法然・・・仏教を信仰として捉え直し、専修念仏の考えを確立した高僧

 仏教は6世紀前半、高度な外来文化として伝えられた。僧侶は中国語に翻訳された経典を解読するため、特殊な学問を修めなければならなかった。仏教を学問ではなく、信仰として捉え直そうとしたのが法然(ほうねん)だ。比叡山に登った法然は、30年間の激しい修学の末、「阿弥陀仏と人間をつなぐものは、仏の名を唱えること(=念仏)以外にない」という専修念仏の考えを確立。1175年、京都の町に降り、新しい教えを広め始めた。だが、比叡山や奈良の旧仏教側の弾圧に遭い、四国に流罪となった。そして、罪を許された翌年(1212年)亡くなった。法然の生没年は1133(長承2)~1212年(建暦2年)。

 浄土宗の開祖、法然は美作国久米(現在の岡山県久米郡久米南町)の押領使・漆間時国(うるまときくに)と母・秦氏の「君」との子として生まれた。法然は房号で、諱は「源空(げんくう)」。幼名を「勢至丸(せいしまる)」。通称「黒谷上人」、「吉水上人」とも呼ばれた。尊称は元祖法然(源空)上人、本師源空・源空上人。

『四十八巻伝』(勅伝)などによると、1141年(保延7年)、法然が9歳のとき、父が不仲だった、稲岡の荘園を管理していた明石貞明に、夜討ちを仕掛けられ重傷を負う。そして臨終が近いことを悟った父が、仇討ちは断念し、「汝は俗世間を逃れて出家し、迷いと苦悩の世界から脱せよ」と遺言され、法然(=勢至丸)は出家を決意する。

 その後、法然は比叡山に登り、初め源光上人に師事、15歳(異説には13歳)のときに同じく比叡山の皇円の下で得度。さらに比叡山黒谷の叡空に師事して「法然房源空」と名乗った。「源空」の「源」は源光上人、「空」は叡空から、それぞれ一字を取り、名付けたものといわれる。法然はこの後、約30年間にわたって、迷いの世界から解脱できる法門を求めて、ひたすら求道の道を進む。1156年(保元元年)、24歳のとき比叡山の師・叡空に暇乞いしたのを皮切りに、嵯峨野「清涼寺」、奈良の「興福寺」、京都の「醍醐寺」「仁和寺」などの各寺に高僧を訪ね歩き、教えを請うたのだ。しかし、求める教えはどこにも得られなかった。

 そして1175年(承安5年)、唐の善導大師が著した『観無量寿経疏』(『観経疏』)を何度も読み返すうち、光明を見い出す。その中の「いついかなるときでも、一心に南無阿弥陀仏と唱えることを続けていけば、その者は阿弥陀仏の本願力で極楽浄土に往生できる」「南無阿弥陀仏と念仏を唱えれば、すべての人がもれなく救われる。なぜなら阿弥陀如来の誓い(本願)だからである」の一文を読み、求めていたものがこれだと得心したのだ。そこで法然は、一切の修行を捨て、ただ一向に念仏を唱える法門に帰依し、ここに浄土宗の開宗となった。法然43歳のときのことだ。1198年(建久9年)、法然は関白・九条兼実の要請を受けて、浄土宗の立教開宗の書『選択本願念仏集』を著している。

 法然が唱導している念仏の教えは、人々の間に瞬く間に広まっていった。そのため、旧仏教の比叡山や奈良からは非難を浴びるようになり、やがて弾圧を受けるまでになっていく。法然の本願念仏の教えとは異なる教えを、さも法然の教えのように吹聴して回る僧も数多くあらわれた。法然の教えに便乗して「念仏すればすべて許される」などの言動が横行していたのだ。

 そのため、比叡山の僧侶らはその責任を法然に取らせようとした。法然にとっては無実の罪を着せられたわけだが、当時の比叡山の影響力は国家宗教的側面もあり、強大だった。また、奈良の興福寺をはじめとして、当時既成の仏教教団すべてから念仏の停止を奏上されるほど、法然と浄土宗への弾圧は激しさを増していた。裏返せば、それほど法然の本願念仏の教えが、人々の間にしみ込むように広がり、このままでは既成の仏教教団そのものが立ち行かなくなる勢いだったのだ。こうして念仏停止の断が下された。

 また、法然にとって運の悪いことに住蓮、安楽という法然の弟子によって、後鳥羽上皇の女官が勝手に出家するという事件(?)が起こった。この事件は上皇の逆鱗に触れ、住蓮、安楽らは死罪、そして師の法然も僧侶の身分を取り上げられ、「藤井元彦」という俗名で四国へ流罪と決まってしまった。1207年(建永2年)、法然75歳のときのことだ。高齢の法然にとって辛い処罰だったはずだが、彼は「長年、地方に行って念仏の教えを説くことが願いだった。今回、それが果たせるのも朝廷のお陰」と言い残し、四国へと旅立った。

 流罪先の讃岐国滞在は10カ月と短いものだったが、九条家領地の塩飽諸島本島や香川県・満濃町(?)(現在の西念寺)を拠点に、75歳の高齢にもかかわらず、讃岐中に布教足跡を残し、空海の建てた由緒ある善通寺にも参詣している。
 法然の門下に証空・親鸞・蓮生・弁長・源智・幸西・信空・隆寛・湛空・長西・道弁らがいる。また、俗人の帰依者・庇護者としては九条兼実・宇都宮頼綱らが有名だ。

(参考資料)井沢元彦「逆説の日本史」、梅原猛「百人一語」、司馬遼太郎「この国のかたち 三」

浜口梧陵・・・異例の抜擢受けて紀州藩・県近代化に尽力した豪商

 「海に国境はない」といったのは、江戸時代末期の経済学者、本多利明だ。この海に国境がないということを底流に置きながらも、徳川幕府の権力の枠の中で、海の活動に努力した海商がたくさんいる。高田屋嘉兵衛がそうだし、実はこの浜口梧陵もそうだ。浜口梧陵の生没年は1820(文政3)~1885年(明治18年)。

 浜口梧陵は「稲むらの火」という話でよく知られている。1854年(安政元年)、紀伊国広村(現在の和歌山県有田郡広川町)を襲った「安政南海大地震」による津波のときに浜口梧陵が取った対応策の話だ。話のあらましはこうだ。その年の稲の刈り取りが済んで、刈り取られた稲が稲むらとなって田に積まれていた。村人は豊年を祝って酒を飲んでいた。梧陵もその席にいた。

突然、梧陵は家が大きく揺れるのを感じた。しかし、酒に酔った村人、農民たちは気付かない。「地震だぞ!」梧陵がそう叫んでも、農民たちは笑って相手にしない。「酒に酔って体が揺れたのでしょう」と笑った。梧陵は外へ出て海を見た。しばらくすると、海の上に大きな黒い山ができた。「津波だ!」しかし、酔って騒いでいる農民たちに、そのことを告げてもすぐには対応できない。

そこで、梧陵は急を知らせる非常手段として、田の中に積んであった稲むらに火をつけたのだ。稲むらはたちまち燃え上がった。やがて農民たちも「浜口さんが稲穂を焼いている」と騒ぎ始めた。しかし、梧陵は「沖を見ろ!津波がくるぞ」と叫び続けた。農民たちもようやく気がついた。この梧陵の思い切った手段によって、村人、農民たちは全員救われた。

 この災害の後、梧陵は破損した橋、堤防の修造などに努め、4665両という莫大な費用を要した広村の復興と防災事業に私財を投じたのだ。このとき造った大堤防は高さ4.5・、根幅20・、上幅7・、さらに全長673・もあるものだ。しかも二段構えになっていて、津波が前面の低い堤防を乗り越えてきても、この大堤防で食い止めようという段取りだ。さらに、前の堤防と新しく築いた堤防の間には、黒松を二列に植えるという念を入れた。この堤防は、1946年(昭和21年)の「南海大地震」のとき、津波を見事に食い止めた。後に小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)は浜口梧陵を「生ける神(A Living God)」と賞賛している。

 浜口梧陵は紀州湯浅の醤油商人、浜口分家、七右衛門の長男として生まれた。梧陵は雅号で、字は公輿、諱は成則。12歳で本家の養子となった。醤油醸造業を営む浜口儀兵衛家(現在のヤマサ醤油)当主で、第七代浜口儀兵衛を名乗った。浜口家は代々湯浅醤油の醸造元で、元禄年間、海を越えて下総・外川(銚子市)に進出したほどの豪商だった。その醤油を1535年(天文4年)、大坂に輸送販売したのを皮切りに、江戸期に入ると販路はさらに広がり、紀州徳川家の御仕入醤油として特別の庇護を受け、浜口家はじめ湯浅醤油醸造業者たちの関東進出が始まる。

 こうして紀州藩御用船同様の特権を与えられ、気候、原料、水と三拍子揃った銚子に工場(ヤマサ醤油、ヒゲタ醤油の前身)を建て、江戸日本橋に店を構えた浜口家の醤油は世界最大の消費都市・江戸に向かって運ばれていくことになった。ただ、この浜口家も六代目のとき事業に失敗し、衰えたのを1853年(嘉永6年)、七代目儀兵衛を襲名した成則(梧陵)が立て直し、やがて一族から浜口家中興の祖と仰がれるほどに挽回したのだ。

 この七代目儀兵衛は江戸では勤王の志を抱いて洋学者、佐久間象山に師事し、勝海舟、福沢諭吉と親交を重ね、開国論を主張したほどの特異な存在だった。
 1868年(慶応4年)には商人身分ながら、異例の抜擢を受けて紀州藩勘定奉行に任命され、後には藩校教授や大参事を歴任するなど、藩政改革の中心に立って紀州藩・和歌山県経済の近代化に尽力した。その後、1871年(明治4年)には大久保利通の要請で初代駅逓頭(後の郵政大臣に相当)に就任するが、半年足らずで辞職した。

(参考資料)神坂次郎「男 この言葉」、童門冬二「江戸の怪人たち」

藤原鎌足・・・大化改新で表舞台に躍り出た天智天皇の腹心で、藤原氏の祖

 645年(皇極4年)、飛鳥板蓋宮(いたぶきのみや)で起こった蘇我入鹿暗殺事件の首謀者は誰だったのか。恐らくは20歳の中大兄皇子と32歳の中臣鎌足との見方が有力だ。半面、詳細は今日においても断定できない部分もある。しかし、この事件によって蘇我宗家の政権支配は崩壊、クーデターは成功した。入鹿を討たれた父・蝦夷は翌日、自害し蘇我氏宗家は壊滅した(乙巳の変)。

そして、新政府は入鹿暗殺のわずか2日後に樹立。中大兄皇子を皇太子とし、藤原鎌足(当時は中臣鎌足)を内臣(うちつおみ)とする大化の改新がスタートした。これまで無名に近かった中臣鎌足が、一躍時代の実力者として歴史の表舞台に躍り出たのだ。鎌足はこの後、中大兄皇子=天智天皇の腹心として活躍、日本に史上初の官僚機構を創っていく。

 元々は中臣氏の一族で、初期の頃には中臣鎌子(なかとみのかまこ)と名乗っていた。その後、中臣鎌足(なかとみのかまたり)に改名。臨終に際して天智天皇より大織冠を授けられ、内大臣に任じ、「藤原」の姓を賜った。出生地については「藤氏家伝」によると、大和国高市郡藤原(現在の橿原市)だが、大原(現在の明日香村)や常陸国鹿島とする説(「大鏡」)もある。子供は長男の定慧(じょうえ、俗名は真人、644~665年)(僧侶=遣唐使として渡唐)、次男の不比等(659~720年)の二人が知られている。

 鎌足は早くから中国の史書に関心を持ち、あのマキャベリズムの聖書といわれる中国兵法の書「六韜三略(りくとうさんりゃく)」を暗記した。隋・唐に留学していた南淵請安が塾を開くと、そこで儒教を学び、蘇我入鹿とともに秀才とされた。鎌足は密かに蘇我氏打倒の意志を固め、擁立すべき皇子を探した。初めは軽皇子(後の孝徳天皇)に近づき、後に中大兄皇子に接近。また、蘇我氏一族の内部対立に乗じて、蘇我倉山田石川麻呂を味方に引き入れた。乙巳の変の功績から内臣に任じられ、軍事指揮権を握った。但し、内臣は寵臣・参謀の意味で、正式な官職ではない。

 鎌足は氏族連合から、天皇を中心とする中央集権体制に転換すべく、律令国家への第一歩として、それまでの各豪族の私有だった人民と土地を、すべて国有とする「公地公民制」、官僚制度の整備を目指す「冠位制」の制定を、朝廷の宰相として強力に推し進めた。鎌足の定めた「冠位制」は、それ以前の聖徳太子による「冠位十二階制」を改めたもので、「徳・仁・礼・信・義・智」といった、それまでの徳目を用いず、織・繍・錦などの冠の材質と、紫・青・黒という色彩によって区分された。

 鎌足は中大兄皇子と二人三脚で、断固とした姿勢で改革に取り組んでいた。そのため計画を阻む者は容赦なく滅ぼした。649年(大化5年)、入鹿暗殺の功労者、蘇我倉山田石川麻呂が讒訴を受けて自殺に追い込まれている。鎌足はかつての主君、孝徳天皇が中大兄皇子と仲違いすると、これを冷酷に切り捨てて、667年、近江大津京遷都を断行している。また、日本最初の国立学校=「庠序(しょうじょ)」を開設。家財を投じて神仏を保護したかとみれば、百済救援軍派遣の軍事的冒険を決断し、663年、白村江で唐・新羅連合軍に惨敗して、終戦処理に奔走しなければならなかった。

ところで、これだけ強力に諸施策を断行してきた鎌足だが、彼個人にとって悲しい事件がある。653年(白雉4年)、孝徳天皇を難波に残して飛鳥に移ったこの年、鎌足の子、定慧が出家、入唐しているのだ。当時は次男の不比等はまだ生まれていないから、一人息子だ。しかも中臣家は神官の家柄、それにも増して当時、唐へ渡ることは大変な、命の危険を伴った。政治家として成功の道を行く鎌足が、どうしてこの大事な一人息子を出家させて唐へやったのか、極めて謎めいている。定慧は唐へ渡り、それからさらに百済へ行く。しかもその百済が滅んで、日本へ帰ってきている。ところが、この定慧は日本へ帰ってわずか3カ月、23歳の若さで毒殺されているのだ。

これには定慧の出自がからんでいる。史料によると、定慧の生年はおそらく皇極2年か3年。この年、孝徳天皇つまり軽皇子が自分の妃、阿倍小足媛を鎌足に与えているのだ。つまり定慧は軽皇子の子、あるいはその疑いのある人物だったということだ。となると、中大兄皇子と孝徳天皇の仲が決定的に冷え込んだとき、あるいは対立したとき、鎌足が孝徳天皇の子供であるという嫌疑を持たれている定慧を手許に置いておくことは、中大兄皇子の手前都合が悪かったのだ。そこで鎌足は因果を含めて唐へやったのではないか。だから、定慧は日本へ帰ってきてはいけない人物だったのだ。

668年(天智7年)、鎌足は「補佐役」として、宿願の中大兄皇子の即位(=天智天皇)を実現した。鎌足が没したのは、その翌年だ。享年56。律令制はすべてが鎌足によって、実行に移されてはいない。その多くが完成をみたのは、彼の次男、藤原不比等の代以降だった。だが、鎌足は律令制への道を開いた革命家だったといえよう。

(参考資料)黒岩重吾「茜に燃ゆ」、井沢元彦「日本史の反逆者 私説・壬申の乱」、加来耕三「日本補佐役列伝」、梅原猛「日本史探訪/律令体制と歌びとたち」、永井路子「にっぽん亭主五十人史」、神一行編「飛鳥時代の謎」、関裕二「大化改新の謎」

本阿弥光悦・・・刀剣、書家、陶芸など芸術の万能人としてその名を残す

 光悦を生んだ本阿弥家は、刀剣の鑑定、研磨、浄拭(ぬぐい)を家業として、足利尊氏の頃から、その道では最高の権威を持つ名家だった。ただ、光悦自身は刀剣にとどまらず、「寛永の三筆」の一人に位置づけられる書家として、また陶芸、漆芸、茶の湯などにも携わった芸術の万能人(マルチアーティスト)として、その名を残している。

 本阿弥光悦は、「刀・脇差の目利細工並びもなき名人」といわれた光二を父とし、才気煥発で男勝りの賢夫人妙秀(みょうしゅう)を母として、京都に生まれた。子供の頃から家業を厳しく仕込まれたことが、後年、光悦の幅広い分野での活躍の基礎になったと思われる。刀剣には柄から鞘まで様々な工芸の技術が結集されている。木工も漆工も金工も、皮や紐の細工、象牙・螺鈿の彫り物など、ありとあらゆる技法が刀剣に集まっているのだ。

 光悦は京都洛北、鷹ヶ峰に芸術村(光悦村)を築いたことでも知られる。1615年(元和元年)、大坂夏の陣で徳川氏の政権がようやく確立した直後、家康から鷹ヶ峰の地に東西200間、南北7里にわたる広々とした原野を拝領し、今も残る光悦町の名に見る通り、本阿弥一族や町衆、職人などの法華宗徒仲間を率いて移住、新しく町造りを始めた。蒔絵師・紙師・筆屋など、本阿弥家とゆかりの深い工芸家たちが、ぎっしりと屋敷を連ねていたと思われる。鷹ヶ峰は光悦の芸術活動にとって、理想的な環境となった。彼はこの地で、80歳の生涯を閉じるまでの22年間、周囲の工芸家たちを縦横に使って、あの多種多様な芸術作品を世に送り出していく。芸術の組織者、美の演出家、光悦の真骨頂は、鷹ヶ峰芸術家村においていかんなく発揮されたのだ。

 家康が光悦に鷹ヶ峰移住を命じた理由は2点あると思われる。一つは光悦が、徳川家にとって危険人物とされていた古田織部と親交があったためで、その警戒心から、京都の町から彼を所払いさせたのではないか。後に、古田織部は徳川幕府への反逆者として切腹させられている。もう一つは家康が自ら光悦に新しい所領を与えることによって、室町将軍以来の刀剣の名家である本阿弥家を、自分の影響下に置きたかったのではないか。

 「本阿弥行状記」によると、当時の鷹ヶ峰は辻斬りや追い剥ぎの出没するところで、とても一人では暮らしていけるところではなかった。したがって、光悦は一族郎党を率いて移住しなければならない。だから光悦は、初めから鷹ヶ峰に理想郷を造ろうと考えて移ったのではなかった。むしろ権力に無理にやらされたわけだ。しかし、彼はその与えられた環境を自分の力で造り変えていったのだ。
 光悦はいろいろな物を作っている、ただ、光悦自身が手掛けて自分だけの作品といえるのは書と陶器だけだ。あとのものはすべて人を使って、つまり「光悦工房」の技術者を使って制作しているのだ。その陶器では、光悦が日本で初めて、個人作家として現われてきた存在といえるのではないか。光悦が茶碗を焼いたのは晩年に近い頃と思われるが、まろやかで、あたたかい、すべてを包み込むような潤いが、彼の作品の大きな魅力となって、光悦の人となりが焼き物の中に、にじみ出て迫ってくるのだ。

 光悦は、王朝文化復興の強力な担い手として、時代の脚光を浴びたのだ。桃山芸術を代表する本阿弥光悦と俵屋宗達の不思議な出会いは、今も謎に包まれたままだ。宗達の才能を認めた光悦は、大和絵古来のモチーフである四季折々の草花を描かせ、その上に自ら筆をとって「古今集」の秀歌を散りばめ、見事な「和歌巻」を完成している。俵屋宗達、尾形光琳とともに琳派の創始者として、光悦が後世の日本文化に与えた影響は限りなく大きい。

(参考資料)加藤唐九郎・奈良本辰也「日本史探訪/江戸期の芸術家と豪商」

原 敬・・・盛岡藩出身で“ひとやま”あてて宰相となった不屈の人

 原敬は犬養毅、尾崎行雄らとともに日本憲政史上の代表的政治家だ。後世「平民宰相」といわれる原敬の生まれは、祖父が意外にも盛岡藩の家老職を務めた上級武士の家柄だ。それにもかかわらず、彼が生涯、華族の爵位や位階勲等を辞退し続け、平民宰相と呼ばれたのは、父祖の仕えた盛岡藩が新政府軍に敗れ、「賊軍」の汚名を着せられた屈辱を忘れることができなかったからだ。1918年(大正7年)、第十九代内閣総理大臣となり、初の本格的な政党内閣を結成するが、不幸にも1921年(大正10年)東京駅で右翼の青年に暗殺された。原敬の生没年は1856(安政3)~1921年(大正10年)。

 原敬は盛岡藩・盛岡城外の本宮村(現在の岩手県盛岡市本宮)で盛岡藩士・原直治の次男として生まれた。幼名は健次郎。原家は祖父・直記が藩の家老職を務めたほどの上級武士の家柄だ。原は20歳のとき、分家して戸主となり、平民籍に編入された。これは原が、何もすすんで平民になったのではなく、徴兵制度の戸主は兵役義務から免除される規定を受けるためだ。事実、彼は家柄についての誇りが強く、いつの場合も自らを卑しくするような言動を取ったことがなかったといわれる。

 また後年、原は号を「一山」あるいは「逸山」と称したが、それは彼の薩長を中心とする藩閥への根深い対抗心を窺わせる。戊辰戦争で“朝敵”となった東北諸藩の出身者が、薩・長・土・肥の藩閥出身者から「白河以北一山百文」と嘲笑、侮蔑されたことへの反発に基づいているからだ。白河以北の東北諸藩の出身者は、わずか一山(ひとやま)百文(ひゃくもん)の価値しかない-というのだから、これ以上の侮辱はない

 原は16歳で東京へ遊学。そして苦学の末、1876年(明治9年)、司法省法学校に入学。しかし、予科三年のとき、学内で争議が起き、彼は事件に関係なかったが、学校当局の対応に義憤を感じ、結局先頭に立って行動。1879年(明治12年)に同校を退学後、郵政報知新聞、大東日報の記者を経て、外務省に入省。外務次官などを歴任。農商務省時代も含め陸奥宗光や井上馨からの信頼を得た。彼は陸奥が外務大臣を務めた時代には外務官僚として重用されたが、陸奥の死後、退官した。

その後、原は政界に進出し、伊藤博文を中心に結成された立憲政友会に発足時から参加した。1902年(明治35年)、衆議院議員選挙に初当選。以後、連続当選8回。立憲政友会の実力者として西園寺公望総裁を補佐し、桂園(桂太郎・西園寺公望)内閣時代の立役者となった。そして、1914年(大正3年)、第三代立憲政友会総裁に就任。1918年(大正7年)には内閣総理大臣となり、初の本格的な政党内閣を結成した。これから、しばらくは原敬を軸とする政治の時代が続くはずだった。

ところが、そうした期待や予想は見事に外れた。原が内閣総理大臣になってわずか3年余り経過した1921年(大正10年)、彼は不幸にも“道半ば”で、東京駅丸の内南口コンコースで右翼の青年、中岡艮一に襲撃され、倒れたのだ。即死だった。

(参考資料)小島直記「人材水脈」、中嶋繁雄「大名の日本地図」、小和田哲男「日本の歴史がわかる本」、三好徹「日本宰相伝 不貞の妻」

藤原不比等・・・律令国家の影の制定者で、藤原摂関政治の礎つくる

 藤原不比等は律令国家の影の制定者で、後の藤原“摂関”政治体制の礎をつくった人だ。不比等には本人が遺したとされるインパクトのある言葉はない。また肖像もない。しかし、それは彼が生きた時代がそれを彼に強いたのであり、彼が明解かつ強固な意志を持っていたが故に、徹底して抑制の利いた官僚政治家の“顔”を貫き通した結果に他ならないのではないか。

具体的にいえば、彼は壬申の乱の勝者で後の天武・持統朝の敵、天智朝の実質的No.2藤原鎌足を父に持つが故に、その存在自体が危うく、決して目立ってはならない人間だったのだ。没年から逆算すると壬申の乱当時、彼は15歳。父親の名前が大きいだけに、いわば“戦争犯罪人の身内”として、その身を潜めるように乳母の山科の田辺史大隈に養われていた。彼が官僚として少しずつ頭角を現してくるのは持統天皇の御代になってからだ。雌伏15年、彼は31歳のとき、刑部省の判事に任じられて、やっと歴史に顔を出す。

彼は女帝の下で、真摯に勤勉に働く。野望を秘め、研ぎ澄まされた爪の片鱗さえも覗かせることなく、女帝の孫、軽皇子(後の文武天皇)の出現を辛抱強く待つ。やがて王座の激務に疲れた女帝が、位を文武に譲る。持統女帝53歳、文武15歳、不比等は働き盛りの40歳になっていた。

以来、彼は文武天皇の周囲に、娘・宮子を送り込んだほか、乳母・県犬養三千代など人脈による包囲網を張り巡らし、実権を掌握していく。娘婿の文武天皇が持統女帝の死後数年後、25歳の若さで世を去って後、文武の母・阿閉皇女=元明天皇、そしてその娘氷高皇女=元正天皇と世は移っても、法律のエキスパートとしての不比等との信頼関係は揺るがず、文武天皇の忘れ形見、首皇子、後の聖武天皇の成長を待った。
不比等は「律令国家」完成のための三つの事業を行っている。・「養老律令」の制定・平城京遷都(和銅3年・710)、そして・『日本書紀』の編集-さらにこれら三つの事業に先立つ「大宝律令」の制定、藤原京遷都(朱鳥9年・694)、そして『古事記』の編集にも彼は最重要人物として関わっている。

従来『日本書紀』編集の仕事は舎人親王の事績に数えられてきた。これは『続日本紀』の記事でそう結論づけられてきたのだ。しかし、皇族である舎人親王が一人で『日本書紀』を作ることは到底、不可能である。「大宝律令」は刑部親王(忍壁皇子)が総責任者となっている。

ただ『続日本紀』には「大宝律令」の制定に不比等が関わったことが明らかにされている。「大宝律令」および「養老律令」の撰定には当代の多くの知識人が動員されている。そして総責任者として名目的に親王が立ったと思われる。しかし、実質的な責任者は「大宝律令」も「養老律令」も不比等であったとの見方が近年有力になっている。『日本書紀』も、史書には不比等の名は出てこないが、その中心的役割を担ったのは彼だと思われるのだ。

また『続日本紀』によると、文武2年(698)8月の条に、藤原姓は不比等およびその子孫に限り、他の藤原氏はもとの「中臣」姓に戻れ-という意味の一文がある。これは政治の権力を不比等とその一族に集中させ、他の藤原氏を追い落とすという意味に解することができる。その結果、不比等の一族が宗教と政治の両方を支配できる、確固とした「藤原体制」を作ることができると考えたのではないか。政治による宗教、すなわち神祇の完全な掌握である。

 養老4年(720)、不比等は62歳の生涯を終えた。元正天皇は右大臣正二位だった故不比等に太政大臣、正一位を贈った。律令官制における最高位である。臣下では不比等をもってはじめとする。生前、不比等は太政大臣に任ぜられようとしたが固辞して受けなかった。この点、死ぬ間際まで「内臣(うちつおみ)」という皇太子中大兄(後の天智天皇)の秘書の地位にとどまって、冠位を受けなかった父、藤原鎌足に似ている。

このため彼は即位した聖武天皇は見ていない。さらに望んでいた安宿媛の立后(光明皇后)はその後のことだ。キングメーカーになれずに人生を終えたのは心残りだった違いないが、その後、彼の夢は100%叶えられた。そしてこれをきっかけに、天皇家と藤原氏の結びつきが長く続くことをみれば、彼こそ藤原王朝の創始者といえる。

(参考資料)梅原猛「海人と天皇」、黒岩重吾「天風の彩王 藤原不比等」、永井路子「美貌の大帝」、永井路子「はじめは駄馬のごとく ナンバー2の人間学」、日本史探訪/上山春平・角田文衛「律令制定と平城遷都の推進者 藤原不比等」