松浦武四郎 全国を遊歴し、蝦夷地探検家で「北海道」の名付け親

松浦武四郎  全国を遊歴し、蝦夷地探検家で「北海道」の名付け親
 松浦武四郎は江戸時代末期に活躍した蝦夷地探険家であり、北にその一生を捧げ、「北海道」の名付け親として今日知られている。それだけに、当時の蝦夷地について数多くの著作を残している。彼はまたアイヌの人々が心から信頼した和人だった。封建的な江戸時代にあって、松浦武四郎にヒューマニズムあふれる近代的精神が育まれたのはなぜだろうか。生没年は1818(文化15)~1888年(明治21年)。
 松浦武四郎は伊勢国(三重県)一志郡須川村(現在の三雲町)小野江の郷士の四男として生まれている。名は弘(ひろむ)、字は子重。雅号は「北海道人(ほっかい・どうじん)」。幼名を竹四郎、長じて武四郎を通り名とした。ただ、著書の多くは竹四郎を用い、また多気志楼とも号した。先祖は肥前の松浦党の一族で、伊勢に移り、多気(たけ)の城主北畠氏の家臣として土着したという。父は時春(桂介)。本居宣長の門下として国学を修め、敬神家の名望があったのは、伊勢神宮のある伊勢という土地柄だと思われる。母はとく。
 武四郎は幼少から父の感化で俳諧などの風雅を好んだ。7歳で曹洞宗真学寺の和尚に手習を学び、名所図会や地誌などを好んで読み、他国の山河を写し取ったりして飽きることがなかったという。1830年(天保1年)、津の儒者、平松樂斎の塾に入った。3年後、国学を学んだ武四郎は突然のように平松塾を辞して家に戻った。そして江戸に下った。1833年(天保4年)、16歳のことだ。
 その後、諸国を遊歴。その一端を記すと、大坂では大塩中斎(大塩平八郎)を訪ねている。大坂東町奉行所の与力だったが、この頃はすでに隠居して、陽明学者として名高く、洗心洞塾を開いていた。大坂を後にした武四郎は播州、備前を経て四国に渡り、讃岐、阿波を回り淡路から紀州和田などへ足を伸ばしている。翌年、1835年(天保6年)、18歳になった武四郎は紀州の田辺、富田、串本を過ぎ、那智山に登り、熊野本宮に詣でた。高野山にも登り、粉河寺から和泉の槙尾峠を越えて観心寺に南朝の古跡を訪ずれている。その後、河内、大和、山城、摂津、丹波、播磨、但馬、丹後、若狭を経て越前へ出て、敦賀、福井、三国、吉崎、加賀の大聖寺、さらに美濃高山から三河、信濃を経て甲斐の金峯山寺、身延山に登り、霊峰富士山に初めて登っている。こうして17歳で家郷を出て以来、一度も戻らず、足掛け5年もの間、日本全国を遊歴、旅に明け暮れたのだ。
この間にロシアの南下による北方の危機を聞き、蝦夷地の探検を決意した。
しかし、旅人が蝦夷地奥地へ入ることは許されなかったため、1845年(弘化2年)、場所請負人和賀屋孫兵衛手代庄助と変名し、東蝦夷、知床岬まで到達、翌年は北蝦夷地勤番役の僕(しもべ)として樺太(サハリン)を探検した。さらに1849年(嘉永2年)には国後・択捉を探検し、この間見聞したことを「蝦夷日誌」「再航蝦夷日誌」「三航蝦夷日誌」に著した。
 1855年(安政2年)、幕府御雇に登用され、翌年箱館奉行支配組頭、向山源太夫手付として東・北・西蝦夷地を巡回。1857年には東西蝦夷地山川地理取調御用を命ぜられ、主要河川をさかのぼり内陸部をも踏査。「東西蝦夷山川地理取調図」「東西蝦夷山川取調日誌」として呈上したが公にされなかった。そのことが理由か定かではないが、1859年御雇を辞任。以後、約10年間著作活動に専念した。
1868年(明治1年)新政府から東京府付属、次いで翌年には開拓判官に任命され、北海道名や国郡名などの選定にあたった。しかし、アイヌ介護問題などについて、政府の方針と意見を異にしたため、病を理由に辞任。以来、著作のかたわら諸州を漫遊、死去直前に従五位に叙せられた。

(参考資料)佐江衆一「北海道人 松浦武四郎」、杉本苑子「決断のとき」、梅原猛「百人一語」、更級源蔵・船山 馨・吉田武三「日本史探訪/海を渡った日本人 松浦武四郎」

 

山本常朝 江戸時代の代表的な武士道書『葉隠』の口述者

山本常朝  江戸時代の代表的な武士道書『葉隠』の口述者
 「武士道と云うは死ぬ事と見付けたり」という有名な一節で知られる『葉隠』。この江戸時代の代表的な武士道書の口述者が山本常朝だ。山本常朝は第二代佐賀藩主鍋島光茂に30数年間にわたって仕えた人物で、『葉隠』は常朝の口述を田代陣基(つらもと)という武士が書き留めたものだ。
『葉隠』は戦時下で取り上げられたことも加わって誤った捉え方をする向きもあるが、他の死を美化したり、自決を推奨する書物とひと括りにすることはできない。『葉隠』の中には、嫌な上司からの酒の誘いを丁寧に断る方法や、部下の失敗をうまくフォローする方法など、現代のビジネス書や礼法マニュアルに近い内容の記述も多い。山本常朝の生没年は1659~1719年。
 山本常朝は佐賀藩士、山本重澄(しげずみ)の二男四女の末子として生まれた。幼名は松亀。通称は不携(ふけい)、名は市十郎、権之允(ごんのじょう)、神右衛門。9歳のとき、二代藩主光茂に御側小僧として仕え、14歳のとき小々姓となった。20歳で元服し、御側役、御書物役手伝となったが、まもなく出仕をとどめられた。その後、禅僧湛然(たんねん)に仏道を、石田一鼎(いってい)に儒学をそれぞれ学び、旭山常朝(きょくざんじょうちょう)の法号を受け、一時は隠遁を考えたこともあった。22歳のとき再び出仕し、御書物役、京都役を命じられた。
 常朝は42歳のとき、光茂の死の直前に、三条西家から、和歌をたしなみ深い光茂の宿望だった「古今伝授」の免許を受けて、その書類を京都より持ち帰り、面目を施した。光茂の死に際し、職を辞し、追腹(殉死)を願ったが、追腹禁止令により果たせず、願い出て出家。佐賀市の北方にある金立山の麓、黒土原(くろつちばる)に草庵を結び、旭山常朝と名乗って隠棲した。
 田代陣基が三代藩主綱茂の祐筆役を免ぜられ、常朝を訪ねたのは常朝51歳のときのことだ。陣基が常朝のもとに通い始め、実に7年の歳月を経て1716年(享保元年)、常朝の口述、陣基の筆録になる『葉隠』11巻が生まれた。その3年後の1719年(享保4年)、山本常朝は死んだ。
 『葉隠』の要点の一部を紹介する。生か死か二つに一つの場所では、計画通りにいくかどうかは分からない。人間誰しも生を望む。生きる方に理屈をつける。このとき、もし当てが外れて生き長らえるならば、その侍は腰抜けだ。その境目が難しい。また当てが外れて死ねば犬死であり、気違い沙汰だ。しかし、これは恥にはならない。これが武士道において最も大切なことだ。毎朝毎夕、心を正しては、死を思い死を決し、いつも死に身になっているときは、武士道と我が身は一つになり、一生失敗を犯すことなく、職務を遂行することができるのだ。
 我々は一つの思想や理想のために死ねるという錯覚にいつも陥りたがる。しかし、『葉隠』が示しているのは、もっと容赦ない死であり、花も実もない無駄な犬死さえも、人間の死としての尊厳を持っているということを主張しているのだ。もし我々が生の尊厳をそれほど重んじるならば、死の尊厳も同様に重んじるべきだ。いかなる死も、それを犬死と呼ぶことはできないのだ。
 常朝はほかに、養子の常俊に与えた『愚見草』『餞別』、鍋島宗茂に献じた『書置』、祖父、父および自身の『年譜』などの著述がある。

(参考資料)奈良本辰也「叛骨の士道」、奈良本辰也「日本の名著 葉隠」、三島由紀夫「葉隠入門」、童門冬二「小説 葉隠」

 

高橋泥舟 鳥羽伏見での敗戦後、恭順を説き、支え続けた慶喜の側近

高橋泥舟  鳥羽伏見での敗戦後、恭順を説き、支え続けた慶喜の側近
 高橋泥舟は槍術の名手で、第十五代将軍慶喜の側近を務めた。鳥羽伏見の戦いで敗戦後、江戸へ戻った慶喜に恭順を説き、慶喜が水戸へ下るまでずっと、側にあって護衛し支え続けた。勝海舟、山岡鉄舟とともに「幕末の三舟」と呼ばれる。生没年は1835(天保6)~1903年(明治36年)。
 高橋泥舟は旗本山岡正業の次男として江戸で生まれた。幼名は謙三郎。後に精一郎、通称は精一。諱は政晃。号を忍歳といい、泥舟は後年の号。母方を継いで高橋包承の養子となった。生家の山岡家は自得院流(忍心流)の名家で、精妙を謳われた長兄山岡静山について槍を修行。海内無双、神業に達したとの評を得るまでになった。生家の男子がみな他家へ出た後で、静山が27歳で早世。山岡家に残る妹、英子の婿養子に迎えた門人の小野鉄太郎が後の山岡鉄舟で、泥舟の義弟にあたる。
 1856年(安政3年)、泥舟は幕府講武所槍術教授方出役となった。21歳のときのことだ。25歳の1860年(万延元年)には槍術師範役、そして1863年(文久3年)一橋慶喜に随行して上京、従五位下伊勢守を叙任。28歳のことだ。1865年(慶応2年)、新設の遊撃隊頭取、槍術教授頭取を兼任。1868年(慶応4年)、幕府が鳥羽伏見の戦いで敗戦後、逃げるように艦船で江戸へ戻った慶喜に、泥舟は恭順を説いた。
以後、江戸城から上野寛永寺に退去する慶喜を護衛。勝海舟・西郷隆盛の粘り強い会談の結果、江戸の町を舞台とした官軍と幕府軍との激突が回避され江戸城の無血開城、そして慶喜の処遇が決まり、水戸へ下ることになった慶喜を護衛、支え続けた。
 勝海舟が当初、徳川家処分の交渉のため官軍の西郷隆盛への使者としてまず選んだのは、その誠実剛毅な人格を見込んで高橋泥舟だった。しかし、泥舟は慶喜から親身に頼られる存在で、江戸の不安な情勢のもと、主君の側を離れることができなかった。そこで、泥舟は代わりに義弟の山岡鉄舟を推薦。鉄舟が見事にこの大役を果たしたのだ。そして泥舟の役割はまだ終わっていなかった。後に徳川家が江戸から静岡へ移住するのに伴い、地方奉行などを務めた。
 明治時代になり、主君の前将軍が世に出られぬ身で過ごしている以上、自身は官職により栄達を求めることはできないという姿勢を泥舟は貫き通した。幕臣の中でも、明治時代になって新政府から要請があって、この人物が戊辰戦争で本当に敵・味方に分かれて戦ったのかと思うくらい、新政府の中で要職に登り詰めた人も少なくないが、泥舟は幕府への恩義は恩義として、金銭欲も名誉欲も持たず、終生変わらぬ姿勢を保持した人物の一人だった。
 山岡鉄舟が先に亡くなったとき、山岡家に借金が残り、その返済を義兄の泥舟が工面することになった。しかし、泥舟自身にも大金があるはずがなく、金貸しに借用を頼むとき「この顔が担保でござる」と堂々といい、相手も「高橋様なら決して人を欺くことはないでしょう」と顔一つの担保を信用して引き受けた-といった、泥舟の人柄を示す逸話が多く残っている。
 廃藩置県後、泥舟は引退して書家として生涯を送った。

(参考資料)海音寺潮五郎「江戸開城」

秋山真之・・・日露戦争でロシア艦隊を全滅させた天才・参謀

 明治37~38年(1904~1905)の日露戦争、日本の連合艦隊司令官は東郷平八郎、この海戦に完勝したことによって、アドミラル・トーゴーの名は世界中に喧伝され、イギリスの名将ネルソンと並んで東郷は海戦の歴史を語るうえで欠かすことのできない英雄になった。東郷は確かに傑出した提督だった。ただ、彼を司令長官に任命したのは海相山本権兵衛で、実際の作戦を立案指導したのは、一参謀だった秋山真之だった。

極言すれば司令長官が別人でも、その人が秋山に作戦を委ねていれば、ほぼ同じ結果を得たのではないだろうか。何故ならこの日本海海戦でロシア艦隊を全滅させ、日本海軍の損害は小さな水雷艇三隻のみという、奇跡的な圧勝をもたらしたのだから。昭和20年までの軍部の歴史の中で、これほどの先見性と洞察力を持った軍人は、秋山一人だった。

 秋山家は子だくさんで、男5人女1人に恵まれた。二男と四男は他家へ養子に行き、三男の好古は陸軍に入り、日露戦争のときは騎兵部隊の指揮官として大いに活躍した。海軍に入った真之は明治元年(1868)3月20日、松山藩士秋山久敬の五男として生まれ、大正7年(1918)2月に病死した。享年50歳。武士は明治維新後の廃藩置県で、いわば失業したようなものであり、秋山家も生活は苦しかった。

 陸軍士官学校に入って軍人となった好古が卒業後に任官し、15歳の真之を呼び寄せ、大学予備門に入れた。この学校は後の第一高等学校だ。つまり東京帝国大学へ入ろうとするものは、予備門に入ることが多かった。真之は松山以来の友達の正岡子規と一緒に下宿して予備門に通ったが、19歳のときに海軍兵学校を受験して、55人の合格者のうち15番目の成績で入校した。大学へ行くには学資が必要で、それを好古に負担させまいとしたのだ。軍隊の学校なら、衣食住の全部が支給されるし、少額でも給与がつく。真之は明治22年に海軍兵学校をトップで卒業した。入校したときは15番だったが、それ以外は毎学年、彼は常にトップだった。

 明治36年6月、秋山真之はアメリカ留学の辞令をもらい渡米する。学校での授業は退屈で、得るものは少ない。そこで彼は戦術の大家として知られたマハン提督を訪ね個人的にレッスンを受ける。この中で海戦だけでなく、陸戦も含め古今の実戦を詳しく調べ徹底的に研究することを教えられた。また海図に将棋の駒のような軍艦の模型を配置して行う兵棋演習で、実戦の疑似体験を積む方法があることを知った。さらに、アメリカとスペインがキューバの独立をめぐって戦争を始め、幸運にも秋山は観戦武官として従軍した。この戦争のあとイギリス出張を経て帰国し、海軍大学の教官になった。

 明治37年2月10日、ロシアに対し宣戦布告。秋山は東郷司令長官の下で作戦主任参謀だった。彼の上に参謀長がいるが、作戦の立案は彼に任されていた。旅順のロシア艦隊は戦力的には日本とほぼ対等だったが、本国のバルチック海に旅順艦隊と同程度の艦隊を持っていた。当面は旅順艦隊対連合艦隊の戦闘になるが、もしバルチック艦隊が極東へ回航してくれば、ロシアの戦力は日本の2倍ということになる。したがって、日本としては同等戦力のうちに旅順の敵艦隊を全滅させ、やがて到着するはずのバルチック艦隊に備えておく必要があった。それも、旅順艦隊とは損害ゼロで完勝することが求められた。

 味方が砲撃される機会を減らし、相手を砲撃する時間を増やす。このテーマに答えて考え出されたのが、山屋他人中佐の半円戦法だった。一列に進んでくる敵に対し、こちらは右へ半円形を描いて展開する。秋山はこの半円戦法を改良して「丁字」戦法を考え出した。丁の字、あるいはカタカナの「イ」の字でもよい。一列に進んでくる敵に対して、その進行方向を遮るように進むのだ。丁字戦法は敵の行く手を遮るから、双方が遠ざかるということはない。その代償として、味方の先頭艦が一列になった敵艦から集中砲火を浴びる危険があった。ただ、それを通り越してしまえば、横一列に展開した味方の各艦から、敵の旗艦に砲火を集中できる。ある意味で皮を切らせて肉を切り、肉を切らせて骨を切る戦法だった。

(参考資料)吉村昭「海の史劇」、生出寿「知将 秋山真之」、三好徹「明治に名参謀ありて」、加来耕三「日本補佐役列伝」                    

小林一茶・・・ “不幸の塊”52歳で初めて妻帯した忍従の俳人

 俳人・小林一茶は“不幸の塊”のような人物だった。3歳で実母に死に別れ、8歳のときやってきた継母にいじめ抜かれ、この母に子供が生まれてからは、ますます折り合いが悪くなった。そのため、15歳のとき江戸に奉公に出された。江戸では「わたり奉公」して食いつなぐ生活の連続で、暮らしが楽であるはずがない。父が病気になったので見舞いに帰郷するが、継母や義弟とはうまくゆかず、父の死後は遺産のことでゴタゴタし、この問題は長く尾を引いた。やっと遺産問題が決着し、一茶が故郷へ戻るのは50歳のときだ。妻を初めて迎えたのはその2年後、52歳のときのことだ。

生涯、一つの考え方にこだわって妻帯することなく過ごした英傑は少なくない。だが一茶の場合、そうではない。世間一般の親子揃っての、慎ましやかな暮らしさえできず、故郷でようやく落ち着いた暮らしができると思い、初めて妻を迎えたとき、世間的に表現すれば人生の大半を終わっていたということなのだ。

 小林一茶は信濃北部の北国街道柏原宿(現在の長野県上水内郡信濃町大字柏原)の貧農の長男として生まれた。本名は小林弥太郎。生没年は1763(宝暦13)~1828年(文政10年)。3歳のとき生母を失い、8歳で継母を迎えた。この継母に馴染めず、15歳のとき江戸へ奉公に出された。江戸では「わたり奉公」で食いつなぐ、苦難の生活を続けた。25歳のとき、二六庵小林竹阿に師事して、俳諧を学んだといわれる。ただ、この点については確かな史料は全くない。
 29歳のとき、故郷に帰り、翌年から36歳まで俳諧の修行のため、近畿・四国・九州を歴遊する。39歳のとき再び帰省。病気の父を看病したが、1カ月ほど後に父は死去。以後、遺産相続の件で、継母と12年間争った。この間、一茶は再び江戸に戻り、俳諧の宗匠を務めつつ、遺産相続権を主張し続けた。

 50歳で再度、故郷に帰り、その2年後28歳の妻「きく」を娶り3男1女をもうけるが、悲しいことにいずれも幼くして亡くなっている。その妻「きく」も痛風がもとで、37歳の生涯を閉じている。2番目の妻、田中雪を迎えるが、老齢の夫に嫌気がさしたのか、半年で離婚。3番目の妻「やを」との間に1女「やた」をもうけた。ただ、「やた」は一茶の死後に生まれたもので、父親の顔を見ることなく成長し、一茶の血脈を後世に伝えた。

 1827年(文政10年)、柏原宿を襲う大火に遭い、母屋を失い、焼け残った土蔵で生活するようになり、同年その土蔵の中で、“不幸の塊”のような、65年の生涯を閉じた。
 一茶の俳諧俳文集『おらが春』は1819年(文化2年)、一茶が57歳のときの一年間、故郷での折々のできごとに寄せて詠んだ俳句・俳文を、没後25年になる1852年(嘉永5年)に白井一之(いっし)が、自家本として刊行したものだ。『おらが春』は時系列に沿って書き記された日記ではなく、刊行を意図して構成されたものだ。さらに一茶自身、改訂や推敲を重ねたが、未刊のままに留まっていたものだ。表題の『おらが春』は白井一之が本文の第一話の中に出てくる「目出度さもちう位也おらが春」(めでたさも ちゅうくらいなり おらがはる)から採って名付けたものだ。一茶の代表的な句として、よく知られている

・我と来て遊べや親のない雀(われときて あそべやおやのないすずめ)
・名月を取ってくれろとなく子哉(めいげつを とってくれろとなくこかな)
などはこの作品の中に収められている。

(参考資料)藤沢周平「一茶」

大隈重信・・・政治的力量・人間的魅力を備えた実力派の政治家

 大隈重信は政治家と教育者の2つの顔を持っている。政治家としては大久保利通没後、参議筆頭となって殖産興業政策を推進、いわゆる大隈財政を展開し、第八代および第十七代内閣総理大臣を務めた。また彼は周知の通り、早稲田大学(当時の東京専門学校)の創設をはじめ終生、教育事業に力を尽くした。国書刊行会、大日本文明協会の設立、『新日本』『大観』などの雑誌の主宰、『開国五十年史』『開国大勢史』の著述など広く明治文明の推進者としての功績を持っている。大隈の生没年は1838(天保9)~1922年(大正11年)。

 大隈重信は肥前国・佐賀城下会所小路(現在の佐賀市水ヶ江)に佐賀藩士の大隈信保・三井子(みいこ)夫妻の長男として生まれた。幼名は八太郎。大隈家は知行400石の砲術長を務める上士の家柄だった。大隈は7歳で藩校弘道館に入学し、佐賀の特色の『葉隠』に基づく儒教教育を受けた。だが、これに反発し、1854年(安政元年)同志とともに藩校の改革を訴えた。1856年(安政3年)佐賀藩蘭学寮に転じた。のち1861年(文久元年)鍋島直正にオランダの憲法について進講し、また蘭学寮を合併した弘道館教授に着任、蘭学を講じた。

 1865年(慶応元年)、佐賀藩校英学塾「致遠館」(校長:宣教師グイド・フルベッキ)で、副島種臣とともに教頭格となって指導にあたった。また、フルベッキに英語を学んだ。このとき新約聖書やアメリカ独立宣言を知り、大きな影響を受けた。そして、京都や長崎に往来して尊王派として活動した。

薩長土肥、明治維新に功績があった4つの藩だ。このうち、薩摩と長州は武力討幕を打ち出し、そのための政治活動をした。だが、土佐と肥前は違う。土佐は、戊辰戦争が始まる直前まで徳川氏擁護で動いていたし、肥前藩は政治的な動きは全くしていなかった。その土佐と肥前が、薩長と並び称されるようになったのは、戊辰戦争になってからの役割が大きかったからだ。

明治政府が本格的な仕事を開始すると、土佐藩の比重はまたあやしくなってくるが、肥前は出身者個々人の政治的力量によって、新政権の中で次第に重きを成していった。ここに取り上げる大隈重信はじめ、江藤新平、副島種臣らはみな抜群の政治的力量の持ち主だ。とりわけ大隈重信は財政や外交手腕と政治的包容力とで、薩長出身者をも配下に抱え込むほどの一大勢力を形成した。

大隈がその存在感を発揮したのがキリスト教処分問題だった。彼はこの問題で、英公使パークスと堂々とわたり合い談判したのだ。パークスは41歳。フランス公使ロッシュは徳川方にかけ、パークスは倒幕派にかけた天下のバクチで勝ったうえに、列国に先んじて明治政府を承認した功労者だ。半面、このことを恩に着せて、ことごとに先輩面、保護者面、指導者面で横車を押そうとするところがあった。ところが、フルベッキ宣教師についてすでにキリスト教と万国公法を学んでいた大隈はいささかもたじろがず、昼食抜きで6時間もの大激論をやり抜いた。

このとき通訳を務めたシーボルトが、後に三条実美や岩倉具視に「パークスもきょうの談判には大いに愕いて、これまで日本で大隈のような男と談判したことはない、といって、日本の外交官に少し尊敬の気持ちを加えたようです」と語ったのだ。そこで、大隈の評価が高まり、その後抜擢され出世していったというわけだ。

また、「築地梁山泊」とも呼ばれた大隈邸には井上馨、五代友厚、山県有朋、中井弘、大江卓、土居通夫、山口尚芳、前田正名、古沢滋など、ひと癖もふた癖もある豪傑たちが集まっていた。木戸孝允や大久保利通なども、ここに集まる連中の動向を大いに気に病んでいたという。ともかく、これほど癖のある人物たちをも引き付けるだけの人間的魅力が、大隈にあったということだ。
 大隈は、岩倉具視一行の遣欧中の留守政府内では西郷隆盛らの征韓論に反対の立場を取り、次いで大久保利通の下で財政を担当しつつ秩禄処分、地租改正を進め、大久保没後は参議筆頭となって殖産興業政策を推進した。

(参考資料)小島直記「人材水脈」、奈良本辰也「男たちの明治維新」、小和田哲男「日本の歴史がわかる本」、三好徹「日本宰相伝 葉隠嫌い」、司馬遼太郎「この国のかたち 一」