大野弁吉の存在は、あまり知られていない。彼は黒子に徹し、歴史の表面に出てこないからだ。大野弁吉は「海の百万石」といわれた加賀藩の御用商人、銭屋五兵衛の何人かいたブレーンの一人だった。しかし、日本全国における拠点・支店網の設置、扱い品目の拡大、外国との貿易など、銭屋五兵衛が海を主体にして展開した幅広い商活動のほとんどは、この大野弁吉の進言によっているといっても過言ではない。弁吉のブレーンぶりは極力、銭屋の店の組織に入らずに行うことだった。
大野弁吉は1801年、京都五条通の羽子板細工師の子として生まれた。幼少の頃から四条派の画を描き、20歳ごろ長崎に留学。オランダ人から医学、天文学、理化学、西洋科学を学び修得。絵画や彫刻も学んだという。その後、対馬や朝鮮に渡り、馬術、砲術、算術を学び、帰国した後は紀伊国に出かけ、砲術、馬術、算術、暦学を究めた。加賀国石川郡大野町(現在は金沢市に編入)に住んだところから大野弁吉と呼ばれた。
弁吉は「加賀の平賀源内」とも「加賀のダ・ヴィンチ」とも評されるように、エレキテルや万歩計、発火器(ライター)、ピストルまで制作し、鶴の形をした模型飛行機を作って飛ばし、多くの人を唖然とさせたこともあるという。彫刻も巧みで、名工の域にまで達していた。このほか、たった1枚の銀板写真を見てカメラを作ったという話さえある。製作年ははっきりしないが、弁吉が撮った妻うたの写真などが残っている。
多種多彩な才能を持っていた弁吉は、紀伊から京都に戻り、中村屋の婿養子となる。それから30歳ごろから妻の実家、越前国の大野に移り住んだ。職業は指物師。家具や机、木箱などの生活用品を作る職人だ。だが、現在では仕事の合間に作っていた、からくりの制作者としてよく知られている。からくりの新しいアイデアがひらめくと、食事も摂らずに2日も3日も作業場にこもって妻を心配させたそうだ。
からくりの中で有名なのは「茶運び人形」だ。人形の上に茶碗を乗せると、客に向かって運び、その茶碗を受け取ると、お辞儀をして、くるっと向きを変えて帰っていくというものだ。その他にもゼンマイを回すと人形が太鼓を叩き、ネズミが穴からちょこちょこ出てきて、再び穴に入っていく「ねずみからくり」や「鯉の滝登り」「三番叟人形」「品玉人形」などの作品を作っている。
こんな弁吉の良き理解者だったのが「銭五」とも呼ばれた加賀の豪商、銭屋五兵衛だ。弁吉は富や名誉には全く無関心で、天才にありがちな気紛れもの。仕事は気が向かなければ、頼まれてもやらない。そのせいで夫婦の生活は常に苦しかった。親交の深かった銭五からでさえ弁吉は生活の援助を受けようとしない。一度、貧しさを見かねた銭五が米を持ってきたときも、弁吉はひどく憤慨した。だが、銭五は「俺はお前に施しをするつもりはない。これは今から頼む指物の前払いだ」といって、さらに味噌、醤油、野菜、魚、弁吉の大好きな酒、そしてうたの着物まで運び込んだという逸話が残っている。
銭屋五兵衛との親交は20年以上にも及んだ。その銭五は河北潟埋め立てに関して、濡れ衣だったが、毒物を使うことを指示した疑いで投獄され、無実を訴えながら獄中で非業の最期を遂げる。加賀藩はそれまで銭五をさんざん利用して藩ぐるみで密貿易をしていた。その密貿易が幕府に知られ、嫌疑をかけられそうになったため、罪を銭五一人に背負わせて藩の責任を逃れようとしたのが真相だった。こうして弁吉は良き友で、良き理解者だった銭五を失った。
大野弁吉は好奇心の塊のような人物だったのだろう。器用貧乏のようにもみえるが、平賀源内と比べると無名だが、才能、とくに独創性は源内より優れていたといえるのではないか。弁吉は1870年(明治3年)、70歳で生涯を終えた。弟子は多くはなかったが、米林八十八、朝倉長右衛門をはじめ和算、医術、彫刻、写真など多くの分野で活躍した人たちがいて、明治期に活躍した。
(参考資料)童門冬二「江戸の怪人たち」、童門冬二「海の街道」、南原幹雄「銭五の海」、尾崎秀樹「にっぽん裏返史」