杉原千畝・・・国家や政府の枠を超えユダヤ人にビザを発給し続けた外交官

 第二次世界大戦中、国家や政府の枠を超え、自らの立場や身の危険を顧みず、6000人の命を救う道を選んだ一人の日本人外交官がいた。その人物こそ、ここに取り上げる杉原千畝(すぎはらちうね)だ。杉原の生没年は1900(明治33)~1986年(昭和61年)。

 杉原千畝は海外では「センポ・スギハラ」、「東洋のシンドラー」とも呼ばれる。「ちうね」という名の発音のしにくさから千畝自身がユダヤ人に音読みで「センポ」と呼ばせたとされている。いずれにしても杉原は勇気ある人道的行為を行ったと評価され、イスラエル政府から1969年、勲章を授与された。1985年には日本人として初めて「ヤド・バジェム賞」を受賞し「諸国民の中の正義の人」に列せられた。また、リトアニア政府は1991年、杉原の功績を讃えるため、首都ヴィリニュスの通りの一つを「スギハラ通り」と命名した。

 杉原は岐阜県加茂郡八百津町で父好水、母やつの次男として生まれた。旧制愛知県立第五中学(現在の愛知県立瑞陵高等学校)卒業後、千畝が、医師になることを嘱望していた父の意に反し、1918年(大正7年)、早稲田大学高等師範部英語科(現在の教育学部)予科に入学。1919年(大正8年)、日露協会学校(後のハルピン学院)に入学。早大を中退し、外務省の官費留学生として中華民国のハルピンに派遣され、ロシア語を学んだ。そして、1920年(大正9年)12月から1922年(大正11年)3月まで陸軍に入営。1923年(大正12年)3月、日露協会学校特修科を修了。

 1924年(大正14年)、杉原は外務省に奉職。以後、満州、フィンランド、リトアニア、ドイツ、チェコ、東プロイセン、ルーマニアの日本領事館に勤務。そして1940年夏、リトアニア共和国・首都カウナスの日本領事館領事代理時代に、その後の彼の運命を変え、後世に語り継がれる“壮挙”を実行することになる。ソ連政府や日本本国からの再三、退去命令を受けながら、杉原と妻幸子は日本政府の方針や外務省の指示に背いて、ナチス・ドイツの迫害を逃れようとするユダヤ人に、1カ月あまりの間、退去する日、ベルリンへ旅立つ列車が発車する直前まで、駅のホームでビザを発給し続けたのだ。

 ナチス・ドイツに迫害されていたポーランドのユダヤ人は、中立国と思われていたリトアニアに移住した。だが1940年7月15日に親ソ政権が樹立され、ソ連がリトアニアを併合することが確実となった。そうなると、ユダヤ人たちは国外に出る自由を奪われてしまう。またヒトラーの戦略から、いずれは独ソ間で戦争が始まることも十分予想された。そのため、ソ連に併合される前にリトアニアを脱出しなければ、逃亡の経路は断たれてしまうとユダヤ人たちは予感していた。もはや一刻を争う状態だった。

 すでにポーランド、デンマーク、ノルウェー、オランダ、ベルギー、フランスがドイツの手に落ちていたので、ユダヤ人の逃亡手段は日本の通過ビザを取得し、そこから第三国へ出国するという経路しか残されていなかった。だが、日本の通過ビザを取るためには受入国のビザが必要だった。ソ連併合に備え領事館が撤退する中、ユダヤ人難民に対して入国ビザを発給する国がない。この窮状を解決したのが、カウナスの各国領事の中で唯一ユダヤ人に同情的だったオランダ名誉領事、ヤン・ツバルテンディクだ。ユダヤ人救済のため彼が便宜的に考えた、カリブ海に浮かぶオランダ植民地キュラソー島行きの「キュラソー・ビザ」を持ってユダヤ人が日本領事館に押し寄せた。1940年7月18日のことだ。

 杉原は7月25日に日本政府の方針、外務省の指示に背いてビザ発給を決断。以後、9月5日までユダヤ人にビザ(=渡航証明書)を発給し続けた。現在、外務省保管の「杉原リスト」には2139人の名前が記されている。その家族や公式記録から漏れている人を合わせると、杉原が助けたユダヤ人は6000人とも8000人ともいわれている。

 1947年4月、杉原は帰国。2カ月後、外務省から突然、依願免官を求められ、外務省を退職。退官後は生活のために職を転々としたが、語学力を活かし東京PXの日本総支配人や貿易商社、ニコライ学院教授、NHK国際局などに勤務。1960年から川上貿易⑭モスクワ事務所長として再び海外での生活を送ることになり、国際交易⑭モスクワ支店代表を最後に退職。日本に帰国したのは75歳のときだった。

(参考資料)杉原幸子「新版六千人の命のビザ」

坂上田村麻呂・・・至難の蝦夷平定を達成した征夷大将軍第一号

 奈良の平城京から京都の長岡京へ、そして平安京へと遷都が繰り返され、日本が新たな律令国家へと向かった歴史の転換期にあって、わが国最初の征夷大将軍、坂上田村麻呂の功績は絶大だった。

 第五十代桓武天皇は国家財政が破綻寸前にあった中で、奥州(陸奥・出羽)=東北の蝦夷の平定と、平城京から長岡京への遷都という難しい国家プロジェクトを並行して行うと宣言した。この計画は一見、一石三鳥に見えなくはなかった。成功すれば北方からの慢性的な脅威は去り、開拓された蝦夷地からは、莫大な税が徴収できる。その税を用いれば遷都は容易となり、天災の補填にも充てられる。

反面、この計画はリスクが大きかった。もし、蝦夷平定が順調に行かなかったらどうなるか。例えば奥州での戦線が膠着したら、兵站はそれだけで国家財政を瓦解させてしまうに違いなかった。そうなれば遷都どころか、国家は立ち往生を余儀なくされ、朝廷の存立自体が問われて、分裂・混乱の事態が出来しかねなかった。心ある朝廷人はこぞって桓武帝の壮挙を危ぶんだが、日本史上屈指の英邁なこの天皇は、自らの計画を変更することはなかった。

そして、この危惧は不幸にして的中してしまう。延暦3年(784)2月、万葉の歌人として著名であり、武門の名家でもあった陸奥按察使兼鎮守将軍の大伴家持が持節征東将軍に任じられ、7500の兵力とともに出陣したが、途中で急逝してしまう。また、長岡京の造営も桓武帝の寵臣で造営の責任者でもあった藤原種継が暗殺され、暗礁に乗り上げてしまう。延暦7年、今度こそはと勇み立った桓武帝は「大将軍」に参議左大弁正四位下兼東宮大夫中衛中将の紀古佐美(56歳)を任じ、5万2000人余の朝廷軍を編成して蝦夷へ派遣した。

しかし、地の利を生かした徹底したゲリラ戦に遭い、古佐美の率いた軍勢は壊滅的な大敗を喫してしまう。まさかの敗戦に、大和朝廷は存亡の危機を迎えた。兵力は底をつき、軍費も枯渇している。長岡京に続いて桓武帝が決断した平安京への遷都の事業も、もはや風前の灯となっていた。

この最悪の状態の中で桓武帝が切り札として北伐の大任に抜擢したのが坂上田村麻呂だ。延暦9年、田村麻呂32歳の時のことだ。ただ、その将才はほとんど未知数だった。正確に記せば初代の征夷大将軍は61歳の大伴弟麻呂が任命されている。弟麻呂は大伴家持が持節征東将軍となったおり、征東副将軍として兵站の実務を執った人物だ。田村麻呂は「征東副使」=「副将軍」への抜擢だった。だが、老齢の弟麻呂は軍勢を直接指揮することをせず、代わって実際の現地指揮は田村麻呂に一任された。

彼は可能な限りの兵力を動員し、征討軍を10万で組織したが、それをもって蝦夷と一気に雌雄を決することはしなかった。武具・武器をひとまず置き、将士には鋤や鍬を持たせた。そして、荒地を開墾しながら、防衛陣地を構築しては、徐々に最前線を北上させていったのだ。相手が攻撃してくれば、容赦なくこれを撃退したが、彼は蝦夷に対し“徳”と“威”をもって帰順を説き、農耕の技術まで教えるという懐柔策を取った。延暦16年11月5日、田村麻呂は「征夷大将軍」となり、4年後の44歳の時、遂に至難の蝦夷平定を達成した。

延暦24年6月、参議に任ぜられ、第五十一代平城天皇、第五十二代嵯峨天皇の御世まで生き続ける。弘仁2年(811)、54歳で病没すると、その亡骸は勅令により、立ちながら甲冑兵仗を帯びた姿のまま葬られたという。

(参考資料)加来耕三「日本創始者列伝」、司馬遼太郎「この国のかたち」、「日本の歴史4/平安京」北山茂夫

                             

坂本龍馬・・・少年時代は劣等性 勝海舟と出会い開眼 第一級の人物に

 坂本龍馬は土佐藩脱藩後、貿易会社と政治組織を兼ねた「亀山社中・海援隊」の結成、「薩長連合」の斡旋、「大政奉還」の成立に尽力するなど、志士として目覚しい活躍をしたといわれる。しかし、龍馬は生前より、むしろ死後に有名になった人物だ。とりわけ司馬遼太郎氏の『竜馬がゆく』で、新たなヒーロー、龍馬像がつくり上げられたようで、それまでの龍馬研究者からは本来の龍馬とは遊離している部分もあるとの指摘も出ている。ここではできるだけつくられたヒーローではない、実像の龍馬を取り上げてみたい。龍馬の生没年は1836(天保6)~1867年(慶応3年)。

 龍馬は土佐20万石の城下、高知に生まれた。諱は直陰(なおかげ)、のち直柔(なおなり)。龍馬は通称。他に才谷梅太郎などの変名がある。本家は才谷屋といって、本町三丁目に広く門戸を張る豪商だった。才谷屋が城下へ出てきた頃は一介の商人に過ぎなかったが、富裕になるに従って郷士の株を買い、二本差しの身分となり、殿様の拝謁を受けるまでになった家筋だ。龍馬はその才谷屋から出た坂本八平の二男三女の子女の中の末子として生まれている。次男で末子ということも彼の活躍を自由にしたのだろう。

 龍馬の少年時代は、あまり芳しいものではない。12歳のとき、小高坂の楠山塾で学ぶが、「泣き虫」と呼ばれ、「寝小便たれ」とからかわれて、遂に抜刀騒ぎまで引き起こし、そのために退塾している。そんな少年龍馬を一所懸命に教え導いたのが、姉の乙女だった。この姉は世にありふれた女性とは異なり、「お仁王様」と呼ばれたほどの女で、学問より武芸のほうが好きだった。龍馬はこの姉を家庭教師に、世間一般の少年が学ぶ課程を終えたのだ。

この点、長州などの勤皇の志士らと随分違うことが分かる。吉田松陰はじめ、高杉晋作、久坂玄瑞、前原一誠など大体は難しい中国の典籍を読み、漢詩などもつくれるというのが相場。土佐勤王党の領袖、武市瑞山も単なる剣術使いではなかった。だが、龍馬にはそれがなかった。だから、少年時代を武張った稽古を中心に育った龍馬には、そうした学問に関する基礎的な知識は遂に身につかなかったのだ。

 龍馬が曲がりなりにも自信を持ってきたのは、学問や知識ではなく、剣道だった。14歳で高知城下の日根野弁治の道場へ入門し、彼はここで並ぶ者なき剣士として成長した。しかし、所詮は田舎でのものだ。そこで、1853年(嘉永6年)剣術修行のため江戸へ出て、北辰一刀流剣術開祖、千葉周作の弟、「小千葉」といわれた千葉定吉の道場(現在の東京都千代田区)に入門した。17歳のときのことだ。佐久間象山の私塾にも通い、砲術を学んでいる。この年は、ペリーが黒船4隻を率いて浦賀に来航、世情が騒然としてきた時期でもあった。

 1854年(安政元年)、龍馬は高知に帰郷。画家で、学者としても知られていた河田小龍(しょうりょう)を訪ねた。小龍は1852年(嘉永5年)ころ高知へ帰ってきた中浜万次郎(ジョン万次郎)から米国の事情など世界認識の眼を大きく開いた人物だった。このとき龍馬は小龍から開国必然説と、後の海援隊につながるビジョンを説かれ、構想を膨らませていったのだ。

 1856年(安政3年)龍馬は再び江戸・小千葉道場に遊学。江戸で武市半平太(瑞山)らと知り合ったことが彼の運命を大きく変える。武市を指導者とする土佐勤王党の一員となるからだ。江戸で2年間の修行を終えた龍馬は北辰一刀流の免許皆伝を得て帰郷した。しかし、河田小龍に会って気付かされた大きな夢は、直面している現実とはかけ離れていた。そのため、龍馬は尊王・攘夷に凝り固まった人物たちとの交流を持つことにうんざりしたのだろう。彼の心は土佐勤王党とも離別、土佐という一国の地を離れて、もっと自由な境を求めて翔んでいたのかも知れない。

 1862年(文久2年)、龍馬は土佐藩を脱藩。千葉定吉の息子、重太郎の紹介で幕府政事総裁職の松平春嶽に面会。春嶽の紹介状を携え、勝海舟に面会して弟子となったのだ。龍馬が抱いてきた大きな夢が果たせるようになったのは、何といっても勝海舟との出会いだった。蒸気船で太平洋横断の壮挙を成し遂げ、米国に渡って使命を果たしてきた勝は、そのころ軍艦奉行並として第十四代将軍家茂の側近に仕えていた。すでに米国を見てきた男は、開国の思想を抱いていた。

 龍馬にとって勝は、日本第一の人物であり、天下無二の軍学者だった。驚くことにその勝に、少年時代“劣等生”に近かった龍馬は認められるのだ。剣術家・坂本龍馬は、いつのまにか世界の情勢にも明るく、軍艦操練の実際にも触れ、軍艦の運航にも詳しい知識人として頭角を現してくる。そして、幕末の政局を海の男として存分に闊歩するのだ。薩長の連合も、龍馬がいてこそ成立したものだ。さらに大政奉還の“大芝居”も龍馬が画策したのだ。こうした世間の意表を突くような大事件が次々に実行された背景には、龍馬の自由にして雄大な夢がいつもついて回っていたといえよう。

 龍馬になぜ、これほど大きなことができたのか。やはり、龍馬の陽気な性格、雄大な志、そして真っ直ぐな行動力を備えていたことに加え、勝海舟の門弟だったことが何より大きな要因だ。そして龍馬自身、海軍操練所の運営を任されるほどの成長を遂げていたからだ。勝が背後についていたからこそ、龍馬は西郷隆盛と会い、木戸孝允とも知り合うことができた。越前福井藩の松平春嶽や大久保一翁と言葉を交わすこともできたのだ。幕末における第一級の人物と、彼ほどに多く言葉を交わした男は少ないだろう。第一級の人物を相識(あいし)ることで、彼もいつのまにか第一級の人物と世間で認められるようになっていたのだ。

 龍馬は1867年(慶応3年)、京都河原町の寄宿先、醤油商・近江屋で来合わせていた中岡慎太郎とともに、京都見廻組-佐々木唯三郎一派に暗殺された。近江屋の主人、井口新助は龍馬が刺客に狙われているのを気遣い、裏庭の土蔵に密室をこしらえ、万一の場合には裏手の梯子を下りて、誓願寺の方へ逃れるよう準備していた。これは近江屋の家の者にも秘密としてあった。

ところが、不運にも遭難の当日、龍馬は前日から風邪気味で、裏庭の土蔵にいては用便などに不自由だからということで、主家の二階へ移っていたのだ。不便さを我慢して土蔵で会っていれば、中岡慎太郎ともどもこの危難に遭うことはなかったのではないか。龍馬は頭と背に重傷を受けて即死、中岡慎太郎は全身に11カ所に重軽傷を受けており、2日後、絶命した。

(参考資料)平尾道雄「坂本龍馬 海援隊始末記」、平尾道雄「維新暗殺秘録」、童門冬二「坂本龍馬の人間学」、奈良本辰也「幕末維新の志士読本」、安部龍太郎「血の日本史」、加来耕三「日本創始者列伝」、宮地佐一郎「龍馬百話」、豊田穣「西郷従道」

佐久間象山・・・幕末、一貫して開国論を唱え続けた天才・自信家

 佐久間象山は元治元年(1864)7月11日夕刻、京都三条木屋町で刺客、肥後藩士・河上彦斎に暗殺された。享年54歳だった。象山は当時でも稀な大自信家だった。果たして実像はどうだったのか。

佐久間象山の塾で教えを受けた吉田松陰は、兄の杉梅太郎に送った手紙のなかで、象山を「慷慨気節あり、学問あり、識見あり」と称え、「当今の豪傑、江戸の第一人者」と記し、山鹿素水・安積艮斎らをも凌ぎ「江戸で彼にかなう者はありますまい」とまで書いている。象山には“大法螺(おおぼら)吹き”とか“山師”といった批判もあった反面、非常に見識のあった人物だ。ペリーの来航を機に攘夷の虚しさを認識し、これ以後、開国策を終始一貫して全く変えないで、あの時代に主張したのは彼だけだ。象山とともに開国論を唱えていた横井小楠は攘夷の側へブレているが、30年間ずっと世界の大勢を説いて、開国論を唱えてきたのは彼以外にいないのだ。

 象山の言葉にこんなのがある。
「余、年二十以後、すなわち匹夫にして一国に繋ることあるを知る。三十以後、すなわち天下に繋ることあるを知る。四十以後、すなわち五世界に繋ることあるを知る」 

 意味するところは、20代は松代藩、つまり藩単位でものを考えていた。30歳を過ぎると、天下=日本の問題としてすべてを考えるようになってきた。40歳以降になると、全世界というものを考えるようになってきた-というわけだ。勉強すればするほど問題意識が広がるし、それにつれて自分の使命感も重くなる。そんな心境を表現しているとみられる。

 勝海舟の妹にあたる妻の順子に、象山自作のカメラのシャッターを押させて撮った写真が残っている。晩年の象山の姿だという。これをみると、象山は西洋人ではないかと思われるような、ちょっと変わった顔をしている。安政元年正月、ペリーが和親条約締結のため二度目に日本に来たとき、象山は横浜で応接所の警護の任にあたっていて、たまたま、ペリーが松代藩の陣屋の前を通り、軍議役として控えていた象山に丁寧に一礼したことがあったという。日本人でペリーから会釈されたのは象山だけだというので、当時、語り草になった。これは象山の風采が堂々としていて、当時の日本人としては異相の人だったことを物語るエピソードだ。

 象山は天才意識が強く、大変な自信家だった。彼は自分の家の血統を誇りに思って、優れた子孫を遺そうと必死になっている。蘭学の勉強を始め、普通は1年かかるオランダ文法を大体2カ月でマスターした。そして8カ月も経った頃には、傍らに辞書をおけばもうすべて分かるようになったと手紙に書いている。ショメールの百科全書を読みながらガラスを作ったりもしているのだ。また、大真面目にあちこちへお妾さんを世話してくれという手紙を書いている。これも自分のような立派な男子の種を残すということは、国家に対して忠義だというような調子で語っている。少し度を超えた自信家である。現代の日本人にぜひ欲しいくらいの自信だ。

 象山は文化8年(1811)、信州松代藩の下級武士の家に生まれた。彼は誰に教わることもなく、3歳にして漢字を覚えた。早くから彼の才能に目をつけた城主、真田幸貫の引き立てで学問などに修養。天保12年(1841)幸貫が幕府の老中に就任するや、翌年、彼を海防係の顧問に抜擢した。象山32歳のことだ。それまで漢学に名をなしていた象山が、洋学に踏み入ったのもこの幸貫の信頼に報いるためだった。優れた漢学者としての“顔”に加え、後半生、洋学に心血を注いだ象山は、それがもたらした科学を西洋の芸術と称え、これと儒教の道徳との融合を自分の人生と学問の究極と考えていた。

 幕末、京都における象山の立場はかなり自由なものだった。彼は幕府の扶持を貰いながら、山階宮や一橋慶喜からの招請に応じ西洋事情を説くなど、その諮問に応じ、また朝廷に対する啓蒙活動を続けていた。ただ彼が日本の将来を考えて飛び回り、活躍すればするほど、その死期が刻々と近づきつつあった。

彼のその風采ともあいまって、京の街では目立ち過ぎたのだ。
 象山を暗殺した河上彦斎は、幕末の暗殺常習者の中でも珍しく教養のある方だったが、この後、彼は人が変わったように暗殺稼業をやめた。斬った瞬間、斬ったはずの象山から異様な人間的迫力が殺到してきて、彼ほどの手だれが、身がすくみ、心が萎え、数日の間、言い知れない自己嫌悪に陥ったという。

(参考資料)奈良本辰也「歴史に学ぶ」、日本史探訪/開国か攘夷か「佐久間象山 和魂洋才、開国論の兵学者」(奈良本辰也・綱淵謙錠)、奈良本辰也「不惜身命」、奈良本辰也「幕末維新の志士読本」、平尾道雄「維新暗殺秘録」、司馬遼太郎「司馬遼太郎が考えたこと4」

                             

真田幸村・・・天才軍師は虚像 配流生活の“総決算”が大坂冬・夏の陣

 真田幸村は江戸時代以降に流布した、小説や講談における真田信繁の通称。真田十勇士を従えて大敵、徳川に挑む天才軍師、真田幸村として取り上げられ、広く一般に知られることになったが、彼自身が「幸村」の名で残した史料は全く残っていない。また、真田家の戦(いくさ)上手の評価も、父昌幸由来のもので、信繁の戦功として記録上、明確に残っているものは1600年、真田氏の居城・上田城で父昌幸とともに徳川秀忠軍と戦ったものと、大坂冬の陣・夏の陣(1614~15年)での活躍しかない。戦いに明け暮れた智将・軍略家のイメージがあるが、これはあくまでも小説や講談の世界のもので、実態は意外に地味なもののようだ。

 真田信繁は真田昌幸の次男で、武田信玄の家臣だった真田幸隆の孫。信繁の生没年は1567(永禄10)~1615年(慶長20年)、ただ一説には生年1570年(永禄13年)、没年1641年(寛永18年)ともいわれる。

 関ケ原の戦いに際しては、信繁は父昌幸とともに西軍に加勢し、妻が本多忠勝の娘で徳川軍の東軍についた兄信之と袂を分かち戦った。昌幸と信繁は居城・上田城に籠もり、東軍・徳川秀忠軍を迎え撃った。寡兵の真田勢が相手だったにもかかわらず、手こずった秀忠軍は上田城攻略を諦めて去ったが、結果として秀忠軍は関ケ原の合戦には間に合わなかった。

 しかし、石田三成率いる西軍は東軍に敗北。昌幸と信繁は本来なら切腹を命じられるところだったが、信之の取り成しで紀伊国高野山麓の九度山に配流された。信繁は34~48歳までの14年間、この配所の九度山で浪人生活を送った。父昌幸は1611年(慶長16年)、失意のうちにこの配所で死去している。

 信繁が再び歴史の表舞台に登場するのは大坂冬の陣・夏の陣だ。1614年(慶長19年)に始まる冬の陣では信繁は当初、毛利勝永らと籠城に反対し、京を押さえ宇治・瀬田で積極的に迎え撃つよう主張した。しかし籠城の策に決すると、信繁は大坂城の弱点だった三の丸の南側、玉造口外に真田丸と呼ばれる土作りの出城を築き、鉄砲隊を用いて徳川方を挑発し、先方隊に大打撃を与えた。これにより越前松平勢、加賀前田勢などを撃退し、初めて“真田信繁”として、その武名を知らしめることになった。

 冬の陣の前に大坂城に集まった浪人は10万人を超えた。主家を滅ぼされたり、幕府の酷政によって取り潰された者たちが、豊臣家の勝利に出世の望みを託して集まったのだ。だが、冬の陣の和議によって大坂城の堀を埋め立てられ、本丸だけのいわば裸城となって勝利の望みがなくなった今も、7万人もの浪人が城に残っていた。生き長らえても、徳川の世に容れられる望みのない者たちばかりだ。夏の陣に家康は16万の軍勢を大和路と河内路の二手に分け布陣した。

 対する大坂方は悲惨だった。兵力は敵の半数以下で、しかも総大将たるべき者がいなかった。秀頼には合戦の経験がなく、大野治長は闇討ちに遭って重傷を負い、総大将と目されていた織田有楽斎に至っては早々と城を逃げ出していた。真田信繁、毛利勝永、後藤又兵衛、木村重成、長曽我部盛親ら、大阪方の武将は、誰が全体の指揮を執ると決めることができず、互いに横の連絡を取り合って、戦わざるを得なかった。

 夏の陣では、信繁は道明寺の戦いで伊達政宗の先鋒を銃撃戦の末に一時的に後退させた。その後、豊臣軍は劣勢となり、戦局は大幅に悪化。後藤又兵衛や木村重成などの主だった武将が討ち死にし疲弊。そこで信繁は士気を高める策として豊臣秀頼自身の出陣を求めたが、側近衆や母の淀殿に阻まれ失敗した。

豊臣軍の敗色が濃厚となる中、信繁は毛利勝永と決死の突撃作戦を敢行する。その結果、徳川家康本営に肉薄。毛利勢は徳川方の将を次々と討ち取り、本多勢を蹴散らし、何度も本営に突進した。真田勢は越前松平勢を突破し、毛利勢に手一杯だった徳川勢の隙を突き徳川家康の本陣まで攻め込んだ挙句、屈強で鳴らす家康の旗本勢を蹴散らした。しかし、手薄な戦力ではここまでが限界だった。信繁の手勢は徐々に後退、最終的には数で勝る徳川軍に追い詰められ、信繁は遂に四天王寺近くの安居神社(現在の大阪市天王寺区)の境内で斬殺された。

男盛りの14年間を九度山で、不自由で困窮を極めた配流生活を送った信繁の人生の“総決算”が、この大坂冬の陣・夏の陣だったのだ。そう考えると、信繁の不器用な生き方が少し哀れな気もする。虚構の真田幸村とは大きく異なり、真田信繁は実利や権勢は全く求めず、武将としての潔さが目を引く人物だったのだろう。

 信繁討死の翌日、秀頼、淀殿母子は大坂城内で自害、ここに大坂夏の陣は徳川方の勝利に終わった。そして、磐石な徳川の時代が始まった。

(参考資料)司馬遼太郎「軍師二人」、司馬遼太郎「関ケ原」、安部龍太郎「血の日本史」、神坂次郎「男 この言葉」、池波正太郎「戦国と幕末」、海音寺潮五郎「武将列伝」、小和田哲男「日本の歴史がわかる本」

三条実美・・・維新政府の太政大臣、憲政内閣誕生後は内大臣を務めた名家

 三条実美(さんじょうさねとみ)は、藤原北家閑院流の嫡流で太政大臣まで昇任できた清華家の一つ、三条家という公家の中でも名家に生まれた。そして彼自身、明治政府の太政官では最高官の太政大臣を務めた。彼は岩倉具視とは正反対に、策を弄するなどということが一切できず、どこまでも素直であり、太政大臣になっても、自分のために政治を利用するなどということは決してなかった。
ちなみに、1879年(明治12年)、太政大臣・三条実美の月俸は800円、右大臣・岩倉具視の月俸は600円、巡査の月給は10円、米が一升7銭だった。やはり、太政大臣というのはそれだけの貴官しか就けない職責だったのだ。

当時の顕官の中には、飾り物として太政大臣の三条実美は役に立つなどと高言する者もいたが、彼は内外に眼がよく届き、それぞれ一城の主だった参議たちを宥め、首相としての職を果たした。民間に国会開設の声が盛んになると、1885年(明治18年)、自ら太政大臣の職を解いて、後継の首相を伊藤博文に任せ、初めて憲政内閣の誕生に努めた。内閣制度発足後は最初の内大臣を務めている。
 三条実美(正式には三條實美)の父は贈右大臣・実万(さねつむ)、母は土佐藩主・山内豊策の娘、紀子。実美の妻は関白・鷹司輔煕の九女、治子。実美は「梨堂」と号した。生没年は1837(天保8)~1891年(明治24年)。

 実美は1854年(安政元年)、兄の公睦の早世により家を継いだ。幕府の大老・井伊直弼が断行した「安政の大獄」で処分された父、実万と同じく尊皇攘夷派の公家として1862年(文久2年)、勅使の一人として江戸へ赴き、徳川第十四代将軍家茂に攘夷を督促し、この年、国事御用掛となった。長州藩と密接な関係を持ち、姉小路公知とともに、尊皇攘夷激派の公卿として幕政に攘夷決行を求め、孝明天皇の大和行幸を企画した。

 ところが、思わぬ事態が起こった。1863年(文久3年)、公武合体派の中川宮らの公家や薩摩藩・会津藩らが連動したクーデター、「八月十八日の政変」だ。これにより実美は朝廷を追われ、京都を逃れて長州へ移った(七卿落ち)。その後、長州藩に匿われ、福岡藩に預けられ、さらに大宰府へ移送され3年間の幽閉生活を送った。失意の日々だった。

 しかし、時代はまだ実美の出番を用意していた。1867年(慶応3年)の王制復古で表舞台に復帰したのだ。彼は成立した新政府で議定(ぎじょう)となった。議定は明治政府発足後(1867年12月~)設けられた中央管制の三職(総裁、議定、参与)の一つで皇族や公家、藩主などから10人が任じられた。翌年には1868年1月に新設された総裁を補佐する副総裁に就任。戊辰戦争においては関東監察使として江戸に赴いた。そして、1869年(明治2年)には右大臣、1871年(明治4年)には7月から採用された太政官制のもとで遂に太政大臣となったのだ。

(参考資料)文藝春秋編「翔ぶが如くと西郷隆盛」