松平定信・・・ “田沼詣で”の屈辱が、私心から田沼政治の全否定に

 白河楽翁といわれ、名君の誉れ高い松平定信は、若い頃から清潔な身の処し方で有名だった。政治に対する高い理念もあった。だが、彼が生きた時代は田沼時代だ。田沼意次が老中首座として諸政策を展開していた時期だが、周知の通り田沼は大の賄賂好きだった。そのため“田沼詣で”の大名や旗本たちで連日、田沼邸はあふれた。ある日、そんな群れに松平定信の姿が加わった。定信が20代のころのことだ。清廉潔白を絵に描いたような松平定信にも、文字通り、“汚職”宰相、田沼意次に贈賄した“汚点”があった。そして、そのときの屈辱が後に定信が宰相になった際、田沼政治の全否定となって表れたのだ。

松平定信は、自分が否定し、心の底から忌み嫌う賄賂好きの田沼のところになぜ出かけていったのか?当時の権力のしくみが田沼詣でをしなければ、絶対に出世できなかったからだ。それほど田沼の権勢は絶大だったのだ。もちろん田沼詣でを決行するまで定信は悩みに悩んだ。清潔な生き方に取り返しのつかない汚点になるからだ。しかし、それと引き換えにしても定信は老中になりたかった。幕閣に参加して、自分の政治理念を実現してみたかったのだ。

 そんな重い決断をして出かけた定信に対し、田沼はあいまいな返事しかしなかった。それは定信が尊大な態度で、気取って格好をつけ、名門の自分が頼みに行きさえすれば田沼は何とかするだろうと、たかを括っている様子がみえたからだ。
田沼自身は足軽からの成り上がり者だから、名門だとか貴公子だとかは、もうそれだけで嫌いなのだ。田沼邸に日参する人たちは目的のためにはなりふり構わないではないか。それに対し、この青年(定信)は人の世の苦労を全く知らぬ。人にものを頼む態度ではない-と映ったのだ。しかも、土産もろくなものを持ってきていない。

田沼は賄賂をもらうことを全く悪いとは思っていない。連日田沼邸に持参される、いい品物や金は私に対する誠意の表れだ。だから、私は誠意に応える。その品物がよければよいほど、金が多ければ多いほど私はその人を重い役に就ける-などと田沼は公言したから、田沼邸には賄賂の金品が山のように積まれ、持参した人たちであふれたのだ。

 名門の貴公子(定信)が身を屈しての猟官運動に、色よい返事をしなかった田沼に、この日、定信は手ひどく面子を潰された。そして、それは田沼への深い遺恨となった。その後、松平定信は待望の老中になった。しかし、田沼の推挙によってではなかった。田沼の強力な後見人だった第十代将軍・家治が死んだからだ。政変が起こった。30歳の宰相、松平定信は人事異動で田沼派を一掃した。このとき罷免した高級官僚は数十人に及んだ。中でも田沼意次に対する処分は苛酷を極めた。老中職を解かれたうえ、相良(静岡県)二万石を没収され、江戸にあった邸もすべて没収、蟄居させられた。孫の意明(おきあき)に辛うじて一万石くれたが、領地は東北と越後(新潟県)の荒蕪地だった。

 松平定信が行った「寛政の改革」は“潰された面子、屈辱感からの報復”だった。一度でも田沼詣でを行った自身への自己嫌悪と、それを増幅するあの日の屈辱感がエネルギー源になっていた。広く万民のためではなく、所詮、私心から発せられたものだ。そのために、定信の改革は失敗した。

 松平定信は御三卿田安宗武の七男として生まれた。幼名は賢丸。生没年は1759(宝暦8)~1829年(文政12年)。幼少期から聡明で知られており、田安家を継いだ兄、徳川治察が病弱かつ凡庸だったため一時期は田安家の後継者、そしていずれ将軍家治の後継者とも目されていた。
しかし、当時は田沼意次が権勢を誇った時代。しかも、その政治を定信が「賄賂政治」と批判したため、そのしっぺがえしを恐れた一橋家当主・治済によって1774年(安永3年)陸奥国白河藩第二代藩主・松平定邦の養子にされてしまったのだった。

一般には名君の誉れ高い松平定信だが、人間的な器量という面では?の付く、たくましさに欠ける、線の細い人物だったのではないか。また老中としては、当時の経済システムはもちろん、一般庶民の思いや暮らしぶりを全く理解できない“暗愚”の宰相だったのではないか。

(参考資料)童門冬二「江戸管理社会 反骨者列伝」、童門冬二「江戸のリストラ仕掛人」、山本周五郎「日日平安」、司馬遼太郎「街道をゆく33」

毛利元就・・・地縁・血縁を巧みに駆使し婚姻-間諜で拡大、成果を挙げる

 戦国時代、数多いた武将の中で、「間諜」を用いてかなりの成果を挙げた人物がいる。東の武田信玄、西の毛利元就だ。ただ、同質の武将でありながら、信玄の暗さ、陰湿さが、なぜか元就からは伝わってこない。元就は大内義隆の「補佐役」を、ほぼ30年の長きにわたって忠実に務めている。このまま大内氏の隆盛が続き、磐石の体制が維持されていれば、よもや元就とて「補佐役」の分限を越えることはなかったろう。

 毛利元就は安芸国吉田郡山城(現在の広島県安芸高田市吉田町)を本拠とした毛利弘元の次男。幼名は松寿丸、仮名は少輔次郎。1511年(永正8年)、元服し、毛利元就を名乗る。室町時代後期から戦国時代にかけて、安芸の国人領主から中国地方のほぼ全域を支配下に置くまでに勢力を拡大し、戦国時代最高の名将の一人と評される。用意周到な策略で自軍を勝利へ導く策略家として名高い。家系は大江広元の四男、毛利季光を祖とする毛利氏の血筋。家紋は一文字三星紋。生没年は1497(明応6年)~1571年(元亀2年)。

 1542年(天文11年)、大内氏は、宿敵・尼子氏の根拠地、月山城を一気に攻め落とすべく、大動員令を発した。ところが、大内勢は尼子方の鉄壁の防戦に阻まれると同時に、大軍ゆえに兵站線の維持が困難となり、まさかの苦戦。そこで、機を見るに敏な小豪族は、今が功名の機会とばかりに、一斉に尼子方へ寝返って大内勢に襲いかかった。この大敗戦を機に大内義隆は以後、軍事に手を染めることがなくなり、学問・遊芸の世界へ入り浸ってしまう。その結果、尼子を勢いづかせ、周辺諸国の石見や安芸の国人たちを、大内氏から離反させることにつながった。

 こうした事態をみて「補佐役」元就は明白に方向転換を決断する。そして、もう一人の補佐役、陶隆房とも、主君の義隆とも同様、距離を置き始める。

 陶隆房は補佐役として主君、義隆に繰り返し諫言するが、人変わりした主君は全く耳を貸さない。そこで、隆房は遂に「補佐役」の分限を越えた。義隆を廃して大内家を立て直すことを決意。家中の心ある重臣と一気にことを運んだ。元就にも使者を送って、賛同を取り付けている。当初は義隆を隠居させ、幼い義尊(よりひろ)を立てる計画だったともいうが、隆房は途中でこの二人を亡き者にし、大友義鎮(よししげ・宗麟)の弟・八郎晴英(後の義長)を主君に迎えることに予定を変更。1551年(天文20年)義隆は隆房の叛乱軍によってこの世を去った。元就は隆房と袂を分かつことになった。

 元就は地縁・血縁を巧みに駆使した婚姻政策-間諜によって、軍事力・国力の拡大・強化を図ってきた。この総仕上げとしてまず1544年(天文13年)、三男の隆景に小早川氏を継承させた。1546年(天文15年) 元就は家督を長子の隆元に譲る。元就54歳、隆元24歳のことだ。そして、元就は次男・元春の吉川氏相続による、婚姻関係のネットワークの拡大・強化に取り組む。強引さと緻密さを併せ持った元就が策略を駆使、安芸国人の一方の雄であった小早川、吉川両氏をその支配下に置くことに成功する。この体制は「毛利両川(りょうせん)」として、以後の毛利氏を支え、発展させていく基となった。
 1555年(弘治元年)、厳島の戦いで陶晴賢(陶隆房から改名)と対決した際の戦力は、敵の動員兵力2万余に対し、元就方は小早川、吉川両氏の兵力を加えても4000~5000にすぎなかった。正攻法ではとても勝ち目はなかったのだ。「補佐役」が内応しているかの如くみせる、いわゆる「間諜」による離反、切り崩しと、奇襲作戦などにより、4~5倍もの兵力を誇る相手に勝利を収めた。元就の中国地方における地盤確立は、この戦いの勝利によって、その第一歩を大きく踏み出した。その後も「間諜」によって近隣を併呑、遂に尼子氏を滅ぼし、1571年(元亀2年)、75歳でこの世を去った。そのときは中国10カ国の太守となっていた。

 毛利元就といえば“三本の矢”の話がある。一本の矢は簡単に折れるが、三本を一度に折ろうとしても折れない。だから、三人が心を合わせて兄弟仲良くしていけば、治めていける-というあれだ。しかし、元就が真に伝えたかったことはもっと現実的でドライなものだったようだ。彼が三人の息子に与えた「教訓状」が残っていて、これによると、「当家は皆の恨みを買っている。当家のためを思っている人間など一人もいないと思え。私も随分、人を殺してきた。だから子孫は特別、人に憎まれるだろう」などとある。だから、お前たち三人は心を一つにして切り抜けていかなければやっていけない、というわけだ。したがって、「教訓状」は凄まじい人間不信の書なのだ。「人間は信じられない」、これが元就の人生哲学だった。

(参考資料)加来耕三「日本補佐役列伝」、永井路子「にっぽん亭主五十人史」、杉本苑子「決断のとき」、海音寺潮五郎「覇者の条件」

松本良順・・・将軍家茂の最期を看取り、日本の陸軍軍医制度を確立

 松本良順は幕府の医学所頭取を務めた後、戊辰戦争で幕軍に参加、会津城内の野戦病院を開設し戦傷病者の治療にあたった。そのため戦後は明治政府に捕らえられ禁固の身となったが、数年後、懇請されて兵部省に出仕し、日本の陸軍軍医制度を確立した人物だ。松本良順の生没年は1832(天保3)~1907年(明治40年)。

 松本良順は下総国(千葉県)佐倉藩医佐藤泰然(順天堂大学の祖)の次男として、江戸麻布の我書坊谷で生まれた。幼名は順之助、名は良順、のち順に改め、蘭疇(らんちゅう)、楽痴と号した。嘉永3年、幕府医官の松本良甫(りょうほ)の養子となり、改姓した。1871年(明治4年)、従五位に叙せられた後、「松本順」と名乗った。

 良順は17歳のとき、父佐藤泰然の卵巣手術に助手として立ち会ったほか、乳がん、脱疽、痔ろうなどの切開手術にも、父泰然の助手として立ち会うという貴重な経験を積んだ。泰然は豪放で生来、進取の気性に富んでいた。早くから西洋医学に深い関心を持ち、長崎に留学して蘭医ニーマンに学び、江戸に戻ってからは薬研堀に医院を開き、多くの弟子の教育にもあたった。他に望むべくもない、そうした環境が良順を、積極的に西洋医学の研鑽に駆り立てたことは間違いない。

 26歳の良順は1857年(安政4年)、幕命で長崎に行き、オランダ軍医ポンペの医学伝習生の責任者となって、長崎養生所・医学所の運営に尽力した。従来日本では漢方医が正統で、蘭方医は下位に置かれていたが、将軍お膝元の江戸にも種痘所が開かれるなど、先進的な西洋医学への希求が高まっていたころであり、良順はその先端を行くことができたのだ。

 1862年(文久2年)、良順は江戸に帰り、幕府の医学所二代目頭取、緒方洪庵を補佐し、1863年(文久3年)、洪庵没後、良順は三代目頭取となって、ポンペ直伝の近代医学教育法を導入した。1864年(元治元年)、法眼に叙せられ、将軍侍医なども務め、十四代将軍・徳川家茂の治療にあたり、大坂城で家茂の最期を看取っている。また良順は、会津藩の下、幕末、京都の治安維持にあたった西本願寺の新選組屯所に招かれ、隊士の回診を行っているほか、局長近藤勇、副長土方歳三、沖田総司らとも個人的な親交があったようだ。

 良順は戊辰戦争では幕軍に参加、奥羽列藩同盟軍の軍医となり、会津城内に野戦病院を開設。戦傷病者の治療にあたった。そのため、戦後は明治政府に捕らえられ、一時投獄され、禁固の身となった。だが1869年(明治2年)釈放され、早稲田に私立病院・蘭疇医院を建て、教育と診療にあたった。こうして野にあること数年、良順は懇請されて兵部省に出仕し、1871年(明治4年)、「軍医寮」を創設。陸海軍が分かれた後は、陸軍軍医部の編成に尽力し、山縣有朋などの推薦を受け1873年、陸軍軍医総監となり、日本陸軍軍医制度を確立した。

 軍医学は公衆衛生学的な考えを基盤にしていたので、良順は牛乳の飲用、海水浴の奨励など民間への指導を行った。良順によって開かれた日本最初の海水浴場、大磯照ヶ崎に彼の功績を顕彰する記念碑が建てられている。
 1891年(明治23年)、良順は貴族院議員に選出され、いわゆる勅撰議員を務めた。著作に「蘭疇」「通俗医療便法」などがある。

(参考資料)司馬遼太郎「胡蝶の夢」、吉村昭「日本医家伝」、司馬遼太郎・ドナルド・キーン対談「日本人と日本文化」

最上徳内・・・シーボルトなど同時代の学者・知識人から評価うけた北方探険家

 最上徳内は蝦夷地探検などで知られる、江戸時代後期の北方探検家だ。徳内の科学的測定法や、彼の説を最も高く評価して引用したのは、シーボルトだ。とくに、徳内が製作した蝦夷地(北海道・千島)や樺太の地図を見て、準尺技術の高さや、日本における天文学や陸地測量術が意外に進んでいることを知った。徳内は市井の知名人ではなかった。しかし、彼と同時代の質の高い学者や知識人からは尊敬される多くの事績を残した人物だった。徳内の生没年は1754(宝暦4)~1836年(天保7年)。

 最上徳内は出羽国の村山郡(現在の山形県村山市)の農家で、二男三女の長男として生まれた。父は間兵衛。彼が生まれ育った楯岡村は、山形盆地の北東にあり甑岳(こしきだけ)の西麓にある。戦国時代に最上氏の支流がここに城を築いて拠った。最上氏は江戸時代初期に廃絶した。徳内は農民の出だから苗字を持たなかったが、後年、蝦夷地にわたるときに“最上”を称した。最上氏の血をうけていたからではなく、おそらく故郷をしのぶためだったろう。

 徳内の生家は、わずかに耕作をするかたわら、煙草切りをして暮らしを立てていた。煙草切りとは、葉を刻んで毛のような製品にする仕事だ。徳内は巧みにそれをやった。『蝦夷草紙』の末尾の略伝によると、徳内は16歳から近くの谷内村のたばこ屋に奉公し、そのかたわら、近所の医師について漢学を習った。たばこ屋ではよく勤め、主人から信用されて、津軽から仙台、南部までたばこを売り歩いた。決まった師があったわけではなかったが、柔術と剣術も会得した。

 徳内は長男として両親を助けねばならなかったが、学問修行のため江戸に出ることを願っていた。そして27歳のとき、やっとその機会が巡ってきた。1781年(天明元年)、父の一周忌が明けると、江戸に出た。弟妹も成長して、後顧の憂いがなくなったのだ。27歳からの就学は当時としてはとくに晩学だった。金があるわけではなかった。

江戸に出てから徳内は、一所に落ち着かず、目まぐるしく奉公先を変えた。一時期、医者になろうと思い、幕府の医官、山田宗俊の下僕になった。だが、2年足らずでそこを出た。次は数学を志した。湯島の永井正峯が主宰する数学塾に入塾した。徳内は数学に天稟があり、ほどなく師の永井正峯を凌いだ。そこで、師に同行して長崎への算術修行も行っている。これと相前後してのことと思われるが、1784年(天明4年)、本多利明の「音羽塾」に入門し、天文学測量、そして海外事情にも明るい本多の経済論などを学んでいる。

 こうして学問を積んだ徳内は、最初は幕府の蝦夷地検分使の一員として蝦夷地に渡った。1791年には普請下役の武士となり、1798年には幕臣、近藤重蔵らと初めてエトロフ島に上陸し、「大日本恵登呂府」の標柱を建てている。徳内は1785~1810年まで9回にわたり、蝦夷地や北方領土の探検にあたった。

 いずれにしても、どのような経緯があってのことか、詳細は分からない。だが、厳然としてあった江戸時代の身分制社会で、徳内は蝦夷地をはじめとする北方探検の専門家として、幕府に取り立てられて武士(=扱い、待遇)になるという、稀有な出世を果たした人物とみられる。
 シーボルトは最上徳内を「18世紀における最も傑出した日本の探検家」として、最大級の言葉で誉め称えている。

(参考資料)司馬遼太郎「街道をゆく37」、司馬遼太郎「菜の花の沖」

南方熊楠・・・粘菌研究で知られる破天荒な博物・生物学者

 南方熊楠は博物・生物・民俗学者で、柳田國男とともに日本の民俗学の草創者だ。とくに菌類学者として、動物の特徴と植物の特徴を併せ持つ粘菌の研究で知られている。熊楠の「熊」は熊野本宮大社、「楠」はその神木クスノキに因んでの命名という。主著に「十二支考」「南方随筆」などがある。生没年は1867年(慶応3年)~1941年(昭和16年)。萎縮腎により自宅で死去。満74歳。
 熊楠は子供の頃から驚異的な記憶力を持つ神童だった。また常軌を逸した読書家でもあり、蔵書家の家で100冊を超える本を見せてもらい記憶、家に帰ってその記憶をたどり書写するという特殊な能力を持っていた。9歳の時、儒者で医師でもあった寺島良安が編纂した厖大な百科事典「和漢三才図会」の筆写を始め、5年かけ全105巻を筆写した。
このほか、9歳から12歳にかけて、植物学大事典ともいうべき明の李時珍が著した「本草綱目」52巻21冊、「諸国名所図会」、「日本紀」、貝原益軒の「大和本草」なども筆写したという。何日も家に帰らず、山中で昆虫や植物を採集することがあり、「てんぎゃん(天狗)」というあだ名があった。
 子供の頃の性格はその後も変わることなく、1884年、大学予備門(現在の東京大学)に入学するが、彼は学業そっちのけで遺跡発掘や菌類の標本採集などに明け暮れた。同窓生には塩原金之助(夏目漱石)、正岡常規(正岡子規)、秋山真之、山田美妙などがいた。
 熊楠は1892年、渡英しロンドンの天文学会の懸賞論文に1位で入選した。大英博物館東洋調査部に入り、資料整理に尽力。人類学・考古学・宗教学などを独学するとともに、世界各地で発見、採集した地衣・菌類に関する記事を科学雑誌「Nature」などに次々と寄稿した。1897年にはロンドンに亡命中の孫文と知り合い、親交を始めている。孫文32歳、熊楠31歳のことだ。
 帰国後は和歌山県田辺町(現在の田辺市)に居住し、柳田國男らと交流しながら、卓抜な知識と独創的な思考によって、日本の民俗、伝説、宗教を広範な世界の事例と比較して論じ、当時としては早い段階での比較文化人類学を展開した。
 菌類の研究では新しい70種を発見し、また1917年(大正6年)自宅の柿の木で粘菌新属を発見。これが1921年(大正10年)“ミナカテルラ・ロンギフィラ”(Minakatella longifila 長糸南方粘菌)と命名された。1929年には田辺湾神島(かしま)沖の戦艦「長門」艦上で、紀南行幸の昭和天皇に進講する栄誉を担っている。
 熊楠はエキセントリックな行動が多く、酒豪だったが半面、酒にまつわる失敗も多かった。語学には極めて堪能で英語、フランス語、ドイツ語はもとより、サンスクリット語におよぶ19カ国語の言語を操ったといわれる。
 田辺では1906年に布告された「神社合祀令」によって神社林、いわゆる「鎮守の森」が伐採されて生物が絶滅したり、生態系が破壊されてしまうことを憂い、熊楠は1907年より神社合祀反対運動を起こした。今日、この運動は自然保護運動、あるいはエコロジー活動の先駆けとして高く評価されており、その活動は2004年に世界遺産(文化遺産)にも登録された「熊野古道」が今に残る端緒ともなっている。
(参考資料)鶴見和子「南方熊楠」、神坂次郎「縛られた巨人-南方熊楠の生涯」
      津本陽「巨人伝」

本居宣長・・・ライフワークとして「古事記伝」全44巻を著した国学者

 本居宣長は生涯、桜を愛した国学の大成者だ。当時すでに解読不能に陥っていた「古事記」の解読に成功し、「古事記伝」を著した。このように表現すると、堅苦しい、文人気質の学者タイプの人物を想像してしまうが、実際はかなり違ったようだ。確かに本居宣長は常軌を逸した振る舞いが非常に嫌いで、日々の生活態度がかなり厳格な人だった。ところが、彼は医師だった関係で、日々の患者のこと、調剤のこと、謝礼のことなどを、実に細かくつけていたのだ。また、23歳の春、医師になるため京都に留学したが、彼の「在京日記」をみると、勉強もしたが、相当遊びもしたのではないかと思われる。とくに歌舞伎は相当通であったことがうかがえるし、乗馬をしたり、お茶屋へも遊びに行ったのではないかと思われ、酒も相当飲め、とくにタバコが好きだったようだ。その意味では、当然必要だったとはいえ、また青年時代のこととはいえ、従来のイメージの、真面目で、ストイックで、文人気質一辺倒とは裏腹の、日常性に徹するというか、とにかく普通の生活者タイプの学者だったといえる。

 本居宣長は伊勢国松坂(現在の三重県松阪市)の木綿問屋、小津三四右衛門定利(おづさじえもんさだとし)の次男として生まれた。幼名は富之助。名は栄貞。通称は瞬庵、春庵(しゅんあん)、鈴屋大人(すずやのうし)と号した。

 伊勢商人は近江商人と並んで、各地の大都会に繰り出して商売を広げてきた。とくに江戸の大伝馬町には、伊勢店(いせだな)と呼ばれる出店がずらりと軒を並べて、手広く松坂木綿を商っていた。しかし江戸の出店の経営は、支配人に任せ、主人は松坂に住んで、趣味的な生活を送る-。これが伊勢松坂の木綿問屋なのだ。宣長の父もまた、そのような旦那衆の一人だった。

 ところが、任せていた支配人の過ちから父は家産を失い、宣長が11歳のとき失意の中で病死した。江戸の出店も、松坂の本宅も整理された。宣長は母かつの手で育てられ、叔父の江戸の店で商いの見習いもしたが、本を読めぬ生活を嫌い帰郷。小さいときからおとなしく、書物が好きだった宣長をみて、母は彼を商人よりも、医者にすることにした。京都に留学した宣長は、堀景山という儒学者の家に寄宿。まず儒学を学び、その後、小児科の医者を目指して5年4カ月を京の都で学んだ。

 28歳。松坂に帰った宣長は、小児科医として開業し、診察、往診、家伝の子供用の飴薬作りもした。そして、忙しい間を縫いながら、なお独力で古典研究を続けた。とくに賀茂真淵の著書を読み、その学問に傾倒した。こうして医業と学問の生活を続けて5年余り。結婚し、長男(後の本居春庭)も生まれたその年の初夏、かねてから心の師と仰ぐ賀茂真淵との対面が実現。1763年(宝暦13年)、賀茂真淵67歳、本居宣長34歳だった。

 真淵は国学者としてすでに名声が高く、国学研究の究極は「古事記」にあり、と考えていた。そして、その「古事記」研究の前段階として「万葉集」の研究が必要だと考えていた真淵は、すでにこれを完成していた。しかし、真淵は「万葉集」の研究に多くの歳月を失い、「古事記」研究を成し遂げるには老い過ぎたことを自覚していた。一方、宣長もまた、古典研究の最終テーマは「古事記」にあると考えていた。同じ志を持つ者の、熱い思いに駆られた二人は、夜の更けるのも忘れて語り明かした。

 真淵は自分の「万葉集」の研究成果を基礎にして、「古事記」の研究を大成するよう宣長を励まし、自らの注釈を施した「古事記」の書入れ本を宣長に託した。二人はここに師弟の縁を結び、宣長は正式に真淵の門人に名を連ね、江戸と松坂の間を書簡で結んで学び合った。しかし、この師弟が直接会って言葉を交わしたのはこの時の面会が最初で最後だった。

 宣長は、真淵から託された「古事記」の研究にそのすべてを注ぎ込んだ。以来、およそ30年、古い茶室を改造して住まいの二階に付け加えた、四畳半にも満たない「鈴屋」と名付けた狭い書斎で続けられた。1798年(寛政10年)、宣長は遂に「古事記伝」全四十四巻を完成した。35歳から始めて69歳まで、実に34年が経過していた。ライフワークを果たした宣長は、その喜びを友人に書き送り、鈴屋に知人や門下生を集めて祝賀の歌の会を催した。

(参考資料)西郷信綱「日本史探訪/国学と洋学」、童門冬二「私塾の研究」、司馬遼太郎・ドナルド・キーン対談「日本人と日本文化」