頼山陽・・・日本外史,日本政記を著した明治維新の思想的・理論的指導者

 今から150年ほど前、日本の最大の文豪は誰か?と問われたら、当時の日本人はみんな頼山陽と答えただろう。それほどに偉い作家、文学者だった。といっても、別に大衆受けするベストセラー作家だったわけではない。明治維新の思想的・理論的指導者だったのだ。

 当時の青年たちの最も心を捉えたのは頼山陽が著した二つの歴史書だった。それは「日本外史」と「日本政記」だ。「日本政記」は天皇家の歴史を書き、「日本外史」は平家から徳川氏に至る武家の歴史を書いている。頼山陽はその中で、時の勢いが歴史の流れを変えていく-と主張する。平家が滅び、鎌倉幕府が滅びていったのは、それらが歴史の動きに取り残され、政権を担当する力を失ってしまった当然の結果だとする。歴史は必然的に動いていく。この歴史観が、尊王倒幕の意気に燃える青年たちを煽り立てた。

 頼山陽の父、頼春水は、安芸国、現在の広島県竹原出身の学者だ。頼家の先祖はその姓を頼兼(よりかね)といい、竹原で紺屋を営んでいた。学者となった春水は、中国風にその一字を取り、頼と名乗ったという。若い頃、大坂で学び、自らも塾を開いていた。頼山陽は、その春水の長男として大坂で生まれた。幼名は久太郎。生没年は1780(安永9年)~1832年(天保3年)。母静子も大坂の有名な学者、飯岡義斎の娘で、当時としては開けた女性だった。山陽が生まれてまもなく、父春水は広島藩の儒官となった。学問の力で町人から武士となったのだ。

 子供の頃、山陽は非常に体が弱かった。ただ、厳格な父は初めのうち、息子を「病気」だと認めようとしなかった。さらに儒官の父は、藩主の供をして江戸へ出ているときが多く、広島の留守宅は母親と病弱の子供の母子家庭みたいなものになっていた。そして父は時々、藩主と一緒に藩に戻ってきて、息子を厳格に叱り、躾けようとする。ただその途中で江戸へ出てしまう。すると、母は寂しがり、またそれを平気で言動に出す人だったから、その寂しさが全部子供にかかってくる。そこで、山陽は溺愛される。この溺愛と厳格とを交互に繰り返される。こんなところから、山陽のいろいろな性格上の特異な点が強く出てきたものと思われる。

 山陽は生涯に3度、この環境からの脱出を図っている。一度はせっかく入学した「江戸昌平こう」からの退学。二度目は広島藩からの脱藩。そして三度目は、先生として迎えられていた菅茶山(かんさざん)の塾からの脱走だ。中でも広島藩からの突然の脱藩は大問題となった。当時の法律では、許可なしに藩の領地を離れると、追っ手がかかり上位討ちされてしまう。しかし、山陽は病気ということで、脱走先の京都から連れ戻され、屋敷内の座敷牢に幽閉されてしまう。厳格な父も、息子山陽の病気を認めざるを得なくなった。21歳から3年間の座敷牢生活。この間に山陽は「日本外史」の筆を執り始めたのだ。
 山陽は躁うつ病を患い、周囲を心配させつつ、次から次へ、この頼家一族および広島藩そのものに衝撃を与えるようなことをやる。そういうことを通しながら、やがて彼は自分で人生を作り上げていく。つまり、自分の可能性を好きなように伸ばすように、自分の生活を作るということを覚えていって、遂に頼山陽というあの巨大な存在にまで自分を仕立て上げたのだ。

 山陽の子も二つの生き方をした。山陽が53歳で死んだとき、京都の家には二人の男の子がいたが、兄又二郎は父山陽の学者としての面を受け継ぎ、のち東京大学の教授となった。弟三樹三郎は、父山陽の改革者としての面を受け継いだ。反体制運動の実行者として、安政の大獄に倒れた。三樹三郎は、山陽の孫弟子にあたる吉田松陰の墓の隣に葬られている。山陽の死後27年目のことだ。

(参考資料)奈良本辰也「不惜身命 如何に死すべきか」、童門冬二「私塾の研究」、中村真一郎「日本史探訪/国学と洋学」

良寛・・・「遊」の世界で世間と闘い、簡単な言葉で仏法を説く

 「大愚(たいぐ)」-良寛は自らをこのように号して憚らなかった。自分は大いなる愚者だ、と。無欲恬淡な性格で、生涯、寺を持たず庶民に信頼され、簡単な言葉(格言)によって一般庶民に分かりやすく仏法を説いた。その姿勢が様々な人々の共感を得た。良寛の生没年は1758(宝暦8)~1831年(天保2年)。

 良寛は越後国出雲崎(現在の新潟県三島郡出雲崎町)に四男三女の長子として生まれた。俗名は山本栄蔵、または文孝。号は大愚。父、山本左門泰雄はこの地の名主(橘屋)であり、石井神社の祠職を務め、以南という俳人でもあった。当時は江戸時代後期、田沼意次の「賄賂政治」が繰り広げられようとしていた時期だった。佐渡で採掘される金の陸揚げ港だった出雲崎にも、そのような時代の波は押し寄せてきていた。生家は、幕府役人と結託した新興勢力に、その地位を脅かされつつあった。庶民は虐げられ、労役は厳しかった。

18歳で名主見習いとなった良寛は、その圧政に耐えられなかったのだろう。圧政の片棒を担ぐことができなかったのだろう。妻を離縁し、まもなく故郷の曹洞宗の光照寺で出家・剃髪。4年後に師・大忍国仙和尚に従って逃げるように出雲崎を出て、備中玉島(現在の岡山県倉敷市)の円通寺に向かった。22歳のときのことだ。円通寺で良寛は国仙に可愛がられたが、34歳のとき、師の国仙がこの世を去ると、他の僧侶たちとの折り合いが悪くなり、円通寺を去った。 
  
恐らくまだ円通寺にいたときと思われるが、良寛は国仙和尚の末弟子、義提尼より和歌の影響を受けたといわれる。実は良寛は西行法師に憧れており、その足跡が伝えられる地を巡りながら、歌僧を目指していたと思われる。
円通寺を去った後の良寛の消息は分からない。そして、恐らく諸国を放浪した後、40歳ごろ帰郷。越後国蒲原郡国上村(現在の燕市)国上山(くにかみやま)国上寺(こくじょうじ)の五合庵、乙子神社境内の草庵、島崎村(現在の長岡市)にそれぞれ住んだ。

良寛は無欲恬淡な性格で、生涯、寺を持たず、時には手毬をついて子供たちと戯れ、時には托鉢に出かけ、時には詩歌を書いて、後半生を送った。良寛自身、難しい説法を民衆に対しては行わず、自らの質素な生活を示すことや、簡単な言葉(格言)で一般庶民に分かりやすく仏法を説いた。その姿勢は様々な人々の共感を得た。

良寛が生きた時代は激動の時代だった。彼が諸国を放浪していたときも、恐らくそのような緊迫した情勢が聞こえてきたかも知れない。また、身をもって国内の混乱状態を体験していたのかも知れない。しかし、史料として伝えられる良寛の人生からは、なぜかその激動は見えてこない。あくまでも静かな人生だった。それが、時代の波に振り回されることのない、名主の座と引き替えに良寛自身が選んだ、権力機構からドロップ・アウトした人間の人生だったのだ。

良寛は和歌のほか、狂歌、俳句、俗謡、漢詩などに巧みだった。そして、書の達人でもあった。良寛が創造した世界は、「遊」の世界だった。
子どもらと手まりつきつつこの里に 遊ぶ春日は暮れずともよし
良寛の歌だ。「遊」は良寛において世間と闘う武器だった。良寛の道号は既述した通り「大愚」。愚かというのは、世間の常識がないという意味。世間の物差しを忘れてしまっているのだ。良寛は世間の歪んだ物差しに対して、忘れることで対抗した。世間の歪んだ物差しを忘れて、良寛は子供たちと遊んでいたのだ。月と遊び、花と遊び、風と遊んで暮らした。それが良寛の禅だった。

良寛と遊んでいた子供たちは、やがて口減らしのために、商家や女郎屋に売られ、村から消えていく。いつの時代であっても、それが貧しい庶民の現実だ。それを宗教者・良寛はどうすることもできない。良寛にできることは、やがて売られていく子供たちと一緒に遊ぶことだけだった。
散る桜 残る桜も 散る桜
良寛の辞世の句だと伝えられている。良寛は新潟県長岡市(旧和島村)の隆泉寺に眠っている。

(参考資料)加来耕三「日本創始者列伝」

蓮如・・・本願寺教団「中興の祖」で稀代の宗教オルガナイザー

 日本における今日の浄土真宗隆盛の礎をつくり、浄土真宗の本願寺教団の「中興の祖」といわれる蓮如は、稀代の宗教オルガナイザーだった。蓮如の目的はただ一つ、いかに仏の道を深く踏み分けるかではなく、いかに信徒を増やすか-にあった。彼には資金も伝手(つて)もなかった。あるのは繁盛する同門の寺々の存在だった。宗祖・親鸞は教義を何よりも重視し、教団運営はもとより、教団をつくることにすら否定的な人物だった。ただ、弟子、孫弟子、またその宿り木弟子たちが大勢いて、彼らが皆“親鸞ブランド”をかざして繁盛寺を構えていた。繁盛の原因は、難解な教義を説く態度はきれいに棄て、「いかに簡単に目的の幸福を手に入れるか」に変えてしまったところにあった。

 こうした現状を見据え、蓮如はいかに本願寺教団の信徒を増やすかに焦点を絞り、その布教戦略を立案、実践していった。それは・“親鸞ブランド”を最大限に活用する・民衆の拝“権威”意識を巧みに利用する・教義より民衆の現世利益意識に応える・「御文」で宗祖・親鸞の教義を説き、布教を積極化する・世の“金取り寺”とは差別化、独自化路線を打ち出す・宗祖・親鸞が厳禁とした「講」をも奨励する-などだった。

 民衆は誰しも死後、極楽浄土へ行きたいと願っている。さしずめ民衆はトラベル会社に極楽行きの切符購入を頼むお客なのだ。とすれば、客にしてみれば相手の会社が、経営基盤がしっかりしているという証がほしい。そこで、切符代を高くして客を圧倒し権威付けることによって安心させるのだ。困ったことに、民衆は高いものの方が、質が高いとすぐ錯覚する。となると、肩書きのあるブランド品=親鸞ブランドが最大限に威力を発揮するというわけだ。

 寺はあの手この手で人を集める。集まる人々は、しかしすぐ死ぬわけではない。取られる献金に対して、何かの手ごたえが要る。最初は死の恐怖克服のためだった宗教が、現世利益的に変わっていってしまった。そこで蓮如は、一念して仏に帰依すれば、すなわちこのとき己が仏に成る-と説く。最後には、あなた自身が仏や親鸞聖人と同格ですよ-と目一杯、精神面をくすぐるのだ。
 また、蓮如は「御文」で親鸞の教えを分かりやすく説くことも積極的に実践した。献金競争をして後生を僧に任せるのではなく、あの清廉な親鸞の精神に戻り、自分自身が積極的に学ぼう-と説いたのだ。親鸞の思想の正統を、誰でも容易に身につけられる方法を考え出した。それが、この「御文」だった。

 蓮如は数々の御文の中で、すべての念仏者は死んで極楽浄土で永遠に生きられることを教えている。そして蓮如は、極楽往生までのこの世の生活を、どのように過ごしたらよいか、政治的・社会的・宗教的などあらゆる角度から説いている。また極楽往生と現世利益の願いは矛盾するものではなく、念仏一つで同時に叶えられることも力説しているのだ。本願寺教団は、御文の精神を守ることによって、蓮如の存命中はもちろん、没後今日まで大過なく繁栄の道を歩むことができたのだ。
こうして蓮如は参詣の人一人もなく、寂れていた本願寺を「極楽浄土のようだ」といわれるほどに発展させた。親鸞が残してくれた思想によって救われた御礼すなわち御恩報謝(ごおんほうしゃ)を、弥陀と親鸞に対して果たすために、全生涯を捧げ尽したのだ。

 蓮如は本願寺第七代目法主(ほっす)、存如の第一子として京都・東山大谷で生まれた。幼名は布袋丸、法名は蓮如。院号は信證院、諱は兼壽、諡号は慧燈大師。蓮如上人と尊称された。蓮如の生没年は1415(応永22)~1499年(明応8年)。

 蓮如は本来、父の跡を継いで本願寺の法主の座に就くことは望めない境遇だった。実母が本願寺に仕える下女だったためだ。そして、この実母は蓮如が6歳のとき身を引き、姿を消してしまう。したがって、蓮如の幼・少年時代は、父・存如の正妻である継母との心理的相克があり、そして第八代目法主になるまで、貧苦のどん底生活など筆舌に尽くし難い、43年間にわたる“忍従”体験がある。そんな体験によって培われた精神的なタフさが、蓮如のその後の長期にわたる粘り強い布教活動を可能にしたのだ。

 蓮如は長い部屋住み生活を経験しているだけに、腰が低い。他人の心の動きが読める。勧誘するには相手のどこを衝かなければならないか?を肌で感じるというわけだ。彼は布教の天才だった。
 蓮如は85年の生涯で如了、蓮祐、如勝、宗如(いずれも死別)、蓮能の5人の妻を娶り、合わせて27人(13男・14女)の子供に恵まれた。それだけに、子供の養育には苦労したが、その子供たちが成人して教団の統制に大いに役立った。

(参考資料)笠原一男「蓮如」、大谷晃一「蓮如」、五木寛之「蓮如」

渡辺崋山・・・画家で、家老を務め善政を行うも蛮社の獄に遭い自決

 渡辺崋山(通称登)は三河国田原藩の家老を務める一方、国宝『鷹見泉石像』や数多くの重要文化財に属する傑作を遺す高名な画家でもあった。しかし、海外の新しい知識を得るためにシーボルト門下の俊才たちとスタートした蘭学研究が、ときの幕府目付で幕府の儒者の林家の倅、鳥居耀蔵の憎しみをかい、天保10年(1839)の蘭学者弾圧の“蛮社の獄”に列座。同藩における自分の立場から、その影響が藩主や師、友人に累が及ぶのを案じて、切腹自殺した。

 崋山は田原藩藩主、三宅家1万2000石の定府(江戸勤務)仮取次役15人扶持、渡辺市兵衛の嫡男として寛政5年(1793)麹町の田原藩邸で生まれた。幼少から貧困に苦しみ、8歳で若君の伽役として初出仕した崋山は、12歳のとき日本橋で誤って備前候世子(若君)の行列と接し、供侍から辱めを受けた。これに発憤した崋山は大学者への道を志し、家老で儒者の鷹見星皐に学ぶ。

だが、家計の貧困を助けるため転向。平山文鏡、白川芝山について画法を学び、のち金子金陵、谷文晁に師事して南画の構図や画技を学ぶとともに、内職のために灯籠絵などを描いた。こうして近習役から納戸役、使番と累進した崋山は、晩年、家老末席に出世していた父の跡目を継いだ。遺禄80石。
 26歳のとき正確な写実と独自の風格を持つスケッチ『一掃百態』を描き、30歳で結婚。この頃から崋山は蘭学や西洋画に傾倒、西洋画特有の遠近法や陰影を駆使した作品を仕上げ、34歳の春、江戸に来たオランダ国のビュルゲルを訪ねて西洋の文物への関心を深めている。

 天保3年(1832)40歳で江戸家老に栄進し禄120石。崋山は農民救済を図るため、悪徳商人と結託した幕吏が計画した公儀新田の干拓や、農民の生活を脅かす領内21カ村への助郷割当の制度を、幕府に陳情、嘆願して廃止、免除させた。また飢饉に備えての養倉「報民倉」を建築。農学者、大倉永常を登用して甘蔗を栽培させて製糖事業を興すなど、藩政への貢献は大きい。

 また、田原藩主の異母弟で若くして隠居していた三宅友信に蘭学を勧め、大量の蘭書を購入。シーボルト門下の俊才で町医者の高野長英や岸和田藩医、小関三英、田原藩医の鈴木春山らに蘭書の翻訳をさせた。崋山はいつかこの蘭学研究グループの代表的立場に押し上げられていった。
そしてこの会が、憂国の情とともに、鎖国攘夷の幕政に批判的な色彩が強いものとなっていった。崋山自身も時事を討議し幕臣の腐敗無能ぶりを詰問した『慎機論』を著している。伊豆の代官で、西洋砲術家で海防策に心を砕いていた幕府きっての開明派の江川英龍のため、崋山は『西洋事情御答書』を書き送っている。

 これらのことが“蘭学嫌い”の幕府の目付、鳥居甲斐守耀蔵の異常な憎しみをかい、天保10年(1839)の“蛮社の獄”に発展、崋山も「幕政批判」の罪に問われて捕えられ、投獄7カ月。この後、崋山は藩地田原へ蟄居。幽閉所での崋山の暮らしぶりは窮乏をきわめている。母や妻子を抱えての貧窮生活を見かねた友人たちが、江戸で彼の絵を売ってやった。

ところが、かねてから開明派崋山の活躍ぶりを苦々しく思っていた守旧派の藩老や藩士たちは、謹慎中あるまじき行為と騒ぎたて、公儀から藩主までお咎めを被る-という噂を撒き散らした。こうした噂を耳にした崋山は藩主や周囲に累が及ぶのを案じて切腹、貧乏と闘い続けた生涯に幕を閉じた。

(参考資料)童門冬二「歴史に学ぶ後継者育成の経営術」、神坂次郎「男 この言葉」、永井路子「にっぽん亭主五十人史」、吉村昭「長英逃亡」