丹後局・・・夫の死後、後白河法皇の愛人となり時の政治を動かした女性

 丹後局は後白河法皇の愛人で、寝ワザを利かせて時の政治を動かしたという意味で楊貴妃と対比される女性だ。それも、40歳を過ぎてから実力を発揮し始めたという。果たして何が彼女をそう変えたのか?
 結婚前の名が高階栄子。高階家は受領で、はじめ後白河法皇の側近・平業房に嫁ぎ、5人の子供を産み40歳頃まではごく平凡な母親だった。例えば夫の業房が後白河院を自宅に招待したときなど、下級官吏の夫に目をかけてもらおうと一所懸命、接待に努めた気配がある。

 治承3年(1179)、平清盛がクーデターを起こして後白河法皇を鳥羽殿に幽閉した事件で、後白河法皇の側近だった夫・業房が捕えられ伊豆に流される途中、逃亡したが捕えられ殺される。栄子はこれを機に後白河院に接近する。彼女は鳥羽殿に幽閉されている後白河法皇に仕えることを許され、丹後局と称するようになる。その後、後白河法皇の愛を受けて覲子(きんし=宣陽門院)を産んだ。

 以後、復帰した後白河法皇を後ろ楯に政治に参加、院政という個人プレーの取りやすい政治体制の中で権勢をほしいままにした。清盛が亡くなった後の平家が安徳天皇を奉じて都落ちしたあと、後鳥羽天皇を推挙擁立したと伝えられているのをはじめ、政治、人事にことごとく口を出し、その美貌と相まって、当時の人々は丹後局を楊貴妃と対比した。

 後白河院はいろいろな女性に子供をたくさん産ませているが、本当に愛した女性は建春門院と丹後局ぐらいといわれる。かなり好き嫌いのはっきりした人だったようだ。楊貴妃に擬せられているが、残されている文献・記録には丹後局が美人だったとはどこにも書かれていない。ただ、非常に好みの強い後白河院が終生、丹後局をそばにおいたということは、よほど魅かれるものがあったのだろう。正式の皇后はいるのに、全然名前が出てこないのだから。

 いずれにしても後白河院を後ろ楯に、院との間にできた娘を格上げして門院にしてしまう。門院は普通の内親王と違い、役所と財産権がつく位だ。本来は天皇を産んだ人しかなれない、それを彼女自身、身分が低く女御でもないので娘も位が低いのに、強引に門院に押し込んでしまったのだ。娘が門院になると、丹後局はその母親ということで二位をもらう。また、彼女の口利きで出世した身内の人たちは少なくない。その他、様々に政治にタッチしていたことが分かっている。まさに、やりたい放題、公私混同もいいところだ。

 それにしても、どうしてこれだけ無茶なことができたのか?それは「院政」という政治形態に尽きる。現代風に言えば院は代表権つきの会長で、これに対し天皇はサラリーマン社長で、ほとんど実権がない。天皇の上に“治天の君”がいるのだ。それが院で、本当の権力者だ。しかも、官僚機構が発達していない。非常にプライベートな形で権力が振るえる。だからこそ、丹後局は働けたのだ。だが、これだけ好き放題やった女傑も後白河法皇の死後は、すっかりにらみが利かなくなり、法王の廟を建てるよう進言しても政治の実権者になった後鳥羽上皇は耳を貸さなかった。

 歴史に「…たら」「…れば」をいっても仕方がないが、清盛のあのクーデターがなければ丹後局という女性が現れることなく、下級貴族、平業房の奥さんで終わっていただろうに…。 (参考資料)永井路子対談集「丹後局」(永井路子vs上横手雅敬)    

日野富子・・・将軍義政の失政に拍車をかけた日本史上稀にみる“悪妻”

室町幕府八代将軍、足利義政は無責任と優柔不断さで「応仁の乱」(応仁元年=1467~文明9年=1477)を引き起こしたことは衆知の通り。飢饉のために都に餓死者があふれる中、あちこち物見遊山にでかけ、為政者の責任は放棄して、連夜の酒宴を催すなど数々の失政にまみれた人物だ。そして、この失政・悪政に拍車をかけたのが、義政の正夫人(御台所)日野富子だ。日本史上稀にみる“悪妻”と呼ばれ最も「カネ」にも汚い女といわれた。

 冨子は、足利将軍家の夫人を代々送り出している裏松日野家の出身だ。したがって、血筋からすれば後世の彼女に対する悪評は決してふさわしいものではなく、人生の歯車が大きく狂ったのは夫・義政にその大半の責任があるといっていい。

義政は、内大臣日野政光の娘でまだ16歳の冨子を妻に迎えた。結婚後、冨子がしばらく男の子を産まなかったため、まだまだ後継者の男子が生まれる可能性があるのに、早々と弟・義視を口説き還俗させて後継者とし引退の準備を整えた。そして「万一、これから冨子との間に男子が生まれても、絶対に後継者にはしない。出家させる」という確約もした。そのために幕閣第一の有力者で宿老の細川勝元を後見人にも立てた。これほど用意周到に準備したのは、義政自身が早く政界から引退したくて仕方がなかったのだ。ただただ為政者の責任を放棄し、気楽な立場で遊んで暮らしたかったからだ。決して年を取ったからでも、体を悪くしたからでもない。

 ところが、この決断はあまりにも性急過ぎた。皮肉なことに弟が後継者に決まって1年も経たないうちに、冨子は懐妊し翌年男子を産む。これが義尚だ。当然、冨子はわが子・義尚を跡継ぎにと夫・義政に迫ることになる。そこで、義政はどう動いたか。現代流に表現すれば“問題先送り”し、どちらにも決められず、将軍の座にとどまり続けたのだ。優柔不断そのものだ。その結果、細川勝元が後見する義視派と、冨子が山名宗全を味方に引き入れた義尚派との間で争いとなり、これが応仁の乱の導火線となった。

 都を荒廃させたこの大乱の前後を通じて義政は全く政治を省みなかったため、冨子はこれ以後、異常なほど「カネ」に執着するようになる。兄・勝光とともに政治に口を出すばかりでなく、内裏の修理だとか、関所の通行税だと称してはカネを集め、そのカネを諸大名に貸して利殖を図った。

とくに信じられないのは、東軍側の冨子が敵方、西軍の武将、畠山義就に戦費を融通していることだ。息子義尚を将軍にしたいがために、戦争まで引き起こしてしまったというのに、敵方の武将にカネを貸して戦乱を助長しているのだ。諸大名が戦費に困っているなら、融資などやめればいいのだ。それで戦争は終結に向かうはずだ。

冨子は1474年、義政と別居。その後義尚を指揮下に政治を行う。そして1489年、25歳の若さで義尚が死に、翌年義政を失った冨子は、慣例的に尼になる。普通ならここで念仏三昧の静かな日々を過ごすことになるはずなのだが、彼女は全く違う。世の無常を感じるどころか、次の将軍義稙(よしたね)にまで口出しするのだ。義稙は義視の子だ。権勢に対する執念の深さはいままでの歴史上の女性にはみられないものだ。応仁の乱を機に幕府の実際の生命は絶えたような状況だったが、それでもなお、その座を捨てきれない。エネルギッシュな行動力を持った女性だったといえよう。
(参考資料)井沢元彦「逆説の日本史8 中世混沌編」、永井路子対談集「日野富子」(永井路子vs永原慶二)、小和田哲男「日本の歴史がわかる本」

北条政子・・・愛情過多、壮大な“やきもち”で源家三代の悲劇起こす

北条政子は周知の通り、鎌倉幕府の創立者、源頼朝夫人だ。現代風に表現すれば鎌倉時代のトップレディーのひとりで、夫の死後、尼将軍などと呼ばれて政治の表面に登場するため、権勢欲の権化と見る向きもある。しかし、実際は愚直なほどに愛情過多で、また壮大な“やきもち”によって源家三代の血みどろな家庭悲劇を引き起こす遠因をつくった悪女といえよう。

政子がどれだけやきもちだったか?やきもち劇の始まりは頼朝が政子の妊娠中、伊豆の流人時代から馴染みだった「亀の前」という女性と浮気したときだ。政子はこともあろうに、屈強の侍に命じてその憎むべき相手の亀の前の隠れ家を無残に壊してしまったのだ。鎌倉じゅう大評判になった。ミエや夫の名誉などを考えたら、普通ここまではできない。頼朝は懲りずに第二、第三の情事を繰り返し、その度に政子は狂態を演じることになる。

夫の死後、彼女は長男の頼家を熱愛しようとした。ところが、すでに成人していた頼家は愛妾若狭局に夢中で、母には振り向きもしない。彼女は絶望し、若狭局を憎むようになる。現代も母と嫁の間によくあるケースだ。その後、母と子の心はさらにこじれて、可愛さ余って憎さ百倍、遂に政子は息子頼家と嫁に殺意を抱く…。すべてが終わったとき「私はとんだことをしてしまった」と激しい後悔の念に襲われる。

そこで、政子はせめてもの罪滅ぼしに、頼家の遺していった男の子、公暁を引き取り、可愛がる。父の菩提を弔うために仏門に入れ都で修業もさせるが、やがて手許に引き取り、鶴岡八幡宮の別当(長官)とする。ところが、この孫は祖母の心の痛みなどは分かっていない。父に代わって将軍になった叔父の実朝こそ親の仇と思い込み、遂にこの叔父を殺してしまう。

母と子、叔父と甥、源家三代の血みどろの家庭悲劇を引き起こしたのは、政子の抑制の利かない愛情過多がその一因になっていると言わざるを得ない。もちろん幕府内部の勢力争いもからんでいるが、政子の責任は大きいのだ。

一般に政子を冷たい権力欲の権化、政治好きの尼将軍と見做す向きもある。しかし、彼女は決して冷たい人間でもなければ、政界の手腕家でもない。唯一、承久の変が起こったとき、確かに彼女は鎌倉の将兵を集めて大演説をしている。しかし、これも今日では彼女の弟、策略に長けた稀代の政治家、北条泰時の指示のままに「施政方針演説」を朗読したにすぎない-との見方が有力だ。

こうしてみると、政子の真骨頂は庶民の女らしい激しい愛憎の感情を、歴史の中に残したところにあるといえそうだ。また、その分、女の中にある愛情の“業”の深さを浮き彫りにしたのが政子の生涯だったといえるのではないか。

(参考資料)永井路子「北条政子」、永井路子「歴史をさわがせた女たち」

道綱の母・・・当時の一代の王者、藤原兼家の私生活を暴露したマダム

 『蜻蛉日記』の筆者。伊勢守(後に陸奥守)藤原倫寧(ともやす)の娘だが、彼女の名前は分からない。生没年は935~995頃。王朝三美人の一人といわれているが、肖像画が残っているわけではないので確認できない。右大将道綱の母、とだけ呼ばれている。それでもここで取り上げたのは彼女が、今日では珍しくもないが、当時の最高権力者、一代の王者、摂政・藤原兼家との二十余年にわたる私生活を暴露した「勇気ある先駆者」だからだ。

 彼女自身語っている。現代風に意訳すると「私は身分違いの相手に想われ、いわゆる玉の輿に乗ったおんなである。そういう結婚を選び取ったものが、どのような運命をたどったか、その点に興味を持つ読者にも、この日記体の文章は一つの答えを提供するかも知れない」と。

 道綱の母は、ただ、きれいごとの王朝貴族ではなく、図々しくて不誠実で、浮気で…と、その私行を余すことなく暴いている。しかし、暴かれた兼家の立場にたてば、まったくたまったものではなかったろう。それにしても、執筆し続けた彼女のすさまじい執念には恐れ入るばかりだ。

 今日では、スターと別れた彼女が、」そのスターの素顔を好意的に、あるいはおとしめるために手記を書き、マスコミで取り上げられベストセラーになることはよくあることだが、当時は新聞も週刊誌もなかったから、彼女がいくら書いても1円の原稿料も入ってくることはなかった。それにもかかわらず、彼女は書きまくった。一代の王者として、もてはやされているその男が、彼女にとって、いかにひどい男だったかを、世間に知らしめるために。

 天暦8年(954)、藤原兼家の度々の求婚を承諾し、19歳で妻となる。兼家は26歳。この時、兼家には時姫という正妻があり、長男道隆もすでに生まれていた。翌年夏、道綱を産む。道綱が生まれると兼家の足は自然に遠のき、さらに次々に愛人が現れる。この間、嫉妬に悩み、満たされぬ愛を嘆き続けた。また、期待を懸けた道綱は、時姫の子、道隆、道兼、道長らが後に政権を取ったのにひきかえ、たいした出世をしなかった。それは、ひとえに両家の格の違いによるものだった。

 『蜻蛉日記』は、約20年間の一人の女の愛情の記録で、36歳の頃から書き始め、4年かけて976年頃にできあがったといわれている。冒頭に「そらごとではなく、自らの身の上を後世に伝えよう」という意図が語られている。二人の交際は、兼家がラブレター(和歌)を寄こすところから始まる。当時彼は、役どころは高くなかったが、ともかくも右大臣家の御曹司だ。彼女の父は、いわゆる受領-中級官吏だから、願ってもない縁談だった。

 それだけに周りは大騒ぎするが、彼女は「使ってある紙も、たいしたこともないし、それにあきれるほどの悪筆だった!」と冷然と書いている。これでは、未来の王者も全く形無しだ。それでも兼家はせっせとラブレター(和歌)を送り続ける。いかにあなたに恋い焦がれているか-と。そして、どうせ本気じゃなんいでしょう?-という返歌を書く。これを繰り返して、やがて二人が結ばれる。当時としては結婚の標準コースだ。

 兼家は彼女を手に入れると少しずつ足が遠のき始め、やがて彼女が身ごもり、男の子を産むが、その直後、彼女は夫がほかの女に宛てた恋文を発見。勝ち気でプライドの高い彼女は、この日から激しい嫉妬にさいなまれ始める。その後も兼家と顔を合わせれば、わざと冷たくしたり、彼女の気持ちはこじれるばかり。既述した通り、兼家はもともと移り気で浮気症だったらしく、次から次と女の噂が伝わってきて、彼女の心は休まるひまがない。

 『蜻蛉日記』にはこうした心境、屈折感を余すところなく書き連ねている。立場を変えてみると、言い訳を言ったり、ご機嫌を取ったり、汗だくの奮戦に努める兼家が気の毒になってくるほどだ。これだけ書けば、妻といえども、夫に嫌われることだけは間違いないだろう。

 これにひきかえ、兼家の正妻、時姫は優秀な子らの母として、押しも押されもせぬ足場を確立していた。兼家はその時姫の産んだ娘や息子を手駒に使って、政敵を打倒していった。時姫は、結局はそれが子らの幸福につながると信じ、権力闘争の苛酷さを理解して、黙々と夫の後についていくタイプだった。したがって、家庭内に波風は立たず、子供らは存分に、それぞれの個性を伸ばせたのではないだろうか。

 だが時姫は、夫が独走態勢に入り、これから頂点(=摂政)に登り詰めようとする直前に世を去った。そして、時姫の他界から10年後、勝者の満足をかみ締めながら、兼家も永眠した。通綱の母は、さらにそれから5年後に亡くなるわけで、三人の中では最も長生きしたことになる。

(参考資料)永井路子「歴史をさわがせた女たち」、杉本苑子「私家版 かげろふ日記」

村山加寿江・・・井伊直弼の寵愛を受け、愛人のため志士の諜報活動

村山加寿江(かずえ)は、後に第十三代彦根藩主となる井伊直弼がまだ部屋住み時代、その寵愛を受け、後に井伊直弼が幕府の大老に就任、「安政の大獄」を断行した際、これを実質的に指揮した謀臣・国学者・長野主膳の愛人でもあった。

加寿江の場合、閨房で待つ、単なる愛人ではなく、主膳を助けて、その謀者となって息子の帯刀とともに、京の志士の動静探索に力を尽くした。そのため、逆に薩長両藩の志士に襲われ、三条大橋の橋柱に縛られ、三日三晩生き晒しの辱めを受けた。加寿江の生没年は1810(文化7)~1876年(明治9年)。

村山加寿江(村山たか)は江州(滋賀県)多賀神社の神主の娘。幼少の頃より美人の誉れ高く、踊・音曲を好み祇園の芸妓となったが、金閣寺長老永学に落籍され、天保4年、一子、常太郎(帯刀)を産んだ。のち同寺の代官、多田源左衛門の妻となったが、その後離縁となり、彦根に戻ってまだ部屋住み時代の井伊直弼の寵愛を受けた。そして、直弼が家督相続するころに暇を出され、直弼の知恵袋と目されていた国学者・長野主膳がその後始末を任されたのだ。

加寿江は容色にも恵まれ、文章にも優れていた。九条家、今城家などにも出入りしたほどだから、知恵者の長野主膳とも意気投合して深い関係におちた。
その後、時局が急展開し、安政5年、幸運にも彦根藩主となった井伊直弼が幕閣の大老に就任。安政の大獄が断行されると、これを実質的に指揮した長野主膳を、加寿江は女だてらに彼の片腕となって助け、息子の多田帯刀とともに西南雄藩の志士の動静探索に力を尽くした。

これが後に勤王派の志士たちの耳に入り、その中の過激な連中から逆襲されることになった。1862年(文久2年)、洛西・一貫町の隠れ家で長野主膳一味として薩長両藩の志士に襲われ、天誅のもとに息子の帯刀は斬殺され、加寿江は三条大橋の橋柱に縛られ、三日三晩、生き晒しの辱めを受けた。
そのとき尼僧に助けられ、彦根の清涼寺で剃髪して尼僧となった。その後、金福寺に移り、留守居として入った。彼女は妙寿尼と名乗り、ここで数奇な生涯を閉じた。祇園の芸妓だった彼女が、後に日本国を動かす人物の寵愛を受け、さらに女だてらに天下・国家を動かしていた人物の片腕として働くという、この当時の女性にはほとんど経験できない人生を生きたのだ。

(参考資料)平尾道雄「維新暗殺秘録」、海音寺潮五郎「幕末動乱の男たち」

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淀君・・・息子秀頼への“教育ママ”ぶりと権勢欲が豊臣氏を滅ぼす

歴史に「たら」「れば」を言っても仕方がないというが、それでもこの淀君には敢えて言いたいと考える人は多いのではないだろうか。「関ケ原の戦い」(1600年)に際してはもちろん、「大坂冬の陣」(1614年)、「大坂夏の陣」(1615年)で、もう少し相手、徳川家康の心理を読み、いま少し冷静に自陣の将兵に接する気持ちがあれば、情勢は変わったのではないか?とくに名目上の総大将、息子の豊臣秀頼に対する“教育ママ”ぶりを抑える器量があれば、少なくともあれほどあっけなく歴史上、豊臣氏が消えることはなかったろう。淀君の度を超えた虚栄心、権勢欲が豊臣氏を早期滅亡させた要因といっても過言ではない。

淀君は永禄10年(1567年)生まれ、本名はお茶々。母は織田信秀の5女で、信長の妹、お市だ。父は小谷城主、浅井長政。戦国時代にはよくあったことかも知れないが、彼女の少女時代は必ずしも幸福ではない。7歳の時に母の兄、織田信長に攻められ小谷城は落城、父は自害する。落城に際し、彼女は母のお市や妹たちとともに、織田の陣営に引き取られる。ところが「本能寺の変」(1582年)で、頼みの信長が明智光秀に殺害されたことから、彼女の人生も波乱に満ちたものとなる。

まず母のお市の嫁ぎ先、織田家の有力武将、越前北ノ庄(福井県)の城主、柴田勝家のもとへ。しかしここもポスト信長の“天下取りレース”で主役の座に躍り出た羽柴秀吉に攻められ、母は夫とともに自害し、お茶々たち3人の娘だけが秀吉の手に渡される。この後、お茶々は秀吉の側室となる。秀吉にはほかにもたくさん側室がいたし、長年連れ添ったねねが、正室・北政所としてデンと構えている。それだけに心穏やかではなかったかもしれない。

やがて、お茶々は身ごもり出産。不幸にしてこの子は早死にするが、まもなく2人目の子(後の秀頼)が生まれる頃から、秀吉は親ばかになり、お茶々は淀殿と呼ばれ一段と猛母になる。秀吉の死後、秀頼が大坂城のあるじになると、ぴったり彼に寄り添って離れない。そして北政所を大坂城から追い出してしまう。豊臣氏滅亡を早めた大きなミスの一つだ。

淀君は猛烈な“教育ママ”の顔を持ちながら、秀頼の教育において決定的なミスを犯している。「カエルの子はカエルになれるが、太閤の子は太閤になれるとは限らない」ということに気付かなかったのだ。秀頼は秀吉とは違う。溺愛するあまり、秀頼は普通の子、秀吉と比べれば“ボンクラ”であることを見抜く冷静さに欠けていた。
やがて彼女は挫折する。冒頭でも述べた通り、徳川方と戦ってはことごとく敗れる。実はこの戦いの前に、家康は秀頼が大和一国で我慢するなら命を助けてやろう、と言っている。“たぬきオヤジ”といわれた家康の真意のほどは分からないが、もしそれがホンネだとしたら、案外そのあたりが秀頼の能力にふさわしかったのではないか。そして、彼女にそれを受け入れる度量の広さや冷静さがあったら、母子して猛火の中でその生涯を終えることはなかったろう。

(参考資料)永井路子「歴史をさわがせた女たち」