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永井尚志 諸外国との通商交渉を担当し、旗本から異例の若年寄に栄進

永井尚志 諸外国との通商交渉を担当し、旗本から異例の若年寄に栄進

 永井尚志(ながいなおむね・ながいなおゆき)は江戸時代後期、三河奥殿藩主の晩年の子として生まれたため、家督はすでに養子に譲られていたことから、藩主にはなれず、旗本の養子に出された。しかし、幕臣として立身し、様々な要職を務め、旗本から異例の若年寄に栄進した人物だ。戊辰戦争では幕府軍が敗れることを予測していながら、潔く最後まで幕府に忠誠を尽して戦った忠臣として高く評価されている。生没年は1816(文化13)~1891年(明治24年)。

 永井尚志は三河国奥殿藩第五代藩主・松平主水正(もんどのしょう)乗尹の子として国許で生まれた。名は岩之丞、法号は介堂。後に玄蕃頭(げんばのかみ)を称した。父の晩年に生まれたため、家督はすでに養子の松平乗羨が相続していたことから、藩主の座に就くことはできなかった。江戸藩邸で養育されたが、1840年(安政元年)25歳のとき浜町に本邸を持つ2000石の旗本、永井能登守尚徳の養子となった。幕臣・永井尚志の誕生であり、新たな人生のスタートだった。

 永井は1847年(弘化4年)小姓組番士を皮切りに、御徒士頭を経て、1853年(嘉永6年)、目付として幕府から登用された。永井48歳のときのことだ。1854年(安政元年)には長崎伝習所の総監理(所長)として長崎に赴き、長崎製鉄所の創設に着手するなど活躍。1858年(安政5年)、それまでの功績を賞されて呼び戻され、岩瀬忠震(いわせただなり)とともに、外国奉行に任じられた。そして、ロシア、イギリス、フランスとの交渉を務め、通商条約に調印した。その功績で軍艦奉行に転進した。

 順調に出世街道を歩んだ永井だったが、ここで挫折を味わうことになる。徳川十三代将軍家定の後継争いで、永井は一橋慶喜(後の十五代将軍)を推す一橋派を支持したため、「安政の大獄」(1859年)の嵐の中、時の大老・井伊直弼の反感を買い、奉行職を罷免され、失脚したのだ。しかし、井伊直弼が「桜田門外の変」(1860年)で暗殺されると、幸運にも再び道が開かれる。永井は1862年(文久2年)、京都町奉行として復帰し、活躍の舞台を与えられる。1864年(元治元年)、禁門の変では幕府側の使者として朝廷と交渉するなど、交渉能力で手腕を発揮した。その結果、1867年(慶応3年)には旗本からは異例の若年寄まで出世した。

 大政奉還から戊辰戦争、そして明治維新に至る激動の時代は、幕臣・永井にとっては、“負け組”を覚悟しながらも、輝ける最後の時期でもあった。鳥羽・伏見の戦いの後には、十五代将軍慶喜に従って、大坂から軍艦で江戸へ逃げ戻り、その後の戊辰戦争では榎本武揚とともに蝦夷へ戦いの舞台を移している。彼は箱館奉行となり新政府軍と戦ったのだ。箱館・五稜郭での戦いに敗れて榎本らとともに自決しようとしたが、周囲に止められて、不本意ながら降伏した。明治維新後、1872年(明治5年)、新政府に出仕し、開拓使御用係、左院小議官を経て、1875年(明治8年)に元老院権大書記官に任じられた。

 永井は忠臣として評価されているのだが、政治的な立場からみると、決して開明派の人物ではなかったとの指摘がある。それは、第一次長州征伐の事態収拾でのことだ。そこで永井は後から交渉に関わったにもかかわらず、長州藩主・毛利敬親を捕縛しさらし者にすることを主張。交渉をまとめた征討総督の尾張藩・徳川慶勝らの面目を潰し、参謀の西郷隆盛に批判、論破されているのだ。こうした点を考え合わせると、彼は旧態依然とした幕府中心主義から最後まで脱し切れなかった守旧派の人物とみることもできる。 

(参考資料)司馬遼太郎「最後の将軍」、童門冬二「流浪する敗軍の将 桑名藩主松平定敬」、大島昌宏「罪なくして斬らる 小栗上野介」

叡尊 奈良・西大寺を復興、「興正菩薩」の尊号贈られた名僧

叡尊 奈良・西大寺を復興、「興正菩薩」の尊号贈られた名僧

 叡尊は真言律宗の僧で、奈良・西大寺を復興した僧として知られる。真言の呪法ダラニで「文永の役」(「元寇」)で蒙古の襲来を退けるという祈祷を行い、その呪法が効いたのか、大風が吹き元軍は壊滅、その名声を高めた。また、鎌倉幕府の五代執権・北条時頼はじめ、その補佐役だった権力者・金沢実時、将軍・宗尊(むねたか)親王、さらには亀山上皇、後嵯峨上皇、後深草上皇らもこの叡尊に帰依していたといわれる名僧だ。入滅10年後「興正菩薩」の尊号が贈られた。叡尊の生没年は1201(建仁元)~1290年(正応3年)。

 叡尊は、大和国添上郡箕田里(現在の大和郡山市白土)で生まれた。字は思円(しえん)。父は源義仲の後裔、興福寺の学侶の慶玄(きょうげん)。7歳で生母を失い、京都醍醐寺近くの巫女に養われたが、11歳でこの養母も亡くなった。そこで、その妹に引き取られ、育てられた。叡尊は1217年(建保5年)、17歳で醍醐寺の阿闍梨叡賢に師事して出家。1224年(元仁元年)高野山に入り、真言密教を学んだ。1235年(嘉禎元年)、35歳のとき、当時荒廃していた西大寺に入寺。戒律の復興を志して、西大寺宝塔院持斎僧となり『四分律行事鈔』を学んだ。

 様々な史料によると、西大寺は11世紀前半までに「四王堂」倒壊、金堂四天王像は野ざらしの状態で、1118年(元永元年)、食堂と塔一基を残し、西大寺諸堂は大破して、修復も行われず、礎石だけの状態となった。こうした荒れ寺、西大寺に叡尊は入り、再建しつつ、根拠地としたのだ。1236年(嘉禎2年)、覚盛(かくじょう)、円晴(えんせい)、有厳(うごん)らと東大寺で自誓受戒。地頭の侵奪により、西大寺が荒廃したため、叡尊は海龍王寺に移った。

 1238年(歴仁元年)、叡尊は持戒のあり方をめぐり、海龍王寺の衆僧と対立したために西大寺に戻った。そして西大寺の復興に努め、結界・布薩した。1240年(仁治元年)、叡尊は西大寺に入寺した忍性(にんしょう)の文殊菩薩信仰に大きな影響を受けた。額安寺西宿で最初の文殊供養(文殊図像を安置)を行い、近傍の非人に斎戒を授けた。1242年(仁治3年)、奈良の獄屋の囚人たちに斎戒沐浴させた。1247年(寛元5、宝治元年)、仏師・善円に念持仏・愛染明王坐像をつくらせ、1249年(建長元年)、仏師・善慶に京都・清涼寺釈迦如来像の模刻をつくらせ、西大寺四王堂に安置した。

 1258年(正嘉2年)、叡尊は絵師・尭尊に金剛界曼荼羅、1260年(文応元年)、胎蔵界曼荼羅をそれぞれ描かせた。1262年(建長2年)、前年来の北条実時からの懇請に応え関東へ下向。北条実時・時頼に拝謁し、授戒した。1279年(弘安2年)には亀山上皇以下公卿らに授戒と、『梵網経古迹記』の講義を行った。この結果、叡尊は鎌倉・北条執権家および京都・朝廷にも広く支持される存在となったのだ。1285年(弘安8年)には、院宣により四天王寺別当に就任した。叡尊は1285年までの50年間、民衆3万8000人に菩薩戒を集団的に授けたほか、彼は生涯に700余の寺院を創建・修復したといわれる。1286年(弘安9年)、叡尊は自ら「真言律宗」という真言宗のうちで「戒律」を重んずる宗派を興した。当時、世は乱れ、まさに「末法思想」が時代を覆っていた。この末法思想を前提に法然は「念仏」を唱え、日蓮は「題目」を主張した。叡尊もまた末世の自覚ゆえに真言を選んだ。

 しかし、彼は当時の真言のあり方に批判を持った。彼は真言にも「戒律」が必要だと考えたのだ。そして、空海の「仏道は戒なくしてなんぞ到らんや」「もしことさらに犯すものは仏弟子にあらず。(中略)わが弟子にあらず」という言葉をもって、空海の思想を継ごうとしたのだ。彼は、この空海の言葉を中心に据え、「戒」を重視する真言宗を唱えたのだ。それが「真言律宗」だ。叡尊は、この「戒」の思想をどこから得たのか。恐らく鑑真の影響を受けたものとみられる。彼の「戒律」の強調は、あまりに現世的になり、厳しい求道精神を失っていた当時の仏教への真正面からの批判であり、それはまた民衆の歓迎するところだった。

 1290年(正応3年)西大寺で病を発し入滅。10年後の1300年(正安2年)伏見上皇の院宣により、「行基菩薩」の先例にならって、「興正菩薩」の尊号が贈られた。

(参考資料)梅原 猛「海人(あま)と天皇」

井深 大 「世界のソニー」を創業したモノづくりの天才

井深 大 「世界のソニー」を創業したモノづくりの天才

 トランジスタからウォークマンまで、ソニーが世界に送り出した新製品の多くは、技術だけでは説明しきれない、人を惹き付ける“何か”を持つ。井深大(いぶかまさる)は、時代の予兆を製品化して見せた天衣無縫の技術者であり、盛田昭夫と手を携えてソニーを創業、戦後日本を代表する世界企業に育て上げた、モノづくりの天才だった。井深大の生没年は1908(明治41)~1997年(平成9年)。井深大は、栃木県・日光町の清滝にある古河鉱業・日光銅精錬所の社宅で生まれた。父・井深甫(はじめ)は東京高等工業(現在の東京工業大学)卒業の気鋭の技術者だったが、井深がわずか2歳のとき病死した。その後、東京、愛知、神戸と小学校を変わり、母・さわの再婚先で難関の神戸一中に進んだ。井深はこのころから無線に凝っていたようだ。

 早稲田第一高等学院の理科から1930年(昭和5年)、早稲田大学理工学部の電気工学科に進学。発電など花形の重電部門ではなく、当時まだ遅れていた無線などの弱電を専攻した。利害より好き嫌いを優先させるところが井深らしさだ。その成果が光電話の実験や、音声と連動して変化するネオンなど「ケルセル」の開発だった。走るネオンとして特許も取ったケルセルは、就職後にパリ万博で優秀発明賞を受賞。天才発明家として、井深の名前は広まっていった。

 井深は最初、東宝映画の撮影所PCL(フォト・ケミカル・ラボラトリー=写真化学研究所、昭和5年創立)に就職(1933年)、次に日本光音工業に移り、軍国主義の影が濃くなった1940年には学友と日本測定器という会社を興した。磁気計測を応用した潜水艦の探査装置、秘話通信の新方式などの開発に及んだ。終戦後、1946年に20数人で旗揚げした東京通信工業(東通工)の設立趣意書で、代表取締役専務の井深は「技術者の技能を発揮できる理想工場の建設」や「不当なるもうけ主義を廃し、いたずらに規模の拡大を追わず、大企業ゆえに踏み込めない技術分野をゆく」とその企業理念を謳っている。これが技術のソニーの原点だ。

 1950年、東通工は記念すべき商品の開発に成功している。国産第一号のテープレコーダーG-1だ。この年、社長に就任した井深は、技術陣にその携帯化を持ちかけ、翌年には街頭録音で有名な携帯録音機M-1、通称「デンスケ」が登場した。テープレコーダーで営業の基盤を固めた東通工は、トランジスタへと挑戦する。1953年、ウエスタンエレクトリック社と特許契約を結び、1955年にはトランジスタラジオTR55を発売した。この1955年からラテン語の音(SONUS)と英語の坊や(SONNY)を組み合わせた「SONY」マークが、東通工製品に記されるようになった。トランジスタラジオは売れに売れた。船では間に合わず、飛行機のチャーター便でも輸出した。1958年、社名も「ソニー」に改め、翌年には世界初のトランジスタテレビを完成させた。次々に繰り出される新製品は“ソニー神話”と呼ばれた。

 ソニーが文字通り技術で世界に躍り出たのが、1968年のトリニトロンカラーテレビの開発だ。三人の卓越した技術者が、単一の電子銃から三本の電子ビームを走らせる方式を完成させたのだ。これにキリスト教の「父と子と精霊」の三位一体を表すトリニティを被せて、井深は「トリニトロン」と名付けた。明るく鮮明な画面が、世界に歓声を持って迎えられた。さらに井深はビデオ方式の苦い経験すら、八ミリビデオからデジタル、ハンディカムへの発展の契機にした。1979年に売り出したウォークマンも、70代の井深と還暦近い盛田の発想で生まれたという。

 井深は、技術は使われ、製品は慕われてこそ意味を持つといい、創造性の根源は幼児からの教育だと主張し続けた。だから、彼の膨大な著作の95%は幼児教育関連だ。アカデミックな論文などではない。

(参考資料)中川靖造「創造の人生 井深 大」、佐高 信「逃げない経営者たち 日本のエクセレントリーダー30人」、日本経済新聞社「20世紀 日本の経済人 井深 大」

伊東玄朴 貧農生まれながら幕府奥医師まで登り詰め、蘭方の地位を確立

伊東玄朴 貧農生まれながら幕府奥医師まで登り詰め、蘭方の地位を確立

 伊東玄朴は、長崎の鳴滝塾でシーボルトからオランダ医学を学び、徳川第十三代将軍家定が脚気で重体に陥ったとき、戸塚静海とともに蘭方医として初めて幕府奥医師に登用され、官医界における蘭方の地位を確立した人物だ。「シーボルト事件」(1828年)では、幕府天文方兼御書物奉行・高橋作左衛門からの日本地図を、長崎のシーボルトに届け、罪科に問われるはずだった。だが幸運にも、玄朴は奇跡的に連座を免れた

 伊東玄朴は肥前国神埼郡仁比山村(にいやまむら、現在の佐賀県神埼市)で生まれた。生家は貧農で、名は勘造といった。彼が肥前藩から正式に伊東玄朴と名乗ることを許されるのは30歳ごろのことだが、ここでは玄朴で統一する。玄朴の生没年は1800(寛政11)~1871年(明治4年)。彼は読書を好み、隣村の小淵に住む漢方医・古川左庵のもとに下男として住み込んだ。生家に留まれば、田畑を耕し種をまいても、辛うじて飢えをしのぐ程度の収穫しかない。恵まれた頭脳をもって生まれた彼は、農耕以外に立身の道を求めようとし、医家を志したのだ。

 玄朴は左庵の家の雑役をしながら、薬箱を提げて往診する左庵につき従って4年間を過ごした。その間に、彼は少しずつ治療の方法を見習っていった。左庵も熱心な彼に目をかけ、薬の調合などもさせるようになった。玄朴が19歳のとき父・重助が死去し、彼は家に帰ったが、家はいぜんとして貧しく借財もあった。農業では借金も支払えないと判断し、大胆にも彼は漢方医の看板を掲げた。生家には母と病弱の弟がいた。このままでは飢え死にを待つばかりだと、彼は必死だった。薬の調合は習ったが、治療の方法はほとんど知らなかった。だが、彼は病人を丁寧に扱った。夜遅くでも起こされれば、喜んで出かけ、泊り込みで病人を見守ることも多かった。

 そんな玄朴の態度が素朴な農家の人々に好感を与え、徐々に患家が増えていった。4年の歳月が流れ、彼は休みなく働き、徹底した節約もしたので、かなりの金銭を蓄えることができた。彼は借財を払い、さらに田畑を買い求めて弟に与えた。そして、23歳になっていた彼は、一人前の医家になるためには勉学しなければと考え、郷里を去って佐賀に赴き、蓮池町に住む町医・島本龍嘯を訪れた。島本はオランダ医学に興味を持っていたので、玄朴に長崎へ出てオランダ医学を修めるように勧めた。

 蓄財もない玄朴は長崎で、寺男として寺に住み込み、オランダ通詞・猪俣伝次右衛門にオランダ語を習うことになった。猪俣の門には、全国から由緒ある各藩の医家やその子弟が集まり、例外なく恵まれた遊学生活を送っていた。対照的に、玄朴の生活は貧しく悲惨なものだった。だが、彼は寸暇を割いて勉学に励み、同門の者たちとの交際も一切断った。

 1823年(文政6年)、長崎にきたシーボルトを中心に洋学の研究が盛んになっていた。シーボルトの開いた鳴滝塾には多くの日本人学徒が集まってきていた。玄朴は猪俣につき従って鳴滝塾に通い、シーボルトの講義を末席で聴講した。1826年(文政9年)、シーボルトはオランダ商館長に随行して長崎・出島を出発、将軍の拝謁を得るため江戸へ向かった。それを追うように師・猪俣伝次右衛門も妻、息子、娘を従えて江戸へ出発し、玄朴も同行した。この道中、思いもかけない不幸が起こった。駿州・沼津の宿場で師の猪俣が病を発症し亡くなってしまったのだ。玄朴は悲嘆にくれる妻子とともに、浅草の天文台役宅に入った。

 江戸での玄朴は師の息子、猪俣源三郎がオランダ語の教授を務める手助けをしていた。が、1827年(文政10年)、故郷へ帰ることになった。その際、源三郎から天文方の高橋作左衛門に依頼された日本地図を、長崎のシーボルトへ渡すよう命じられたのだ。1828年(文政11年)、浅草の天文台下に住む高橋作左衛門の捕縛によって「シーボルト事件」は公になった。縛につくものが相次ぎ、源三郎も捕吏に引っ立てられ玄朴に対する追及も始められた。ただ、幕府からシーボルト事件に関係があると疑われることを怖れる肥前藩の留守居役の好判断も加わって、貧農の出の玄朴はこのとき奉行所の手前、藩士・伊東仁兵衛の次男・玄朴として、奉行所の取り調べに対応したのだ。そして、奉行所の詮議には、自分はただの使いで、シーボルトに渡した包みについては一切知らぬ-との申し開きを必死で貫き通し、連座を免れた。

 玄朴にとって悪夢のようなシーボルト事件は、この事件で大半のオランダ通詞が処分を受けたことで、結果的には幸運を運んできた。オランダ語を幾分でも知っている玄朴の存在が貴重なものとなったのだ。そして、その年、友人から金5両を借り受けて江戸本所当場町で医業を開いた。さらに、自分の地位を高めるためにも、主がシーボルト事件で捕縛され生活に困窮していた、著名な通詞、猪俣源三郎の妹、照を妻として迎え入れた。

 その後、猪俣源三郎の獄中死、玄朴の実家が火災に遭うなど不幸が続いた。が、たまたまあたり一帯に流行したジフテリアの際、患家を走り回って熱心に治療にあたった彼の懇切な治療態度が人の口にのぼるようになり、訪れる病人の数が増えてきた。そこで、医家らしい伊東玄朴という名前を使うようになった。そして、肥前藩邸にもしきりに出入りし運動した結果、一代限りだが士分に取り立てられ、正式に藩士・伊東仁兵衛の次男、玄朴として名乗ることを許されたのだ。

 このことは彼にとって大きな喜びだったが、彼の富と栄達に対する野望は果てしなかった。彼の最終の望みは、幕府の医家の地位を得ることと、それに伴う富だった。そのため、彼は大医家としての外観を備える必要があると考え、天保4年、高名な大工に依頼して診察所、調薬所、待合所、医学・蘭学の門弟の寄宿室等を合わせた豪壮な大邸宅を建てた。彼の思いは見事に当たった。象光堂と称した玄朴の太医院は物見高い江戸の町人たちの話題になり、患者が殺到した。彼の富は急速に増し、その年彼の得た収入は、金1000両を越えると噂された。門下生の数も百名近くに達した。

 こうして玄朴は太医家としての地位を着々と築き上げ、江戸屈指のオランダ医家と称されるようになった。1843年(天保14年)、肥前藩主・鍋島直正の御匙医に召され、さらに弘化4年には御側医に取り立てられた。また、玄朴は蘭医・大槻玄沢らとともにオランダ医学の優秀性を立証しようと努め、折からの天然痘予防策としての種痘術の大きな効果で、当時幕府で重用されていた漢方医学に大きな打撃を与えることに成功した。

 そんな玄朴が1858年(安政5年)、幕府から召し出された。第十三代将軍・徳川家定の病が篤く、漢方の奥医師たちが手をつけかねているので、江戸随一のオランダ医学の臨床家の玄朴に治療を申し付けることに決定したというのだ。玄朴にとって願ってもない幸運が訪れた。玄朴は協力してくれる医師として蘭医・戸塚静海を推し、治療に従事した。玄朴、静海はその瞬間から奥医師となったのだ。玄朴らは懸命に治療に当たったが、その甲斐なく家定は逝去した。その年、玄朴は法橋から法眼に進み、奥医師として勢威を振るうようになった。そして、1861年(文久元年)、オランダ医家として初めて奥医師最高の地位である法印の座にも就いた。遂に彼の年来の望みは達せられたのだ。

(参考資料)吉村 昭「日本医家伝」、吉村 昭「ふぉん・しいほるとの娘」、吉村 昭「長英逃亡」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

安藤信正 井伊直弼亡き後の幕政を掌握,公武合体へ和宮降嫁をまとめた人物

安藤信正 井伊直弼亡き後の幕政を掌握,公武合体へ和宮降嫁をまとめた人物

 安藤信正は、寺社奉行・若年寄を経て老中に就任し、1860年(万延元年)、大老・井伊直弼が桜田門外で暗殺されるや、老中・久世広周(くぜひろちか)とともに幕政を掌握、最高権力者に昇りつめた。そして、公武合体の実を挙げるべく、1862年(文久2年)、孝明天皇の皇妹和宮親子(かずのみやちかこ)内親王と徳川十四代将軍家茂との婚儀を取りまとめた人物だ。だが、信正は1862年(文久2年)、江戸城坂下門外で水戸浪士に襲撃され、井伊直弼に続く幕府要人の襲撃事件で、さらに幕威の低下を招く要因となった。幸い彼は負傷で済んだが、非難を受け、その後老中を免ぜられ、隠居した。意外に知られていないことだが、戊辰戦争では、若い藩主に代わり藩を主導、奥羽越列藩同盟に加わり、新政府軍と戦い敗れた。晩節を汚したかに見えたが、明治維新後、永蟄居処分が解かれた。

 安藤信正は陸奥国磐城平(いわきたいら)藩の第四代藩主・安藤信由の嫡男として、江戸藩邸で生まれた。幼名は欽之進、のち欽之介。元服時は信睦(のぶゆき)、老中在職中に信行、さらに信正へ改名している。別名は鶴翁、欽斎、晩翠。磐城平藩5万石の第五代藩主となり、安藤家第十代当主。生没年は1820(文政2)~1871年(明治4年)。信正は1847年(弘化4年)、父の死により家督を継いだ。1858年(安政5年)、大老・井伊直弼の下で若年寄となった。そして1860年(安政7年)、老中となった。大老・井伊直弼が断行した「安政の大獄」など強硬路線を否定し、直弼が桜田門外で暗殺された後は、老中久世広周と幕政を掌握した。

 信正は、歌舞伎役者のような優男にみえる外見とは裏腹に、果断さと緻密さを併せ持ち、直弼亡き後の難局を公武合体策で乗り切ろうと、難渋した和宮降嫁を取りまとめた。幕末、配下に幕臣として勘定奉行などの要職を務め、新政府軍との抗戦派の急先鋒だった小栗上野介忠順(ただまさ)を登用したのも、この信正の意志で、小栗とも厚い信頼関係にあった。1862年(文久2年)坂下門外で水戸浪士に襲撃され負傷。非難を受け、また女性問題やアメリカのタウンゼント・ハリスとの収賄問題などが周囲から囁かれて、老中を罷免された。その後、隠居、謹慎を命じられ、5万石の所領のうち2万石を減封された。跡を長男、信民が継いだが、1863年(文久3年)死去したため、甥の信勇を次の藩主に選んだ。

 1868年(慶応4年)、明治政府が立ち上がると、信正は若年の信勇に代わって本領での藩政を指揮した。戊辰戦争では、奥羽越列藩同盟に加わり新政府軍と戦ったが敗れ、居城の磐城平城は落城した。信正も降伏、謹慎を余儀なくされた。1869年(明治2年)永蟄居の処分が解かれた。

(参考資料)山本博文「徳川将軍家の結婚」、吉村 昭「桜田門外の変」、大島昌宏「罪なくして斬らる 小栗上野介」、中嶋繁雄「大名の日本地図」

安藤昌益 身分・階級差別を否定し、徹底した平等思想を提唱した人物

安藤昌益 身分・階級差別を否定し、徹底した平等思想を提唱した人物

 安藤昌益(あんどうしょうえき)は、江戸時代中期の医師で独創的な思想家だ。農業を根本としたすべての人間が平等な社会を築くことを主張、徹底した平等思想を唱えたことで知られる人物だ。また身分・階級差別を否定して、すべての者が労働、「直耕」に携わるべきだと主張、これらの思想は後に「農本共産主義」と評された。「直耕」とは鍬で直に地面を耕し、築いた田畑で額に汗して働くという意だ。「士農工商」の厳然とした身分制社会だった江戸時代に、農家に生まれながら、これほど徹底した平等思想を唱えた人物がいたこと自体が驚きだ。

 安藤昌益は秋田大館二井田村(現在の秋田県大館市)の農家に生まれた。号は確龍堂良中(かくりゅうどうりょうちゅう)。安藤家の村の肝煎(きもいり=名主)の当主としての名は孫左衛門。代々、当主はこの孫左衛門を名乗った。昌益の生没年は1703(天禄16)~1762年(宝暦12年)。昌益は、当主を継ぐ長男ではなく、また利発だったことから、元服前後に上洛し、仏門に入った(寺は不明)。しかし、仏教の教えと現状に疑問を持ち、そのまま仏門に身を置くことはできなかった。そこで、どういう伝手かは不明だが、医師の味岡三伯の門を叩いた。味岡三伯は後世、方別派に属する医師だ。昌益はここで医師としての修行をした。そして、仔細は詳らかではないが、八戸で開業する以前に結婚し、子ももうけたとみられている。こうして昌益は陸奥国八戸の櫓(やぐら)横丁に居住し、開業医となった。

 八戸では講演会や討論会などを行い、八戸藩の行事に医師として参加している様子がうかがわれる。1744年(延享元年)の八戸藩の日記には、櫛引八幡宮で行われた「流鏑馬」の射手を昌益が治療したことが記録されている。また、昌益は同年、八戸の天聖寺で講演会、1757年(宝暦8年)にも同寺で討論会を開いたとの記録がある。その後、大館へ帰郷したとみられる。1756年(宝暦6年)、郷里の本家を継いでいた兄が亡くなり、家督を継ぐ者がいなくなった。このため1758年(宝暦8年)ごろ、昌益は二井田村に一人で戻った。結局、家督は親戚筋から養子を迎え入れ継がせたが、昌益自身も村に残り、医師として村人の治療にあたった。八戸ではすでに息子が周伯と名乗って、医師として独り立ちしていたからだ。思想家・安藤昌益の名は、出羽国に限らず周辺および関西にも知られていたとみられる。1759年(宝暦10年)前後に、八戸の、昌益の思想の根幹を成す「真営道」(詳細は後述)の弟子たちが一門の全国集会を開催し、昌益も参加している。参加者は松前はじめ、京都、大坂などからも集まり総勢14名。

 ところで、昌益の思想を最もよく表現しているのが、彼の著書『自然真営道(しぜんしんえいどう)』(全101巻)だ。これは、八戸藩主の側医を務めた弟子の神山仙確が昌益の死後、遺稿をまとめた哲学的、政治的論文だ。この内容は、共産主義や農本主義、エコロジーに通じるものとされているが、無政府主義(アナーキズム)の思想にも関連性があるという、間口の広さが見受けられる。また、昌益はこの著作の中で、日本の権力が封建体制を維持し、民衆を搾取するために儒教を利用してきたと見なし、孔子と儒教を徹底的に批判した。この著作の発見者、狩野亨吉に「狂人の書」と言わせ、ロシアのレーニンをもうならせたという。

(参考資料)野口武彦「日本の名著⑲安藤昌益」、安永寿延「安藤昌益」