足利義視 兄・義政から九代将軍を約束されながら、反古にされた弟

足利義視 兄・義政から九代将軍を約束されながら、反古にされた弟

 足利義視(あしかがよしみ)は、兄の室町幕府の第八代将軍・足利義政に口説かれ、後継者に決まった。万一、この後、義政の正夫人(御台所)日野富子との間に男子が生まれても、絶対に後継者にしない。出家させる-という確約も得た。そのために、幕閣第一の有力者で宿老の細川勝元を後見人にも立てた。これで、義視の九代将軍職就任は決まったはずだった。ところが、皮肉なことに、彼が後継者に決まって一年も経たないうちに、義政の妻・富子は懐妊し翌年、男子を産んだのだ。これが後に正式に九代将軍になる義尚(よしひさ)だ。哀れ、後継者を約束されたはずの義視は結局、まだ赤ん坊の存在に振り回され、義政の「将軍留任」のまま、結論が先送りされ、人生を狂わされてしまったのだ。

 足利義視はもともと天台宗浄土寺門跡として出家して義尋(ぎじん)と名乗って、僧籍にあった。何事もなければ、彼は僧籍で生涯を終えるはずだった。それを、将軍の座を引退し、大御所として気ままに「趣味に生きる」ことを考えた兄・義政に、後継者にと熱心に、そして強引に口説かれたのだ。それでも義尋は最初のうちはその申し出を何度も断っていた。義政も富子もまだ若い。二人の間に、もし男の子が生まれれば、即、邪魔者になり約束は反古にされる-と怖れた。

 だが、義政が冒頭に述べたとおり、後継者を確約し、義尋の後見人として細川勝元を付けてくれたからこそ、彼は遂に決断し還俗して、義視と名乗ったのだった。しかし、義視にとってそれは悲劇の始まりだった。それは、すべて無責任で、優柔不断で、この後継問題を放置し先送りした、将軍の兄・義政のせいで被ったものだった。

 この場合、いずれにしても義政という日本の最高権力者が、その権限と地位をもって決断しなければならなかったのだ。それを、妻・富子が腹を痛めた実子を後継の将軍職に就けたいと願う、極めて強い富子の要請に遭って、彼は将軍職を降りるに降りられず、無責任にも、不本意ながら将軍に居座り続けることになったのだ。その結果、義視・細川勝元の東軍勢vs義尚・日野富子・山名宗全の西軍勢の、やがて京都を焦土と化した「応仁の乱」に突入していく要因の一つとなった。

 足利義視は、室町幕府第六代将軍・足利義教の十男として生まれた。今出川の屋敷に住んだため「今出川殿」と尊称された。諡号は道存。母は日野重光の娘、日野重子。第七代将軍・義勝、八代将軍・義政らは同母兄、堀越公方の足利政知は異母兄にあたる。義視の妻(正室)は日野重政の娘、富子の実妹・妙音院。子に十代将軍となった足利義材(よしき、後の足利義稙=よしたね)がいる。義視の生没年は1439(永享11)~1491年(延徳3年)。

 11年間にわたる「応仁の乱」後、美濃に亡命。甥の義尚と、兄・義政の死後、リベンジするように、あるいは還俗してからの不運続きの人生を取り戻そうとするかのようなはつらつとした動きをみせた。義視は、将軍後継争いで対立したはずの富子と、にわかには信じ難いことだが今度は結託して、子の義材を第十代将軍に擁立して、自らは大御所(後見人)として幕政を牛耳ったのだ。まさに、波瀾万丈の人生だった。

(参考資料)井沢元彦「逆説の日本史⑧中世混沌編」

足利義嗣 父・義満の皇位簒奪計画に翻弄され、波乱の人生送る

足利義嗣 父・義満の皇位簒奪計画に翻弄され、波乱の人生送る

 足利義嗣は、室町幕府の歴代将軍の中でもとりわけ権勢を誇った三代将軍・義満の次男で、四代将軍となった義持の弟だ。義嗣は父・義満に溺愛されたばかりに、嫡男以外は出家するという足利将軍家の慣例を曲げて、異例のことに還俗させられ、義満の皇位簒奪計画の道具にさせられた。そして挙げ句、義満の急死でその計画は頓挫。庇護者を失った、その後の彼は、波乱の人生を送る破目になったのだ。

 足利義嗣は父義満の次男として生まれた。幼名は鶴若丸。嫡男以外は出家させる慣例に従って梶井門跡に入室したが、父は1408年(応永15年)、定めを破って義嗣を還俗させた。ここから、足利義満による皇位簒奪計画がスタートする。足利義嗣の生没年は1394(応永元)~1418年(応永25年)。

 義嗣の父・義満は天皇家から種々の権力を次々と奪っていき、最後は自分が太上天皇(天皇の父)となり、妻を准母(天皇の母)として、自分の息子、義嗣に次の皇位を継がせる計画を立てた。そして、それは義満の法号「鹿苑院太上天皇」が決まり、妻(日野康子)を准母とするところまで、この恐るべき大胆極まる陰謀は、九分通り成功していたのだ。が、日本史に類例のないこの暴挙は義満の急死で挫折したということだ。

 今谷明氏は「義嗣の皇位は、後小松天皇に強要して禅譲に誘導するか、あるいは気長に後小松の病死を待つか、ともかく後小松から皇位を義嗣に移すというのが、義満のもくろみだったということは間違いあるまい」としている。

  1408年(応永15年)3月、義満が10年の歳月をかけて完成した北山第に後小松天皇が招かれた。この「接待」は約20日間続いた。そして、それからわずか1カ月後の4月、義満は義嗣の元服式を宮中で行ったのだ。前代未聞の“暴挙”だった。その格式は「親王元服」と同等だった。将軍の息子に過ぎない義嗣が、天皇の子「親王」と同じ格式で元服をする。もちろん、関白以下の公家の面々も頭を下げて列席しなければならないのだ。これは、明らかに「立太子」の儀式だったろう。

 皇太子になってしまえば、あとは天皇が何らかの理由で退位すれば、自動的に天皇になれるからだ。義満の側から、一方的で勝手な見解をいえば、邪魔者は消せばいいのだ。皇太子は次期天皇を約束された身だから、誰もこの継承に異議をはさめなくなる。

 ところが、義満はこの義嗣の「立太子式」のわずか6日後に突然発病する。そして、さらに5日後、一代の“怪物”足利義満はあっけなくこの世を去ってしまうのだ。文字通りの急死だった。病名は咳気(風邪)または流布病(流行病)ともいわれるが、はっきりしない。義満には持病はなく、日頃から健康で頑健な体を持っていたという記録があるのだ。いよいよ不可解で、その死は謎だらけだ。義満は暗殺されたのか、もっとリアルに表現すれば毒殺されたのではないか。

 井沢元彦氏は「暗殺説」を公言している。そして、直接の実行犯について同氏は大胆な推理を披露している。結論をいえば、義満暗殺の黒幕は内大臣・二条満基(みつもと)、そして実行犯にあの世阿弥を挙げている。当時、最高の知識人だった満基の祖父・二条良基は、かつて世阿弥の「家庭教師」でもあった。アレキサンダー大王が、家庭教師のアリストテレスに影響を受けたように、世阿弥は良基の影響を受けたはずだ。

 二条満基は「これは殺人ではない。天皇家を乗っ取ろうとする大罪人を成敗するのだ。正義であり、忠義だ」と考えたに違いない。しかし、朝廷の高官といっても公家の満基に、毒を盛ることなどできるはずもない。第三者に依頼したのだ。義満に毒を盛ることができるほど「近い」人物、そして二条家に深い恩義を感じている人物、それは世阿弥だ-と井沢氏。

 いずれにしても、義満が死んで「天皇家乗っ取り計画」が挫折したということは、再び大名連合の力が強くなったということだ。その代表が幕府の長老的存在の管領・斯波義将(しばよしまさ)で、彼が最初にしたことは天皇家が言い出した義満の尊号宣下(太上天皇号)を辞退したことだった。これには父・義満を嫌っていた四代将軍義持の意向もあったが、有力大名と足利家は対立する存在だったからだ。これ以後、足利将軍家と有力大名との抗争の時代となる。

 話を義嗣に戻そう。「親王」元服した際、義嗣は従三位、参議に任官していたが、1408年(応永15年)5月、義満が死去すると、義満にないがしろにされていた四代将軍義持によって、義嗣と生母・春日局は北山第から追放されるなど冷遇された。だが、7月に権中納言に任官した。1409年(応永16年)1月には正三位、1411年(応永18年)11月に従二位、権大納言、1414年(応永21年)1月には正二位に叙せられた。父による不純な天皇への道は挫折したが、朝廷高官への階段は着実に昇っていたのだ。

  ただ、ここから先は義嗣自身の思いとは、だんだんズレが生まれていく。その後、不和だった兄の将軍義持を打倒するため、義嗣は伊勢国の北畠氏と結んで挙兵を企てるが、失敗。1416年(応永23年)、鎌倉府で義嗣の妾の父、前関東管領の上杉禅秀が鎌倉公方の足利持氏を襲撃した「上杉禅秀の乱」が起こった際、京都で義嗣が出奔する騒動を起こした。

  こうした状況をにらみ合わせた幕府は、義嗣の乱への関与を疑って、義嗣はじめ近臣を捕らえた。遂に義嗣は仁和寺へ、次いで相国寺へ幽閉され、出家させられた。若き日、父に強引に還俗させられたが、また元の道に戻ったわけだ。だが、今回はそれだけでは終わらなかった。1418年(応永25年)、義嗣は兄の将軍義持の命を受けた富樫満成により殺害された。父・義満が溺愛した義嗣は、容姿端麗で才気があり、とりわけ笙の演奏は天才的だったと伝えられている。

(参考資料)今谷 明「武家と天皇」、今谷 明「信長と天皇」、井沢元彦「天皇になろうとした将軍」、井沢元彦「逆説の日本史⑦中世王権編」、海音寺潮五郎「悪人列伝」

 

 

 

 

足利義輝 権謀家が策に溺れ、松永久秀に殺害された室町十三代将軍

足利義輝 権謀家が策に溺れ、松永久秀に殺害された室町十三代将軍

 足利義輝は室町幕府の第十三代将軍だが、神道流の達人、塚原卜伝(つかはらぼくでん)から免許皆伝を得たほどの人物で、その戦ぶりは生半可な武将の及ぶところではなかった。また、義輝は権謀家でもあった。それだけに、義輝は地に墜ちた幕府の権威を回復させるため、なりふり構わず権謀術数を凝らし、一つの企てを謀った。

  それは三好長慶の重臣、松永弾正久秀をそそのかし、主君を殺め三好家を乗っ取れば、天下の実権を握ることもできると煽り、久秀をその気にさせた。そして自分の手を汚さず三好家を屠った。当時、三好家は畿内、淡路、四国にかけて十カ国の所領を持つ勢力を保っていた。この力と将軍家の権威を合わせれば畿内を治めることは容易に思われたのだ。事実、三好長慶は将軍の相伴衆に加えるよう申し入れてきていた。相伴衆となって義輝を意のままに動かそうと目論んでいたのだ。裏を返せば、義輝にとっては三好家はそれだけ厄介な存在だったというわけだ。

  松永久秀が、義輝の思惑通り三好家を手中にした後、義輝は今度はその久秀を討つために上杉謙信と織田信長に上洛を求めた。義輝のその謀(はかりごと)の全貌を知った久秀は、屈辱と憎悪に打ち震え、たとえ自分の身はどうなろうと義輝だけは許さぬと決意させ、復讐のターゲットとなってしまった。そして、まもなく義輝は“憎悪”の鬼と化した久秀の刃の前に倒れた。1565年(永禄8年)のことだ。権謀家・義輝は、武人・久秀の心理をいまひとつ思いやることができず、策に溺れた格好だ。こうして幕府の権威の回復は成らなかった。

 足利義輝は、室町幕府の第十二代将軍・足利義晴の嫡男として京都・東山南禅寺で生まれた。第十五代将軍・義昭の同母兄。生没年は1536(天文5)~1565年(永禄8年)。義輝は1546年(天文15年)、わずか11歳のとき父義晴から将軍職を譲られた。

(参考資料)安部龍太郎「血の日本史」、井沢元彦「逆説の日本史」

浅野長矩 「忠臣蔵」が生まれる大本をつくった、藩主の器量に?の人物

浅野長矩 「忠臣蔵」が生まれる大本をつくった、藩主の器量に?の人物

 浅野長矩(あさのながのり)は播州赤穂藩主だ。周知の通り、江戸・元禄時代、江戸城内「松之廊下」で吉良上野介に斬りかかり、即日切腹。1年半後に赤穂の遺臣たちが吉良邸討ち入りを決行して仇討ちに成功する、いわゆる「忠臣蔵」が生まれる大本をつくった人物だ。悲劇のヒーローだ。だが、果たして浅野内匠頭長矩は、本当に悲劇のヒーローだったのか。

 そして、この浅野長矩を語るとき欠かせないのが、彼が切腹する前に詠んだ辞世だ。

 「風さそう花よりもなほ我はまた 春の名残(なごり)をいかにとやせむ」

 風に乗って最後の華やぎを舞うことができる桜よりも、同じ春に散る我が身の方が、なお一層、今生への想いが残っている。この想いをどうしたらいいのだろうか、という慨嘆だ。この藩主の問いかけがあったからこそ、無念の想いを晴らさなくてはならないと、四十七人の忠義の士を行動に駆り立てたのだ。

  浅野長矩はよき家臣を持ったことで、その存在が不朽となった。ただ、ご法度の江戸城内で吉良上野介に刃傷に及んだことだけを捉えれば、その行動自体が赤穂藩・浅野家の断絶か否かを賭けた、極めて重い行為なはずだ。冷静に考えれば、やはり世間知らずの、今日風にいえば“おぼっちゃん”大名の思慮に欠けた軽はずみな行為で、とても藩主の座に就く器量の人物ではなかったのではないかとの見方もできる。

 浅野長矩は、播州赤穂藩主・浅野長友の嫡子として生まれた。豊臣秀吉の正室・北政所(高台院)の妹婿、浅野長政を家祖とする安芸広島42万石の分家で、官名は祖父と同じ内匠頭(たくみのかみ)。父の長友は33歳で没したので、長矩は1675年(延宝3年)、わずか9歳で5万石の大名家を継いだ。

 赤穂藩・浅野家は塩田開発などで豊かな藩だった。瀬戸内海の乾燥した気候と遠浅の広い砂浜を利用して塩田開発が進んでいたから、米作中心の農業だけでなく、特産品としての塩で収入が上がる。商品経済への対応にも最も早い時期に成功した藩だったのだ。反面、そのことがこの藩に不幸を招く原因だったのかも知れない。赤穂藩は豊かだということで、1701年(元禄14年)に二度目の勅使饗応役が割り当てられた。勅使饗応役とは、毎年、京の朝廷から幕府へ年賀の挨拶に訪れる公卿を、大名家の出費で接待する役だ。現在の価格に換算すると3億円ぐらいの予算が必要となるだけでなく、極めて格式張った儀式のため、大名家からは敬遠されている。

 そのため、勅使饗応役選抜の時期には、事前に老中周辺に賄賂(?)を使って、そのリストから外してもらうように運動する藩もあったようだ。静観していて、勅使饗応役が割り当てられたら藩財政が破綻してしまう。そんな危機感をもってやむなくカネを使って、そうした事態を回避するために動いた藩もあっただろう。いったん下命を受けた以上は辞退できないのだから。そして、儀礼の細部まで、幕府の式部官である「高家(こうけ)」の指導を仰がねばならないのだが、それが敵役・吉良上野介の役割だ。下命を受ければ、自藩の判断で経費を少しでも抑えて対応するといったことは全くできないのだ。すべて吉良上野介の指示通り、まさに言いなりで、借金してでも必要だと言われれば、そのカネを工面、用意しなければならなくなる、つらい役割だ。

 浅野家と吉良家との間に、実際にどのような軋轢(あつれき)があったのか定かではない。しかし、吉良上野介の“ご機嫌取り”をあえてせず、次から次へと難題を吹っかける上野介に、人間的器量に欠けるがゆえに、“腹芸”のできない内匠頭が切れて、やむにやまれず、ご法度の刃傷に及んだ、ということになっている。その限りでは上野介は徹底して“悪役”となっている。だが、これではあまりにも公平さに欠ける気がする。むしろ、ここではどこが悲劇かという視点で考えてみれば、思慮に欠けた藩主の無念の思いを全面的に「是」として、四十七人もの忠臣が命を賭けて報復したことにある。四十七人の忠臣こそが悲劇のヒーローだったのだ。

(参考資料)松崎哲久「名歌で読む日本の歴史」、永井路子「にっぽん亭主五十人史」、井沢元彦「忠臣蔵 元禄十五年の反逆」、村松友視「悪役のふるさと」、<対談>司馬遼太郎・ドナルド・キーン「日本人と日本文化」、大石慎三郎「徳川吉宗とその時代 江戸転換期の群像」

 

織田信雄 “天下人”織田家を秀吉に乗っ取られた、愚かな三代目

織田信雄 “天下人”織田家を秀吉に乗っ取られた、愚かな三代目

 織田信長の二男・織田信雄(おだのぶかつ)は、人間として「かなり出来が悪い」あるいは「少し足りないお坊ちゃん」だった。そのため、事実上、天下人となったはずの織田家は、1582年(天正10年)に起こった「本能寺の変」で当主・織田信長と、その長男・信忠の天下人・織田家初代・二代目が同時に亡くなった後、いくつかの不運が重なり、今日風に表現すると、子飼いの役員・豊臣秀吉にまんまと乗っ取られてしまったのだ。織田家にとって最大の悲劇は愚かな信雄が生き残ったことだった。

 長男・信忠が父とともに亡くなった後、織田家には相続者として二男・信雄、三男・信孝がいた。これに、織田家の血筋を引く有力者として信長の孫、信忠の長男・秀信(当時は三法師)がいた。信雄・信孝の二人は仲が悪かった。二人は母が違う。信雄の母は長男・信忠を産んだ生駒氏の娘で、信孝の母は坂氏の娘だ。実は生まれたのは信孝の方が20日ほど早かったらしい。理由は分からないが、それでも信雄が二男ということになった。ともに側室とはいえ、長男の母で身分が高かったため、信雄が二男になったことと関係しているかも知れない。このことで、信孝も終生これが不満だった。

  また、当時の宣教師の記録をみても、信孝については性格や能力を誉めてあり、人並みの器量があったと判断できる。ところが、信雄は周囲から阿呆と呼ばれ、かなり出来が悪かった。信孝にしてみれば、自分より遅く生まれた男が、ひどく頭が悪いにもかかわらず、兄として自分より上に立っている。どうしてこんなバカを兄貴として立てねばならないのかと、不満で堪らなかったに違いない。こんな兄弟が、仲が良くなるはずもない。生母同士のライバル意識もその背景にあったかも知れない。

 織田家重臣による「清洲会議」で、秀吉の主張する正統論が勝ちを収め、信忠直系の幼少の秀信が織田家の正式な後継者と定められた。信孝は次善の策として、秀信の後見人の地位を得た。しかし、秀吉は信孝派の重鎮・柴田勝家の本拠地が北陸であるのを幸い、勝家が動けない冬の間に、信雄と誼を(よしみ)を通じ、岐阜城を攻めた。兄弟の不和を巧みに利用したのだ。

 信孝を降参させ秀信を奪い取り、降伏の条件として母と子を人質に差し出させた、その後、秀吉は勝家を「賤ヶ岳(しずがたけ)の戦い」で破り、居城の越前北ノ庄に攻め、完全に滅ぼした。こうして後ろ楯を奪った後、秀吉は信孝の母と妻子を講和違反で処刑、信孝自身も切腹させた。あとは意思のない子供(秀信)とバカ(信雄)が残っているだけだった。

 秀吉は、信雄に対し表面は主筋として尊敬するように見せながら、その実、巧みに挑発し、信雄の方から喧嘩を仕掛けてくるように仕向けた。ただ、誰が知恵をつけたか、信雄は徳川家康を頼った。これは家康にとっても、大義名分の点からみても得策だった。これを機に「小牧・長久手の戦い」が起こり、六分・四分で家康が勝ちを収めた。秀吉・家康の対立がさらに続けば、時代の様相はかなり変わっていたかも知れない。だが、この点、秀吉は役者が一枚上だった。これ以上、家康と争うことは、天下統一の障害になると判断、信雄との単独講和を図ったのだ。

 信雄の立場に立てば、まず講和はすべきではない。秀吉は織田の天下を奪おうとしているのだから、安易な妥協は絶対にすべきではない。また、どうしても講和せざるを得ない立場になったとしても、家康にはそれを知らせる必要がある。家康は信雄の要請を受けて戦いに乗り出したのだから、戦いをやめる場合、まず家康の労を謝し、講和について了承を得るのがスジだ。だが、信雄はこれをしなかった。勝手に秀吉と講和を結んでしまったのだ。家康は怒り、そして信雄のバカさ加減に苦笑したという。こうして信雄は世間から見放され、対照的に秀吉は天下人の座に就いた。

 信雄はこの後、国替えのことで不平をもらしたため、秀吉に流罪にされるという惨めな目に遭う。このとき、彼は頭を丸めて坊主となり、常真入道と号した。秀吉が死ぬと、彼は徳川方のスパイのような役目を務め、「大坂の陣」では城方の情報を流し続けた。豊臣家に対する憤懣と、失った領地を少しでも回復しようとする気持ちがあったのだろう。かつて100万石近くの領主だった己の姿を追ってのことか、分からない。ともかく大坂の陣後、信雄はスパイ活動の報酬として5万石を手にする。そして、家名を明治維新まで保った。

(参考資料)井沢元彦「神霊の国 日本 禁断の日本史」、童門冬二「家康合戦記」

聖武天皇 藤原氏の御輿に乗ったがコンプレックスに苛まれた孤独の帝王

聖武天皇 藤原氏の御輿に乗ったがコンプレックスに苛まれた孤独の帝王

 聖武天皇を「悲劇の貴人」として取り上げることに、少し違和感を抱かれる人もあるかも知れない。何しろ当時、権勢を誇った藤原氏に引きずられることが多く、結果として時の朝廷の首班・長屋王さえ葬る片棒を担いだくらいだ。その意味では“暗愚の帝王”と評してもいいのかも知れない。ただ、この天皇は哀れにも「藤三娘(とうさんろう)」を名乗る妻・光明皇后に頭が上がらず、裏切られても家出をすることでしか、妻の不倫を咎めることができなかったのだ。しかし、家出したのがただの人ではなく天皇だったので、それは目まぐるしい「遷都」ということで後世、語られることになった。人騒がせだが、その実、現実からの逃避でしか、癒やしや救いを求めることもできない、悲しい生涯を送った人物といえよう。聖武天皇の生没年は701(大宝元)~756年(天平勝宝元年)。

 聖武天皇は、文武天皇の第一皇子。母は藤原不比等の娘(養女)、宮子(藤原夫人、ぶにん)。名は首(おびと)皇子。714年(和銅7年)に立太子し、716年(霊亀2年)不比等と橘三千代との間に生まれた安宿媛(あすかひめ、光明子)を妻とした。驚くべき近親結婚ということだ。それだけに、藤原氏に丸抱えにされていた境遇というものがよく分かる。ただ、妻を娶ってもまだ即位は時期尚早と判断され、立太子から10年間皇位に就かず、その間、元明・元正の二女帝が在位した。そして724年(神亀元年)、首皇子は元正天皇から禅譲され大極殿で即位した。

 聖武天皇が即位してまもなく直面したのが藤原宮子大夫人称号事件だ。これは天皇が勅して藤原夫人を尊び、「大夫人(だいぶにん)」の称号を賦与することとした。ところが左大臣、長屋王らが公式令(くしきりょう)をタテに、それは本来、「皇太夫人(こうたいぶにん)」と称することになっているはずと問題視する奏言を行ったのだ。そこで、天皇は仕方なく文書に記すときは皇太夫人とし、口頭の場合は大御祖(おおみおや)とする旨を詔した事件だ。この事件が当時、天皇と藤原氏に対抗していた長屋王らの勢力との間での、遺恨を産むきっかけとなったことは確かで、後の「長屋王の変」(1729年)の伏線となった。

 聖武天皇の即位に際して左大臣に任命された長屋王は、天皇を支える藤原氏にとって侮り難い存在だった。加えて、天皇自身が統治に十分な自信をもっていなかったことも政情不安の大きな要因となり、藤原氏勢力の焦りを誘っていたとみられる。『続日本紀』によると、727年(神亀4年)、天皇が詔して百官を集め、長屋王が勅を述べるところによると、「この頃天の咎めのしるしか、災異がやまない。政が道理に背理し民心が愁いをもつようになると、天地の神々がこれを責め鬼神が異状を示す。朕に徳が欠けているためか」とあるのだ。天皇自身が認識していたのだ。

 「長屋王の変」の首謀者は藤原氏だったが、聖武天皇もこの計画の賛成者だったに違いない。天皇が賛成しなかったら、舎人親王以下の皇族が積極的に参加しなかったろう。では、聖武天皇はなぜ賛成したか。この点、梅原猛氏は「(母親の宮子が)海人の娘の子としての彼(聖武天皇)のコンプレックスにあったと思う」と『海人と天皇』に記している。天武天皇の長男であり、「壬申の乱」での戦功著しいものがあった高市皇子を父に、天智天皇の皇女、御名部皇女を母に持つ長屋王がそれに気付かなかったとしても、長屋王に対する血脈のコンプレックスが厳然としてあり、「聖武天皇にはどこかで心の奥深く長屋王に傷つけられた自尊心の記憶が数多くあったに違いない」と梅原氏。

 讒言で、長屋王を死に追い込んだ後も、災害や異変が発生し、また疫病も流行。737年(天平9年)、権勢を誇った藤原四兄弟(武智麻呂・房前・宇合・麻呂)が相次いでこの流行病、天然痘で亡くなったことが、聖武天皇および光明皇后を困惑させた。そして、唐より帰朝した玄●(昉、ボウ、日へんに方、以下同)を通じて、天皇は次第に仏教への帰依を強めていった。そこで、一応、光明皇后の異父兄・橘諸兄を右大臣に就けたものの、諸兄は実務的政治能力に欠け、政治の実権は天皇や皇后の信任の厚い、留学帰りの玄●(ボウ)と下道真備(しもつみちのまきび、後の吉備真備)にあった。

 740年(天平12年)、大宰少弐・藤原広嗣が時の政治の得失を論じ、玄●(ボウ)と吉備真備の追放を言上して、反乱の兵を挙げた。天皇は大野東人(おおのあずまひと)を大将軍にして討伐軍を九州に送り込んだが、九州で激しい戦闘が繰り広げられている最中、聖武天皇は平城京を捨て、伊勢へ出かけてしまう。この後、天皇はそのまま平城京に戻らず、山背(やましろ、山城)国相楽郡恭仁(くに)郷(現在の京都府相楽郡)に遷都することを命じ、恭仁京をつくらせている。この後、さらに紫香楽宮、難波宮と短期間に何度も都を変えており、この異常な行動が何のためなのか分からない部分が多い。

 正史『続日本紀』にははっきり記されていないが、後世の史書には、このとき玄●(ボウ)と光明皇后との間にスキャンダルがあったことが記されている。とすれば、藤原広嗣は暗に「あなたの奥さんは不倫をしているが、それでいいのですか」と責めているわけだ。そして、それに対する聖武天皇の答えが、都からの逃亡なのだ。妻の不倫を告げられて家出するほど、なぜ弱腰なのか。

  道成寺に伝わる伝承によれば、聖武天皇の母、宮子は道成寺のある紀伊国日高郡の九海士(くあま)の里の海人の娘だった。だが、その稀代の美貌に目をつけた藤原不比等は、彼女を養女にし、文武帝の妃とした。そして、宮子は首皇子、後の聖武天皇を産んだ。しかし、故郷を思う宮子の憂愁は深く、それを慰めるために道成寺は建てられたという。つまり、聖武天皇は本来、藤原氏の血を受けていない人物と考えると、妻の光明皇后に頭が上がらず、長屋王に抱いた強いコンプレックスの謎が解けてくるのだ。

 聖武天皇は奈良・東大寺に巨大な毘廬遮那仏をつくり上げることで、ようやく不安を癒やすことができ、都は無事、元の平城京に戻ったのだ。

(参考資料)梅原猛「海人と天皇 日本とは何か」、梅原猛「百人一語」、小和田哲男「日本の歴史がわかる本」、笠原英彦「歴代天皇総覧」、神一行編「飛鳥時代の謎」、永井路子「美貌の大帝」、杉本苑子「穢土荘厳」