伊予親王 濡れ衣で叛逆の首謀者に仕立てられ、無念の死を遂げた皇子

伊予親王 濡れ衣で叛逆の首謀者に仕立てられ、無念の死を遂げた皇子

 伊予親王は、第五十代・桓武天皇の第3皇子で、父の寵愛を受け式部卿、中務卿などの要職を歴任し、政治家としての素養も持っていた。ところが、皇位継承を巡る貴族との抗争に巻き込まれ、謀略にはめられ、叛逆の首謀者に仕立てられてしまった。そのため、伊予親王は幽閉先で飲食を断ち、親王の地位を廃された翌日、自ら毒を飲んで、悲劇的な最期を遂げた。

 伊予親王の生年は不詳、没年は807年(大同2年)。母は藤原南家、藤原是公(これきみ)の娘、吉子。伊予親王は792年(延暦11年)元服し、四品(しほん)となり、次いで三品、式部卿(しきぶきょう)、中務卿(なかつかさきょう)などの要職を歴任した。政治家としての素養を持ち、管弦もよくし、父・桓武天皇の寵愛を受け、804年(延暦23年)には近江国(現在の滋賀県)蒲生郡の荒田53町を与えられた。806年(大同元年)、中務卿兼大宰帥に任ぜられている。

 ところが、翌807年(大同2年)伊予親王はいきなり、謀反を企てた首謀者として、母・吉子とともに大和国の川原寺(かわらでら、奈良県高市郡明日香村)に幽閉された。後世、「伊予親王の変」とも称されるこの事件は、背景に皇位継承を巡る貴族との抗争があり、実は後に分かったことだが、伊予親王が陰湿な謀略にはめられたものだった。母・吉子の兄・藤原雄友(南家)は大納言として、右大臣・藤原内麻呂(北家)に次ぐ台閣No.2の地位あり、政治的にも有力な地位にあった。そんなとき、伊予親王は異母兄・平城(へいぜい)天皇の側近だった藤原式家・藤原仲成に操られた藤原宗成に謀反をそそのかされた経緯を、平城天皇に報告した。

 そこで、朝廷は藤原宗成を尋問したところ、宗成は伊予親王こそ首謀者だと自白したのだ。そのため、母・吉子と子・伊予親王は逮捕された。二人は身の潔白を主張したが、聞き入れられず川原寺(弘福寺)に幽閉された。絶望した母・子は飲食を断ち、親王の地位を廃された翌日、自ら毒を飲んで、悲劇的な最期を遂げた。伊予親王には3人の王子女があったが、同親王が自害した後、いずれも遠流となった。また、この事件を仕掛けた貴族たちも当然、重い処罰を受けた。藤原宗成は流罪となり、伊予親王の伯父、大納言・藤原雄友も連座して伊予国に流された。このほか、この事件のあおりを受けて中納言・藤原乙叡(南家)が解任された。

 こうして無念の死を遂げたこの母子は怨霊となった。当時は恨みを抱いて亡くなった人物の御霊は、怨霊になると堅く信じられていた。このため、二人を死に追い込んだ平城天皇は、この怨霊に悩まされ続け、怨霊から逃れるため遂に同母弟の神野親王(嵯峨天皇)に皇位を譲るまでに追い込まれた。

 819年(弘仁10年)、伊予親王の無実が判明すると、遠流となっていた3人の王子女は嵯峨天皇により、平安京に呼び戻された。そして、没収されていた同親王の資産も王子女に返還された。863年(貞観5年)に催された神泉苑での御霊会(ごりょうえ)では、この母・子ともに祀られた。怨霊を鎮め、怨霊から逃れるには、そうするしか術がなかったのだ。

(参考資料)北山茂夫「日本の歴史④ 平安京」、永井路子「王朝序曲」、笠原英彦「歴代天皇総覧」

安徳天皇 平家とともに壇ノ浦で二位尼・時子に抱かれて入水した幼帝

安徳天皇 平家とともに壇ノ浦で二位尼・時子に抱かれて入水した幼帝

 安徳天皇は、高倉天皇を父、平清盛の娘で中宮の徳子(建礼門院)を母として生まれた。安徳天皇は平氏の政治的台頭の、いわば切り札だった。しかし、あまりにも幼い身で即位させられ、そして総帥・清盛の死を機に、不運にも坂を転げ落ちるような平氏の退潮期が重なった。その結果、悲しいことに幼帝の最期は、平清盛の妻、二位尼・時子(ときこ)に抱かれて入水、壇ノ浦の藻くずと消えた。在位5年、わずか8年の生涯だった。安徳天皇の生没年は1178(治承2)~1185年(寿永4年)。

 安徳天皇は、高倉天皇の第一皇子。諱は言仁(ときひと)。生後まもなく親王宣下を受け、立太子した。1180年(治承4年)、父、高倉天皇の譲位を受け即位した。1179年(治承3年)11月以降、後白河院は幽閉され、院政は停止されていたから、即位は清盛の意向を具体化したものにほかならない。父・高倉天皇11歳、母中宮・徳子17歳が結婚し、5年後に安徳天皇が生まれたとき、清盛は太政大臣を辞して入道だった。清盛入道にとってはこの男の子(孫)をなるべく早く帝位に就け、自分は外戚として後見する。それが理想の形だった。それによって、平家全盛の時代が当分続くはずだった。

 ところが、将来そのキーマンになるはずだった安徳天皇にとって、不運な点が二つ起こってしまった。一つは父・高倉上皇が21歳の若さで亡くなったことだ。そして、もう一つ、その父の死からわずか一カ月後、祖父・清盛が病死してしまったことだ。父・高倉上皇は実父の後白河法皇と、舅の清盛との仲がうまくいかず、後白河、清盛ともタフな人物だっただけに、二人に挟まれてノイローゼ気味だったといわれる。それでも、健在なら息子のために精神的な面でのサポートはできたはずだ。

 安徳天皇にとって、何より不運だったのは想定外の清盛の早い死だった。「清盛死す」の報に、源氏勢力は即、平氏打倒の好機到来と捉え、その動きが加速した。木曽義仲の挙兵、源頼朝の伊豆における挙兵。そして、やがて源義経・範頼の鎌倉軍が京へ攻め上ってくる状況が迫り、平家は都を落ちて西へ-。

 こうなると、どうしても考えたくなるのが、清盛が健在なら歴史はどう動いたかということだ。あと5年生きていたら、平氏のこんなに早い都落ちはなかったろう。源氏勢力にとって、また朝廷内部においても平氏の権勢の時代に嫌気がさしていても、大っぴらに平家を批判あるいは非難することはできなかった。それほどに総帥・清盛の存在は大きかったのだ。

 ある日、予想以上に早く清盛が亡くなり、そんな重しが取れたとき、平氏には清盛に代わる、統率力のある後継者がいなかったというわけだ。そして、何より不幸だったのは、平氏は武家でありながら官人たちはじめ、いずれも貴族化し、戦いに望む気概に欠けていた。それにしても、平氏は三種の神器を持ち、いくらよちよち歩きとはいえ、安徳天皇という日本の象徴を擁し、雅な衣装を身にまとった女性たちをはじめ、各ファミリーまでを含む混成軍を率いていくわけだから、これは大変な大移動だったと思われる。こんな布陣で、戦士の軍団と戦おうというのは、やはり無理がある。

 安徳天皇が、例えばあと五歳ぐらい年かさで13歳の、自分の意志をはっきりいえる立場にあったら、彼はどのような言葉を発しただろうか。あるいは京の祖父・後白河院を動かし、源氏勢力に対する牽制、そして平氏の名誉ある撤退へ導くような動き方を模索したのだろうか。成人といえないまでも、分別のつく年齢に達していれば、死に赴いて何か言葉が残っていても不思議ではないが、幼少の安徳天皇の場合、その種の史料は全くない。壇ノ浦の戦いでもういよいよ平家がダメだというときに、二位尼・平時子に抱かれた幼い安徳天皇が海に飛び込む直前、「どこへゆくの?」と聞く。そんな言葉が語り継がれているだけだ。これに対し、時子は「海の底にも都があり、ババがお伴するから行きましょう」と答え、真っ先に飛び込み、安徳天皇ともども浮かんでこなかったという。“不運の幼帝”というほかない。

(参考資料)笠原英彦「歴代天皇総覧」、永井路子「波のかたみに」、杉本苑子「平家物語を歩く」

 

 

 

 

 

 

 

安積親王・・・藤原一族による“排除の標的”となり、毒殺?される

 安積親王(あさかしんのう・あさかのみこ)は、都が奈良・平城京にあった時代、皇太子の基皇子が亡くなった年に生まれ、聖武天皇の唯一の皇子で皇太子の最有力候補のはずだった。だが、当時権勢を誇った藤原氏によって退けられ、あっけなく17歳の若さで死去した。死因は定かではなく、藤原仲麻呂に毒殺されたという説もある。いずれにしても、藤原氏の意向がその死と深く関わり、その背景にあることだけは確かだ。安積親王の生没年は728(神亀5年)~744年(天平16年)。

 安積親王は聖武天皇の第二皇子として、幼少の皇太子・基皇子が亡くなった年に生まれた。そのため聖武天皇の唯一の皇子であり本来、彼は皇太子の最有力候補のはずだった。ただ一点、問題があった。わずか一点だがそれが極めて大きな、死命を制する問題だった。彼の母が県犬養広刀自(あがたいぬかいのひろとじ)で、当時、揺るぎのない権勢を誇った藤原四卿(武智麻呂・房前・宇合・麻呂)の氏族の出ではなかったことだ。

 当時、藤原氏の権勢がいかに強大だったか。臣下の身分で異例にも皇后となった光明皇后との間にもうけられた聖武天皇の第一皇子、基皇子は生まれて間もなく立太子している。その基皇子は夭折したが、738年(天平10年)、光明皇后を母に持つ阿倍内親王(後の孝謙・称徳天皇)が立太子されたのだ。史上初の女性皇太子の誕生だ。藤原氏にはそれまでのルールや慣例を無視し、あるいは覆して、内親王をゴリ押しで立太子させるだけの権勢があったわけだ。唯一の皇子=安積親王の存在も容易に退け、有無を言わせないだけの、圧力をかける力があったといわざるを得ない。

 とはいえ、藤原氏にとって安積親王の存在は目障りだったことは間違いない。それまでのルールや慣例に従うならば当然、唯一の皇子(安積親王)が即位することになる。それでは、藤原氏の血をひかない天皇が誕生することになる-との思いだ。そうした心配のタネは、一日も早く摘み取っておかなければならないというわけだ。

それだけに、藤原一族は虎視眈々と安積親王を“始末”する機会を狙っていたのだ。744年(天平16年)閏1月11日、聖武天皇は安積親王を伴って難波宮に行幸する。その際、安積はその途中に桜井頓宮で脚病になり、恭仁京(くにきょう)に引き返すが、2日後の閏1月13日、17歳の若さでその生涯を閉じたとされている。詳細は定かではないが、そのとき恭仁京の留守を守っていたのが藤原仲麻呂であり、その仲麻呂に毒殺されたという説もある。それほどあっけない死で、いずれにしても藤原氏がその死にからんでいる可能性が高い。

 藤原氏の謀略で起こされた冤罪事件「長屋王の変」、そして大宰で起こった「藤原広嗣の乱」など血なまぐさい権力闘争が繰り広げられた時代。次代を背負う存在だったはずの安積親王の実像は、なかなか見えにくい。史料そのものが少ないのだ。『大日本古文書』によると、736年(天平8年)、すでに斎王になっていた姉の井上内親王のために写経を行い、743年(天平15年)には恭仁京にある藤原八束の邸で宴を開いていることが記されている。この宴には当時、内舎人だった大伴家持も出席し、そのとき詠んだ歌が『万葉集』に残されている。

(参考資料)杉本苑子「穢土荘厳」、永井路子「悪霊列伝」、小和田哲男「日本の歴史がわかる本」、井沢元彦「逆説の日本史・古代怨霊編」

大伴家持・・・藤原氏との対立の中で死後も含め時代に翻弄された人生

 大伴家持は「万葉集」の編纂に大きく関与し、「万葉集」に収められた作品も最も多い奈良時代後期の代表歌人・政治家だ。半面、彼の生涯は時代に翻弄される、波乱に満ちたものだった。家持の赴任地の足跡をみると、南は薩摩から北は陸奥多賀城まで、当時の日本国のほぼ両辺に及ぶ。いかに地方生活が長かったかを物語っている。

名門大伴氏の家名を挽回しようと意欲に満ちた、誇り高い青春時代から、大伴・藤原両氏対立の中で政争に巻き込まれて、失意の中年期を経て、晩年の復活と、死後の一族の悲惨-。信じがたいことだが、死後、家持はある事件に連座させられて、806年(大同1年)まで官の籍を除名されていたのだ。生没年は718(養老2)~785年(延暦4年)。古代、名門豪族だった大伴氏の本拠地は、大和盆地東南部(橿原市・桜井市・明日香村付近)だったらしく、皇室・蘇我氏の本拠と隣接する。

 大伴家持は大納言大伴旅人の長男、大納言大伴安麻呂の孫。母が旅人の正妻ではなかったが、大伴の家督を継ぐべき人物に育てるため、幼時より旅人の正妻、大伴郎女(いらつめ)の佐保川べりの屋形で育てられた。だが、その郎女とは11歳のとき、父の旅人とは14歳のとき死別。さらにたった一人の弟、書持(ふみもち)とも29歳のとき死別している。いずれにしても、大伴氏の跡取りとして貴族の子弟に必要な学問・教養を早くから、みっちりと身につけさせられていた。

しかし、出世の道は遠かった。745年(天平17年)にやっと従五位下。751年(天平勝宝3年)少納言。その後、長い地方生活を経て770年(宝亀1年)民部少輔、左中弁兼中務大輔、21年ぶりで正五位下に昇叙した。そして諸官を歴任して781年(天応1年)、右京大夫兼春宮(とうぐう)大夫となり、785年(延暦4年)中納言従三位兼春宮大夫陸奥按察使鎮守府将軍となった。長かった不遇の時代を経て、家持にもようやく春が巡ってきたかにみえた。しかし、彼にはもう残された時間はなかった。同年、任地先の陸奥で、68歳で病没したのだ。

 ところが、これで終わりではなかった。死者に鞭打つ残酷なできごとが起こったのだ。家持の死後20日、葬儀も終わらぬうちに、彼は藤原種継暗殺事件の首謀者とされ、除名・官位剥奪・領地没収のうえ、その遺骨が跡取りの永主とともに隠岐に流されるという事態に発展したのだ。無茶苦茶な裁きだったといわざるを得ない。冤罪などというものではない。藤原氏の謀略にはめられてしまったわけだ。そして、家持が晴れて無罪として旧の官位に復したのは、21年後の806年(大同元年)のことだ。

 「万葉集」の中で、大伴家持の作品は最も多く、長歌46、短歌425(合作首を含む)、旋頭歌1首、合計472首に上り、万葉集全体の1割を超えている。ほかに漢詩1首、詩序形式の書簡文などがある。防人歌(さきもりのうた)の収集も彼の功績だ。平安時代の和歌の先駆を成す点が少なくない。

(参考資料)梅原猛「百人一語」、小和田哲男「日本の歴史がわかる本」

足利義昭・・・うぬぼれ、過信が招いた足利最後の将軍のヘマ人生

 自分の力を過信し、オレが指示すれば世の中どうにでもなる-と思い込み、天下の策士を任じているが、実はその実力はゼロに近い。悲劇といえば悲劇、いや傍からみれば喜劇というべきかも知れない。そんな、うぬぼれの強かった人物が足利家の最期の将軍、足利義昭だ。

 足利義昭は、室町幕府の第十二代将軍足利義晴の次男として生まれた。母は近衛尚通の娘で、この女性は義昭の兄、義輝も産んでいる。父義晴は、義昭を仏門に入れることにした。仏門に入れば俗世との縁は切れるが、貴種として尊重され出世も早い。まして大寺院の勢力は、衰えた将軍家よりはるかに強かったといっても過言ではない。そこで、義昭は関白・近衛植家の猶子(養子扱い)として、奈良興福寺の一乗院門跡、覚誉(かくよ)の弟子として入門した。6歳のときのことだ。彼の弟、妹も後に仏門に入っている。こうして彼は覚慶(かくけい)と名を改め、30歳まで僧侶として日々を送ることになった。

 そんな彼の一生を一変させる事件が起こった。1565年(永禄8年)、29歳のときのことだ。父の後を継いでいた兄の第十三代将軍・足利義輝が松永久秀や三好三人衆のために暗殺されたのだ。覚慶は強大な力を持つ興福寺の保護下にあったからか、幸い殺されずに済んだ。しかし、彼は一乗院に監禁状態となり、行動の自由を奪われることになった。

 その後、義昭は前将軍の近臣だった細川藤孝らの手で救い出され、あちこち放浪の末、織田信長の支援を受けて、やっと都に戻って第十四代将軍となった。ところが、将軍になった彼は途端に、自分はオールマイティな人間だと思い込んでしまう。自分のことを都入りさせてくれた織田信長とも、瞬く間に仲が悪くなる。というのも信長は恩人だが、彼の態度からは将軍である自分に絶対服従してくれないと感じたからだ。

 そこで、義昭は信長を凌ぐ実力を持つ上杉謙信や武田信玄に、上洛して織田信長を討て-と頻繁に手紙を書くのだ。全く勝手気ままな人物としかいいようがない。ただ、こんな手紙が届いたからといって、海千山千の上杉や武田がそう簡単に動くはずもないのに、自分自身としては大いに権謀術数を尽くしたつもりになっているのは、少しこっけいでもあり、哀れでもある。

 結局、義昭は画策した“手紙”作戦が明るみで出て、怒った信長に都を追い出されることになる。そして、信長の在世中はとうとう帰京できなかった。柄にもない小細工をしたのが祟ったのだ。しかし、困ったことに彼自身は、案外そうは思っていない。自分が信長を制圧できなかったのは、頼みにしていた武田信玄、上杉謙信らが次々死んで、計画が実行に移せなかったからだ-としか考えない。だから、性懲りもなく別の大名に働きかける“手紙”作戦をやめなかった。

 怒った信長は遂に実力行使に出る。義昭は亡命した。いったんは紀州に逃れたが、やがて備後(広島県)鞆の港に落ち延びた。鞆の港は父祖尊氏が京都から追われたときに、院宣を得て南朝の新田義貞に対する討伐軍を挙げたところだ。いってみれば都落ちする足利家が再興のきっかけにした地域だ。義昭もそのことを知っていた。

 このうぬぼれやの、ほとんど実力のない将軍だからか、どうにもやること成すこと、少しずつピントが外れているのだ。だが、この義昭は強運の持ち主でもあった。“宿敵”信長が「本能寺の変」で明智光秀に殺されたために、彼は自分で手を下さずに、憎い信長を討つという望みを達したのだ。

(参考資料)井沢元彦「神霊の国 日本」、永井路子「にっぽん亭主五十人史」、

有間皇子・・・中大兄皇子の謀略にはめられ、謀反人に仕立てられ抹殺

 有間皇子は父・孝徳天皇の死後、次の天皇の候補者として浮かび上がり、結果的に「大化改新」の立役者であり、当時の事実上の最高権力者、中大兄皇子と対立。有間は謀略にはめられ、19歳の若さで処刑され、その生涯を閉じた。中大兄皇子の存在に脅威を覚え、狂人のふりをしてまで皇位継承争いから降りようとした有間だっただけに、狡猾に人を配して謀反人に仕立て上げられ、抹殺された最期は悲しく哀れをさそう。

 有間皇子は孝徳天皇の皇子で有力な皇位継承者の一人だった。孝徳天皇は中大兄皇子の母・斉明天皇の弟にあたり、中大兄皇子と有間皇子は従兄弟関係だった。640年、軽皇子(後の孝徳天皇)が小足媛(おたらしひめ)とともに有馬温泉に滞在中に生まれたので、皇子に「有間」と名付けたといわれる。有間皇子の生没年は640(舒明天皇12年)~658年(斉明天皇4年)。

 悲劇の序章は、中大兄皇子の強引な遷都要求を聞き入れなかった孝徳天皇および息子の有間皇子の一族だけを難波宮に残して、飛鳥に戻ってしまったことにあった。653年(白雉4年)、中大兄皇子が奏上して都を大和に遷そうとしたが、孝徳天皇は前年完成したばかりの難波長柄豊碕宮を放棄しようとせず、これを拒否した。

ところが、皇太子の中大兄は引き下がるどころか、母の皇極前天皇、妹・孝徳天皇の間人皇后、弟の大海人皇子らを伴って大和の飛鳥河辺行宮(あすかのかわらのかりみや)に遷った。そして、驚くことに公卿、百官らはみなこれに随行したのだ。皇太子・中大兄の独断専行に業を煮やした孝徳天皇が、威信をかけて拒否したわけだが、公卿・官僚たちは天皇ではなく、中大兄の顔色だけをうかがっていたのだ。

 孝徳天皇が無念の思いを抱き、寂しくこの世を去ってから、いよいよ孝徳天皇のたった一人の遺児、有間皇子に刻一刻、危機が迫る。そのため、18歳の有間は周囲の疑いを免れようと狂人を装ったといわれる。日本書紀にも記されていることだ。

 そして、運命の歯車が動き出す。658年、斉明天皇が中大兄皇子らとともに牟婁(むろ)の温泉(和歌山県西牟婁郡白浜町湯崎温泉)に行幸中のことだ。都に残って留守をあずかる蘇我赤兄が、有間皇子を訪ね、天皇の失政をあげつらい、挙兵、謀反するようそそのかす。これに対し、有間はこの謀略を見抜けず、赤兄の口車に乗せられて「わが生涯で初めて兵を用いるときがきた」などと応じた。そのため、赤兄に言質をとられる格好となり捕えられて、天皇のいる牟婁の温泉へ送られてしまった。

 紀の国へ護送される途中、有間皇子が詠んだ有名な句が二首ある。

 家にあれば 笥に盛る飯(いひ)を草枕 旅にしあれば 椎の葉に盛る

(歌意は、我が家にいれば器に食べ物を盛るのに、今は旅に出ているので椎の葉に盛っている)

磐代の浜松が枝を引き結び 真幸(まさき)くあらばまた還り見む

(歌意は、磐代の松の枝を結んだ 幸いにも無事に帰ることができたら、またこれを見よう)

 しかし、有間は藤白坂(和歌山県海南市藤白)で処刑された。19歳の若さだった。
 遠山美都男氏は、有間皇子を謀略に陥れられた哀れなプリンスと見做すのは大いに疑問として、実は有間皇子の大胆な挙兵計画があったとの説を打ち出している。斉明天皇らに牟婁温泉行きを勧め、天皇一族が都を留守にするという状況を意図的に作り出そうとしたのは有間自身だったという。そして、母の出身、阿倍氏が「軍拡」を推進し、有間皇子の背後にその勢力が結集していた。したがって、有間の挙兵計画も、船団を組織して淡路海峡を封鎖し、天皇一族の帰路を遮断するという大規模で実に用意周到なものだった-とかなり踏み込んだ説を提起している。こうして有間皇子は軍事行動を起こして、ライバルの中大兄皇子を倒し、斉明天皇に譲位を迫り、自ら即位しようと企てたとみるが、果たしてどうだろうか。現時点ではあくまでも少数派の仮説にすぎない。

 毎年11月、和歌山県海南市・藤白神社で若くして悲運に散った万葉の貴公子、「有間皇子まつり」が開催される。

(参考資料)杉本苑子「天智帝をめぐる七人」、神一行編「飛鳥時代の謎」、遠山美都男「中大兄皇子」