玉松 操・・・王政復古の勅を起草、「錦旗」をデザインした岩倉具視の謀臣

 玉松操(たままつみさお)は幕末・明治維新期の国学者・勤皇家で、岩倉具視の謀臣として王政復古の勅を起草したことで有名だ。本名は山本真弘(まなひろ)。参議侍従、山本公弘の次男。京都生まれ。生没年は1810(文化7年)~1872年(明治5年)。

 8歳のとき京都・醍醐寺無量院において出家得度し、法名を猶海とした。修行・精進の末、大僧都法印に至る。だが寺中の綱紀粛正を強く主張するなど、僧律改革を唱えたため、反発を買い、30歳で下山。還俗して山本毅軒(きけん)と号し、のち玉松操と改めた。京都で国学者、大国隆正に師事し国学を学んだが、やがて師と対立して泉州に下り、さらに近江に隠棲。のち和泉や近江坂本で私塾を開いた。

 1867年(慶応3年)、門人、三上兵部(みかみひょうぶ)の紹介で、蟄居中の岩倉具視の知遇を受け、その腹心となった。以後、王政復古の計画に参画するなど幕末維新期の岩倉具視と常に行動をともにし、その活動を学殖・文才によって助けた。とりわけ有名なのは、小御所会議の席上示された王政復古の勅を起草したことだ。さらに、玉松は早晩、幕府との交戦があることを予想し、官軍の士気を鼓舞するための「錦旗」のデザインを考案するなど、官軍勝利に貢献した。

 日本の歴史にとって実に奇妙な日がある。1867年(慶応3年)10月13日と14日に全く矛盾する朝廷の勅命が出されているのだ。10月13日には薩摩藩に対して討幕の密勅が出され、同時に長州藩に対して、失われていた藩主の官位を復旧する宣旨が出されている。そして翌14日には長州藩に討幕の密勅が下された。

ところが、この14日には徳川十五代将軍慶喜が提出した「大政奉還」の願いが上表されている。翌日許可された。討幕の密勅というのは、その徳川慶喜を賊と見做し、これを討てという天皇の密命だ。討幕の密勅と大政奉還許可は、朝廷の行為としては全く矛盾する。なぜこんなことが行われたのだろうか?

 実はこの討幕の密勅、玉松操の画策だった。討幕の密勅には・天皇の直筆ではない・副書している中山忠能、中御門経之、正親町三条実愛の3人の公家の花押がない・3人の公家の署名が、すべて同一人の筆ではないか思われる-などから、従来から偽書だという説が強かったのだ。この画策=密勅こそ不発に終わったが、玉松操は討幕へ向けて次々と手を打ち出していく。

 玉松操はたとえ多少の血を流しても、徳川幕府は徹底的に武力で叩き潰さなければならないと考えていた。それだけに玉松にとって、大政奉還の起案者だった坂本龍馬が暗殺され、邪魔者が失くなった感があった。そのため、その後の玉松の行動に弾みがついた。錦の御旗をデザインし、岩倉具視が蟄居していた岩倉村の家に、薩摩藩の大久保一蔵(後の利通)とともに出入りしていた長州藩の品川弥二郎に「宮さん 宮さん…」の軍歌を作詞させ、その歌詞に品川が祇園で馴染みの芸者に節をつけたといわれる。すると、今度は一室にこもって、王政復古の詔勅づくりに取り組み始めた。岩倉を京都朝廷に推しだすためだ。

有名な小御所会議は慶応3年12月9日に開かれた。この日、天皇の命によって、今までの謹慎を解かれた岩倉具視は、自分が主宰する形で小御所会議を招集した。大政を奉還した徳川慶喜の官位と領地を剥奪するという内容を伴う「王政復古の大号令」を出すためだった。会議は騒然となった。だが、西郷隆盛や大久保一蔵らから、文句をいうものがいれば誰にしろ…、と武力行使をほのめかされていた岩倉のすさまじい“熱”が会議を主導、慶喜の官位剥奪、領地没収が決まった。やがて、この決定に憤慨した旧幕臣たちが、鳥羽伏見戦争を起こす。薩長軍は応戦、このとき翻ったのが、玉松操がデザインした錦の御旗だ。この旗によって薩長軍は官軍に変わった。天皇の親兵になった。そして新政府が樹立された。

 王政復古の後は、内国事務局権判事となり、矢野玄道(はるみち)、平田銕胤(てつたね)らと組んで、大学官(皇学所)、大学寮(漢学所)を皇学所への一本化や尊内卑外政策の実施を求めるなど、極めて保守的な立場に立ち、徐々に岩倉らとの距離を深めた。1870年(明治3年)、東京で大学中博士兼侍読(じどく)に任ぜられたものの、新政府の欧化政策に基づいた文教政策を批判して、1871年(明治4年)、官職を辞し京都に帰って隠棲したが、翌年病没した。

(参考資料)童門冬二「江戸の怪人たち」、司馬遼太郎「加茂の水」

徳川家斉・・・17人の妻妾を持ち53人の子をもうけた子持ちNo.1将軍

徳川第十一代将軍家斉は、50年もの長期にわたって将軍職にあった異例の将軍で、生涯に特定されるだけで17人の妻妾を持ち、男子26人、女子27人の子をもうけた歴代将軍の中では、いや歴史上日本人の“子持ち”No.1の記録男だ。複数の女性を妻に迎えることは、例えば平安時代でも宮廷の高位を占める高級貴族の間では珍しいことではなかった。しかし、これだけ多くの妻となると、稀有なことと言わざるを得ない。また相当傑出した、強靭な体力がなければできることではない。こうしてもうけられた、これら子供たちの膨大な養育費が、逼迫していた幕府の財政をさらに圧迫することになり、やがて幕府財政は破綻へ向かうことになった。“お騒がせ”いや“オットセイ”将軍、家斉の生没年は1773(安永2)~1841年(天保12年)。

徳川家斉は、第二代一橋家当主・治済(はるさだ)の子として生まれた。幼名は豊千代、後に家斉。だが、第十代将軍家治の世嗣・家基が急死したため、父と老中首座にあった田沼意次の裏工作、そして家治にほかに男子がいなかったこともあって、幸運にも家治の養子になり、江戸城西の丸に入って家斉と称した。そして、家治が1786年(天明6年)、50歳で急死したため、1787年(天明7年)、家斉は15歳で第十一代将軍に就いた。以後、50年もの長きにわたって将軍の座にあって、65歳で将軍職を家慶(第十二代)に譲ってからも、「大御所」として幕政の実権は握り続けた。

官位も太政大臣に上った。生前に太政大臣に上ったのは、徳川家の将軍では初代家康、二代秀忠以来のことだ。位人臣を極めたというべきか。体も丈夫だった。冬でも小袖二枚と肌着のほかは着たことがなく、こたつにもあたらず、手あぶりだけで済ませた。現代のように冷暖房完備とはいかない江戸城の中で、この薄着でいられたのは、よほど体の芯が丈夫だったのだろう。

家斉は将軍職に就いた年に第一子、淑姫(ひでひめ)をもうけ、54歳のときの最後の子、泰姫(やすひめ)まで、約40年間に53人の子供をもうけたのだ。これらの子の縁組先は6人が御三家、4人が御三卿、7人が家門(越前家諸家・会津松平家などの徳川家一門)など、計19人までが徳川家の近い親類に縁付いている。それらを除いた7人が外様大名に縁付いているが、2人が養子、5人が娘(姫)だ。これら家斉の子供のため、徳川家一門は御三家筆頭の尾張徳川家を始めとして、家斉の血縁の者が跡を継ぐケースが頻出し、幕末の大名家当主は多くが家斉の血縁の者になった。

家斉には17人の特定される妻妾以外にも妾がいたとも伝えられ、一説では40人ともいわれる。とはいえ、これらの側室が常時、彼のハーレムに侍っていたわけではない。周知の通り、徳川時代には大奥制度が厳然としてあり、加えてこれらの側室たちも30歳になると、「お褥(しとね)お断り」といって、その座を降りるしきたりになっていた。

それにしても、この側室の多さはマイナスでしかなかった。大奥の費用はかさみ幕府財政は極度に悪化したのだ。

(参考資料)山本博文「徳川将軍家の結婚」、永井路子「続 悪霊列伝」、「にっぽん亭主五十人史」、南条範夫「夢幻の如く」

天海・・・江戸城の場所選び、「東照大権現」を主張し権力を誇示した怪僧

 徳川幕府に仕えた天海の活躍ぶりには目を見張るものがあったという。江戸城の築城にあたり、風水術に長けていた天海が運気の強い場所を選び、東に東海道、西に隅田川や荒川、北に武蔵野台地、南に東京湾という、その好立地を決定したといわれている。また、家康を神として祀る聖なる地、日光東照宮を建てたのも天海だ。実は家康の神号、「東照大権現」も金地院崇伝、神龍院凡舜らと大論争の末、天海が主張したもので、権力の強さをみせつけている。

 人物伝によると、天海は江戸前期の天台宗の僧で、14歳のときから諸国名山霊区を遍歴。1608年(慶長13年)、65歳前後で徳川家康に招かれ駿府に赴き、帰依を受けて日光山を主宰、三代将軍家光まで幕府の信頼を受けたとされている。実はこの天海、家康に招かれたときから突如、歴史の表舞台に登場するのだ。不思議なことに、それ以前の足取りは一切掴めていない。生年月日や誕生地も不明だ。したがって、死亡年齢は108歳、110歳、111歳、さらには135歳と様々に推測されている。

 東照宮は現在およそ300社あるが、江戸時代には倍近くの555社もあった。日光の東照宮から地方の東照宮へ社僧が派遣されていたという事実もあり、天海は日光を拠点に東照宮のネットワーク化を図り、宗教界に君臨しようとしていたのではないかとみられた。

 そして近年、天海=明智光秀ではないかとの説が浮上し、注目を浴びている。光秀も天海と同様、いつ生まれたのか定かではない。文献によりまちまちで、「生年不詳」「享禄元年(1528年)」「大永6年(1526年)」などの説がある。出身地も岐阜県恵那郡明智町、岐阜県可児市と2つの説が挙げられており、確定していない。

諸国遍歴後、1558年(永禄元年)織田信長に仕え、1571年に近江国坂本城主となった光秀は、1582年(天正10年)、信長の宿所、本能寺を急襲し、信長に自刃させる。そして山崎の戦で豊臣秀吉に敗れた光秀は、現在の京都府伏見区にあたる小栗栖(おぐるす)で農民に竹槍で突かれて死んだとされている。

光秀はなぜ信長を討ったのか?など謎に満ちた「本能寺の変」もさることながら、光秀最大の謎がその「死」についてだ。江戸時代に書かれた「絵本太閤記」を前提に類推すると、・真っ暗闇の中、総勢30人ほどの前から6番目あたりにいた光秀の横腹に単なる一百姓が、それほど見事に槍を刺せるか・光秀の前後を護衛していた武将は光秀が刺されたことになぜ気付かなかったのか・後に土中から発見された生首を光秀と断定した根拠が定かではない-などいくつかの疑問が残る。これを突き詰めると、光秀不死説が浮上するのだ。行方をくらました光秀は数年後、天海となって再び、表舞台に姿を現すのだ。

 では天海=光秀とした場合、符合する部分はどれくらいあるのか。また矛盾点はないのか。1.光秀が小栗栖で姿をくらましたとき、彼はおよそ57歳ころといわれている。仮にそうだとすると光秀は1525年(大永5年)生まれとなる。天海は1643年に110歳以上で死んだと推測されているが、1525年に誕生し1643年(寛永20年)に亡くなったとすれば118歳、ほぼ一致するのだ。2.天海の諡号、慈眼大師という名は、光秀の木像と位牌が安置されている京都府周山村(現在の京北町)の慈眼寺にちなんだものだ3.天海とゆかりの深い日光に明智平という場所があり、日光の建物の至る所に明智の紋がある4.家光の乳母は春日局だが、彼女は光秀の姪でもあった5.比叡山の松禅寺には、光秀が亡くなったとされる年から33年後の、慶長20年に光秀が寄進したという意味の言葉が刻まれた石灯篭がある。

 ただ、ここで新たな疑問が出てくる。天海=光秀なら、なぜ家康は宿敵、信長の重臣だった光秀をわざわざ迎え入れたのか。その答えは、本能寺の変は家康と光秀の2人が共謀して起こしたとの説を採れば解決する。光秀は自分より秀吉に信頼を置くようになった信長に不満や不信感を募らせ、信長と距離を置くようになったところに、家康が素早く眼をつけ手を組んだというわけだ。とはいえ、信長が死んでも織田軍団がそれほど簡単に破滅するはずがない。だから逆に自分の首が危うくなると考えた家康は、光秀が単独で信長を殺害したことにしたのだ。その光秀も死んですべては終わったと見せかけた。しかし、実は天海として徳川家にブレーンとして迎え入れられていたというわけだ。果たして本当に天海は光秀なのか。

(参考資料)歴史の謎研究会・編「日本史に消えた怪人」

トーマス・グラバー・・・巧みにしたたかに、幕末に暗躍した武器商人

 今も長崎の地に邸宅跡が「グラバー園」として一般公開され、観光名所にその名を残すトーマス・グラバーは、イギリス人の政商だ。幕末に暗躍した武器商人で、本国の英国と取引相手が対立した際も武器の販売は止めようとはせず、それでも罪を着ることなく、巧みに、そしてしたたかに激動期を生き抜いた怪人だった。徳川家とは距離を置き、薩摩・長州・土佐など討幕派を支援し、坂本龍馬の亀山社中とも取引があった。

有名なオペラ「お蝶夫人」のモデルになっている。つまり、お蝶さんの愛人はグラバーをモデルにしている。実際のグラバーは、オペラと違って「ある晴れた日」に、故国に戻って二度と帰らぬということはなかった。グラバーは「談川ツル」という日本人女性を妻とし、長女・ハナ、長男・倉場富三郎の二子をもうけている。明治44年に東京で死んだ。

あまり知られていないが、明治以降は高島炭鉱の経営にあたった。蒸気機関車の試走、ドック建設、炭鉱開発など日本の近代化に果たした役割は大きい。造船の街、長崎の基礎をつくったのだ。グラバーこと、トーマス・ブレーク・グラバーの生没年は1838~1911年。

 1859年(安政6年)5月28日、徳川幕府が神奈川、長崎、箱館の3港を開き、米国、オランダ、ロシア、フランス、英国の5カ国との貿易を許可。次いで6月20日、外国の武器を日本側が購入することも許可。そうした状況下、駐日総領事として英国からやってきたのがオールコックだ。
トーマス・ブレーク・グラバーは日本が開国するとすぐ英国から渡航してきた。そして、長崎に貿易商社「グラバー商会」を設立した。グラバー商会は、海運と武器弾薬の販売を行うことを目的としていた。西南の雄藩が争って外国の武器を買い始めたので、グラバー商会はたちまち発展した。最大の取引相手は薩摩藩だった。そして、薩摩藩側の担当が五代友厚(当時の才助)だ。

 五代才助は薩摩藩士だったが、開明的な考えと、実業家的手腕を持っていた。若い頃、長崎に遊学して砲術、測量、数学などを勉強した。1862年(文久2年)幕府が上海に船を派遣し、各藩から志望するものは同乗を許したので、五代も薩摩藩から派遣されてこれに参加した。このとき同じ船に長州藩の高杉晋作が乗っていた。五代と高杉はたちまち肝胆相照らして仲良くなった。五代は上海でドイツ製の船を買って帰った。高杉は上海の状況を見て、欧米列強の実力をまざまざと感じた。そしてこの時点で、高杉は攘夷論を放棄した。

グラバーは薩摩、長州、土佐など西南雄藩に接近した。そうした一環として、薩摩藩の五代友厚、森有礼、寺島宗則、長沢鼎らの海外留学、長州藩の井上馨、伊藤博文、山尾庸三、遠藤謹助、野村弥吉らの英国渡航の手引きもしている。

取引相手として最も重要視していた薩摩藩と英国との間に事件が起こった。文久2年の「生麦事件」だ。この事件は薩摩藩主の父、島津久光の行列の前を、数人の英国人が横切ったことから起こった。列の先頭にいた薩摩藩士が怒って、いきなり刀を抜いて英国人たちを殺傷した。この事態収拾をめぐって交渉は決裂、「薩英戦争」となった。

このとき必死になって、日英間の和平調停をしたのが五代友厚とグラバーだ。五代は上海で買った外国船の艦長として鹿児島湾内にいた。だが、英国艦隊が攻め込んできても彼は戦わなかった。そして英国艦隊の捕虜になった。このため、五代は薩摩藩士の風上にも置けない卑怯者だと非難された。五代は英国の捕虜として横浜に連行された。ところが、彼は横浜から脱走した。その後、長い亡命生活を送る。このとき手を貸したのがグラバーだ。

 グラバーの怪人たる所以は、彼が決して一元的な発想方法を取らなかったことだ。薩摩藩と取引しながら、そのため本国の英国に対して結果として弓引くことになる場合もあったのだ。例えば薩摩藩は公然と英国を敵視し、英国人を斬殺し、戦争状態に入ったときもグラバーは薩摩藩と取引することを止めなかった。そして、薩摩藩から裏切り者と見られていた五代友厚を、あえて匿うようなこともする。

また、当時、犬猿の仲だった薩摩藩と長州藩を結びつけた、薩長同盟を成立させた黒幕がグラバーだったのだ。このグラバーと一緒になって暗躍したのが土佐の坂本龍馬であり、龍馬率いる亀山社中だ。亀山社中は後の海援隊になる。薩長同盟が契機となって、日本の政治情勢はどんどん変わっていった。グラバーはその後も、英国公使館に出入りし、アーネスト・サトウとともに、パークス公使の補佐をする。地に着いた彼の意見は、どれほどパークスを助けたかわからない。

(参考資料)童門冬二「江戸の怪人たち」、白石一郎「異人館」

長野主膳・・・幕末動乱期 大老・井伊直弼を陰で操った怪物参謀

 長野主膳(しゅぜん)は、幕末・維新史上の大怪物とも、大魔王とでもいうべき人物だ。幕末・維新の騒乱は井伊直弼の大老就任から始まったといっていいが、周到な計画を巡らせて井伊直弼を大老にしたのは井伊の参謀だった長野主膳であり、井伊が大老としてやったことのほぼすべて-紀州慶福(よしとみ)を将軍世子に決定したこと、勅許なく条約を結んだこと、安政の大獄を起こしたこと、和宮降嫁の運動に着手したことなども彼なのだ。突き詰めていえば、井伊はロボットで、陰でそれを操っていたのはこの長野主膳だったのだ。

 長野主膳は伊勢国の出身といわれるが、その出自、幼・少年時代のことなどは、詳らかではない。長野の幼名は主馬(しゅめ)、諱は義言(よしとき)。長野の生没年は1815(文化12)~1862年(文久2年)。

長野は本居宣長系統の国学者で、和歌は速吟で、しかも上手だったという。そして、長野は“主義”の人ではなく、功業を目的とする人物だったといわれ、権謀に長けた策謀家というのが大方の評価だったようだ。

 天保10年、三重県飯南郡滝野村(現在の飯高町)にやってきた長野主膳は、紀州新宮の領主、滝野次郎左衛門の妹、滝と恋におちた。そして天保12年、二人は結婚する。長野が27歳、滝が31歳のときのことだ。結婚すると二人は滝野村を出て、京に上り、それから近畿、東海道の各地を巡遊。そして、最後に江州伊吹山の麓の坂田郡志賀谷村の阿原家に落ち着き、「高尚館」という国学塾を開いた。坂田郡志賀谷村は水野土佐守忠央(ただなか)の知行地の一つで、阿原家はその代官だったといわれる。

 長野は志賀谷村に落ち着くと、よく彦根にでかけた。やがて、弟子や和歌の友もできて数カ月の後、彼は井伊直弼に会うのだ。直弼は彦根井伊家十二代藩主の直中(なおなか)の十四番目の子だ。江戸時代の武家の三男以下ほど哀れなものはない。それは大名の家も同じだ。次男はお控えと称して、長男が万一若死にでもしたときのスペアとして相当な待遇をされるが、三男以下は他の大名や、家中の重臣の家に養子にいく以外には、わずかな捨扶持をもらって一生飼い殺しにされ、妻も持てない。妻を持たせて子供ができれば藩でその行く末までみなければならないからだ。女がほしければ妾をおくか、女中で間に合わせるよりほかない。妾や女中なら、構わなくてもいいからだ。惨めなものだ。

 直弼も養子の口を探したが、なかなかなかった。遂に東本願寺別院、長浜の大通寺に養子に入ろうとして、ずいぶん運動したが、これも結局まとまらなかった。井伊家ではこんな境遇にある子供には年給米三百俵を与えて、飼い殺しにする定めになっている。直弼はこれを受けて生涯を埋もれ木で終わる覚悟を決め、三の丸の尾末町の屋敷を「埋木舎(うもれぎのや)」と名付けた。この家号でも分かるように、直弼の嗜好は国学にあったのだ。国学を仲立ちとして直弼と長野の関係は結ばれた。長野は埋木舎を訪問し語り合い、直弼と深い信頼を抱きあう師弟関係となった。長野、直弼ともに28歳のときのことだ。

 長野と直弼が知り合いになってから3年余の弘化3年、直弼の兄で世子だった直元が江戸で死亡、直弼が世子となった。そして、直弼が世子となって4年10カ月目の嘉永3年、井伊家の当主、直弼の長兄直亮(なおあき)が病死。遂に直弼が当主となった。一時は自らの運命を諦め切っていた直弼に、花が咲いたのだ。直弼36歳のときのことだ。

 直弼は長野を嘉永5年の春、知行百五十石の藩士として、藩校弘道館の国学教授とした。こうして長野は素性も知れない身の一介の浪人学者から、井伊家お抱えの国学者として百五十石を食む身分となったのだ。だが、人間の欲望には限りがない。この点は直弼も似た思いだったに違いない。長野は直弼を大老にしたいと考える。なぜなら井伊家はそうなれる家柄なのだから…。

大老は常置の職ではないが、平時でも置かれたことが多いうえに、こんな時局になっているのだから、置かれる可能性は大いにある。直弼は天性優れた才と度胸があるうえに、学問もしており、長い間逆境にあって下情に通じている。功名心の強い長野は、単に直弼のためだけにこう考えたのではない。直弼を大老として幕閣第一の権力者としたうえで、自分もまた幕府の要人になろうと考えていたのではないかと思われるのだ。

 1853年(嘉永6年)、ペリーが軍艦4隻を率いて浦賀沖に来航、世情騒然となったその年、病気がちだった第十二代将軍家慶が死亡。そして十三代将軍に家慶の子、家定が就いた。だが、この家定は精神薄弱児的人物だったから、できるだけ早く将軍世子に賢明な人物を立て、その人物に将軍の政務を担ってもらおうとの動きがあった。こうして周知の通り、将軍世子に一橋慶喜を推す派と、紀州慶福(よしとみ)を推す派の二派が相争う状況となった。

 冒頭に記した通り、長野は井伊大老が断行したすべてをいわば主導したのだが、最も衝撃的だったのはやはり「安政の大獄」だ。狂気のような大検挙があった翌々年、万延元年、「桜田門外の変」で直弼は惨殺される。直弼の後を継いだ直憲からは疎まれ、その翌々年、文久2年、直弼という絶大な後ろ楯を失ったダメージは大きく、藩内の空気が一変、長野に対する批判が爆発。長野は“奸悪”の徒として禁固され、牢内で処刑された。

(参考資料)海音寺潮五郎「幕末動乱の男たち」

林子平・・・憂国の思いで著した2作品が発禁となり、不遇のうちに死去

林子平は江戸時代、日本を植民地化から防ぐために蝦夷地の確保を説いた『三国通覧図説』や日本海岸総軍備という論旨の『海国兵談』などを著したが、幕府からはにらまれ、世に全く受け入れられず、不遇のうちに死去した。高山彦九郎、蒲生君平とともに「寛政三奇人」の一人。生没年は1738(元文3)~1793年(寛政5年)。

林子平は幕臣、250石の旗本、岡村源五兵衛の次男として生まれた。名は友直。小納戸兼書物奉行をしていた父は新井白石と交友があり、なかなかの学者だったが、硬骨漢で古武士の風格を備えた人物だった。そのため、徳川吉宗の時代になって新井白石が没落した際、反対派の上役とソリが合わず父が浪人。そこで兄・嘉膳とともに、叔父の林従吾に養われ、林姓を名乗った。

姉なおが仙台藩六代藩主伊達宗村の側室に上がった縁で、1757年(宝暦7年)仙台に居を移し、兄とともに仙台藩の禄を受けた。子平20歳のことだ。仙台では「赤蝦夷風説考」の著者、工藤平助、塩釜神社の神官藤塚式部らと交わっている。仙台藩で教育や経済政策を進言するが、採用されることはなかった。そのため、禄を返上して藩医だった兄の部屋住みとなり、全国を行脚した。

1775年(安永4年)、長崎へ行き、オランダ人からロシアの南下策を聞き、国防の必要を痛感、地理学・兵学を志した。その後、二度長崎で学び、江戸では大槻玄沢、宇田川玄随、桂川甫周(ほしゅう)の蘭学者らと交遊した。

林子平が生きた時代はロシアの南下政策が顕在化してくると同時に、蝦夷地への関心が一挙に高まった時代だった。子平は1777年、『海国兵談』の稿を起こした。日本が太平の眠りに呆けているうちに、近海の島や国が片っ端から、ヨーロッパ諸国の植民地や領土に繰り込まれていく。やがては日本の国土が蚕食されないとは限らないのだ。それを思うと何とかして、この書を書き上げ世の政治家たちに訴えたかった。

1785年(天明5年)には『三国通覧図説』を世に出した。三国とは朝鮮・琉球・蝦夷だ。そして1788年(天明8年)に『海国兵談』を出版した。着手して以来、実に9年の歳月が流れていた。『海国兵談』は海防の必要性を説く軍事書だったため、出版に協力してくれる版元を見つけることができなかった。そこで子平は16巻・3分冊もの大著を、自ら版木を彫っての自費出版にして世に問う決心をし、実行する。

しかし、完成した『海国兵談』は老中松平定信の「寛政の改革」が始まると、政治への口出しを嫌う幕府に危険人物として眼を付けられ、『三国通覧図説』も幕府からにらまれ、両著作とも発禁処分となった。そればかりか、『海国兵談』は版木没収の処分を受ける。

子平は第二回の長崎行き以来17年間、人生の働き盛りをすべてその問題に懸けてきたのだ。つまり、彼の命も全精神も一冊の書『海国兵談』にあったといってもいい。しかし今、その版木が資金不足からわずか38部を世に出したのみで、没収されようとしている。彼の命が、全精神が闇から闇へ消し去られようとしているのだ。子平が心に受けた衝撃は筆舌では尽くせないものがあった。だが、子平はその後も自ら書写本をつくり、それがさらに書写本を生み、後世に伝えられた。

子平は、チフスと思われる病気との闘病後の身を警護の役人に守られながら、最終的に仙台の兄のもとへ強制的に帰郷させられた。そのうえ、禁固刑(蟄居)に処され、そのまま不遇のうちに死去した。
蟄居中、その心境を「親も無し 妻無し子無し版木無し 金も無けれど死にたくも無し」と嘆き、自ら六無斎(ろくむさい)と号した。子平が息を引き取った翌月、松平定信が老中首座の地位から退けられている。時代がいま少し遅ければ、あるいは老中首座がいま少し開明的な人物なら、林子平もこれほど悲惨な状況に追い込まれることはなかったかも知れない。それにしても時期が悪すぎた。

当時、日本で認められなかった『三国通覧図説』は1832年に仏語訳が出版され、その付図「無人島之図」は幕末、諸外国との間に小笠原諸島の帰属が争われたとき、日本側の有力証拠資料となった。

(参考資料)奈良本辰也「叛骨の士道」、奈良本辰也「歴史に学ぶ」、童門冬二「江戸管理社会反骨者列伝」、南条範夫「夢幻の如く」

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