藤原良房・・・人臣初の摂政となり、藤原北家全盛の礎を築く

 藤原良房は皇族以外の人臣として初めて摂政の座に就いた人物だ。それは、決して彼一人の力で成されたものではなく、父・藤原冬嗣が皇太弟時代からの嵯峨天皇に仕え信頼が厚かったこそ、着実に形成されていった閨閥を背景に、押し出されるように実現したように見える。しかし、その後の藤原氏北家の、「承和の変」「応天門の変」など、次々と政敵を陥れ排除していく事件を丹念に見ると、実態は見事に、そして計画的に仕組まれて行われたものだと分かる。良房は、そうした藤原北家全盛の礎を築き上げ、良房の子孫たちはその後、相次いで摂関(摂政・関白)となった。良房の生没年は804(延暦23)~872年(貞観14年)。

藤原良房は父・冬嗣の二男として生まれた。母・藤原美都子(みつこ)は838念に右大臣となった藤原三守(みもり)の姉で、嵯峨天皇の宮廷で尚侍(ないしのかみ)として天皇・皇后の篤い信任を受けていた。三守の妻・安子は皇后・橘嘉智子の姉だった。良房はこうした閨閥でもこの皇后と深く結び付いていた。子に明子(あきらけいこ)、養子に藤原基経がいる。

藤原北家の繁栄の基礎を築いたのは藤原冬嗣だ。冬嗣は平城上皇と嵯峨天皇が対立した「薬子の変」(810年)で嵯峨天皇のより深い信頼を得て蔵人頭という天皇の秘書官長ともいえる重要な職に任ぜられ、翌年参議に任じられ、国政に中枢に参画するようになった。のち大納言、右大臣を経て左大臣に就任。朝廷のトップの座に昇った。

良房は814年(弘仁5年)、嵯峨天皇の皇女・源潔姫(きよひめ)を降嫁された。天皇の娘が臣下に嫁するのは全く先例のないことだ。これは、多数の妻を擁し、50人くらいの子女をもうけ大家父長制をとった嵯峨上皇ならではのことともいえるが、上皇も藤原氏、とりわけ冬嗣の系統(北家)との関係を緊密にする狙いがあったのだ。桓武天皇は793年(延暦12年)に詔を下して、藤原氏に限って二世以下の王(女王)をめとることを許したのだが、冬嗣・良房の北家の流れは、ごく大家父長制のごく近くに、政治的には極めて有利な位置を占めたわけだ。
さらに、良房は妹の順子を仁明天皇の女御として権力を握った。順子と仁明天皇との間に道康親王が生まれると、良房に大きな野望が膨らむ。それが具体的な行動として現れるのが842年(承和9年)のことだ。それは嵯峨上皇が57歳で没した2日後、その火ぶたが切って落とされた。

良房は仁明天皇の生母、橘嘉智子(故嵯峨天皇の皇后=皇太后)と密議の上、伴健岑(とものこわみね)・橘逸勢(たちばなのはやなり)らのグループの何らかの思惑を、一大疑獄に仕上げてしまったのだ。仁明天皇は彼らを謀反人と断じ、その責任を恒貞親王にも問い、皇太子の地位を奪い去った。逸勢は、姓を非人と改められて伊豆国に流されたが、護送の途上で死んだ。健岑の配流先は隠岐国だった。東宮坊の官人らで流刑の憂き目に遭った者には、名族の伴氏(かつての大伴氏)、橘氏など、良房にとって朝廷でのライバルだった公卿が含まれ、60余人の多きに及んだ。これが、「承和の変」だ。

これによって良房は大納言の地位を占めた。その翌月、良房の妹、順子が仁明天皇との間にもうけた道康親王が皇太子に立てられた。親王16歳のときのことだ。

良房は次に、嵯峨天皇から降嫁された皇女、潔姫との間でもうけた明子を文徳天皇の女御とし、その間に生まれた惟仁(これひと)親王を9歳で即位させる。清和天皇だ。そして866年、遂に皇族以外で初の「摂政」となった。摂政は、天皇が幼少だったり、女帝の場合に「政を摂る」こと、あるいはその役職を指すが、それまでは聖徳太子、中大兄皇子のように皇族が就任するのが通例だった。そんな、本来手の届かないはずの摂政に良房は就任したのだ。そして「摂政」職はその後、良房の養子・基経に引き継がれていく。

(参考資料)北山茂夫「日本の歴史 平安京」

原市之進・・・徳川慶喜の側近・黒幕で、取るべき行動を指示、画策

 徳川家では、征夷大将軍になるには必ず徳川家の当主でなければならないという取り決めがあった。世襲制であると同時に、徳川家の当主を兼ねた。手続きとしては、まず宗家の当主になりその後、朝廷から征夷大将軍の宣下を受けることになる。しかし、徳川家の当主になったときは、たとえ養子でもすぐにそのまま征夷大将軍に移行するということが慣行になっていた。

ところが徳川慶喜の場合は違った。彼が徳川宗家の当主になったのは、1866年(慶応2年)8月のことだが、将軍になったのはこの年12月5日のことだ。約半年間、空白期間があるのだ。そうさせたのは慶喜の黒幕だった原市之進の画策だ。原はこの頃、慶喜の黒幕としてピタリとついていた。

 慶喜の実質的に将軍宣下に“待った”をかけた原市之進の言い分はこうだ。徳川宗家の当主を引き受けることは構わないが、徳川幕府が置かれているこの大変なときに、今すぐ将軍を引き受けるのは得策ではない。どうせならなければならないのなら、もっと恩に着せて、大名会議にどうしてもあなた(慶喜)に将軍になってほしいと要望させるのです。安売りはいけません-と進言した。そして、そのため京都にいる老中・板倉勝静殿と画策中です-という。

 この頃、幕府は第二次長州征伐の最中だった。その総指揮を執っていたのが、大坂城までやってきた十四代将軍徳川家茂だ。まだ年若な将軍で、妻は天皇の妹、和宮内親王だった。しかし、病弱な家茂はこの戦いの最中に死んでしまった。そのため、慶喜は早急に要望されて徳川宗家を相続したのだ。いままでのルールで、当然そのまま将軍職に就くものと思っていたのに、ブレーンの原が反対した。

 原市之進は元々、水戸藩の藩士だ。水戸斉昭のブレーンだった藤田東湖の従弟にあたる。幼名は小熊。諱は忠敬、忠成。別名は任蔵。号は尚不愧斎。字は仲寧。通称は伍軒先生。藩の勘定奉行を務めた水戸藩藩士・原雅言の次男として生まれ、弘道館で学んだ。1853年(嘉永6年)、昌平坂学問所に入学。その後、水戸に帰国して弘道館の訓導(現在の先生)となり、奥右筆頭取に任命された。
1863年(文久3年)、原は徳川慶喜の側近となり慶喜の補佐を務める。1864年(元治元年)、慶喜の側用人(一橋家家老)だった平岡円四郎が暗殺されると、慶喜の側用人となった。1866年(慶応2年)、慶喜より幕臣として取り立てられる。原自身は聡明で、慶喜に忠義を尽くしていたが、その功績を妬む者も多く、平岡円四郎同様に奸臣と見做されていた。

 原市之進の前半生は波乱に満ちている。若い頃、幕臣の川路聖謨(かわじとしあきら)に心酔し、川路が対露交渉のため長崎に行ったときは、その従者として一緒に行った。その頃、原は当時はやりの過激な攘夷論者だった。だから、彼の交際範囲は、いわゆる“志士”と呼ばれた連中にも広く及んでいる。とくに安政年間には水戸藩は、日本の攘夷派のメッカであり、期待する人々が多かった。長州の桂小五郎や、備中松山藩の山田方谷などとも交流があり、当時の原はこうした過激派の先頭に立って、攘夷論者の幹部として活躍していたのだ。

 1862年(文久2年)、江戸城の坂下門で老中の安藤対馬守が襲撃された事件の背後に原はいたのだ。安藤を襲撃して捕らわれた浪士が持っていた斬奸状の文面は、原が書いたという噂がもっぱらだったという。しかし、彼は表には出なかった。黒幕としてこの事件の脚本を書き演出した。彼の黒幕としての資質は天性のものであったといっていい。

 1867年(慶応3年)、8月14日、原市之進は自宅で同僚の幕臣、鈴木豊次郎と依田雄太郎に暗殺された。背後には山岡鉄舟がいたといわれる。黒幕の原の死後、慶喜の行動は常にフラフラ、グラグラとぶれ、“優柔不断な男”のレッテルを貼られることになった。原が健在なら慶喜の行動はもう少し違ったものになっていたのではないか。

(参考資料)平尾道雄「維新暗殺秘録」、童門冬二「江戸管理社会反骨者列伝」、童門冬二「江戸の怪人たち」

フランシスコ・ザビエル・・・不可解な死と日本占領計画の相関関係は?

 フランシスコ・ザビエルはカトリック教会の宣教師で、イエズス会の創設者の一人だ。ザビエルは1547年、マラッカで布教活動中、鹿児島県出身のヤジロウ(=弥次郎)という日本人に出会い、日本で宣教したいと思い立ち1549年、鹿児島に上陸。鹿児島をはじめ平戸、山口、岩国、堺、京都などで2年3カ月にわたって布教活動を行い、日本に初めてキリスト教を伝えたことでとくに有名だ。

その後、ザビエルは日本を離れ、厳しい鎖国政策下の中国・明へ渡り、布教する予定だったが、明への中継地、マラッカで4カ月近くも足止めされているうちに肋膜にかかって、46歳の若さで病死したといわれる。ただ、この死には不可解な部分が多く、謎に包まれている。

また、7つの海をまたにかけて競争が行われた大航海時代は、植民地化の時代でもあった。ザビエルがポルトガルから見れば最果ての地、日本にやって来た目的は、単なる宣教活動だけではなかったのか。現実に交易などをテコにしたポルトガルの日本占領計画も見え隠れしていることを考え合わせると、果たして、実体はどうだったのか。

 ザビエルがゴアに送った書簡は、日本に関する情報がふんだんに書き込まれた調査報告書だった。ところが、ある一時期を境にその内容が、手の平を返すように変わっていくのだ。それは離日後すぐに書かれた書簡からだ。最初は日本を金銀に満ちた豊かな市場として報告し、有望な交易国として商売の促進を呼びかけていたが、日本を離れるや否や、今までの魅力的な市場については触れず、いかに日本に来る途中の海賊が危険であるか、また日本人は好戦的で貧しく積極的な関係を持つには値しないと、正反対の内容になっているのだ。

 これは明らかにニセ情報だ。ある歴史家はザビエルがいなくなった後、金銀に惹かれたポルトガル人が武力に訴えて日本を占領しにくることを危惧したためだと分析している。果たして、ポルトガルが日本に本当に内政干渉してくる可能性があったのだろうか。

実は具体的な形として記録に残っている文書がある。ザビエルの死後38年経った1589年(天正17年)、豊臣秀吉が宣教師の追放令を出したときに書かれた彼らのメモがそれだ。このときすでに信者は15万人を超え、教会は美濃から薩摩にかけて200以上もあったという。しかし、突如として発令された追放令はイエズス会の宣教師たちを震撼させ、強い危機感となって表れる。布教で日本を手なずけることはできないと確信するのだ。そこで彼らはキリシタンに改宗している大名たちに反乱を起こさせ、自国の軍隊も上陸させて一挙に植民地にする計画だったという。

 この衝撃的な文書は、研究家の高瀬弘一郎博士がイエズス会本部の文書館から発見して明らかになったもので、その後極秘扱いとなり、残念ながら現在は外部に一切出されていないという、結局、当時の日本侵略計画そのものは、実行に移されることはなく、机上の空論に終わったというが、布教でダメなら最終手段は軍事力しかないという当時の列強の国々の思想をうかがい知ることができる。
 いずれにしても清新な心の持ち主だったザビエルが日本を戦禍に巻き込むことを望まなかったことは、残されている書簡や史実が物語っている。彼以外の宣教師、具体的にいえば場合によっては武力行使も辞さない好戦的な人物が、宣教師として最初に来日していたら、日本はどうなっていたかと考えずにいられない。日本の中世史が少し変わっていたかも知れないのだ。中世ヨーロッパの植民地政策に伝道が相乗りせざるを得なかったことが、宣教師ザビエルの死を早めてしまったことは間違いない。

 ザビエルは現在のスペインのナバラ地方、バンブローナに近いザビエル城で地方貴族の家に育った。5人姉弟(兄2人、姉2人)の末っ子。1525年、19歳で名門パリ大学に留学。バルバラ学院に入り、そこで自由学芸を修め、哲学を学んでいるときにビエール・ファーブルに出会い、さらに同じバスクからきた中年学生イニゴ(イグナチオ・デ・ロヨラ)と出会い、これがザビエルのその後の人生を大きく変えることになる。ザビエルはイグナチオから強い影響を受け、俗世での栄達より大切な何かがあるのではないかと考えるようになり、聖職者を志すことになる。1534年、イグナチオを中心とした7人のグループは、モンマルトルにおいて神に生涯を捧げるという同志の誓いを立てた。その中にザビエルの姿もあった。これがイエズス会の起こりだ。

ザビエルは、聖パウロを超えるほど多くの人々をキリスト教信仰に導いたといわれるカトリック教会の聖人だ。ザビエルはバスク語で「新しい家」の意味。生没年は1506~1552年。

(参考資料)歴史の謎研究会・編「日本史に消えた怪人」、小和田哲男「日本の歴史がわかる本」

平賀源内・・・エレキテルなどの発明家・科学者で、多芸多才な天才

 平賀源内は発明家であり科学者で、非常に多芸多才な天才であり、時代の先駆者だった。例えば宝暦年間、江戸に日本諸州から様々な珍しい品々を集め、公開した物産会が開催された。いわば博覧会の草分けともいえるこの物産会を、今から200年以上も昔に演出した人物、それが平賀源内だ。エレキテルの発明は機械学・電気学の萌芽だった。また、彼は杉田玄白や中川淳庵などにも影響を与え、「蘭学事始」の精神的原動力となった。

そして源内はまた、「根南志具佐(ねなしぐさ)」や「風流志道軒伝(ふうりゅうしどうけんでん)」などの講談本ばかりか「神霊矢口渡(しんれいやぐちのわたし)」のような浄瑠璃にまで手を染めた。また、鈴木春信は源内が江戸錦絵の誕生にも貢献したと語っている。

 「硝子を以って天火を呼び病を治し候器物」といわれる摩訶不思議な品が天下の評判を呼んだ。これが平賀源内製作のエレキテル=摩擦起電機だった。電気について、とくに系統的な知識がない源内が、エレキテルの復元に成功したのは1776年(安永5年)、壊れたエレキテルを長崎で手に入れてから、足掛け7年の歳月が経っていた。

この起電機が日本に入ってきたのは、西欧で発明されてからまだわずかの時で、西欧でもエレキテルは科学というより、新しい魔術の箱と考えられていた。江戸でもたちまちこの機械は高級見せ物になった。そのため源内の家は身分高き人、富裕なる人で賑わった。また時には源内自らエレキテル持参で、大名屋敷に伺うこともあった。

 源内が江戸っ子をあっといわせたのは発明ばかりではない。それまで上方言葉で語られていた浄瑠璃の世界でも、彼は「神霊矢口渡」では題材を関東に取り、江戸言葉ないしは吉原の廓言葉を堂々と舞台で使った。浄瑠璃は福内鬼外の名で書いたが、戯作者としては風礼山人、天竺浪人、紙鳶堂風来、悟道軒、桑津貧樂などと称した。

 源内は四国高松藩志度浦で生まれた。生没年は1728(享保13年)~1780(安永8年)。父は白石茂左衛門、御蔵番(二人扶持)の軽輩だった。源内の幼名は四方吉(よもきち)。少年の頃からからくりを作り、俳諧を詠み、軍記物を読みふけり、志度の神童、天狗小僧といわれていた。その才能を見込まれてか、13歳から藩医のもとで本草学を学び、儒学を学んだ。高松藩の当時の藩主、松平頼恭(よりたか)が無類の本草学好きだったことも、源内がこの道に進むような環境を育てていたのだろう。

 源内は25歳の時、1年間医学修行のため、藩から長崎へ遊学する。本草学、オランダ語、そして油絵なども学んだ。あり余る才能を持つ男の興味が次に、江戸へ向かうのは必然だった。27歳になると、源内は病身を理由に妹の婿養子に従弟を迎え、家督を譲り江戸へ出た。まもなく田沼時代が幕を明けようとしていたときだった。

本草学者、田村元雄(藍水)の門に入った源内は、物産会に取り組んだ。1757年(宝暦7年)から1762年(宝暦12年)まで、わずか6年の間に5回も物産会は開かれた。物産会は博覧会といっても飲食物は出さず、また入場者も制限していたので、真面目な学問的な催しだったが、1762年(宝暦12年)、源内主催の物産会に集まった薬種・物産は1300種を超えたと記録されている。
 源内の鋭い思考力と才能は尽きることがない。欧州から入ってきた油絵を見れば、すぐに自分で油絵具から画布まですべて考案し、西洋風絵画を仕上げてみせる。また、輸入された西洋陶器に対して作った源内焼と称される陶器もある。普通、緑色の釉薬(うわぐすり)がかかった焼き物で、その図案には万国地図をよく使っているのも源内らしい。発明・工夫は寒熱昇降器・磁針器など数知れなかった。

 源内は些細なことから殺人を犯して波乱に満ちた52年の生涯の幕を閉じた。その死の5年前、彼は「放屁論」を、2年前に「放屁論後編」を書いた。当時、江戸に「放屁男(へっぴりおとこ)」なるものがおり、見事に屁をひり、「三番叟(さんばそう)」や「鶏東天紅(にわとりとうてんこう)」を奏でて人気を博した。「放屁論」で源内はこの放屁男を古今東西、このようなことを思いつき、工夫した人はいないと褒め称えた。そして「後編」では貧家銭内(ひんかぜにない)という、自分自身の生い立ちに近い男を登場させる。これらは「憤激と自棄のないまぜ」の書であり、ここに表現されているのは、彼自身の自画像とみられる。

(参考資料)梅原猛「百人一語」、吉田光邦・樋口清之「日本史探訪/国学と洋学」
      平野威馬雄「平賀源内の生涯」、尾崎秀樹「にっぽん裏返史」、司馬遼太郎・ドナルド・キーン対談「日本人と日本文化」

藤原基経・・・長く朝廷の実権を握り藤原摂関家隆盛の基礎をつくり上げる

 藤原基経は初の摂政・関白・太政大臣を務め、いわゆる藤原摂関家隆盛の基礎をつくりあげた人物だ。清和天皇・陽成天皇・光孝天皇・宇多天皇の四代にわたり朝廷の実権を握った。また陽成天皇を暴虐だとして廃し、光孝天皇を立てたほか、次の宇多天皇のとき「阿衡事件」を起こして、天皇をも凌ぐ権勢を世に知らしめた。時の天皇もこの基経には、細心の気を使いながら詔(みことのり)するありさまだった。まさに怪人だ。基経の生没年は836(承和3)~891年(寛平3年)。
 藤原基経は藤原一族の中でも最大の権勢を誇った藤原北家、藤原長良の三男として生まれた。母は仁明天皇の女御沢子(たくし)と姉妹の関係にある藤原乙春(おとはる)。正室は仁明天皇と沢子との間に生まれた人康(さねやす)親王の娘だ。幼名は手古。官位は従一位、贈正一位。堀河大臣と号した。漢風諡号は昭宣公。
 太政大臣だった叔父・藤原良房に見込まれて養嗣子となり、養父の死後、氏長者となった。851年(仁寿1年)、16歳で文徳天皇から加冠されて元服し、852年(天安2年)に即位した清和天皇のもとで蔵人頭となり、864年(貞観6年)には29歳で参議となった。2年後の「応天門の変」で源信の無実を伝え、伴善男が失脚した後、7人を抜いて中納言となり、872年には正三位右大臣となった。基経37歳のときのことだ。とんとん拍子の栄進は、もちろん養父の後ろ楯によるが、彼は政治家として非凡の器だった。
 基経の政治と特色は、養父良房の先例を、法的に整合性を持った体系として位置づけようとした点にあり、後世に先例として尊重された。
 876年、清和天皇が27歳の若さで突如退位し、即位したのはわずか9歳の陽成天皇だった。時の実力者は天皇の母高子(こうし)の兄、基経だった。彼が摂政となって事実上朝政をみることになった。陽成天皇は乳母を手打ちにしたり、宮中で馬を乗り回したり、小動物に悪戯をして殺生を重ねたその風狂ぶりは目に余るものがあり、周囲のものは天皇に翻弄されるばかりだったとも伝えられる。そんな天皇もある日、書簡を寄せて、病気のため譲位の意向をほのめかした。そこで基経も天皇の退位を企図。彼は皇位継承者の人選を進め、55歳の時康(ときやす)親王(=光孝天皇)の擁立を決めた。時康親王の母と基経の母とが姉妹だったこと、時康親王自身が政治に無関心だったことも基経が政務を独占するのに好都合だったからだ。
 基経の独裁ぶりはまだまだ続く。それから3年後の887年(仁和3年)、天皇の病気が重くなったのを機に、基経は天皇の皇子で臣籍に下っていた源定省(さだみ)を親王に復させ、皇太子に立てた。そして、光孝天皇の崩御に伴い即位、宇多天皇を実現させた。つまり、当代きっての実力者で関白の基経が、その権勢を背景として事実上、皇位継承の方針を決め、源定省を親王に復帰させ、ほぼすべての手順が基経の意向通り運ばれたのだ。その結果、基経の強烈な権力志向はとどまるところを知らず、新帝=宇多天皇との間に齟齬をきたした。そして、遂に「阿衡の紛議」が発生した。
 887年(仁和3年)、宇多天皇の即位後まもなく、摂政、太政大臣基経に対し、基経への関白任命が発令された。この就任要請の中に記された一文、「阿衡」の解釈をめぐって、基経が意地を通したのだ。彼は頑なに出仕を拒み、その期間は半年以上にも及んだ。この事件は橘広相と藤原佐世を中心に多くの学者間の論争に発展した。この事件には、この機会を捉え自己の意向を押し通し、関白の地位を不動のものにしようとする基経の政治的思惑が強く働いていたことは間違いない。そして、基経の狙い通り決着した。
 こうして確立された藤原北家の比類なき権勢は、基経の子供世代、時平・仲平・忠平に引き継がれていく。
(参考資料)笠原英彦「歴代天皇総覧」、北山茂夫「日本の歴史・平安京」

前田慶次郎・・・文武両道に秀でた、戦国を代表する「かぶき者」

 前田慶次郎は戦国時代を代表する「傾奇(かぶき)者」といわれる。前田利家の義理の甥。武勇に優れ、古今の典籍にも通じた人物でもあったようだが、史料は少なく、謎の多い人物だ。面白い逸話が多いのだが、それが真実かどうか、それを裏付ける史料もまた少ない。しかし、その少ない史料をつなぎ合わせると、まさに怪人というほかない。

 前田利益(まえだとします、慶次郎)は尾張国旧海東郡荒子(現在の名古屋市中川区荒子)で生まれた。幼名は宗兵衛。通称は慶次郎、慶二郎、啓次郎など。彼を題材とした漫画「花の慶次」の影響で、前田慶次という名前で呼ばれることも多い。諱は利益のほか、いくつもあるが、史料では利太(としたか)あるいは利大(としひろ、としおき)、利貞(としさだ)などの名が伝わっている。
養父は前田利久(前田利家の兄)。妻は前田安勝の娘で、間に一男三女をもうけた。嫡男の前田正虎は従兄弟の前田利常に仕えた。慶次郎は早くから奇矯の士として知られていたが、単に変わり者というだけでなく、文武両道に秀でた人物だったようだ。

 慶次郎が有名なのは「傾奇者」としてだ。とくに養父の前田利久が病没して、しがらみがなくなってからは、利家との決別を決意。利家が自慢にしていた名馬「谷風」にこっそり乗って、金沢を出奔したという。その後、上洛した慶次郎は浪人生活を送りながら、里村紹巴・昌叱父子や九条○道・古田織部ら多数の文人と交流。たちまち洛中の有名人となり、後に豊臣秀吉から「心のままにかぶいてよろしいと」いう、いわゆる「傾奇免許」を得たという話もある。

 浪人時代は「穀蔵院○戸斎(こくぞういん・ひょっとさい)」「龍砕軒不便斎(りゅうさいけん・ふべんさい)」と名乗った。「鷹筑波」「源氏○宴之記」によると、「似生」と号し、多くの連歌会に参加した。

 秀吉が亡くなると、天下は再び動き始めた。徳川家康による上杉家討伐の話を聞くと、慶次郎は朱塗りの槍を抱え上杉家に馳せ参じた。上杉景勝は慶次郎が見込んだ唯一の戦国大名であり、その重臣の直江山城守兼続は慶次郎の文武の友だ。慶次郎は傾奇者として冥利を感じつつ、武者ぶるいして戦いに挑もうとしていたが、相手の家康が上杉家を攻める軍勢を進めていたときに、西で石田三成が挙兵。家康は反転して西に向かった。後に「関ケ原の戦い」と呼ばれる合戦に臨むためだ。上杉軍としては兵法の常識として家康を追撃し、石田三成率いる西軍と呼応して挟撃すべきだ。しかし、そうはしなかった。なぜだか、正確には分からない。そして、当面の相手を失った上杉家は隣の最上家の攻略に矛先を向ける。

 ここで最上領を攻めていた上杉軍に想定外のことが起こる。関ケ原の戦いが思いのほか、短時間で東軍が勝利を収め集結。こうなれば家康がとって返してくるのは目に見えている。最上領を早急に撤退して守りを固めるほかない。味方を無事に退却させるために、上杉家の名軍師といわれ、世に知られた直江兼続が3000騎を率いて殿軍(しんがり)を務め、退却戦を行うことになった。追う相手の最上軍は2万騎。圧倒的な兵力差だ。瞬時に壊滅させられてもおかしくないところだ。
しかし、この殿軍は類をみないほどの頑強な抵抗を示した。「北越○談」によると、この戦いは10時間の間、距離にしてわずか6キロの間で28回の戦闘が行われたという激烈なものだったという。

 しかし、3000対20000の兵力の差は歴然、闘うたびに兵が減ってどうにもならなくなり、兼続は自分が相手に討ち取られて味方の士気が落ちることを恐れ、切腹しようとした。それを止めたのが前田慶次郎だ。「上杉将士書上」によると、慶次郎はわずか5人ばかりを引き連れて最上軍に突進した。
慶次郎と、このたった5人の猛烈な攻撃に何と最上軍は右往左往にまくりたてられ、遂に逃げ出したという。その間に兼続は堅固な陣を張ることができ、虎口を脱することができたという。捨て身の策とはいえ、わずか5人で戦局がこれほど劇的に変わることあるのか、とても信じ難いことだ。

 さらに問題なのはこのときの慶次郎の年齢だ。「米沢史談」によると、慶次郎が生まれたのは1541年となっている。とすると、このとき満年齢にして59歳。また「加賀藩史料」にあるように1605年に73歳で亡くなったとすると、このとき67歳ということになる。平均寿命が短く、40歳にもなると老兵といわれ、滅多に戦場に赴くことなどなかったこの時代にである。どちらの年齢であったとしても、とても常人とは思えない。

(参考資料)海音寺潮五郎「乱世の英雄」