クラウゼヴィッツ 世界の革命家に大きな影響を与えた『戦争論』を著す

クラウゼヴィッツ 世界の革命家に大きな影響を与えた『戦争論』を著す

 クラウゼヴィッツは、プロイセン軍隊の創設、軍制の確立に尽力し、対ナポレオン戦争の経験を元に、戦略・戦術に関する名著『戦争論』を著したことでよく知られている。その思想は世界の軍人や革命家たちにも大きな影響を与えたといわれる。生没年は1780~1831年。

 カール・フォン・クラウゼヴィッツはプロイセン王国のマクデブルクで生まれた。父はマクデブルクの王室収税官だった。1792年、12歳のときにポツダムのフェルディナント親王歩兵連隊に入隊し、1794年にラインラントにおけるマインツ攻城戦で初めて戦闘に参加した。少尉に任官した15歳からの6年間はノイルッピンで過ごす。このとき所属していた連隊の連隊長の考課表によると、有能かつ熱心、頭脳明晰で好奇心旺盛と評価されている。

 クラウゼヴィッツは1801年、ベルリンの士官学校に入り、そこでシャルンホルストの下で軍事学を学んだ。1803年、プロイセン軍アウグスト親王の副官に任命され、6年間にわたって副官としての業務を行いながらも、軍事学の文献だけでなく、外交・文化・歴史・文学についての文献を多読し、マキャベリやモンテスキュー、カントの影響を受けて、独自の思考様式を育んだ。そして、ナポレオン戦争に従軍して1806年に親王とともにフランス軍の捕虜となるまで、多くの戦史研究や戦略論、政治評論などを執筆している。

 1807年、ティルジット講和条約が締結された後、クラウゼヴィッツは捕虜交換により釈放され、その後、フランス軍占領下にあったベルリンに帰還した。1809年、クラウゼヴィッツは陸軍省に勤務し、皇太子の軍事教育も担当した。1812年、フランス軍に対抗するため、一時期ロシア軍に軍籍を置きながら、参謀としてフランス軍と戦った愛国的な軍人でもあった。ナポレオン戦争終結後にはベルリンの陸軍大学校の校長として勤務している。『戦争論』の原稿はこの頃に執筆されたものだ。

 クラウゼヴィッツは1830年に校長を辞任して、七月革命の余波を受けたポーランドでの暴動を鎮圧するために派遣されるが、1831年にコレラで病死した。

 『戦争論』の思想は大モルトケをはじめとする後世の軍人たちや、レーニンをはじめとする革命家たちにも大きな影響を与えた。日本も例外ではない。クラウゼヴィッツの思想は、1867年に始まった明治維新による日本の国家建設以来、軍事のあらゆる分野に様々な影響を与えている。しかし、日本の軍人は『戦争論』に最も明確に述べられている戦争の本質について学ぶことよりも、ドイツを手本として軍事行動を計画し、実行する方法を学ぶことに熱心だった。

 日本陸軍は、ドイツ第二帝政期の初期におけるドイツの軍事思想を通じて、クラウゼヴィッツの思想を主として間接的に学んだ。彼らは師団レベルの基礎的な戦術と応用戦術に関する教育を受けた。その教育の特色は、クラウゼヴィッツが重視した理論と実際の統一にあった。この教育の成果は非常に大きかったので、このような教育法は陸軍大学の誇るべき伝統として、第二次世界大戦までそのまま継承された。

(参考資料)広瀬隆「クラウゼヴィッツの暗号文」、寺山修司「さかさま世界史 怪物伝」

 

モーセ 古代イスラエルの民族指導者で、最も重要な預言者の一人

モーセ 古代イスラエルの民族指導者で、最も重要な預言者の一人

 一般にはモーゼと呼称されることが多いが、旧約聖書の『出エジプト記』などに現れる、紀元前13世紀ごろ活躍したとされる古代イスラエルの民族指導者モーセは、ここに取り上げる人物たちとかなりスケールは異なるが、紛れもなく大怪人といっていいのではないか。彼はユダヤ教、イスラム教、キリスト教など多くの宗教において、最も重要な預言者の一人とされる。

 『旧約聖書』の『出エジプト記』によると、モーセはイスラエル人のレビ族の父アムラムと母ヨケベドとの間に生まれ、兄アロンと姉ミリアムがいた。モーセが生まれた当時、イスラエル人が増えすぎることを懸念したファラオは、イスラエル人の男児を殺すよう命令した。こうして殺される運命にあったモーセは出生後、しばらく隠して育てられたが、やがて隠し切れなくなり、葦舟に乗せてナイル川に流された。そこへファラオの王女が通りかかり、彼を拾い、水から引き上げたので、マーシャー(引き上げる)から、「モーセ」と名付けられたという。

 成長したモーセは、同胞のイスラエル人がエジプト人に虐待されているのを見てエジプト人を殺害。ファラオの追討軍の手を逃れてミディアンの地(現在のアラビア半島)に住んだ。モーセはミディアンでツィポラという女性と結婚し、羊飼いとして暮らしていたが、ある日燃える柴の中から神(エホバ)に語り掛けられ、イスラエル人を約束の地(現在のパレスチナ周辺)へ導く使命を受ける。こうして彼の預言者としての活動が始まる。

 エジプトに戻ったモーセは兄アロンとともにファラオに会い、イスラエル人退去の許しを求めたが、ファラオは拒絶、なかなか許そうとしなかった。そのため「十」の災いがエジプトにくだり、ようやくイスラエル人たちはエジプトから出ることができた。それでもファラオは心変わりして軍勢を差し向けるが、葦の海で水が割れたため、イスラエル人たちは渡ることができたが、ファラオの軍勢は海に沈んだ。映画『十戒』でも最大のダイナミックなシーンとして、リアルに表現されていただけに、ご承知の人も多いはずだ。その後、モーセはシナイ山で神から石版2枚の十戒を受けた。

 『レビ記』『民数記』『申命記』によると、その後のモーセはイスラエル人を導いて荒野を通って土地の王たちとの戦いを経つつ、カナンの地へ至った。しかし、カナンを前に民が神とモーセに不平を言ったため、神はさらに40年の放浪をイスラエル人たちに課した。モーセもメリバの泉で神の命令に従わなかったことにより、カナンの地へ入ることを許されなかった。そして、40年の期間が満ちたとき、モーセは民に別れの言葉を残した。その後、モーセはビスガの山頂で約束の地カナンを目にしながら、世を去ったという。没年齢は120歳。

(参考資料)寺山修司「さかさま世界史 怪物伝」

 

近藤重蔵 北方領土に注いだ篤い志は上層部にうるさがられ左遷の連続

近藤重蔵 北方領土に注いだ篤い志は上層部にうるさがられ左遷の連続

 九州の大宰府に左遷された菅原道真や、豊臣秀吉に切腹を命じられた千利休らとは格は違い、それほど有名ではないが、北辺の探検家だった近藤重蔵も江戸幕府の実力者に疎まれて、左遷に次ぐ左遷の中で生き、死んだ後、人々から「雷」になったと噂された。それは彼が死ぬ前「俺は死んだら必ず雷になって、択捉島や樺太の守護神になる」としきりに告げていたからだ。したがって、近藤重蔵の雷への変身願望は、個人的な怨念を晴らすためではなく、あくまでも北方領土防衛のために、死んだ後も闘い続けるという意気が込められている。

 近藤重蔵は終始一貫して北方領土に深い愛情を注いだ志の高い日本人だった。しかし彼の篤い志は、必ずしも幕府上層部の受け容れるところとはならなかった。むしろ、彼の頑固一徹の性格も災いして、志が篤過ぎたために、かえってうるさがられ、遠ざけられてしまったのだ。

 近藤重蔵は江戸時代後期の幕臣、探検家。御先手組与力、近藤右膳守知の三男として江戸駒込に生まれた。諱は守重(もりしげ)、号は正斎・昇天真人。間宮林蔵、平山行蔵とともに“文政の三蔵”と呼ばれる。山本北山に儒学を師事。同門に太田錦城・小川泰山・太田全斎がいる。幼児の頃から神童といわれ、8歳で四書五経を諳んじ、17歳で私塾「白山義学」を開くなど、並々ならぬ学才の持ち主だった。生涯、六十余種千五百余巻の著作を残している。生没年は1771(明和8年)~1829年(文政12年)。

 父の隠居後の1790年(寛政2年)、御先手組与力として出仕。火附盗賊改方としても勤務。1794年(寛政6年)には松平定信が行った湯島聖堂の学問吟味において最優秀の成績で合格。1795年(寛政7年)、長崎奉行手付出役、1797年(寛政9年)に江戸へ帰参し支払勘定方、関東郡代付出役と栄進した。

 1798年(寛政10年)、幕府に北方調査の意見書を提出して松前蝦夷地御用取扱。4度、蝦夷地(北海道)へ赴き、最上徳内と千島列島、択捉島を探検、同地の「大日本恵土呂府(えとろふ)」の標柱を立てた。松前奉行設置にも貢献。蝦夷地調査、開拓に従事し、貿易商人の高田屋嘉兵衛に国後から択捉間の航路を調査させた。

 1803年(享和3年)、譴責により小普請方。1807年(文化4年)にロシア人の北方侵入に伴い、再び松前奉行出役となり、5度目の蝦夷地入り。その際、利尻島や現在の札幌市周辺を探索。江戸に帰国後、十一代将軍徳川家斉に謁見を許された。その際、札幌地域の重要性を説き、その後の札幌発展の先鞭をつけた。

 1808年(文化5年)、江戸城紅葉山文庫の書物奉行となる。しかし、自信過剰で豪胆な性格が見咎められ、1819年(文政2年)、大坂勤番弓矢奉行に左遷。1821年(文政4年)、小普請入差控を命じられて江戸滝ノ川村に閉居。1826年(文政9年)、長男の近藤富蔵が町民を殺害して八丈島に流罪となり、連座して近江国大溝藩にお預けの身となった。

 

(参考資料)童門冬二「江戸の怪人たち」、杉本苑子「癖馬」 、司馬遼太郎「街道をゆく37」

 

 

三浦鞍針 俸禄を与えられ徳川家康に仕えた英航海士・貿易家

三浦鞍針 俸禄を与えられ徳川家康に仕えた英航海士・貿易家

 三浦鞍針ことウイリアム・アダムスは、江戸時代初期に徳川家康に外交顧問として仕えたイギリス人航海士・水先案内人・貿易家だ。家康から俸禄とともに、「三浦鞍針」という日本の名を与えられ、異国人でありながら、日本の武士として生きるという数奇な境遇のもとで、その生涯を終えた。奇人、ウイリアム・アダムスの生没年は1564~1620年。

 イングランド南東部のケント州ジリンガムの生まれ。船員だった父親を亡くして故郷を後にし、12歳でロンドンのテムズ川北岸にあるライムハウスに移り、船大工の棟梁ニコラス・ディギンズに弟子入り。造船術より航海術に興味を持つ少年だったという。

 ウイリアム・アダムスが、自身の人生を大きく変えることになったのは、1598年、弟のトーマスらとオランダのロッテルダムから極東を目指す、5隻からなる船団の航海士として乗船したことだった。ウイリアム・アダムス34歳のときのことだ。彼は英国海軍の貨物補給船に身を置き、海戦にも参加したことがあったが、当時は軍を離れて「バーバリー商会ロンドン会社」の航海士・船長として北方航路やアフリカへの航海で多忙で、ほとんど家にいることはなかったらしい。そして、25歳のときに結婚したメアリー・ハインとの間に娘デリヴァレンスと息子ジョンの二子をもうけていた。

 極東を目指した航海は惨憺たるありさまで、マゼラン海峡を抜けるまでに、スペイン船に拿捕される船、沈没する船が出る一方、インディオの襲撃に遭うなど次々に船員を失った。弟のトーマスもインディオに殺害された。その結果、極東に到着したのはウイリアム・アダムスが航海士として乗船していたリーフデ号1隻で、出航時110人だった船員は、日本到着までに24人に減っていた。

 1600年(慶長5年)リーフデ号は豊後の臼杵に漂着した。疲労と憔悴で、自力では上陸できなかった乗組員は、臼杵城主、太田一吉の出した小船でようやく日本の土を踏んだ。その後、当時、豊臣政権の下で五大老首座だった徳川家康がアダムス、ヤン=ヨーステン・ファン・ローデンスタイン、メルキオール・ファン・サントフォールトらを初めて大阪で引見。

イエズス会士の注進でリーフデ号を海賊船だと思い込んでいた家康は、路程や航海の目的、オランダや英国など新教国とポルトガル・スペインら旧教国との紛争を臆せず説明するアダムスとヤン=ヨーステンを気に入って誤解を解いた。家康はしばらく彼らを投獄したものの、何度か彼らを引見した後、釈放。そして城地の江戸へ彼らを招いた。

 江戸に到着後、アダムスは繰り返し英国への帰国願いを出したが叶わず、家康は米や俸禄を与えて慰留。外国使節との対面や外交交渉に際して通訳を任せたり、助言を求めることが多かった。この時期、幾何学や数学、航海術などの知識を家康以下の幕閣に授けたといわれている。帰国を諦めつつあったアダムスは1602年頃、日本橋大伝馬町の名主で家康の御用商人でもあった馬込勘解由の娘、お雪(マリア)と結婚。彼女との間に息子のジョゼフと娘のスザンナが生まれている。

 結婚し家族を得たことでアダムスは精神的に安定、家康の意向に沿って動いている。船大工としての経験を買われて、伊東に日本で初めての造船ドックを設けて80㌧の帆船を建造した。1604年(慶長9年)完成すると、家康は気を良くしてアダムスに大型船の建造を指示、1607年には120㌧の船舶を完成させた。

 この功績を賞した家康は、更なる慰留の意味もあってアダムスを250石取りの旗本に取り立て、帯刀を許したのみならず、相模国逸見(へみ)に采地も与えた。また、三浦鞍針の名乗りが与えられた。まさに、破格の扱いだ。“三浦”は領地のある三浦半島に因むもので、“鞍針”は彼の職業で水先案内人の意。この結果、彼は異国人でありながら、日本の武士として生きるという数奇な人生を送ることになった。この所領は息子のジョゼフが相続し、三浦鞍針の名乗りもジョゼフに継承されている。

 鞍針の墓は長崎県平戸市の「崎方公園」にある。また、神奈川県横須賀市西逸見(にしへみ)町の「塚山公園」には鞍針夫妻の慰霊碑があり、1923年、国の史跡に指定された。

 

(参考資料)白石一郎「航海者」、邦光史郎「物語 海の日本史 三浦按針」

 

 

天草四郎・・・3倍超もの幕府連合軍をはねのけた「島原の乱」の少年指導者

天草四郎は江戸時代初期、飢饉や重税とキリシタン弾圧に苦しむ農民が起こした反乱、「島原の乱」の指導者とされている人物だが、その実像は定かではない。本名は益田四郎時貞。苗字は益田、通称は四郎、諱は時貞。洗礼名はジェロニモもしくはフランシスコ。一般に天草四郎時貞の名で知られる。生没年は1621?(元和7?)~1638年(寛永15年)。

天草四郎は、肥後国の南半国の熱烈なキリシタン大名で関ケ原の戦いに敗れ斬首された小西行長の遺臣・益田甚兵衛好次の子として、母の実家のある天草諸島の大矢野島(現在の熊本県上天草市)で生まれたとされる。しかし、宇土郡江辺村(現在の宇土市)、または長崎出身という説もあり、出生地ははっきりしない。
益田家は小西氏滅亡後、帰農した牢人で、一家は敬虔なキリシタン信徒で宇土に居住したという。天草は九州の中でもとくにキリシタン人口の比重が高い地域だったので、そうした周囲の環境から四郎も自然にキリスト教に接近していったのだろう。

四郎は生まれながらにしてカリスマ性があり、大変聡明で、慈悲深く、容姿端麗だったと伝えられている。彼は、小西氏の旧臣やキリシタンの間で救世主として擁立、神格化された人物と考えられており、盲目の少女に彼が触れると視力を取り戻した、海を歩いた-など様々な奇跡を起こした伝説や、彼が豊臣秀頼の落胤、豊臣秀綱であるとする風説も広められた。

江戸時代初期の天草・島原地方は飢饉や重税とキリシタン弾圧に苦しみ、民衆の不満は頂点に達していた。1634年(寛永11年)から続いていた大凶作の中でも容赦ない年貢の取り立ては行われたし、生きたまま海に投げ込まれたり、火あぶりの刑など想像を絶するキリシタン信者への迫害があった。

その不満を抑えていたのが、マルコス宣教師が残した予言だった。1613年(慶長18年)、マルコスは追放されるとき「25年後に神の子が出現して人々を救う」と予言した。人々はこの予言を信じ、神の子の出現に懸けていたのだ。そして、予言にある25年目の1637年(寛永14年)、長崎留学から帰った四郎が様々な奇跡を起こし、神の子の再来と噂されるようになる。四郎の熱心な説教は人々の心を捉え、評判は天草・島原一帯に広まり、遂には一揆の総大将に押し立てられるのだ。

過酷な徴税と限界を超えた弾圧に耐え切れず、1637年(寛永14年)年貢納入期を前に遂に島原で農民が蜂起。呼応して天草でも一揆が起こり、島原半島に渡って島原勢と合流する。こうして当時16歳の少年、天草四郎は一揆軍の精神的支柱となり、鎮圧軍と戦うことになる。一揆軍は島原城主松倉重政が城を島原に移すまで使っていた原城に籠り、長期戦となった。

松倉重政の家老からの一揆蜂起の報を受けた幕府は、ことの大きさに驚き、九州諸大名に帰国を命じて備えさせる一方、京都所司代板倉重昌らを上使として鎮圧軍を送り込んでいる。はじめは簡単に攻め落とせると思われていたが、籠城兵の意外な抵抗の強さにびっくりし、焦って無理に攻めたため、かえって死傷者を多く出す結果になってしまった。寄せ手の大将、板倉重昌が鉄砲で眉間を撃ち抜かれて戦死している。

とはいえ幕府連合軍12万5800人に対し、戦うことには素人で寄せ集めの集団、一揆軍はわずか3万7000人。力の差は歴然としていた。幕府はその後、松平信綱を送り込み、またオランダ船の砲撃といった助けなどを借りながら、3カ月余りかかってようやく原城を攻め落とした。1638年(寛永15年)、一揆軍は全滅。幕府軍も8000人の死傷者を出して終結した。四郎も熊本藩の陣野佐左衛門という侍に首を取られ、母親の首実検で四郎本人であることが確認された後、首は長崎で晒された。

この戦いで一揆軍の四郎が、実際にどのような采配を振るったのかは分からない。しかし、彼が一揆軍を結束させるカリスマ的な存在であったことは事実で、その結束力の強さが12万の大軍の攻撃をはねのけたことも間違いない。

(参考資料)小和田哲男「日本の歴史がわかる本」

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役小角・・・修験道の開祖で、神秘的な逸話に彩られ、人物像は伝説化

 仏教の諸宗諸派がその開祖などの遺徳を偲び、50年あるいは100年といった区切りで大規模な法要を行うことを御遠忌(ごおんき)という。2000年、修験道の世界でこの御遠忌が大々的に繰り広げられた。聖護院を本山とする本山修験宗、醍醐三宝院を本山とする真言宗醍醐派、金峯山寺を本山とする金峯山修験本宗の三派が行った大規模な法要がそれだ。この御遠忌の主が役小角(えんのおづぬ、えんのおづの)、あるいは役行者(えんのぎょうじゃ)とも呼ばれる人物だ。

役小角は7世紀に実在したとされ、修験道の開祖と崇められ、修験道を実践する修験者=山伏の間では「神変(じんぺん)大菩薩」の尊称で篤く信仰されている。だが、神秘的な逸話に彩られ、伝えられる人物像は後の伝説によるところが大きい。

 役小角に関する記録の中で、正史と呼べるものは平安時代初期の史書「続日本紀」の一つだけだ。役小角は鬼神を使って水を汲ませたり、薪を採りに行かせたりした。そして、もし言うことを聞かないようなことがあれば呪縛した-と書かれている。このほか、役小角は、初め葛城山に住んでいて、呪術で広く知られた存在だったが、自分の弟子の韓国連広足にその能力を妬まれて、人を怪しい言葉で惑わせるという讒言に遭い、伊豆に流された-とある。正史としてはこれだけなのだ。

 伝説は9世紀の「日本霊異記」、12世紀の「今昔物語」などに登場する。役小角は賀茂役公(えのきみ)、後の高賀茂朝臣の出で、大和国損木上郡茅原村の人という。生没年は不詳で、一説に643年頃~706年頃。役小角の母は天から降ってきた独鈷(とっこ)という仏具が体内に入り、小角を処女懐胎した。そして胎内にいるときから「異光」や「神光」を放ったという。 生まれたとき、頭に1本の角があったという伝承もあり、これが「小角」の名の由来ともいわれる。

やがて小角は成長、岩窟に籠って修行を積んだ結果、「孔雀明王」の呪術を修得し、呪文を唱えては奇跡を起こした。孔雀明王とは孔雀を神格化した仏のこと。さらに小角は五色の雲に乗り、自由に空まで飛んだという。こうした小角の能力に、神々さえも恐れをなした。人間でありながら、神々が恐れた男、彼が生涯を通じてなしたとされる奇跡は、釈迦やキリストにも劣らない。まさに日本史上、最も奇妙で神秘的な人物の一人といっていいだろう。

 小角は神々に命じて、吉野の金峯山寺と葛城山との間に岩の橋を架けさせようとした。この難事業に神々は困惑し、一言主(ひとことぬし)神が人間に乗り移って、小角に反逆の意があると朝廷に訴えた。朝廷は小角を捕えようとしたが、容易に捕えられない。そこで、小角の母を縛った。母の苦痛を思った小角は自ら縛につき、伊豆に流された。しかし、流されたといっても、昼は伊豆にあったが、夜は駿河国の富士山に登って修行を重ねた。一方の一言主は、配流だけでは飽き足らず、小角を処刑するように託宣した。そこで朝廷は伊豆へ挙兵し、処刑を執行しようとした。ところが、そのとき刀の刃に「小角を赦免して崇めよ」という富士明神の言葉が現われたため、これに驚き、言葉通りに赦免した。自由の身になった小角は一言主明神を呪縛。そして日本を見限り、老母を伴い、唐へと飛び去って行った…。

 ほとんどのことが伝説、伝承の中にある役小角だが、確かなことは小角が朝廷にとって見過ごせない力を持った人物だったということだ。朝廷が呪術や山林修行を規制する中にありながら、彼はそれらを通じて名を馳せた。同時に小角は、人々にとって忘れ難い人物でもあった。後に小角をめぐる数々の伝承が作られ続けたことがその証拠だ。恐らく彼は呪術者、あるいは山林修行者として、相当な人望を集めていたのではないか。また、怨霊を恐れる日本独自の審理が働き、小角の神格化が始まったと推察される。

(参考資料)歴史の謎研究会・編「日本史に消えた怪人」

大野弁吉・・・からくり人形など多才、黒子に徹した銭屋五兵衛のブレーン

 大野弁吉の存在は、あまり知られていない。彼は黒子に徹し、歴史の表面に出てこないからだ。大野弁吉は「海の百万石」といわれた加賀藩の御用商人、銭屋五兵衛の何人かいたブレーンの一人だった。しかし、日本全国における拠点・支店網の設置、扱い品目の拡大、外国との貿易など、銭屋五兵衛が海を主体にして展開した幅広い商活動のほとんどは、この大野弁吉の進言によっているといっても過言ではない。弁吉のブレーンぶりは極力、銭屋の店の組織に入らずに行うことだった。

 大野弁吉は1801年、京都五条通の羽子板細工師の子として生まれた。幼少の頃から四条派の画を描き、20歳ごろ長崎に留学。オランダ人から医学、天文学、理化学、西洋科学を学び修得。絵画や彫刻も学んだという。その後、対馬や朝鮮に渡り、馬術、砲術、算術を学び、帰国した後は紀伊国に出かけ、砲術、馬術、算術、暦学を究めた。加賀国石川郡大野町(現在は金沢市に編入)に住んだところから大野弁吉と呼ばれた。

 弁吉は「加賀の平賀源内」とも「加賀のダ・ヴィンチ」とも評されるように、エレキテルや万歩計、発火器(ライター)、ピストルまで制作し、鶴の形をした模型飛行機を作って飛ばし、多くの人を唖然とさせたこともあるという。彫刻も巧みで、名工の域にまで達していた。このほか、たった1枚の銀板写真を見てカメラを作ったという話さえある。製作年ははっきりしないが、弁吉が撮った妻うたの写真などが残っている。

 多種多彩な才能を持っていた弁吉は、紀伊から京都に戻り、中村屋の婿養子となる。それから30歳ごろから妻の実家、越前国の大野に移り住んだ。職業は指物師。家具や机、木箱などの生活用品を作る職人だ。だが、現在では仕事の合間に作っていた、からくりの制作者としてよく知られている。からくりの新しいアイデアがひらめくと、食事も摂らずに2日も3日も作業場にこもって妻を心配させたそうだ。

からくりの中で有名なのは「茶運び人形」だ。人形の上に茶碗を乗せると、客に向かって運び、その茶碗を受け取ると、お辞儀をして、くるっと向きを変えて帰っていくというものだ。その他にもゼンマイを回すと人形が太鼓を叩き、ネズミが穴からちょこちょこ出てきて、再び穴に入っていく「ねずみからくり」や「鯉の滝登り」「三番叟人形」「品玉人形」などの作品を作っている。

 こんな弁吉の良き理解者だったのが「銭五」とも呼ばれた加賀の豪商、銭屋五兵衛だ。弁吉は富や名誉には全く無関心で、天才にありがちな気紛れもの。仕事は気が向かなければ、頼まれてもやらない。そのせいで夫婦の生活は常に苦しかった。親交の深かった銭五からでさえ弁吉は生活の援助を受けようとしない。一度、貧しさを見かねた銭五が米を持ってきたときも、弁吉はひどく憤慨した。だが、銭五は「俺はお前に施しをするつもりはない。これは今から頼む指物の前払いだ」といって、さらに味噌、醤油、野菜、魚、弁吉の大好きな酒、そしてうたの着物まで運び込んだという逸話が残っている。

 銭屋五兵衛との親交は20年以上にも及んだ。その銭五は河北潟埋め立てに関して、濡れ衣だったが、毒物を使うことを指示した疑いで投獄され、無実を訴えながら獄中で非業の最期を遂げる。加賀藩はそれまで銭五をさんざん利用して藩ぐるみで密貿易をしていた。その密貿易が幕府に知られ、嫌疑をかけられそうになったため、罪を銭五一人に背負わせて藩の責任を逃れようとしたのが真相だった。こうして弁吉は良き友で、良き理解者だった銭五を失った。

 大野弁吉は好奇心の塊のような人物だったのだろう。器用貧乏のようにもみえるが、平賀源内と比べると無名だが、才能、とくに独創性は源内より優れていたといえるのではないか。弁吉は1870年(明治3年)、70歳で生涯を終えた。弟子は多くはなかったが、米林八十八、朝倉長右衛門をはじめ和算、医術、彫刻、写真など多くの分野で活躍した人たちがいて、明治期に活躍した。

(参考資料)童門冬二「江戸の怪人たち」、童門冬二「海の街道」、南原幹雄「銭五の海」、尾崎秀樹「にっぽん裏返史」

金地院崇伝・・・豊臣氏を追い詰めた方広寺鐘銘事件に深く関与した怪僧

金地院崇伝は臨済宗の僧でありながら、江戸幕府を開いた徳川家康に招かれ、やがて幕政に参加。寺院諸法度、武家諸法度、禁中並公家諸法度の制定などに関係した。また、豊臣氏を滅亡に追い込むきっかけとなった「方広寺鐘銘事件」にも深く関与。時にはかなり強引とも思える手法で、政務を断行し、徳川政権を支え、安定に寄与したといわれている。同じように家康に招かれ、権勢を誇った南光坊天海とともに「黒衣の宰相」と呼ばれた“怪僧”だ。金地院崇伝の生没年は1569(永禄12)~1633年(寛永10年)。

金地院崇伝は武家の名門、足利将軍家の家臣一色氏の一門、一色秀勝の第二子として京都で生まれた。1573年に室町幕府が滅亡し、父秀勝も没落。父の没後、南禅寺で玄圃霊三に師事し、南禅寺塔頭の金地院の靖叔徳林に嗣法、さらに醍醐寺三宝院で学んだ。1594年に住職の資格を得て、福厳寺、禅興寺に住持している。この頃から彼は「以心崇伝」を名乗るようになった。

以心崇伝は1605年(慶長10年)、鎌倉五山の一つ、建長寺の住職となった。そして同年、彼は古巣で臨済宗大覚寺派の本山、南禅寺の270世住職となった。臨済宗の最高位に就いたのだ。このあたりの経緯については定かではない。

1608年(慶長13年)以心崇伝は、豊臣政権に代わり江戸幕府を開いた徳川家康に招かれて駿府へ赴き、没した西笑承兌に代わり、外交関係の事務を担当。やがて幕政にも参加するようになった。1612年から閑室元佶や京都所司代・板倉勝重とともに寺社行政に携わり、キリスト教の禁止や寺院諸法度、幕府の基本方針を示した武家諸法度、朝廷権威に制限を加える禁中並公家諸法度の制定などに関係した。

以心崇伝はかなり強引な手法も交え、政治では辣腕を振るった。例えば「方広寺鐘銘事件」がそれだ。1614年、崇伝は家康から豊臣家を追い落とす方法はないか-と相談を受けた。そこで彼が持ち出したのが方広寺の鐘銘だった。その鐘銘に『国家安康』『君臣豊楽』という文があった。これを彼は『国家安康』は家康公の名を引き裂いており、『君臣豊楽』は豊臣家を主君として楽しむ-と取れると言い、これで言いがかりをつけては、と提案したのだ。強引で勝手な解釈による、あきれるほどの言いがかりもいいところだが、これを大問題にしてしまったのだ。これにより、「方広寺鐘銘事件」が起こり、豊臣家を開戦に走らせたわけで、家康の思いを叶えた良策となった。崇伝の“怪僧”の面目躍如?といったところだ。

こうした強引で卑劣な策略をも用いたため、崇伝は庶民には全く人気がなかった。庶民は彼を「大欲山気根院僭上寺悪国師」とあだ名し、大徳寺の沢庵宗彭(たくわん そうほう)は「天魔外道」と評している。こんな世評にも崇伝は全くめげない。

1616年(元和2年)、家康が亡くなると、神号をめぐり崇伝は、南光坊天海と争った。天海は神号を権現として神仏習合神道で祀りたいとし、崇伝は神道で祀り大明神の神号を奉りたいと、意見は真っ向から対立、二人の間で激しい論争が繰り広げられた。だが、明神は豊臣氏の豊国大明神とつながって不吉-と主張する天海側に大勢が流れ、結局は天海の主張する権現に決まり、崇伝は敗れた。
1616年(元和4年)、崇伝は江戸・芝に金地院を開き、翌年僧録司となって五山十刹以下の寺院の出世に関する権力を握り、名実ともに禅宗五山派の実権を掌握した。1626年(寛永3年)、後水尾天皇より円照本光国師の諡号を賜った。

(参考資料)司馬遼太郎「覇王の家」、司馬遼太郎「城塞」

工藤平助・・・ 『赤蝦夷風説考』で江戸期の海防論の先駆けに

 工藤平助は鎖国下の日本において、長崎のオランダ人と交友のある蘭学者などから入ってくる帝政ロシアの情報をまとめ『赤蝦夷風説考』を著し、老中田沼意次に建白書として提出、江戸期の海防論の先駆となった人物だ。林子平はこの工藤平助から蘭学の知識、国防論の刺激を受け兄事していたが、『海国兵談』を著わした際、子平に懇願されて平助は序文を書いている。生没年は1734(享保19)~1801年(寛政12年)。

工藤平助は紀州藩医、長井大庵の第三子として生まれた。名は球卿(きゅうけい)、字は元琳(げんりん)、万光(ばんこう)、通称は周庵(しゅうあん)、青年になって平助と称した。只野真葛(ただのまくず)は娘。12歳まで紀州で育ったが、13歳のとき父・長井大庵と親交のあった仙台藩医、工藤丈庵の養子となった。工藤家は代々仙台藩医だった。医術を養父に学び、儒学を服部南郭(なんかく)、青木昆陽に師事した。

平助は1754年(宝暦4年)、父禄300石を継ぎ藩医に列せられ、江戸定詰となった。時代は移っても大過なく藩に仕え、医師としても重視されたが、藩政にも関与するようになり、小姓頭から出入司(仙台藩固有の官職で財務をつかさどる)に進んだ。

平助は医術のみに携わることを好まず、学問を修め、多くの優れた友人と様々なことを論じ合った。中川順庵、野呂元丈、吉雄耕牛、桂川甫周ら蘭学者と交遊、海外の知識を得た。親交のあった蘭医・学者、前野良沢の弟子、大槻玄沢を藩医に推挙し、彼と親族の義を結んだ。平助は玄沢とともに仙台領内の薬物30種を調査研究し、藩政に寄与した。

1883年(天明3年)、平助は老中田沼意次に建白書『赤蝦夷風説考』を提出し、ロシアの南下を警告し、開港交易と蝦夷地経営を説いた。赤蝦夷とは当時日本側が使っていたロシアの通称。これによって平助は、林子平、本多利明ら江戸期の海防論の先駆となった。

老中田沼意次は蝦夷地経営に関心を寄せており、ロシア人南下の脅威に備える必要性を認識していた。そこで平助は何とか自著を田沼の目に留めようと、田沼の用人、三浦庄司を介して上申。その甲斐あって1784年(天明4年)、勘定奉行松本秀持が田沼に提出した蝦夷地調査に関する伺書に、この『赤蝦夷風説考』が添付された。伺書は『赤蝦夷風説考』を引用しながら、蝦夷地の肥沃な大地、豊富な産物、地理的重要性を強調し、幕府主導による防備・開発を進言している。

それを受けた田沼意次は早速、翌年、幕府主導の下に全蝦夷地沿海への探索隊を派遣するに至って、平助の宿願は結実する。しかし1786年(天明6年)、田沼の失脚により、この探索隊は残念ながら中途で断絶してしまった。

(参考資料)永井路子「葛の葉抄」、奈良本辰也「歴史に学ぶ」

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佐倉惣五郎・・・一族の身命を賭けて藩主の苛政を将軍に直訴した義民

佐倉惣五郎は江戸時代前期、自身の命を賭けて藩主の苛政を将軍に直訴した下総国印旛郡公津村(現在の千葉県成田市台方)の名主だったといわれる。その結果、藩主の苛政は収まったが、惣五郎夫妻、そして4人の子供までも磔となってしまった。後世、物語や芝居の題材に取り上げられ、佐倉惣五郎は“義民”として知られるようになった。生没年は不詳。俗称は宗吾。

佐倉惣五郎の名は江戸時代の百姓一揆の指導者として有名だ。しかし、有名なのは芝居として上演されたりしてきたためで、史実ではなく伝説としての惣五郎といった色彩が濃い。そのため、少し前までは惣五郎は架空の人物で、実在しなかったのではないかと主張する研究者もいたほどだ。実在か非実在かの論争に決着をつけたのは児玉幸多氏だ。当時の名寄帳に「惣五郎」という名前があることから、惣五郎の実在が確認されたのだ。その名寄帳によると、惣五郎は3町6反の田畑を持ち、9畝10歩の広さの屋敷を持っていたことが分かる。そこで、当時の百姓としては上層部に属していたことも判明した。しかし、確実な史料によって確認されるのはそこまでで、彼が名主だったとか、さらに割元名主(大庄屋)だったとか、直訴を行ったなどということは確かめることはできない。

土地の農民たちの間で語り伝えられていた惣五郎伝説が、文字となって他の地域の人々に知られるようになったのは、18世紀に入ってからのことと思われる。1715年(正徳5年)、磯部昌言編の「総葉概録」に惣五郎伝説の概要が記されている。しかも、惣五郎が冤罪で殺され、その祟りで藩主堀田氏が滅びてしまったことまで書かれている。しかし、今日流布しているような物語性を持った惣五郎伝説が成立してくるのはもっと後のことで、「地蔵堂通夜物語」「堀田騒動記」「佐倉義民伝」が世に出てからのことだ。これらは18世紀末から19世紀初めにかけての成立と思われ、伝えられる直訴事件があってからすでに150年近くも経っていたわけで、これらから史実を探っていくことは困難といわざるを得ない。

惣五郎の住む公津村は佐倉藩領だった。藩主堀田正盛が1651年(慶安4年)、三代将軍家光の死に殉じ、子の正信の代になって急に年貢・諸役の増徴を始めたのだ。佐倉藩領は1644年(正保元年)からの凶作ですでにかなり疲弊していたが、そのうえの増徴ということで、百姓たちは困窮の極みに達していた。そこで、惣五郎をはじめとする藩領村々の名主たちは、とりあえず百姓たちの窮状を代官や奉行および家老たちに訴えた。しかし、その訴えは取り上げてもらえなかったのだ。その頃には百姓一揆を起こそうとする動きも起き始めていたが、惣五郎ら名主はそうした動きを押さえ、名主たちの連判状を持って、江戸の藩邸へ訴え出た。こうした「代表越訴型一揆」までも江戸の藩邸では却下されてしまい、惣五郎らは老中の久世広之に駕籠訴をしている。しかし、それも成功しなかった。

こうなると、百姓一揆の蜂起を食い止めるには、将軍への直訴しかない。そこで、惣五郎は四代将軍家綱が上野寛永寺に参詣するときを狙って越訴に及んだというわけだ。もっとも、越訴を決行した時期については1652年(承応元年)とする説、その翌年とする説がありはっきりしない。しかし、越訴の結果、1654年(承応3年)、佐倉藩は加重した年貢・諸役を免除している。このまま何もお咎めがなければ、あるいは惣五郎伝説は生まれなかったかも知れない。越訴は違法行為なので、成功しても成功しなくても、自分は死罪を免れないと思って覚悟していたろう。惣五郎だけの死罪であれば、あるいは怨霊伝説は生まれていなかった。

ところが、堀田正信は24歳という若さのゆえか、越訴をされ自分のプライドに傷をつけられた思いだったからか、惣五郎の妻子にまで過酷な処罰を科したのだ。妻はもちろん、何の罪もない4人の子供まで磔にされているのだ。惣五郎とその妻が見ている前で4人の子供を殺すという残虐ぶりだった。このときの惣五郎の怨みが以後、怨霊となって正信に祟ることになる。

千葉県成田市にある真言宗豊山派の寺、東勝寺には義民・佐倉惣五郎を祀る霊堂があることから、同寺は宗吾霊堂(そうごれいどう)とも呼ばれる。

(参考資料)小和田哲男「日本の歴史がわかる本」

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蘇我馬子・・・日本古代史・最大の権力者で、大和政権の実権を掌握

 日本の古代史で、まさに“怪人”と評され、巨大な権力を持ち“悪役”の烙印を押された人がいる。それは蘇我馬子だ。彼は権力への妄執に取り憑かれ、目的のために手段を選ばず、政敵ばかりか天皇まで暗殺した。そして傀儡の天皇を操り大和政権の実権を掌握。息子の蝦夷、そのまた子の入鹿まで蘇我氏は三代にわたって、その権力は受け継がれた。確かに馬子が手中にした権力は強大だった。そのことは飛鳥寺、石舞台古墳など馬子が残した史跡からもうかがえる。

また、聖徳太子を重用し、四天王寺や法隆寺の創建を通じて日本の仏教伝来を主導したのも彼だ。後世の評判はともかく、馬子が日本の古代史で決定的な役割を果たした人物なのは間違いない。まさに怪人と呼ばれる所以だ

 蘇我馬子を悪役とする歴史観は、「日本書紀」に基づいたものだ。「古事記」「日本書紀」には潤色が加えられており、すべてを事実とは見做せない。馬子の実像も近年、従来とは異なる様々な見解が提唱されている。

 蘇我馬子は572年(敏達天皇元年)、大臣(おおおみ)に就き以降、用明天皇、崇峻天皇、推古天皇の4代に仕え、54年にわたり権勢を振るい、蘇我氏の全盛を築いた。父は稲目。姉に堅塩媛(きたしひめ、欽明天皇妃)、妹に小姉君(おあねのきみ、欽明天皇妃)、子に刀自古郎女(聖徳太子妃)、蝦夷、河上娘(崇峻天皇妃)、法提郎女(田村皇子妃)などがいる。伝えられる馬子の生没年は551年(欽明天皇13年)~626年(推古天皇34年)だが、定かではない。

 馬子には様々な事績があるが、大きなものの一つは父、稲目と同様、日本における仏教の興隆に力を注いだことだ。百済の工人に飛鳥寺を建立させた。また、渡来人である善信尼を百済に派遣して仏教を学ばせている。善信尼は、日本で最初の尼僧となった人物だ。

このほか、聖徳太子の優れた事績となっているものの中に、馬子こそがその主体者ではなかったかと指摘されているものも少なくない。あるいは、聖徳太子のよき理解者としての馬子がいたからこそ、太子はあれだけの、様々な改革を推し進めることができたのだとみる向きもあるのだ。

 ただ、馬子は大臣として54年もの長きにわたり権勢を振るっただけに、最高権力者としての“驕り”の場面も数多かった。馬子にとっては大王=天皇も特別、畏怖しなければならない存在ではなかった。東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)を使っての崇峻天皇暗殺が好例であり、天皇選びの際は、有力豪族も馬子の顔色をうかがいながらしか、意見が言えない状態だったようだ。まさに、馬子は王権を無視し、政治をほしいままにしていたのだ。こうした状況が蝦夷、入鹿と三代続いたわけで、その報復として後世、蘇我氏が“悪役”に仕立て上げられた最大の要因がここにあるのではないか。
古代史で強大な権力を誇った蘇我氏だが、そもそもそのルーツが定かではない。蘇我の名に渡来人である証拠が隠されているという説があるその論者の一人が作家の松本清張氏だ。朝鮮の史書「三国遺事」によると、かつて新羅は「徐伐(そぼる)」と呼ばれたことがあった。徐(ソ)は、蘇の音に連なる。伐と我は1画しか違わず、極めてよく似ている。したがって、蘇我は徐伐が転じた名ではないかというわけだ。

さらに渡来人説に立ちながら、馬子こそ当時の天皇だったとする見方もある。馬子天皇説はまず渡来人の勢力をより強大なものだったとする視点に立つ。そして天皇の始祖を渡来氏族に求め、その直系の子孫である馬子は皇位継承権があったとするものだ。また馬子が残した飛鳥寺、そしてその墓とされる石舞台古墳も天皇説の根拠とされている。つまり、・蘇我氏が氏寺とした飛鳥寺が法隆寺や四天王寺の2.5~3倍の規模を持つ・石舞台古墳が崇峻天皇の墓より数段大きく、しかも当時の政治の中心地だった飛鳥に作られている-などから、天皇以外の誰にもそのような権力は持ち得ない、というのがその根拠だが果たして…。

(参考資料)歴史の謎研究会・編「日本史に消えた怪人」、笠原英彦「歴代天皇総覧」、黒岩重吾「磐舟の光芒」、黒岩重吾「聖徳太子 日と影の王子」、豊田有恒「崇峻天皇暗殺事件」

山東京伝 ・・・初めて職業として戯作活動を行った江戸の代表的作家

山東京伝は江戸時代を代表する戯作者だ。従来の戯作者は、そのほとんどが余技で書いており、原稿料もほとんどなかった。これに対し、彼は職業として戯作活動を行い、原稿料が支払われるようになったのは彼が最初だともいう。また、松平定信が推進した「寛政の改革」で出版取り締まりにより、彼の洒落本三部が摘発され発禁となり、手鎖(てぐさり)50日の刑に処せられたことで知られている。
山東京伝は江戸・深川木場で岩瀬伝左衛門の長子として生まれた。生家は質屋だったという。本名は岩瀬醒(さむる)。通称は京屋伝蔵。「山東京伝」の筆名は、江戸城紅葉“山”の“東”に住む“京”屋の“伝”蔵からといわれる。ほかに山東庵、菊亭主人、醒斎(せいさい)、醒々老人、狂歌には身軽折介(みがるのおりすけ)などの号がある。合巻作者の山東京山は実弟。
山東京伝は浮世絵師・北尾重寅に学び、18歳で草双紙(黄表紙)の挿絵画家、北尾政寅(まさのぶ)としてデビュー。20歳ごろから黄表紙と呼ばれる絵入り読物を書き始める。黄表紙や洒落本を数多く書き、売れっ子作家となり、とくに『御存知商売物(ごぞんじのしょうばいもの)』(1782年)で一躍、黄表紙作者として脚光を浴び、恋川春町(こいかわはるまち)、朋誠堂喜三二(ほうせいどうきさんじ)らの武家作者と並び、天明・寛政期(1781~1801年)の中心的戯作者の地位を占めた。
ところが、1791年(寛政3年)、洒落本三部作『錦之裏(にしきのうら)』『仕懸(しかけ)文庫』『娼妓絹?(しょうぎきぬぶるい)』が、松平定信が推進した「寛政の改革」の出版取り締まりに触れ摘発・発禁処分となり、手鎖50日の筆禍に遭った。これに懲りたか、山東京伝は路線を変更。その後は読本作家として新境地を開き、享和・文化期(1801~1818年)には“飛ぶ鳥落とす勢い”だった曲亭馬琴に対抗し得た、ただ一人の作家だった。
そして、そのかたわら考証随筆にも名著を残した。その代表作には黄表紙に『江戸生艶気樺焼(えどうまれうわさのかばやき)』(1785年)、『心学早染草(しんがくはやぞめぐさ)』(1790年)、洒落本に『通言総籬(つうげんそうまがき)』、『古契三娼(こけいのさんしょう)』(ともに1787年)、『繁千話(しげしげちわ)』、『傾城買四十八手(けいせいかいしじゅうはって)』(ともに1790年)、読本に「忠臣水滸伝」(前編1799年、後編1801年)、『昔語稲妻表紙(むかしがたりいなずまびょうし)』(1806年)、随筆に『近世奇跡考』(1804年)、『骨董集』(1814、1815年)などがあり、貴重な史料として今日に残している。
門人には曲亭馬琴はじめ数人いるが、その影響は十返舎一句、式亭三馬、為永春水らにも及ぼしている。
京伝は生涯で二度結婚したが、相手はいずれも吉原の遊女上がりだった。また、京伝には尾張藩主・徳川宗勝の落胤説がある。

(参考資料)井上ひさし「山東京伝」、

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司馬江漢・・・広重の『東海道五十三次』は司馬江漢作の画帖がもと 多芸の才人

 伊豆高原美術館長の對中如雲氏は、その著書「広重『東海道五十三次』の秘密」で、安藤広重の名作浮世絵版画『東海道五十三次』は、司馬江漢(しばこうかん)作といわれる画帖をもとに描かれたものだった-と書いている。あの広重の名作が、彼自身のオリジナルと信じて疑わない人たちにとっては、かなりショッキングなことだ。司馬江漢は、それほどに様々な分野に関心を持ち、銅版画を制作し、洋風画、浮世絵などを描き、また自然科学に親しみ、地理・天文に関する書物も著す多芸・多彩の人物だった。司馬江漢こそ江戸時代を代表する奇人・怪人といっても過言ではない。

 司馬江漢の生没年は1738?~1818年。ただ、没年ははっきりしているが、そのとき彼は72歳だという説と、81歳だという説の二通りあって定かではない。江戸で生まれ、芝に住んだ。司馬という姓はそれをもじったものだという。本名は安藤峻。無言道人・春波楼と号した。

幼いときから画才があり、はじめ狩野派を学び、後に浮世絵師である鈴木春信門下となり、春重の号を与えられる。その後、宋紫石の門人となり、人物・風景・山水画に秀で画名を挙げたが、平賀源内の影響を受け、洋風画の道を志した。そして1783年(天明3年)、江漢は日本最初の腐蝕銅版画の制作に成功した。また地理・天文に関する書も著した。

 伝えられる司馬江漢の事績をみると、好奇心が旺盛で、実に幅広く様々なことに関心を持ち、様々な人物との交流もあり、作品も描き、書も著している。平賀源内とは一緒に鉱山探索のための山歩きなどもしているし、数多くの大名とも会っている。

江漢の周囲の人物が弾圧を受けていた最中、時の老中、松平定信を公然と批判している。江漢は定信に自作の地球儀を贈っているし、江漢の西洋画に対して定信は批評したりしているから、お互いに見知っていたはずだが、それでいて江漢は少しも弾圧を受けなかった。また、当時キリスト教は禁制だったが、江漢は絵の参考としてと言いながら使徒、聖パウロ像を持ち歩いていたという。それでも、何故か全く咎めを受けていない。

 この他、幕府の隠密だったといわれている間宮林蔵が、樺太探検から江戸へ戻ってすぐに江漢宅を訪れている。また、ロシアに漂着して帰国した大黒屋光太夫にも会っているのだ。鎖国下で外国に行った人間は、一種の軟禁状態にあり、普通の人間には会うことができないはずだが…。不可解で、どうしてそんなことができたのか?と首を傾げることはかなり多い。だから彼自身が隠密だった、隠れキリシタンだった、物凄いハッタリ屋だった-などと、いろいろ酷評もされている。

 まだまだある。自分でコーヒーを挽き、器を工夫してコーヒーを飲み、地球儀や補聴器、老眼鏡も作った。自分の年齢を詐称し、途中から実年齢に9歳加算した年齢を作中に書くようになった。友人や知人に偽の死亡通知を送り付けることもした。訳の分からない人物、奇人・怪人の面目躍如といったところだ。

 江漢は晩年著した随筆「春波楼筆記」の中で奇人を返上するような、優れた言葉を残している。それは「上、天子将軍より、下、士農工商非人乞食に至るまで、皆もって人間なり」というものだ。この人間平等観は優れているといわざるを得ない。単なる奇人や“皮肉屋”ではとても発せられる言葉ではない

(参考資料)高橋嗔一・細野正信「日本史探訪/国学と洋学」、司馬遼太郎・ドナルド・キーン対談「日本人と日本文化」

シーボルト・・・長崎・鳴滝塾で西洋医学を教え、多くの俊秀を輩出

 シーボルトといえば長崎・鳴滝塾を開設し、日本各地から集まってきた多くの医者や学者に西洋医学(蘭学)教育を行い、ここから高野長英、二宮敬作、伊東玄朴、小関三英、伊藤圭介ら俊秀が育ち、後に日本を代表する医者や学者として活躍している。しかし、シーボルトがオランダ人ではなくドイツ人であることも、そしてその人となりや、そもそもの来日の目的については意外に知られていない。果たしてシーボルトとはどんな人物だったのか…。シーボルトの生没年は1796~1866年。

 フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトは神聖ローマ帝国がまだ存続していた当時のドイツの司教領ヴュルツブルク(現在のドイツ連邦バイエルン州)に生まれた。名前は標準ドイツ語読みではジーボルトだが、本人は自らを「シーボルト」と発言していた。シーボルト家はドイツ医学界の名門だった。父はヨハン・ゲオルク・クリストーフ・フォン・シーボルト、母はマリア・アポロニア・ヨゼファー。姓の前のフォンは貴族階級を意味し、祖父の代から貴族階級に登録された。シーボルト姓を名乗る親類の多くも中部ドイツの貴族階級で、学才に秀で医者や医学教授を多数輩出している。

 両親は二男一女をもうけるが、長男と長女は幼年に死去し、次男のフィリップだけが成人した。フィリップが1歳1カ月のとき父が亡くなり、母方の叔父に育てられた。1815年、ヴュルツブルク大学に入学したシーボルトは家系や親類の意見に従い、医学を学ぶことになる。大学在学中は解剖学の教授デリンガー家に寄寓し、医学をはじめ動物、植物、地理などを学んだ。

ただ彼は常に、自分が名門の出身という誇りと自尊心が高かったから卒業後、彼に町の医師で終わる道を選ばせなかった。彼は東洋研究を志し、1822年オランダのハーグへ赴き、国王ヴィレム1世の侍医から斡旋を受け、オランダ領インド陸軍病院の外科少佐となった。

 オランダ・ロッテルダムから出港し、喜望峰を経由して1823年4月にジャワ島へ、そして6月に来日。鎖国時代の日本の対外貿易の窓口だった長崎の出島のオランダ商館医となった。出島内において開業。1824年には出島外に鳴滝塾を開設し、日本各地から集まってきた多くの医者や学者に西洋医学(蘭学)を講義した。代表的な塾生に高野長英、二宮敬作、伊東玄朴、小関三英、伊藤圭介らがいる。塾生は後に医者や学者として活躍している。

 シーボルトは日本の文化を探索・研究した。また、特別に長崎の町で診察することを唯一許され、感謝された。1823年4月には162回目にあたるオランダ商館長(カピタン)の江戸参府に随行。この際、道中を利用して日本の自然を研究することに没頭した。地理や植生、気候や天文などを調査した。1826年には十一代将軍徳川家斉に謁見。江戸においても学者らと交友。蝦夷や樺太など北方探査を行った最上徳内や幕府天文方・書物奉行の高橋作左衛門景保らと交友した。その間、楠本瀧との間に娘、後に日本初の女医となる楠本いねをもうけている。

 1828年に帰国する際、収集品の中に幕府禁制の日本地図があったことから問題になり、シーボルトは1829年国外追放のうえ再渡航禁止の処分の処分を受けた。後に「シーボルト事件」と呼ばれ、高橋景保ら十数名処分され、高橋が獄死した(その後、死罪判決を受けている)不幸な事件だ。これはシーボルトからクルーゼンシュテルンによる最新の世界地図をもらう見返りとして、高橋が伊能忠敬の「大日本沿海輿地全図」の縮図を贈ったとされるもの。当時この事件は間宮林蔵の密告によるものと信じられた。

 シーボルトは1858年(安政5年)の日蘭修好通商条約締結によって、追放処分が取り消され、翌年オランダ商事会社の顧問として再来日し、長崎で楠本瀧・いね母娘と再会、江戸幕府の外交にも参画した。1862年(文久2年)帰国、4年後ミュンヘンで亡くなった。

 ところで、シーボルトの来日の目的は何だったのか?プロイセン政府から日本の内情探索を命じられたからだとする説がある。オランダから何かの密命を受けていたのか?定かではない。ただ彼はオランダ政府の後援で日本研究をまとめ、集大成として日本および蝦夷南千島樺太、朝鮮琉球諸島などに関する記録集全7巻を刊行し、その名を世界に知らしめた。それにより、「日本学」の祖として名声が高まり、故国ドイツのボン大学にヨーロッパ最初の日本学教授として招かれている。なぜか、その招聘には応じていないが…。招聘されたことで、誇りと自尊心が満たされ、自分の人生の目的は達成されたと納得できたのかも知れない。

(参考資料)吉村昭「ふぉん・しいほるとの娘」、吉村昭「間宮林蔵」杉本苑子「埠頭の風」、司馬遼太郎・ドナルド・キーン対談「日本人と日本文化」

高山彦九郎・・・吉田松陰ら多くの幕末の志士に影響を与えた勤皇思想

 戦後、勤皇の価値は堕ち、今は高山彦九郎を顧みる人はほとんどいないが、彦九郎の勤皇思想は後世、吉田松陰はじめ幕末の志士と呼ばれる人々に多くの影響を与えた。また、彦九郎は林子平、蒲生君平とともに「寛政の三奇人」の一人で、戦前の修身教育で二宮尊徳、楠木正成と並んで取り上げられた人物だ。

 高山彦九郎は江戸時代後期の尊皇思想家で、上野国新田郡細谷村(現在の群馬県太田市)の郷士、父高山良右衛門正教、母繁(しげ)の次男として生まれた。名は正之。彦九郎は通称。彼には、新田義貞に従ったその郎従の中でも新田十六騎といわれた高山遠江守の子孫だという歴とした家系が、犯すべからざる威厳のようなものとして備わっていたという。

彦九郎は13歳のとき、『太平記』を読み、「建武の中興」の忠臣の志に感動。生地が新田氏ゆかりの地であることもあって、その報いられざる忠節を捧げた対象を、いつのまにか彼自身の理想に育て上げていたのだ。つまり、そのころの常識だった幕府、いや将軍家を中心として物事を考えるのではなく、天皇というものを中心として物事を見るようになっていたのだ。

18歳のとき、遺書を残して家を出た。京都に出て学問を修め、中山愛親(なるちか)らの公卿や多くの有志の知遇を得た。さらに忠君仁義の人を訪ねて各地を遊歴、勤皇論を説いた。藤田幽谷や立原翠軒を訪ねて水戸へ行き、仙台では林子平のもとを訪れて海防の話を聞いた。長久保赤水、簗又七、江上観柳らと心を許した交友があったほか、前野良沢、頼春水、柴野栗山、細井平洲といった当時第一級の学者が、その理解者として江戸にはいた。京では岩倉具選宅に寄留し、奇瑞の亀を献上したことにより、光格天皇にも拝謁した。

 1789年(寛政元年)、江戸へ行き、翌年には水戸から奥州を経て松前まで足を伸ばしている。その後、さらに山陽から九州へ入り、小倉、中津、久留米、長崎、熊本、鹿児島などを遍歴し、生涯で30数カ国を歴遊した。

こうして全国を歴遊して勤皇論を説く彦九郎の存在が、幕府にとって都合の悪い、批判分子として映るようになる。尊号事件とからみ公卿、中山愛親の知遇を得たこと、さらには京都朝廷の権威回復を唱える人たちとの交友が、彦九郎自身を追い込んでいく。すでに宝暦のころ、竹内式部は京都朝廷の権威を回復しようとする考えに立って、公卿の間にその講義を行っていた。しかし、そのことが幕府に聞こえると、幕府は一挙にその弾圧に乗り出したものだ。彦九郎が京都にきて中井竹山らを説いて歩いたのは、まさにそのことによって廃絶した禁中の講義を再開させようとしたのだ。

彦九郎のこうした行動に加え、竹内式部の事件で罰せられた岩倉卿の邸での半年間にわたる滞在などが、“要注意人物”として老中の松平定信など幕府の警戒を呼び、彼は幕吏の監視下におかれることになる。そのうちに、幕吏は公然と彼の行く先を求めて姿を現すようになって、自分の行動が常に監視されていることを知る。親友・旧友を訪ねても、訪ねた相手も幕吏から疑いの眼をかけられているようで、自分が追い詰められてゆく感じを味わう。

1793年(寛政5年)、彦九郎は筑後国久留米の友人、森嘉膳の家を訪れた。彼を迎え入れた嘉膳は、何か思いつめた様子が彦九郎に感じられるので、努めて気の安まるような話題を選び歓談、夕食を摂った。そして、しばらくして彦九郎は与えられている部屋へ入って自刃する。47歳の生涯がここに終わった。

 京都市三条大橋東詰(三条京阪)に皇居望拝(誤って土下座と通称される)姿の彦九郎の銅像がある。

(参考資料)吉村昭「彦九郎山河」、奈良本辰也「叛骨の士道」、梅原猛「百人一語」

天武天皇・・・現人神になった独裁的専制君主だが、実は謎だらけの人物

日本の古代史には謎の部分が極めて多い。ここに取り上げる天武天皇などその最たるものだ。例えば歴代天皇の中で唯一、生年が不明な天皇なのだ。生年だけではなく、前半生すら全く闇に隠されたままだ。なぜなのか?

一般に天武天皇はそれまで、大和朝廷を組織していた畿内の大豪族主導による合議制政治を否定。壬申の乱に勝利し、この戦いで有力豪族の多くを滅ぼしたことで、権力を天皇家に集中し「皇親政治」を実現した、賢君のイメージが強い人物と思われている。現実に『万葉集』などで天武天皇は、「大君(おおきみ)は神にしませば…」と詠われ、その政権は独裁的専制君主の地位に達していた。そんな現人神(あらひとがみ)になった天武天皇の生年が、また前半生がなぜ闇の中にあるのか。そこには、オープンにできない、奥深い事情があるのではないか。まさに謎だらけの人物といわざるを得ない。

天武天皇は名を大海人(おおあま)皇子といい、父は舒明天皇、母は皇極天皇で、正史では天智天皇(中大兄皇子)の弟とされている。しかし、最近の説では天智天皇とは兄弟ではなかったとか、兄弟にしても大海人皇子の方が兄だったとか、大海人皇子は渡来人だったといった説まで生まれている。中大兄皇子とは父が異なり、大海人皇子が年上だったからこそ、生年を明記できなかったのであり、大海人皇子に対する天智天皇の遇し方も尋常ではなかったのではないだろうか。

天智天皇にとって、大海人皇子は単なる兄弟の一人というわけにはいかない、“賓客”に相当する存在だったのではないか。そうでなければ、4人もの自分の娘を大海人に嫁がせる理由がない。これらの真偽はさておき、大海人皇子が天智朝の皇太子として、一時は政権の中枢にいたことは事実だ。「皇太弟」と表現されることもあったのだから、この点は間違いない。

ところが、幼少だった大友皇子の成長に伴い、天智天皇が皇太子=大海人ではなく、わが子大友に皇位を譲りたいと思うようになったことで、状況が激変する。天智天皇は、皇太子の大海人皇子の地位を奪い、671年(天智天皇10年)、大友皇子を太政大臣に任命し、政権のトップの座に就かせたのだ。太政大臣が官職として正式に登場するのは、これが初めてのことだ。天智天皇はわが子を皇位に就けるため、新しいポストを作ってまで大友皇子を政治の中枢に置いたのだ。大友皇子23歳のときのことだ。

そして、天智天皇が大友を後継者にするために謀った最後の機会が、病の床に就いた天智が、病気が全快しないのを予感し、大海人を招いたときだった。671年のことだ。天智は「私の病気は重い。お前に後を譲ろうと思う」といった。大海人は一瞬、真意を図りかねたが、即座に「いや、結構です。皇位は倭姫(やまとひめ)皇后にお譲りください。政治のことは大友皇子にお任せください。私は出家し、天皇の病気治癒を祈りましょう」と答えた。とっさに大海人は天智天皇の言葉が、自分に仕掛けられた罠だと察したのだ。事実、左大臣蘇我赤兄(そがのあかえ)は、大海人が承知すれば、その場で暗殺しようと狙っていたともいわれる。危機一髪、僧形となった大海人皇子は吉野に逃れた。

後の歴史に即していえば、こうして大海人皇子による皇位奪取計画の火ぶたが切って落とされたのだった。天智天皇亡きあと近江京の総帥・大友皇子と、吉野で密かに態勢を立て直した大海人皇子、甥・叔父の戦い=古代史上最大の内乱「壬申の乱」はこの翌年、672年のことだ。この戦いに勝利した大海人皇子は飛鳥浄御原宮で即位、天武天皇となった。

(参考資料)黒岩重吾「天の川の太陽」、黒岩重吾「茜に燃ゆ」、神一行編「飛鳥時代の謎」、笠原英彦「歴代天皇総覧」、関裕二「大化の改新の謎」、井沢元彦「逆説の日本史②古代怨霊編」、井沢元彦「日本史の叛逆者 私説壬申の乱」

種田山頭火 ・・・妻子を捨て行乞の人生を送り自由に一筋の道を詠い続ける

 種田山頭火は生きている時には、ほとんど無名で、その一生を終えたが、死後、評価され「自由律俳句」の代表の一人となった。妻子を捨て、世間を捨て、行乞(ぎょうこつ=修行僧が各戸で物乞いをして歩くこと)の人生を送り、自然と一体になり、自己に偽らず、自由に一筋の道を詠い続けた山頭火は、生涯に約8万4000句を詠み捨てたという。生没年は1882(明治15)~1940(昭和15年)。

種田山頭火は現在の山口県防府市に、父竹次郎、母フサの長男として生まれた。本名は正一。種田家はこの付近の大地主で、父は役場の助役なども務める顔役的存在だった。その父の、妾を持ち芸者遊びに苦しんだ母が、自宅の井戸に身を投げて死んだ。山頭火11歳の時のことだ。この母の自殺が彼の生涯に大きな衝撃を与えた。

山頭火は1902年(明治35年)、早稲田大学文科に入学したが、2年後、神経衰弱のため退学して帰郷。その後、隣村の大道村で父と酒造業を営む。1909年(明治42年)佐藤サキノと結婚、翌年長男健が誕生。1911年(明治44年)、荻原井泉水主宰の自由律俳誌「層雲」に入門した。この頃から「山頭火」の号を用いる。29歳のことだ。狂った人生の歯車は順調に回りかけたかに見えたが、そうではなかった。1916年(大正5年)、家業の酒造業に失敗し、家は破産したのだ。家業を省みない父の放蕩と、度を過ぎた父子の酒癖が原因だった。父は他郷へ、山頭火は妻子を連れて句友のいる熊本へ引っ越す。

熊本へ移った山頭火は額縁店を開くが、家業に身が入らず結局、1920年(大正9年)、妻子と別れて上京する。その後、父と弟は自殺する。東京での山頭火は定職を得ず、得るところもないまま1923年(大正12年)、関東大震災に遭い、熊本の元妻のもとへ逃げ帰る格好となった。

不甲斐ない自分を忘れようと、酒におぼれ生活が乱れた。そして、生活苦から自殺未遂を起こした山頭火を、市内の報恩禅寺の住職、望月義庵に助けられ寺男となった。1924年(大正13年)、出家した。法名・耕畝(こうほ)。市内植木町の味取(みどり)観音の堂守となった。

1925年(大正15年)、寺を出て雲水姿で西日本を中心に行乞の旅を始め、句作を行う。1932年(昭和7年)、郷里の山口の小郡町に「其中庵(ごちゅうあん)」を結んだ。その後も行乞、漂泊することが多く、諸国を巡り、旅した。1939年(昭和14年)、松山市に移住し、三度目の庵である「一草庵(いっそうあん)」を結び、翌年この庵で波乱に満ちた生涯を閉じた。隣室で句会が行われている最中に、脳溢血を起こしたものだったという。

季語や五・七・五という俳句の約束事を無視し、自身のリズム感を重んじる、前衛的な「自由律俳句」。山頭火はその自由律俳句の代表として、同じ荻原井泉水門下の尾崎放哉(ほうさい)と並び称される。山頭火、放哉ともに酒癖によって身を持ち崩し、師である井泉水や支持者の援助によって、生計を立てているところは似通っている。しかし、その作風は対照的で「静」の放哉に対し、山頭火の句は「動」だ。

どうしようもないわたしが歩いている
山頭火の句には「近代人の自意識」がある。この句の中には二人の山頭火がいる。一人は、どうしようもない心を抱いて歩いている山頭火であり、もう一人はそれをじっと見ている山頭火だ。この自意識は小説分野の「私小説」にも通じるものだ。

(参考資料)梅原猛「百人一語」

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東洲斎写楽・・・10カ月間に140数点の作品を残し、忽然と姿を消した作家

 東洲斎写楽は江戸中期の浮世絵師で、1794~95(寛政6~7年)の約10カ月間に140数点ものおびただしい役者絵などの作品を残したが、その後は忽然と歴史から姿を消してしまった。写楽は歴史を通じて日本美術を代表する作家の一人といっていいだろう。

ところが、意外なことにその実像は謎に包まれている。浮世絵師に記された落款とわずかな史料以外、写楽について伝える記録は残されていないのだ。この完璧なまでの歴史的空白は、まるで当時の関係者たちが意図的に“演出”して、作り出しているかのような印象さえ受ける。果たして、謎に包まれている写楽の実像は?その正体は?

 1794年(寛政6年)5月、写楽は28点の大判錦絵をひっさげて華々しくデビューした。「寛政の改革」を実施した松平定信は老中を辞したものの、引き続き贅沢は厳しく取り締まられていた時代のことだ。当時江戸で上演されていた歌舞伎に登場する役者たちを描いた28点の「大首絵」は写楽の代表作であり、その構図や独特のタッチはそれまでにないものだった。

その異様なまでの迫力に満ちた人物描写がヨーロッパ人にも高く評価され、20世紀初めに写楽を西欧へ紹介したドイツ人研究家、ユリウス・クルトはベラスケス、レンブラントとならぶ三大肖像画家の一人に数えたほどだ。

 謎の第一は活動期間の短さだ。写楽の作品が初めて世に出たとされるのは1794年(寛政6年)5月。ところが、翌1795年(寛政7年)2月以降の作品は1点も見つかっていない。活動期間わずか10カ月間だ。この10カ月間に140数点もの傑作を残したわけで、大雑把に計算すれば、2日に1点という大変な制作スピードだ。

 謎の第二はデビューの仕方だ。通常、絵師は読本や黄表紙の挿絵から描き始め細判、小判という小さいサイズを経て、初めて大判の絵を描くチャンスを与えられる。しかし、写楽はいきなり大判を描いている。謎の第三は最初から、絵のバックに高価といわれる雲母摺(きらず)りを使っていることだ。当時、雲母摺りを使えたのは歌麿と栄松斎長喜くらいだった。したがって、「写楽」とは無名の新人ではなく、名のある浮世絵師の別名(ペンネーム)ではないかという見方が生まれてきた。

写楽別人説は大きな謎を投げかけている。いうまでもなく、それは写楽は誰かという謎だ。これまで写楽ではないかいわれた絵師は喜多川歌麿、葛飾北斎、歌川豊国、鳥居清長、栄松斎長喜、司馬江漢、円山応挙など数多い。また、画家以外の名を挙げる説も多い。例えば「東海道中膝栗毛」で知られる戯作者の十返舎一九、同じく戯作者兼浮世絵師の山東京伝、そして能役者の斎藤十郎兵衛なども有力な写楽候補だ。さらに問題を複雑にしているのは、写楽は何も1人に限らないという視点だ。つまり、写楽とは2人あるいは数人による共同ペンネームだとする説も提唱されている。これなら、謎の第一に挙げた2日に1点という制作スピードも、少しは納得できるのだ。

謎の第四は無名の役者も描いたという点、140余点の版元がすべて蔦屋という点も、当時の常識からは考えられないことだ。

 写楽別人説の多くは、どれもそれなりの根拠を構えている。しかし40人を超える候補の乱立は、裏を返せば大半が決め手に欠けていることの証といってもいい。果たして写楽は誰か?

(参考資料)梅原猛「写楽 仮名の悲劇」、高橋克彦「写楽殺人事件」、歴史の謎研究会・編「日本史に消えた怪人」

玉松 操・・・王政復古の勅を起草、「錦旗」をデザインした岩倉具視の謀臣

 玉松操(たままつみさお)は幕末・明治維新期の国学者・勤皇家で、岩倉具視の謀臣として王政復古の勅を起草したことで有名だ。本名は山本真弘(まなひろ)。参議侍従、山本公弘の次男。京都生まれ。生没年は1810(文化7年)~1872年(明治5年)。

 8歳のとき京都・醍醐寺無量院において出家得度し、法名を猶海とした。修行・精進の末、大僧都法印に至る。だが寺中の綱紀粛正を強く主張するなど、僧律改革を唱えたため、反発を買い、30歳で下山。還俗して山本毅軒(きけん)と号し、のち玉松操と改めた。京都で国学者、大国隆正に師事し国学を学んだが、やがて師と対立して泉州に下り、さらに近江に隠棲。のち和泉や近江坂本で私塾を開いた。

 1867年(慶応3年)、門人、三上兵部(みかみひょうぶ)の紹介で、蟄居中の岩倉具視の知遇を受け、その腹心となった。以後、王政復古の計画に参画するなど幕末維新期の岩倉具視と常に行動をともにし、その活動を学殖・文才によって助けた。とりわけ有名なのは、小御所会議の席上示された王政復古の勅を起草したことだ。さらに、玉松は早晩、幕府との交戦があることを予想し、官軍の士気を鼓舞するための「錦旗」のデザインを考案するなど、官軍勝利に貢献した。

 日本の歴史にとって実に奇妙な日がある。1867年(慶応3年)10月13日と14日に全く矛盾する朝廷の勅命が出されているのだ。10月13日には薩摩藩に対して討幕の密勅が出され、同時に長州藩に対して、失われていた藩主の官位を復旧する宣旨が出されている。そして翌14日には長州藩に討幕の密勅が下された。

ところが、この14日には徳川十五代将軍慶喜が提出した「大政奉還」の願いが上表されている。翌日許可された。討幕の密勅というのは、その徳川慶喜を賊と見做し、これを討てという天皇の密命だ。討幕の密勅と大政奉還許可は、朝廷の行為としては全く矛盾する。なぜこんなことが行われたのだろうか?

 実はこの討幕の密勅、玉松操の画策だった。討幕の密勅には・天皇の直筆ではない・副書している中山忠能、中御門経之、正親町三条実愛の3人の公家の花押がない・3人の公家の署名が、すべて同一人の筆ではないか思われる-などから、従来から偽書だという説が強かったのだ。この画策=密勅こそ不発に終わったが、玉松操は討幕へ向けて次々と手を打ち出していく。

 玉松操はたとえ多少の血を流しても、徳川幕府は徹底的に武力で叩き潰さなければならないと考えていた。それだけに玉松にとって、大政奉還の起案者だった坂本龍馬が暗殺され、邪魔者が失くなった感があった。そのため、その後の玉松の行動に弾みがついた。錦の御旗をデザインし、岩倉具視が蟄居していた岩倉村の家に、薩摩藩の大久保一蔵(後の利通)とともに出入りしていた長州藩の品川弥二郎に「宮さん 宮さん…」の軍歌を作詞させ、その歌詞に品川が祇園で馴染みの芸者に節をつけたといわれる。すると、今度は一室にこもって、王政復古の詔勅づくりに取り組み始めた。岩倉を京都朝廷に推しだすためだ。

有名な小御所会議は慶応3年12月9日に開かれた。この日、天皇の命によって、今までの謹慎を解かれた岩倉具視は、自分が主宰する形で小御所会議を招集した。大政を奉還した徳川慶喜の官位と領地を剥奪するという内容を伴う「王政復古の大号令」を出すためだった。会議は騒然となった。だが、西郷隆盛や大久保一蔵らから、文句をいうものがいれば誰にしろ…、と武力行使をほのめかされていた岩倉のすさまじい“熱”が会議を主導、慶喜の官位剥奪、領地没収が決まった。やがて、この決定に憤慨した旧幕臣たちが、鳥羽伏見戦争を起こす。薩長軍は応戦、このとき翻ったのが、玉松操がデザインした錦の御旗だ。この旗によって薩長軍は官軍に変わった。天皇の親兵になった。そして新政府が樹立された。

 王政復古の後は、内国事務局権判事となり、矢野玄道(はるみち)、平田銕胤(てつたね)らと組んで、大学官(皇学所)、大学寮(漢学所)を皇学所への一本化や尊内卑外政策の実施を求めるなど、極めて保守的な立場に立ち、徐々に岩倉らとの距離を深めた。1870年(明治3年)、東京で大学中博士兼侍読(じどく)に任ぜられたものの、新政府の欧化政策に基づいた文教政策を批判して、1871年(明治4年)、官職を辞し京都に帰って隠棲したが、翌年病没した。

(参考資料)童門冬二「江戸の怪人たち」、司馬遼太郎「加茂の水」

徳川家斉・・・17人の妻妾を持ち53人の子をもうけた子持ちNo.1将軍

徳川第十一代将軍家斉は、50年もの長期にわたって将軍職にあった異例の将軍で、生涯に特定されるだけで17人の妻妾を持ち、男子26人、女子27人の子をもうけた歴代将軍の中では、いや歴史上日本人の“子持ち”No.1の記録男だ。複数の女性を妻に迎えることは、例えば平安時代でも宮廷の高位を占める高級貴族の間では珍しいことではなかった。しかし、これだけ多くの妻となると、稀有なことと言わざるを得ない。また相当傑出した、強靭な体力がなければできることではない。こうしてもうけられた、これら子供たちの膨大な養育費が、逼迫していた幕府の財政をさらに圧迫することになり、やがて幕府財政は破綻へ向かうことになった。“お騒がせ”いや“オットセイ”将軍、家斉の生没年は1773(安永2)~1841年(天保12年)。

徳川家斉は、第二代一橋家当主・治済(はるさだ)の子として生まれた。幼名は豊千代、後に家斉。だが、第十代将軍家治の世嗣・家基が急死したため、父と老中首座にあった田沼意次の裏工作、そして家治にほかに男子がいなかったこともあって、幸運にも家治の養子になり、江戸城西の丸に入って家斉と称した。そして、家治が1786年(天明6年)、50歳で急死したため、1787年(天明7年)、家斉は15歳で第十一代将軍に就いた。以後、50年もの長きにわたって将軍の座にあって、65歳で将軍職を家慶(第十二代)に譲ってからも、「大御所」として幕政の実権は握り続けた。

官位も太政大臣に上った。生前に太政大臣に上ったのは、徳川家の将軍では初代家康、二代秀忠以来のことだ。位人臣を極めたというべきか。体も丈夫だった。冬でも小袖二枚と肌着のほかは着たことがなく、こたつにもあたらず、手あぶりだけで済ませた。現代のように冷暖房完備とはいかない江戸城の中で、この薄着でいられたのは、よほど体の芯が丈夫だったのだろう。

家斉は将軍職に就いた年に第一子、淑姫(ひでひめ)をもうけ、54歳のときの最後の子、泰姫(やすひめ)まで、約40年間に53人の子供をもうけたのだ。これらの子の縁組先は6人が御三家、4人が御三卿、7人が家門(越前家諸家・会津松平家などの徳川家一門)など、計19人までが徳川家の近い親類に縁付いている。それらを除いた7人が外様大名に縁付いているが、2人が養子、5人が娘(姫)だ。これら家斉の子供のため、徳川家一門は御三家筆頭の尾張徳川家を始めとして、家斉の血縁の者が跡を継ぐケースが頻出し、幕末の大名家当主は多くが家斉の血縁の者になった。

家斉には17人の特定される妻妾以外にも妾がいたとも伝えられ、一説では40人ともいわれる。とはいえ、これらの側室が常時、彼のハーレムに侍っていたわけではない。周知の通り、徳川時代には大奥制度が厳然としてあり、加えてこれらの側室たちも30歳になると、「お褥(しとね)お断り」といって、その座を降りるしきたりになっていた。

それにしても、この側室の多さはマイナスでしかなかった。大奥の費用はかさみ幕府財政は極度に悪化したのだ。

(参考資料)山本博文「徳川将軍家の結婚」、永井路子「続 悪霊列伝」、「にっぽん亭主五十人史」、南条範夫「夢幻の如く」

天海・・・江戸城の場所選び、「東照大権現」を主張し権力を誇示した怪僧

 徳川幕府に仕えた天海の活躍ぶりには目を見張るものがあったという。江戸城の築城にあたり、風水術に長けていた天海が運気の強い場所を選び、東に東海道、西に隅田川や荒川、北に武蔵野台地、南に東京湾という、その好立地を決定したといわれている。また、家康を神として祀る聖なる地、日光東照宮を建てたのも天海だ。実は家康の神号、「東照大権現」も金地院崇伝、神龍院凡舜らと大論争の末、天海が主張したもので、権力の強さをみせつけている。

 人物伝によると、天海は江戸前期の天台宗の僧で、14歳のときから諸国名山霊区を遍歴。1608年(慶長13年)、65歳前後で徳川家康に招かれ駿府に赴き、帰依を受けて日光山を主宰、三代将軍家光まで幕府の信頼を受けたとされている。実はこの天海、家康に招かれたときから突如、歴史の表舞台に登場するのだ。不思議なことに、それ以前の足取りは一切掴めていない。生年月日や誕生地も不明だ。したがって、死亡年齢は108歳、110歳、111歳、さらには135歳と様々に推測されている。

 東照宮は現在およそ300社あるが、江戸時代には倍近くの555社もあった。日光の東照宮から地方の東照宮へ社僧が派遣されていたという事実もあり、天海は日光を拠点に東照宮のネットワーク化を図り、宗教界に君臨しようとしていたのではないかとみられた。

 そして近年、天海=明智光秀ではないかとの説が浮上し、注目を浴びている。光秀も天海と同様、いつ生まれたのか定かではない。文献によりまちまちで、「生年不詳」「享禄元年(1528年)」「大永6年(1526年)」などの説がある。出身地も岐阜県恵那郡明智町、岐阜県可児市と2つの説が挙げられており、確定していない。

諸国遍歴後、1558年(永禄元年)織田信長に仕え、1571年に近江国坂本城主となった光秀は、1582年(天正10年)、信長の宿所、本能寺を急襲し、信長に自刃させる。そして山崎の戦で豊臣秀吉に敗れた光秀は、現在の京都府伏見区にあたる小栗栖(おぐるす)で農民に竹槍で突かれて死んだとされている。

光秀はなぜ信長を討ったのか?など謎に満ちた「本能寺の変」もさることながら、光秀最大の謎がその「死」についてだ。江戸時代に書かれた「絵本太閤記」を前提に類推すると、・真っ暗闇の中、総勢30人ほどの前から6番目あたりにいた光秀の横腹に単なる一百姓が、それほど見事に槍を刺せるか・光秀の前後を護衛していた武将は光秀が刺されたことになぜ気付かなかったのか・後に土中から発見された生首を光秀と断定した根拠が定かではない-などいくつかの疑問が残る。これを突き詰めると、光秀不死説が浮上するのだ。行方をくらました光秀は数年後、天海となって再び、表舞台に姿を現すのだ。

 では天海=光秀とした場合、符合する部分はどれくらいあるのか。また矛盾点はないのか。1.光秀が小栗栖で姿をくらましたとき、彼はおよそ57歳ころといわれている。仮にそうだとすると光秀は1525年(大永5年)生まれとなる。天海は1643年に110歳以上で死んだと推測されているが、1525年に誕生し1643年(寛永20年)に亡くなったとすれば118歳、ほぼ一致するのだ。2.天海の諡号、慈眼大師という名は、光秀の木像と位牌が安置されている京都府周山村(現在の京北町)の慈眼寺にちなんだものだ3.天海とゆかりの深い日光に明智平という場所があり、日光の建物の至る所に明智の紋がある4.家光の乳母は春日局だが、彼女は光秀の姪でもあった5.比叡山の松禅寺には、光秀が亡くなったとされる年から33年後の、慶長20年に光秀が寄進したという意味の言葉が刻まれた石灯篭がある。

 ただ、ここで新たな疑問が出てくる。天海=光秀なら、なぜ家康は宿敵、信長の重臣だった光秀をわざわざ迎え入れたのか。その答えは、本能寺の変は家康と光秀の2人が共謀して起こしたとの説を採れば解決する。光秀は自分より秀吉に信頼を置くようになった信長に不満や不信感を募らせ、信長と距離を置くようになったところに、家康が素早く眼をつけ手を組んだというわけだ。とはいえ、信長が死んでも織田軍団がそれほど簡単に破滅するはずがない。だから逆に自分の首が危うくなると考えた家康は、光秀が単独で信長を殺害したことにしたのだ。その光秀も死んですべては終わったと見せかけた。しかし、実は天海として徳川家にブレーンとして迎え入れられていたというわけだ。果たして本当に天海は光秀なのか。

(参考資料)歴史の謎研究会・編「日本史に消えた怪人」

トーマス・グラバー・・・巧みにしたたかに、幕末に暗躍した武器商人

 今も長崎の地に邸宅跡が「グラバー園」として一般公開され、観光名所にその名を残すトーマス・グラバーは、イギリス人の政商だ。幕末に暗躍した武器商人で、本国の英国と取引相手が対立した際も武器の販売は止めようとはせず、それでも罪を着ることなく、巧みに、そしてしたたかに激動期を生き抜いた怪人だった。徳川家とは距離を置き、薩摩・長州・土佐など討幕派を支援し、坂本龍馬の亀山社中とも取引があった。

有名なオペラ「お蝶夫人」のモデルになっている。つまり、お蝶さんの愛人はグラバーをモデルにしている。実際のグラバーは、オペラと違って「ある晴れた日」に、故国に戻って二度と帰らぬということはなかった。グラバーは「談川ツル」という日本人女性を妻とし、長女・ハナ、長男・倉場富三郎の二子をもうけている。明治44年に東京で死んだ。

あまり知られていないが、明治以降は高島炭鉱の経営にあたった。蒸気機関車の試走、ドック建設、炭鉱開発など日本の近代化に果たした役割は大きい。造船の街、長崎の基礎をつくったのだ。グラバーこと、トーマス・ブレーク・グラバーの生没年は1838~1911年。

 1859年(安政6年)5月28日、徳川幕府が神奈川、長崎、箱館の3港を開き、米国、オランダ、ロシア、フランス、英国の5カ国との貿易を許可。次いで6月20日、外国の武器を日本側が購入することも許可。そうした状況下、駐日総領事として英国からやってきたのがオールコックだ。
トーマス・ブレーク・グラバーは日本が開国するとすぐ英国から渡航してきた。そして、長崎に貿易商社「グラバー商会」を設立した。グラバー商会は、海運と武器弾薬の販売を行うことを目的としていた。西南の雄藩が争って外国の武器を買い始めたので、グラバー商会はたちまち発展した。最大の取引相手は薩摩藩だった。そして、薩摩藩側の担当が五代友厚(当時の才助)だ。

 五代才助は薩摩藩士だったが、開明的な考えと、実業家的手腕を持っていた。若い頃、長崎に遊学して砲術、測量、数学などを勉強した。1862年(文久2年)幕府が上海に船を派遣し、各藩から志望するものは同乗を許したので、五代も薩摩藩から派遣されてこれに参加した。このとき同じ船に長州藩の高杉晋作が乗っていた。五代と高杉はたちまち肝胆相照らして仲良くなった。五代は上海でドイツ製の船を買って帰った。高杉は上海の状況を見て、欧米列強の実力をまざまざと感じた。そしてこの時点で、高杉は攘夷論を放棄した。

グラバーは薩摩、長州、土佐など西南雄藩に接近した。そうした一環として、薩摩藩の五代友厚、森有礼、寺島宗則、長沢鼎らの海外留学、長州藩の井上馨、伊藤博文、山尾庸三、遠藤謹助、野村弥吉らの英国渡航の手引きもしている。

取引相手として最も重要視していた薩摩藩と英国との間に事件が起こった。文久2年の「生麦事件」だ。この事件は薩摩藩主の父、島津久光の行列の前を、数人の英国人が横切ったことから起こった。列の先頭にいた薩摩藩士が怒って、いきなり刀を抜いて英国人たちを殺傷した。この事態収拾をめぐって交渉は決裂、「薩英戦争」となった。

このとき必死になって、日英間の和平調停をしたのが五代友厚とグラバーだ。五代は上海で買った外国船の艦長として鹿児島湾内にいた。だが、英国艦隊が攻め込んできても彼は戦わなかった。そして英国艦隊の捕虜になった。このため、五代は薩摩藩士の風上にも置けない卑怯者だと非難された。五代は英国の捕虜として横浜に連行された。ところが、彼は横浜から脱走した。その後、長い亡命生活を送る。このとき手を貸したのがグラバーだ。

 グラバーの怪人たる所以は、彼が決して一元的な発想方法を取らなかったことだ。薩摩藩と取引しながら、そのため本国の英国に対して結果として弓引くことになる場合もあったのだ。例えば薩摩藩は公然と英国を敵視し、英国人を斬殺し、戦争状態に入ったときもグラバーは薩摩藩と取引することを止めなかった。そして、薩摩藩から裏切り者と見られていた五代友厚を、あえて匿うようなこともする。

また、当時、犬猿の仲だった薩摩藩と長州藩を結びつけた、薩長同盟を成立させた黒幕がグラバーだったのだ。このグラバーと一緒になって暗躍したのが土佐の坂本龍馬であり、龍馬率いる亀山社中だ。亀山社中は後の海援隊になる。薩長同盟が契機となって、日本の政治情勢はどんどん変わっていった。グラバーはその後も、英国公使館に出入りし、アーネスト・サトウとともに、パークス公使の補佐をする。地に着いた彼の意見は、どれほどパークスを助けたかわからない。

(参考資料)童門冬二「江戸の怪人たち」、白石一郎「異人館」

長野主膳・・・幕末動乱期 大老・井伊直弼を陰で操った怪物参謀

 長野主膳(しゅぜん)は、幕末・維新史上の大怪物とも、大魔王とでもいうべき人物だ。幕末・維新の騒乱は井伊直弼の大老就任から始まったといっていいが、周到な計画を巡らせて井伊直弼を大老にしたのは井伊の参謀だった長野主膳であり、井伊が大老としてやったことのほぼすべて-紀州慶福(よしとみ)を将軍世子に決定したこと、勅許なく条約を結んだこと、安政の大獄を起こしたこと、和宮降嫁の運動に着手したことなども彼なのだ。突き詰めていえば、井伊はロボットで、陰でそれを操っていたのはこの長野主膳だったのだ。

 長野主膳は伊勢国の出身といわれるが、その出自、幼・少年時代のことなどは、詳らかではない。長野の幼名は主馬(しゅめ)、諱は義言(よしとき)。長野の生没年は1815(文化12)~1862年(文久2年)。

長野は本居宣長系統の国学者で、和歌は速吟で、しかも上手だったという。そして、長野は“主義”の人ではなく、功業を目的とする人物だったといわれ、権謀に長けた策謀家というのが大方の評価だったようだ。

 天保10年、三重県飯南郡滝野村(現在の飯高町)にやってきた長野主膳は、紀州新宮の領主、滝野次郎左衛門の妹、滝と恋におちた。そして天保12年、二人は結婚する。長野が27歳、滝が31歳のときのことだ。結婚すると二人は滝野村を出て、京に上り、それから近畿、東海道の各地を巡遊。そして、最後に江州伊吹山の麓の坂田郡志賀谷村の阿原家に落ち着き、「高尚館」という国学塾を開いた。坂田郡志賀谷村は水野土佐守忠央(ただなか)の知行地の一つで、阿原家はその代官だったといわれる。

 長野は志賀谷村に落ち着くと、よく彦根にでかけた。やがて、弟子や和歌の友もできて数カ月の後、彼は井伊直弼に会うのだ。直弼は彦根井伊家十二代藩主の直中(なおなか)の十四番目の子だ。江戸時代の武家の三男以下ほど哀れなものはない。それは大名の家も同じだ。次男はお控えと称して、長男が万一若死にでもしたときのスペアとして相当な待遇をされるが、三男以下は他の大名や、家中の重臣の家に養子にいく以外には、わずかな捨扶持をもらって一生飼い殺しにされ、妻も持てない。妻を持たせて子供ができれば藩でその行く末までみなければならないからだ。女がほしければ妾をおくか、女中で間に合わせるよりほかない。妾や女中なら、構わなくてもいいからだ。惨めなものだ。

 直弼も養子の口を探したが、なかなかなかった。遂に東本願寺別院、長浜の大通寺に養子に入ろうとして、ずいぶん運動したが、これも結局まとまらなかった。井伊家ではこんな境遇にある子供には年給米三百俵を与えて、飼い殺しにする定めになっている。直弼はこれを受けて生涯を埋もれ木で終わる覚悟を決め、三の丸の尾末町の屋敷を「埋木舎(うもれぎのや)」と名付けた。この家号でも分かるように、直弼の嗜好は国学にあったのだ。国学を仲立ちとして直弼と長野の関係は結ばれた。長野は埋木舎を訪問し語り合い、直弼と深い信頼を抱きあう師弟関係となった。長野、直弼ともに28歳のときのことだ。

 長野と直弼が知り合いになってから3年余の弘化3年、直弼の兄で世子だった直元が江戸で死亡、直弼が世子となった。そして、直弼が世子となって4年10カ月目の嘉永3年、井伊家の当主、直弼の長兄直亮(なおあき)が病死。遂に直弼が当主となった。一時は自らの運命を諦め切っていた直弼に、花が咲いたのだ。直弼36歳のときのことだ。

 直弼は長野を嘉永5年の春、知行百五十石の藩士として、藩校弘道館の国学教授とした。こうして長野は素性も知れない身の一介の浪人学者から、井伊家お抱えの国学者として百五十石を食む身分となったのだ。だが、人間の欲望には限りがない。この点は直弼も似た思いだったに違いない。長野は直弼を大老にしたいと考える。なぜなら井伊家はそうなれる家柄なのだから…。

大老は常置の職ではないが、平時でも置かれたことが多いうえに、こんな時局になっているのだから、置かれる可能性は大いにある。直弼は天性優れた才と度胸があるうえに、学問もしており、長い間逆境にあって下情に通じている。功名心の強い長野は、単に直弼のためだけにこう考えたのではない。直弼を大老として幕閣第一の権力者としたうえで、自分もまた幕府の要人になろうと考えていたのではないかと思われるのだ。

 1853年(嘉永6年)、ペリーが軍艦4隻を率いて浦賀沖に来航、世情騒然となったその年、病気がちだった第十二代将軍家慶が死亡。そして十三代将軍に家慶の子、家定が就いた。だが、この家定は精神薄弱児的人物だったから、できるだけ早く将軍世子に賢明な人物を立て、その人物に将軍の政務を担ってもらおうとの動きがあった。こうして周知の通り、将軍世子に一橋慶喜を推す派と、紀州慶福(よしとみ)を推す派の二派が相争う状況となった。

 冒頭に記した通り、長野は井伊大老が断行したすべてをいわば主導したのだが、最も衝撃的だったのはやはり「安政の大獄」だ。狂気のような大検挙があった翌々年、万延元年、「桜田門外の変」で直弼は惨殺される。直弼の後を継いだ直憲からは疎まれ、その翌々年、文久2年、直弼という絶大な後ろ楯を失ったダメージは大きく、藩内の空気が一変、長野に対する批判が爆発。長野は“奸悪”の徒として禁固され、牢内で処刑された。

(参考資料)海音寺潮五郎「幕末動乱の男たち」

林子平・・・憂国の思いで著した2作品が発禁となり、不遇のうちに死去

林子平は江戸時代、日本を植民地化から防ぐために蝦夷地の確保を説いた『三国通覧図説』や日本海岸総軍備という論旨の『海国兵談』などを著したが、幕府からはにらまれ、世に全く受け入れられず、不遇のうちに死去した。高山彦九郎、蒲生君平とともに「寛政三奇人」の一人。生没年は1738(元文3)~1793年(寛政5年)。

林子平は幕臣、250石の旗本、岡村源五兵衛の次男として生まれた。名は友直。小納戸兼書物奉行をしていた父は新井白石と交友があり、なかなかの学者だったが、硬骨漢で古武士の風格を備えた人物だった。そのため、徳川吉宗の時代になって新井白石が没落した際、反対派の上役とソリが合わず父が浪人。そこで兄・嘉膳とともに、叔父の林従吾に養われ、林姓を名乗った。

姉なおが仙台藩六代藩主伊達宗村の側室に上がった縁で、1757年(宝暦7年)仙台に居を移し、兄とともに仙台藩の禄を受けた。子平20歳のことだ。仙台では「赤蝦夷風説考」の著者、工藤平助、塩釜神社の神官藤塚式部らと交わっている。仙台藩で教育や経済政策を進言するが、採用されることはなかった。そのため、禄を返上して藩医だった兄の部屋住みとなり、全国を行脚した。

1775年(安永4年)、長崎へ行き、オランダ人からロシアの南下策を聞き、国防の必要を痛感、地理学・兵学を志した。その後、二度長崎で学び、江戸では大槻玄沢、宇田川玄随、桂川甫周(ほしゅう)の蘭学者らと交遊した。

林子平が生きた時代はロシアの南下政策が顕在化してくると同時に、蝦夷地への関心が一挙に高まった時代だった。子平は1777年、『海国兵談』の稿を起こした。日本が太平の眠りに呆けているうちに、近海の島や国が片っ端から、ヨーロッパ諸国の植民地や領土に繰り込まれていく。やがては日本の国土が蚕食されないとは限らないのだ。それを思うと何とかして、この書を書き上げ世の政治家たちに訴えたかった。

1785年(天明5年)には『三国通覧図説』を世に出した。三国とは朝鮮・琉球・蝦夷だ。そして1788年(天明8年)に『海国兵談』を出版した。着手して以来、実に9年の歳月が流れていた。『海国兵談』は海防の必要性を説く軍事書だったため、出版に協力してくれる版元を見つけることができなかった。そこで子平は16巻・3分冊もの大著を、自ら版木を彫っての自費出版にして世に問う決心をし、実行する。

しかし、完成した『海国兵談』は老中松平定信の「寛政の改革」が始まると、政治への口出しを嫌う幕府に危険人物として眼を付けられ、『三国通覧図説』も幕府からにらまれ、両著作とも発禁処分となった。そればかりか、『海国兵談』は版木没収の処分を受ける。

子平は第二回の長崎行き以来17年間、人生の働き盛りをすべてその問題に懸けてきたのだ。つまり、彼の命も全精神も一冊の書『海国兵談』にあったといってもいい。しかし今、その版木が資金不足からわずか38部を世に出したのみで、没収されようとしている。彼の命が、全精神が闇から闇へ消し去られようとしているのだ。子平が心に受けた衝撃は筆舌では尽くせないものがあった。だが、子平はその後も自ら書写本をつくり、それがさらに書写本を生み、後世に伝えられた。

子平は、チフスと思われる病気との闘病後の身を警護の役人に守られながら、最終的に仙台の兄のもとへ強制的に帰郷させられた。そのうえ、禁固刑(蟄居)に処され、そのまま不遇のうちに死去した。
蟄居中、その心境を「親も無し 妻無し子無し版木無し 金も無けれど死にたくも無し」と嘆き、自ら六無斎(ろくむさい)と号した。子平が息を引き取った翌月、松平定信が老中首座の地位から退けられている。時代がいま少し遅ければ、あるいは老中首座がいま少し開明的な人物なら、林子平もこれほど悲惨な状況に追い込まれることはなかったかも知れない。それにしても時期が悪すぎた。

当時、日本で認められなかった『三国通覧図説』は1832年に仏語訳が出版され、その付図「無人島之図」は幕末、諸外国との間に小笠原諸島の帰属が争われたとき、日本側の有力証拠資料となった。

(参考資料)奈良本辰也「叛骨の士道」、奈良本辰也「歴史に学ぶ」、童門冬二「江戸管理社会反骨者列伝」、南条範夫「夢幻の如く」

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藤原良房・・・人臣初の摂政となり、藤原北家全盛の礎を築く

 藤原良房は皇族以外の人臣として初めて摂政の座に就いた人物だ。それは、決して彼一人の力で成されたものではなく、父・藤原冬嗣が皇太弟時代からの嵯峨天皇に仕え信頼が厚かったこそ、着実に形成されていった閨閥を背景に、押し出されるように実現したように見える。しかし、その後の藤原氏北家の、「承和の変」「応天門の変」など、次々と政敵を陥れ排除していく事件を丹念に見ると、実態は見事に、そして計画的に仕組まれて行われたものだと分かる。良房は、そうした藤原北家全盛の礎を築き上げ、良房の子孫たちはその後、相次いで摂関(摂政・関白)となった。良房の生没年は804(延暦23)~872年(貞観14年)。

藤原良房は父・冬嗣の二男として生まれた。母・藤原美都子(みつこ)は838念に右大臣となった藤原三守(みもり)の姉で、嵯峨天皇の宮廷で尚侍(ないしのかみ)として天皇・皇后の篤い信任を受けていた。三守の妻・安子は皇后・橘嘉智子の姉だった。良房はこうした閨閥でもこの皇后と深く結び付いていた。子に明子(あきらけいこ)、養子に藤原基経がいる。

藤原北家の繁栄の基礎を築いたのは藤原冬嗣だ。冬嗣は平城上皇と嵯峨天皇が対立した「薬子の変」(810年)で嵯峨天皇のより深い信頼を得て蔵人頭という天皇の秘書官長ともいえる重要な職に任ぜられ、翌年参議に任じられ、国政に中枢に参画するようになった。のち大納言、右大臣を経て左大臣に就任。朝廷のトップの座に昇った。

良房は814年(弘仁5年)、嵯峨天皇の皇女・源潔姫(きよひめ)を降嫁された。天皇の娘が臣下に嫁するのは全く先例のないことだ。これは、多数の妻を擁し、50人くらいの子女をもうけ大家父長制をとった嵯峨上皇ならではのことともいえるが、上皇も藤原氏、とりわけ冬嗣の系統(北家)との関係を緊密にする狙いがあったのだ。桓武天皇は793年(延暦12年)に詔を下して、藤原氏に限って二世以下の王(女王)をめとることを許したのだが、冬嗣・良房の北家の流れは、ごく大家父長制のごく近くに、政治的には極めて有利な位置を占めたわけだ。
さらに、良房は妹の順子を仁明天皇の女御として権力を握った。順子と仁明天皇との間に道康親王が生まれると、良房に大きな野望が膨らむ。それが具体的な行動として現れるのが842年(承和9年)のことだ。それは嵯峨上皇が57歳で没した2日後、その火ぶたが切って落とされた。

良房は仁明天皇の生母、橘嘉智子(故嵯峨天皇の皇后=皇太后)と密議の上、伴健岑(とものこわみね)・橘逸勢(たちばなのはやなり)らのグループの何らかの思惑を、一大疑獄に仕上げてしまったのだ。仁明天皇は彼らを謀反人と断じ、その責任を恒貞親王にも問い、皇太子の地位を奪い去った。逸勢は、姓を非人と改められて伊豆国に流されたが、護送の途上で死んだ。健岑の配流先は隠岐国だった。東宮坊の官人らで流刑の憂き目に遭った者には、名族の伴氏(かつての大伴氏)、橘氏など、良房にとって朝廷でのライバルだった公卿が含まれ、60余人の多きに及んだ。これが、「承和の変」だ。

これによって良房は大納言の地位を占めた。その翌月、良房の妹、順子が仁明天皇との間にもうけた道康親王が皇太子に立てられた。親王16歳のときのことだ。

良房は次に、嵯峨天皇から降嫁された皇女、潔姫との間でもうけた明子を文徳天皇の女御とし、その間に生まれた惟仁(これひと)親王を9歳で即位させる。清和天皇だ。そして866年、遂に皇族以外で初の「摂政」となった。摂政は、天皇が幼少だったり、女帝の場合に「政を摂る」こと、あるいはその役職を指すが、それまでは聖徳太子、中大兄皇子のように皇族が就任するのが通例だった。そんな、本来手の届かないはずの摂政に良房は就任したのだ。そして「摂政」職はその後、良房の養子・基経に引き継がれていく。

(参考資料)北山茂夫「日本の歴史 平安京」

原市之進・・・徳川慶喜の側近・黒幕で、取るべき行動を指示、画策

 徳川家では、征夷大将軍になるには必ず徳川家の当主でなければならないという取り決めがあった。世襲制であると同時に、徳川家の当主を兼ねた。手続きとしては、まず宗家の当主になりその後、朝廷から征夷大将軍の宣下を受けることになる。しかし、徳川家の当主になったときは、たとえ養子でもすぐにそのまま征夷大将軍に移行するということが慣行になっていた。

ところが徳川慶喜の場合は違った。彼が徳川宗家の当主になったのは、1866年(慶応2年)8月のことだが、将軍になったのはこの年12月5日のことだ。約半年間、空白期間があるのだ。そうさせたのは慶喜の黒幕だった原市之進の画策だ。原はこの頃、慶喜の黒幕としてピタリとついていた。

 慶喜の実質的に将軍宣下に“待った”をかけた原市之進の言い分はこうだ。徳川宗家の当主を引き受けることは構わないが、徳川幕府が置かれているこの大変なときに、今すぐ将軍を引き受けるのは得策ではない。どうせならなければならないのなら、もっと恩に着せて、大名会議にどうしてもあなた(慶喜)に将軍になってほしいと要望させるのです。安売りはいけません-と進言した。そして、そのため京都にいる老中・板倉勝静殿と画策中です-という。

 この頃、幕府は第二次長州征伐の最中だった。その総指揮を執っていたのが、大坂城までやってきた十四代将軍徳川家茂だ。まだ年若な将軍で、妻は天皇の妹、和宮内親王だった。しかし、病弱な家茂はこの戦いの最中に死んでしまった。そのため、慶喜は早急に要望されて徳川宗家を相続したのだ。いままでのルールで、当然そのまま将軍職に就くものと思っていたのに、ブレーンの原が反対した。

 原市之進は元々、水戸藩の藩士だ。水戸斉昭のブレーンだった藤田東湖の従弟にあたる。幼名は小熊。諱は忠敬、忠成。別名は任蔵。号は尚不愧斎。字は仲寧。通称は伍軒先生。藩の勘定奉行を務めた水戸藩藩士・原雅言の次男として生まれ、弘道館で学んだ。1853年(嘉永6年)、昌平坂学問所に入学。その後、水戸に帰国して弘道館の訓導(現在の先生)となり、奥右筆頭取に任命された。
1863年(文久3年)、原は徳川慶喜の側近となり慶喜の補佐を務める。1864年(元治元年)、慶喜の側用人(一橋家家老)だった平岡円四郎が暗殺されると、慶喜の側用人となった。1866年(慶応2年)、慶喜より幕臣として取り立てられる。原自身は聡明で、慶喜に忠義を尽くしていたが、その功績を妬む者も多く、平岡円四郎同様に奸臣と見做されていた。

 原市之進の前半生は波乱に満ちている。若い頃、幕臣の川路聖謨(かわじとしあきら)に心酔し、川路が対露交渉のため長崎に行ったときは、その従者として一緒に行った。その頃、原は当時はやりの過激な攘夷論者だった。だから、彼の交際範囲は、いわゆる“志士”と呼ばれた連中にも広く及んでいる。とくに安政年間には水戸藩は、日本の攘夷派のメッカであり、期待する人々が多かった。長州の桂小五郎や、備中松山藩の山田方谷などとも交流があり、当時の原はこうした過激派の先頭に立って、攘夷論者の幹部として活躍していたのだ。

 1862年(文久2年)、江戸城の坂下門で老中の安藤対馬守が襲撃された事件の背後に原はいたのだ。安藤を襲撃して捕らわれた浪士が持っていた斬奸状の文面は、原が書いたという噂がもっぱらだったという。しかし、彼は表には出なかった。黒幕としてこの事件の脚本を書き演出した。彼の黒幕としての資質は天性のものであったといっていい。

 1867年(慶応3年)、8月14日、原市之進は自宅で同僚の幕臣、鈴木豊次郎と依田雄太郎に暗殺された。背後には山岡鉄舟がいたといわれる。黒幕の原の死後、慶喜の行動は常にフラフラ、グラグラとぶれ、“優柔不断な男”のレッテルを貼られることになった。原が健在なら慶喜の行動はもう少し違ったものになっていたのではないか。

(参考資料)平尾道雄「維新暗殺秘録」、童門冬二「江戸管理社会反骨者列伝」、童門冬二「江戸の怪人たち」

フランシスコ・ザビエル・・・不可解な死と日本占領計画の相関関係は?

 フランシスコ・ザビエルはカトリック教会の宣教師で、イエズス会の創設者の一人だ。ザビエルは1547年、マラッカで布教活動中、鹿児島県出身のヤジロウ(=弥次郎)という日本人に出会い、日本で宣教したいと思い立ち1549年、鹿児島に上陸。鹿児島をはじめ平戸、山口、岩国、堺、京都などで2年3カ月にわたって布教活動を行い、日本に初めてキリスト教を伝えたことでとくに有名だ。

その後、ザビエルは日本を離れ、厳しい鎖国政策下の中国・明へ渡り、布教する予定だったが、明への中継地、マラッカで4カ月近くも足止めされているうちに肋膜にかかって、46歳の若さで病死したといわれる。ただ、この死には不可解な部分が多く、謎に包まれている。

また、7つの海をまたにかけて競争が行われた大航海時代は、植民地化の時代でもあった。ザビエルがポルトガルから見れば最果ての地、日本にやって来た目的は、単なる宣教活動だけではなかったのか。現実に交易などをテコにしたポルトガルの日本占領計画も見え隠れしていることを考え合わせると、果たして、実体はどうだったのか。

 ザビエルがゴアに送った書簡は、日本に関する情報がふんだんに書き込まれた調査報告書だった。ところが、ある一時期を境にその内容が、手の平を返すように変わっていくのだ。それは離日後すぐに書かれた書簡からだ。最初は日本を金銀に満ちた豊かな市場として報告し、有望な交易国として商売の促進を呼びかけていたが、日本を離れるや否や、今までの魅力的な市場については触れず、いかに日本に来る途中の海賊が危険であるか、また日本人は好戦的で貧しく積極的な関係を持つには値しないと、正反対の内容になっているのだ。

 これは明らかにニセ情報だ。ある歴史家はザビエルがいなくなった後、金銀に惹かれたポルトガル人が武力に訴えて日本を占領しにくることを危惧したためだと分析している。果たして、ポルトガルが日本に本当に内政干渉してくる可能性があったのだろうか。

実は具体的な形として記録に残っている文書がある。ザビエルの死後38年経った1589年(天正17年)、豊臣秀吉が宣教師の追放令を出したときに書かれた彼らのメモがそれだ。このときすでに信者は15万人を超え、教会は美濃から薩摩にかけて200以上もあったという。しかし、突如として発令された追放令はイエズス会の宣教師たちを震撼させ、強い危機感となって表れる。布教で日本を手なずけることはできないと確信するのだ。そこで彼らはキリシタンに改宗している大名たちに反乱を起こさせ、自国の軍隊も上陸させて一挙に植民地にする計画だったという。

 この衝撃的な文書は、研究家の高瀬弘一郎博士がイエズス会本部の文書館から発見して明らかになったもので、その後極秘扱いとなり、残念ながら現在は外部に一切出されていないという、結局、当時の日本侵略計画そのものは、実行に移されることはなく、机上の空論に終わったというが、布教でダメなら最終手段は軍事力しかないという当時の列強の国々の思想をうかがい知ることができる。
 いずれにしても清新な心の持ち主だったザビエルが日本を戦禍に巻き込むことを望まなかったことは、残されている書簡や史実が物語っている。彼以外の宣教師、具体的にいえば場合によっては武力行使も辞さない好戦的な人物が、宣教師として最初に来日していたら、日本はどうなっていたかと考えずにいられない。日本の中世史が少し変わっていたかも知れないのだ。中世ヨーロッパの植民地政策に伝道が相乗りせざるを得なかったことが、宣教師ザビエルの死を早めてしまったことは間違いない。

 ザビエルは現在のスペインのナバラ地方、バンブローナに近いザビエル城で地方貴族の家に育った。5人姉弟(兄2人、姉2人)の末っ子。1525年、19歳で名門パリ大学に留学。バルバラ学院に入り、そこで自由学芸を修め、哲学を学んでいるときにビエール・ファーブルに出会い、さらに同じバスクからきた中年学生イニゴ(イグナチオ・デ・ロヨラ)と出会い、これがザビエルのその後の人生を大きく変えることになる。ザビエルはイグナチオから強い影響を受け、俗世での栄達より大切な何かがあるのではないかと考えるようになり、聖職者を志すことになる。1534年、イグナチオを中心とした7人のグループは、モンマルトルにおいて神に生涯を捧げるという同志の誓いを立てた。その中にザビエルの姿もあった。これがイエズス会の起こりだ。

ザビエルは、聖パウロを超えるほど多くの人々をキリスト教信仰に導いたといわれるカトリック教会の聖人だ。ザビエルはバスク語で「新しい家」の意味。生没年は1506~1552年。

(参考資料)歴史の謎研究会・編「日本史に消えた怪人」、小和田哲男「日本の歴史がわかる本」

平賀源内・・・エレキテルなどの発明家・科学者で、多芸多才な天才

 平賀源内は発明家であり科学者で、非常に多芸多才な天才であり、時代の先駆者だった。例えば宝暦年間、江戸に日本諸州から様々な珍しい品々を集め、公開した物産会が開催された。いわば博覧会の草分けともいえるこの物産会を、今から200年以上も昔に演出した人物、それが平賀源内だ。エレキテルの発明は機械学・電気学の萌芽だった。また、彼は杉田玄白や中川淳庵などにも影響を与え、「蘭学事始」の精神的原動力となった。

そして源内はまた、「根南志具佐(ねなしぐさ)」や「風流志道軒伝(ふうりゅうしどうけんでん)」などの講談本ばかりか「神霊矢口渡(しんれいやぐちのわたし)」のような浄瑠璃にまで手を染めた。また、鈴木春信は源内が江戸錦絵の誕生にも貢献したと語っている。

 「硝子を以って天火を呼び病を治し候器物」といわれる摩訶不思議な品が天下の評判を呼んだ。これが平賀源内製作のエレキテル=摩擦起電機だった。電気について、とくに系統的な知識がない源内が、エレキテルの復元に成功したのは1776年(安永5年)、壊れたエレキテルを長崎で手に入れてから、足掛け7年の歳月が経っていた。

この起電機が日本に入ってきたのは、西欧で発明されてからまだわずかの時で、西欧でもエレキテルは科学というより、新しい魔術の箱と考えられていた。江戸でもたちまちこの機械は高級見せ物になった。そのため源内の家は身分高き人、富裕なる人で賑わった。また時には源内自らエレキテル持参で、大名屋敷に伺うこともあった。

 源内が江戸っ子をあっといわせたのは発明ばかりではない。それまで上方言葉で語られていた浄瑠璃の世界でも、彼は「神霊矢口渡」では題材を関東に取り、江戸言葉ないしは吉原の廓言葉を堂々と舞台で使った。浄瑠璃は福内鬼外の名で書いたが、戯作者としては風礼山人、天竺浪人、紙鳶堂風来、悟道軒、桑津貧樂などと称した。

 源内は四国高松藩志度浦で生まれた。生没年は1728(享保13年)~1780(安永8年)。父は白石茂左衛門、御蔵番(二人扶持)の軽輩だった。源内の幼名は四方吉(よもきち)。少年の頃からからくりを作り、俳諧を詠み、軍記物を読みふけり、志度の神童、天狗小僧といわれていた。その才能を見込まれてか、13歳から藩医のもとで本草学を学び、儒学を学んだ。高松藩の当時の藩主、松平頼恭(よりたか)が無類の本草学好きだったことも、源内がこの道に進むような環境を育てていたのだろう。

 源内は25歳の時、1年間医学修行のため、藩から長崎へ遊学する。本草学、オランダ語、そして油絵なども学んだ。あり余る才能を持つ男の興味が次に、江戸へ向かうのは必然だった。27歳になると、源内は病身を理由に妹の婿養子に従弟を迎え、家督を譲り江戸へ出た。まもなく田沼時代が幕を明けようとしていたときだった。

本草学者、田村元雄(藍水)の門に入った源内は、物産会に取り組んだ。1757年(宝暦7年)から1762年(宝暦12年)まで、わずか6年の間に5回も物産会は開かれた。物産会は博覧会といっても飲食物は出さず、また入場者も制限していたので、真面目な学問的な催しだったが、1762年(宝暦12年)、源内主催の物産会に集まった薬種・物産は1300種を超えたと記録されている。
 源内の鋭い思考力と才能は尽きることがない。欧州から入ってきた油絵を見れば、すぐに自分で油絵具から画布まですべて考案し、西洋風絵画を仕上げてみせる。また、輸入された西洋陶器に対して作った源内焼と称される陶器もある。普通、緑色の釉薬(うわぐすり)がかかった焼き物で、その図案には万国地図をよく使っているのも源内らしい。発明・工夫は寒熱昇降器・磁針器など数知れなかった。

 源内は些細なことから殺人を犯して波乱に満ちた52年の生涯の幕を閉じた。その死の5年前、彼は「放屁論」を、2年前に「放屁論後編」を書いた。当時、江戸に「放屁男(へっぴりおとこ)」なるものがおり、見事に屁をひり、「三番叟(さんばそう)」や「鶏東天紅(にわとりとうてんこう)」を奏でて人気を博した。「放屁論」で源内はこの放屁男を古今東西、このようなことを思いつき、工夫した人はいないと褒め称えた。そして「後編」では貧家銭内(ひんかぜにない)という、自分自身の生い立ちに近い男を登場させる。これらは「憤激と自棄のないまぜ」の書であり、ここに表現されているのは、彼自身の自画像とみられる。

(参考資料)梅原猛「百人一語」、吉田光邦・樋口清之「日本史探訪/国学と洋学」
      平野威馬雄「平賀源内の生涯」、尾崎秀樹「にっぽん裏返史」、司馬遼太郎・ドナルド・キーン対談「日本人と日本文化」

藤原基経・・・長く朝廷の実権を握り藤原摂関家隆盛の基礎をつくり上げる

 藤原基経は初の摂政・関白・太政大臣を務め、いわゆる藤原摂関家隆盛の基礎をつくりあげた人物だ。清和天皇・陽成天皇・光孝天皇・宇多天皇の四代にわたり朝廷の実権を握った。また陽成天皇を暴虐だとして廃し、光孝天皇を立てたほか、次の宇多天皇のとき「阿衡事件」を起こして、天皇をも凌ぐ権勢を世に知らしめた。時の天皇もこの基経には、細心の気を使いながら詔(みことのり)するありさまだった。まさに怪人だ。基経の生没年は836(承和3)~891年(寛平3年)。
 藤原基経は藤原一族の中でも最大の権勢を誇った藤原北家、藤原長良の三男として生まれた。母は仁明天皇の女御沢子(たくし)と姉妹の関係にある藤原乙春(おとはる)。正室は仁明天皇と沢子との間に生まれた人康(さねやす)親王の娘だ。幼名は手古。官位は従一位、贈正一位。堀河大臣と号した。漢風諡号は昭宣公。
 太政大臣だった叔父・藤原良房に見込まれて養嗣子となり、養父の死後、氏長者となった。851年(仁寿1年)、16歳で文徳天皇から加冠されて元服し、852年(天安2年)に即位した清和天皇のもとで蔵人頭となり、864年(貞観6年)には29歳で参議となった。2年後の「応天門の変」で源信の無実を伝え、伴善男が失脚した後、7人を抜いて中納言となり、872年には正三位右大臣となった。基経37歳のときのことだ。とんとん拍子の栄進は、もちろん養父の後ろ楯によるが、彼は政治家として非凡の器だった。
 基経の政治と特色は、養父良房の先例を、法的に整合性を持った体系として位置づけようとした点にあり、後世に先例として尊重された。
 876年、清和天皇が27歳の若さで突如退位し、即位したのはわずか9歳の陽成天皇だった。時の実力者は天皇の母高子(こうし)の兄、基経だった。彼が摂政となって事実上朝政をみることになった。陽成天皇は乳母を手打ちにしたり、宮中で馬を乗り回したり、小動物に悪戯をして殺生を重ねたその風狂ぶりは目に余るものがあり、周囲のものは天皇に翻弄されるばかりだったとも伝えられる。そんな天皇もある日、書簡を寄せて、病気のため譲位の意向をほのめかした。そこで基経も天皇の退位を企図。彼は皇位継承者の人選を進め、55歳の時康(ときやす)親王(=光孝天皇)の擁立を決めた。時康親王の母と基経の母とが姉妹だったこと、時康親王自身が政治に無関心だったことも基経が政務を独占するのに好都合だったからだ。
 基経の独裁ぶりはまだまだ続く。それから3年後の887年(仁和3年)、天皇の病気が重くなったのを機に、基経は天皇の皇子で臣籍に下っていた源定省(さだみ)を親王に復させ、皇太子に立てた。そして、光孝天皇の崩御に伴い即位、宇多天皇を実現させた。つまり、当代きっての実力者で関白の基経が、その権勢を背景として事実上、皇位継承の方針を決め、源定省を親王に復帰させ、ほぼすべての手順が基経の意向通り運ばれたのだ。その結果、基経の強烈な権力志向はとどまるところを知らず、新帝=宇多天皇との間に齟齬をきたした。そして、遂に「阿衡の紛議」が発生した。
 887年(仁和3年)、宇多天皇の即位後まもなく、摂政、太政大臣基経に対し、基経への関白任命が発令された。この就任要請の中に記された一文、「阿衡」の解釈をめぐって、基経が意地を通したのだ。彼は頑なに出仕を拒み、その期間は半年以上にも及んだ。この事件は橘広相と藤原佐世を中心に多くの学者間の論争に発展した。この事件には、この機会を捉え自己の意向を押し通し、関白の地位を不動のものにしようとする基経の政治的思惑が強く働いていたことは間違いない。そして、基経の狙い通り決着した。
 こうして確立された藤原北家の比類なき権勢は、基経の子供世代、時平・仲平・忠平に引き継がれていく。
(参考資料)笠原英彦「歴代天皇総覧」、北山茂夫「日本の歴史・平安京」

前田慶次郎・・・文武両道に秀でた、戦国を代表する「かぶき者」

 前田慶次郎は戦国時代を代表する「傾奇(かぶき)者」といわれる。前田利家の義理の甥。武勇に優れ、古今の典籍にも通じた人物でもあったようだが、史料は少なく、謎の多い人物だ。面白い逸話が多いのだが、それが真実かどうか、それを裏付ける史料もまた少ない。しかし、その少ない史料をつなぎ合わせると、まさに怪人というほかない。

 前田利益(まえだとします、慶次郎)は尾張国旧海東郡荒子(現在の名古屋市中川区荒子)で生まれた。幼名は宗兵衛。通称は慶次郎、慶二郎、啓次郎など。彼を題材とした漫画「花の慶次」の影響で、前田慶次という名前で呼ばれることも多い。諱は利益のほか、いくつもあるが、史料では利太(としたか)あるいは利大(としひろ、としおき)、利貞(としさだ)などの名が伝わっている。
養父は前田利久(前田利家の兄)。妻は前田安勝の娘で、間に一男三女をもうけた。嫡男の前田正虎は従兄弟の前田利常に仕えた。慶次郎は早くから奇矯の士として知られていたが、単に変わり者というだけでなく、文武両道に秀でた人物だったようだ。

 慶次郎が有名なのは「傾奇者」としてだ。とくに養父の前田利久が病没して、しがらみがなくなってからは、利家との決別を決意。利家が自慢にしていた名馬「谷風」にこっそり乗って、金沢を出奔したという。その後、上洛した慶次郎は浪人生活を送りながら、里村紹巴・昌叱父子や九条○道・古田織部ら多数の文人と交流。たちまち洛中の有名人となり、後に豊臣秀吉から「心のままにかぶいてよろしいと」いう、いわゆる「傾奇免許」を得たという話もある。

 浪人時代は「穀蔵院○戸斎(こくぞういん・ひょっとさい)」「龍砕軒不便斎(りゅうさいけん・ふべんさい)」と名乗った。「鷹筑波」「源氏○宴之記」によると、「似生」と号し、多くの連歌会に参加した。

 秀吉が亡くなると、天下は再び動き始めた。徳川家康による上杉家討伐の話を聞くと、慶次郎は朱塗りの槍を抱え上杉家に馳せ参じた。上杉景勝は慶次郎が見込んだ唯一の戦国大名であり、その重臣の直江山城守兼続は慶次郎の文武の友だ。慶次郎は傾奇者として冥利を感じつつ、武者ぶるいして戦いに挑もうとしていたが、相手の家康が上杉家を攻める軍勢を進めていたときに、西で石田三成が挙兵。家康は反転して西に向かった。後に「関ケ原の戦い」と呼ばれる合戦に臨むためだ。上杉軍としては兵法の常識として家康を追撃し、石田三成率いる西軍と呼応して挟撃すべきだ。しかし、そうはしなかった。なぜだか、正確には分からない。そして、当面の相手を失った上杉家は隣の最上家の攻略に矛先を向ける。

 ここで最上領を攻めていた上杉軍に想定外のことが起こる。関ケ原の戦いが思いのほか、短時間で東軍が勝利を収め集結。こうなれば家康がとって返してくるのは目に見えている。最上領を早急に撤退して守りを固めるほかない。味方を無事に退却させるために、上杉家の名軍師といわれ、世に知られた直江兼続が3000騎を率いて殿軍(しんがり)を務め、退却戦を行うことになった。追う相手の最上軍は2万騎。圧倒的な兵力差だ。瞬時に壊滅させられてもおかしくないところだ。
しかし、この殿軍は類をみないほどの頑強な抵抗を示した。「北越○談」によると、この戦いは10時間の間、距離にしてわずか6キロの間で28回の戦闘が行われたという激烈なものだったという。

 しかし、3000対20000の兵力の差は歴然、闘うたびに兵が減ってどうにもならなくなり、兼続は自分が相手に討ち取られて味方の士気が落ちることを恐れ、切腹しようとした。それを止めたのが前田慶次郎だ。「上杉将士書上」によると、慶次郎はわずか5人ばかりを引き連れて最上軍に突進した。
慶次郎と、このたった5人の猛烈な攻撃に何と最上軍は右往左往にまくりたてられ、遂に逃げ出したという。その間に兼続は堅固な陣を張ることができ、虎口を脱することができたという。捨て身の策とはいえ、わずか5人で戦局がこれほど劇的に変わることあるのか、とても信じ難いことだ。

 さらに問題なのはこのときの慶次郎の年齢だ。「米沢史談」によると、慶次郎が生まれたのは1541年となっている。とすると、このとき満年齢にして59歳。また「加賀藩史料」にあるように1605年に73歳で亡くなったとすると、このとき67歳ということになる。平均寿命が短く、40歳にもなると老兵といわれ、滅多に戦場に赴くことなどなかったこの時代にである。どちらの年齢であったとしても、とても常人とは思えない。

(参考資料)海音寺潮五郎「乱世の英雄」

間宮林蔵・・・ 「間宮海峡」の発見者で、シーボルト事件の摘発者

 間宮林蔵といえば、幕命により樺太を探検し、樺太が島であることを確認、すなわち「間宮海峡」を発見したことで知られている。この間宮海峡の存在は、シーボルトによってヨーロッパに伝えられ、間宮の名は世界地図の上に永遠に刻み付けられることになった。林蔵はそのシーボルト事件の摘発者だとされている。探検・測量家で、幕府隠密でもあった林蔵は、その責務を冷静に果たしたに過ぎないとの見方もあるが、それは世の大きな批判と非難を浴びる行為でもあった。生没年は1780(安永9)~1844年(天保15年)。生年には1775年(安永4年)説もある。

 間宮林蔵は常陸国筑波郡上平柳(かみひらやなぎ)村(現在の茨城県つくばみらい市)の農業・箍屋(たがや)に生まれた。名は倫宗(ともむね)。9歳のとき、村の専称寺にあった寺子屋に通い、読み書き、そろばんを学んだ。その後、地理学者、村上島之丞(しまのじょう)に規矩(きく)術(三角測量)を学び、1800年(寛政12年)、蝦夷地御用掛雇(えぞちごようがかりやとい)となった。同年、箱館で伊能忠敬に会い師事、のち天測術(緯度測定法)を学んだ。

林蔵は1806年(文化3年)、択捉を測量。1808年、調役下役元締・松田伝十郎と樺太に派遣され、伝十郎は西海岸、林蔵は東海岸を調査。翌年アイヌの舟で海峡を渡り、黒竜江下流地方を探検、樺太が島であることを確認した。1812年、再度蝦夷地に渡り、伊能忠敬の未測量地域の海岸を実測。1821年(文政4年)完成した忠敬の「大日本沿海與地全図」には林蔵の測量が生かされているといわれる。

 1822年、林蔵は江戸に帰り普請役、1824年、安房、上総御備場掛手附(おそなえばがかりてつき)を命じられ、東北地方の東海岸を巡視。以後。林蔵は様々な姿に変装して各地を歩き、外国船渡来の風聞や密貿易調査の隠密活動に従事した。1828年(文政11年)、林蔵49歳のとき、シーボルトから小包が届き、彼は外国人との私的な贈答は国禁に触れると考え開封せずに上司に提出した。これによりシーボルトと幕府天文方・書物奉行の高橋景保との交流が明らかになり、これがシーボルト事件の発端となった。

オランダ商館付の医師、シーボルトが帰国する直前、所持品の中に国外に持ち出すことが禁じられていた日本地図などが見つかり、それを贈った高橋景保ほか十数名が処分され、景保は獄死(その後、死罪判決を受けた)した事件だ。処分者の多さに事の重大性が表れており、それをいわば密告した林蔵の卑劣さをなじる眼も少なくなかった。

 1834年(天保5年)以降の林蔵は、海防問題を通じて水戸藩と接触、藤田東湖らと交わった。2年後、林蔵は隠密として石見国浜田で密貿易事件摘発の発端を掴んでいる。しかし、健脚を誇った林蔵も少しずつ足腰が弱り、その後は隠密としての務めは果たせなくなっていった。59歳のとき、江戸で病の床に就き、6年後の1844年(天保15年)、江戸の自宅で65歳の生涯を閉じた。

 主な著書に「東韃(とうだつ)紀行」「銅柱余録」などがある。
(参考資料)吉村昭「間宮林蔵」、池波正太郎「北海の猟人」、池波正太郎「北海の男」

宮本武蔵・・・ 『五輪書』の書き出し、武蔵複数説など数多い謎

数多い剣豪の中でも、二刀流の使い手といえば宮本武蔵をおいてほかにない。二刀流の祖といわれるのも十分うなずける。生涯で60数回の決闘はすべて勝った。佐々木小次郎との巌流島での対決は伝説化された武芸伝としても有名だ。ただ、本人の伝記には不明な点が多い。文武両道で天才肌といわれる武蔵の行動には常に謎がつきまとっている。果たして武蔵は本当に二刀流で戦ったのだろうか。そして、彼は伝えられるような剣豪だったのだろうか。

そもそも宮本武蔵という人物が、我々の脳裏に強く印象づけられているのは、作家の吉川英治氏が書いた不朽の名作「宮本武蔵」の影響が大きい。小説は関ケ原の合戦後から始まり、巌流島の決闘をクライマックスとして終わっている。だが、吉川氏本人が語っているように、これは史実を明らかにするのが目的ではなく、剣の道に己を求めていく一人の男をテーマにした歴史小説であって、明らかにフィクションだった。

では、本当の武蔵はどのような人物だったのか。これまで多くの歴史家が重視してきたのは武蔵自身が著した兵法書「五輪書」だ。しかし実は、現存するものは武蔵が晩年を頼った細川家の家臣が書いた写しで、直筆のものは存在しないのだ。さらに、「五輪書」の書き出し部分に、本当に武蔵自身が書いたのか信じ難い部分がある。「自分は13歳の時から29歳までの間に60数回の決闘をしたが、一度も負けたことがない。これは自分が兵法を究めたのではなく、天才だったからだ」とあるのだ。剣術指南として大名に仕官するチャンスを意識して、自分の腕を誇張してこのように表現したと取れなくもない。だが、果たして自分で自分のことを天才と表現するだろうか。まずここに疑問を投げかけざるを得ない。

さらに古文書をもとに武蔵の人物像に迫ろうとすると、いくつも違う名前の武蔵が出てくるのだ。「新免武蔵(しんめんたけぞう)」というのが本名だが、彼をよく知る旗本の渡辺幸庵は、彼のことを「竹村武蔵」と書き残しているのが代表的な例だ。

疑問はまだある。武蔵の墓が熊本に5つもあるのだ。熊本は彼が最後の人生を過ごした細川家のあるところで、現存している「五輪書」もここで書き写されていることを考えれば、武蔵が相当手厚いもてなしを受けていた場所と見て間違いはないはずだ、だから、死後に供養される墓もきちんと作られているに違いない、と見ていい。しかし滝田町弓削には「新免武蔵居士」の名前が刻まれた石塔があり、島崎町には武蔵のことを指す「貞岳玄信居士」の名前の入った墓が、また細川家歴代の墓のある場所にも「武蔵の供養塔」が建っているのだ。このほか、小倉手向山、宮本村の平田家の墓地にも武蔵が眠っているといわれているのだ。こうなると、複数の武蔵がいたのではないかと考えざるを得ない。

武蔵複数説はまだある。彼が自らの刀さばきを二天一流(にてんいちりゅう)と呼び、二刀流という言葉も含めて自らが考案したものとしているが、歴史家によると、この二天一流の呼び方は晩年になってからで、それ以前に二刀流で円明流という技があったのだ。それなら円明流のルーツをたどれば武蔵に行き着くはずだ。ところが、この流派の創始者をたどってみると2人の武蔵が登場する。1人は宮本武蔵守吉元で、もう1人は宮本武蔵守義貞だ。どちらも実在の人物なら、武蔵という名の2人の二刀流の達人がいたことになる。

謎の列挙はこのくらいにして、限られた史料に基づいて終盤の武蔵の人生をたどってみよう。彼が藩主・細川忠利の客分として熊本にきたのは1640年(寛永17年)、57歳のとき。剣を通して人生を探求し続けた武蔵は、晩年までの5年を熊本で過ごしている。

「五輪書」は1643年(寛永20年)、武蔵60歳のとき熊本市西方の金峰山麓「霊巖洞」に籠って、書き綴ったもので、完成は1645年(正保2年)春。武蔵の死は同年5月。「五輪書」は死の間際まで筆を執り続けた武蔵執念の書だ。地・水・火・風・空の5巻から成り、「地之巻」は兵法の全体像を、「水之巻」は剣法の技術を、「火之巻」は駆け引きや戦局の読み方を、「風之巻」では他流派の兵法を評論、「空之巻」では武蔵の考える兵法の意義・哲学を書いている。「空」は武蔵晩年の心境を書いたもので、「兵法を究めることが善の道」と説いている。
武蔵は「兵法の道」の極意を究めたほか、「詩歌」「茶道」「彫刻」「文章」「碁」「将棋」などにも秀でた才能を発揮している。

(参考資料)歴史の謎研究会・編「日本史に消えた怪人」、小和田哲男「日本の歴史がわかる本」

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山田長政 ・・・徳川二代将軍秀忠の時代、シャムで老中並み地位に

山田長政は江戸初期、17世紀に東南アジアへ渡った貿易商人。史料では山田仁左衛門。シャム(現在のタイ)のアユタヤ王朝から官位を授けられ、リゴールの長官に任じられたとされる。ただ、その実像は不明で、太平洋戦争時、親・東南アジア政策の下、作り上げられた「英雄的日本人」との評も厳然としてあり、詳細は定かではない。

山田仁左衛門長政は1590年(天正18年)頃、駿府国(現在の静岡県)馬場町の染物屋の子として生まれた。少年時代の長政はよく学問を好む半面、はなはだ乱暴な子供で、周囲からは疎んじられたといくつかの伝記に書かれているが、日本国内での事跡を裏付ける確実な史料は残されていない。徳川家康の側近、金地院崇伝が幕府の公文書を写した「異国日記」には、長政は1607年(慶長12年)頃には沼津藩主・大久保治右衛門忠佐(ただすけ)の六尺(駕籠かき)をしていたと記されている。これが長政の前歴を語る唯一の史料だ。

鎖国以前の日本は、豊臣秀吉の時代に始まった朱印船貿易が盛んで、それに伴い多くの日本人が海外に出奔し、東南アジア各地の日本人町を拠点に活躍していた。若き長政も海外で名を成そうと考え、長崎から旅立っていった。彼が目指したのはシャムに栄えたアユタヤ王朝の国都、アユタヤだ。1612年(慶長17年)頃、長政23歳頃のことだ。やがて才能を認められ、日本人町の頭領の座に就いた。そして、織田信長以来の熾烈な戦乱を体験した“関ケ原浪人”や“大坂浪人”などで構成された日本人傭兵隊を率いて、数々の戦果を挙げた。彼はアユタヤ近くまで攻め込んできたスペインの艦隊を撃退してしまう。こうした武勲が国王ソンタムの知るところとなり、彼は「オムプラ」という貴族の官位を授かった。

シャム側の文献には長政の官位について「オークプラ・セーナピモック」、さらにその上の「オークヤー・セーナピモック」になっている。オークヤーは大臣級である。そして、セーナピモックというのは「軍神」の意味だった。つまり、長政は日本人町の頭領として、また王宮の親衛隊長として大臣級の扱いを受けていたのだ。このことは先にも触れた金地院崇伝の日記「異国日記」で裏付けられる。1621年(元和7年)4月11日付で、長政が幕府の老中、土井利勝と本多正純に書簡を出していたことが分かる。「異国日記」にその全文が写しとたれているので間違いない。内容は「シャム国王が日本の将軍に国書を贈ったので、そのとりなしを頼む」というものだった。その頃の書簡のやり取りには書札礼(しょさつれい)という厳しい決まりがあり、書簡を出すときは対等の人間に出すのがしきたりだった。シャム国王は二代将軍・徳川秀忠に国書を出し、長政が土井利勝・本多正純に書簡を出していることが、見事にそのルールに則っている。ということは、長政はシャム王朝では日本の老中と対等の地位にあったことを示している。

このあと長政はシャムの王位争いに巻き込まれ、体よくシャムの中では南のはずれのリゴールという国の王に任命されてしまった。分かりやすくいえば、幕府の老中職にあった人物が、都から遠く離れた地方の藩主に左遷されてしまったようなものだった。そして、任地に赴いて少し経過した1630年(寛永7年)、対抗勢力の手の者によって毒殺されてしまったのだ。

17世紀の初頭、東南アジア各地に日本人移住者の集団居住地、「日本人町」が形成されていた。これは、徳川家康の貿易奨励策の下に展開された朱印船貿易によって日本商船で東南アジア各地に渡航する者が激増したためで、渡航した朱印船は1603年(寛永13年)の鎖国令発布に至るまでの30余年間に延べ350~360隻にも上った。これらの船には貿易商人はもとより、牢人あるいはキリシタンなども乗り込み、海外に赴いた。

日本人町は交趾(こうち)(中部ベトナム)のフェフォとツーラン、カンボジアのプノンペンとピニヤール、シャムのアユタヤ、呂宋(ルソン)島(フィリピン)マニラ城外のサン・ミゲルとディラオの7カ所に建設された。その盛時には呂宋の3000人を筆頭に、アユタヤ1500~1600人のほか、各地に300~350人ほどの日本人が在住し、その総数も5000人以上に達した。これらの日本人町は自治制を敷き治外法権を認められ、在住日本人の有力者が選ばれ行政を担当していた。フェフォの林喜右衛門、ピニヤールの森嘉兵衛、アユタヤの山田長政らはその代表的人物だ。鎖国下で徐々に衰退していったが、17世紀半ばから18世紀初頭まで存続した日本人町もあった。

(参考資料)城山三郎「黄金の日日」、小和田哲男「日本の歴史がわかる本」、
早乙女貢「山田長政」