年)、家光の将軍宣下に際し、中納言に任官。1624年(寛永元年)には駿河国と遠江国の一部(掛川藩領)を加増され、駿・遠・甲の計55万石を領有(小諸藩領は除外)する大身に出世した。

 忠長は1626年(寛永3年)に大納言となり、後水尾天皇の二条行幸の上洛にも随行した。また、1629年(寛永6年)には父・秀忠と、父の唯一の隠し子だった保科正之の初めての親子の面会の実現にも尽力した。ここまでは将軍の弟にふさわしい待遇を得、行動していたといえよう。
 ところが、何があったのか、そのわずか2年後の1631年(寛永8年)、不行跡を理由に甲府への蟄居を命じられる。その不行跡の中身がよく分からない。家臣を手討ちにしたとされるのだが、藩主がそれなりの理由があれば、家臣を手討ちにすることは普通にあったことだ。

 将軍の座を争ったという因縁があるだけに、兄・家光との折り合いが悪かったという背景があったにしろ、いきなり全領地没収のうえ蟄居、逼塞処分を科すというのは、どうみても極端すぎる。そして、確かな理由を示す史料がないまま、忠長には将軍の実弟という甘えからも粗暴な振る舞いが多かったという、抽象的な理由が示されているだけなのだ。兄弟の仲はどうあれ、秀忠は忠長さえ立ち直ったら、時期をみて許すつもりだったに違いない。

 忠長も黙って事態を見ていたわけではない。蟄居を命じられた際、秀忠側近の金地院崇伝らを介して赦免を乞うが許されず、翌年の秀忠の危篤に際して江戸入りを乞うたが、これも許されなかった。側近の壁に阻まれて会うことができなかった。そして遂に秀忠の死後、改易となり、領国のすべてを没収され、上州高崎城主・安藤重長に預けられる形で高崎国(上野国)に幽閉されたのだ。間髪を置かず最後のカードがきられる。翌年、1633年(寛永10年)、忠長は幕命により自害して果てた-の記録があるだけだ。

 幕府が編纂した『徳川実記』さえ、忠長処罰の不当を訴えている。単純に考えれば、忠長に死に値するような理由はなかったが、“屈辱”の幼少年時代があるだけに、リベンジに燃えた春日局の強い意向も加わって、家光にとっては忠長がとにかく嫌いで、顔も見たくなかった。だから死を与えた、それだけなのかも知れない。だとすれば、それは忠長本人だけの責任ではなく、両親にもそう仕向けた責任があるはずだが…。真実は闇の中だ。

(参考資料)徳永真一郎「三代将軍家光」安部龍太郎「血の日本史」

高岳親王・・・父と叔父の権力争いの巻き添えで人生を狂わせられる

 高岳(たかおか)親王は第51代平城(へいぜい)天皇の第三皇子で、桓武天皇の孫。平穏な時代なら皇太子から、第52代嵯峨天皇のあとを受けて皇位に就いていたはずだ。ところが、父・平城天皇が寵愛した藤原薬子、そして重用した薬子の兄・藤原仲成の二人が行った、天皇の威を借りての傍若無人な振る舞いと、810年、二人がそれに続く「薬子の変」を起こしたことで、父・平城上皇が失脚、出家。そのため、高岳親王は廃太子となり、この後、彼はイバラの道を歩まざるを得なくなってしまったのだ。

高岳親王はまさに、父・平城上皇と叔父・嵯峨天皇(平城上皇の弟)の権力争いの巻き添えに遭い、人生を狂わせられた悲劇の人物だといえる。子に在原善淵らがおり、子孫は在原氏を称した。だが、彼が無事なら後の在原氏の姿も随分違ったものになったはずだ。在原氏一族の活躍の場が格段に広がっていたろう。在原氏の中では、わずかに知名度の高い在原業平は甥にあたる。高岳親王の生没年は799(延暦18)~865年(貞観7年)。

 高岳親王は822年、四品の位を受け、名誉回復が成されるが、その後、東大寺に入り「真如」という法名を与えられて皇族で最初に出家した親王となった。真如親王は空海に弟子入りして密教を学び、阿闍梨の位を受け、弘法大師の十大弟子の一人となった。

 “苦行親王”と呼ばれるほど、求道心に燃えた真如親王は、60歳のときに密教の奥義を究めようと入唐を朝廷に願い出る。しかし、そのころ遣唐使船は23年前の第17次を最後に派遣されていなかった。そこで、日本へ貿易のためにきていた唐の商人に頼んで便乗させてもらうことにした。真如親王の一行29人は861年、奈良から九州へ向かい、そこで一年間滞在した後、862年、大宰府を出発。順風に乗り、寧波の港に無事着いた。そこから越州に向かい、そこで一年間滞在し864年、唐の長安に到着した。

 当時の唐の長安は100万人の人口を擁する世界一の大都市だ。長安には在留40年の留学僧円載(えんさい)がいて、真如親王を西明寺に迎えた。あの空海が逗留した寺だ。この円載は877年、帰国の途中、乗った船が難破して溺死している。

 真如親王は、空海のように中国で優れた師に会うことができなかった。それでも求道の思い断ち難い真如親王は、海路でインドへ渡った義浄のように商船に乗るために長安で天竺へ渡航する許可を得る。865年、天竺を目指して広州から商船に乗り出発した。しかしその後、真如親王の消息は3人の従者とともに、全く分からなくなってしまった。消息不明になってから16年後に、唐の留学僧から朝廷に手紙が届いた。それによると、真如親王は羅越(らえつ)国で78歳で死去された-とあった。羅越国はマレーシア半島の南端という説が有力で、現在のシンガポール・ジョホール付近にあたる。

(参考資料)笠原英彦「歴代天皇総覧」、永井路子「王朝序曲」

伴善男・・・藤原氏の政治力に敗れ、応天門炎上事件の首謀者として流罪に

 866年(貞観8年)、平安京の応天門が放火・炎上する怪事件が起こった。果たして真犯人は誰だったのか?経緯は後で詳しく述べるとして、この事件の首謀者として紀豊城(きのとよき)ら4人とともに流罪に処せられたのが、ここに取り上げた大納言・伴善男だ。しかし、この事件には真犯人の真偽よりも、「藤原氏北家の隆盛と他氏排斥」という、当時の政情が複雑にからんでおり、簡単には結論付けられない部分があるのだ。この事件後、伴氏は政界から葬り去られたが、伴善男への同情は後に様々な伝説を生んでいる。伴善男の生没年は811(弘仁2)~868年(貞観10年)。

 伴善男は平安時代前期の有能な政治家だった。父大伴(のち伴)国道は参議に昇ってからも陸奥出羽按察使等を兼ねて活躍した能吏だ。その5男に生まれた善男は仁明天皇に信任されて蔵人と弁官を兼ね、848年(承和15年)38歳で参議兼右大弁となり、次いで検非違使別当・式部大輔・中宮大輔・民部卿等も兼ねて歴任。さらに860年(貞観2年)50歳で中納言、864年(貞観6年)には大納言にまで栄進した。出世街道を突き進んだ。

 その間、伴善男は846年(承和13年)、法隆寺の僧善_(ぜんがい)の裁判事件で法理を争い、左大弁正躬王をはじめ同僚の5人の弁官を失脚させた。また、『続日本後紀』の編集(855年)にあたり、民部省の政務運営などにも携わり活躍している。彼の人生はまさに順風満帆だった。

 ところが、藤原氏北家が巧妙に仕掛けた企てに遭い、善男の人生の歯車が狂い出す。866年(貞観8年)大内裏の応天門が炎上、焼失すると、善男はまず、それを左大臣源信の犯行だとして告発した。源信を失脚させようとの目論見からだった。だが、頼みとした太政大臣・藤原良房の裁定で源信は無罪となり、善男は逆に長男、右衛門佐中庸(うえもんのすけ なかつね)に命じて放火させたものだと告訴されてしまう。善男は再三、無実を主張しても認められず、結局死一等を減じて遠流に処された。善男は伊豆、中庸は隠岐、紀豊城は安房、伴秋実(あきざね)は壱岐、伴清繩(きよなわ)は佐渡へそれぞれ流された。そして、その2年後、不幸にも善男は配流先の伊豆で没した。

 伴善男の出世街道はどうして挫折、そして政界から葬り去られなければならなかったのか。その理由の一つは家系にある。彼は当時、時めいていた藤原氏でも源氏でもない。大伴氏だ。伴という姓に変わったのは淳和(じゅんな)天皇の諱(いみな)が大伴だったので、それを憚って改姓させられたのだ。823年(弘仁14年)のことだ。もとはといえば、万葉の歌人、大伴旅人や家持とも同族なのだ。

 大伴氏は悲運を背負った一族だった。まず曽祖父の古麻呂は奈良時代に橘奈良麻呂の叛乱計画に同調したとして捕らえられ、拷問を受けて非業の死を遂げている。祖父の継人は、桓武天皇の長岡京遷都に反対し、これを推進していた藤原種継を暗殺した首謀者として斬刑に処せられている。父はこれに縁坐して佐渡に流されていたが、20年後許されて都に戻り、官吏として遅いスタートを切りながら、参議までたどり着いた努力家だった。それだけに、善男は自分だけは必ず成功者の道を歩んでみせる、との思いだったに違いない。家柄のハンデは逆に彼を勝気にし、学問に人一倍精進させることになった。そして、彼は用意周到に人脈づくりを進めたはずだった。

 だが、藤原氏北家が推し進めていた他氏排斥の“刃”は、躊躇することなく大納言伴善男にも振り向けられ、巧みな人脈も全く力を発揮することなく、伴一族の夢をあっさり砕いた。

 善男については、後に様々な伝説が生まれた。その一つに彼が死後疫病神になったというのがある。ある年、天下の咳病(しわぶきやみ)-咳の病が流行したとき、ある夜一人の下級官人の前に、赤い衣装を着けた気高く恐ろしげな人物が現れ、自分は伴善男で、いま疫病神になっている、と告げ「本来ならたくさんの人が死ぬのだが、自分も朝廷から恩を蒙っているので、咳の病に変えたのだ」と語ったという。政争のあおりを受けて失脚したものが怨霊になる、という考え方が当時あった。この後、悲運の道をたどった菅原道真がその典型だ。こうした伝説は、力なき民衆の形を変えた権力批判ともいえる一面がある。

(参考資料)永井路子「歴史の主役たち-変革期の人間像」、永井路子「悪霊列伝」、北山茂夫「日本の歴史・平安京」、安部龍太郎「血の日本史」、海音寺潮五郎「悪人列伝」

徳川家重・・・障害抱え廃嫡されかけたが、「長子相続」に救われた将軍

 徳川家重は生来、虚弱体質のうえ脳性マヒを患っていたと伝えられている。そうした障害があったため言語が不明瞭で、彼の言葉を理解できるのは、ごく一部の限られた側近だけだったという。そんなコンプレックスからか、彼は幼少から大奥に籠もり勝ちで、酒色に耽って健康を害した。こんな家重とは対照的に、次弟の宗武は文武に長けていたことから、家重は将軍後継には不適格とみられた。事実、一時は廃嫡されかけたこともあった。しかし、徳川の御法「長子相続」に救われ、第九代将軍に就いた。しかし、そのことが彼にとってよかったのかどうか。家重の生没年は1712(正徳元)~1761年(宝暦11年)。

 徳川家重は御三家紀州藩の第五代藩主・吉宗(後の徳川第八代将軍)の長男として赤坂の紀州藩邸で生まれた。母は大久保忠直の娘(お須磨の方・深徳院)。幼名は長福丸(ながとみまる)。父吉宗に正室との間に子がいなかったため、当然のように世子と目された。弟に宗武、宗尹(むねただ)がいた。

 家重は、父吉宗が第八代将軍に就任すると同時に江戸城に入り、1725年(享保10年)に元服する。ところが、家重には決定的な弱味があった。彼は生来、虚弱なうえ脳性マヒを患っていたといわれる。そんな障害のため言語が不明瞭で、ほとんどの人間には彼の言葉は理解できなかった。そこで、彼は大奥に籠もり勝ちで、酒色に耽って健康を害することも少なくなかった。また、彼は猿楽(能)や将棋を好み、文武を怠った。それにひきかえ、次弟の宗武は文武に長け、兄との違いを見せ付けた。家重の言葉を唯一理解できたのは側用人・大岡忠光だ。大岡忠光は越前守・大岡忠相の親戚だったという。

 こうした兄弟の姿を眼の辺りにして、当然のことながら周囲は家重を将軍後継者として不適格と見る向きが多かった。そのため、父吉宗や幕閣を散々、悩ませたとされている。事実、一時は老中、松平乗邑(のりむら)によって廃嫡されかけたこともあったのだ。しかし、彼はまさに徳川の御法に救われた。「長子相続」だ。

徳川幕府の初期、第二代将軍秀忠の在任時、将軍後継に兄・竹千代(後の第三代家光)と弟・国松(後の大納言忠長)がライバルとして比されたことがあった。当時も、素直で聡明さをみせた弟の国松を推す声が、幕閣の中でも優勢だったことがあった。このとき、大御所・徳川家康が天下泰平の時代に入り、これからは「長幼の順」が基本だと明言、将軍後継に兄の竹千代を指名したのだ。これが以後、徳川の御法となった。

家重は1731年(享保16年)、伏見宮邦永親王の娘、比宮(なみのみや)増子を正室に迎えた。家重は21歳、比宮増子は17歳だった。増子は利口な女だった。家重の言語不明瞭を承知で嫁にきただけあって、初めから覚悟が違っていた。彼女が自分以外に家重の言葉を理解してやれる女性はいないのだと思ったとき、彼女はすでに家重の言葉を半ば理解していた。結婚後半年経つともう分からないことは何一つなかった。家重にとって大変な収穫だった。だが、京都から迎えた嫁は健康に恵まれなかった。そして、不幸なことに江戸に来て3年目の1733年(享保18年)、増子は亡くなった。

 吉宗は才気煥発の弟、宗武や宗尹よりも、欠点だらけの家重を不憫にも思い、弟たちよりはるかに愛したようだ。1745年(延享2年)、吉宗は隠居して大御所となり、家重は将軍職を譲られて第九代将軍に就任した。しかし、1751年(宝暦元年)までは吉宗が大御所として実権を握り続けた。長子相続の御法は守りつつも、吉宗はじめ幕閣が家重だけに権限が全面移譲されることに不安を覚えた結果だ。家重が将軍後継に推された理由は既述の通り、長子相続によるのだが、いま一つ指摘されている点がある。それは、家重の長男、家治(後の第十代将軍)が非常に利発だったことがある。

 ところで、将軍職に就いた家重の、“家重排除派”に対する恨みは相当深かったようだ。老中・松平乗邑は罷免、弟の徳川宗武も3年間登城停止処分としたことが、如実にそのことを物語っている。
 1760年、家重は亡くなるが、跡継ぎの家治に父として「田沼意次の能力は高いからぜひ使いなさい」と普通に遺言もしている。田沼意次の人物評については「良・悪」分かれるところだが、脳性マヒを患っていたと伝えられる割には、きちんとした観察眼を持っていたのかも知れない。

(参考資料)新田次郎「口」、山本博文「徳川将軍家の結婚」、津本陽「春風無刀流」、大石慎三郎「吉宗とその時代」

徳川家継・・・新井白石らを後見に、徳川歴代最年少の4歳で将軍職に

 徳川家継は、徳川歴代将軍15人の中で、わずか4歳という最年少で将軍職に就いた人物だ。しかもたった7歳で霊元天皇の皇女・八十宮吉子内親王と婚約もした。これにより江戸時代初めて、将軍家と天皇家の縁組が実現することになった。しかし家継は生来、病弱だったこともあり、風邪を悪化させ、わずか8歳で亡くなった。これにより、幕府としては期待の大きかった、八十宮吉子内親王の降嫁は実現しなかった。家継の生没年は1709(宝永6)~1716年(正徳6年)。

 徳川七代将軍家継は、六代将軍家宣の四男として生まれた。母は側室で浅草唯念寺住職の娘、月光院(お喜代)。幼名は世良田鍋松。父家宣は48歳という徳川歴代将軍の中で最も高齢で将軍に就任したことや、元来体が弱かったこともあって子宝に恵まれず、正室・近衛煕子、側室おこうの方、お須免の方らとの間に生まれた女子・豊姫、男子・家千代、大五郎、虎吉らがことごとく早世するという不幸に遭った。その結果、四男の家継(鍋松)だけが生き残ったのだ。

 ただ、幼少の家継を将軍職に就けることには父家宣もためらい、側用人の間部詮房(まなべあきふさ)、顧問格の新井白石らに、いくつかの遺言を残したといわれる。1712年(正徳2年)のことだ。その主なものが「次期将軍は尾張の徳川吉通にせよ。家継の処遇は吉通に一任せよ」というものと、「家継を将軍にして、吉通を家継の世子として政務を代行せよ」というものだ。これは新井白石が後年、著した『折りたく柴の記』に記されている。

しかし、尾張藩の吉通を迎えることになれば、尾張からやってくる家臣と幕臣との間で争いが起こり、諸大名を巻き込んでの天下騒乱になりかねないと考え、白石らは自分たちがしっかり後見することで家継を将軍職に就けると判断、家宣の遺言を無視する形で“幼少将軍”を断行したのだ。

もちろん、この結論を得るまでには異論も少なくなかった。幕閣では「鍋松君は幼少であり、もし後継ぎなく亡くなられたら、どうするおつもりか」という反対意見もあった。しかし、新井白石は「そのときはそれこそ御三家の吉通公を(将軍に)迎えればよい」と説得したという。

 家継は白石から帝王学を受け、政務全般は側用人の間部らが主導、家継がそのまま追認する形で運営、家宣の遺志を継ぎ「正徳の治」が続行された。家継は聡明で性格的にも穏やかだったようだ。室鳩巣の手紙によると、家継は聡明仁慈で振る舞いも静かで上品だったという。

 この時期、幼少将軍に似つかわしくない話題が幕閣・大奥を賑わしている。真偽のほどは定かではないが、若く美しい未亡人だった家継の生母・月光院と独身の側用人・間部詮房の間にはスキャンダルの噂が絶えなかったのだ。それだけ、将軍の実母の月光院の大奥における権勢が大きくなったことの裏返しとも取れた。これに伴い、一触即発の形勢となったのが大奥の権力闘争だ。先代将軍の家宣の正妻・天英院と、家継の母・月光院の間の激しい対立がそれだ。そのうちの代表的なものが「絵島生島事件」だった。

 こんな生々しいスキャンダルや、醜い権力闘争を横目に、幼少将軍・家継は短い生涯を閉じる。死因は風邪が悪化したためという。享年8。家継の死により、二代将軍秀忠の系統は断絶し、後継の八代将軍に紀州の吉宗が迎えられることになった。吉宗は家継にとっては、はとこ大おじにあたる。

(参考資料)藤沢周平「市塵」、山本博文「徳川将軍家の結婚」、杉本苑子「絵島疑獄」、尾崎秀樹「にっぽん裏返史」

源 実朝・・・母北条政子と北条氏の“操り人形”で、実権のない将軍

 源実朝は鎌倉幕府の第三代征夷大将軍だが、その実態は母北条政子と北条氏の“操り人形”であって、実権の伴わない将軍職を担ったに過ぎなかった。そのため、実朝は政治と関わりの薄い世界、中でも和歌の世界に精力を注ぎ多くの優れた作品を残した。また、京都風の文化と生活を享受することに楽しみを覚え、朝廷に対し官位を望み1218年、武士として初めて右大臣に任ぜられた。だが、不幸にもその翌年、鶴岡八幡宮で兄頼家の子、公暁に襲われ亡くなった。これにより、源氏の将軍は三代で絶えた。

ただ、この事件には謎の部分が多いのだ。公暁をそそのかして実朝を襲わせた首謀者は誰なのか?単刀直入にいえば北条義時の影が垣間見られるのだが…。ただ、もう少し俯瞰でこの事件をみてみると、三浦氏の存在もクローズアップされてくる。実朝の生没年は1192(建久3)~1219年(建保7年)。

 源実朝は頼朝の次男として生まれた。幼名は千幡。別名は将軍家、鎌倉殿、右大臣など。鎌倉幕府の開祖、偉大な父頼朝の健在時は何不自由なく過ごしていたが、1199年(正治元年)父が急死すると、周囲の情勢は一変した。実朝8歳のときのことだ。頼朝亡き後、その主導権をめぐって、重臣梶原景時をはじめ兄頼家の長子一幡、比企能員、さらに畠山一族、和田一族らが、次々と実朝の母政子と、外戚の北条氏の手によって殺戮されていったのだ。

 そんな状況の中で実朝は多感な少年期を過ごした。そして1203年(建仁3年)、第二代将軍・兄頼家が将軍職を失い伊豆国へ追放されると、跡を継ぐ。当時の千幡に朝廷から実朝の名を賜り、征夷大将軍に任ぜられた。実朝12歳のときのことだ。しかし、幕府を支える重臣たちの間では争いが続き、とりわけ北条氏による陰湿な策謀、粛清が繰り返され、政治は北条氏による独裁化へ進みつつあった。そのため、実朝の政治への出番はなく、彼は北条氏の操り人形に過ぎず、実権のない三代将軍を演じることを余儀なくされた。

 そんな実朝が生きがいとしたのが和歌の世界だった。彼は藤原定家に師事し和歌を学んだ。武士団の棟梁であるはずの鎌倉殿が、京都風の文化と生活を享受することに楽しみを覚え、1204年(元久元年)京より坊門信清の娘を正室に迎えたのだ。そんな鎌倉殿をみせられて、関東武士たちの間で失望感が広がっていった。

 こうした状況の中で、実朝暗殺事件は起こった。この事件はこれまで、北条義時の企んだ陰謀と思われてきた。彼の辣腕ぶりをみれば、そうみられるのもやむを得ないことだし、政治・軍事両面をわがものとした義時が、将軍の入れ替えを計画したのではないかと誰しも考えるところだ。ただ、この暗殺事件を企図したのが、北条氏でなくて、ライバル潰しを目的としたものだったと仮定すれば、事件の首謀者は北条氏のライバル=三浦氏一族とも見られるのだ。

その根拠の一つが乳母(めのと)の問題だ。当時実朝の乳母は母政子の妹の阿波局で、実朝を暗殺した甥の公暁の乳母は三浦義村の妻だった。阿波局の背後にはもちろん北条氏がいる。当時の習慣として、養君は乳母一族の「旗」だった。その「旗」があるからこそ、乳母たちは権力を振るえるのであって、「旗」を潰してしまっては元も子もなくなる。また、将軍はあくまでも貴種であって、執権がその座に就くことはできないのだ。

こうした権威と権力の密接なつながりと、超え難い溝がはっきり認識できれば、北条氏が実朝を殺す理由がないことが分かるのではないか。実朝暗殺事件の真相は公暁・三浦氏連合の実朝・北条氏連合に対する挑戦だったとみるのが妥当だ。ただ、このとき公暁側は大きなミスを犯した。目指す実朝は殺したが、義時と思って別人の源仲章を殺してしまったのだ。

(参考資料)永井路子「源頼朝の世界」、永井路子「炎環」、永井路子「はじめは駄馬のごとく ナンバー2の人間学」、安部龍太郎「血の日本史」、司馬遼太郎「街道をゆく26」

源 義経・・・軍事の天才も、兄が目指す武家社会を理解できず敗北

 源義経は周知の通り、天性の戦上手で平家との合戦に連戦連勝し、壇ノ浦に平家を討ち滅ぼし、源氏の中でも最大級の戦功を挙げた。ところが、兄・頼朝の許可を得ずに朝廷より官位を受けたことや、戦上手であるが故に独断専行によって頼朝の怒りを買い、不幸にも頼朝と対立。遂には理不尽にも朝敵とされるに至る。そして、最期は庇護を求めた奥州藤原氏の時の当主・藤原泰衡に攻められ、自刃し果てた。

源氏の、そして武士団の御世をつくるために大きな功績を残しながら、正当な評価を得ることなく、わずか30年の生涯を閉じた義経は、多くの同情を引き、“判官びいき”という言葉まで生まれるほど幅広い世代に人気が高い。また、それゆえに多くの伝説、物語を生んだ。奥州平泉で討たれ、鎌倉に送られた義経の首は本物だったのか?義経は、本当は逃げ延びて大陸に渡ったのではないか?果てはモンゴルへ渡り、ジンギスカンになった、等など。

源平の争乱を制し、新しい時代への扉を開いた源頼朝・義経兄弟。革命家と軍事の天才による、理想的な協同体制は、なぜ兄による弟殺害という悲劇とともに崩壊したのか?何が二人を引き裂いたのか。

 源義経は清和源氏・源為義の流れを汲む源義朝の九男として生まれた。母は常盤御前。鎌倉幕府を開いた兄頼朝の異母弟。幼名は牛若丸、以後、遮那王、義経などに改名。別名は九郎、判官。生没年は1159(平治元)~1189年(文治5年)。
 義経は「平治の乱」で父・源義朝が敗死したことで、幼少の彼は京都・鞍馬寺に預けられる。だが成長して、自分の立場を理解した彼は僧侶になることを拒否。武芸に励み、16歳のとき鞍馬寺を出奔。父義朝が敗死した地で元服。そして奥州平泉へ下り、奥州藤原氏の当主で鎮守府将軍・藤原秀衡に庇護を求めた。ここ平泉で義経は逞しく成長する。

 1180年(治承4年)、兄頼朝が平氏打倒の兵を挙げる(治承・寿永の乱)と、義経は武蔵坊弁慶はじめ側近とともに平泉から馳せ参じ、1185年までの平家との戦いを主導。一ノ谷、屋島、壇ノ浦の合戦を経て平氏を滅ぼし、義経はその最大の功労者となった。

だが、この先が問題だった。義経はその勝利の恩賞として、後白河法皇から従五位下、検非違使左衛門尉(けびいしさえもんのじょう)に任じられたのだ。このとき頼朝の許可を得ることなく官位を受けたことが、取り返しのつかないミスとなったのだ。また、義経は組織の軍事的統率者としては極めて優秀だったから、平家との戦いにおける独断専行も多かった。こうした温床もベースにあって、東国武士団の総大将・頼朝と現地司令官・義経の対立は、決定的なものになっていった。

 そもそも頼朝は平家攻めの出陣にあたって、朝廷に申し入れをしているのだ。恩賞については後に一括申請しますので、個々に対して与えないでください-と。また、頼朝は出陣する東国武士団にも「朝廷から恩賞の沙汰があっても受けてはいけない。まとめて申請してもらってやる」と申し渡している。その際、恩賞は公平でなければならない。その公平な恩賞の“裁定役”が頼朝の役だったのだ。

 義経の無断任官は鎌倉勢の大前提を突き崩す、明らかなルール違反だった。そのため頼朝は激怒した。現実に義経のマネをして、朝廷から官位をもらう抜け駆け組がぞろぞろ出てきた。組織力と団結力を頼みとする東国武士団の中に、明らかに動揺が起こったのだ。

 残念ながら、義経は全くこの点が分かっていなかった。義経は、平家を打倒し親の仇を討った。その結果、朝廷からわが家(源家)の名誉として官位いただいたのだ。何も悪いことはしていない-と思っていた。だから、何を兄・頼朝は怒っているのだと。生い立ちの違いもあって、この対立は宿命的なものだったのだ。弟・義経は、懸命に新しい武士の時代に求められるルールづくりを進めている革命家の兄・頼朝を全く理解していなかった。

 頼朝・義経の対立を喜ぶ、いやもっと積極的に対立を煽るように企んだ人物もいた。後白河法皇だ。権謀家の後白河は頼朝と義経を対立、分裂させる目的で、半ば強引に官位を義経に与えたとみられる。その企みに簡単に義経が乗ってしまったというわけだ。後白河の軍略が功を奏したのだ。この部分だけをみれば、頼朝・義経の対立は兄弟げんかのように映るが、実は政務には全く疎い義経を頼朝が排除したというのが実態なのではないか。そして、冷静な頼朝は、弟・義経の断罪を、自分たちがつくる新しい武士の時代は、ルールを守らなければ、弟さえも排除する、極めて大事なことなのだぞ、という厳しさをみせつける“最大効果”を狙って断行したことなのかも知れない。

(参考資料)永井路子「源頼朝の世界」、永井路子「はじめは駄馬のごとく」、海音寺潮五郎「武将列伝」、司馬遼太郎「義経」、尾崎秀樹「にっぽん裏返史」、安部龍太郎「血の日本史」