折口信夫・・・「折口学」で、「あの世」を明らかにしようとした巨人

 折口信夫は「あの世」とは何か?を考え、明らかにしようとした異様な人物であり、巨人だった。彼は「折口信夫」の名で国文学、民俗学、宗教学の論文を書き、「釈迢空(しゃくちょうくう)」の名で詩や歌や小説を書いた。折口の成し遂げた研究は「折口学」と総称される。芸能史、国文学を主な研究分野としてはいるものの、折口の研究領域は既存の学問の範疇に収まりきらないほど広範囲にわたっている。したがって、折口の研究および思想を一つの学問体系とみなしたものが「折口学」なのだ。折口の生没年は1887(明治20)~1953年(昭和28年)。

 彼は書くものにより、折口信夫と釈迢空の二つを使い分けた。漠然と学問的な著述には折口を、文学上の創作には釈を用いた。だが、彼の仕事の二つの方面が明解に分かれているわけではなかった。この二つを区別し難いところに、彼の発想の特異さがあった。学問において、彼の詩人的な想像力が実証の方法の届かない隅にまで浸透して、不思議なまでにまざまざと古代的世界を再現してみせる。だから、その学問といえども、彼の豊かな想像力の産物に違いなかった。

 折口信夫は大阪府西成郡木津村(現在の大阪市浪速区)に父秀太郎、母こうの四男として生まれた。生家は医者と生薬(きぐすり)、雑貨を売る商家を兼ねていた。中学生のころから古典を精読し、友人の武田祐吉らとともに、短歌創作に励んだ。1905年(明治38年)、天王寺中学を卒業し、国学院大学に進んだ。国学院では国学者、三矢重松(みつやしげまつ)から深い恩顧を受けた。卒業して大阪の今宮中学の教員となったが、2年余で辞して上京。国文学の研究と短歌の創作に情熱を注いだ。歌人島木赤彦を知って「アララギ」に入会。また、民俗学者柳田国男を知って深い影響を受け、進むべき道を見い出した。

 折口は1919年(大正8年)、国学院大学講師となり、のち教授として終生、国学院の教職にあった。1920年、中部・東海地方の山間部を民俗採訪のため旅行。1921年「アララギ」を退会、この年と1923年の二度にわたって沖縄に民俗採訪旅行した。折口の古代研究はこの時期の採訪旅行によって開眼した。1923年、慶應義塾大学講師となり、のち教授として没年まで勤めた。

折口は1924年、前年亡くなった三矢重松の「源氏物語全講会」を継承して開講。またこの年、古泉千樫(こいずみちかし)、北原白秋らの短歌雑誌「日光」に同人として参加した。1926年、長野県、愛知県山間部に花祭、雪祭を採訪調査。1930年(昭和5年)とその翌年、東北地方各地を旅した。1932年、文学博士となった。1948年(昭和23年)、第1回日本学術会議会員に選ばれ、翌年歌会始選者となった。

 「常世」「貴種流離譚」「宮廷歌人」など、折口によって初めて提唱され、定着した概念は多い。しかし、折口学において最も重要かつ広く知られる概念は「客人(まれびと)」と「依代(よりしろ)」だ。冒頭に述べた「あの世」とは何かを解き明かすため、折口は語っている。ただ、難解で非常に理解しにくい。梅原猛氏によると、「あの世」の人は依代を目印に天からこの地上に降りてくる。その依代は「まとい」であり、「のぼり」だった。「あの世」の人はどういう形で「この世」にやってくるのか。それは「まれびと」すなわち客人としてやってくる。「まれびと」は遠い遠い彼方の「あの世」からやってきて、「この世」の人に恩恵を与えて、また「あの世」へ帰っていく。「あの世」とは地下の黄泉(よみ)の国であり、あるいは海の彼方の「ニライカナイ」だった。

 そして梅原氏は、折口自身が少なくとも「まれびと」が乗り移る依代であり、「まれびと」の言葉を語る能力を持っていた人ではないか-としている。折口の小説「死者の書」の中に出てくる。主人公・大津皇子が殺されて二上山に葬られ、その肉体は腐っていくのに、その霊は目覚めて、“言葉”を語る。大津皇子の霊にとって、それは“声”だったが、普通の人には聞こえない。そういう普通の人には聞こえない、声でない言葉がいつまでも続いている-とある。

「死者の書」は奈良・当麻寺の曼陀羅にまつわる中将姫伝説に題材を得た小説だ。大津皇子が死んで神となり、次いで仏となり、恋人・耳面刀自(みみものとじ)の生まれ変わりである中将姫を二上山へ呼び寄せ、死霊としての阿弥陀仏と生霊である中将姫との交わりによって、あの有名な「当麻曼陀羅(たいままんだら)」という芸術を生み出すという物語だ。難解だが、折口の異様さの一端が分かるのではないか。

(参考資料)梅原猛「百人一語」、小島直記「逆境を愛する男たち」、「日本の詩歌/釈迢空」

安積艮斎・・・学派を超え自由な学風を貫き、多くの著名な門人を輩出

 安積艮斎(あさかごんさい)は、ペリー来航時のアメリカからの国書翻訳や、プチャーチンが持参したロシア国書の返書起草などに携わった、幕末の朱子学者だ。ただ、艮斎の功績はそれだけにとどまらない。むしろ図抜けた教育者としての功績が圧倒的に大きい。

艮斎が開いた私塾「見山楼」の門人には小栗上野介、吉田松陰、高杉晋作、木村芥舟(摂津守)、秋月悌次郎、岩崎弥太郎、川路聖謨(かわじとしあきら)、栗本鋤雲、間崎哲馬、斎藤竹堂、谷干城、清河八郎、福地源一郎、中村正直、権田直助など、2282人の名前が門人帳に記されており、幕末・明治の動乱期に活躍した人物に与えた影響は大きい。

したがって、私塾「見山楼」は今日風に表現すれば、“超”有名私立大学で、ここに籍を置くことがある意味でステータスだった側面があったのかも知れない。門人帳にはそれほど、後世に名が残る人材がきら星のごとく名前を連ねている。艮斎の生没年は1791(寛政3)~1861年(万延元年)。
 安積艮斎は陸奥・二本松藩の郡山(現在の福島県郡山市)にある安積国造神社の第55代宮司の安藤親重の三男として生まれた。幼名は兵衛、名は重信、通称は祐助。字は思順(しじゅん)・子順(しじゅん)とも。号は艮斎(ごんさい)。別号は見山楼。

 艮斎は幼いころから学問に興味を持っていた。5歳から11歳ごろまで約6年間、二本松藩の寺子屋で学問に励んだ。16歳で婿入りしたが、容貌がよくなく、日夜読書に耽るので妻に嫌われ、実家に戻った。恐らく、落ち込んだことだろうが、その後の切り替えがやはり違う。17歳で学問を志して江戸に出奔。当初、日蓮宗妙源寺の日明和尚のもとで生活した。その日明和尚の紹介で、当時一流の学者だった佐藤一斎の学僕・門人となって、苦学した。そして20歳から一斎の師、将軍家顧問格の学者だった大学頭・林述斎の門下生となり朱子学を学んだ。林述斎は幕政顧問として、当時の文教政策を取り仕切る大物だ。

 1814年(文化11年)、24歳で江戸駿河台の小栗忠高邸内に長屋を借りて私塾「見山楼」を開いた。この小栗忠高の子が小栗忠順(のちの小栗上野介)で、この13年後に出生する。艮斎は門弟の教育と学業研鑽に励んだ。そして、41歳のとき『艮斎文略(ごんさいぶんりゃく)』を出版、艮斎の名は天下に知られるようになった。この間、塾は何回か移転するが、小栗邸の塾を残して続けられた。小栗剛太郎(上野介の幼名)は数え年9歳のとき入門している。このとき艮斎46歳だった。

 艮斎は1843年(天保14年)、二本松藩・藩校敬学館の教授、そして1850年(嘉永3年)には幕府の昌平○教授に任命された。艮斎60歳のときのことだ。
幕府の公的学問所の教授となったことで、艮斎は幕末の動乱期の外交文書にも様々な形でタッチすることになった。まず、1853年のペリー来航時のアメリカからの国書の翻訳だ。また、プチャーチンが持参したロシア国書に対する返書の起草などにも携わった。

 艮斎は朱子学者だったが、陽明学など他の学問や宗教を排することなく、学派を超えてよいものを取り入れようという自由な学風を貫いた。洋学にも造詣が深く、渡辺崋山、高野長英ら開明的な学者や幕臣が会した尚歯会にも出入りした。1848年(嘉永元年)には『洋外紀略(ようがいきりゃく)』を著し、世界史を啓蒙、海外貿易の必要性を説いている。

 このほか、艮斎は開国か鎖国かと世論が分かれる中、幕府に対して、外交に関する意見書として『盪蛮彙議(とうばんいぎ)』を提出した。
 艮斎は、師の佐藤一斎とともにアカデミズムの頂点に立つ学者として知られ、没する7日前まで講義を行っていたと伝えられている。
 著書に上記のほか、『艮斎詩略』『史論』『艮斎間話』などがある。

(参考資料)

石田三成・・・外征めぐり豊臣政権下、No.2同士の抗争で千利休に勝利

 豊臣政権下、豊臣秀長と千利休による両輪補佐の体制が、秀長の死に伴って崩壊した。そして利休も、まもなく切腹に追い込まれる。当然、秀吉は将来の政権維持のため石田三成ら、将来を嘱望される奉行職に期待し、70歳の高齢者利休を見捨てたとの見方もできるが、果たしてそうなのか。そして、その石田三成の「補佐役」としての力量は?

 石田三成は石田正継の次男として近江国坂田郡石田村(現在の滋賀県長浜市石田町)で生まれた。幼名は佐吉。生没年は1560(永禄3年)~1600年(慶長5年)。石田村は古くは石田郷といって、石田氏は郷名を苗字とした土豪だったとされている。

三成は秀吉が近江長浜城時代、しきりに近江周辺で新規の家臣を募った際にスカウトされた若手人材の一人だった。他に増田長盛、長束正家、前田玄以らが“近江閥”を形成していた。この流れには大谷刑部(吉継)、小西行長らも含まれた。これに対し、利休の拠って立つ基盤は“尾張閥”で、この方の家臣団グループには加藤清正、福島正則、浅野長政らが属し、少し距離はあったが加藤嘉明、山内一豊、黒田長政なども同類と見做せた。近江閥のバックボーンが淀君であり、尾張閥のバックボーンがいうまでもなく秀吉の正妻おね(北政所)だ。この両派閥の対立がこの後、歴史の端々に顔をのぞかせることになる。

 正妻と側室(愛妾)の対立は、歴史を動かす確かな要因だ。つまり、利休は全く意識していなかったとしても、三成の側からは政敵と看做されていた可能性は高いのだ。そのためか、三成は秀吉にどれだけ勧められても、利休の茶の湯に馴染むことなかったという。

 尾張閥と近江閥の対立に加えて、加来耕三氏は各々の派閥に別個の商人グループが荷担していた事実があると指摘している。利休-(尾張閥)-堺商人、三成-(近江閥)-博多商人の両グループの対立だ。利休は茶人で秀吉側近であると同時に、その出身が堺で、堺を代表する納屋衆の一人となった人物だ。これに対し、三成と博多商人との強い結びつきは、九州征伐のあと、戦火で荒廃した博多の復興のために、秀吉が三成・長束・小西らを奉行に任じたときから始まっていたのだ。

利休切腹の半年後、1591年(天正19年)、秀吉は朝鮮、明国への出兵決意を正式に表明した。実はこの決定までに両グループから、水面下で利権にまつわる凄まじい駆け引きがあったはずだ。大陸貿易の独占を目指す博多商人と、南蛮貿易すなわち東南アジアへのルートを強化し、かつての“黄金の日々”を取り戻したいとする堺商人の思惑がせめぎ合っていたことだろう。

 朝鮮出兵は、秀吉のいくつかの選択肢の一つだった。少し遅れて徳川家康が呂宋(ルソン)攻略を真剣に計画したように、この時代、国内統一を完成しつつあった豊臣政権は新たな領土獲得、市場確保のためにも海外進出をしなければならない強迫観念に襲われていた。後に無謀な侵略と失敗を反省し、渡海しなければよかったといったものの、その準備段階では九州の大名たちは嬉々として、この無謀な計画に参画しているのだ。

 秀吉の外征が、朝鮮半島から中国大陸へのルートに決まるか、それとも琉球、台湾、ルソンの東南アジアに決定するか、各々の方面に独自の利権を持つ博多商人と堺商人は最も関心を寄せていた。しかし、秀長が病死し、孤立した利休では勝負にならなかった。利休は三成に、政治的駆け引きに敗れ、遂にはその死生を制されたのではないか。つまり利休の唐突な死は、将来を展望した際、必要と思われた外征をめぐる、豊臣政権下、ナンバー2(補佐役)同士の抗争に敗れた結果、招いた悲劇だったのだ。

(参考資料)堺屋太一「巨いなる企て」、藤沢周平「密謀」、小和田哲男「日本の歴史がわかる本」

太田道灌・・・力量・声望・実績がありすぎて、主君の妬みを買い葬られる

 京都の大半を焼け野原と化し、奥州・関東・東海を除く日本の至るところで、11年も続いた「応仁の乱」は終息したが、関東の騒乱はむしろ文明8年頃から激しさを増していく。そして、それが扇谷(おおぎがやつ)上杉家の家宰・太田道灌の名を天下にとどろかせるとともに、またその実力がありすぎたがゆえに、後の悲劇を生むことにもつながった。

主君の「補佐役」の地位を運命付けられていたとはいえ、もし道灌に“下克上”に徹する思い切りがあれば、北条早雲が名を成すより早く、関八州を制圧できたに違いない。彼にはそれだけの力量、声望・実績があった。ところが道灌は、育った環境からか、思い切りがなかった。動かなかった。そのため反対に、主家の妬みを買い、トップに葬られてしまった。

 太田道灌は扇谷上杉家の家宰・太田資清の長子として相模国(現在の神奈川県)に生まれている。幼名は鶴千代。元服して源六郎持資、後に資長と称した。道灌は入道してからの号。江戸城を築城した武将として有名。生没年は1432(永享4年)~1486年(文明18年)。

 「関東管領」は京都にあった室町幕府の出先機関で、初代の関東管領は足利尊氏の四男・基氏が任ぜられている。その後、この出先機関が重きを成し歳月の経過とともに、その権威は肥大化。京都に対して“関東御所”“関東公方”などと格上げして呼ばれるようになり“管領”は執事として実務を総攬してきた上杉家の呼称となった。上杉家は山内・扇谷・詫間・犬懸の四家に分かれ、適宜、有能な人物が出て関東公方を補佐した。

 古河公方-堀越公方-関東管領・上杉家の3者は、その権威と実力で関東を3分していた。もっとも、武力による限りは関東管領=山内上杉氏が他の2者に隔絶している。四上杉家の中でも犬懸は先に滅亡。詫間は山内と友好関係にあり、扇谷は領地も軍勢もはるかに山内に劣っていた。それでも山内上杉家の人々は心底、扇谷に不安を抱いていた。扇谷上杉家の家宰・太田資清・持資(道灌)父子が、領内にくまなく善政を敷き、人材を育成して登用するなど、内実は侮り難い成果を挙げていたからだ。中でも持資=道灌の器量は、広く世に知られていた。

 道灌は9歳から11歳まで、鎌倉五山の寺院で学問を修めていた。戦国武将にあって、北条早雲などとともに秀でた学識を持つ、数少ないインテリだった。1455年(康正元年)、24歳で家督を継いだ道灌は、その頃はまだ武州(東京都)の荏原品川にいた。居館は御殿山あたりで、それを古河公方(足利成氏)との対抗上、江戸に移したのは翌年のことだ。江戸城は1年でほぼ完成している。平地に自然の地形と人工の堀をうがち、土居(土塁)を築き複雑な曲輪を組み入れ、防衛力を飛躍的に向上させた斬新な城だった。

 道灌は戦いの場においても、領内の施政においても打つ手が鮮やかで手際がよすぎた。力量、声望・実績がありすぎた。そのため、主家は道灌の存在が恐ろしくなり、疑心暗鬼に陥ってしまった。ここに悲劇の“温床”があったのだ。「道灌謀反」の噂はまたたく間に関東全域に広がり、山内、扇谷の両上杉が結託した。1486年(文明18年)、道灌は招かれた糟屋の扇谷上杉家の別館で暗殺された。「補佐役を」失った扇谷上杉氏は瞬時に機能を停止し、山内上杉氏との間では団結はおろか不和が表面化。両家の対立抗争は間断なく続き、遂には両家とも衰亡の途をたどることになった。

(参考資料)加来耕三「日本補佐役列伝」、安部龍太郎「血の日本史」

安倍晴明・・・「式神」を自在に操り、闇の世界を制した希代の陰陽師

 安倍晴明の生涯は謎に包まれている。『尊卑分脈』所収の安倍氏系図によると、右大臣安倍御主人(みうし)から九代目の大膳大夫益材(ますき)の子という。『公卿補任』大宝3年(703)の項に、閏4月1日、右大臣阿倍御主人が69歳をもって_じたことが記され、「安倍氏陰陽先祖也」と記されている。また、『続日本紀』巻三・大宝3年閏4月1日の条に、「この日、右大臣従二位阿倍朝臣御主人が_じた」と記されている。「阿倍」と「安倍」の表記の違いはあるが、阿倍御主人を安倍晴明の祖と考えてよい。

 晴明がどこで生まれたのか、実は全くわからない。ただ、没年と享年は分かっている。そこから逆算すると、生年は延喜21年(921)、没年は寛弘2年(1005)。享年は、当時としては驚異的な長寿といえる84歳。生地には3つの説がある。讃岐国(香川県)由佐、常陸国(茨城県)猫島、摂津国(大阪府)阿倍野の3カ所だ。この中では阿倍野説が有力視されている。

 後世の伝承によると、晴明は「式神」と呼ばれる精霊や神々を自在に操り、京の都に災いをなす悪鬼や悪霊を次々に退治したという。また時の権力者だった御堂関白、藤原道長にかけられた呪詛を打ち破り、自らも並ぶ者がないほど強い呪術力を持っていた。さらに「反魂(はんごん)の秘術」「生活続命(しょうかつぞくめい)の法」を操り死者を蘇らせ、あるいは「式占(ちょくせん)」を用いて都に起こる数々の異変を予言したとされている。

 『今昔物語集』巻第二十四「安倍晴明随忠行習道語」第十六は、天才陰陽師、晴明の並々ならぬ力のほどを見せてくれる。この説話は・少年時に鬼と出会った話・晴明の力を試そうとした老僧の話・蛙を殺した話・式神を使役していた話-の四話から構成されている。また、『宇治拾遺物語』も晴明の異能ぶりを伝えている。

 生前に彼が築いた権威は子孫に受け継がれ、後にそこから土御門家という一族が生まれた。土御門家はやがて従来、朝廷に仕える陰陽師の頂点に立っていた一族、賀茂家を圧倒し、陰陽道の宗家として君臨する。さらには、陰陽道と神道を習合させた土御門神道=安倍神道も成立した。そして晴明は、こうした後の信仰の象徴として神格化されていくのだ。

 陰陽道は古代中国で起こった「陰陽五行説」を土台にしている。陰陽五行説とは、対立する陰と陽の2つの気、そして木・火・土・金・水の五行によって、森羅万象を説明する思想のことだ。日本へは、古代律令国家が建設された時に中国の知識や技術とともに移入された。7世紀後半にはすでに「陰陽寮」と呼ばれる機関が設置され、陰陽五行説の研究、教育が行われていたらしい。

(参考資料)志村有弘「陰陽師 安倍晴明」、歴史の謎研究会編「日本史に消えた怪人」、加来耕三「日本創始者列伝」

上杉謙信・・・仏道に帰依し信義に厚い家風をつくった越後の国主

 上杉謙信は、自ら毘沙門天の転生であると信じていたとされる、戦国時代の越後国の有力武将だ。室町幕府の重職、関東管領を務めるとともに、足利将軍家からの要請を受けて上洛を試み、越後国から西進して越中国・能登国・加賀国へ勢力を拡大、戦国大名・甲斐国の武田信玄とともに、同時代の武名を二分した。生没年は1530(享禄3)~1578年(天正6年)。

 上杉謙信は、越後守護代、長尾為景の四男(三男との説もある)として春日山城で生まれた。近世上杉家・米沢藩の祖。本姓は平姓、長尾氏。幼名は虎千代。初名は長尾景虎。兄の晴景の養子となって長尾氏の家督を継いだ。後に関東管領、上杉憲政から上杉氏の家督を譲られ、上杉政虎と名を変えて上杉氏が世襲する室町幕府の重職、関東管領に任命された。また、後に将軍足利義輝より偏諱(へんき)を受けて、最終的には上杉輝虎と名乗った。号は宗心。渾名は越後の虎、越後の龍、聖将、軍神。1570年(元亀元年)から不識庵(ふしきあん)謙信と名乗った。

 謙信は7歳で寺に預けられ、その年に父と死別、以後7年間みっちりと禅や武道を学んだとみられる。14歳のとき初陣、15歳で元服し景虎を名乗った。19歳で兄、晴景から家督を引き継ぎ、長尾景虎として名実ともに越後の国主となった。その後、24~34歳までの10年間に川中島の合戦を五回も繰り返し、ことに四回目の合戦では武田軍と凄まじい死闘を演じ、わずか半日で双方6000人近い死者を出し、それでも勝負がつかなかったという。

 このとき、武田の軍旗“風林火山”に対して、上杉軍が掲げたのが毘沙門天の“毘”と懸乱竜の“籠”の旗だ。これは毘沙門天に代わって世の中の邪悪な者を懲らしめる正義の軍であり、一度戦えば天から風を呼ぶ竜の如く雄々しく勇ましい軍であることを示したものといわれる。

 謙信は27歳のとき出家を志して高野山に登るが、臣下に思いとどまらせられ、40歳になったとき法号「謙信」を称した。そして45歳で剃髪、法印大和尚に任ぜられるまで常に仏道を修し、その後も49歳で病に倒れるまで、生涯その道を離れることはなかった。

 織田信長が岐阜を根拠地として京都を押さえ、畿内を平定し始めたころ、彼以上の実力を持つといわれる者が、少なくとも二人いた。上杉謙信と武田信玄だ。司馬遼太郎氏は、「信長はこの二人を宥めるために人間の知恵で考えられる限りの策謀と外交の手を打ち続けた。ときには卑屈窮まる言辞をも使った」と記している。文献によると、京にいた信長は謙信に対し、あなたが京へ上ろうとなさるのなら、この信長は京を出て、瀬田のあたりまでお出迎えして、御馬のくつわを取ります-とまでの態度を取ったほど。そのころの信長にとって、謙信はそれほどに大きな、超え難い存在だったのだ。

 そのうち、二強の一角、信玄が死に、謙信が残った。当時、謙信は300万石の経済力と日本での最強の軍団を持っていた。このころ信長は、狩野永徳の作と伝えられる「洛中洛外屏風図」六曲一双を謙信に贈っている。1574年(天正2年)のころのことだ。

 謙信亡き後、上杉家は景勝が国主のとき、豊臣政権のもとで会津に移封され大身となったが、「関ヶ原の戦い」で西軍につき辛酸を舐め、米沢の地で細々と徳川幕府に仕えたが、謙信を祖とするその信義に厚い家風は代々受け継がれた。

(参考資料)海音寺潮五郎「天と地と」、司馬遼太郎「歴史の中の日本」