クラウゼヴィッツ 世界の革命家に大きな影響を与えた『戦争論』を著す

クラウゼヴィッツ 世界の革命家に大きな影響を与えた『戦争論』を著す

 クラウゼヴィッツは、プロイセン軍隊の創設、軍制の確立に尽力し、対ナポレオン戦争の経験を元に、戦略・戦術に関する名著『戦争論』を著したことでよく知られている。その思想は世界の軍人や革命家たちにも大きな影響を与えたといわれる。生没年は1780~1831年。

 カール・フォン・クラウゼヴィッツはプロイセン王国のマクデブルクで生まれた。父はマクデブルクの王室収税官だった。1792年、12歳のときにポツダムのフェルディナント親王歩兵連隊に入隊し、1794年にラインラントにおけるマインツ攻城戦で初めて戦闘に参加した。少尉に任官した15歳からの6年間はノイルッピンで過ごす。このとき所属していた連隊の連隊長の考課表によると、有能かつ熱心、頭脳明晰で好奇心旺盛と評価されている。

 クラウゼヴィッツは1801年、ベルリンの士官学校に入り、そこでシャルンホルストの下で軍事学を学んだ。1803年、プロイセン軍アウグスト親王の副官に任命され、6年間にわたって副官としての業務を行いながらも、軍事学の文献だけでなく、外交・文化・歴史・文学についての文献を多読し、マキャベリやモンテスキュー、カントの影響を受けて、独自の思考様式を育んだ。そして、ナポレオン戦争に従軍して1806年に親王とともにフランス軍の捕虜となるまで、多くの戦史研究や戦略論、政治評論などを執筆している。

 1807年、ティルジット講和条約が締結された後、クラウゼヴィッツは捕虜交換により釈放され、その後、フランス軍占領下にあったベルリンに帰還した。1809年、クラウゼヴィッツは陸軍省に勤務し、皇太子の軍事教育も担当した。1812年、フランス軍に対抗するため、一時期ロシア軍に軍籍を置きながら、参謀としてフランス軍と戦った愛国的な軍人でもあった。ナポレオン戦争終結後にはベルリンの陸軍大学校の校長として勤務している。『戦争論』の原稿はこの頃に執筆されたものだ。

 クラウゼヴィッツは1830年に校長を辞任して、七月革命の余波を受けたポーランドでの暴動を鎮圧するために派遣されるが、1831年にコレラで病死した。

 『戦争論』の思想は大モルトケをはじめとする後世の軍人たちや、レーニンをはじめとする革命家たちにも大きな影響を与えた。日本も例外ではない。クラウゼヴィッツの思想は、1867年に始まった明治維新による日本の国家建設以来、軍事のあらゆる分野に様々な影響を与えている。しかし、日本の軍人は『戦争論』に最も明確に述べられている戦争の本質について学ぶことよりも、ドイツを手本として軍事行動を計画し、実行する方法を学ぶことに熱心だった。

 日本陸軍は、ドイツ第二帝政期の初期におけるドイツの軍事思想を通じて、クラウゼヴィッツの思想を主として間接的に学んだ。彼らは師団レベルの基礎的な戦術と応用戦術に関する教育を受けた。その教育の特色は、クラウゼヴィッツが重視した理論と実際の統一にあった。この教育の成果は非常に大きかったので、このような教育法は陸軍大学の誇るべき伝統として、第二次世界大戦までそのまま継承された。

(参考資料)広瀬隆「クラウゼヴィッツの暗号文」、寺山修司「さかさま世界史 怪物伝」

 

モーセ 古代イスラエルの民族指導者で、最も重要な預言者の一人

モーセ 古代イスラエルの民族指導者で、最も重要な預言者の一人

 一般にはモーゼと呼称されることが多いが、旧約聖書の『出エジプト記』などに現れる、紀元前13世紀ごろ活躍したとされる古代イスラエルの民族指導者モーセは、ここに取り上げる人物たちとかなりスケールは異なるが、紛れもなく大怪人といっていいのではないか。彼はユダヤ教、イスラム教、キリスト教など多くの宗教において、最も重要な預言者の一人とされる。

 『旧約聖書』の『出エジプト記』によると、モーセはイスラエル人のレビ族の父アムラムと母ヨケベドとの間に生まれ、兄アロンと姉ミリアムがいた。モーセが生まれた当時、イスラエル人が増えすぎることを懸念したファラオは、イスラエル人の男児を殺すよう命令した。こうして殺される運命にあったモーセは出生後、しばらく隠して育てられたが、やがて隠し切れなくなり、葦舟に乗せてナイル川に流された。そこへファラオの王女が通りかかり、彼を拾い、水から引き上げたので、マーシャー(引き上げる)から、「モーセ」と名付けられたという。

 成長したモーセは、同胞のイスラエル人がエジプト人に虐待されているのを見てエジプト人を殺害。ファラオの追討軍の手を逃れてミディアンの地(現在のアラビア半島)に住んだ。モーセはミディアンでツィポラという女性と結婚し、羊飼いとして暮らしていたが、ある日燃える柴の中から神(エホバ)に語り掛けられ、イスラエル人を約束の地(現在のパレスチナ周辺)へ導く使命を受ける。こうして彼の預言者としての活動が始まる。

 エジプトに戻ったモーセは兄アロンとともにファラオに会い、イスラエル人退去の許しを求めたが、ファラオは拒絶、なかなか許そうとしなかった。そのため「十」の災いがエジプトにくだり、ようやくイスラエル人たちはエジプトから出ることができた。それでもファラオは心変わりして軍勢を差し向けるが、葦の海で水が割れたため、イスラエル人たちは渡ることができたが、ファラオの軍勢は海に沈んだ。映画『十戒』でも最大のダイナミックなシーンとして、リアルに表現されていただけに、ご承知の人も多いはずだ。その後、モーセはシナイ山で神から石版2枚の十戒を受けた。

 『レビ記』『民数記』『申命記』によると、その後のモーセはイスラエル人を導いて荒野を通って土地の王たちとの戦いを経つつ、カナンの地へ至った。しかし、カナンを前に民が神とモーセに不平を言ったため、神はさらに40年の放浪をイスラエル人たちに課した。モーセもメリバの泉で神の命令に従わなかったことにより、カナンの地へ入ることを許されなかった。そして、40年の期間が満ちたとき、モーセは民に別れの言葉を残した。その後、モーセはビスガの山頂で約束の地カナンを目にしながら、世を去ったという。没年齢は120歳。

(参考資料)寺山修司「さかさま世界史 怪物伝」

 

近藤重蔵 北方領土に注いだ篤い志は上層部にうるさがられ左遷の連続

近藤重蔵 北方領土に注いだ篤い志は上層部にうるさがられ左遷の連続

 九州の大宰府に左遷された菅原道真や、豊臣秀吉に切腹を命じられた千利休らとは格は違い、それほど有名ではないが、北辺の探検家だった近藤重蔵も江戸幕府の実力者に疎まれて、左遷に次ぐ左遷の中で生き、死んだ後、人々から「雷」になったと噂された。それは彼が死ぬ前「俺は死んだら必ず雷になって、択捉島や樺太の守護神になる」としきりに告げていたからだ。したがって、近藤重蔵の雷への変身願望は、個人的な怨念を晴らすためではなく、あくまでも北方領土防衛のために、死んだ後も闘い続けるという意気が込められている。

 近藤重蔵は終始一貫して北方領土に深い愛情を注いだ志の高い日本人だった。しかし彼の篤い志は、必ずしも幕府上層部の受け容れるところとはならなかった。むしろ、彼の頑固一徹の性格も災いして、志が篤過ぎたために、かえってうるさがられ、遠ざけられてしまったのだ。

 近藤重蔵は江戸時代後期の幕臣、探検家。御先手組与力、近藤右膳守知の三男として江戸駒込に生まれた。諱は守重(もりしげ)、号は正斎・昇天真人。間宮林蔵、平山行蔵とともに“文政の三蔵”と呼ばれる。山本北山に儒学を師事。同門に太田錦城・小川泰山・太田全斎がいる。幼児の頃から神童といわれ、8歳で四書五経を諳んじ、17歳で私塾「白山義学」を開くなど、並々ならぬ学才の持ち主だった。生涯、六十余種千五百余巻の著作を残している。生没年は1771(明和8年)~1829年(文政12年)。

 父の隠居後の1790年(寛政2年)、御先手組与力として出仕。火附盗賊改方としても勤務。1794年(寛政6年)には松平定信が行った湯島聖堂の学問吟味において最優秀の成績で合格。1795年(寛政7年)、長崎奉行手付出役、1797年(寛政9年)に江戸へ帰参し支払勘定方、関東郡代付出役と栄進した。

 1798年(寛政10年)、幕府に北方調査の意見書を提出して松前蝦夷地御用取扱。4度、蝦夷地(北海道)へ赴き、最上徳内と千島列島、択捉島を探検、同地の「大日本恵土呂府(えとろふ)」の標柱を立てた。松前奉行設置にも貢献。蝦夷地調査、開拓に従事し、貿易商人の高田屋嘉兵衛に国後から択捉間の航路を調査させた。

 1803年(享和3年)、譴責により小普請方。1807年(文化4年)にロシア人の北方侵入に伴い、再び松前奉行出役となり、5度目の蝦夷地入り。その際、利尻島や現在の札幌市周辺を探索。江戸に帰国後、十一代将軍徳川家斉に謁見を許された。その際、札幌地域の重要性を説き、その後の札幌発展の先鞭をつけた。

 1808年(文化5年)、江戸城紅葉山文庫の書物奉行となる。しかし、自信過剰で豪胆な性格が見咎められ、1819年(文政2年)、大坂勤番弓矢奉行に左遷。1821年(文政4年)、小普請入差控を命じられて江戸滝ノ川村に閉居。1826年(文政9年)、長男の近藤富蔵が町民を殺害して八丈島に流罪となり、連座して近江国大溝藩にお預けの身となった。

 

(参考資料)童門冬二「江戸の怪人たち」、杉本苑子「癖馬」 、司馬遼太郎「街道をゆく37」

 

 

三浦鞍針 俸禄を与えられ徳川家康に仕えた英航海士・貿易家

三浦鞍針 俸禄を与えられ徳川家康に仕えた英航海士・貿易家

 三浦鞍針ことウイリアム・アダムスは、江戸時代初期に徳川家康に外交顧問として仕えたイギリス人航海士・水先案内人・貿易家だ。家康から俸禄とともに、「三浦鞍針」という日本の名を与えられ、異国人でありながら、日本の武士として生きるという数奇な境遇のもとで、その生涯を終えた。奇人、ウイリアム・アダムスの生没年は1564~1620年。

 イングランド南東部のケント州ジリンガムの生まれ。船員だった父親を亡くして故郷を後にし、12歳でロンドンのテムズ川北岸にあるライムハウスに移り、船大工の棟梁ニコラス・ディギンズに弟子入り。造船術より航海術に興味を持つ少年だったという。

 ウイリアム・アダムスが、自身の人生を大きく変えることになったのは、1598年、弟のトーマスらとオランダのロッテルダムから極東を目指す、5隻からなる船団の航海士として乗船したことだった。ウイリアム・アダムス34歳のときのことだ。彼は英国海軍の貨物補給船に身を置き、海戦にも参加したことがあったが、当時は軍を離れて「バーバリー商会ロンドン会社」の航海士・船長として北方航路やアフリカへの航海で多忙で、ほとんど家にいることはなかったらしい。そして、25歳のときに結婚したメアリー・ハインとの間に娘デリヴァレンスと息子ジョンの二子をもうけていた。

 極東を目指した航海は惨憺たるありさまで、マゼラン海峡を抜けるまでに、スペイン船に拿捕される船、沈没する船が出る一方、インディオの襲撃に遭うなど次々に船員を失った。弟のトーマスもインディオに殺害された。その結果、極東に到着したのはウイリアム・アダムスが航海士として乗船していたリーフデ号1隻で、出航時110人だった船員は、日本到着までに24人に減っていた。

 1600年(慶長5年)リーフデ号は豊後の臼杵に漂着した。疲労と憔悴で、自力では上陸できなかった乗組員は、臼杵城主、太田一吉の出した小船でようやく日本の土を踏んだ。その後、当時、豊臣政権の下で五大老首座だった徳川家康がアダムス、ヤン=ヨーステン・ファン・ローデンスタイン、メルキオール・ファン・サントフォールトらを初めて大阪で引見。

イエズス会士の注進でリーフデ号を海賊船だと思い込んでいた家康は、路程や航海の目的、オランダや英国など新教国とポルトガル・スペインら旧教国との紛争を臆せず説明するアダムスとヤン=ヨーステンを気に入って誤解を解いた。家康はしばらく彼らを投獄したものの、何度か彼らを引見した後、釈放。そして城地の江戸へ彼らを招いた。

 江戸に到着後、アダムスは繰り返し英国への帰国願いを出したが叶わず、家康は米や俸禄を与えて慰留。外国使節との対面や外交交渉に際して通訳を任せたり、助言を求めることが多かった。この時期、幾何学や数学、航海術などの知識を家康以下の幕閣に授けたといわれている。帰国を諦めつつあったアダムスは1602年頃、日本橋大伝馬町の名主で家康の御用商人でもあった馬込勘解由の娘、お雪(マリア)と結婚。彼女との間に息子のジョゼフと娘のスザンナが生まれている。

 結婚し家族を得たことでアダムスは精神的に安定、家康の意向に沿って動いている。船大工としての経験を買われて、伊東に日本で初めての造船ドックを設けて80㌧の帆船を建造した。1604年(慶長9年)完成すると、家康は気を良くしてアダムスに大型船の建造を指示、1607年には120㌧の船舶を完成させた。

 この功績を賞した家康は、更なる慰留の意味もあってアダムスを250石取りの旗本に取り立て、帯刀を許したのみならず、相模国逸見(へみ)に采地も与えた。また、三浦鞍針の名乗りが与えられた。まさに、破格の扱いだ。“三浦”は領地のある三浦半島に因むもので、“鞍針”は彼の職業で水先案内人の意。この結果、彼は異国人でありながら、日本の武士として生きるという数奇な人生を送ることになった。この所領は息子のジョゼフが相続し、三浦鞍針の名乗りもジョゼフに継承されている。

 鞍針の墓は長崎県平戸市の「崎方公園」にある。また、神奈川県横須賀市西逸見(にしへみ)町の「塚山公園」には鞍針夫妻の慰霊碑があり、1923年、国の史跡に指定された。

 

(参考資料)白石一郎「航海者」、邦光史郎「物語 海の日本史 三浦按針」

 

 

天草四郎・・・3倍超もの幕府連合軍をはねのけた「島原の乱」の少年指導者

天草四郎は江戸時代初期、飢饉や重税とキリシタン弾圧に苦しむ農民が起こした反乱、「島原の乱」の指導者とされている人物だが、その実像は定かではない。本名は益田四郎時貞。苗字は益田、通称は四郎、諱は時貞。洗礼名はジェロニモもしくはフランシスコ。一般に天草四郎時貞の名で知られる。生没年は1621?(元和7?)~1638年(寛永15年)。

天草四郎は、肥後国の南半国の熱烈なキリシタン大名で関ケ原の戦いに敗れ斬首された小西行長の遺臣・益田甚兵衛好次の子として、母の実家のある天草諸島の大矢野島(現在の熊本県上天草市)で生まれたとされる。しかし、宇土郡江辺村(現在の宇土市)、または長崎出身という説もあり、出生地ははっきりしない。
益田家は小西氏滅亡後、帰農した牢人で、一家は敬虔なキリシタン信徒で宇土に居住したという。天草は九州の中でもとくにキリシタン人口の比重が高い地域だったので、そうした周囲の環境から四郎も自然にキリスト教に接近していったのだろう。

四郎は生まれながらにしてカリスマ性があり、大変聡明で、慈悲深く、容姿端麗だったと伝えられている。彼は、小西氏の旧臣やキリシタンの間で救世主として擁立、神格化された人物と考えられており、盲目の少女に彼が触れると視力を取り戻した、海を歩いた-など様々な奇跡を起こした伝説や、彼が豊臣秀頼の落胤、豊臣秀綱であるとする風説も広められた。

江戸時代初期の天草・島原地方は飢饉や重税とキリシタン弾圧に苦しみ、民衆の不満は頂点に達していた。1634年(寛永11年)から続いていた大凶作の中でも容赦ない年貢の取り立ては行われたし、生きたまま海に投げ込まれたり、火あぶりの刑など想像を絶するキリシタン信者への迫害があった。

その不満を抑えていたのが、マルコス宣教師が残した予言だった。1613年(慶長18年)、マルコスは追放されるとき「25年後に神の子が出現して人々を救う」と予言した。人々はこの予言を信じ、神の子の出現に懸けていたのだ。そして、予言にある25年目の1637年(寛永14年)、長崎留学から帰った四郎が様々な奇跡を起こし、神の子の再来と噂されるようになる。四郎の熱心な説教は人々の心を捉え、評判は天草・島原一帯に広まり、遂には一揆の総大将に押し立てられるのだ。

過酷な徴税と限界を超えた弾圧に耐え切れず、1637年(寛永14年)年貢納入期を前に遂に島原で農民が蜂起。呼応して天草でも一揆が起こり、島原半島に渡って島原勢と合流する。こうして当時16歳の少年、天草四郎は一揆軍の精神的支柱となり、鎮圧軍と戦うことになる。一揆軍は島原城主松倉重政が城を島原に移すまで使っていた原城に籠り、長期戦となった。

松倉重政の家老からの一揆蜂起の報を受けた幕府は、ことの大きさに驚き、九州諸大名に帰国を命じて備えさせる一方、京都所司代板倉重昌らを上使として鎮圧軍を送り込んでいる。はじめは簡単に攻め落とせると思われていたが、籠城兵の意外な抵抗の強さにびっくりし、焦って無理に攻めたため、かえって死傷者を多く出す結果になってしまった。寄せ手の大将、板倉重昌が鉄砲で眉間を撃ち抜かれて戦死している。

とはいえ幕府連合軍12万5800人に対し、戦うことには素人で寄せ集めの集団、一揆軍はわずか3万7000人。力の差は歴然としていた。幕府はその後、松平信綱を送り込み、またオランダ船の砲撃といった助けなどを借りながら、3カ月余りかかってようやく原城を攻め落とした。1638年(寛永15年)、一揆軍は全滅。幕府軍も8000人の死傷者を出して終結した。四郎も熊本藩の陣野佐左衛門という侍に首を取られ、母親の首実検で四郎本人であることが確認された後、首は長崎で晒された。

この戦いで一揆軍の四郎が、実際にどのような采配を振るったのかは分からない。しかし、彼が一揆軍を結束させるカリスマ的な存在であったことは事実で、その結束力の強さが12万の大軍の攻撃をはねのけたことも間違いない。

(参考資料)小和田哲男「日本の歴史がわかる本」

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役小角・・・修験道の開祖で、神秘的な逸話に彩られ、人物像は伝説化

 仏教の諸宗諸派がその開祖などの遺徳を偲び、50年あるいは100年といった区切りで大規模な法要を行うことを御遠忌(ごおんき)という。2000年、修験道の世界でこの御遠忌が大々的に繰り広げられた。聖護院を本山とする本山修験宗、醍醐三宝院を本山とする真言宗醍醐派、金峯山寺を本山とする金峯山修験本宗の三派が行った大規模な法要がそれだ。この御遠忌の主が役小角(えんのおづぬ、えんのおづの)、あるいは役行者(えんのぎょうじゃ)とも呼ばれる人物だ。

役小角は7世紀に実在したとされ、修験道の開祖と崇められ、修験道を実践する修験者=山伏の間では「神変(じんぺん)大菩薩」の尊称で篤く信仰されている。だが、神秘的な逸話に彩られ、伝えられる人物像は後の伝説によるところが大きい。

 役小角に関する記録の中で、正史と呼べるものは平安時代初期の史書「続日本紀」の一つだけだ。役小角は鬼神を使って水を汲ませたり、薪を採りに行かせたりした。そして、もし言うことを聞かないようなことがあれば呪縛した-と書かれている。このほか、役小角は、初め葛城山に住んでいて、呪術で広く知られた存在だったが、自分の弟子の韓国連広足にその能力を妬まれて、人を怪しい言葉で惑わせるという讒言に遭い、伊豆に流された-とある。正史としてはこれだけなのだ。

 伝説は9世紀の「日本霊異記」、12世紀の「今昔物語」などに登場する。役小角は賀茂役公(えのきみ)、後の高賀茂朝臣の出で、大和国損木上郡茅原村の人という。生没年は不詳で、一説に643年頃~706年頃。役小角の母は天から降ってきた独鈷(とっこ)という仏具が体内に入り、小角を処女懐胎した。そして胎内にいるときから「異光」や「神光」を放ったという。 生まれたとき、頭に1本の角があったという伝承もあり、これが「小角」の名の由来ともいわれる。

やがて小角は成長、岩窟に籠って修行を積んだ結果、「孔雀明王」の呪術を修得し、呪文を唱えては奇跡を起こした。孔雀明王とは孔雀を神格化した仏のこと。さらに小角は五色の雲に乗り、自由に空まで飛んだという。こうした小角の能力に、神々さえも恐れをなした。人間でありながら、神々が恐れた男、彼が生涯を通じてなしたとされる奇跡は、釈迦やキリストにも劣らない。まさに日本史上、最も奇妙で神秘的な人物の一人といっていいだろう。

 小角は神々に命じて、吉野の金峯山寺と葛城山との間に岩の橋を架けさせようとした。この難事業に神々は困惑し、一言主(ひとことぬし)神が人間に乗り移って、小角に反逆の意があると朝廷に訴えた。朝廷は小角を捕えようとしたが、容易に捕えられない。そこで、小角の母を縛った。母の苦痛を思った小角は自ら縛につき、伊豆に流された。しかし、流されたといっても、昼は伊豆にあったが、夜は駿河国の富士山に登って修行を重ねた。一方の一言主は、配流だけでは飽き足らず、小角を処刑するように託宣した。そこで朝廷は伊豆へ挙兵し、処刑を執行しようとした。ところが、そのとき刀の刃に「小角を赦免して崇めよ」という富士明神の言葉が現われたため、これに驚き、言葉通りに赦免した。自由の身になった小角は一言主明神を呪縛。そして日本を見限り、老母を伴い、唐へと飛び去って行った…。

 ほとんどのことが伝説、伝承の中にある役小角だが、確かなことは小角が朝廷にとって見過ごせない力を持った人物だったということだ。朝廷が呪術や山林修行を規制する中にありながら、彼はそれらを通じて名を馳せた。同時に小角は、人々にとって忘れ難い人物でもあった。後に小角をめぐる数々の伝承が作られ続けたことがその証拠だ。恐らく彼は呪術者、あるいは山林修行者として、相当な人望を集めていたのではないか。また、怨霊を恐れる日本独自の審理が働き、小角の神格化が始まったと推察される。

(参考資料)歴史の謎研究会・編「日本史に消えた怪人」