山岡鉄舟・・・江戸100万市民を戦火から救った江戸無血開城の陰の功労者

 明治維新の際、江戸城を平和のうちに明け渡し、江戸100万の市民を戦火から救った功労者の一人に、剣客山岡鉄舟がいた。江戸城明け渡しのための、西郷隆盛と勝海舟との江戸高輪の薩摩屋敷での会見には、実はこの山岡鉄舟も同席していた。

 会談が終わって、夕暮れ近くなってから、海舟が西郷を薩摩屋敷近くの愛宕山に誘った。愛宕山の上から江戸の市中を見て「明後日は、この江戸も焼け野原になるかもしれない」というと、西郷はそれには答えず、「徳川家はさすがに300年の大将軍だけあって、えらい宝物をお持ちですなあ」という。海舟が「徳川家の宝物とは何ですか」と聞く。すると、西郷はこの会談で西郷の身辺警護のためにずっと一緒にいた鉄舟をさして「あの人ですよ。あの人はなかなか腑の抜けた人だ。ああいう人は命もいらない。名もいらない。カネもいらない。実に始末に困る人だ。ああいう始末に困る人でなければ、天下の大事は共に語れない」と、こういう批評をした。

 鉄舟は江戸進軍の途中の西郷にすでに会っていた。上野寛永寺に謹慎中の徳川慶喜は、官軍の江戸入りを前に、静寛院宮ほか公卿を通じて恭順の意を伝える、いろいろな運動をしていた。それらがあまり成功しない中で、慶喜は側近の高橋泥舟に官軍の首脳部に直接交渉してくれるよう頼んだ。泥舟は辞退し、彼が最も信頼のおける人物として、義弟の鉄舟を推薦した。この時まで無名の剣客に過ぎなかった鉄舟は、慶喜の恭順を確かめたうえで、この大役を引き受けた。鉄舟は軍事総裁だった勝海舟に初対面した後、友人の薩摩藩士益満休之助を伴って、押し寄せる官軍の群れをくぐり抜け、駿府(現在の静岡)に陣取っていた西郷隆盛のもとまで出かけた。

 鉄舟の使命は「江戸城は平和裏に明け渡す。慶喜があくまで恭順の意を示していることを伝え、この慶喜を入城後の官軍がどう処するかを確認すること」などだった。勝と西郷との談判の前に、実は駿府での西郷、山岡の下交渉があって、これこそが劇的だったのではないかとの見方がある。勝海舟からの親書と、同伴の薩摩藩士益満休之助に助けられたとはいえ、無官の剣客鉄舟の、官軍総参謀西郷との談判は至難の交渉だったろう。西郷に対し権謀術数ではなく、死を覚悟して、ただ自分の誠心誠意をもってむき出しにいく。こうした鉄舟の姿勢、人間性が西郷の琴線に触れ、江戸無血開城となって結実したといえよう。

 徳川家の三河以来の旗本で、小野家というのがある。本家は210石余の身代だ。分家が四軒あるが、その一つに600石の身代の家がある。その何代目かに朝右衛門高福がいた。妻妾に7人の子女を生ませたが、妻と死別したので、常陸の鹿島神宮の神職塚原石見の二女磯と再婚して6人の男の子を生ませた。その後妻の生んだ一番上の子が、後に山岡鉄舟となる鉄太郎だ。

 鉄太郎は、天保7年6月10日江戸で生まれた。彼は武術に対して天性の素質と興味があった。小野家も代々武術に興味のある家柄だったが、母の生家塚原家は卜伝を出した家で、武術家の血筋だ。両家の遺伝だろう。9歳の時に、久須美閑適斎について、新影流の剣術と樫原流の槍術とを学んだ。11歳の時、父が飛騨高山の代官となって赴任したので、鉄太郎も連れていかれたが、ここで井上清虎について北辰一刀流を学んだ。井上は千葉周作の高弟だ。

 明治5年(1872)、鉄舟は西郷の推薦で明治天皇の侍従となった。平安朝以来、女官たちに囲まれていた天皇の生活に、武骨な男子の気風を注ぎ、宮中の空気を一変させようという西郷の宮中改革に協力したものだった。天皇の側近になってからも、鉄舟は一般の人と積極的に交わった。『怪談牡丹灯籠』をはじめ、多くの名作を生み、明治落語界の巨匠といわれた三遊亭円朝も、鉄舟の弟子の一人だ。

(参考資料)海音寺潮五郎「幕末動乱の男たち」、海音寺潮五郎「江戸開城」、「日本史探訪22 /山岡鉄舟」(坂東三津五郎・大森曹玄)、五味康祐「山岡鉄舟」         
                    

由利公正・・・横井小楠の「王道政治」を徹底して実践した男

 越前藩士で当時、三岡八郎といっていた由利公正は、「藩富」のための殖産興 業を奨励した横井小楠の経営哲学を徹底して実践した。横井小楠は「地球上に も、有動の国と無道の国がある。有動の国というのは、王道政治を行っている 国のことだ。無道の国というのは覇道政治を行っている国のことだ。王道政治 というのは民に対して仁と徳を持ってのぞむことだ。覇道政治というのは、民 に対して力と権謀術数を持ってのぞむことである」と定義した。
由利公正は幕末から明治にかけて活躍した英傑だ。彼が仕えたのは名君とい われた松平慶永(春岳)である。慶永は他家から入った養子なので、有能なブレーンを次々と登用した。その一人が藩の医者だった橋本左内であり、また九州熊本から招いた既述の横井小楠だ。小楠は家老よりも上席のポストも貰って、藩士たちに学問を教えた。三岡八郎はこの小楠の考えに共感した。そして尊敬し、教えを受けるために小楠の家を訪ね、小楠も八郎の家にやってきた。二人でよく酒も飲み交わした。

 越前藩は32万石の大藩だが、藩の財政は貧乏のどん底にあった。そのため、寛永年間、幕府から正貨2万両を借り入れ、これを基礎として4万両の藩札を発行し、必要ある場合いつでも正貨と交換するという兌換制度をつくった。これがわが国における藩札発行のはじめだ。同藩の窮乏は脱出できず、藩札は増発され、結局は不換紙幣となってしまうのだが、明治政府の財政担当者第一号が越前藩士から出るそもそもの機縁はここにあった。

 横井小楠の教えに従って、越前藩でも産業奨励を行うことになった。その責 任者に選ばれたのが三岡八郎だ。八郎は「藩が富むためには、民がまず富まな ければならない」ということを実行しようと企てた。その方法として・藩内で 生産される製品に、付加価値をつけて高く輸出できるようにする・藩に物産総 会所を設ける・藩内の生産品は物産総会所が買い上げる。この時は、藩札をも って支払いに充てる。そして、これを売り払った時の収入は正貨とする-とし た。藩札の使用などは他の藩とそれほど変わらない。しかし、藩が設けた物産 総会所の運営を商人に任せたことは、他藩より一歩進んでいた。
 藩が物産総会所を持つということは、藩が商社をつくったということだ。藩 が藩内物産の専売を行うということは「武士が商人になること」であり、同時 に「藩(大名家)が商会化した」ということだ。つまり商人のお株を奪って、 武士と武士によって組織されている大名家が前垂れ精神を持って商売を始めた ということだ。だから、三岡八郎は「あいつは銭勘定ばかり堪能で、武士にあ るまじき振る舞いをしている」とバカにされてきた。ところが、横井小楠の出 現により、これまでの八郎に対する批判が間違いだと指摘されたのだ。
 横井小楠は英国を例に「自国の産業革命以来生産過剰になった物品を売りつ けるために、アジアをマーケットにしようとした。しかし、いうことを聞かな い中国にはアヘン戦争を起こして、無理矢理自国の製品を買わせている。あん なやり方は王道ではない。覇道だ。いまの世界で王道を貫けるのは日本以外な い。そうすれば、日本の国際的信用が高まり、多くの国々が日本のマネをする ようになるだろう。日本は世界の模範にならなければならない」と唱え続けた。 その国内における実験を越前藩で実行する三岡八郎も「越前藩の藩内生産品に 付加価値をつけて高く売るといっても、おれは覇道を行うわけではない。商業 を通じて、王道を実践するのだ」という自信を持っていた。
 三岡八郎は明治維新になってから、由利公正と名を変える。彼の新政府にお ける最初のポストは財政担当だった。新政府の参与に推薦されたが、カネの全 くない財政運営がその任務だ。普通なら冗談じゃないと抗議するところだが、 彼には越前藩での財政改革の経験がある。彼以外に財政問題には体験も見識も なかった。そのため、そのリーダーシップはおのずと由利公正が握るところと なった。彼は慶応年間から明治にかけて、寝る間も惜しんでこの仕事に専念し た。素人ばかりの明治新政府にあって、由利公正の財政的手腕、経歴は断然傑 出していた。

 由利公正はその後、東京府知事や元老院議官にもなった。明治維新直後に「議 事之体大意」という国事五箇条を提出した。これが、後の「五箇条のご誓文」 の原案になる。

(参考資料)尾崎護「経綸のとき 近代日本の財政を築いた逸材」、童門冬二「江戸商人の経済学」、小島直記「無冠の男」

山田方谷・・・農民出身ながら藩政を代行 河井継之助が学んだ藩政改革の師

 最近ようやく注目を浴びるようになったが、山田方谷(やまだほうこく)の名を知る人はまだまだ少ないだろう。農民出身ながら徳川幕府最後のとき、首席老中を務めた備中松山藩(現在の岡山県高梁市)藩主・板倉勝静に代わって、家老として藩主の留守を守り抜き、藩政を代行した人だ。もっと知られているのが、明治維新直前の越後長岡藩を率いた河井継之助が学んだ藩政改革の師だ。

 岡山駅から鳥取県の米子に通ずる鉄道がある。伯備線という。この伯備線の備中高梁駅は山田方谷が活躍した最大の拠点だ。臥牛山と呼ばれる城山の山頂に松山城がある。麓に「牛麓舎」という塾の跡が残されているが、これが方谷の塾だ。このあたりには方谷林とか方谷橋など方谷の名がつけられた市民施設がたくさんある。それほど山田方谷は現在の高梁市民にとって誇れる存在なのだろう。伯備線でさらに20分ほど北へ向かうと「方谷」という駅に着く。この駅名も山田方谷の名を取ってつけられた。鉄道当局の強硬な反対に遭ったものの、最終的に住民たちの熱意が受け入れられ、全国のJRの駅の中でも珍しい人名が駅名となった第一号だった。

 山田方谷を登用した藩主板倉勝静は、もともと板倉家の人間ではない。板倉家の先祖は、京都所司代として有名な勝重であり、その子重宗である。勝静は桑名藩主松平定永の第八子で、天保13年(1842)に板倉家の当主勝職の養子となり、嘉永2年(1849)、27歳の時に藩主の座を継いだ。桑名の松平家は、「寛政の改革」を推進し、“白河楽翁”の号で有名な松平定信の子孫だ。こうした名家の血か、勝静は幕府の老中になることを熱望した。

 ただ、それには大きな障害を克服しなければならなかった。障害とは藩が極貧状態にあることだった。この頃、松山藩は窮乏のどん底にあり、藩の収入が雑税を含めて一切合財、換金しても5万両だというのに、その倍の10万両の借金を抱え込んでいた。これを解決しない限り、勝静の中央政界への進出は夢のまた夢だった。だが、勝静は山田方谷を登用することで、その夢を現実のものとした。全国政治に関わりたいという激烈な願望に突き動かされて、当時としては破天荒ともいえる方谷の登用をやってのけたことで、勝静は歴史に名を残すことができたのだ。

 方谷こと山田安五郎は文化2年(1805)、農業と製油業を営む山田五郎吉を父に、阿賀郡西方村に生まれた。家計は窮迫していたが、もとは武士だという家伝を誇りにしていた五郎吉は、苦しい中を息子の安五郎の教育に心をかけ、5歳の時、松山藩の北隣の新見藩儒丸山松隠のもとに入門させた。丸山塾で安五郎 はたちまち神童という評判をとり、6歳の時、新見藩主の面前で字を書いて見せたという。百姓の子が他藩主の前に出るなどということは異例中の異例のことだ。文政2年(1819)、15歳の時、父母を次々に亡くし、丸山塾での勉学を断念、西方村に帰り家業を継ぎ、鍬をふるい、製油業にも励んだ。17歳で結婚。

 家業に励みながらも、学問への願望はやみがたいものがあった。その方谷に運が拓ける。勝静が養子に入る前の松山藩が、方谷の学才を惜しんで、二人扶持を給してくれることになったのだ。一種の奨学金だ、藩校有終館での修学も許された。21歳の時のことだ。そして3度の京都への遊学、この過程で名字帯刀が許され、八人扶持を給される身となり、4度目は江戸へ遊学。当時の儒学の最高権威者であった江戸の佐藤一斎のもとでの2年余りの時間が、方谷をより大きくした。

方谷は佐久間象山と学問上のことで大激論し、互いに一歩も譲らなかったという。天保7年、帰藩した方谷は遂に藩校有終館の学頭となった。32歳だった。以来、城下に屋敷をもらい、私塾を開くことも許された。備中松山藩の藩儒としての方谷の地位は、これで不動のものとなった。
 嘉永2年(1849)、当主の養子で世子の勝静が襲封して新藩主となり、方谷を藩財政一切を任せるに等しい元締役兼吟味役として抜擢、登用する。身分制度の激しい当時のこと、百姓上がりの儒臣がいきなり藩政の中枢のポストに就くことには周囲の重臣たちの大反発があり、方谷自身もいったんは辞退した。しかし、方谷を使う以外に窮迫した藩財政を立て直す道はないとみた勝静の決意は固く、藩内の反対を抑え込んだことで、方谷も新藩主の期待に応えることを決心する。方谷45歳、勝静27歳のことだ。
 嘉永3年(1850)から備中松山藩の大改革が始まった。藩主から全権を委ねられて方谷は・自ら債権者が集中する大坂まで出向いて藩の内情を公開し、返済期限の5年ないし10年への変更、新しい借金はしない、借りた場合は必ず返済する・倹約(藩士の減俸、奢侈の禁止、宴会や贈答の禁止)・自分の家の出納を第三者に委任、家計を公開・撫育局を設置し殖産興業に務める-などを断行。

こうした一方で農兵制を敷いて「里正隊」を編成するなど軍制改革も行った。また、民間人のための学問所、教諭所を新設。貯倉を40カ所も設けて凶年に備えた。このほか、河川を活用して運送を便利にした。こうした諸施策が奏功、松山藩の方谷の改革は見事に成功した。この結果、藩主・勝静の中央政界への進出の夢実現の環境がようやく整ったわけだ。

(参考資料)童門冬二「山田方谷」、奈良本辰也「日本史の参謀たち」

矢部定謙・・・鳥居耀蔵の策謀に遭い、南町奉行を罷免された優れた幕臣

 矢部定謙(やべ・さだのり)は江戸時代・天保年間、庶民の間でも支持された南町奉行だったが、鳥居耀蔵の策謀に遭い、罷免され、失意のうちに悲惨な最期を遂げた。矢部は1841年(天保12年)南町奉行職を罷免された。在職期間はわずか8カ月だった。代わって南町奉行職に就任したのがその鳥居だった。そこで世間では今日風に表現すれば、大きなブーイングが起こった。

当時、江戸の巷で矢部と鳥居がどのように見られていたかを示す落首がある。「町々で お(惜)しがる奉行の 矢部にして どこが鳥居で 何がよふ蔵」。当時の矢部の声望と、鳥居の人気のなさがほぼ察せられる。このあと鳥居は南町奉行として、水野忠邦が推進した「天保の改革」の一翼を担い、徹底的な酷吏ぶりを発揮して、世間から妖怪(耀甲斐=甲斐守耀蔵を逆さにもじり、“ようかい”にかけたもの)と恐れられ、疎まれるようになるのだ。

 矢部定謙は、幕臣・矢部彦五郎定令の子として生まれた。名は父と同じ彦五郎と称した。持高300俵の身分から矢部は徒士頭(かちがしら)、御先手頭を務め、1828年(文政11年)火付盗賊改役となり、1500石を賜り、左近将監(さこんしょうげん)を名乗った。矢部の生没年は1789(寛政元)~1842年(天保13年)。

 矢部の出世は火付盗賊改役のとき、老中・大久保加賀守に命じられて、三之助という悪党を捕縛し、当時の町奉行所の悪弊を一掃したことに始まった。三之助は町奉行所の手付同心、神田造酒右衛門の手先で、武家屋敷へ中間や小者を送り込む人宿(ひとやど)を生業としていた。自分も中間部屋の頭として住み込み、旗本屋敷で賭場を開き、莫大なテラ銭を稼いで産を成したのだ。

 しかも三之助は頭のいい男で、常に火付盗賊改役の旗本屋敷に住み込み、そこで博打をやるので、絶対に捕吏に踏み込まれることがない。さらに見逃し賃として両町奉行の与力や両番所の定回りなどに付け届けをし、住み込んだ屋敷の旗本や用人にも同様のことをしていたから、誰に咎められることもなかった。こういう男が常々、まかり通るほど、当時の幕府の役人たちは内情が腐っていたのだ。とにかく、この三之助召し捕りがきっかけとなり、矢部は堺奉行に栄転し、駿河守に叙任された。

 矢部は1833年(天保4年)に大坂町奉行へ昇進、3年後の1836年(同7年)には役高3000石の御勘定奉行へと進み、順風満帆の出世街道を歩いた。矢部が大塩平八郎と知り合ったのは大坂町奉行の在職中で、当時、平八郎は大坂東町奉行所の与力を38歳の若さで退き、中斎と号し、陽明学に打ち込んでいた。矢部が西町奉行として赴任した頃は、大塩はすでに隠居していたが、彼は大塩の気骨、学殖を高く買い、しばしば招いて相談相手としていたようだ。要するに、矢部は大塩の人物を知り、男同士、肝胆相照らすものがあったのだ。

 矢部は天保8年、御勘定奉行の栄職から西ノ丸御留守居へと左遷された。これは、すべて彼の“硬骨”によるものだ。というのは前将軍・家斉が住んでいた西ノ丸が焼け、幕府の老中たちがこの大御所のため早速再建を企画したが、矢部が「(当時)凶作の後、諸国は困窮している。だから当面三ノ丸で過ごしてもらい、時を待って修理、再建すればいいのではないか。それが国を治める道ではないか(要旨)」と一人で、これに反対を唱えたため、前将軍の怒りを買ったのだ。一見、無謀とも思える発言をしてしまったのだ。

 しかし、実力派・矢部は2年後、願い出て小普請支配に転じる。そして、その2年目、彼は今度は南町奉行として見事に返り咲くのだ。前将軍の怒りを買って、左遷されてから4年目のことだ。ここでまた矢部は、北町奉行・遠山景元と協同して、水野忠邦が推進した「天保の改革」に対抗した。ただ、この復活は冒頭に述べたとおり、鳥居耀蔵の策謀により罷免され、わずか8カ月に終わった。1842年(天保13年)、預りとなった伊勢桑名藩で矢部は自ら絶食、死去した。没後、矢部の見識の正しさが証明された。このため、川路聖謨(かわじとしあきら)ら幕末期の官僚からは、矢部の非業の死を惜しまれることになった。

(参考資料)童門冬二「江戸管理社会反骨者列伝」、白石一郎「江戸人物伝」

山本常朝・・・江戸時代の代表的な武士道書『葉隠』の口述者

 「武士道と云うは死ぬ事と見付けたり」という有名な一節で知られる『葉隠』。この江戸時代の代表的な武士道書の口述者が山本常朝だ。山本常朝は第二代佐賀藩主鍋島光茂に30数年間にわたって仕えた人物で、『葉隠』は常朝の口述を田代陣基(つらもと)という武士が書き留めたものだ。

『葉隠』は戦時下で取り上げられたことも加わって誤った捉え方をする向きもあるが、他の死を美化したり、自決を推奨する書物とひと括りにすることはできない。『葉隠』の中には、嫌な上司からの酒の誘いを丁寧に断る方法や、部下の失敗をうまくフォローする方法など、現代のビジネス書や礼法マニュアルに近い内容の記述も多い。山本常朝の生没年は1659~1719年。

 山本常朝は佐賀藩士、山本重澄(しげずみ)の二男四女の末子として生まれた。幼名は松亀。通称は不携(ふけい)、名は市十郎、権之允(ごんのじょう)、神右衛門。9歳のとき、二代藩主光茂に御側小僧として仕え、14歳のとき小々姓となった。20歳で元服し、御側役、御書物役手伝となったが、まもなく出仕をとどめられた。その後、禅僧湛然(たんねん)に仏道を、石田一鼎(いってい)に儒学をそれぞれ学び、旭山常朝(きょくざんじょうちょう)の法号を受け、一時は隠遁を考えたこともあった。22歳のとき再び出仕し、御書物役、京都役を命じられた。

 常朝は42歳のとき、光茂の死の直前に、三条西家から、和歌をたしなみ深い光茂の宿望だった「古今伝授」の免許を受けて、その書類を京都より持ち帰り、面目を施した。光茂の死に際し、職を辞し、追腹(殉死)を願ったが、追腹禁止令により果たせず、願い出て出家。佐賀市の北方にある金立山の麓、黒土原(くろつちばる)に草庵を結び、旭山常朝と名乗って隠棲した。

 田代陣基が三代藩主綱茂の祐筆役を免ぜられ、常朝を訪ねたのは常朝51歳のときのことだ。陣基が常朝のもとに通い始め、実に7年の歳月を経て1716年(享保元年)、常朝の口述、陣基の筆録になる『葉隠』11巻が生まれた。その3年後の1719年(享保4年)、山本常朝は死んだ。

 『葉隠』の要点の一部を紹介する。生か死か二つに一つの場所では、計画通りにいくかどうかは分からない。人間誰しも生を望む。生きる方に理屈をつける。このとき、もし当てが外れて生き長らえるならば、その侍は腰抜けだ。その境目が難しい。また当てが外れて死ねば犬死であり、気違い沙汰だ。しかし、これは恥にはならない。これが武士道において最も大切なことだ。毎朝毎夕、心を正しては、死を思い死を決し、いつも死に身になっているときは、武士道と我が身は一つになり、一生失敗を犯すことなく、職務を遂行することができるのだ。

 我々は一つの思想や理想のために死ねるという錯覚にいつも陥りたがる。しかし、『葉隠』が示しているのは、もっと容赦ない死であり、花も実もない無駄な犬死さえも、人間の死としての尊厳を持っているということを主張しているのだ。もし我々が生の尊厳をそれほど重んじるならば、死の尊厳も同様に重んじるべきだ。いかなる死も、それを犬死と呼ぶことはできないのだ。

 常朝はほかに、養子の常俊に与えた『愚見草』『餞別』、鍋島宗茂に献じた『書置』、祖父、父および自身の『年譜』などの著述がある。

(参考資料)奈良本辰也「叛骨の士道」、奈良本辰也「日本の名著 葉隠」、三島由紀夫「葉隠入門」、童門冬二「小説 葉隠」

山脇東洋・・・日本で初めて人体解剖を行った実験医学の先駆者の一人

 山脇東洋は江戸時代中期、日本で初めて人体解剖を行った実験医学の先駆者の一人で、このときの日本最初の人体解剖記録が、当時の医学界に大きな衝撃と影響を与え、後の時代の前野良沢、杉田玄白らのオランダ医学書のより正確性の高い翻訳事業につながっていくのだ。その意味で、山脇東洋は日本の医学の近代化に大きく貢献した人物だ。東洋の生没年は1706(宝永2)~1762年(宝暦12年)。

 山脇東洋は丹波国亀山(現在の京都府)の医家清水玄安の子として生まれた。名は尚徳、字は玄飛または子樹、号は移山、後に東洋と称した。幼いころから学問に長じ、父の没後も医学の研修に専念していたが、その才の非凡さは早くも周囲の驚異の的となっていた。

東洋が22歳のとき、父の師であった京都の医官山脇玄修の眼にとまり、山脇家の養子に迎え入れられた。山脇家は由緒ある医学界の名門であり、玄修の父玄心は宮中の侍医となり法印の位にも昇ったほどの医家。養子に入ってから数年間は、養父玄修について医を学んだが、東洋にとって気ぜわしい歳月だった。

 1727年(享保12年)養父玄修が死去したため、東洋は山脇家の家督を継いだ。そして家督相続の御礼言上の目的で京都から遠く江戸へ赴き、第八代将軍吉宗に御目見えをした。東洋24歳のことだ。翌年、法眼に任ぜられ、2年後には中御門天皇の侍医を命ぜられた。しかし、東洋は名門の当主であることに満足していなかった。

彼は一人の医家として、医学への知識追究に異常なほどの熱意を抱いていたのだ。そこで彼は当代随一の古医方の医家、後藤艮山(こんざん)に師事。後藤の医学に対する思想そのものともいえる実証精神を学んだ。その際立った業績の一つが、1746年(延享3年)、唐の王_(おうとう)の著書『外台秘要方(げだいひようほう)』(40巻)の復刻だ。この書は幕府医官、望月三英が秘蔵していた漢方医学書で、東洋はそれを借り受けると私費で翻訳し、書物として刊行したのだ。東洋42歳のことだ。これにより彼は古医方家としての声価をいよいよ高めた。

 また、人体の内部構造についての五臓六腑説に疑いを持ち、先輩の話を聞いたり、内臓が人間に似ているといわれていた川獺(かわうそ)を自ら解剖したりしたが、疑問は解けなかった。それだけに、東洋は人体の内部を見たいという願望を熱っぽく抱くようになっていた。

そんな東洋に1754年(宝暦4年)、夢想もしなかった幸運が訪れた。それは京都六角の獄で5人の罪人が斬首刑に処せられたことから発したものだった。当時の京都所司代は若狭藩主酒井讃岐守忠用だったが、斬首刑が行われたことを知った、東洋の門人でもあった同藩の医家3人が、東洋に代わって刑屍体の解剖許可を酒井候に願い出たのだ。常識的にはそれは一蹴されるべきものであり、逆に厳しい咎めを受けかねないものだったが、所司代酒井忠用は深い理解を示して、それを許可した。その結果、東洋が長年願い続けながら到底不可能とあきらめていたことが実現することになった。

こうして東洋以下3人の医家たちは、初めて人体の内部構造を直接観察した。東洋たちは次々にあらわれる臓器に眼を凝らし、メモを取り絵図を描くことに努めた。このときの観察記録が1759年に刊行された『蔵志(ぞうし)』で、この書は日本で公刊された最初の人体解剖記録だ。漢方医による五臓六腑説など、身体機能認識の誤謬を指摘した。国内初の人体解剖は蘭書の正確性を証明し、医学界に大きな衝撃と影響を与えた。

東洋の影響を受け、江戸で前野良沢、杉田玄白らがより正確性の高いオランダ医学書の翻訳に着手する。ドイツ人クルムスが著した原書のオランダ語訳の、あの『ターヘル・アナトミア』という解剖書だ。突き詰めていえば先人の山脇東洋がいたからこそ、あの当時、前野良沢による翻訳が進み、『解体新書』が生まれたともいえるのではないか。

(参考資料)吉村昭「日本医家伝」