後藤新平・・・総理大臣を目前に、請われて東京市長に就任した真の政治家

 江戸時代後期の蘭学者、高野長英を大叔父に持つ後藤新平は、明治~大正時代の政治家で逓信大臣、外務大臣、内務大臣、鉄道院総裁などを歴任、総理大臣をも嘱望される存在だった。それにもかかわらず、請われて東京市長に就任し、国家の首都・東京のあるべき姿を、大きなスケールでグランドデザインした人物だ。

それだけではない。長年にわたって東京都政に手腕を発揮し、首都東京にふさわしい様々な事業を成し遂げた。政治家を志した後藤だっただけに、もし彼がその頂点である総理大臣の椅子にだけこだわる人間なら、どれだけ請われたとしても、東京市長に就くわけはない。後藤新平という人物の真骨頂はここにあるといっていい。後藤の生没年は1857(安政4)~1929年(昭和4年)。

 後藤新平は陸奥国胆沢郡塩釜村(現在の奥州市水沢区)の水沢藩士の後藤実崇の長男として生まれた。胆沢県大参事だった安場保和に認められ、後の海軍大将、斎藤実とともに13歳で書生として引き取られ、県庁に勤務。後に15歳で上京し、東京太政官少史・荘村省三のもとで門番兼雑用役になった。

 後藤は政治家を志していたが、母方の大叔父の高野長英が弾圧された影響もあって、医者を奨められ、恩師、安場の勧めもあって17歳で福島の須賀川(すかがわ)医学校に気のすすまないまま入学した。

ただ、同校では後藤の成績は優秀で卒業後、山形県鶴岡の病院勤務が決まっていたが、安場が愛知県令を務めることになり、それについていくことにして、愛知県の愛知県医学校(現在の名古屋大学医学部)で医者となった。後藤にとっては志とは違う進路だったが、ここで彼は目覚しく昇進し、24歳で学校長兼病院長となった。この間、岐阜で遊説中、暴漢に刺され負傷した板垣退助を診察している。

 医師として、それなりに名を成した後藤だが、ここから彼は幼少時から志していた政治家への道に舵を切る。まず目指したのは官僚だ。1883年(明治16年)、後藤は内務省衛生局に入る。2年間のドイツ留学の後、1892年に衛生局長となり、公衆衛生行政の基礎を築いた。この間、相馬家の財産騒動に巻き込まれ、入獄も経験した。さらに1898年から8年間、児玉源太郎総督の下で、台湾総督府民政局長を務め、島民の反乱を抑え、諸産業の振興や鉄道の育成を図るなど植民地経営に手腕を振るった。その実績を買われて1906年(明治39年)には南満州鉄道株式会社初代総裁に就任した。

 そして後藤は、いよいよ政治家への道に踏み出す。貴族院議員に勅選され、1908年第二次桂太郎内閣に入閣、逓信大臣兼鉄道院総裁に就任する。1912年(大正1年)第三次桂内閣でさらに拓殖局総裁を兼ね、1916年寺内正毅内閣では内務大臣、鉄道院総裁を務め、後に外務大臣としてシベリア出兵を推し進めた。1920年に東京市長に就任、8億円の東京市改造計画を提案し、1922年には東京市政調査会を創立し、関東大震災(1923年)後の復興にあたっては、第二次山本権兵衛内閣の内務大臣と帝都復興院総裁を兼任するなど都市改造に尽力した。

(参考資料)郷 仙太郎「後藤新平」、小島直記「無冠の男」、小島直記「志に生きた先師たち」、古河薫「天辺の椅子」

井原西鶴・・・1日で2万句を詠み10年で30作を著した元禄の鬼才

 井原西鶴はわずか1日で2万を超える句を詠み、10年とちょっとで30もの人気作品を著した元禄の鬼才だ。醒めた眼で金銭を語り、男と女の交情をあますところなく描き、芸能記者にして自らも芸人、そしてエンタテインメント作家として絶大な人気を博した。しかもその作風は実に多様で、江戸時代前期、300年以上も前の人物でありながら、幸田露伴、樋口一葉、芥川龍之介、太宰治、吉行淳之介など近代から現代まで、現在活躍している作家たちにも様々な影響を与えてきた。

 ただ、井原西鶴のこうした名声の割には、伝記的なことがさっぱりわかっていない。資料が少ないのだ。大坂の裕福な町人の出といわれているが、詳細は分かっていない。本名は平山藤五(ひらやまとうご)、生没年は1642年(寛永19年)~1693年(元禄6年)。江戸時代の浮世草子・人形浄瑠璃作者、俳人。別号は鶴永、二万翁。晩年名乗った西鶴は、時の五代将軍綱吉が娘、鶴姫を溺愛するあまり出した「鶴字法度」(庶民が鶴の字を使用することを禁じた)に因んだもの。

 西鶴といえば「好色一代男」に代表される小説家のイメージが強いが、もともとは俳人だ。西鶴が1日で2万余句の記録を打ち立てたのは、小説デビュー作となった「好色一代男」を出版した翌々年のことで、その後、作句活動を一時期中断したこともあるが、晩年は再び俳句に情熱を燃やしている。15歳の頃から俳諧を学び始め、当時は俳句の方が小説よりも芸術として上位にみられていただけに、終生俳人のプライドを軸にしながら、生涯最後の10年間を小説にも活躍の場を広げたというのが的を射ているのかも知れない。

 俳句の神様とされる松尾芭蕉と同世代で、同じ時代に生きた。だが、「量より質」の芭蕉に対し、西鶴は「質より量」で、記録が先行気味で作品の影は薄い。小説家としての西鶴の作品は、愛欲の世界を描く好色物、武士社会を扱う武家物、説話を換骨奪胎した雑話物、経済生活を描く町人物などに分類されることが多い。

 西鶴の略年譜をみると、15歳の頃、俳諧を学び始め、21歳の頃、人の俳句を採点する点者に、そして25歳のとき「遠近(おちこち)集」の「鶴永」の号で俳句入集。西鶴俳句の初見だ。33歳の正月、俳句に初めて「西鶴」と署名。36歳のとき、生玉本覚寺で一昼夜1600句独吟を興行、「西鶴俳諧大句数」と題して刊行。41歳のとき、最初の浮世草子「好色一代男」刊行。43歳のとき、「諸艶大鑑」(好色二代男)刊行。住吉神社にて一昼夜2万3500句の独吟を興行。44歳のとき、「西鶴諸国ばなし」刊行。45歳のとき、「好色五人女」「好色一代女「本朝二十不孝」刊行。46歳のとき、「男色大鑑」「武道伝来記」刊行。47歳のとき、「日本永代蔵」「武家義理物語」「嵐無常物語」「好色盛衰記」刊行。48歳のとき、「一目玉鉾」「本朝桜陰比事」刊行。51歳のとき、「世間胸算用」刊行52歳のとき、「浮世栄花一代男」刊行し、この年大坂で亡くなっている。死を迎えるまでの10年ちょっとの間に次々と小説を刊行、濃密な時間を過ごしたことがよく理解される。

(参考資料)浅沼 璞「西鶴という鬼才」

島津斉彬・・・幕末・維新に活躍する人材を育て薩摩藩の地位を固める

 島津斉彬は幕末の開明派の名君の一人で、西郷隆盛、大久保利通ら幕末から明治維新にかけて活躍する人材も育てた。そして、彼が積極的かつ強力に推進した薩摩藩の様々な近代化政策こそが、西南雄藩の中でも薩摩藩が主導的な立場を保つことができた遠因かもしれない。斉彬の生没年は1809(文化6)~1858年(安政5年)。

 薩摩藩の第十一代藩主(島津氏第二十八代当主)島津斉彬は第十代藩主・島津斉興の嫡男として江戸薩摩藩邸で生まれた。幼名は邦丸、元服後は又三郎。号は惟敬、麟洲。斉彬は、開明的藩主で中国、オランダの文物にも目を向け、洋学に造詣の深かった曽祖父、第八代藩主・重豪(しげひで)の影響を強く受けて育った。そのため、彼は洋学に強い興味を示した。

 オランダ医、シーボルトが長崎から江戸を訪れたときは、重豪は82歳の高齢ながら、自ら18歳の斉彬を伴って出迎えに行き、シーボルトと会見している。25歳で曽祖父の死を迎えるまで、斉彬はその向学心に大きな影響を受け、緒方洪庵、渡辺崋山、高野長英、箕作阮甫(みつくりげんぽ)、戸塚静海、松木弘庵など当代一流の蘭学者やオランダ通詞、幕府天文方とも交流。洋書の翻訳、化学の実験なども行い、彼自身もオランダ語を学んだ。

そして、斉彬はまだ世子(後継ぎ)の身分でありながら、藩主の斉興とは別に、幕府老中・阿部正弘、水戸藩・水戸斉昭、越前福井藩・松平春嶽、尾張藩・徳川慶勝、土佐藩・山内容堂、伊予宇和島藩・伊達宗城ら開明派の諸大名とも親交を結んでいた

このことが周囲の目に蘭癖(オランダ・外国かぶれ)と映り、皮肉にも後の薩摩藩を二分する抗争の原因の一つになったとされる。「お由羅騒動」あるいは「高崎崩れ」と呼ばれる一連のお家騒動がそれだ。嫡男・斉彬派と、父・斉興の側室、お由羅の子で斉彬の異母弟にあたる島津久光の擁立を画策する一派との抗争だ。

 事態は重豪の子で筑前福岡藩主・黒田長薄の仲介で、斉彬と近しい幕府老中・阿部正弘、伊予宇和島藩主・伊達宗城、越前福井藩主・松平春嶽(慶永)、らによって収拾され、斉興がようやく隠居し、1851年(嘉永4年)斉彬が藩主の座に就いた。斉彬43歳のことだ。周知の通り、まもなくペリーが浦賀に来航した。

しかし、彼は欧州の近代文明の根源が、この半世紀前から起こった産業革命にあると見抜き、「日本はわずかに遅れているに過ぎぬ。奮起すれば追いつけぬことはない」として、薩摩藩を産業国家に改造すべく手をつけ始めた。まず幕府に工作して巨船建造の禁制を解かせ、国許の桜島の有村と瀬戸村に造船所をつくり、大型砲艦十二隻、蒸気船三隻の建造に取り掛かり、そのうちの一隻、昇平丸を幕府に献上した。長さ11間、15馬力の機関を付けた蒸気船で、これが江戸湾品川沖に回航された安政2年、芝浦の田町屋敷で幕府の顕官、有志の諸侯その他が見学し、さらに芝浦海岸には数万人の江戸市民が押し寄せ、非常な評判になった。

 また、斉彬は藩政を刷新し、殖産興業を推進した。城内に精錬所、磯御殿に反射炉、溶鉱炉などを持った近代的工場「集成館」を設置した。集成館では大小砲銃はじめ弾丸、火薬、農具、刀剣、陶磁器、各種ガラスなどを製造。また製紙、搾油、アルコール、金銀分析、メッキ、硫酸など多岐にわたる品目の製造を行った。これらに携わった職工、人夫は1カ月に1200人を超えたという。このほか、写真研究もしている。幕府に対して日章旗(日の丸)を日本の総船章とすることを建議して、採用された。これらはいずれも当時、日本をめぐる国際情勢について、とりわけ外交問題についても斉彬が明確な認識を持っていたからだ。

 薩摩藩は表高77万石、日本最南端の僻地藩といっても、支配下の琉球を手始めに清国との密貿易、奄美大島ほかの砂糖きびを独占して大坂で売買することなどで莫大な利益を挙げ、蓄積していたといわれる。

(参考資料)加藤 _「島津斉彬」、宮尾登美子「天璋院篤姫」、綱淵謙錠「島津斉彬」、司馬遼太郎「きつね馬」

最澄・・・天台宗の開祖だが、信念のため妥協許さない姿勢が孤立招く

 平安仏教の双璧といえば、いうまでもなく天台宗と真言宗だ。そして、それぞれの開創者がここに取り上げる最澄と、後に仲違いし、決別することになる空海だ。最澄は桓武天皇の信任を得て、804年(延暦23年)、遣唐使派遣の際、還学生(げんがくしょう)として入唐。空海もこのとき、留学生(るがくしょう)に選ばれ渡航した。二人は偶然、同時期に渡航することになったが、還学生と留学生であり、二人の待遇・立場は全く違っていた。最澄がはるかに上だったのだ。最澄は天台を学び、帰朝後、天台宗を開いた。

 最澄は近江国滋賀郡古市郷で三津首百枝(みつのおびとももえ)の子として生まれた。幼名は広野。彼は12歳で同国の国師(諸国に置かれた僧官)行表(ぎょうひょう)について出家した。783年(延暦2年)、この俊敏な少年は得度し、15歳で法華経以下数巻の経典を読みこなしている。2年後に東大寺で具足戒(ぐそくかい)を受けて一人前の僧になったが、ほどなく比叡山に入った。彼は、先に帰化した唐僧鑑真がもたらした典籍の中の天台宗に関するものに導かれて、新しい宗派への関心を深めていった。15~18歳までの間に沙弥としての修行は十分積んでしまったと考えられる。彼は都に行って、大安寺でさらに高度の勉学に励んだとみられる。

 最澄の存在は仏家の間で注目されるところとなり、内供奉(宮中に勤仕する僧)の寿興との交際が始まり、797年(延暦16年)、彼は内供奉十禅師の列に加えられた。そのころから彼は一切経の書写に着手し、南都の諸大寺そのほかの援助を得て、その業を完成させている。また、798年(延暦17年)に、初めて山上で法華十講をおこし、801年(延暦20年)には南都六宗七大寺の十人の著名な学僧を比叡山に招いて、天台の根本の経、法華経についての講莚(こうえん)を開いた。日本における天台法華宗の樹立という彼の事業が法華講莚という最澄らしいスタイルで始まったのだ。

 最澄はこのころ、すでに和気広世(清麻呂の子)というパトロンを持っていた。広世は和気氏の寺、高雄山寺に最澄を招いて法華の大講莚を開いた。こうして和気氏は最澄を広く世間に売り出した。ただ、最澄自身は独自に天台法華宗の樹立への志向を胸に秘め、桓武天皇への接近を周到に準備していた。その意味で、桓武天皇の恩顧を受けていた和気氏は、最澄にとって天皇への有力な橋渡し役となった。最澄には前途洋々たる未来が拓かれていたはずだった。

 ところで、唐に渡った最澄は、還学生という立場から滞在期間わずか8カ月半という短さのため、直ちに天台山のある台州に向かい、そこの国清寺の行満から正統天台の付法と大乗戒を受けている。多数の経典を書写するなどして目的を達した一方、最澄は唐において密教が盛んになっていることに驚き、にわかに密教を学んでいるが、これは時間的に短すぎて成果を得られなかった。最澄が帰国後、唐で恵果から密教の根本の教えを授けられた空海の帰国を待って、接近していくのはそのためだった。

 最澄は空海より7歳年上で、仏教界でも先輩にあたる。だが、唐で密教を十分に学ぶことができなかったことを後悔し、自分よりはるかに地位が低い空海に対し、教えを乞うたのだ。というのも最澄自身、密教を学ばなければならない立場に置かれていたのからだ。

空海は最澄に、自分が恵果から学んだことを教えた。そして、最澄は改めて空海から金剛・胎蔵両界の灌頂を受けているのだ。空海、最澄の親密な関係は、こうしてしばらくは続いた。ところが、その後、弟子の一人、泰範をめぐるトラブルなどから二人の関係は険悪化、やがて決別する。

 また、最澄は高い理想を掲げながら相次ぐ挫折を強いられる。信任を得ていた桓武天皇が亡くなって後、平城天皇、そして嵯峨天皇の御世となった。最澄にとっては厳しい時代を迎えていた。詩文を愛好した教養人、嵯峨天皇は空海と深い親交を持ち、対照的に最澄は時代の変遷から置き去りにされた。それでも、最澄はひるむことなく、あくまでも気高く道を求めて止まなかった。空海が包容力に富んだ弾力性を持った生き方をしたのに対し、最澄はどちらかといえば、信念のためには一点の妥協も許さないといった態度を貫き通した。そのことが最澄の孤立感をさらに増幅したといえよう。

(参考資料)梅原猛「百人一語」、永井路子「雲と風と 伝教大師 最澄の生涯」、司馬遼太郎「空海の風景」、司馬遼太郎「街道をゆく33」、北山茂夫「日本の歴史 平安京」、小和田哲男「日本の歴史がわかる本」、井沢元彦「逆説の日本史・中世神風編」

親鸞・・・日本仏教史上初めて“肉食妻帯”を宣言した、浄土真宗の開祖

 親鸞は平安時代の末から鎌倉時代にかけ、90年の生涯を波乱・動揺の社会の中で送った人物で、“肉食妻帯”を日本仏教史上初めて宣言して、これを実践した在家仏教徒であった。そして周知のとおり、現在、日本最大の信徒を持つ「浄土真宗」の基礎をつくった人だ。

 親鸞が生きた時代は、今日からみると実に様々な政治・社会、そして宗教界において興味深いことが起こっている。親鸞が8歳のとき、源頼朝が平家に対して挙兵し、1185年(文治元年)13歳のとき平家は壇ノ浦で滅んでいる。延暦寺の山徒の横暴に苦しんだ後白河法皇の崩御は、彼の20歳ときのことだ。そして49歳のとき、鎌倉幕府によって後鳥羽法皇が隠岐、順徳上皇が佐渡、土御門
上皇が土佐に流されている。

 また仏教界では1175年(安元元年)、親鸞3歳のとき、法然(源空)が専修念仏の教えを説き始めた。栄西が宋から帰朝して臨済禅を伝えたのは親鸞19歳のときのことだ。親鸞40歳のとき、師の法然が亡くなっている。道元が宋から帰朝して越前大仏寺(後の永平寺)を開創したとき、親鸞は72歳だった。日蓮が北条時頼に『立正安国論』を起草して差し出した1260年(文応元年)は、親鸞入滅の2年前だった。

 親鸞は公家の皇太后宮大進・日野有範の子として生まれた。9歳のとき母が亡くなると、その年、青蓮院の慈円の弟子となり、範宴(はんねん)と号して出家した。その後20年間、範宴は比叡山において一生不犯の清僧の修行に費やした。29~35歳の6年間は法然の膝下にあった時代だ。当時の仏教研究の根本道場だった比叡山に決別した彼は、妻帯を決意し、本願念仏の教えによる成仏の道を一心に求めることになった。師法然に巡り会ったことは、彼の生涯を決定する重要な機縁となった。

 後鳥羽院による法然の専修念仏教団に加えられる弾圧がひどくなり、1207年(承元元年)念仏停止により法然は土佐国へ、親鸞は越後国国府へと流罪に処せられた。35歳のときのことだ。39歳の1211年(建暦元年)、親鸞は流罪勅免となったが、すでに恵信尼と結婚生活に入っていた彼は、このとき愚禿(ぐとく)親鸞と名乗って、子供たちを含めた家族とともに国府にとどまっている。
その後は都には帰らず、42歳のとき常陸に赴き、そこで20年余、関東の地にいて主著『教行信証』の制作に没頭するとともに、社会の底辺で働く人々に念仏の生活を勧めた。そして、多くの弟子をつくった。しかし、どういう心境の変化か、63歳の親鸞は多くの弟子を振り捨て家族とともに都へ帰った。京都の生活は著述と念仏三昧の日々だった。そして90歳の天寿を全うした。

 ところで、親鸞の教えの根本となっているものが“悪人正機説”だ。親鸞がいう「悪人」は、窃盗や殺人を犯すような悪人という意味ではない。「煩悩だらけの凡夫」といった意味だ。つまり、肉食・妻帯という、一般的な遁世の聖にしてみれば破戒といわれる行為を行う者のことをいっており、まさしく親鸞自身も「悪人」ということなのだ。したがって、悪人正機説は、自分のような悪人こそが自力作善の行に頼ることなく、弥陀の本願を無条件に信ずることができるのだ-というわけだ。そして、親鸞は「阿弥陀仏は、私のような破戒の愚か者さえ救ってくれるのだ」と宣言しているのだ。このような平易な教えが一般民衆の中に受け入れられていったのは当然だろう。

(参考資料)早島鏡正「親鸞入門」、早島鏡正「歎異抄を読む」、梅原猛「百人一語」、百瀬明治「開祖物語」

坂田藤十郎・・・上方の和事を創始,近松作品で人気を高め上方の第一人者に

 京の四条河原の掛け小屋に始まったといわれる芝居が、今日の絢爛たる歌舞伎にまで発展した経路には、いろいろな人と時代が反映して、そうなった紆余曲折があるが、その中の最も大きい転機をつくったものに、江戸の「荒事(あらごと)」、上方の「和事(わごと)」がある。その「荒事」は江戸の市川団十郎、上方の「和事」は坂田藤十郎によって創始されたといわれている。坂田藤十郎の屋号は山城屋、定紋は星梅鉢。

 元禄時代の名優、坂田藤十郎(初代)は1647年(正保4年)頃に、京の座元、「坂田座」の坂田市右衛門の息子として生まれた。当時、京の芝居小屋は鴨川の四条あたりの河原に集まっていた。現在も毎年の顔見世興行で有名な南座のあたりが今、わずかに往時の殷賑ぶりをしのばせている。劇場の横には歌舞伎発祥の記念の石碑があり、ここが日本の演劇史上、とりわけ大切な場所だったことを示している。

 ただ、京の坂田座は藤十郎の少年時代、観客同士の喧嘩から血をみる事件になり、遂に廃座となっている。しかも、これが官憲の忌避するところとなり、四条はじめ京中の芝居小屋は、ことごとく長い興行禁止に追い込まれている。それが、都万太夫はじめ、座元たちの嘆願哀訴がようやく実り、延宝年間に至って復興することができた。藤十郎が姿を見せたのはその時だ。1676年(延宝4年)11月、縄手の芝居小屋に藤十郎が出演したという記録がある。その時、彼は28歳で円熟の境にあった。
しかし、坂田座の子に生まれて以来、その間、藤十郎について何の記録も残っていない。彼はまず当時、東西比類なしといわれた大坂の嵐三右衛門を頼って、その膝下で修行したと思われる。また、上方ばかりで芝居をしていたわけではなかったようだ。江戸からきた役者と大坂で交友があったことも関連史料で分かる。しかし、江戸に居つかなかったことは確かで、気分が合わず、上方の和事師として一生を終わったと思われる。

出雲阿国をルーツとする歌舞伎、その流れの「女歌舞伎」が風俗を乱したというので差し止められた。これを受けて発生した男だけの「若衆歌舞伎」。そして、官憲がその役者の前髪を剃ってしまった。前髪を剃られると普通の男の形になる。そこで、「野郎歌舞伎」というものが生まれたのだ。この野郎歌舞伎が生まれて漸次、芝居という形を整えた延宝4年に、坂田藤十郎が初めて記録に出現したわけだ。江戸の荒事に対して、上方の和事というものを彼が戯作したのだ。それが今日伝わっている大阪・京都の一つの芸道だ。

 江戸の市川團十郎、上方の坂田藤十郎、二人はともに東西を代表する名優だ。團十郎は三升屋兵庫(みますやひょうご)の名でいろいろな脚本を書き、藤十郎は「夕霧名残(ゆうぎりなごり)の正月」などの傑作を残している。「夕霧名残の正月」は1678年(延宝6年)、藤十郎が初演して空前の大当たりを取った。伊左衛門役が大評判となり、藤十郎は生涯にわたってこの伊左衛門役を演じ続けた。また、近松門左衛門の作品に多く主演して人気を高め、上方俳優の第一人者となった。藤十郎が完成した和事は上方を中心とした代々の俳優に受け継がれた。

 坂田藤十郎の名を一躍、現代に有名にしたのは、大正初期に菊池寛が書いた「藤十郎の恋」だろう。藤十郎はある夜、京のお茶屋の内儀、お梶をかきくどいた。あまりの藤十郎の真剣さにほだされて、遂にお梶が意を決して行灯の灯を消した時、藤十郎は暗闇の中を外へ忍び出た…。人妻と密通する新しい狂言の工夫を凝らすあまりの、それは藤十郎の偽りの恋だった。あくまで写実に徹しようとした藤十郎の芸熱心に、世人は改めて驚嘆の目を見張った。
 坂田藤十郎の名跡は長い間途絶えていたが、2005年、231年ぶりに三代目中村雁治郎が四代目坂田藤十郎を襲名、復活した。

(参考資料)中村雁治郎・長谷川幸延「日本史探訪/江戸期の芸術家と豪商」