酒井忠次 家康の心理をくみ取れず、悲劇を生んだ単細胞男の暗転人生

酒井忠次 家康の心理をくみ取れず、悲劇を生んだ単細胞男の暗転人生

 酒井忠次(さかいただつぐ)は、徳川家で「徳川四天王」といわれた「酒井、榊原、井伊、本多」の一人だ。そして、忠次はその四天王の筆頭に位置づけられていた。だが、彼の忠誠心や誠実心は、他の補佐役を務めた武将たちとは少し異なっていた。そのため、彼の取った行動は問題になり、悲劇を生むもとになった。忠次の生没年は1527(大永7)~1596年(慶長元年)。

 忠次の対応が物議をかもした端的な例を挙げると、豊臣秀吉と徳川家康が対決した「小牧・長久手の戦い」の後、天下を取った秀吉が行った論功行賞というか、徳川家主従に対する気配りへの対応だ。秀吉は、家康はもちろん忠次ほか何人かの勇将にいろいろな贈り物をした。忠次には京都に大きな屋敷を与え、「その屋敷の維持管理費に、近江の国で1000石やろう」といった。さらに、従四位下に叙され、左衛門尉という官位も与えた。

 ところが、他の武将は違った。彼らの中にはいきなりその場で秀吉に「私は徳川家康の部下です。あなたからこんなにいろいろなものをいただくわけにはまいりません」と断った者もいた。あるいは、「主人と相談してまいります」といって、一度秀吉の前から退り、家康にこのことを報告したうえで、改めて秀吉のところに行き、「主人と相談致しましたが、とてもお受けすることはできません。ご好意は、ありがたいと思います」と辞退する者もいた。

 あっけらかんと、くれるものは全部もらってしまったのはこの忠次だけだ。こういう補佐役を見ていて、家康がどんな感じをもったか、想像に難くない。だが、忠次にしてみれば「秀吉様がくださるというものを、もし辞退すれば機嫌が悪くなる。秀吉様の機嫌を悪くするということは、そのまま主人の家康様に対する感じ・印象を悪くするということだ。だから自分は別に欲しいとは思わないが、自分が我慢してもらうことが、家康様への忠義につながるのだ」と考えていたのだ。

忠次の忠誠心や誠実心はあまりにも単純で、トップ=徳川家康の人間研究が甘かったといわざるを得ない。忠次は生涯、ただひたむきに、ひたすら家康に忠誠を尽くし、誠実さを吐露することによって終わってしまった。

 家康は複雑な人間だ。彼は、それほど部下を信じなかった。子供のときから人質になった彼は、ある意味で強い人間不信に固まっていたといっていい。忠次は、人質生活を一緒に送っているにもかかわらず、トップのそうした心理面の研究が足りなかったのだ。

 忠次は徳川氏の前身、松平氏の譜代家臣・酒井忠親の次男として三河国額田郡井田城(現在の岡崎市井田町)で生まれた。幼名は小平次、小五郎。元服後は徳川家康の父、松平広忠に仕え、酒井小五郎、のち左衛門尉と称した。家康(当時は竹千代)が、今川義元への人質として駿府へ赴くとき、家康に従う家臣の中では最高齢者として同行した。

 1560年(永禄3年)、桶狭間の戦いで、その今川義元が織田信長に殺されると、家康は岡崎城に帰った。このころから忠次は家康の補佐役として活躍し始める。1564年(永禄7年)、吉田城攻め、1570年(元亀元年)姉川の戦い、1572年(元亀3年)三方ヶ原の戦い、1575年(元正3年)長篠の戦いなど、彼は家康の合戦には常に先頭に立った。戦場に出たことは数知れない。そして奮戦した。とくに長篠の戦では別働隊を率いて、武田勝頼の背後にあった鳶巣山砦を陥落させ、勝頼の叔父、河窪信実らを討ち取る大功を挙げた。

 こうした功績を挙げた一方で、忠次は取り返しのつかない大きな罪を犯した。忠次は自分の身に降り掛かる火の粉をきれいに払い落とせず、というより、相手の意のままに振り回され、結果として家康の息子、信康と、正室・築山殿を死に追い込んでしまったのだ。

 このあらましは次のようなことだ。桶狭間の戦いに劇的な勝利を収めた織田信長が、その後、勢力を拡大するために家康と同盟した。そのために、信長の娘と家康の息子(信康)との政略結婚が行われた。ところが、信長の娘は一面スパイの性格を持っていたので、信康と築山殿について、「二人は密かに武田に通じて徳川家と織田家を滅ぼそうとしている」などと、父(信長)にいろいろと悪い報告をした。

 この真相については諸説あり、詳らかではない。しかし、いずれにせよ、信長はこれを黙殺しなかった。信長は忠次に対し「申し開きをしに来い」と命じた。だが、実をいえばこれはおかしい。忠次の主人は家康で信長ではない。その家康の配下に対して、信長が直接名指しで、申し開きに来いというのは、越権行為だ。本当なら、忠次は断るべきだった。

 ところが、忠次は信長に命じられた通り、すぐ信長の城に行った。行ってから彼は後悔した。忠次に対する信長の尋問は厳しかった、忠次は驚いた。そして動転した。結局このとき忠次は完全に申し開きできなかったということで、信康は切腹させられ、築山殿も殺された。このことは徳川家に大きな傷跡を残した。忠次を見る周囲の目は険しくなった。“裏切り者”というような眼差しを、しきりに投げつけられることになった。

 忠次は1588年(天正16年)、長男・家次に家督を譲り、隠居した。家康は1590年(天正18年)、関東に入国し、功労のあった家臣団に知行を与えた。四天王のうち三人は、すべて10万石以上与えたが、忠次の息子だけはわずか3万石しか与えられなかった。家康は息子と正室を殺されて以後、その遠因をつくった忠次を許せなかったのだ。家康にとって、忠次は悪役そのものだった。 

(参考資料)童門冬二「男の器量」

河上彦斎 佐久間象山を殺害した、筋金入りの攘夷派の殺し屋

河上彦斎 佐久間象山を殺害した、筋金入りの攘夷派の殺し屋

 河上彦斎(かわかみげんさい)は肥後熊本藩士で、幕末の英才・佐久間象山を殺害したことで知られる、維新史の刺客の中でも屈指の人物だった。幕末・維新の時代に“人斬り”という異名を冠して呼ばれた人物には、概して無学の者が多かった。しかし、河上彦斎は一通りの学問はあった。上手ではないが、漢文を書き、和歌も詠んでいる。したがって、彼の場合、誰かの示唆や指示のもとにターゲットとする人物を殺害した単なる“殺し屋”というより、理論の裏打ちがあるように思える。また、名利の念は全くないのが特徴だ。彦斎の生没年は1834(天保5)~1872年(明治4年)。

 彦斎は、肥後熊本藩士小森貞助、母わかの子として熊本城下神馬借町に生まれた。幼いとき同藩の河上源兵衛の養子となった。諱は玄明(はるあきら)。通称は彦次郎、のち彦斎。16歳のとき、細川家の花畑邸のお掃除坊主となり、後に江戸に勤番して家老付きの坊主となった。彦斎と名乗るのはこのためだ。

 彼は儒学を轟木武兵衛(とどろきぶへい)に学び、兵学を吉田松陰の親友、宮部鼎蔵に学び、国学を林桜園について学んだ。桜園は熊本の学者だ。桜園の原道館の同門に、後に「神風蓮の乱」(1876年)を起こした太田黒伴雄や加屋栄太らがいて親交があった。儒学にも通じていたが、兵学者でもあった。国学についてはとくに精通しており、国粋主義者で、敬神の念が厚かった。

 こんな彦斎が、ペリー来航以来の時勢に心を揺さぶられ、尊王攘夷の思想を持つようになったのは、最も自然なことだった。彼は、いわゆる“肥後もっこす”的性格だったから、その思想は牢固たる信念になって、終生決して動かないのだ。このことが、後の彼の運命を決めることになるのだが…。

 文久元年、藩主の名代として上京した長岡護美に随行。このとき随従員として彦斎とともに上京したメンバーに肥後勤王党の轟武兵衛(儒学者)、宮部鼎蔵らがいた。彦斎はそれまでの国老付坊主という職を免ぜられて蓄髪を許された。その後、彦斎は滞京して、熊本藩選抜の親兵になった。

 文久3年、30歳のとき、彦斎は熊本藩親兵選抜で宮部鼎蔵らと同格の幹部に推された。環境が異なれば、この後、宮部鼎蔵らに近い生き方をしてもおかしくなかったのだ。ところが、彼はこの後、密かに“人斬り”としてその惨劇を演じることになる。

 元治元年(1864年)7月11日、愛馬に跨った松代藩士・佐久間象山が従者2人、馬丁2人を従えて京都・三条通木屋町を通りかかったとき、通行人に紛れていた刺客2名が飛び出し、馬上の象山に斬りかかった。しかし、この一刀は象山が馬上にあったため、傷は浅かった。ただ、この後、象山には不運な偶然が重なった。この急襲を受けて象山は馬腹を蹴って、この場を逃れようとした。

ところが、馬丁の1人が刺客に気付かず、馬が狂奔したのだとみて、大手を広げて前に立ちふさがったのだ。このために馬が棒立ちになったところを、追いすがる刺客の1人が、躍り上がって斬りつけてきた。たまらず象山は鞍上から、もんどり打って地に落ちた。さらに刺客は隙を与えず、一、二刀あびせると、混乱する場に紛れ、姿を消した。白昼の凶行だった。

この刺客こそ、彦斎だった。手馴れたものだった。ただ急襲されたにせよ、馬丁が事の成り行きをつぶさに見ていたなら、象山は最初のひと太刀だけで、浅い傷を負っただけで逃れていただろう。しかし、こうして不幸にも幕末、一貫して開国論を唱え続け、吉田松陰らに影響を与えた天才、佐久間象山は暗殺されてしまった。

彦斎はこの後、藩の仲間と別れ長州軍に身を投じる。象山暗殺後の8日後の7月19日、「八月十八日の政変」(1863年)で京都を追放された長州藩が、巻き返しを企図して起こした「禁門の変」(1864年)で、彦斎は長州家老の国司信濃隊に入って戦っている。しかし、圧倒的兵力差の前に敗れ去った長州軍はバラバラに撤退。彦斎も国司信濃と別れ、しばらく鳥取藩邸に身を隠している。

第二次征長戦(四境戦争)では、彦斎は芸州口、石州口を守り戦っている。が、幕府軍で肥後熊本藩が、小倉で長州軍と対峙したと聞き、怒り、悲しみ、思い悩んだ。そして、桂小五郎や高杉晋作らが猛反対する中、長州軍を抜け、一人熊本へ帰っていった。時勢に気付いていない藩首脳たちを説得するためだった。

 慶応2年(1866年)2月、彦斎は熊本へ帰ったところを脱藩罪で捕らえられ、投獄された。説得どころか、佐幕派の藩首脳には全く聞き入れられなかった。しかし、彦斎が投獄されていた一年の間に大政奉還、戊辰戦争があり、幕府側は朝敵となった。そのため明治2年(1869年)2月には投獄されていた勤王派志士たちとともに釈放され、藩の役員に取り立てられた。彦斎は外交係に任命され、まもなく名を高田(こうだ)源兵衛と改め、肥後熊本藩の藩命を受けて東北地方へ遊説に出かけている。こうして、名うての人斬りも時代に迎合して…といいたいところだが、彦斎の場合、筋金入りの攘夷家で、維新後の明治政府の開化政策にも順応することができなかった。そして、遂に政府転覆を企てたかどで、明治4年(1871年)12月4日、38歳で断首された。

 彦斎の容姿は身長5尺前後(150cm程度)と小柄で色白だったため、一見女性のようだったという。剣は、伯香流居合を修行したという説もあるが、我流で片手抜刀の達人だったと伝えられている。また、“人斬り”の異名を持ちながら、彦斎が斬ったとはっきり分かっているのは佐久間象山だけで、あとは定かではない。 

(参考資料)海音寺潮五郎「幕末動乱の男たち 河上彦斎」、平尾道雄「維新暗殺秘録」、奈良本辰也・綱淵謙錠「日本史探訪⑲開国か攘夷か 和魂洋才、開国論の兵学者 佐久間象山」、司馬遼太郎「司馬遼太郎が考えたこと 4」

 

 

 

 

 

 

井上 馨 西郷に“三井の大番頭”といわれた“貪官汚吏”の権化

井上 馨 西郷に“三井の大番頭”といわれた“貪官汚吏”の権化
 井上馨(いのうえかおる)は、薩長藩閥の恩恵もあって明治維新政府の大官になったが、明治初頭の尾去沢銅山事件、藤田組の贋札事件など、彼にかかっている疑惑の雲は容易に拭い去ることができないものだ。それだけに、彼がやらかした公私混同も甚だしい、その行為は“貪官汚吏(たんかんおり)”の権化とされた。井上馨の生没年は1836(天保6)~1915年(大正4年)。
 井上馨は萩藩の郷士、100石取りの井上五郎三郎光享(みつゆき)の次男として生まれ、後に250石取りの志道慎平(しじしんぺい)の養子になった。幼名は勇吉、通称を1860年(万延元年)、長州藩主・毛利敬親から賜った名前、聞多(もんた)で呼ばれた。諱は惟精(これきよ)。
 井上馨が三井財閥や長州系の政商と密接に関わり、賄賂と利権で私腹を肥やしたダーティーなイメージの強い人物であることは間違いない。一時は実業界にあっただけに、三井財閥においては最高顧問になるなど密接に関係しているだけに、否定のしようがないわけだ。こうしたあり方を快く思わなかった西郷隆盛からは、井上は政府高官ながら“三井の大番頭”ともいわれたほどだ。
 井上は明治維新後、官界に入り、主に財政に力を入れた。だが、1873年(明治6年)、司法卿・江藤新平に予算問題や尾去沢銅山の汚職事件を追及され辞職。その悪質さは目に余るものだったのだ。司馬遼太郎氏によると、明治の汚職事件は常に井上馨が中心だった。彼は公の持ち物と自分の持ち物が分からない、天性汚職の人だった-と司馬氏が記しているほど。
ところが、懲りないというか、明治の元勲たちにもあった“互助”意識とでも表現すべきものが存在したわけだ。井上は一時は三井組を背景に、先収会社を設立するなどして実業界に身を置いたが、伊藤博文の強い要請のもと復帰。様々な要職を歴任、鹿鳴館を建設、不平等条約の改正交渉にもあたっているが、汚職・不正疑惑の噂が常につきまとう、“貪官汚吏”の権化とされる人物だった。
 こんな井上だが、初めから悪人、いや悪役だったわけではない。彼は幕末期の長州藩の若い志士たちの間で支配的だった尊皇攘夷派に属し、1862年(文久2年)、高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤博文らとともに、品川御殿山のイギリス公使館の焼き討ち事件にも参加している。
1863年(文久3年)、井上は伊藤博文、野村弥吉、山尾庸三、遠藤謹助らとロンドンに密航するため、英国船の石炭庫に隠れて横浜を出港した。イギリスでの留学中、攘夷騒ぎ、外国船砲撃のことを英国新聞で知って、井上と伊藤は半年で帰国したが、それでも英語力はかなりついていたらしい。この1年半後、坂本龍馬や中岡慎太郎が仲介、奔走して成立した「薩長同盟」の成果として、薩摩藩名義で「亀山社中」が購入窓口となった武器買い付けの際、井上と伊藤らは亀山社中のメンバーとともに長崎の武器商人、トーマス・グラバーを訪ね、ゲベール銃の購入契約を結んでいるのだ。
 この武器購入には、二つの歴史的意義があった。一つは「蛤御門の変」以来、犬猿の仲となっていた両藩が歩み寄り、幕府への強力な対抗勢力となったからだ。いま一つは、この新式武装によって長州軍は面目一新し、幕府の征討軍を武力打倒できる軍備を備えることになったからだ。
 幕末期の井上には、少なくとも“悪役”イメージはない。また、維新後の太政官制時代に外務卿、参議となり、黒田内閣で農商務大臣、第二次伊藤内閣で内務大臣、第三次伊藤内閣で大蔵大臣など数々の要職を歴任している。
では、どうして彼のダーティーな、疑惑の雲が生まれたのか。当時の長州藩の情勢が、その気風を養成した点も大いにあった。長州藩主・毛利慶親(よしちか)も、世子の元徳(もとのり)も賢いという人物ではなく、普通の殿様だった。家老にもまた、たいした人物はいなかった。馬関戦争の後始末ができず、当時座敷牢に入れられていた高杉晋作を、大急ぎで引っ張り出して事にあたらせたことをみても、それは明らかだ。こんな藩のありさまでは気力、気概にあふれた若い連中の活発な動きなど統制できるはずはなかった。統制どころか、その連中に鼻面を取って引きずり回されるありさまだった。
 この時代の長州の若い志士たちは、何とか名目をつけては藩から金を引き出しては、品川の遊郭・土蔵相模その他で遊興しているが、それはこの表れの一つだ。こんなとき藩の重役たちに談じ込んで金を引き出す役目にあたったのが井上だったのだ。維新政府ができたとき、井上が大蔵大輔に任命されて、維新政府の財政の局にあたったのは、幕末、長州藩内におけるこの因縁に違いない。維新草創期の大らかさともいえるが、近代日本・再生のスタートの時期だっただけに、「適材適所の人員配置」という物差しでみると、時代遅れで見当違いも甚だしい。

(参考資料)司馬遼太郎「歳月」、司馬遼太郎「世に棲む日日」、司馬遼太郎「この国のかたち 六」、童門冬二「伊藤博文」、三好徹「高杉晋作」、奈良本辰也「不惜身命 如何に死すべきか」、小島直記「人材水脈」、小島直記「福沢山脈」、海音寺潮五郎「乱世の英雄」

足利義政・・・応仁の乱で都を荒廃させ、浪費に明け暮れた政治家失格者

 日本史において15世紀後半は「暗黒の時代」といわれている。足利幕府の統治力が緩み、管領はじめ有力大名の内輪もめを抑えるどころか、家督争いのゴタゴタは将軍家にまで波及し、それがエスカレートした結果、遂に10年余にわたる「応仁の乱」が勃発。都は荒れ果て、一揆・暴動が洛中洛外に蜂起して、さながら無政府状態に似た状況となった。それにもかかわらず、総責任を負う立場にある将軍足利義政は、浪費に明け暮れる政治家失格者で、幕僚・側近に人材なく、幕府の威令はいよいよその重みを失って、戦国乱世の様相へのめり込んでいった。すべて“無責任”将軍義政が招いたものだ。確かに義政の政治に対する無策・無関心には目を覆うものがあるが、そんな気質を育んだ環境にも原因はあったようだ…。足利義政の生没年は1436(永享8)~1490年(延徳2年)。

 足利義政は、六代将軍・足利義教の子として生まれた。とはいえ、すでに兄に二歳年長の義勝がいたから、義政の立場は暢気なものだった。足利宗家では嫡流の惣領以外は、男女を問わず子供は門跡寺院などに入室させて、僧尼にさせてしまう慣例があり、義政の場合もそんなレールが敷かれていたはずだった。 
 
ところが、運命は彼の人生コースを大きく変えた。彼が6歳の時、父の義教が赤松満祐に暗殺されたのだ。「嘉吉の乱」だ。青蓮院門跡から還俗して将軍位に就いた義教が幕府権威の伸張を急ぐあまり苛烈な独裁政治を断行した反動だった。その赤松一族は誅滅させられ、七代将軍の位は義勝が継いで、乱の収拾もついたかにみえた2年目だった。今度は少年将軍義勝が病気であっけなく亡くなってしまったのだ。本来なら仏門に入っておとなしくのんびりと、好きな庭造りや香・華・能など遊びの道を楽しみつつ一生を終わるべく運命付けられていた次男坊の義政が、幸か不幸か8歳の若さで八代将軍の座に座らされ、いやおうなく歴史の表面に引きずり出されることになったのだ。

 将軍義政に対する閣僚・諸大名らの目は、二代続いての不幸に懲りて、将軍は幕威をシンボライズする旗であればそれで足りる。適当に骨を抜いておいた方が牛耳り易い。変に政務に欲など出してくださるなと、幼少の義政に“無能”教育を施したきらいがあるのだ。それにしては、青年期の義政は頑張った。側近・重臣の思惑通りに操られる傀儡ばかりで過ごしたわけではない。

 そんな義政も後半生は最高権力者としての責任を放棄、何もしない無責任で怠惰そのものの、優柔不断で自堕落な将軍に成り下がっている。そして、妻の日野富子には全く相談もせずに、義政は自分の弟で出家して義尋(ぎじん)と名乗っていた僧を口説いて、自分の後継者にしようとしたのだ。このとき義政はまだ30歳そこそこだ。妻の富子は25歳で当時としては若くはないが、まだまだ子供を産める年齢だ。側室をもうければ男の子が生まれないとは限らない。むしろこれから生まれる可能性の方が高い。それなのに、なぜ義政は引退など考えたのか?趣味に生きたい義政は、将軍の座を引退することによって、面倒な儀式や将軍として最低限果たさなければならない義務を放棄し、その代わり大御所として気ままに生きようと考えたのだ。

 義政に今後男の子が生まれても、それは出家させ決して跡継ぎにしない、という条件を義政が確約したため、当初、兄義政の申し出を断っていた義尋は、結局その申し出を受けた。還俗して義視と名乗り屋敷を京の今出川に構えた。

 ところが1年後、妻富子が男の子を出産したため、義政の軽率な決定が大きな問題となってしまった。富子は何が何でも自分の腹を痛めた子を将軍にしたい。そこで、彼女は気の弱い亭主の義政を何度も攻め立てたというわけだ。義政も弟よりは自分の子供の方を将軍にしたいと思ったに違いないが、自分が楽隠居するために、弟を無理矢理、還俗させ養子にしたという負い目があった。そう簡単に約束事をほごにできない。結局、義政は将軍を辞めるに辞められなくなった。

 こうして義政の、政治などしたくないというわがままと、富子の自分の子を何が何でも将軍にするというわがままが、10年余の長きにわたり国内を二分する、日本未曾有の大乱「応仁の乱」の種を蒔いたのだ。全く人騒がせな夫婦だが、それにしてもその大元の責任はやはり義政の優柔不断で、軽率な行動にあった。引退するなら、それに伴うルールと約束をきちんと守る覚悟が必要なのだ。

(参考資料)井沢元彦「逆説の日本史・中世混沌編」、杉本苑子「決断のとき」、司馬遼太郎・ドナルド・キーン対談「日本人と日本文化」

足利義満・・・大胆不敵な皇位簒奪計画が成就する直前、急死した将軍

 室町幕府の第三代将軍・足利義満は皇位簒奪を計画していたといわれる。その計画が成就する直前、義満は急死。その空前の恥ずべき所業は後世に残ることはなかったが、その大胆不敵とも思われる計画の証拠のいくつかを今日、私たちは目にすることができる。義満の生没年はユリウス暦1358(延文3)~1408年(応永15年)。

義満の幼名は春王、のち義満、道有、道義。封号は日本国王、諡号は鹿苑院太上天皇。父は第二代将軍・足利義詮(よしあきら)で、母は紀良子。正室は大納言日野時光の娘、日野業子。またその後、業子の姪、日野康子が2番目の正室となった。義満が邸宅を北小路室町へ移したことにより、義満は「室町殿」とも呼ばれた。後に足利将軍を指す呼称となり、政庁を兼ねた将軍邸は後に歴史用語として「室町幕府」と呼ばれることになった。

父の第二代将軍・足利義詮が38歳で思い半ばで病没。1368年(応安元年)、義満は征夷大将軍に任じられた。わずか11歳の将軍に、さしあたり何もできるはずはない。乱世の余燼さめやらぬそのころ、一つ間違えば天下の大乱が起こりかねない情勢だったにもかかわらず、何事もなく推移したのは父が残していってくれた補佐役・細川頼之のお陰だ。政務のすべてをこの細川頼之に任せていた義満が、初めて書類に花押を据えたのは15歳のときのことだ。

この時期から目立つのが義満の官位の昇進だ。義満の邸宅「室町殿」が落成、彼は後円融天皇を招いて大掛かりな宴を催した。この後、彼は内大臣に、そして25歳になったときは左大臣に任じられているのだ。三代目将軍が公家になって出世するというパターンは鎌倉幕府の源実朝と似ているが、その意味は全く違う。実朝の場合は、朝廷からの“お恵み”によって与えられた称号だった。右大臣になったからといって、実朝はその下にいる大納言以下ににらみを利かせることはできなかった。

だが、義満の場合は正真正銘の実力者として、彼は公家社会に割り込み、まもなく公家の叙位・任官へも大きな発言力を持つようになったのだ。公家社会はいまや完全に義満に制覇されて、その下風に立つことになった。これは鎌倉時代にはなかったことだ。義満による公家社会の制覇といっていい。
こうして権力者・義満は、次は強大な権威の象徴=天皇をも膝下に置くことを目指す。皇位簒奪計画がそれだ。皇位簒奪とは義満自らが天皇に即位するわけではなく、治天の君(実権を持つ天皇家の家長)となって、王権(天皇の権力)を簒奪することを意味している。義満は寵愛していた次男・義嗣を天皇にして自らは天皇の父親として天皇家を吸収しようとしたのだ。

 義満は1406年(応永13年)、2番目の妻康子を後小松天皇の准母(天皇の母扱い)とし女院にしたり、公家衆の妻を自分に差し出させたりしていた。また、祭祀権・叙任権(人事権)などの諸権力を天皇家から接収し、義満の参内や寺社への参詣にあたっては、上皇と同様の礼遇が取られた。1408年(応永15年)3月に後小松天皇が北山第へ行幸したが、この際、義満の座る畳には天皇や院の座る畳にしか用いられない繧繝縁(うんげんべり)が用いられた。4月には宮中において、次男・義嗣の元服を親王に准じた形式で行った。これらは義満が皇位の簒奪を企てていたためで、義嗣の践祚が近づいていることは公然の秘密だった。これより少し前のことになるが、1402年(応永9年)の明による日本国王冊封も、当時の明の外圧を利用しての義満の簒奪計画の一環と推測される。

 ところが、皇位簒奪のゴール直前、義嗣元服のわずか3日後、義満は急病を発して死の床につく。こうして空前の簒奪劇は未遂に終わったのだ。あっけない幕切れだった。義満の死因には多くの様々な謎がある。海音寺潮五郎氏や井沢元彦氏らは暗殺されたとの見方をしている。

 義満の死後、朝廷から「鹿苑院太上法皇」の称号を贈られるが、四代将軍となった子の義持は、斯波義将らの反対もあり辞退している。義満の法名は鹿苑院天山道義。遺骨は相国寺鹿苑院に葬られた。そして相国寺には「鹿苑院太上天皇」と記された過去帳が残っており、以後、相国寺は足利歴代将軍の位牌を祀る牌所となった。

(参考資料)井沢元彦「逆説の日本史」、井沢元彦「天皇になろうとした将軍」、今谷明「武家と天皇-王権をめぐる相剋」、永井路子「歴史の主役たち-変革期の人間像」、海音寺潮五郎「悪人列伝」

井伊直弼・・・ 視点は幕府のみで、日本の将来見据える視点に欠けた超保守派

 井伊直弼といえば「安政の大獄」で、吉田松陰、橋本左内、頼三樹三郎など将来日本の様々な分野で名を成したであろう、多くの有為の人材を罪に陥れ、処断した“極めつきの悪役”というイメージが強い。だが、果たして彼は本当に根っからの悪人だったのか?

 井伊直弼は近江彦根藩第十一代藩主井伊直中の十四男。幼名は鉄之助、鉄三郎。字は応卿、号は埋木舎・柳王舎・宗観。本来なら他家に養子にいく身だったが、庶子だったため養子の口もなく17~32歳までの15年間を300俵の捨扶持の部屋住みとして過ごした。1846年(弘化3年)、第14代藩主で兄の直亮の世子だった井伊直元(直中の十一男、これも兄にあたる)が死去したため、兄の養子という形で彦根藩の後継者に決定した。1850年(嘉永3年)直亮の死去により家督を継いで第15代藩主となり掃部守(かもんのかみ)に遷任する。

 直弼は1858年(安政5年)、幕府の大老に就任すると、孝明天皇の勅許なしで米国と日米修好通商条約を調印し、無断調印の責任を配下の堀田正睦、松平忠固に着せ、両名を閣外へ放遂した。また、違勅調印を断行した直弼らの責任を問うため、大挙して江戸城に登城した越前藩主松平慶永、水戸藩前藩主徳川斉昭、水戸藩主徳川慶篤、尾張藩主徳川慶勝、一橋慶喜らを、逆に大弾圧に乗り出した。いわゆる「安政の大獄」の始まりだ。弾圧の嵐は止まるところを知らず、反井伊派の公家、幕臣、藩士らに及んだ。吉田松陰、橋本左内、頼三樹三郎らは死罪、近衛忠煕は辞官に、公卿だけでも90数人を処罰した。

また、十三代将軍家定の後継問題では、直弼は紀州藩主の慶福(よしとみ)を擁立し、第十四代将軍家茂を誕生させたが、対立した一橋派の徳川斉昭、松平慶永、徳川慶勝、一橋慶喜、宇和島藩主伊達宗城、土佐藩主山内豊信らを、違勅調印を唱えたことをからめて永蟄居や隠居などに処罰した。このほか川路聖謨、水野忠徳、岩瀬忠震、永井尚志らの有能な吏僚らを左遷した。

 通商条約の違勅調印に続く安政の大獄は、尊皇攘夷派の反発、憤激を呼び1860年、大老井伊直弼は桜田門外で脱藩した水戸浪士ら総勢18人による襲撃で暗殺された。この日、3月3日朝、夜通しの雪が降りしきっていた。そのため、井伊家の120人余の供方は、いずれも菅笠に桐油合羽(とうゆかっぱ)といういでたちで、刀には柄袋をかけていた。不意の事件で、身支度も整わず斬られた者も多い。
井伊家の届け出には、井伊大老は負傷ということにして、子・愛麿が家督を相続し三十九代掃部頭直憲となった後、病死として処理された。ありのままに発表すれば、井伊家改易は幕府従来の規律だからだ。この「桜田門外の変」を境に、幕府の権威はかげりを帯びるようになる。この事件は白昼、お膝元、江戸城の間近で幕府最高の権力者が惨殺されたものだっただけに、世間に大きなショックを与えた。

 幕閣でこれだけの強権・独裁・恐怖政治を断行した井伊直弼だが、これは、あくまでも大老という職責を担う公人として、“徳川幕府の威信”を守るためにやったことだった。だが、この時代、求められていたのはもう少し俯瞰で、日本の将来にとってどうあるべきかを考え、行動できる人物だったのだろう。ところが、現実に幕閣を担った井伊直弼は、そうした視点に欠けた、超保守的な人物だったのではないだろうか。

 井伊直弼は、彦根藩主時代は藩政改革を行い名君と呼ばれた。彼は部屋住み時代、長野主膳と師弟関係を結んで国学を学び、自らを咲くことのない埋もれ木にたとえて「埋木舎(うもれぎのや)」と名付けた住まいで世捨て人のように暮らした。この頃、熱心に茶道(石州流)を学んでおり、茶人として大成する。そのほかにも和歌や鼓、禅、槍術、居合術を学ぶなど聡明さを早くから示していた。したがって、彼は幕末・安政年間、幕閣に大老として登場して、その時代の幕府側にとって求められた“役割”を粛々と実践したに過ぎないのかも知れない。それだけに忌まわしい「安政の大獄」「桜田門外の変」に直結した井伊直弼の極端な“悪役”イメージを、彼自身はちょっと心外に思っているのかも知れない。

(参考資料)吉村昭「桜田門外の変」、松本清張・奈良本辰也「日本史探訪/開国か攘夷か」、奈良本辰也「不惜身命 如何に死すべきか」、奈良本辰也「歴史に学ぶ」、立原正秋「雪の朝」、平尾道雄「維新暗殺秘録」、白石一郎「江戸人物伝」