葛飾北斎・・・西欧印象派画壇の芸術家に影響与えた希代の浮世絵師

 葛飾北斎は江戸時代に活躍した浮世絵師で、とりわけ後期、文化・文政期を代表する一人。森羅万象、何でも描き生涯に3万点を超える作品を発表。版画のほか、肉筆画にも傑出していた。さらに読本、挿絵芸術に新機軸を見い出し、「北斎漫画」をはじめとする絵本を多数発表した。葛飾派の祖となり、後にはゴッホなど西欧の印象派画壇の芸術家をはじめ、工芸家や音楽家にも影響を与えた、世界的にも著名な画家だ。代表作に「富嶽三十六景」「北斎漫画」などがある。

 北斎は武蔵国・葛飾郡本所割下水(現在の東京都墨田区の一角)で、貧しい百姓の子として生まれた。幼名は時太郎。後に鉄蔵と称した。生没年は1760~1849年。小さい頃から頭が良く、手先の器用な子で、初め貸本屋の小僧になり、14、15歳の時、版木彫りの徒弟に住み込んだが、そんな閲歴が絵や文章に親しむきっかけとなったと思われる。

 北斎は1778年、浮世絵師、勝川春章の門下となる。狩野派や唐絵、西洋画などあらゆる画法を学び、名所絵(浮世絵風景画)を多く手掛けた。しかし1779年、真相は不明だが、勝川派を破門されている。ただ、貧乏生活と闘いながら一心不乱に画業の修練に励んだお陰で、寛政の初年ごろから山東京伝、滝沢馬琴らの作品に挿絵を依頼されるようになった。

 北斎を語るとき忘れてはならないのが、改号と転居(引越し)の多さだ。彼は頻繁に改号し、その回数は生涯で30回に上った。「勝川春朗」「勝春朗」「郡馬亭」「魚仏」「菱川宗理」「辰斎」「辰政」「雷震」「雷斗」「戴斗」「錦袋舎」「画狂人」「画狂老人」「卍老人」「白山人」など数え上げたらきりがない。現在広く知られている「北斎」は当初名乗っていた「北斎辰政」の略称。

 転居の多さもまた有名で、生涯で93回に上った。1日に3回引っ越したこともあるという。これは北斎自身と、離縁して父・北斎のもとにあった出戻り娘のお栄(葛飾応為=かつしか・おうい)が、絵を描くことのみに集中し、部屋が荒れたり汚れたりするたびに、掃除するのが面倒くさい、借金取りの目をくらます、家賃を踏み倒すなどのため引っ越していたからだ。改号もカネに困り、画号を門弟に売りつけた結果、いやでも変えざるを得なかったわけだ。

 カネ欲しさに大事な画号を門弟連中に押し売りしたりすれば、後世、拙作、真作が混在し、巨匠北斎の栄誉にマイナスに働きはしないかなどと考えるのは、彼の画業を芸術視している現代人の考え方だ。アカデミックな立場にある公儀御用絵師はともかく、浮世絵描きの町絵師など、世間も芸術家とは見ていなかった。先生、師匠と呼びはしても読み捨ての黄表紙同様、浮世絵も消耗品の一種と見ていたのだ。だから、北斎自身もごくリアルに、当面のカネの算段が最優先だったわけだ。「富嶽三十六景」のような代表傑作を生み出した原動力も、例えば新人の安藤広重が彗星の如く現われて、センチメンタルなあの独特の抒情で、めきめき評判を高めだしたのに刺激され、若い広重に負けてたまるか-という敵がい心、競争意識をバックボーンに、猛烈にハッスルした結果なのだ。

 北斎は結婚は二度している。ただ、二度とも妻の名は分からない。初めの妻との間に一男二女、後妻に一男一女を産ませたから、5人の子持ちということになる。二人の妻とは死別か離別か、それも不明だ。90年にわたる生涯で、52、53歳頃から独り身を通し、女は同居していた娘のお栄のほか、いっさい近づけなかった。
(参考資料)杉本苑子「風狂の絵師 北斎」、梅原猛「百人一語」

空也・・・念仏を唱え続けた民間の浄土教の先駆者 「念仏聖」の先駆

 空也は平安時代中期の僧で、天台宗空也派の祖。乞食しつつ諸国を巡り、道を拓き橋を架け、盛んに口称念仏(称名念仏=しょうみょうねんぶつ)を勧め、市聖(いちのひじり)、阿弥陀聖(あみだひじり)、市上人(いちのしょうにん)などと称された。民間における浄土教の先駆者と評価されている。

彼の活動は貴族からも注目された。ただ、踊念仏、六斎念仏の開祖とも仰がれるが、空也自身がいわゆる踊念仏を修したことを示す史料はない。空也の門弟は高野聖など中世以降に広まった民間浄土教行者「念仏聖」の先駆となり、鎌倉時代の一遍に多大な影響を与えた。

 詳細は分からないが、空也は尾張国(現在の愛知県)で生まれたとみられる。法号は空也・光勝(こうしょう)。空也の生没年は903(延喜3)~972年(天禄3年)。『空也誄(るい)』や慶滋保胤の『日本往生極楽記』などの史料によると、空也は醍醐天皇の皇子とも、仁明天皇の皇子・常康親王の子とも伝えられているが、無論、彼自身が自らの出生を語ることはなく、真偽は不明だ。

 922年ごろ尾張国の国分寺にて出家し、空也と名乗った。若い頃から在俗の修行者、優婆塞として諸国を巡り、「南無阿弥陀仏」の名号を唱えながら、道路・橋・寺などを造り、井戸を掘るなど様々な社会事業を行い、貴賎を問わず幅広い帰依者を得た。絶えず南無阿弥陀仏の名号を唱えていたので、俗に阿弥陀聖とも呼ばれた。

 938年(天慶1年)、京都へ入って浄土往生の念仏を勧めるとともに、街中を遊行して乞食(こつじき)し、布施を得れば貧者や病人に施したと伝えられる。948年(天暦2年)、比叡山で天台座主・延昌(えんしょう)のもとで得度、受戒し「光勝」の法号を受けた。ただ、空也は生涯、超宗派的立場を保っており、天台宗よりも、奈良仏教界、とくに思想的には三論宗との関わりが強いという説もある。

 950年(天暦4年)から金字大般若経の書写を行い、人々から浄財を集めて951年(天暦5年)、十一面観音像ほか諸像(梵天・帝釈天像、および四天王のうち一躯を除き、六波羅蜜寺に現存)を造立した。963年、鴨川の岸で大々的に供養会を行い、これらを通して藤原実頼ら貴族との関係も深めた。東山・西光寺(現在の六波羅蜜寺)で70年の生涯を閉じた。空也の彫像は六波羅蜜寺が所蔵する立像(運慶の四男、康勝の作)が有名。

 平安時代以降、貴賎を問わず、老若男女が念仏を唱えるようになったのは、空也のお陰だといわれる。また、東北地方を遊行して仏教を広めた功績は、この辺境の人々に長く記憶された
 諸悪に満ちたこの世を嫌って、美しく、楽しい「あの世」を求める浄土教の祖師たちは、理論家の法然を除いて、源信、親鸞、一遍などいずれも詩人の心を持ち、すばらしい偈(げ)や和讃を残している。中でも、とりわけすばらしい詩心の持ち主は、彼らの先駆者だった空也だと思われる。空也の言葉はあまり残っていないが、わずかに『一遍上人語録』などに断片的に残っている。

(参考資料)梅原猛「百人一語」、井沢元彦「逆説の日本史・中世神風編」

河井継之助・・・幕末の越後長岡藩執政となり、激烈な北越戦争を指導

 河井継之助は幕末、越後長岡藩の120石取りの藩士から、同藩の上席家老へ異例の出世を遂げ、“藩の舵取り”役となり藩政改革を断行した。そして、西南雄藩も目を見張るほどの近代武装を成し遂げ、新政府軍との戊辰戦争では長岡藩の軍事総督を務めた。当初、戊辰戦争では中立を唱えたが、新政府軍に受け入れられず、結局これと激戦。悲運の最期を遂げた。生没年は1827~1868年。

 河井継之助は長岡城下同心町で沙門良寛とも親交のあった勘定頭・河井代右衛門秋紀の長男に生まれた。字は秋義、蒼龍窟(そうりゅうくつ)と号した。生来意志が強く、長じて剣を鬼頭六左衛門に、文学を藩儒山田愛之助らに学んだ。18653年(嘉永6年)、江戸に遊学し、斎藤拙堂の門に学び、次いで古賀茶渓(さけい)の久敬舎に入り、一時、佐久間象山にも師事して海外の事情を学んだ。翌年、勘定方随役に抜擢されたが上司と合わず、まもなく辞し、再度、家を出た。

継之助は、1859年(安政6年)、備中松山藩(現在の岡山県)の山田方谷(ほうこく)に学び、長崎に遊んで見聞を広め、翌年帰国した。1865年(慶応1年)、外様吟味役、そして郡奉行、町奉行も兼務。さらに年寄役に累進。この前後、藩政の大改革を断行した。1868年(慶応4年)上席家老となり、当時の日本においては最新の銃器類を入手して防備を固め、軍事総督として戊辰戦争における“武装中立策”を推進した。

だが新政府軍がこれを認めないため、これと激戦を展開した。継之助は巧みな戦術で敵を惑わせ、いったんは敵の手に落ちた長岡城を奇襲で奪還。しかし、圧倒的な敵の兵力には勝てず敗走、再度の落城で継之助率いる長岡軍は会津へ向かう。だが途中、塩沢村(現在の福島県只見町)で彼は悲運の最期を遂げたのだ。

 河井継之助はいま見た通り、明治維新の内乱のうち地方戦争と見られがちな北越戦争の、それも敗者になった側の越後長岡藩の執政で、おまけに中途戦死して、後世への功績というべきものは残していない人物だ。しかし、維新史好きの人の間では、北越戦争が維新の内乱中、最も激烈な戦争だったこととともに、その激烈さを事実上一人で引き起こした河井継之助の名はよく知られていた。畏怖、畏敬の念も持たれてきた。

 継之助が藩政を担当した時には、皮肉にも京都で十五代将軍慶喜が政権を朝廷に返上してしまった後だった。このため慌しく藩政改革をした後、彼の能力は恐らく彼自身が年少のころ思ってもいなかった、戦争の指導に集中せざるを得なかった。ここで官軍に降伏すれば藩が保たれ、それによって彼の政治的理想を遂げることができたかも知れない。だが、継之助はそれを選ばず、ためらいもなく正義を選んだ。司馬遼太郎氏が「峠」のあとがきに記している言葉だ。

 河井継之助は徹底した実利主義者だった。物事の見方は鋭く、すぐに本質を見抜いた。また彼は大変な開明論者で幕末、士農工商制度の崩壊や、薩摩と長州らによって新政権が樹立されるであろうことを予測していたという。さらには度を超えた自信家で、本来なら継之助の家柄では家老などの上級職になれなかったが、彼は「ゆくゆくは自分が家老職になるしかない」と周囲に言い触らしていた。そして、その宣言通り長岡藩の命運を担い、その舵取りを務め“義”の戦いを展開し、潔く散った。

(参考資料)司馬遼太郎「峠」、奈良本辰也「不惜身命」

陸 羯南・・・“硬派”の新聞『日本』を主宰した明治の代表的言論人

 陸羯南(くがかつなん)は新聞『日本』の社主兼主筆を務めた明治時代の代表的言論人だ。『日本』は、陸羯南が刊行の辞で「新聞は政権を争う機関にもあらず、私利を射る商品にもあらず、博愛の下に国民精神の回復を発揚する…」と述べている通り、議論一点張り、ニュースも政治教育方面のものが主体で、三面記事は一切、掲載しなかった。振り仮名抜きの漢文体という“硬派”の新聞だ。印刷用にはフランスからマリノニ式輪転機を入れ、写真を初めて取り入れた、熱情あふれた紙面は青年の血を沸かし、神田の下宿屋では、この新聞を取るのを誇りとしたという。

 ただ、この『日本』は部数5000部(最大時2万部)と少なかったこと、また政治教育方面のニュースを大胆に斬るスタイルだったため、発行停止となることが極めて多く、経営は困難を極めた。ちなみに、黒田清隆内閣のときは3回・31日間、山県有朋内閣のときは2回・32日間、第一次松方正義内閣のときは2回・29日間、第二次伊藤博文内閣のときは実に22回・131日間、第二次松方正義内閣のときは1回・7日間の発行停止を食っているのだ。これでは経営難に陥るのも無理はない。しかし、陸羯南がやり遂げたことは「男子一生の仕事」と呼ぶにふさわしいものだった。

 陸羯南は津軽・弘前藩藩医で近侍茶道役を務めた中田謙斎の長男として生まれた。本名は実(みのる)。「羯南」を生涯の号とした。妻てつとの間に一男七女をもうけた。漢学者の鈴木虎雄は娘婿。陸の生没年は1857(安政4)~1907年(明治40年)。

 陸(現実にはこのころは「中田」姓)は15歳ごろから工藤他山の漢学塾に通うようになり、その後、漢学、英学両方の教えを受けた郷里の東奥義塾を経て、宮城師範学校に入学するが、薩摩出身の校長の横暴に抗議、退校処分となった。そこで上京して司法省法学校に入学。ここでも賄征伐事件に関連して、校長の態度に反発し、退学した。このとき共に退学した同窓生に原敬、福本日南、加藤拓川、国分青涯らがいる。このころ、親戚の陸家を再興し、これまでの中田から「陸」姓となった。これには徴兵逃れの措置という説と、唐の詩人・陸宣公に倣ったという説がある。

 青森新聞社などを経て北海道に渡った後、再度上京し、フランス語が堪能だったことから、太政官文書局書記局員となった。ここで井上毅、高橋健三らと知り合った。1885年(明治18年)には内閣官報局編集課課長となった。また、このときフランスの保守主義者ジョゼフ・メーストルの『主権についての研究』を翻訳、『主権原論』として出版。しかし1887年(明治20年)、政府の条約改正・欧化政策に反対して退官した。

 陸は徳富蘇峰とともに明治中期を代表する言論人だが、徳富の発言がほとんど社会の全般にわたったのに対し、陸の評論は政論中心だった。ただ政論中心といっても、政府や政党の動向を具体的に追跡するだけではなく、国民全体の歴史や社会・経済・思想・風俗・慣習との関連のもとに政治の動向を捉える点に特徴があり、そうした見方は、国際政治の捉え方にまで貫かれていた。彼が政論記者として他の追随を許さないと評価されたゆえんだ。

 陸は1888年(明治21年)『東京電報』という月刊新聞を創刊、翌年『日本』と改題、社長兼主筆として活躍した。三宅雪嶺、杉浦重剛、長谷川如是閑、正岡子規など明治後期を代表する多くの思想家、言論人がこの新聞に集まり、近代ジャーナリズムの先駆けとなった。

(参考資料)小島直記「人材水脈」、司馬遼太郎「この国のかたち 四」

鑑真・・・日本で初めて授戒を行い、戒律制度を伝えた律宗の開祖

 鑑真は、朝廷からの「伝戒の師」としての招請を受け、数々の苦難を超えて、6回目の渡海で来日した、唐代、江南第一の大師と称された人物で、日本における律宗の開祖だ。天皇をはじめ多くの人々に日本で初めて正式な授戒を行い、日本の仏教界に正式に戒律制度を伝えた人でもある。鑑真の生没年は688(持統天皇2)~763年(天平宝字7年)。

 鑑真は中国・唐代の揚州江陽県に生まれた。俗姓は淳于。14歳で出家し、洛陽・長安で修行を積み、道岸、弘景について律宗・天台宗を学んだ。713年に故郷の大雲寺に戻り、江南第一の大師と称された。律宗とは仏教徒、とりわけ僧尼が遵守すべき戒律を伝え、研究する宗派だが、鑑真は四分律に基づく南山律宗の継承者で、4万人以上の人々に授戒を行ったとされている高僧。

鑑真は揚州の大明寺の住職だった742年(天平元年)、第九次遣唐使船で唐を訪れていた留学僧、栄叡(ようえい)、普照(ふしょう)から朝廷の「伝戒の師」としての招請を受け、渡日を決意。しかし周知の通り、その実現は容易なものではなかった。その後の12年間に5回の渡航を試みて失敗。次第に視力を失うことになったが、753年(天平勝宝5年)、6回目にして鑑真が乗り込んだ、帰りの遣唐使船が薩摩・坊津に漂着、遂に日本の地を踏んだ。鑑真66歳のことだ。以後、76歳までの10年間のうち、5年を東大寺で、残りの5年を唐招提寺で過ごし、天皇はじめ多くの人々に授戒を行った。

 仏教では新たに僧となる者は戒律を遵守することを誓う必要がある。戒律のうち自分で自分に誓うものを「戒」といい、僧尼の間で誓い合うものを「律」という。律を誓うには10人以上の正式の僧尼の前で儀式(=授戒)を行う必要がある。これら戒律は仏教の中でも最も重要な事項の一つとされているが、日本では仏教が伝来した当初は、自分で自分に授戒する自誓授戒が行われるなど、授戒の重要性が長らく認識されていなかった。

 しかし、奈良時代に入ると戒律の重要性が徐々に認識され始め、授戒の制度を整備する必要性が高まっていた。こうした時代背景の下、栄叡と普照は授戒できる僧10人を招請するため渡唐し、戒律の僧として高名だった鑑真のもとを訪れたのだ。
 栄叡と普照から強い要請を受けた鑑真は弟子に問いかけたが、誰も渡日を希望する者がいなかった。そこで、鑑真自らが渡日することを決意し、それを聞いた弟子21人が随行することになったのだった。

 こうして来日した鑑真は753年(天平勝宝5年)、大宰府観世音寺に隣接する戒壇院で初の授戒を行った。そして754年(天平勝宝6年)、鑑真は平城京に到着し聖武上皇以下の歓待を受け、孝謙天皇の勅により、戒壇の設立と授戒について全面的に一任され、東大寺に住することになった。同年4月、鑑真は東大寺大仏殿に戒壇を築き、聖武上皇、光明皇太后、孝謙天皇から僧尼まで430余名に菩薩戒を授けた。これが日本で行われた最初の登壇授戒である。併せて常設の東大寺戒壇院が建立され、その後761年(天平宝字5年)には日本の東西で登壇授戒が可能となるよう、大宰府観世音寺および下野国薬師寺に戒壇が設置され、戒律制度が急速に整備されていった。

 758年(天平宝字2年)、淳仁天皇の勅により鑑真は大和上に任じられ、政治に捉われる労苦から解放するため僧綱の任が解かれ、自由に戒律を与えられる配慮が成された。759年(天平宝字3年)、鑑真に新田部親王の旧邸宅跡(現在の奈良市五条町)が与えられ、ここに彼は「唐律招提」(とうりつしょうだい、後の唐招提寺)と名付けられた、戒律を学ぶ人たちのための修行道場を建てた。 
 
 同寺には戒壇は設置されたが、あくまでも鑑真和上の私寺であって、当初は経蔵、宝蔵などがあるだけだった。そのため、金堂は763年(天平宝字7年)の鑑真の死後、弟子の一人だった如宝(にょほう)の長年にわたる勧進活動により、781年(天応1年)以降、完成したといわれる。これにより現在は、この「唐招提寺」が奈良時代建立の金堂、講堂として“天平の息吹”を伝える貴重な伽藍となっている。2001年(平成13年)1月から始まった平成の大修理事業で解体され、地震対策として耐震性も強化、一新された金堂の工事が終了、09年11月1日、落慶法要が行われた。

 鑑真は戒律のほか、彫刻や薬草などへの造詣もとりわけ深く、日本にこれらの知識も伝えた。また、悲田院もつくり、貧民救済にも積極的に取り組んだ。
 師・鑑真の死去を惜しんだ弟子の忍基は鑑真の彫像(脱活乾漆造=だっかつかんしつづくり 麻布を漆で張り合わせて骨格を作る手法、両手先は木彫)を造り、現代まで唐招提寺に伝わっている。国宝の「唐招提寺鑑真像」がそれだが、これが日本最初の肖像彫刻とされている。また、779年(宝亀10年)、淡海三船(おおみのみふね)により、鑑真の伝記『唐大和上東征伝』が記され、鑑真の事績を知る貴重な史料となっている。
(参考資料)永井路子「氷輪」、井上靖「天平の甍」、司馬遼太郎「この国のかたち 三」古寺を巡る「唐招提寺」

楠木正成・・・天才的な策略家で後醍醐天皇の作戦参謀として勤皇を貫く

 もう10年以上も前のことだが、NHKが歴史のテレビ番組に「建武新政敗れ 悪党楠木正成自刃す」というタイトルをつけ、正成を祀っている湊川神社(神戸市)が抗議するという事件があった。確かにタイトルに「悪党」とつけられては、正成が「悪人」だったという印象を受ける。これに対してNHKは「悪党は悪い連中という意味ではなく、歴史上の新興勢力を表す語」と説明した。実際にこれは正しいのだが、歴史上の「悪党」という言葉は、現代の国民的常識となっていないから、早合点すると、楠木正成は悪人だったのだと思い込む人がいないとも限らない。

 楠木正成は謎の人物だ。楠木氏は伊予国の伊予橘氏(越智氏)の橘遠保(たちばなのとうやす)の末裔という。しかし、正成以前の系図は諸家で一致せず、後世の創作とみられる。河内には楠木姓の由来となるような地名はない。つまり、先祖が分からず、家系が分からず、身分も定かでない。本拠地がどこだったのかについても諸説あり、確かなことは分からない。

にもかかわらず、戦前の日本人にとって楠木正成ほど有名な歴史上の人物はいなかった。日本一の大忠臣「大楠公」として、大日本帝国臣民が模範としなければならない第一の人物として、歴史教育の中で徹底的に叩き込まれたからだ。そのため、戦後は神功皇后などとともに歴史の教科書から真っ先に抹殺されることになった。

 伝えられる正成の出生地は河内国石川郡赤阪村(現在の大阪府河内郡千早赤阪村)。生年に関しての明確な史料は存在せず、正成の前半生はほとんど不明だ。様々な歴史家による研究にもかかわらず、正成の確かな実像を捉えられるのは、元弘元年の挙兵から建武3年の湊川での自刃までのわずか6年に過ぎない。

正成は1331年(元弘元年)、臨川寺領和若松荘「悪党楠木兵衛尉」として史料に名を残しており、鎌倉幕府の御家人帳にない河内を中心に付近一帯の水銀などの流通ルートで活動する「悪党」と呼ばれる豪族だったと考えられている。このとき、すでに官職を帯びていることから、これ以前に朝廷に仕え、後醍醐天皇もしくはその周囲の人物たちと接触を持っていたと思われる。この年に後醍醐天皇の挙兵を聞くと、下赤坂城で挙兵し、湯浅定仏と戦う(赤坂城の戦い)。

後醍醐天皇と正成を結びつけたのは伊賀兼光、あるいは真言密教の僧、文観と思われる。正成は後醍醐天皇が隠岐に流罪となっている間にも、大和国吉野などで戦った護良親王とともに、河内国の上赤坂城や金剛山中腹に築いた山城、千早城に籠城してゲリラ戦法や糞尿攻撃などを駆使して幕府の大軍を相手に奮戦している。正成は少数で大軍を破るという、天才的な策略家だった。1333年(元弘3年)、正成らの活躍に触発されて各地に倒幕の機運が広がり、足利尊氏や新田義貞、赤松円心らが挙兵して鎌倉幕府は滅びた(元弘の乱)。

 後醍醐天皇の建武新政が始まると、正成は記録所寄人、雑訴決断所奉行人、河内・和泉の守護となった。正成は後醍醐天皇の絶大な信任を受け、足利尊氏が離反して後、実質上、後醍醐天皇の作戦参謀として新政の軍事主体の主力の一方になり、最後まで勤皇を貫いたことは特筆される。ただ、中国の諸葛孔明と並び称される鬼謀の数々を発揮しながら、正成には最後まで実力に応じた地位が与えられなかった。このことが、実態としては「補佐役」でありながら、戦局を左右する様々な進言が、簡単に退けられ、最終的に敗死の悲劇につながった。

 1336年(建武3年)、足利方が九州で軍勢を整えて再び京都へ迫ると、正成は後醍醐天皇に、新田義貞を切り捨てて尊氏と和睦するよう進言するが受け容れられず、次善の策として、いったん天皇の京都からの撤退を進言するが、これも却下される。ここで後醍醐天皇を見限ってもなんら批判、非難されることはないはずだ。

 ところが、正成はそれでも陣営にとどまったのだ。そんな絶望的な状況下で、しかも意に染まぬ新田義貞の麾下での出陣を命じられ、湊川の戦い(兵庫県神戸市)に臨んだのだ。朝廷側の主力となるべきは新田軍だった。だが、新田軍は戦いが始まってすぐに総崩れとなり、戦場に残される形となった正成のわずか700余騎が足利直義軍と戦い敗れて、正成は弟の楠木正季とともに自決したとされている。

 南朝寄りの「太平記」では正成の事績は強調して書かれているが、足利氏寄りの史書「梅松論」でさえも正成に同情的な書き方をされている。この理由は、戦死した正成の首(頭部)を尊氏が「むなしくなっても家族はさぞや会いたかろう」と丁寧に遺族へ返還しているなど、尊氏自身が清廉な正成に一目置いていたためとみられる。

(参考資料)井沢元彦「逆説の日本史」、加来耕三「日本補佐役列伝」、梅原猛「百人一語」、百瀬明治「『軍師』の研究」、永井路子「歴史の主役たち 変革期の人間像」、永井路子「続 悪霊列伝」、小和田哲男「日本の歴史がわかる本」