小林一三・・・鉄道事業経営とエンタテインメントをコラボ

 小林一三は阪急電鉄・阪急百貨店・阪急東宝グループの創業者で、阪急ブレーブス、宝塚歌劇団の創始者としても知られる。鉄道沿線の住宅地開発、百貨店経営など幅広く関連事業を経営し、沿線地域を発展させながら、鉄道事業のとの相乗効果を上げた。今日の私鉄経営のビジネスモデルの原型をつくった人物の一人だ。また東京電燈会社の経営改革にも携わった。第二次近衛内閣で商工大臣、終戦後は幣原内閣で国務大臣をそれぞれ務めた。生没年は1873(明治6)~1957年(昭和32年)。

 1月3日に生まれたので、一三と名付けられたが、母きくのが同年8月22日に急死してしまったため、養子だった父は離縁。一三と姉の竹代は、両親を失って孤児となってしまった。とはいえ、祖父母や一族に育てられ、何不自由なく成長していった。彼の生家は山梨県巨摩郡韮崎町(現在の韮崎市)で、韮崎は甲州街道の宿駅で、甲州と信州のコメが集まり、豪商が軒を並べる土地柄だった。小林家は屋号を布屋といって、酒造と絹問屋を兼ね、豪商中の豪商として知られた家柄だった。
 祖父小平治は一三が2歳のとき、彼のために別家をつくって家督を継がせた。その翌年7月に三井銀行が開業し、2年後に西南戦争が起こっている。

 一三は15歳で慶応義塾を受験して、即日入学を決めた。彼が最も打ち込んだのが芝居見物で、麻布十番にあった3軒の芝居小屋で連日のように入り浸っていた。明治25年、慶応義塾を卒業し三井銀行に入った。本店秘書課勤務だったが、仕事の中身が不満で少しも気が乗らない。そこで、大阪支店行きを志願。明治26年、大阪に赴任。ただ高麗橋の大阪支店に勤務してからも、道頓堀の芝居小屋に通って、もっぱら上方情緒に浸っていた。

月給は13円だが、韮崎の小林家から毎月100円くらい送金があるので、生活はゆったりしたものだった。文人とつきあって小説を書いたり、芝居通いしているうちに、一三はすっかり大阪に根を下ろしてしまった。ただ、勤務の方は大阪支店から名古屋支店、大阪支店、東京支店と変わったが、希望に反することが多く不遇だった。また結婚したが、早々に離婚、再婚した。

そして、明治39年、33歳のとき一三は三井銀行を退職。箕面有馬電気軌道株式会社設立に参画、様々な、紆余曲折はあったが、一三が専務、北浜銀行の頭取・岩下清周が社長で箕面電車が誕生。一三は電鉄経営者への道を選んだ。彼は“もっとも有望な電車”というパンフレットを出して、当時としては珍しいPRに乗り出し、今ではどの電鉄会社もやっている住宅街の造成を行って、沿線の繁栄を図った。いずれも当時としては、先駆的な手法であり、事業戦略だった。池田に分譲住宅を造ったり、箕面に客寄せの動物園を開設するなど、一三の奮闘は続いた。

大阪から宝塚まで線路を延ばすには何か客寄せが必要というので、宝塚に新温泉をつくって、そこに温水プールを開設した。しかし当時の規則では、男女別々に分けるべしというので、想定したほど客が集まらず、そこで考えついたのが少女歌劇だった。当時、三越で少年音楽隊が出演して人気を得ていたことから、一三が思いついたもので、素人の少女を集めて、今でいうオペレッタを演じさせようというものだった。大正2年に始めたときは、女子唱歌隊と称していた。大正3年4月1日、500人収容の劇場ができ上がって、いよいよ処女公演を行った。この公演は2カ月間大入りを続けた。この成功で年4回の公演に踏み切った。

一三は北銀事件を機に、借金し自社株を買い取りオーナー経営者となった。大正7年、社名を阪神急行電鉄と変更、同9年に神戸線30.3・が開通した。47歳となった一三は、経営者としてようやく独創的な手腕を発揮するようになった。彼は5階建ての阪急ビルを建設。その2階に食堂を開設、これまで一流レストランでしか食べられなかった洋食を、30銭均一で食べさせた。とくにコーヒー付き30銭のライスカレーは大好評だった。また、1階を白木屋に貸して、日用雑貨の販売をさせた。この後、一三は阪急電車梅田駅に乗降客を吸引する新しいターミナル百貨店を誕生させた。

一三は既成概念に捉われず、従来の高料金興行とは違ったやり方による演劇や映画の経営を始めて、東宝王国をつくり上げた。その経営手腕を買われて、彼は東京電燈会社の経営改革にも起用された。

(参考資料)邦光史郎「剛腕の経営学」、小島直記「福沢山脈」

下村彦右衛門・・・「現金正札販売」をモットーに成功した大丸の始祖 

 大丸百貨店の始祖、下村彦右衛門は、京都伏見で生まれた。下村家はもともと摂津の国、山田村の郷士の出身だと伝えられているが、祖父の代には伏見の町で古着問屋を営んでいた。当初、曽祖父の住んでいた河内を記念して、“河内屋”を屋号としたが、祖父が京の五山の送り火、大文字に魅せられ“大文字屋”と改称した。祖父・久左衛門の三男・三郎兵衛が二代目を継いだが、これが彦右衛門の父だ。三郎兵衛の子供たちのうち、長男が早死にしてしまったので、次男の長右衛門が跡を継いだが、彼は優柔不断で怠け者だった。そのため家運は次第に傾いていった。元禄12年(1699)頃のことだ。

大文字屋は京都の色街の一つ、宮川町に質屋と貸衣装の店を出した。三男彦右衛門は父の言いつけで、この店を手伝った。彼は人並み外れて背が低かった。そのうえ頭ばかり大きくて、福助人形そっくりだと、人にからかわれたが、じっと我慢して、いつもニコニコと人に接した。19歳になった頃、彦右衛門は祖父の跡を継いで古着屋を引き受けた。毎日、大風呂敷に古着を包んで背に負うと、とことこと京都の市中まで運んで行って売るのだ。それは実入りが少ない割に、辛くて果てしのない労働だった。休みなく働き続けて23歳のとき、勧める人があって村上光と結婚して、一男をもうけたが、5年後に離婚している。

享保2年(1717)、苦労の末、伏見の一隅に小さな店を開いた。これがいわば大丸の誕生だった。そのとき、壁に掛かった柱暦に記されていた文字をヒントに、○の中に大と書き、これを商標とすることに決めた。○は宇宙を表し、大は一と人とを組み合わせたもので、それなら天下一の商人を意味することになると彦右衛門は解釈した。

彼は店の者を集めてよく教え諭した。“商人は諸国に交易して、西の産物を東に流通させ、北の商品を南に送って、生活の資を商い、それによって自分も応分の利を得て、その身を養うものである。だから決して自分の都合中心に考えてはいけない。必ず世間のためになり、人様の生活に役立つ品を商わなくてはならん。世のため人のためになってこそ、はじめて商いが発展するのである”

「現銀正札販売」、それが彦右衛門の商法の中心だった。享保11年(1726)、彼は大坂の心斎橋に共同出資の店を出し、2年後には名古屋店、続いてその翌年には京都柳馬場姉小路に仕入店を開設した。当時の商人は、「江戸店持京商人」といって、江戸に販売店を開いて、京都に本店あるいは仕入店を置くことを理想としていたからだ。これは人口100万人と世界一、二の人口を擁しながら、江戸はその半数が武士階級で、その他にも職人や商人が多く非生産者がほとんどを占めていた。そこで一大消費地江戸に販売店を開いて、当時最大の呉服の生産地京都に仕入店を置くというのが商人の理想とされていたのだ。

 現金掛け値なしという正札販売は先輩の三井越後屋が最初に行ったものだが、
大丸屋の彦右衛門はいいことを見習うのに遠慮は要らないとばかり、大いにアイデアを模倣した。三井越後屋の貸し傘宣伝法もちゃっかり取り込んで“大丸マーク”入りの傘を雨の日に貸し出して、江戸の街々に大丸印の傘を氾濫させた。神社や寺院に手拭いを寄進して、手洗い場に吊るしてもらった。

店員には賭け事を一切禁じていたが、お客には福袋を売り出して、一等賞に振袖を賞品として進呈した。こうした才智と才覚による新商法は大いに当たって、大丸はやがて江戸でも評判の呉服商店の一つに加えられた。

 大丸は繁栄に繁栄を重ねたが、創業者の下村彦右衛門はまだ56歳だというのに、早くも隠居を宣言した。50代から先は大丸屋の運営を支配人に託して、彦右衛門は半ば隠居の心境だった。茶の湯や謡曲を楽しみつつ、もっぱら家訓をつくって子孫への戒めとしようとした。
彼はたとえその人が目の前にいなくても、得意先を呼び捨てにするようなことを許さなかった。客に上下をつけるな、たとえ子供が買いにこようとも、大名がこようとも同じく客として扱うべし、目先だけの商いを決してするなと戒めた彦右衛門は、商いに誇りを持っていた。
(参考資料)邦光史郎「豪商物語」

                   

高島屋飯田新七・・・百貨店・高島屋の始祖、屋号は滋賀県高島郡から

 幼名を鉄次郎といった新七が越前敦賀の生家を出て、京都三条大橋東入ルの角田呉服店に丁稚奉公したのは文化11年(1814)、12歳の時だった。新七は明けても暮れても呉服の荷を背負って大津、膳所、草津と近江の町々を行商に歩いたが、思うように売れなかった。主家も衰運とみえ、新七が奉公して3年足らずで、遂に主家は倒産してしまった。

そこでまた別の呉服屋に再就職して、コマネズミのようによく働いた。すると捨てる神あれば拾う神ありで、烏丸通松原上ルに米屋をしていた飯田儀兵衛が、よく働くというので目をかけてくれた。そして、新七を婿養子に迎えたいと申し込んできた。飯田儀兵衛は、滋賀県高島郡の出身なので屋号を高島屋と称していた。そこで、新七は飯田姓を名乗り、高島屋の後継者となった。
 
 養子になった翌年、隣家に空き家ができたのをきっかけとして、古着屋を開くことにした。このとき、彼はこれまでの奉公で貯めた2貫500匁で店を借りたり補修を済ませたりしたので、仕入れのカネがなかった。やっと店はできたが、並べる品物がないと考え込んでいる夫の前へ、妻・お秀はたんすの引き出しを開いて、嫁入用の着物を差し出した。「これを並べておいてください」と。着物は四季それぞれ一着あれば間に合います。それにまたいつか買って頂けるでしょう。それまでどうかこれをお店に並べて売ってください-という。

お秀は跡取り娘だというのに、よくできた妻だった。それ以来、彼は仕入れてきた古着や綿服を肩にして、また江州通いを始めた。それは昔の姿と変わらなかったが、以前はただの奉公人、いまは小さくても一家の主だった。彼はその頃、四つの戒めを考えて、信条とした。

その一、確実な品を廉価に販売して自他の利益を図るべし。
その二、正札掛値なし。
その三、商品の良否については、明白に顧客に告げ、いささかも虚偽あるべからず。
その四、顧客の待遇はすべて平等にして、いやしくも貧富貴賎によりて差をつけるべからず。

客の選り好みをせず、誠実第一を心がけるべしと、彼は自らに言い聞かせた。
 天保元年(1830)、烏丸通松原上ル西側、北から3軒目の借家を、家賃月1歩 2朱200文で借り受けた新七は、10年目の再出発を図った。この店が、いわば 今日に至る高島屋の出発点となったものだが、この店を彼は3年ほどで買い取 った。時の老中水野忠邦が節約政策を打ち出した頃のことだ。新七は早朝の6 時に大戸を開いて、一家揃って掃除に励んだ。そのため高島屋よく気張るとい って評判を呼んだ。この評判がやがて信用のもととなった。古着を主体とした 商いは1年、1年と信用がつき顧客も増えていって営業規模が大きくなってきた。 嘉永4年(1851)、娘のお歌に婿養子を迎えた。花婿は寺町今出川に住む上田家 の次男直次郎で、少年期から呉服商に奉公していた実直な26歳の青年だった。 養父となった初代新七はこのとき50歳、直次郎は新次郎と改名して、新七とと もに家業に精を出した。

 時代は幕末、大きく変わろうとしていたときだった。新七父子は、いろいろ 世間の声を聞いた結果、高島屋は木綿と呉服を扱うことにした。新次郎は仕入 れのため北河内、中河内と歩き回り、現金払いで木綿地を買い求めた。仕入れ 現金払いが新七の方針だったが、現金払いは資金の手当が大変だった。また、 幕府の土台が揺らぎ始めた時期でもあり、なかなかモノが売れない時代に突入 していた。

 文久3年(1863)、薩摩・会津藩と長州藩との間で激しい戦闘となった「蛤御 門の変」のあおりで大火災に遭った飯田新七一家はまず家財道具を本圀寺へ運 んだ。二代目の新次郎は丁稚たちを督促して、土蔵内に全商品を運び込んだ。 一晩中続いた火災の翌日、焼失町は811町に上り、京都の中心部の大部分が焼 け野原と変わっていた。ところが、新七の指示で土蔵の中央に風呂桶を据えて 水を張り、要所要所に水を満たした四斗樽を何本か配しておいたのが奏功、土 蔵も商品も無事だった。

高島屋は土蔵前に急ごしらえの店をつくって、焼け残った衣料品を売り出し
た。すると着の身着のままの人もおおかったから、あっという間に売れ、二代目が大量に買い込んで困っていた木綿地も含め売れに売れた。初代63歳、二代目39歳のことだ。

 二代目は53歳の働き盛りで急逝したが、二代目夫人の男勝りの見識と統率力 によって、高島屋は存亡の危機を切り抜け、この後、明治時代の呉服商として 見事に発展していった。

(参考資料)邦光史郎「豪商物語」
                   

高田屋嘉兵衛・・・蝦夷地開拓のため幕府御用を勤め、漁場開く

 高田屋嘉兵衛(幼名は菊弥)は明和6年(1769)、わずかな田畑を耕す貧農の家に生まれた。彼が生まれる200年以上も前のことだが永禄年間、先祖は武士だった。昔は武家のなれの果てというわけだ。父の弥吉は病弱で、その割には子だくさんだった。嘉兵衛を頭にして嘉蔵、善兵衛、金兵衛、嘉四郎、嘉十郎と男子だけ数えても6人いた。

 嘉兵衛は村医について文字を学び、12歳の頃、家を出て都志浦の和田喜十郎に奉公した。遠縁にあたる和田屋はいわば万屋で日用雑貨から魚に至るまで、売ったり買ったりと商売を実地に学ぶことになった。そのうえ、漁業も教えられた。後に彼が示した商才や漁師としての腕前はこの時代に培ったもので、何事もおろそかにしないで、よく学びよく働いた彼の努力が、後に大きな果実を結んだ。
嘉兵衛は10年後の22歳になった時、摂津兵庫の湊へ転職することになった。そこに母方の親類で樽廻船の船頭堺屋喜兵衛が住んでいた。喜兵衛は喜十郎の弟で、妻は嘉兵衛の母方の伯母にあたっていた。そこで、嘉兵衛は海で働くことを決意、義理の伯母に頼んで樽廻船の船子(水夫)となった。頭がよくて機転の利く嘉兵衛のこと、たちまち認められて、寛政7年(1795)、27歳にして和泉屋伊兵衛の船を預かる沖船頭となっている。

 しかし、彼の望みは高い。北前船を持つような船持ち船頭になりたいものだと。そのためには金が要る。彼は沖船頭の職をやめると、熊野灘へ出かけていって鰹を獲った。これを消費地、大坂へ持っていって売った。商才のある彼は3年ほどの間に500両の金を貯めた。さらに、北前船の船頭になった彼は酒田港で六代目栖原角兵衛と知り合い夢を語るうち、新造船を担保として1500両もの大金を借り受けられることになる。早速、酒田港の造船業者に発注して、1500石積みの大船、辰悦丸をつくりあげる。

 栖原角兵衛の勧めもあって嘉兵衛は新興の箱館へ進出、同地の廻船業者、白鳥屋と組んで兵庫から運んで行く物産の売りさばきを任せる。その後箱館に支店を開いて、弟の金兵衛を支配人として派遣、わずか2年のうちに持ち船も5隻に増え、いよいよ高田屋の看板を掲げて海運業者の仲間入りを果たした。

 この頃、ロシアの南下に対応して、幕府が蝦夷地の地理や現地の事情調査のために、まずエトロフ島への案内役として高田屋嘉兵衛を起用することを決める。このとき、幕府の蝦夷地勘定役、近藤重蔵と知り合った。重蔵30歳、嘉兵衛32歳のことだ。享和元年(1801)、幕府は嘉兵衛に微禄だが3人扶持を与え、蝦夷地御用船の船頭(船長)とした。これは公儀(幕府)御用という金看板を与えたことを意味する。こうなると一商人として交易のために蝦夷地を航海するというだけでなく、常に幕府の威光を背負っていることになって、その威力は絶大だった。建造を願い出て許された2隻を含め、辰悦丸をはじめとする8隻の大船は、大砲こそ備えていないが艦隊のような威圧感を与えた。各船、日の丸と吹抜きとを帆柱に翻し、辰悦丸には嘉兵衛が、続いて弟の嘉蔵、金兵衛、嘉四郎、嘉十郎がそれぞれ大船の船頭となって、高田屋船団を組んでの北海遠征だった。こうしてエトロフに米、塩、木綿、漁具などの官物を運び込んだばかりか、十カ所の漁場を開いた。この年の夏、弟の嘉蔵は高田屋の持ち舟貞宝丸に、幕府の天文地理を担当している間宮林蔵を乗せてカラフトヘ赴いた。

 当時、幕府はロシア軍艦の南下に伴って、しばしば砲撃や襲撃を受けたので、カラフトに600名、千島のエトロフに1400名の仙台藩兵を送り込み、宗谷には会津藩兵900名が配備につくという物々しさだった。その翌年、間宮林蔵はカラフトから黒竜江下流へと調査旅行を試みて、カラフトが半島ではなく島であることを突き止めた。そのため「間宮海峡」と世界の地図にその名前と功績の跡を残すことになった。

 文化9年(1812)8月、ロシアの軍艦ディアナ号のリコールド副長はエトロフのシベフ漁場付近で、日本船を見つけて拿捕した。この650石積みの観世丸は高田屋の手船で、嘉兵衛が乗っていてエトロフで獲れた魚類を、箱館へ運ぶ途中だった。船員4人とともに嘉兵衛はカムチャッカへ護送された。彼らは極寒のシベリアでの越冬を余儀なくされ2人の船員を死なせたが、翌文化10年9月、2年余り前の文化8年(1811)6月千島沿岸で捕えたディアナ号艦長ゴローニン少佐との人質交換でようやく解決した。翌年幕府は再び蝦夷地定御雇船頭に命じた。

 しかし、カムチャッカの囚人生活ですっかり体調を崩していた嘉兵衛は、久方ぶりに兵庫の邸へ帰った。ここで療養し、50歳になったのを機に隠居を宣言して、故郷の淡路島に引き籠もった。幕府は彼の功績を賞して、年間70俵の知行を贈っている。これまで無理を続けてきた体にガタがきて病床に臥すことが多くなり、家業全盛がせめてもの慰めだったが、文政10年(1827)4月5日、都志本村の自邸で永眠した。59歳だった。そして、全盛を誇った高田屋も嘉兵衛の没後4年にして、ロシア船と密貿易をしたという疑いをかけられ没落。持ち船のすべてを没収されたうえ、金兵衛は箱館から追放された。

(参考資料)司馬遼太郎「菜の花の沖」、邦光史郎「豪商物語」、邦光史郎「物語 海の日本史」 
                    

茶屋四郎次郎・・・徳川家康と親しかった、京都三大富豪の一人

 茶屋家の当主は代々四郎次郎を称している。ここに取り上げるのは三代目清次だ。彼はとりわけ徳川家康と親しく、そんな間柄を示す様々なエピソードが伝えられている。1616年(元和2年)、大坂夏の陣で豊臣家を壊滅させ、ようやくほっとした徳川家康(75歳)。そんな家康が隠居する駿府(静岡)へ茶屋四郎次郎がやってきて、「近頃、都では何が人気じゃ」と問われた彼は、「天麩羅(てんぷら)」を紹介する。食通だった家康は、早速賄い方に申し付けて茶屋四郎次郎がいう、魚に衣をつけて油で揚げる、その鯛の天麩羅を食べる。そして、あまりの美味に思わず二枚も平らげてしまった。高齢の身でもあり、これが原因で胃腸を悪くし、この年、家康は他界したという。

 この頃の京都の三長者は角倉了以、後藤庄三郎、そして茶屋四郎次郎こと中島四郎左衛門明延(あきのぶ)の3人だった。明延の父、宗延(むねのぶ)は武士だったが、討死したため子の明延は大和へ引き籠って、商人を志した。大和の奈良芝という商人と親しくなって、その庇護のもとに商いの道に入ったといわれる。やがて四条新町のあたりに店を営み、そこへ足利将軍義輝が立ち寄って、茶を所望したので、茶屋の屋号が生まれたという。

明延の子清延の頃、徳川家に近づいて、その御用達となった。清延は家康に付き従って三方が原の戦い(1572年)、長篠の戦い(1575年)など53回も戦陣に参加、軍功もあったというから、商人というよりもう立派な武人だ。茶屋家は橘の家紋を用いているが、これは三方が原の戦いの後で、家康から褒美としてもらったものだ。清延は江戸へ入府した家康が目指した城下町建設に協力し、本町二丁目に屋敷を賜った。

 清延は天下の覇権取りを目指す家康の意を受けて、宮廷工作を行っている。長年にわたって勧修寺晴豊を窓口として宮廷にアプローチ、天皇の母に当たる新上東門院に取り入っていた。また、彼は豊臣秀吉に取り入って、朱印状を手に入れ、安南(ベトナム)国・南部の交趾(こうち)地方との海外貿易にも取り組んだ。普通、オーナー自ら船に乗り込むようなことはないが、武人であり商人という彼は自ら指揮して朱印船に乗り込んだ。

 1582年(天正10年)、織田信長が明智光秀に弑逆された、本能寺の変をいち早く家康に告げたのも清延だった。そして家康を、冷静に危機を間一髪で脱出させたのも、彼の武略と機転に富んだ的確な指示だったという。そんな茶屋四郎次郎の名声は高いが、その活躍期は意外に短かった。1596年(慶長元年)清延は享年52歳をもって世を去っている。病によるものか、何の記録も残っていない。死後、その子清忠が後を継いで二代目と称したが、まだ結婚もしないうちに病死して、その跡は弟の又四郎清次が継ぐことになった。それが三代目茶屋四郎次郎だ。

 茶屋四郎次郎は四代、五代と、代々四郎次郎を名乗っていた。ただ、その中でも家康の信任を得て、海外に出かけるほどの大きな商いをしたのは三代目清延と五代目清次だった。通称を又四郎といった清次は、1585年(天正13年)、清延の次男として生まれ、兄清忠が二代目を継いだが、病弱のため1603年(慶長8年)に死亡したので、清次が三代目を襲名することになった。彼は当初長崎奉行だった長谷川左兵衛藤広の養子となって、長崎へ行っていた。そこで彼もまた純粋な商人というより、武人にして商業に従事した者といってよく、武士として交易や長崎の監察業務に携わっていた。商人としては茶屋四郎次郎を、武人としては中島四郎二郎を名乗って、茶屋家の当主たちは巧みに武人の顔と政商の顔を使い分けている。1614年(慶長19年)、大坂冬の陣では家康の陣営に侍して御用を務め、和平工作のため大坂城へ入ったという。この年、家康の命で長谷川の養子という身分を離れた清次は、茶屋家三代目の当主となって、三代目茶屋四郎次郎を襲名した。

 清次は生糸の輸入と販売をする糸割符仲間の代表となった。彼は家康の側近に仕えて立場を固めて得た、この特権によって財を成した。彼は一般商人と違って、武士として生活しながら特権商人として稼いでいたのだ。さらに、生糸や呉服だけでなく、軍需品や武器も扱っていたともいわれる。しかし、1622年(元和8年)、彼は37歳という若さで世を去ってしまった。そこで長男の道澄が後を継いだが、その日から茶屋の凋落と縮小が始まった。

(参考資料)邦光史郎「豪商物語」、永井路子「にっぽん亭主五十人史」

奈良屋茂左衛門・・・一代で三井高利の2倍の資産を築いた元禄期の豪商

 奈良屋茂左衛門というと、彼がまだ商人としては駆け出しの頃、日光東照宮の修復工事にからんで、町奉行の権力をバックに利用し、大店の木曽檜問屋を巧妙な策略にかけ、ひとかどの材木商に伸し上がったという逸話がある。この話の真偽は定かではないが、商人にとって度胸や度量の大きさが必要だということが痛感させられる。

 奈良屋茂左衛門の生涯は、同時代の豪商、紀伊國屋文左衛門と同様、ほとんど定かではない。だが、『江戸真砂』はじめ各種の史料を総合すると、およそ次のようなことが分かる。茂左衛門は江戸霊岸島の裏長屋に住む車力の子供だといわれ、また材木の小揚げ人足の子供という説もあるが、はっきりしない。

生来の利発者で、そのうえ字も上手だったので、宇野という材木屋に雇われ勤めていたが、28歳のとき独立してわずかばかりの丸太・竹などを置く小さな店を開いた。ちょうどそんなとき、1683年(天和3年)、日光大地震があり、東照宮修復工事と関連して御用檜の入札があった。

 この入札で茂左衛門は見事に一大出世のきっかけを掴む。当時、江戸茅場町に柏木という木曽檜問屋があって、御用木の規格に合うような檜の良材をほとんど独占していたので、応札者はみな柏木家を頼って相場の倍ほどの値段を入れたが、茂左衛門一人は大胆にもその半値で入札した。当然、札は茂左衛門に落ちる。彼は翌日、できる限り立派に衣服を整えて柏木家に行き、事情を話して檜材を分けてくれるように頼むが、柏木家の方は、材木の手持ちがないと、彼の頼みを断る。

 ここからが度胸と知恵のみせどころだ。柏木家の出方を予期していた茂左衛門はさっそく町奉行所に出頭。柏木家が檜材を買い占めていて、日光修復の御用木にとワケを話して頼んでも、品物がないといって分けてくれないので、何とかしてほしい-と訴え出たのだ。奉行所の召し出しにはゼロ回答というわけにいかず、柏木家はようやく20~30本の檜材を渡した。

しかし、それくらいではどうにもならないことから、茂左衛門は再び奉行所に行き、町役人を案内して、かねがね調べておいた柏木家の貯木場に行き、そこにあるだけの檜材に全部刻印を打ってしまった。その数が御用材入用分よりはるかに多かったので、不届き千万というので柏木家は闕所(家財没収)のうえ、主人・太左衛門は伊豆の新島へ、手代は三宅島・神津島へそれぞれ流罪になった。
こうして、まんまと茂左衛門の思惑通りの流れになって、彼は出世の糸口を掴んだのだ。彼はその檜材で無事、日光御用を務め、それでもなお残木が金高にして2万両ほどあったという。まさに、度胸と知恵あるいは、人間的な器量の大きさがこうした幸運を呼び込んだといえよう。

 柏木太左衛門は7年後に許されて島から帰るが、自分を陥れた茂左衛門が盛大にやっているのを見て、よほど悔しい思いをしたのか、恨みに思ってのことか、食を断って死んでしまった。そのため日光御用材の代金も受取人がなく、自然に茂左衛門のものとなり、ますます奈良屋は盛んになったという。
 この話の真偽のほどは定かではない。ただ、元禄期に奈良屋茂左衛門が、名前の知られた大材木商になっていたことは、史実にある。徳川林政史研究所には、茂左衛門が津田平吉を願い人に立てて、尾張藩に木曽檜材都合3100本を金2万3146両2分余で払い下げてくれるよう願い出た史料が残っている。

 茂左衛門は1714年(正徳4年)に死ぬが、一代で築いた資産は総額13万2530両と、9000両ほどの道具類だ。これは銀に換算すると約9100貫目となり、単純比較すると、三井高利の遺産の2倍を上回る巨大な金額となる。ただ、この間に通貨改鋳があるので、正確な比較は難しい。
 茂左衛門はこれを妻・総領・二男・親類・家来出入りの者の五者に配分している。そして遺言状の中で、たとえ手代がどんなに勧めても、商売事や公儀事には一切手を出さぬよう、また店賃や金利がかなりあるはずだから、その半分は火事などの非常に備え、残る半分で無駄を省いて質素に生活するように-と指示している。

しかし、『奈良茂旧記』によると、この指示にもかかわらず、この巨額の遺産はその子供と孫との二代でほぼ使い果たし、父から譲られた1万5000両もする屋敷も手放している。あの世の茂左衛門にとっては、不肖の子供たちよ-と、歯ぎしりする思いだったに違いない。皮肉にも、この屋敷を買い取ったのは三井八郎右衛門だった。

(参考資料)大石慎三郎「徳川吉宗とその時代」