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会津八一 奈良の古美術研究をライフワークとした歌人・書家・美術史家

会津八一 奈良の古美術研究をライフワークとした歌人・書家・美術史家

 会津八一は明治時代後半~昭和時代前半の歌人・書家・美術史家だ。万葉風を近代化した独自の歌風を確立した人物だ。妥協を許さぬ人柄から孤高の学者として知られた。故郷、新潟の高校の教員時代は多くの俳句、俳論を残したほか、早稲田大学講師時代には美術史研究のためにしばしば奈良へ旅行し、まとめた仏教美術史研究『法隆寺・法起寺・法輪寺建立年代の研究』(1933年)で学位を受けている。生涯、妻帯することはなかった。八一の生没年は1881(明治14)~1956年(昭和31年)。

 会津八一は新潟市に生まれた。雅号は秋艸道人(しゅうぞうどうじん)、渾斎(こんさい)。中学生のころから『万葉集』や良寛の歌に親しみ、俳句・短歌を始めた。新潟県尋常中学校(現在の新潟県立新潟高等学校)を経て、東京専門学校(現在の早稲田大学の前身)に入学し、坪内逍遥や小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)らの講義を聴講し、1906年、早稲田大学英文科を卒業した。卒業後は新潟に戻り、私立有恒(ゆうこう)学舎(現在の新潟県立有恒高等学校)の教員となり、多くの俳句・俳論を残した。

 1908年、八一は28歳のとき初めて奈良を旅行。以後、生涯にわたり大和一円の仏教をはじめとする古美術研究をライフワークとした。1910年、坪内逍遥の招聘により上京、早稲田中学校の教員となった。1925年には早稲田高等学院教授となり、翌年には早稲田大学文学部講師を兼任。美術史関連の講義を担当、研究のためにしばしば奈良へ赴いた。この成果となったのが仏教美術史研究をまとめた『法隆寺・法起寺・法輪寺建立年代の研究』(1933年)で、この論文で彼は学位を受けた。1935年、早稲田大学文学部に芸術学専攻科が設置されると同時に、彼は主任教授に就任した。まさに彼にふさわしいポストだった。

 八一にとって、奈良は特別な場所だった。もし彼が奈良へ旅行することがなければ、歌人・八一も、書家・八一も、まして美術史家・八一も誕生しなかったのではないか。八一に奈良の魅力を吹き込んだのは、井原西鶴の再評価に力を尽くした淡島寒月(あわしまかんげつ)だ。二人の出会いは八一が24歳のとき。ただ、八一はその2年後、故郷新潟の私立有恒学舎に英語教師として赴任。奈良とのつながりは遠のいたかにみえた。しかし、八一には相思相愛の恋人がいた。その恋人を東京に残したままの、辛い赴任だった。彼は寂しさを紛らすため、奈良への憧れを歌に託し、消え入りそうな恋の炎を必死に燃やし続けた。

 「青丹(あおに)よし奈良をめぐりて君としも 古き仏を見むよしもがも」

 こんな切なる思いにもかかわらず、結局この恋は実ることがなく、彼は生涯独身を貫いた。八一が初めての奈良への旅で訪れたのが東大寺、新薬師寺、春日若宮、法華寺などで、20首の和歌を詠んでいる。奈良で詠んだ八一の歌には、どこか祈りにも似た響がある。それを彼の若き日の傷心と結び付けるのは、あまりにも凡俗だが、彼が奈良の寺院で出会った御仏の中にその面影を見ていたことは否定し難いようだ。奈良を愛した八一が、奈良で詠んだ歌を紹介しておく。

 「ならさか の いし の ほとけ の おとがひに こさめ ながるる はる は き に けり」

  奈良市の北、般若寺(はんにゃじ)を経て木津へ出る坂が奈良坂。その上り口の右の路傍に、「夕日地蔵」と土地の人が呼ぶ石仏が立っている。この歌はその石仏を詠んだもの。春のはじめ、石仏のおとがい(下あご)に小雨がしとしとと降りかかっている。冷たい雨ながら、その細かい雨足はもう春の到来を告げている-という意だ。

 八一は、北の京都に比して奈良を南京と呼び、有名な歌集『南京新唱』をはじめとして、奈良を讃嘆する歌を数多く遺した。そのため、奈良一帯だけでも彼の書による歌碑は各地にあって愛されている。

(参考資料)大岡 信「名句 歌ごよみ 春」、植田重雄「会津八一 短歌とその生涯」、「古寺を巡る⑭ 唐招提寺」

賀茂真淵 古典の研究に没頭し、田安宗武に仕えて国学の師を務めた国学者

賀茂真淵 古典の研究に没頭し、田安宗武に仕えて国学の師を務めた国学者

 賀茂真淵は江戸時代中期の国学者・歌人で、荷田春満(かだのあずままろ)、本居宣長、平田篤胤(ひらたあつたね)とともに、国学の四大人(しうし)の一人として知られる。荷田春満に学び、万葉集を中心として古典の研究、古道の復興、古代歌調の復活に没頭した。また、徳川御三卿の筆頭、田安家当主、田安宗武に仕えて国学の師を務めた。

 賀茂真淵は遠江国敷智郡浜松庄伊庭村(現在の静岡県浜松市東伊庭1丁目)で、賀茂明神神職、岡部政信の三男として生まれた。岡部家は京都の賀茂神社の末流とされる。通称は庄助、三四(そうし)。屋号は県居(あがたい)。真淵は出生地の敷智郡にちなんだ雅号で淵満とも称した。真淵の生没年は1697(元禄10)~1769年(明和6年)。真淵は1707年(宝永4年)、江戸の国学者・荷田春満(かだのあずままろ)の弟子であり、春満の姪、真崎を妻とし浜松で私塾を開いていた杉浦国顕に師事した。1723年(享保8年)、結婚するが、翌年妻を亡くし、1725年(享保10年)には浜松宿本陣、梅谷家に入塾した。37歳のとき、家を捨てて京都に移り、荷田春満を師として学んだ。1736年(元文元年)、春満が死去すると浜松へ戻り、梅谷家に養子を迎えると1738年(元文3年)には江戸に移り、私塾を開き国学を教えた。

 江戸で私塾を主宰するようになって、真淵の生活はようやく落ち着いたものになった。そして、徳川家に連なる名門に出入りすることになった。1746年(延享3年)、真淵50歳のときのことだ。徳川御三卿の筆頭、田安家の和学御用掛となって、当主・田安宗武に仕えることになったのだ。いま一つ、真淵にとってきちんと記しておかなければいけないのが、本居宣長との接点だ。本居宣長に、国学を研究するうえで決定的な影響を与えたのは、実はこの賀茂真淵なのだ。1763年(宝暦13年)、真淵が松阪にやってきた。そして日野町の旅籠、新上屋というところに泊った。これを知った宣長はいても立ってもいられず、新上屋に駆け付け真淵と会った。そして、教えを請うた。その年の暮れ、宣長は真淵の門に入った。

 しかし、宣長が実際に師の真淵と会って言葉を交わしたのは、このときだけだ。それから真淵が死ぬまでの6年間、宣長は手紙によって教えを請うた。真淵もまた、丁寧に手紙で応えた。文通による師弟のつながりが、ずっと続いたのだ。直接、顔を付き合わせた形での師弟関係ではなかった本居宣長をはじめ、門人には荒木田久老、加藤枝直、加藤千蔭、村田春海らがいる。

 真淵の主な著書に『万葉考』『歌意考』『祝詞考』『冠辞考』『国歌八論臆説』『語意考』『国意考』『古今集打聴』『源氏物語新釈』などがある。真淵は国学者だったが、歌人としても優れていた。次の句は『賀茂翁家集』に収められている歌だ。

 「枯れにける草はなかなか安げなり 残る小笹の霜さやぐころ」

 小笹はまだ枯れきらず、霜を被ったまま冬の寒風に吹き晒されて、どこか不安げにざわめいている。そんな光景をみると、すでに枯れ果てて地べたにくたりと横たわっている草は、かえって安らかにみえる。

(参考資料)童門冬二「私塾の研究」、大岡 信「名句 歌ごよみ 冬・新年」、三枝康高「賀茂真淵」

加納夏雄 明治の新貨幣の原画制作を担当した明治金工界の巨匠

加納夏雄 明治の新貨幣の原画制作を担当した明治金工界の巨匠

 加納夏雄は、幕末・明治期の彫金家で、明治金工界の巨匠だ。明治政府の新貨幣製作にあたり、「大阪造幣寮」(現在の独立行政法人 造幣局=大阪市北区)に出仕して、その原型制作に従事した人物だ。加納が制作した原型は精巧で当時、貨幣製作に携わった多くのお雇い外国人をも驚嘆させ、英国に原型制作を依頼する必要がないレベルといわせた。その結果、明治期、新貨幣の原型制作は加納夏雄一門だけがその業務を担うことになった。

 加納夏雄は、米穀商・伏見屋治助(じすけ)の子として、京都柳馬場御池通りで生まれた。幼名は治三郎。夏雄の生没年は1828(文政11)~1898年(明治31年)。伏見屋の治三郎は1834年(天保5年)、7歳のとき刀剣商・加納治助の養子となり、まず奥村庄八に彫金技術の手ほどきを受けた。さらに1840年(天保11年)、大月派の金工師・池田孝寿(たかとし)門下となり、装剣金具の制作技術を学び、寿朗(としあき)と改名した。寿朗は1846年(弘化3年)、独立して京都で開業し、夏雄を名乗った。19歳のときのことだ。このころ、絵を円山派の中島来章に、漢学を谷森種松にそれぞれ学び、彼の後年の制作活動の基になった。

 1854年(安政元年)、27歳となった夏雄は江戸へ移り、明治の初めまで刀装具の制作にあたった。1869年(明治2年)には宮内省より明治天皇の御刀金具の彫刻を命ぜられる栄誉に浴した。夏雄の優れた刀装具制作技術が認められた結果だった。明治新政府の新貨条例は、夏雄にとって大きな飛躍となる格好の機会を提供してくれることになった。「一円銀貨」は、1871年(明治4年)の新貨条例により対外貿易専用銀貨として発行された、日本を代表する近代銀貨だった。1914年(大正3年)まで製造され、主に台湾や中国で流通した。

 夏雄はこの一円銀貨の原型制作を担当したのだ。一円銀貨が製造された当時は、明治維新後まもなくのことで、造幣技術が確立されていなかったため、当初、政府は英国に範を求めた。だが、加納夏雄が持参した原図の龍図がすばらしく絶賛され、日本で製造されることになったのだ。これにより、夏雄は1871年(明治4年)から1877年(明治10年)まで大阪造幣寮に出仕し、一門で新貨幣の原型制作に従事した。一円銀貨の原型制作の輝かしい事績の一方で、夏雄にとって厳しい側面も出てきた。1876年(明治9年)の「廃刀令」により、夏雄は主力を占めていた刀装具制作を断念せざるを得なくなったのだ。そこで、東京に戻ってからは、花瓶、置物、たばこ盆などの生活用具の制作に携わることになった。

  ただ、夏雄は明治期有数の彫金家で、金工界の巨匠として知られる存在だっただけに、関連組織・団体から声がかかることは少なくなかった。1881年(明治14年)、第2回内国勧業博覧会の審査官となり、1894年(明治27年)には東京美術学校(現在の東京藝術大学)教授になるとともに、第1回帝室技芸員になった。

(参考資料)造幣博物館資料、朝日日本歴史人物事典、尾崎 護「経綸のとき」

加藤清正 秀吉の遠戚として将来を期待され、生涯忠義を尽くした武闘派

加藤清正 秀吉の遠戚として将来を期待され、生涯忠義を尽くした武闘派

 加藤清正は羽柴秀吉の小姓からスタートし、秀吉の出世とともに家臣として各地を転戦して武功を挙げ、秀吉没後は徳川氏の家臣となり、関ケ原の戦い後、肥後熊本藩の初代藩主となった。加藤清正の生没年は1562(永禄5)~1611年(慶長16年)。

 加藤清正は尾張国の鍛冶屋、加藤清忠の子として尾張国愛知郡中村(現在の名古屋市中村区)に生まれた。幼名は夜叉若、元服後、虎之助清正と名乗った。父は清正が幼いときに死去したが、母・伊都が秀吉の生母、大政所の従姉妹(あるいは遠縁)だったことから、近江長浜城主となったばかりの秀吉の小姓として出仕し、1876年(天正4年)に170石を与えられた。

 清正は大男だった。鯨尺四尺三寸に仕立てた着物の裾が、膝下の三里から少し下のところまでしかなく脇差が備前兼光で三尺五寸あったというから、どう考えても身長六尺三、四寸はあったに違いない。彼の乗馬、帝釈栗毛は丈・六尺三寸あったという。普通の馬は五尺だ。彼は常にこれに乗って、江戸市中を往来した。清正はまた長いあごひげを伸ばしていたので、いやがうえにも長身に見えたに違いない。さらに、彼の長烏帽子(ながえぼし)の冑(かぶと)だ。六尺三、四寸もある男が、長いあごひげを生やし、あの長い冑を被っているとあっては、ものすごく丈高く、ものすごく堂々たる威容があったと思われる。もともと甲冑は、敵の攻撃から自分の身を保護するだけのものでなく、敵を威嚇する目的も持っているものだから、清正もそのへんの効果を考えて、あんな冑をこしらえたものだろう。

 ところで、清正は秀吉の遠戚として将来を期待され、秀吉に可愛がられた。清正もこれに応え、生涯忠義を尽くし続けた。1582年(天正10年)本能寺の変が起こると、清正は秀吉に従って山崎の合戦に参加した。翌年の賤ヶ岳の戦いでは敵将・山路正国を討ち取る武功を挙げ、秀吉から「賤ヶ岳の七本槍」の一人として3000石の所領を与えられた。1585年(天正13年)、秀吉が関白に就任すると同時に従五位下主計頭に叙任。1586年(天正14年)からは秀吉の九州征伐に従い、肥後国領主となった佐々成政が失政により改易されると、これに替わって肥後北半国19万5000石を与えられ熊本城を居城とした。

 肥後において清正は優れた治績を残している。清正というと土木・治水事業をまず想像するが、彼は田麦を特産品化し、南蛮貿易の決済に充てるなど、治水事業同様、商業政策でも優れた手腕を発揮した。1589年(天正17年)、小西行長領の天草で一揆が起こると、小西行長の説得を無視して出兵を強行、これを瞬く間に鎮圧している。風貌にふさわしい、“武闘派”の片鱗をみせた。

 「関ケ原の戦い」の後、西軍に味方した小西行長が没落し、徳川家の家臣となった加藤清正が肥後一国52万石の熊本城主となった。しかし、清正の子、忠広のとき、徳川三代将軍家光の弟、駿河大納言忠長の失脚事件に連座し、1632年(寛永9年)加藤家は領地を没収され、忠広は出羽庄内(現在の山形県櫛引町)に流罪となった。そして、細川忠利が豊前小倉39万9000石から加増され入封したのだ。以後、熊本藩は細川家による治世が続くことになった。

(参考資料)海音寺潮五郎「史談 切り捨て御免」、海音寺潮五郎「乱世の英雄」、童門冬二「人間の器量」、永井路子「にっぽん亭主五十人史」中嶋繁雄「大名の日本地図」

横井小楠 坂本龍馬に「船中八策」の原案となる国是を説いた思想家

横井小楠 坂本龍馬に「船中八策」の原案となる国是を説いた思想家

 横井小楠(よこいしょうなん)は肥後熊本藩士だったが、地元熊本では受け入れられず、請われて越前福井藩主・松平春嶽の顧問となって、同藩の藩政改革に尽くしたほか、幕末、幕府の政事総裁職を務めた松平春嶽の要望に応えて、大胆な幕政改革に努めた儒学者で、思想家だ。その思想は坂本龍馬や、三岡八郎(後の由利公正)らに大きな影響を与え、幕末から明治維新にかけての大きな指針となった。小楠の生没年は1809(文化6)~1869年(明治2年)。

 横井小楠は、肥後国熊本内坪井(現在の熊本市坪井)で熊本藩士・横井時直の次男として生まれた。諱は「時存(ときあり・ときひろ)」で、正式な名乗りは「平時存(たいらのときあり)」。通称は「平四郎」。号は「小楠」「沼山(しょうざん)」。横井家は桓武平氏北条氏嫡流得宗家に発するという。北条高時の遺児、北条時行の子が尾張国愛知郡横江村に住み、時行4世孫にあたる横江時利の子が「横井」姓に改めたのが始まりといわれる。

 勝海舟は『氷川清話』で「今までに恐ろしいものを二人見た。それは横井小楠と西郷南洲だ」と述べている。勝にそれほどの印象を与えた小楠だが、当時保守的な考え方が強かった地元では、全く用いられず、嫌われる存在だった。

そこに至る経緯をみると、小楠は肥後熊本藩の藩校「時習館」に学び、居寮長に抜擢されたり、江戸留学も命じられた秀才だった。1839年(天保10年)江戸遊学を命じられた際は、佐藤一斎、藤田東湖らと交流を持つなど、中央でもその名は知られていた。したがって、青年期までの小楠は、地元でもそれなりの評価はあったのだ

 小楠が地元では受け入れられなかったのは、彼が徹底した実学派で、「社会に役立たない学問は学問ではない」と豪語。藩校で教える学問(朱子学)の悪口をいい、自分の学問系列を「実学党」と称して私塾を開いていたからだ。1843年(天保14年)、肥後熊本藩の藩政改革のために、「時務策」を書いたことが藩への批判と取られたことも大きく響いた。いま一つは、彼が酒好きで、酔うと大言壮語して、からむ、しつこく議論するなど酒癖がよくなかったからだ。

 「藩の経営について」を演題に、各藩へ講演旅行に回っていた実学派の小楠を、真に理解し評価したのが、越前福井藩の藩主の片腕だった橋本左内と、三岡八郎だった。左内から松平春嶽に「小楠先生用いるべし」と進言され、八郎が小楠に会う使者に立った。八郎はたちまち小楠と意気投合し、その旨、春嶽に報告。そこで、春嶽は1852年(嘉永5年)政治顧問として小楠を招き、懸案の藩政改革にあたった。小楠は藩校・明道館の校長にも任ぜられている。

 小楠は越前福井藩では家老よりも上席のポストをもらって、藩士たちに学問を教えた。藩富のための殖産興業を奨励した。この殖産興業を実際面で担当したのが三岡八郎だった。小楠は「藩を富ませることは、まず民を富ませることである。それが王道政治である」と主張した。彼は「地球上にも有道と無道の国がある。有道の国とは王道政治を行っている国のことだ。無道の国とは覇道政治を行っている国のことだ」と説いている。そして、王道政治とは民に対して仁と徳をもって臨むことであり、覇道政治とは民に対して権謀術数をもって臨むことである-と定義した。1862年(文久2年)松平春嶽が幕府政事総裁職を務めることになり、小楠は春嶽の要望に応え、春嶽の助言者として幕政改革に関わった。

 1864年(元治元年)、坂本龍馬が熊本の小楠を訪ねているが、このとき小楠は後に龍馬がまとめた「船中八策」の原案となる「国是七カ条」を説いている。

それは、次の7点だ。

・大将軍上洛して、烈世の無礼を謝せ

(将軍は自ら京へ行って、天皇に過去の無礼を謝る)

・諸侯の参勤を止め、述職とせよ(参勤交代制度の廃止)

・諸侯の室家を帰せ(大名の妻子を国許に帰す)

・外様譜代に限らず、賢を選んで政官となせ

 (優れた考えの人を幕府の役人に選ぶ)

・大いに言路を開き、天下公共の政をなせ

 (多くの人の意見を出し合い、公の政治を行う)

・海軍を興し、兵威を強くせよ(海軍をつくり、軍の力を強くする)

・相対貿易を止め、官の交易となせ(貿易は幕府が統括する)

 これらは200年余にわたる幕府体制の根幹を揺るがす、大胆な改革であるとともに、植民地化を迫る欧米諸国からの日本防衛問題までをも含むものだった。

 小楠は私塾「四時軒(しじけん)」を開き、多くの門弟を輩出した。また、坂本龍馬や井上毅など明治維新の立役者や明治新政府の中枢を占めた人材の多くが、ここを訪問している。

 1868年(明治元年)、小楠は「徴士」として明治政府に迎えられ、やがて参与、制度局判事となった。ここで小楠に進歩的な論策を発揮する機会が到来したのだ。だが、排外攘夷派の動きは明治政府の成立後も絶えなかった。とくに西洋主義者と見られていた小楠に対して、耶蘇を尊奉するとか、共和論を主張するとかの流言が伝えられ「生かしておいては国家の前途を危うくする」とみて、再び刺客が狙い出した。1869年(明治2年)、御所へ参内した帰途、寺町通り丸太町下ル東側(現在の京都市中京区)刺客数人(十津川郷士)に暗殺された。この当時、小楠は腸を病み臥床がちで、衰弱した60歳の病体には対抗する術はなかった。

 横井小楠横死が上聞に達すると、朝廷からの侍臣が遣わされ、翌日には旧藩主へ祭祀料として金300両が下賜された。小楠は朝廷でも長老として推重されており、後年、正三位が追贈された。

(参考資料)平尾道雄「維新暗殺秘録」、尾崎 護「経綸のとき」、童門冬二「人間の器量」、童門冬二「小説 横井小楠」、童門冬二「江戸商人の経済学」、中嶋繁雄「大名の日本地図」、白石一郎「江戸人物伝」

 

 

 

 

 

円仁 慈覚大師の諡号贈られるが、世俗の権力争いに加担した風評も

円仁 慈覚大師の諡号贈られるが、世俗の権力争いに加担した風評も

 円仁は平安時代初期の僧で、最後の第十七次・遣唐僧として唐に渡り、日本の天台宗を大成させた人物だ。また、彼は最初に朝廷から「慈覚大師」の「大師号」を授けられた高僧だ。ただ、こうした輝かしい事績の一方で、円仁には後の摂関家の権力者、藤原良房に結びつき、奉仕した僧-との指摘もある。円仁の生没年は794(延暦13)864年(貞観6年)。

 「大師号」がどれくらい稀少で品格の高さを表したものなのか、慈覚大師円仁の後に「大師号」を受けた高僧として「伝教大師」(最澄、彼の場合、円仁と同時期に授けられたとの説もある)、「弘法大師」(空海)などが有名だが、空海が授けられたのは、円仁の45年後のことだ。「大師号」は勝手に付けたり、名乗れるものではなく、帝よりいただくもの。それだけに、最初に大師号を授けられる栄誉に浴した円仁は、その偉大さを示している。

 円仁は、下野国都賀郡の現在の岩舟町下津原で生まれた。俗姓・壬生。9歳から6年間、広智菩薩のもと、現在の岩舟町小野寺にある大慈寺で修行し、15歳で比叡山に登り最澄の弟子となった。比叡山での修行の後、当時の日本有数の僧となった円仁は、42歳のとき遣唐使一行に短期留学の高僧として加えられた。43歳になった836年(承和3年)、円仁らの遣唐使船は博多港を出発したが、暴風に遭い大破し中止となった。838年(承和5年)、円仁45歳のとき3度目の挑戦で、ようやく唐に到着した。それから9年半の苦難の旅が始まった。

 円仁の入唐の目的は、天台宗の発祥の地、天台山へ行くことだったが、旅行許可証が発行されず、天台山へは行けなかった。そこで、彼は五台山と長安へ行き、主として天台と密教を学んだ。天台宗の教勢を拡大するには、加持祈祷を行う密教を本家・中国で学ぶことが必要だと考えた師・最澄の悲願の達成だった。この入唐からこの後、847年(承和14年)日本に帰国するまでの9年半にわたる唐滞在の記録が『入唐求法巡礼行記(にっとうぐほうじゅんれいこうき)』だ。

 『入唐求法巡礼行記』は玄奘の『大唐西域記』、マルコポーロの『東方見聞録』とともに三大旅行記の一つとされ、唐の国や仏教中心地の様子がうかがえる古代史の第一級の史料だ。しかも、これは日本人が書いた旅行記だ。玄奘やマルコポーロが口述して他の者にまとめさせたのに対し、『入唐求法巡礼行記』は円仁自ら書き残したものだ。この記録を読む限り、円仁は実に熱心に仏法を求める、忍耐強い人物だったことが分かる。彼の観察は冷静で的確だ。

 ただ、帰国後の円仁の行動には、高僧にあるまじき、不可解とも取れる部分がある。円仁は弟子の安恵(あんね)とともに当時の権力者、藤原良房に結びつき、加持祈祷により第一皇子・惟喬(これたか)親王を皇太子に立てようとする文徳天皇の意思を挫き、良房の娘・明子(あきらけいこ)の産んだ惟仁(これひと)親王、後の清和天皇を擁立しようとする陰謀に加担したらしいのだ。

 円仁の死後2年、866年(貞観8年)、空海らをさし措いて、冒頭に述べた「慈覚大師」の諡号(しごう)が贈られたのも、こうした功績への見返りだったとも取れるのだ。とすれば、彼は権力者に奉仕した僧になってしまうのだ。円仁が有名になったのは、米国の元駐日大使のライシャワーが、『入唐求法巡礼行記』を英訳し、世界の人々に広く紹介したことによる。晩年、第三世天台座主に就いている。

(参考資料)梅原 猛「百人一語」、北山茂夫「日本の歴史④平安京」、佐伯有清「円仁」