私説 小倉百人一首 No.19 伊 勢

伊 勢
※伊勢守藤原継蔭のむすめ。

難波潟みじかき芦のふしの間も
       逢はでこの世を過ぐしてよとや

【歌の背景】宇多天皇の皇后温子の兄、藤原仲平との恋を詠んだもの。恋人に対する思慕と怨恨とが入り混じった、恋する女性の心情を詠んでいる。

【歌意】難波の潟に生えているあの芦の短い節の間ほどのわずかな間でも、恋しいあなたに逢わないで、私たち二人の間を過ごしてしまえというのですか。(それはあんまりです。)

【作者のプロフィル】伊勢守、藤原継蔭のむすめ。仁和の頃、七条の后に仕えたので、父の官名を呼び名にしていた。はじめ藤原仲平、次いで宇多天皇の寵愛を受け、さらには宇多天皇の第四皇子敦慶親王と、恋人を変えた情熱的歌人。ただ、小野小町が情熱をそのまま表現したのに対し、彼女の歌は情熱を抑えた慎ましい表現であったのが特色。宇多天皇との間で行明親王を産んだため「伊勢の御息所(みやすどころ)」とも称せられた。

私説 小倉百人一首 No.20 元良親王

元良親王

わびぬれば今はた同じ難波なる
       みをつくしても逢わむとぞ思ふ

【歌の背景】元良親王が不倫の恋人との秘め事が露見して問題になったとき、逢うこともままならない侘しい心情を不倫相手の京極御息所に送った激情の歌。京極御息所とは藤原時平のむすめ、褒子。

【歌意】こうして心が晴れず寂しくつらい思いをしているのだから、今はもう逢わないでこうしているのも、逢って世事の煩わしさに苦しむのも同じことだ。だから、難波の海の澪標(みおつくし)のように、たとえこの身を滅ぼすことになっても、あなたにお逢いしたいと思う。

【作者のプロフィル】陽成天皇の第一皇子。母は主殿頭藤原遠長のむすめ。三品・兵部卿。和歌に優れ、抒情歌を多く詠まれた。また、非常に色好みな性格で、美しいと風聞のある女性には必ず言い寄られた。天慶6年(943)54歳でなくなられた。

私説 小倉百人一首 No.21 素性法師

素性法師
※俗名は良岑玄利(よしみねはるとし)。父は僧正遍昭。

今来むといひしばかりに長月の
       有明の月を待ち出でつるかな

【歌の背景】恋する女性の立場に立って詠まれたもの。男のかりそめの言葉を頼りにして、もう来るか、もう来るかと秋の夜長を一晩中、待ち明かし、有明の月を見る結果になったというやるせない気持ちを詠んだもの。男性、それも僧が恋歌を作っている点に陰翳が感じられる。

【歌 意】「すぐ来ます」とあなたが言ったばかりに、私はその言葉を信じてもう来るか、もう来るかと待ちました。そのうちに長い九月の夜も明けて、肝心のあなたは来ないで、待ってもいない有明の月を見ることになってしまったことです。

【作者のプロフィル】父は僧正遍昭で、その在俗中に生まれた。素性は俗名を良岑玄利といった。由性法師は弟。初め清和天皇に仕え、右近衛将監であった。父の意志で出家し、その後上京の雲林院に住み、権律師に任ぜられ、また大和の石上寺の良因院の住持となった。彼がなくなったとき、紀貫之、凡河内躬恒らが哀悼歌を贈ったほど当時有名な歌人だった。

私説 小倉百人一首 No.22 文屋康秀

文屋康秀

吹くからに秋の草木をしをるれば
       むべ山風をあらしといふらむ

【歌の背景】この歌の作者については、文屋朝康(文屋康秀の子)の作とする説もある。山風をあらしということに対して、草木がしおれてしまう、つまり草木をあらすから、あらしというのだろうという理屈をつけた歌。言葉の遊びとしての面白みだけのもの。

【歌 意】風が吹くとすぐに秋の草木がしおれて枯れるので、なるほど山の風を(続けて書けば)“嵐”という文字の読みの通り“あらし”というのであろう。

【作者のプロフィル】「姓氏録」には、文屋の姓は天武天皇の皇女二品長親王の後なりとある。貞観2年(860)に刑部中判事となり、後、三河掾になり、元慶元年に山城大掾、同9年に縫殿介となった。六歌仙の一人。

私説 小倉百人一首 No.23 大江千里

大江千里

月みればちぢにものこそかなしけれ
       わが身一つの秋にはあらねど

【歌の背景】是貞親王の歌合せに詠んだもの。秋の月を見て人の心に宿る悲しみを嘆いている。秋を悲しいもの、感傷的なものと見る季節観の型に合わせて作られた歌。

【歌意】秋の月を見ると、あれこれ悲しいことが思い起こされる。秋は世の中のすべての人に来た秋だのに、なぜか自分だけに来た秋のような気がして。

【作者のプロフィル】平城天皇の皇子・阿保親王(在原業平の父)の曾孫にあたり、参議大江音人の第三子。父音人の時代、もとは大枝と書いていたが、大江氏を賜り臣籍に下った。父に似て漢学、文学に優れ、とくに和歌に巧みだった。生没年不詳。

私説 小倉百人一首 No.24 菅 家

菅 家
※菅原道真

このたびは幣もとりあへず手向山
       もみぢのにしき神のまにまに

【歌の背景】宇多天皇が退位後、昌泰元年(898)10月ちょうどもみぢの美しい季節、奈良の山荘へ行かれた。そこで、幣を奉るよりはと、もみぢの美しさを讃えて詠んだもの。
  このたびは「この度」と「この旅」の掛詞。「手向」は「たむける」と「手向山」の山との掛詞。大和国から山城国へ越す奈良山の峠をいう。
【歌意】手向山の神よ、今度の旅ではたむける幣も取る暇もなくここへやってきました。でも、この手向山は色とりどりの、一面の美しいもみぢです。とりあえずこのもみぢの錦を手向け致します。どうか御意のままにお納めください。
【作者のプロフィル】菅原道真。参議是善の第三子。幼少から文才を知られた。遣唐使の廃止を奏した。これに伴い250年にわたって続いてきた日本と唐との国交は途絶えることになる。
昌泰2年(899)左大臣藤原時平(29歳)、右大臣道真(55歳)となったころが、宮廷における彼の人生のピークで、これ以後は藤原氏との覇権競争に敗れ、転落の一途。延喜元年(901)時平一派は道真が醍醐天皇を廃し、斉世親王を皇位に立てようとする陰謀を企てていると奏上。17歳の少年、醍醐天皇はそれを信じて道真の大宰府・権帥への左遷を勅裁してしまう。そこで道真は厚い信頼を受けていた宇多天皇に「ながれゆく 我はみくずとなりはてぬ 君しがらみと なりてとどめよ」の歌を届け哀訴したが、法皇にもなす術はなく、道真の配流を止めることはできなかった。延喜3年(903)大宰府で悲嘆のうちに59歳でなくなった。
時平一派の讒言によって左遷された、その無念の思いは怨霊となって都の貴顕を襲ったといわれる。そこで、鎮魂の意を込めて天暦元年(947)京都の北野に神殿が建てられ天満天神として奉られる。そして、それから1000年以上の時の中を生き続け、現在でも学問の神様として親しまれ、全国各地に天神様を祀る社は1万2000もあるという。また天暦4年本官を復され、太政大臣を追贈された。