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嵯峨天皇 大家父長制のもと王権を統べ、平安文化を開花させた天皇

嵯峨天皇 大家父長制のもと王権を統べ、平安文化を開花させた天皇

 「薬子の変」を経て、朝廷が安定を回復した、嵯峨天皇・上皇の御世、嵯峨が大御所として文字通り王権を統べていた時代、弘仁、天長、承和にわたる30年間は政局も安定し、平安文化が花開いた時期だ。空海(弘法大師)、小野篁(たかむら)ら多くの人材が輩出し、律令制を整備するため『弘仁格(きゃく)』『弘仁式』が編纂され、勅撰の漢詩集『凌雲集(りょううんしゅう)』や『文華秀麗集(ぶんかしゅうれいしゅう)』が編まれ、唐風文化が隆盛となった。能筆家の嵯峨天皇が、空海、橘逸勢(はやなり)とともに「三筆」と称されたことは周知の通りだ。嵯峨天皇の生没年は786(延暦5)~842年(承和9年)。

 嵯峨天皇は桓武天皇の第二皇子。諱を神野(賀美能、かみの)といい、母は父・桓武の皇后、藤原乙牟漏(おとむろ)。806年(大同元年)5月、兄・平城(へいぜい)天皇の皇太子となり、809年(大同4年)病気の兄から譲位され、即位した。皇后には橘嘉智子(かちこ)を立て、交野(たかの)女王と大原全子(おおはらのまたこ)を妃に迎えた。橘嘉智子との間には正良(まさら)親王(後の仁明天皇)、正子(せいし)内親王(淳和天皇の皇后)をもうけ、交野女王との間には有智子(うちこ)内親王、大原全子との間には源融(とおる)が生まれた。

 病気のために譲位したはずの平城上皇が、譲位後にわかに健康を取り戻したか、側近の藤原薬子や兄・仲成らとともに、政権奪回を目指して容喙(ようかい)するようになった。そこで嵯峨天皇は巨勢野足(こせののたり)や藤原冬嗣を蔵人頭に任じてこれに対抗した。810年(弘仁元年)、平城上皇方が平城遷都の命を出したことから、征夷大将軍として名を馳せた坂上田村麻呂らを派遣して上皇方を制圧した。これにより、上皇は出家、薬子は自害、仲成は射殺され、皇太子・高岳親王も廃されたため、嵯峨天皇の朝廷は安定を回復した。

 嵯峨天皇は、性格的に兄の平城上皇とは違い、穏やかでゆったりした人物だった。彼は決して親政の姿勢を崩さなかったが、政治を多く公卿グループに委ねるという方針をとっていた。そして、父・桓武とは大いに異なり、14年間の執政に飽き飽きして、何とか王座を離れようとしていた。823年(弘仁14年)4月、嵯峨は冷然院(れいぜんいん)という離宮に移り、右大臣・藤原冬嗣に退位を伝えた。冬嗣は即座に反対した。しかし、嵯峨は皇太弟に皇位を譲った。即位したのが淳和天皇だ。

 嵯峨上皇が冷然院で自適の生活を始めたのは38歳のときだ。嵯峨はこれから19年間、文字通り大御所として、弟の淳和の時代、嫡子の仁明の治世の前半を見守ることになる。嵯峨上皇の大家父長制のもとに、王権の継承はすこぶる平穏に行われた。嵯峨も父・桓武に劣らず女色を好み、多数の妻を擁し、50人くらいの子女をもうけた。そして、身分の高くない母の子女には源(みなもと)姓を与えて臣籍にうつした。仁明朝に至って、彼らの多くは政界に進出し、中でも源常(ときわ)は、左大臣・藤原緒嗣(おつぐ)の没した年の翌844年(承和11年)にその地位を襲い、その兄・信(まこと)は中納言だった。他に参議に列していた者もいた。嵯峨源氏は、藤原氏の諸流に対抗する一大勢力だった。

 嵯峨上皇は、その血族で王権を固めたばかりでなく、藤原氏との連携あるいは結託も疎かにしなかった。とくに彼は冬嗣との関係を深め、娘・源潔姫(きよひめ)を冬嗣の次子・良房に与えている。天皇の娘が臣下に嫁するのは全く先例のないことだった。こうして冬嗣・良房の藤原北家の流れは、この大家父長制のごく近くに、政治的には極めて有利な位置を占めたわけだ。その結果、仁明朝の848年(嘉祥1年)には、源常(37歳)は左大臣、藤原良房(45歳)は右大臣、そして源信(39歳)は大納言と、嵯峨源氏と藤原北家が朝廷の政権中枢を張り合った時期も出現した。

(参考資料)北山茂夫「日本の歴史④平安京」、笠原英彦「歴代天皇総覧」、杉本苑子「檀林皇后私譜」、司馬遼太郎「空海の風景」

大石内蔵助 日頃は凡庸だったが、危機に真価を発揮した忠臣蔵のリーダー

大石内蔵助 日頃は凡庸だったが、危機に真価を発揮した忠臣蔵のリーダー

 大石内蔵助(くらのすけ)は播州赤穂藩の筆頭家老で、周知の通り、江戸・元禄時代、赤穂浪士四十七士を束ねて、吉良邸へ討ち入り、上野介の首級を上げ、主君・浅野内匠頭長矩の無念を晴らした、いわゆる「忠臣蔵」の見事な統率力あるリーダーであり、智将だ。赤穂四十七士と称されるが、1700年(元禄13年)3月、江戸城松之廊下の変事の急報が赤穂藩にもたらされたとき、復仇を誓った同志は122人もいた。その過半が脱落した末の一挙だ。お家断絶に伴い、禄を離れ、生活に困窮した同志を扶助し、急進派の暴発を抑えながら、とにかく五十名近くを率いて大事に臨み、成し遂げた。それは並大抵のことではなかったろう。

 大石内蔵助は大石良昭の長男として生まれた。幼名は松之丞、諱は良雄。渾名は昼行燈。内蔵助の生没年は1659(万治2)~1703年(元禄16年)。そもそも大石家は、平将門を討った藤原秀郷の子孫と伝えられ、その一族が近江国栗太郡大石庄の下司職になったので、その地名をとって大石を名乗るようになったのだという。また、主君浅野家と大石家とは深い婚姻・養子の関係で繋がっている。そのため、大石家は浅野家唯一の譜代家老(代々家老となる家柄)であり、出自の良さも合わせて赤穂藩において特別な地位を占めていたのだ。

 大石内蔵助良雄は1673年(延宝元年)、父・良昭が34歳の若さで亡くなったため、祖父・良欽の養子となった。また、この年に元服して喜内(きない)と称するようになった。1677年(延宝5年)、良雄が19歳のとき祖父・良欽が死去し、その遺領1500石と「内蔵助」の通称を受け継いだ。また、赤穂藩の家老見習いになり、大叔父の良重の後見を受けた。1679年(延宝7年)、21歳のとき正式に筆頭家老となった。1683年(天和3年)、良雄の後見をしていた良重も世を去り、いよいよ独立しなければならなくなった。

 それにしても20代半ばまで、そして平時における内蔵助は家格の割に凡庸で、「昼行燈(ひるあんどん)」と渾名されていたことは有名だ。秀でた部分がみえなかった。したがって、藩政は老練で財務に長けた家老・大野知房が牛耳っていたと思われる。筆頭家老とは名ばかりだった。そんな内蔵助に自覚を促し、精神的に自立させたのはやはり身を固め家庭を持ったことだった。1686年(貞享4年)、豊岡藩・京極家筆頭家老、石束毎公の娘、りく(18歳)と結婚。1688年(元禄元年)長男・松之丞(後の主税良金=ちからよしかね)、1690年(元禄3年)長女・くう、1691年(元禄4年)には次男・吉之進(吉千代とも)が生まれている。そして、内蔵助は1693年(元禄6年)京都の伊藤仁斎に入門して儒学を学んだという。

 皮肉なことに、内蔵助が紛れもなく世間の耳目を集めたのは、赤穂藩取り潰し後の藩札引き替えなどの残務整理と城明け渡しの際にみせた手際の良さだった。要するに、ふだんは茫洋として、才子ぶったところをみせることは全くなく、危機に際して真価を発揮するタイプの人物だったのだ。

 大石内蔵助が1702年(元禄15年)、江戸に入り、討ち入り決行の20日前に在京の旧知の僧に宛てた書状に、次の歌がある。

 「とふ人とかたること葉のなかりせば 身は武蔵野の露と答へん」

 深みと重みがあり、冷徹な分析能力、洞察力、そして慎重かつ豪胆な行動で事を成した内蔵助の人物像にふさわしい歌だ。

 内蔵助の辞世として一般的に伝えられているものは、上記の決行20日前に詠んだものとは明らかに違う。次の歌がそれだ。

 「あな楽し思ひは霽(は)るる身は捨つる 浮き世の月に翳(かげ)る雲なし」

 赤穂浪士や忠臣蔵に関する近年の評伝や文学作品には、内蔵助の軽妙さや、洒脱な側面に光を当てて描くものが多い。そんな内蔵助の人物イメージに、この辞世は合致している。だが、本来の内蔵助の心情に照らして熟慮すれば、やはり上記の歌が符合する。

(参考資料)井沢元彦「忠臣蔵 元禄十五年の反逆」、松崎哲久「名歌で読む日本の歴史」、大石慎三郎「徳川吉宗とその時代 江戸転換期の群像」

大原孫三郎 倉敷を拠点に数々の事業を興し社会貢献した先駆的実業家

大原孫三郎 倉敷を拠点に数々の事業を興し社会貢献した先駆的実業家

 大原孫三郎は、倉敷を拠点に倉敷紡績、倉敷銀行、倉敷電灯(後の中国電力)など数々の事業を育て上げた人物だ。その一方で、学術、美術など様々な社会事業に先鞭をつけ、一貫してその財を人に投じた。それは生きた金となって、今日なお社会に大原美術館をはじめ2つの大企業(倉敷紡績、クラレ)、7つの研究所(大原社会問題研究所、倉敷労働科学研究所、大原農業研究所など)、倉敷中央病院が残され、いまも社会に貢献している。大原孫三郎の生没年は1880(明治13)~1943年(昭和18年)。

 倉敷という街は、大原孫三郎がいなければごく普通の地方の中都市に終わっただろう。一例を挙げると、孫三郎が画家・児島虎次郎に命じて印象派の名画を買い集め、大原美術館をつくった。倉敷の持つその文化性のお陰で、この街は空襲を免れているのだ。また、こんな逸話がある。明治40年、岡山に師団が設けられ倉敷にも連隊が置かれることになった。日露戦争直後、軍国主義のみなぎる時代、街を挙げて快哉を叫ぶはずだ。連隊を置けばカネが落ち、消費が活発になる。いまならGDP換算いくらくらいと、そのあたりの研究所が試算するだろう。経済的にみてこんなおいしい話を、当時まだ30歳に満たぬ孫三郎が先頭に立って反対したのだ。理由は「風紀が乱れる」ということだった。倉敷紡績は若い女子工員を大勢雇用している。若い男と女が集まれば…というわけだ。いずれにしても、倉敷は軍都を免れ、空襲にも遭わず廃墟とならずに済んだ。

 大原孫三郎は、岡山県倉敷市の大地主で倉敷紡績を営む大原孝四郎の三男として生まれた。大原家は文久年間、村の庄屋を務め、明治中ごろで所有田畑約800町歩の大地主となった豪家だった。二人の兄が相次いで夭折したため、孫三郎が大原家の嗣子となった。1902年(明治35年)、21歳で父・孝四郎の経営する倉敷紡績に入った孫三郎が、真っ先に手を着けたのは1000人を超す女子工員の労働環境改善だった。1888年(明治21年)の工場開設以来、少女らは12時間交代の徹夜労働を強いられていた。2階建ての大部屋に閉じ込められ、万年床で寝起きする毎日。伝染病の集団感染も起きた。

 孫三郎は、こうした劣悪な環境で睡魔と闘いながら働く従業員の幸福を保証してこそ、事業の繁栄があると考えた。そこで、幹部の反対を押し切り、敷地を購入し平屋の「家族式寄宿舎」を建設した。後にJR倉敷駅の北側に新しく、孫三郎自身が設計した、2棟が向かい合って中庭を持つ「分散式寄宿舎」のある万寿工場をつくっている。孫三郎はまた「飯場(はんば)制度」も廃止した。請負業者が炊事一切、日用品の販売を仕切り、工員の口入れ手数料などでピンハネ商売などが行われていたからだ。こうした工場内で隠然とした力を持つ業者を締め出したのだ。外出や面会を見張る守衛もやめた。細井和喜蔵の『女工哀史』が出版される10年も前の改革だった。

 孫三郎の生家は倉敷一の大地主。何不自由なく育った。が、生来の癇(かん)性と病弱で学校に馴染めず、いじめに遭って、不登校を決め込んだこともあった。東京に遊学するが、勉強に身が入らない。富豪の息子に悪友が群がった。高利貸から借りた金で吉原通いの生活。こうして放蕩息子の借財は利息も合わせて1万5000円に上ったという。今なら億単位の金額だ。

 こうした破天荒で度外れた放蕩生活が実家に知れ、父に1901年(明治34年)在学中の東京専門学校(後の早稲田大学)を中退のうえ、倉敷に連れ戻され、謹慎処分を受けた。しかし、孫三郎はこの謹慎を機に生まれ変わり、この後、既述した様々な近代的かつ先進的な事業経営に乗り出していくのだ。

(参考資料)城山三郎「わしの眼は10年先が見える 大原孫三郎の生涯」、日本経済新聞社「20世紀 日本の経済人 大原孫三郎」

秋山好古 日露戦争で世界最強のコサック騎兵団を破る快挙を成し遂げる

秋山好古 日露戦争で世界最強のコサック騎兵団を破る快挙を成し遂げる

 秋山好古(あきやまよしふる)は明治維新後、軍隊の近代化推進の一環として騎兵隊の養成を担い、徹底的な研究と努力で、当時世界最弱と笑われていた日本陸軍騎兵隊を鍛え上げた。その結果、日露戦争最後の陸の決戦、奉天会戦で当時、世界最強を誇ったロシア・コサック騎兵団を破る快挙を成し遂げた、「日本騎兵隊の父」といわれる人物だ。

 秋山好古は伊予国松山城下(現在の愛媛県松山市歩行町)で、松山藩士・秋山久敬を父に、母・貞との三男として生まれた。好古の名前の由来は論語の一節、「信而好古」から。幼名は信三郎。陸軍大将、従二位を叙任された。戦前、圧倒的に不利とみられていた日露戦争(1904~1905年)の日本海海戦で、連合艦隊の作戦参謀として「丁字戦法」を考案、バルチック艦隊を撃滅した秋山真之(海軍中将)は10歳年下の実弟(五男)。好古の生没年は1859(安政6)~1930年(昭和5年)。

 秋山家は伊予の豪族・河野氏の出で、好古の七代前の秋山久信が伊予松山・久松家に仕えた。足軽よりも一階級上の位で、家禄10石ほどの下級武士(徒士=かち=身分)だった。好古は松山藩では正岡子規の叔父にあたる加藤恒忠と並ぶ秀才だった。好古は藩校・明教館に入学し、家計を支えつつ学んだ。17歳で単身大阪に出て、年齢を偽り、師範学校の試験を受け合格した。卒業後、教員となり、名古屋にあった県立師範学校(現在の愛知教育大学)の付属小学校に勤めることになった好古は、この学校に誘ってくれた松山藩の先輩、和久正辰より「月謝だけでなく生活費がただで、小遣いまでくれる学校がある」と勧められ、身を任せるまま陸軍士官学校に入校した。そして、陸軍大学校へと進み、1887年(明治20年)から3年間、フランスに留学し、ここで騎兵戦術を習得した。乗馬学校校長・騎兵監などを歴任し、騎兵科の確立に尽力した。

 日清戦争では騎兵第一大隊長(第二軍、第一師団)として出征、金州、旅順を攻略。北上しながら転戦を重ねた。北清事変では第五師団の兵站監として出征、乱の平定後に清国駐屯軍司令官として勤務した。日露戦争では騎兵第一旅団長(第二軍)として出征、緒戦から偵察、側面援護と力戦し、ロシアのコサック騎兵の突撃を阻止した。とくに沙河会戦後の黒溝台の会戦では、全軍の最左翼・黒溝台方面約30kmを固めた秋山支隊にロシア第二軍主力が全力を挙げ反撃を加えるが、10万のロシア軍を相手にわずか8000人で死守するという鉄壁さをみせた。「日露戦争の最大の危機」といわれた同会戦を勝利に導いた戦功は大きい。

 1913年(大正2年)、第十三師団長、1915年近衛師団長。1916年朝鮮駐箚(ちゅうさつ)軍司令官。1920年教育総監を務めたが、晩年は軍を離れ、郷里松山の北予中学校(現在の愛媛県立松山北高校)校長に就任した。

(参考資料)司馬遼太郎「坂の上の雲」、司馬遼太郎「歴史の中の日本」、司馬遼太郎「司馬遼太郎が考えたこと 4」、生出 寿「智将 秋山真之」、吉村 昭「海の史劇」

渋川春海 日本人最初の暦「貞享暦」をつくった日本初の国産暦の生みの親

渋川春海 日本人最初の暦「貞享暦」をつくった日本初の国産暦の生みの親

 渋川春海は江戸時代前期の天文歴学者で、囲碁博士であり、神道家だ。江戸幕府の初代天文方を務め、1684年(貞享元年)「貞享暦(じょうきょうれき)」を作成、これが後の太陰暦の基となった。その意味で、彼はいわば日本初の国産暦の生みの親だ。渋川春海の生没年は1639(寛永16)~1715年(宝永5年)。

 渋川春海は、江戸幕府碁方の安井家、一世・安井算哲の長子として京都・四条室町で生まれた。幼名は六蔵、のち父の名を継ぎ算哲と称した。諱は都翁(つつち)、字は春海、順正(のぶまさ)、通称は助左衛門、号は新藘(しんろ)。姓は安井から保井、さらに出身地にちなんで渋川と改姓した。1652年(慶安5年)父の死に伴って、二世・安井算哲となったが、当時まだ13歳だったため、碁方の安井家は一世・算哲の養子、算知に引き継がれており、彼は保井姓を名乗ることになった。

 保井算哲は幼少時から学芸百般に才能を発揮し、碁を算知に学んで、江戸においては池田昌意から数学と暦法、京都では山崎闇斎に垂加神道、岡野井玄貞に天文学と暦法、土御門泰福に暦法と陰陽道をそれぞれ学んだ。これにより、彼は21歳のころには学者として諸国に知れ渡る存在となって、徳川光圀、保科正之、柳沢吉保の寵遇を受けたという。1659年(万治2年)、碁方の算知の力に預かったとみられるが、彼は20歳で御城碁に初出仕して本因坊道悦に黒番四目勝ち。その結果その後、25年間碁士を務めることになった。そして、その後、彼は人生の転機を迎える。その経緯はこうだ。

 それは霊元天皇が土御門泰福に改暦を命じたことに始まる。土御門泰福は既述の通り、算哲(春海)が暦法と陰陽道を学んだ師だ。そこから、様々な事情や経緯はあったが、結論としては1684年(貞享元年)、算哲の手になる日本人最初の暦「貞享暦」が採用されたのだ。このことが、算哲のその後の運命を大きく転換させた。「貞享暦」の採用により、算哲は碁方から天文方に移り、新規召し抱え250石の禄を受け、渋川春海を名乗った。その後、渋川家は天文方として代々続き、碁方としての安井家は算知の系統で栄えていった。

 ところで、当時の日本の暦事情はどうだったのか。江戸時代の暦は月を中心とし、1年を12カ月か13カ月とした「太陰太陽暦」だった。この暦では新月の日が月初の1日(ついたち)にあたる。そこで、日食は必ず1日に起こらなければならず、それに失敗すると、時の幕府の権威が失くなってしまうというわけだ。そのため、戦乱の時代から世の中が落ち着くと、暦に関心が持たれるようになる。当時、平安時代から使用されていた「宣明暦」による日食の予報は外れることがおおかったようだ。

 そこで、当時盛んだった和算の視点から暦の検討が行われるようになった。1673年、春海は「授持暦」で改暦を行うことを上奏したが、運悪く1675年の日食は授時暦では当たらず、宣明暦では当たったのだ。このため、改暦は却下された。だが、春海は自ら太陽高度や星の位置を測り、前回の日食の予報の失敗の原因が、中国と日本の経度の差にあること突き止めた。そして、独自の方法で授時暦に改良を加えた「大和暦」をつくり、1683年に再び上奏した。しかし、これも採用されず、衆議は明の「大統暦」の採用となった。

 春海の改暦運動は行き詰まった。だが、まだ道は残されていた。彼は囲碁方として幕府に仕えていたため、そのお勤めの中で会津の保科正之、水戸光圀など有力者と知り合っていたのだ。この強力な人脈が春海に味方した。保科正之や水戸光圀らは春海の改暦運動を後押し、明の大統暦と大和暦の優劣を天測で競うことになったのだ。結局ここで大和暦の優秀さが証明され、1684年(貞享元年)、大和暦(=「貞享暦」)が採用されることに決定、1685年(貞享2年)から施行されたというわけだ。

(参考資料)冲方 丁(うぶかた とう)「天地明察」

宮部鼎蔵 吉田松陰に影響を与えた肥後勤王党の中心人物で反幕活動に挺身

宮部鼎蔵 吉田松陰に影響を与えた肥後勤王党の中心人物で反幕活動に挺身

 宮部鼎蔵は尊皇攘夷派の肥後熊本藩士で、山鹿流軍学師範を務めた英才だった。兵学、儒学のほか国学に造詣が深く、思想面で長州藩士、吉田松陰に影響を与えた人物だ。嘉永年間にはその松陰と東北地方の事情調査を敢行している。松陰の刑死後も、松陰を通じて知り合った久坂玄瑞ら長州藩の志士たちと交わり、肥後勤王党の中心人物として反幕府活動に挺身した。1864年(元治元年)京都三条の池田屋で長州、土佐、肥後などの各藩同士と密議しているところを新選組に襲われ、彼は重傷を負い、自刃して果てた。宮部鼎蔵の生没年は1820(文政3)~1864年(元治元年)。

 宮部鼎蔵は肥後国益城郡田代村(現在の熊本県上益城郡御船町上野)で宮部春吾の長男として生まれた。諱は増実、号は田城。鼎三とも記される。養父は叔父、宮部丈左衛門。実弟に春蔵がいる。実家は代々医者の家庭。鼎蔵は山鹿流軍学を学び、1850年(嘉永3年)30歳で肥後藩の兵学師範に任じられた。翌年、藩命で江戸へ赴いた際、長州藩の吉田松陰と出会い、意気投合。親交を深め房総や東北諸藩を遊歴。諸国の志士たちと交遊した。また、林桜園に師事し国学などを学んだ。

 1858年(安政5年)「安政の大獄」で松陰が刑死した後、松陰を通じて知り合った久坂玄瑞、高杉晋作ら長州藩の志士たちと交わり、尊皇攘夷派に傾倒していく。1861年(文久元年)、鼎蔵は肥後勤王党に参加した。このころには全国の勤皇派志士の間では名前が知られる存在になっていた。1862年(文久2年)には清河八郎も鼎蔵を訪ね、肥後にきている。

 1863年8月18日、禁裏九門の一つ堺町御門の警護にあたっていた長州藩が、突然その任を解かれた。長州藩過激派が尊皇攘夷派公家と内通し、倒幕を目論んでいたことが露見したからだ。長州藩の解任は、公武合体派の薩摩藩が京都守護職にあった会津藩と通じ、尊攘派を京都から一掃しようと起こしたクーデター(八月十八日の政変)だった。

 この日、勤王党親兵として京に上っていた、全国の32藩・3000の兵士が宮部鼎蔵の指揮下にあった。鼎蔵は尊攘派の公家の代表、三条実美に「(孝明天皇の)御前に出で、今日の参内停止の理由を、お問い糾し下さりますよう」と、出馬を促した。だが、実美は「万策尽きた今、兵を引き連れての参内は相手に口実を与えるだけ」といって動かなかった。こうして鼎蔵の巻き返し策は、陽の目を見ることなく終わり、三条、三条西、東久世、四条、壬生、錦小路、沢の尊攘派公家7人が朝廷を追われ、京都を追放され、長州へと逃れた(七卿落ち)。

 翌19日、鼎蔵は七卿の側を守って長州兵の一団と伏見へ向けて発ったが、その途中、彼は一団から離れ、京・兵庫・徳島、そして鳥取などへ、諸方を説いて、また周旋を頼むため、この日を境に慌しく走り回る日々が始まった。鼎蔵は長州藩の桂小五郎より17歳、久坂玄瑞より20歳、土佐の中岡慎太郎より12歳それぞれ年上だった。尊攘派の志士の中で、40歳を越した分別盛りの人間といえば、この宮部鼎蔵だった。しかも勤王党総督「三条実美公」のもとで、彼は親兵総監に任じられ、諸藩に名を知られた軍学者でもあった。七卿も長州藩も鼎蔵に依存するところが多かった。

 1864年(元治元年)、鼎蔵は京に入り、いつものように枡屋喜右衛門方に泊っていた。枡屋は、四条河原町を上って一筋目を東に入った場所だ。6月5日の朝、情報の要、枡屋が突然、新選組に襲われ、主人の喜右衛門が連行された。鼎蔵は幸い4日の夜は他宿したため、無事だった。枡屋の主人が連行されたとの知らせは、うまく虎口を逃れた店の者たちによって諸方の志士たちに知らされた。そして、鼎蔵は同夜八時に三条池田屋に集まるように連絡を受けた。街は祇園祭の宵宮で、囃子の音が鳴り響いていた、四条通の人波はあふれて、三条のあたりまで浴衣がけで男女が行き交っていた。その人波を縫うようにして、鼎蔵は池田屋にやってきた。同士が全部揃ったのは八時半を少し回ったころだ。

 長州は吉田稔麿、杉山松助、広岡浪秀、佐伯靱彦、土佐は野老山吉五郎、石川潤次郎、北添佶麿、望月義澄、播州は大高忠兵衛、同又次郎、そして聖護院の西川耕蔵といった面々だった。桂小五郎もやがて顔をみせることになっていた。実は時間通りにやってきた桂は、別の用事を済ませて戻ると言伝して出て行ったのだ。集まった面々は、枡屋のことですっかり興奮していた。鼎蔵は、ここは兵学者として冷静な対応を説いておかなければと考え、食事の膳に着いたときだった。階下で大声がした。聞き耳を立てた北添が梯子団を降りていくと、鎖帷子(くさりかたびら)を着込み、胴丸を着けた大勢の男たちが、抜き身を下げて立っていたのだ。新選組だった。彼らの会合は、新選組に嗅ぎ付けられていたのだ。もう手遅れだった。逃げ場はなかった。

 「諸君、脇差でよい、室内の立ち廻りには、太刀は必要でない。体ごとぶつかるのだ。そして逃げろ、逃げられるだけ逃げるんだぞ」鼎蔵は大声をあげて指令した。だが、多勢に無勢、その鼎蔵は重傷を負い、絶体絶命の危機だった。そこで彼は、新選組に捕縛されることを恥辱として、自刃して果てた。あっけない死だった。宮部鼎蔵は洛中の尊攘派志士たちの重鎮として活躍していただけに、彼の死は全国の尊攘派志士たちに大きな影響を与えた。

(参考資料)奈良本辰也「叛骨の士道」、司馬遼太郎「世に棲む日日」、森友幸照「吉田松陰 男の自己変革」、平尾道雄「中岡慎太郎 陸援隊始末記」