竹本義太夫・・・人形浄瑠璃の歴史上不朽の名をとどめる、義太夫節の開祖

 人形浄瑠璃は江戸時代の民衆の中から生まれた、日本が世界に誇る伝統芸能だ。最近は若い男女の間にも年々愛好者が増えているという。この日本の誇る伝統芸能、人形浄瑠璃の歴史上に、不朽の名をとどめるのが、竹本義太夫だ。江戸時代の浄瑠璃太夫、義太夫節の開祖だ。

 竹本義太夫が摂津国(大坂)で農家に生まれたのは1651年(慶安4年)だ。この年、三代将軍家光が亡くなり、由比正雪の事件が発生している。本名は五郎兵衛。小さいときから音曲の道に趣味があった。初期には清水理太夫と名乗った。

 義太夫節は、中世から近世にかけて広く一般民衆の間で享受された平家琵琶や幸若、説経節などの「語り物」の流れを受け継いでいる。とくに竹本義太夫に先駆けて、万治・寛文期(1658~1672年)に一世を風靡した「金平浄瑠璃」は、この時代の「語り物」の姿をよく表している。これは酒呑童子の物語を発展させたもので、坂田金時の子で、金平という超人的な勇士を仮想し、これが縦横に活躍するストーリーを骨子とするものだった。この金平節を語り出した江戸の和泉太夫は、二尺もある鉄の太い棒を手にして拍手を取ったと伝えられるほど、その語り口は豪快激越だった。

 現在では浄瑠璃を語るということは、そのまま義太夫節を語るという意味に使われているが、もともと義太夫節は数ある浄瑠璃の中の一つで、浄瑠璃の総称ではない。浄瑠璃には常磐津もあれば、清元、新内、一中節もある。それが、もう今、浄瑠璃といえば義太夫節を指すようにいい、いわば浄瑠璃が義太夫節の代名詞のようになっているということは、それだけ竹本義太夫の存在が大きかったからだ。

 1684年(貞享元年)、大坂道頓堀に竹本座を開設し、1683年に刊行された近松門左衛門・作の「世継曽我」を上演した。翌年から近松門左衛門と組み、多くの人形浄瑠璃を手掛けた。近松が竹本座のために書き下ろした最初の作品は「出世景清」。竹本義太夫以前のものを古浄瑠璃と呼んで区別するほどの強い影響を浄瑠璃に与えた。厳密にはこの「出世景清」以前が古浄瑠璃、「出世景清」以降が当流浄瑠璃と呼ばれる。1701年(元禄14年)に受領し筑後掾と称した。 
 
1703年には近松の「曽根崎心中」が上演され、大当たりを取った。これは大坂内本町の醤油屋、平野屋の手代、徳兵衛と、北の新地の天満屋の女郎、お初とが曽根崎天神の森で情死を遂げたという心中事件を取り扱ったもので、まさにその当時の出来事をそのまま劇化して舞台に仕上げたところに、同時代の観衆を強く惹きつけた点があり、日本演劇史上でも画期的な意味を持つものだった。近松門左衛門が心血を注いで書いた詞章を、53歳の最も油の乗り切った竹本義太夫は、その一句一句に自分のすべての技量と精魂を傾けて語った。「曽根崎心中」で示された義太夫の芸は、二人の師匠、宇治嘉太夫と井上播磨掾の芸を見事に乗り越え統合したものだった。そこに、義太夫の新しい個性の発見があったのだ。この大ヒットで竹本座経営が安定し、座元を引退して竹田出雲に引き継いだ。

 竹本義太夫は1714年(正徳4年)、64歳で世を去った。徳川五代将軍綱吉の時代、幕府側用人として幕政を担当した柳沢吉保が没し、大奥の中老絵島が流刑された年にあたる。竹本義太夫が千日前の地で没して、すでに300年近い歳月が流れている。

(参考資料)長谷川幸延・竹本津太夫「日本史探訪/江戸期の芸術家と豪商」

豊臣秀長・・・人格と手腕で不協和音の多い豊臣政権の要石の役割果たす

 豊臣政権でのナンバー2、秀吉の弟・豊臣秀長は羽柴秀長、あるいは大和大納言とも呼ばれた。秀吉の政権下で大和郡山に居城を構え、その領国は紀伊(和歌山県)・和泉(大阪府南部)・大和(奈良県)にまたがり、160万石を有していた。秀吉臣下としては、徳川家康に次ぐ大大名だったといっていい。ところが、この秀長に対する評価が「よく出来た方だった」と「全くの無能者」とがあり、はっきりと分かれているのだ。いずれがこの人物の真実なのか。

 豊臣秀長は秀吉の異父弟。幼名は小竹(こちく)、通称は小一郎(こいちろう)。秀吉の片腕として辣腕を振るい、文武両面での活躍をみせて天下統一に貢献したといわれる。大和を中心に大領を支配し大納言に栄進したことから、大和大納言と通称された。生没年は1540(天文9年)~1591年(天正19年)。

 「大友家文書録」によると、大友宗麟は秀長のことを「内々の儀は宗易(千利休)、公儀の事は宰相(秀長)存じ候」と述べたとされている。その人格と手腕で織田家臣の時代から、内政や折衝にとくに力を発揮し、不協和音の多い豊臣政権の要石の役割を果たした。秀吉の天下統一後も支配が難しいとされた神社仏閣が勢力を張る大和、雑賀衆の本拠である紀伊、さらに和泉までを平和裏にのうちに治めたのも秀長の功績だ。

秀長は秀吉の朝鮮出兵には反対していたとされる。ただ、この出典が「武功夜話」のみのため信憑性に乏しい。秀長が進めようとしていた体制整備も、彼の死で不十分に終わり、文治派官僚と武功派武将との対立の温床になってしまった。秀吉死後もこの秀長が存命なら、秀次の粛清や徳川家康の天下取りを阻止し、豊臣政権は存続したか、もしくは少なくとも豊臣家の滅亡は避けられたとの声も多い。

 ところで、秀長の武将としての器量はどの程度のものだったのか。秀長が担当させられた山陰地方への応援については因幡(鳥取県東部)・伯耆(鳥取県東伯・西伯・日野三郡)両国に多少の足跡は認められるものの、やはり注目すべきは1582年(天正10年)6月2日の、「本能寺の変」直後の“中国大返し”だろう。同3日に信長横死の報を受けて急遽毛利との和平を取りまとめ、備中高松城の包囲を解き、同6日に毛利軍が引き払ったのを見て軍を返し、引き揚げを開始。この後、ポスト信長の天下取りに懸ける、2万を超える秀吉の大軍は、凄まじい速度で山陽道を駆け抜け、備中高松から山崎(京都府)まで約180・を実質5日間で走破。同13日の山崎の戦い(天王山の戦い)で明智光秀を破った。このとき、大軍勢の難しい殿軍(しんがり)を立派に務めたのが秀長だった。凡将だったとは考えにくい。

 次に秀長が脚光を浴びるのは秀吉と織田信雄(信長の次男)・徳川家康が対立した、小牧・長久手の戦いだ。秀長は指揮下の蜂須賀正勝、前野長康らを率いて、近江(滋賀県)、伊勢(三重県)の動向に備え、次いで伊勢に進撃すると松島城を陥落させ、尾張に入って秀吉軍と合流。秀吉と信雄の間に和議が成立しても、秀長は美濃(岐阜県南部)・近江のあたりをにらんで臨戦態勢を解かなかった。1585年(天正13年)、秀長は紀州(和歌山県)雑賀攻めに出陣して、これを平定した。

 秀長は誕生したばかりの豊臣政権内で、公的立場の秀吉を補佐する重責を担っていた。結果論だが秀長の存命中、豊臣政権は微動だにしていない。それが、1591年(天正19年)、秀長が病でこの世を去ると、並び称された千宗易(利休)も失脚、政権はやがて自壊の方向へ突き進んでしまう。

 秀長の享年51はあまりにも早すぎた死といわざるを得ない。家康よりわずかに2歳年長の秀長が、いま少しこの世にあれば、少なくとも千利休の切腹、後の秀次(秀吉の甥で嗣子となり、関白となった)の悲劇は未然に防ぎ得たに違いない。秀長の死後、表面に出ることは少なかったが、彼が果たしていた役割の大きさを改めて認識した人も多かったのではないか。秀長とはそんな補佐役だった。

(参考資料)堺屋太一「豊臣秀長-ある補佐役の生涯」、加来耕三「日本補佐役列伝」、司馬遼太郎「豊臣家の人々」

高橋是清・・・波乱万丈・七転び八起きの「ダルマ蔵相」紙幣にも

 高橋是清は明治・大正・昭和期の政治家・財政家で、第二十代内閣総理大臣(在任期間7カ月)を務めた。だが、“高橋財政”とも呼ばれる積極的な財政政策が特徴の、歴代内閣で何度も務めた大蔵大臣としての評価が高い。そのふくよかな容貌から「ダルマ蔵相」「だるまさん」と呼ばれて親しまれた高橋の人生は波乱万丈、まさに「七転び八起き」の表現がピッタリの人生だった。そして不幸なことに、蔵相として軍事費抑制方針を打ち出したことで軍部と対立し、1936年(昭和11年)、「二・二六事件」で暗殺された。高橋是清の生没年は1854(嘉永7)~1936年(昭和11年)。

 高橋是清は幕府の御用絵師、川村庄右衛門の庶子として江戸芝中門前町(現在の東京都港区)で生まれたが、生後まもなく仙台藩士高橋是忠の養子となった。その後、成長して横浜のアメリカ人医師ヘボンの私塾、ヘボン塾(現在の明治学院高校)で学んだ。だが1867年(慶応3年)仙台藩命で海外留学することになって、彼の人生は波乱に満ちたものとなる。

不幸のスタートは、渡航費・学費を騙し取られた13歳のときだ。その後の暗転の主なものを挙げると1.騙されてアメリカでの奴隷同然の生活を経験 2.芸妓の“ヒモ”同然の生活3.相場詐欺に遭う4.鉱山開発の詐欺に遭う-という具合。それでもその都度、立て直したり、そのうち手を差し伸べる人物が現れる。例えば、苦労を重ねてアメリカから帰国(1868年)後、その後の人生の出発点となる誘いがかかる。1873年(明治6年)、サンフランシスコで知遇を得た森有礼に薦められて文部省に入省し、十等出仕となったのだ。

それだけではない。高橋は英語の教師もこなし、大学予備門で教えるかたわら、当時の進学予備校の数校で教壇に立ち、そのうち廃校寸前にあった共立学校(現在の開成高校)の初代校長をも一時務めた。教え子には俳人の正岡子規、日露戦争でロシアのバルチック艦隊を撃滅した海軍中将、秋山真之がいる。その間、文部省、農商務省(現在の経済産業省および農林水産省)の官僚としても活躍。農商務省の外局として設置された特許局の初代局長に就任し、日本の特許制度を整備している。1887年(明治20年)のことだ。

 高橋が財政家となるスタートは40歳直前のことだ。1892年(明治25年)、日本銀行に入行。そして1899年(明治32年)、日本銀行副総裁になった。46歳のときのことだ。それから5年して、彼は日露戦争(1904~1905年)の外債募集の大任を担ってロンドンに渡った。この難題に見事な手腕を発揮、13億円の調達に成功したのだ。その後、横浜正金銀行頭取などを経て、1911年(明治44年)には遂に日本銀行総裁に就任した。

 後に高橋が、「ダルマ蔵相」の愛称で慕われ、財政のプロフェッショナルとして“高橋財政”と呼ばれる積極的な財政政策を断行するのは、何度も歴代内閣で蔵相を務めるからだ。第一次山本権兵衛、原敬、田中義一、犬養毅、斎藤実、岡田裕介の各内閣で蔵相を歴任している。加藤高明内閣では農商務相、そして立憲政友会総裁、さらに1921年(大正10年)には内閣総理大臣を務めている。
 高橋は歴代日銀総裁の中で唯一、その肖像が日本銀行券に使用された人物でもある。1951~1958年にかけて発行された五十円券がそれだ。それだけ、国民の間で人気が高かったからだ。

 1936年(昭和11年)、二・ニ六事件で高橋は暗殺された。彼を殺害すべく高橋邸を襲ったのは、近衛歩兵第三連隊の陸軍中尉中橋基明だった。邸内に兵数十人を率いて押し入った中橋を、高橋は「馬鹿者!」と言ったとも、「何をするか!」と怒鳴ったともいわれている。83歳の老人に対し、中橋は拳銃七発を浴びせて即死させた。

(参考資料)三好徹「日本宰相伝 天運の人」、三好徹「明治に名参謀ありて」、小島直記「志に生きた先師たち」、小島直記「人材水脈」、司馬遼太郎「街道をゆく33」

近松門左衛門・・・竹本義太夫と組み名作を次々に発表した劇作家

 近松門左衛門は江戸時代前期、元禄期に人形浄瑠璃(現在の文楽)と歌舞伎の世界で活躍した、日本が誇る劇作家だ。今日でも彼の多くの作品が文楽、歌舞伎、オペラ、演劇、映画などで上演・上映され、人々に親しまれている。生没年は1653(承応2)~1724年(享保8年)

 近松門左衛門は、松平昌親に仕えた300石取りの越前吉江藩士、杉森信義の次男として生まれた。幼名は次郎吉、本名は杉森信盛。通称平馬。別号は平安堂、巣林子(そうりんし)。ただ、出生地には長門国萩、肥前唐津などの諸説がある。2歳のとき、父とともに現在の福井県鯖江市に移住。その後、父が浪人し京都へ移り住んだ。近松が14、15歳のころのことだ。さらに、京都で仕えた公家が亡くなり、近松は武家からの転身を迫られることになった。

 近松は竹本座に属する浄瑠璃作者で、中途で歌舞伎狂言作者に転向したが、再度浄瑠璃に戻った。1683年(天和3年)、曽我兄弟の仇討ちの後日談を描いた『世継曽我(よつぎそが)』が宇治座で上演され、翌年竹本義太夫が竹本座を作り、これを演じると大好評を受け、近松の浄瑠璃作者としての地位が確立された。1685年の『出世景清』は近世浄瑠璃の始まりとされる。

 近松はその後も竹本義太夫と組み名作を次々に発表し、1686年(貞享3年)竹本座上演の『佐々木大鑑』で初めて作者名として「近松門左衛門」と記載した。この当時、作品に作者の名を出さない慣習から、これ以前は近松も名は出されていなかったのだ。

 近松は100作以上の浄瑠璃を書いたが、そのうち約2割が世話物で、多くは時代物だった。世話物とは町人社会の義理や人情をテーマにした作品だが、後世の評価とは異なり、当時人気があったのは時代物。とりわけ『国性爺合戦』(1715年)は人気が高く、今日近松の代表作として知名度の高い『曽根崎心中』(1703年)などは昭和になるまで再演されなかったほど。代表作『冥途の飛脚』(1711年)、『平家女護島』(1719年)、『心中天網島』(1720年)、『女殺油地獄』(1721年)など、世話物中心に近松の浄瑠璃を捉えるのは、近代以後の風潮にすぎない。

 1724年(享保8年)、幕府は心中物の上演の一切を禁止した。心中物は大変庶民の共感を呼び人気を博したが、こうした作品のマネをして心中をする者が続出するようになったためだ。そうした政治のあり方を近松はどう受けとめたのか?ヒット作の上演に水を差されるのを心底、嫌気したか、近松はその翌年没する。

 近松は「虚実皮膜論」という芸術論を持ち、芸の面白さは虚と実との皮膜にある-と唱えたとされる。芸術とは虚構と現実の狭間にあるというものだ。芝居など所詮実在しない「虚」の世界だと誰もが知っているわけだが、それでもすばらしい芝居をみると、いくらみていても飽きないし、感動するわけだ。それは感動した自分の中に実在する感覚・理想・イメージなどと、その「虚」が結びついたときに、引き起こされるのではないか。つまり、「虚」「実」が絡み、入り混じったときに、初めて魅力が生まれるといったことだ。だが、この「虚実皮膜論」は穂積以貫が記録した「難波土産」に、近松の語として書かれているだけで、残念ながら近松自身が書き残した芸能論はない。
(参考資料)長谷川幸延・竹本津大夫「日本史探訪/江戸期の芸術家と豪商」

豊臣秀吉・・・信長に仕えて学び取った「大局観」で天下人に

 今日、立身出世譚の代表ともいわれる日吉丸→木下藤吉郎→羽柴秀吉→豊臣秀吉→太閤秀吉-の記録には、様々な矛盾や謎が多い。「農民の心」と「商才」と「武士の魂」で天下を取った男、豊臣秀吉の実像とは?秀吉の生没年は

 豊臣秀吉の20歳前後、織田信長に仕えるまでの経歴はほとんど分からない。生年月日すらはっきりしない。分かっているのは1.尾張中村の土民の小せがれとして1535年(天文4年)か1536年(天文5年)に生まれ、サルとあだ名を付けられた少年だったこと、2.継父との折り合いが悪くて幼くして家を飛び出し、濃尾地方を戦災孤児のような形で放浪したこと、3.そのころは与助という名前で、小溝で小魚をすくって人に売って命をつなぎ「どじょう売りの与助」と呼ばれていたらしいこと、4.14、15歳のころ縫い針の行商人となって遠州に放浪して行き、浜名の城主、松下之綱に拾われて、初めて武家奉公して数年いたが、何かの事情があって、暇を取って尾張に帰り、20歳前後のころに信長の家に小物奉公した-というくらいのことで、その間の子細は一切分からない。尾張蜂須賀郷の野武士蜂須賀小六ら野武士の下働きとして飯を食わされ、あまりにも悲惨で自ら思い出すのも嫌な期間があったことは推察される。

 江戸時代、徳川幕府に対する批判の意味と、家康によって滅ぼされた豊臣氏に対する追慕の情とが相まって、いくつもの『太閤記』が世に出され、ベストセラーとなっている。そして『絵本太閤記』や『真書太閤記』など読物的になっていくにつれ、創作された部分が増え、ノンフィクションからフィクションへという傾向が顕著になっていった。秀吉が信長に仕えるまでに38回も職を変えたというのは少しオーバーだが、秀吉が若いころ様々な職業に就いたことは事実だ。そして「貧しい百姓のせがれ」として生まれながら、若いころから商才を身につけていた。その商才が、武家奉公してからの秀吉には相当プラスになった。まさに「農民の心を持ち、商才を身につけ、武士として振る舞った」といっていい。

 秀吉は人の嫌がること、最も危険なことを進んで引き受け、この積み重ねが信長の信頼を固めていった。それは、無理に自己を奮い立たせてやったというより、幼少時代からの不遇による経験および教訓を踏まえ、「才」プラス「誠実」という命がけの勤勉さがそうさせたのであり、ひいては未曾有の大成功者を生んだのだ。

 秀吉は諸説あるが、『太閤素生記』などによると、1554年(天文23年)18歳で信長の小者として仕え、信長のすべてを受け入れられる境遇からスタートした。この点が、ともに信長の薫陶を受けてきた同志ではあったが、明智光秀との大きな違いだった。光秀は、秀吉とともに信長のお気に入りだったが、彼は40代も半ばで織田家に仕官し、すでに自己というものができ上がっていたうえで、信長に接することになったため、客観的な判断に自身との比較、そこから生じる信長に対する批判を自分の中に抱えることになってしまったのだ。
 秀吉は決して生まれながらの“大気者”ではなかった。10代で家出し、放浪する中で、生きていくための方便として、意識的に明るさを身につけたのだ。光秀が重役待遇でスカウトされて中途入社したのに比べ、秀吉はアルバイト要員の補充といった立場で織田家をスタートした。それだけに秀吉は一途に、アルバイトから正社員として召し抱えてくれた信長に、気に入られるべく懸命に努力した。織田家で生きていくには、信長のすべてを受け入れなければならない。短気で激しやすい気性、言葉など四六時中、観察し信長という人間を最もよく理解し、己れのものにしたのではないか。

 秀吉がこうして信長の中に様々なものを見て、そして学んだ。その最も大きなものが時勢を読み取る「大局観」だった。信長には、将軍を擁して京都に旗を立て、大義名分を明らかにし、楽市楽座の経済政策や海外貿易によって国力を豊かに、そして最新兵器を多量に揃えて、遠交近攻の外交・軍事戦略をもって臨めば、自ずと天下の統一は達成できるとの読みがあった。こうした信長の大局観を、秀吉は足軽から足軽組頭、部将、城代、方面軍司令部と立身出世していく過程で、身をもって学ぶことができたのだ。

 秀吉は信長の欠点すら、反面教師として学習を怠らなかった。組織に属している限りは、部下の立場で上司は選択できない。その選択の余地のない上司を批判し、愚痴ってみても、何の解決にも、プラスにもならない-と。その結果、秀吉の独自色と、周囲の彼に対する信頼、あるいは人望が生まれたのだ。

 こうして秀吉は自己を確立し、主君・信長の横死という悲嘆の底から、毛利攻めの中国遠征から史上有名な大撤退作戦「中国大返し」を敢行。2万余の軍団を率いて、凄まじい速度で昼夜走り続け、天下取りの千載一遇の好機を自身へ導くことに成功。光秀に京都・山崎の地で史上最大の“弔い合戦”を挑んで、これに勝利したのだ。

 秀吉には終生、劣性コンプレックスがつきまとっている。素性の卑しさ、体格の矮小、容貌の醜悪さのためだ。しかし、彼はそれに圧倒されはしなかった。それを跳躍板にして、飛躍している。彼が常に大きいことを心掛け、大言壮語したのは、そのコンプレックスを圧倒するためだったに違いない。大掛かりな城攻めをしたのも、壮麗な聚楽第や伏見城や大坂城を築いたのも、二度も皇族、公卿、大名らに巨額な金銀配りをしたのも、奈良の大仏以上の大仏をこしらえたのも、そのためだろう。いずれにしても、彼の劣性コンプレックスは彼の人気を高め、彼を成功させ、彼を“天下取り”に仕上げたのだ。

(参考資料)今谷明「武家と天皇」、井沢元彦「逆説の日本史」、堺屋太一「豊臣秀長」、小和田哲男「日本の歴史がわかる本」、加来耕三「日本補佐役列伝」、神坂次郎「男 この言葉」、海音寺潮五郎「史談 切り捨て御免」、海音寺潮五郎「武将列伝」、司馬遼太郎「新史 太閤記」、司馬遼太郎「豊臣家の人々」、司馬遼太郎「この国のかたち 一」、司馬遼太郎「覇王の家」

高橋泥舟・・・鳥羽伏見での敗戦後、恭順を説き、支え続けた慶喜の側近

 高橋泥舟は槍術の名手で、第十五代将軍慶喜の側近を務めた。鳥羽伏見の戦いで敗戦後、江戸へ戻った慶喜に恭順を説き、慶喜が水戸へ下るまでずっと、側にあって護衛し支え続けた。勝海舟、山岡鉄舟とともに「幕末の三舟」と呼ばれる。生没年は1835(天保6)~1903年(明治36年)。

 高橋泥舟は旗本山岡正業の次男として江戸で生まれた。幼名は謙三郎。後に精一郎、通称は精一。諱は政晃。号を忍歳といい、泥舟は後年の号。母方を継いで高橋包承の養子となった。生家の山岡家は自得院流(忍心流)の名家で、精妙を謳われた長兄山岡静山について槍を修行。海内無双、神業に達したとの評を得るまでになった。生家の男子がみな他家へ出た後で、静山が27歳で早世。山岡家に残る妹、英子の婿養子に迎えた門人の小野鉄太郎が後の山岡鉄舟で、泥舟の義弟にあたる。

 1856年(安政3年)、泥舟は幕府講武所槍術教授方出役となった。21歳のときのことだ。25歳の1860年(万延元年)には槍術師範役、そして1863年(文久3年)一橋慶喜に随行して上京、従五位下伊勢守を叙任。28歳のことだ。1865年(慶応2年)、新設の遊撃隊頭取、槍術教授頭取を兼任。1868年(慶応4年)、幕府が鳥羽伏見の戦いで敗戦後、逃げるように艦船で江戸へ戻った慶喜に、泥舟は恭順を説いた。

以後、江戸城から上野寛永寺に退去する慶喜を護衛。勝海舟・西郷隆盛の粘り強い会談の結果、江戸の町を舞台とした官軍と幕府軍との激突が回避され江戸城の無血開城、そして慶喜の処遇が決まり、水戸へ下ることになった慶喜を護衛、支え続けた。

 勝海舟が当初、徳川家処分の交渉のため官軍の西郷隆盛への使者としてまず選んだのは、その誠実剛毅な人格を見込んで高橋泥舟だった。しかし、泥舟は慶喜から親身に頼られる存在で、江戸の不安な情勢のもと、主君の側を離れることができなかった。そこで、泥舟は代わりに義弟の山岡鉄舟を推薦。鉄舟が見事にこの大役を果たしたのだ。そして泥舟の役割はまだ終わっていなかった。後に徳川家が江戸から静岡へ移住するのに伴い、地方奉行などを務めた。

 明治時代になり、主君の前将軍が世に出られぬ身で過ごしている以上、自身は官職により栄達を求めることはできないという姿勢を泥舟は貫き通した。幕臣の中でも、明治時代になって新政府から要請があって、この人物が戊辰戦争で本当に敵・味方に分かれて戦ったのかと思うくらい、新政府の中で要職に登り詰めた人も少なくないが、泥舟は幕府への恩義は恩義として、金銭欲も名誉欲も持たず、終生変わらぬ姿勢を保持した人物の一人だった。

 山岡鉄舟が先に亡くなったとき、山岡家に借金が残り、その返済を義兄の泥舟が工面することになった。しかし、泥舟自身にも大金があるはずがなく、金貸しに借用を頼むとき「この顔が担保でござる」と堂々といい、相手も「高橋様なら決して人を欺くことはないでしょう」と顔一つの担保を信用して引き受けた-といった、泥舟の人柄を示す逸話が多く残っている。
 廃藩置県後、泥舟は引退して書家として生涯を送った。

(参考資料)海音寺潮五郎「江戸無血開城」