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吉田兼好 出家、隠棲後、二条派の歌人としての活動が顕著に

吉田兼好 出家、隠棲後、二条派の歌人としての活動が顕著に

 随筆『徒然草』で知られる吉田兼好は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて活躍した歌人・随筆家だ。後宇多上皇には北面の武士として仕え、厚遇を得たが、上皇の崩御後、30歳で出家した。生没年は不詳。生年は1283年(弘安6年)ごろ、没年は1352年(天和元年/正平7年)以後。

 吉田兼好の本姓は卜部(うらべ)氏という。神祇を司(つかさど)る家系で、中臣氏の流れである9世紀半ばの卜部平麻呂を祖とする下級貴族だ。卜部氏の嫡流は後の時代に吉田家、平野家などに分かれた。兼好は吉田家の系統だったことから江戸時代以降、吉田兼好と通称されるようになったもの。したがって、当時の文書には「卜部兼好(うらべかねよし)」と自書している。出家したことから、兼好法師とも呼ばれた。

 父の兼顕は治部少輔で、内大臣・堀川具守(とももり)の家司を務めていた。そのため、兼好は20歳前後に、具守の娘・基子(西華門院)が国母となった第九十四代・後二条天皇の蔵人として官歴を始めている。ところが、彼は1308年(徳治3年)の後二条天皇崩御が契機となったのか、争いを避ける意味もあったのか、1313年(正和2年)までには出家し、洛北・修学院、さらには比叡山の横川(よかわ)に隠棲の身となったのだ。兼好の出家、隠棲時の生活ぶりについては詳しくは分からない。仏道修行に励むかたわら、和歌に精進した様子などが自著には記されているのだが…。鎌倉には少なくとも2度訪問・滞在したことが知られ、鎌倉幕府の御家人で、後に執権となる金沢貞顕と親しくしている。

 室町幕府の九州探題である今川貞世(了俊)とも文学を通じて親交があった。また、晩年は当時の足利幕府の執事・高師直に接近したとされ、『太平記』にその恋文を代筆したとの記述がある。皮肉にも兼好は出家、隠棲後、当時隆盛を誇っていた二条派の歌人として、その活動が顕著になった。後二条天皇の皇子で、後醍醐天皇の皇太子となった邦良(くによし)親王の歌会への出詠も多く、頓阿(とんあ)などとともに、二条為世門の四天王といわれたこともあった。その和歌は『続千載和歌集』『続後拾遺和歌集』『風雅和歌集』に計18首が収められている。

「夕なぎは波こそ見えねはるばると 沖のかもめの立居のみして」

 これは1318年(文保2年)ごろ、関東へ下向した折の作だ。横浜市の金沢文庫には兼好自身の墨跡が現存しているが、この用向きは鎌倉幕府の何事かを内偵することだったという説がある。出家の身でありながら、なにやら生臭いことにも関わっていたのかとの思いもする。いずれにしても、これは相模湾と思われる海を見て詠んだものだ。夕なぎに静かな、平らかな広がりを見せる海、沖合い遥かに、鴎のみが水面に浮かび、また飛び立つさまが悠揚せまらぬ調べで描かれている。灼熱の日差しも、思い起こす記憶にとどまるだけになった晩夏に特有の、ある種のもの憂さ、そしてもの悲しさを感じさせて、現代にも通じる秀逸な叙景だ。

 「さわらびのもゆる山辺をきて見れば 消えし煙の跡ぞかなしき」

 これは1316年(正和5年)に没した旧主・堀川具守を弔った岩倉の山荘を再訪した際、詠んだものだ。芽を出した早蕨を見るにつけても、亡き人が偲ばれる様子を、その早蕨とともに旧知の女官・延政門院一条に贈ったもの。掛詞、縁語を駆使した技巧がうかがえる。

 「つれづれなるままに、日ぐらしすずりにむかひて、こころにうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ」

 有名なこの序文で始まる『徒然草』は、鴨長明の『方丈記』、清少納言の『枕草子』と並んで三大随筆の一つとして、いまも多くの人々に読まれている文学だ。243段に分かれ、自然・人生の様々な事象を豊富な学識をもって自由に記したものだ。文体も記事文、叙事文、説明文、議論文と多様で、古来名文として定評がある。全体に懐古趣味・無常観が流れている。

(参考資料)松崎哲久「名歌で読む日本の歴史」、梅原 猛「百人一語」

 

岩瀬忠震 諸外国との条約交渉を担当した開明派官僚だが、一橋派支持し挫折

岩瀬忠震 諸外国との条約交渉を担当した開明派官僚だが、一橋派支持し挫折

 岩瀬忠震(いわせただなり)は、江戸時代後期の幕臣で、開明派の官僚の第一人者と目された人物だ。旗本の三男に生まれたこともあり、生涯部屋住みの身で、一時は大名格に昇ったこともあった。だが、十三代将軍家定の後継争いで、敗れた一橋派を支持していたため大老・井伊直弼の逆鱗に触れ、左遷され、出世の道を断たれ、さらに蟄居を命じられた。岩瀬忠震は、旗本の設楽貞丈(しだらさだとも)の三男として生まれた。名は修理(しゅり)、通称は篤三郎。字は百里。母は、大学頭・林羅山を祖とする名門、林述斎の娘、純。従兄弟に堀利煕がいる。後に岩瀬忠正の養子となった。岩瀬忠震の生没年は1818(文政元)~1861年(文久元年)。

 岩瀬忠震は幕府の学問所、昌平こうに入門。後に徽典館の学頭として甲府に赴いた。任期を終え、江戸に戻り昌平こうの教授となった。やがて、黒船の来航(1853年)により、日本は幕末という混乱の時代を迎えた。そうした時代状況の中、幕閣で岩瀬の優れた才覚を見い出したのが、時の老中首座・阿部正弘だった。阿部によって、岩瀬は歴史の表舞台に駆け上った。岩瀬は1853年(嘉永6年)、部屋住みの身で徒頭(かちがしら)となり、1855年(安政2年)には従五位下伊賀守に叙任され、部屋住みの身で大名格に昇ることになった。また目付に任じられ、海防掛となり、軍艦操練所や洋学所の開設や軍艦、品川の砲台の築造に尽力した。

 岩瀬はその後も外国奉行にまで出世し、ロシアのプチャーチンと交渉して日露和親条約締結に臨んだほか、当時の日本にとって重要だった日米修好通商条約(1858年締結)に下田奉行・井上清直(いのうえきよなお)とともに全権に任じられるなど、次々と重要な条約交渉を担当、開国に積極的な開明的な外交官だった。1858年(安政5年)、条約の勅許奏請のため、岩瀬は勘定奉行・川路聖謨(かわじとしあきら)らとともに、老中堀田正睦の上洛に副役として随行している。しかし、朝廷の理解は得られず、勅許を得ないまま江戸に下った。しかし、当時、諸外国との条約交渉は待ったなしの情勢となっていた。

 万難を排して1858年(安政5年)、条約調印にこぎつけたのは、岩瀬をはじめとする優れた幕府外交官の尽力によるものだった。中でも岩瀬はアメリカ、オランダ、ロシア、イギリス、フランスの5カ国すべての条約調印にただ一人参加した。岩瀬が外交官として活躍した時期はわずか5年だが、日本にとって最も大切な5年だった。岩瀬はまた、ホンネとタテマエを使い分けるような人物でもなかった。幕府は条約で決められた神奈川宿に代えて、対岸の横浜村に開港場を設けることとした。だが、岩瀬は条約の文言を重視して、締結した条約の内容通り、神奈川開港を主張したのだ。

 岩瀬には出世欲などなかったのかも知れないが、客観的にみると彼の立身とからみ、大きな障害となったのが、将軍後継問題に対する彼の態度だった。この“踏み絵”が岩瀬にとって、大きな読み違いとなり、人生の挫折に追い込まれる事態となった。紀州・慶福(よしとみ、後の十四代将軍家茂)を支持する紀州派と、一橋慶喜を推す一橋派の徳川十三代将軍家定の後継争いで、岩瀬は一橋派の中心人物として行動したのだ。そのため大老・井伊直弼の逆鱗に触れ、作事奉行に左遷された。一橋派を支持した代償はとてつもなく大きかったというわけだ。そして、1859年(安政6年)には免職・蟄居を命じられた。その後は江戸向島で、花鳥風月を友として、詩作に勤しみ、部屋住みのまま44年の生涯を終えたという。

(参考資料)松岡英夫「岩瀬忠震-日本を開国させた外交官」、奈良本辰也「歴史に学ぶ ペリーの来航、橋本左内の統一国家思想」、佐藤雅美「官僚 川路聖謨の生涯」、吉村 昭「落日の宴 勘定奉行 川路聖謨」、津本 陽「開国」、童門冬二「最初の幕臣外交官 川路聖謨」

関孝和 江戸の数学を世界レベルにした天才数学者、和算の開祖

関孝和 江戸の数学を世界レベルにした天才数学者、和算の開祖

 関孝和は、江戸時代前期、中国の数学に依存していた日本の数学を、日本固有のものに高め世界レベルにした天才数学者であり、和算の開祖だ。とくに宋・金・元時代に大きく発展した天元術を深く研究し、根本的改良を加えた。1674年(延宝2年)、彼は『発微算法』を著し、筆算による代数の計算法(点竄術=てんざんじゅつ)を発明して、和算が高等教育として発展するための基礎をつくった。孝和が、行列式や終結式の概念を世界で最も早い時期に提案したことはよく知られている。1681年ごろには暦の作成にあたって円周率の近似値が必要になったため、正131072角形を使って小数第11位まで算出した。点竄術は、記号法の改良と理論の前進の双方を含み、後に和算で高度な数学を展開するための基礎を提供することになった。

 関孝和(=内山新助)の生年は1640年(寛永17年)ごろ、没年は1708年(宝永5年)。孝和は父・内山永明の次男。通称は新助、字は子豹、号は自由亭。父の内山永明は徳川忠長(徳川三代将軍・家光の弟、駿河大納言)に仕え、主家断絶のため、上野国藤岡(現在の藤岡市)に移住し、1639年(寛永16年)、江戸城の天主番(150石)となった。孝和の生地は藤岡もしくは江戸・小石川で、のち関五郎左衛門の養子となった。

 関孝和は甲府藩の徳川綱重および綱豊(後の六代将軍家宣)に仕え、勘定吟味役として会計や検地の仕事に携わった。1704年(宝永元年)、綱豊は五代将軍綱吉の養子となり江戸城に入った。これに伴い、孝和も幕府直属の武士となり、御納戸組頭250俵10人扶持、のち300俵となった。

 孝和の主な業績を列挙すると、次の通りだ。

1        .代数式の表し方とその計算法

2        .数学係数方程式のホーナーの解法の完成

3        .方程式の判別式と正負の解の存在条件

4        .ニュートンの近似解法

5        .極大・極小論の端緒、行列式の発見

6        .近似分数

7        .不定方程式の解法

8        .招差法の一般化

9        .ベルヌーイ数の発見

10   .正多角形に関する関係式

11   .円に関する計算

12   .ニュートンの補間法

13   .パップス・ギュルダンの方法

14   .捕外法

15   .円錐曲線論の端緒、数学遊戯の研究

 関孝和の偉業は集まった多くの弟子によって「関流」和算として継承・発展させられた。中でも真の後継者と呼ばれるのにふさわしいのが建部賢弘だ。年少の頃から兄・賢明とともに数学を学び始めた賢弘は若くして関の門を叩き、たちまちその才能を開花させた。彼の業績はスイスの数学者オイラーに先駆けて円周率πを求める公式を発見したり、円理を発展させて円周率を41ケタまで求めるなど、師の孝和と同様、世界的なものだった。

 弟子には恵まれた孝和も家族の縁には恵まれなかった。孝和の家族に関する資料はほとんど残されていない。だが、過去帳などから分かる範囲では、遅くに結婚し、40代で二人の娘をもうけたが、不幸にも長女は幼少期に、次女は10代半ばで亡くなっている。そこで跡継ぎとして、関家が養子として迎えたのが弟・永行の息子・新七郎だった。しかし、これが関家にとって命取りとなった。新七郎が関家に全く似つかわしくない、怠け者で不出来だったため、彼の不行跡で関家は途絶えてしまったのだ。そして、孝和に関する資料も没収され、散逸してしまった。

(参考資料)平山諦「関孝和 その業績と伝記」、朝日日本歴史人物事典

間部詮房 家宣・家継の二代にわたり側用人として幕政の采配振るう

間部詮房 家宣・家継の二代にわたり側用人として幕政の采配振るう

 間部詮房(まなべあきふさ)は徳川六代将軍家宣の治政下、顧問格として起用された儒学者・新井白石とともに、家宣の善政「正徳の治」を推進、将軍の側用人として実務を執行した人物だ。普通なら間部詮房は後世にもっと功績を残す存在となっていたかも知れない。しかし、彼が仕えた家宣が将軍に就任したときは、すでに49歳。しかも家宣は学究肌で虚弱だったから、将軍在任期間は限られていた。家宣は在職わずか4年で病床に臥す身となったのだ。

 間部は後継の第七代将軍家継の側用人としても幕政の采配を振るった。ただ、周知の通り、満三年9カ月、数え年5歳という年齢で誕生した徳川七代目の幼将軍家継も健康には恵まれず、将軍在任はわずか3年に過ぎなかった。家宣・家継二代合わせてもわずか7年だった。その結果、間部の評価は意外に低い。

 間部詮房は、温厚でありながら、決断力もあった。が、真の理解者は家宣だけだった。家宣の死後、詮房が大奥へ頻繁に出入りし、とりわけ月光院と面談することが多かったことから、二人の間に男女関係があるのではないか-とのスキャンダルが大きな話題となった。月光院は亡くなった家宣の側室、お喜世の方のことで、七代将軍家継の生母だ。したがって、本来、将軍の側用人として幼い将軍の健康や教育・しつけなどについて相談することが多くても何ら不思議ではないのだが、なぜかスキャンダルの風評が飛び交ったのだ。そのことも彼の人物評価に響いている部分があるのかも知れない。

 ただ、研究者によっては、月光院と間部詮房の“情事”スキャンダルは、公然の秘密だったとする指摘もある。吉宗の将軍登場の直後、京都では、次のような落首があらわれた。

「いわけなき鶴の子よりも色深き 若紫の後家ぞ得ならぬ」

「おぼろ月に手をとりかはし吹上の 御庭の花の宴もつきたり」

 その情事は京都にも聞こえており、新将軍ができたから、もうダメだぞという意味だ。

 間部詮房は、徳川綱重(徳川三代将軍家光の三男)が藩主時代の甲府藩士・西田喜兵衛清貞の長男として生まれた。通称は右京、宮内。間部宮内は猿楽師(現在の能役者)喜多七大夫の弟子だったが、1684年(貞享元年)、甲府藩主・徳川綱豊(綱重の子、後の徳川六代将軍家宣)に仕え、綱豊の寵愛を受け、やがて小姓に用いられた。これより前、苗字を「間鍋」に改称していたが、綱豊の命により「間部」と改めたという。甲府徳川家の分限帳には新井白石とともに間部詮房の名がみられる。上野国高崎藩主、越後国村上藩の間部家初代藩主。生没年は1666(寛文6)~1720年(享保5年)。

 1704年(宝永元年)、五代将軍・徳川綱吉の養子となった徳川綱豊の江戸城西の丸入城に伴い、甲府徳川家臣団は幕臣に編入され、間部詮房は従五位下越前守に叙任し、側衆になり1500石加増された。その後も順次加増を受け、1706年(宝永3年)には若年寄格として相模国内で1万石の大名となった。

 1709年(宝永6年)家宣(綱豊から改名)が六代将軍に就任すると、詮房は老中格側用人に昇り、侍従に任ぜられ、3万石に加増された。さらに、1710年(宝永7年)には上野国高崎城主として5万石に遇せられた。異例のスピード出世だった。そして、詮房は六代将軍家宣、儒学者・新井白石とのトロイカ体制で、門閥の譜代大名や、将軍に対して強い影響力を持つ大奥などの勢力を巧みに捌き、「正徳の治」を断行した。

 だが、詮房は側用人としてトロイカ体制で改革を推進したことで、幕閣の徳川譜代大名との間に溝が生まれ、半ば浮き上がった存在になってしまった。そして、それは家宣が健在の間はまだ問題は表面化しなかったが、家宣が亡くなり、七代幼将軍・家継も早世して、吉宗が八代将軍に就くと、一気に噴出。詮房は新井白石とともにあっけなく失脚した。後ろ楯となっていた家宣がいなくなっては、立脚基盤が弱い詮房にとっては成す術はなかった。ただ、詮房は老中職を罷免されたとはいえ、大名としての地位を剥奪されることはなく、領地を関東枢要の地・高崎から地方の越後国村上藩に左遷されたにとどまった。石高も形のうえでは5万石のまま変わらなかった。

(参考資料)藤沢周平「市塵」、徳永真一郎「徳川吉宗」、杉本苑子「絵島疑獄」、山本博文「徳川将軍家の結婚」、中嶋繁雄「大名の日本地図」

鴨長明 俗世間のせせこましさ・煩わしさの愚さを悟り隠遁した優れた歌人

鴨長明 俗世間のせせこましさ・煩わしさの愚さを悟り隠遁した優れた歌人

 「ゆく河の流れは絶えずして…」で始まる『方丈記』の作者として知られる鴨長明(かものちょうめい)は、管弦の道にも達した、平安時代末期から鎌倉時代前期の優れた歌人、随筆家だった。その歌才を愛(め)でた後鳥羽上皇によって、和歌所寄人(わかどころよりゅうど)に抜擢された。だが、彼は貴族の端くれとはいえ、地下(じげ)の者だったため、宮中の歌会でも他の寄人と同席できず、悲哀を味わわされた。

 鴨長明は、京都・加茂御祖(みおや)神社(通称・下鴨神社)の禰宜(ねぎ=神官)、鴨長継の次男として生まれた。菊太夫と称した。法号は蓮胤(れんいん)。歌を俊恵(しゅんえ)に学んだ。長明の生没年は1155(久壽2)~1216年(建保4年)。長明を隠遁者に追い込むきっかけになったのが、彼が望んだ、父の職だった鴨神社の河合社(ただすのやしろ)の禰宜(ねぎ)の補欠を、一族の中から非難があがって断念せざるを得なかったことだ。その結果、彼は神職としての出世の道を閉ざされたのだ。

 後に後鳥羽上皇が鴨の一つの氏社を官社に昇格させて、彼を禰宜に据えようとしたが、彼は感謝しつつも後鳥羽院の厚意を固く辞した。長明はこの事件を機に、人間社会のせせこましさや、生計のための栄達などに心煩わす愚を悟り、大原の里の日野に逃れ棲むことになった。ただ、長明が現実の人間社会に不満で、拗ねたわけではない。貴族社会の終焉に伴う武士階級の台頭という歴史的な変革期に生まれ合わせた多感な一人の男が、無常観という一つの確固たる視座を持って物事を観察し出した結果だ。

 「石川やせみの小河清ければ 月もながれを尋ねてぞすむ」

 この歌は『新古今和歌集』に収められている、神社や神に対する祈願などの、神事に関したことを詠んだ神祇歌(じんぎか)だ。歌意は、石の多い賀茂川よ、あまりの水の清らかさに神のみか月までも、川の流れをたずねて住むのだ-。澄んだ場所に住む尊い神を細心に歌に取り入れ、凛とした清流を描写している。

 長明は20歳余りで父を失い、自撰家集『鴨長明集』をまとめ、33歳のときに『千載集』に一首採られる歌人となった。その後、長明の歌才を愛でた後鳥羽院によって和歌所寄人に抜擢されたが、地下歌人の彼は、宮中の歌会でも他の寄人と同席できなかった。拭い難い屈辱感を味わわされた。

 長明の最もよく知られた著作『方丈記』は1212年(建暦2年)、60歳の彼が、蓮胤という法名で山城国(現在の京都市)日野山の奥に結んでいた方丈の庵で書いたものだ。これは、和漢混淆(こんこう)文による文芸の祖といわれ、日本三大随筆(『枕草子』『徒然草』『方丈記』)の一つとして名高い。ここで長明こと蓮胤は、これまでの貴族社会から鎌倉幕府を頂点とする武家政治の時代へ移る、劇的な社会の変転を、隠遁者ならではの冷静な眼で眺めていたのだ。主な著作に随筆『方丈記』ほか、説法集『発心集(ほっしんしゅう)』、歌論書『無名抄』、『鴨長明集』などがある。

(参考資料)大岡 信「古今集・新古今集」、梅原 猛「百人一語」

梶原景時 頼朝の信頼厚く重用された実力者が、あっけなく失脚、一族滅亡

梶原景時 頼朝の信頼厚く重用された実力者が、あっけなく失脚、一族滅亡

 梶原景時は1180年(治承4年)、伊豆国で挙兵(「石橋山の戦い」)し、敗れた源頼朝を救ったことから、鎌倉幕府開設後、頼朝の信任厚く重用された。しかし、他の御家人たちから怖れられたそんな実力者、景時も頼朝の死後、1200年(正治2年)鎌倉幕府内で起こった政争、「梶原景時の変」により幕府から追放された。そして、1180~1185年繰り広げられた「治承・寿永の乱」(源平合戦)で活躍した嫡男・景季らを含め、鎌倉幕府の有力御家人、梶原一族は実にあっけなく失脚、滅ぼされた。

 梶原景時は、相模国(現在の神奈川県)の豪族・鎌倉氏の流れで、父・梶原景清(かげきよ)、母・横山孝兼(たかかね)との間に生まれた。通称は平三(へいぞう)。景時の生没年は1140(保延6)?~1200年(正治2年)。頼朝に重用され、侍所所司(准長官あるいは次官)、厩(うまや)別当を務めている。侍所は防衛省と検察庁を合わせたような、軍事政権の幕府の中枢を占める役所だ。景時の本拠は現在の鎌倉市の西部、梶原山の一帯で、いわば鎌倉の地元勢だ。だが、出自は一介の大庭氏の支族で、小領主に過ぎなかった。

 景時が頼朝に重用されるようになった経緯は冒頭に述べた通りだ。もう少し詳しく紹介すると、石橋山の合戦当時、景時は従兄の大庭景親に従って頼朝を攻める側にあった。だが、密かに頼朝に心を寄せ、山中に逃げ込んだ頼朝の居場所を知りながら、わざと見逃したという。景時は、鎌倉幕府の初代・征夷大将軍の頼朝にとって、気働きのある重宝な男だったとみえて、以後、鎌倉における難事の取締役-いわば庶務部長といった役を器用にこなした。恐ろしいほど頼朝の心を見抜く術も心得ていて、頼朝の意向を汲んで上総広常を双六のもつれに事寄せて、殺してしまった。ドロを被ることをいとわなかった。

 広常は、鎌倉幕府の有力御家人の中でも、配下の将兵で最大級の勢力を揃えていたため、力を恃(たの)んで、ともすれば頼朝を蔑(ないがし)ろにする傾きがあった。しかし、幕府の内部がまだ固まっていないそのころ、正面切って広常追討を打ち出せば、混乱が起こるのは必定だ。それを表立てずに、巧みに処理した景時の侍所所司としての腕は、見事なものだった。また、そういう男にポストを与えた頼朝の人事の冴えもあった。

 有力御家人の諸勢力の微妙なバランスのうえに成り立っていた源家将軍・鎌倉幕府の創始者=鎌倉殿・頼朝は、滅多に本心を見せず、誰かに動かされてという形を取りたがる。非難を受ける恐れのあるときは、とくにそうだ。だが、景時はそれを知りつつ、進んで頼朝の意向を代弁する役を引き受けた。それによって、頼朝の東国の王者としての位置が強まるのなら、ためらうことはなかった。それがひいては、武家社会を推し進めるのだという信念がますます景時を傲岸にした。彼が執拗に九郎判官義経の追討を主張したのもこのためだ。

 侍所所司の景時は、御家人を動員したり、その功徳を調査する。いわば軍事・警察の責任者だったが、これをあまり徹底的にやりすぎて憎まれた。後世、彼を讒言者だというのは感情的な評価で、真実は彼があまり規則を厳正に実行し過ぎたために、比企能員ら有力御家人にも反感を買い、失脚したのだ。

 東国武士団には欠けていた、教養があり、和歌を好む実務型官僚の景時の存在は、幕府内の有力御家人の中では異色で、頼朝はその点きちんと評価し重用したのだが、ある意味でその最大の庇護者だった頼朝が亡くなると、景時は孤立していった。66人もの御家人が署名した、景時に対する弾劾状が如実のその実態を物語っている。景時を憎む者、過去に何かのことで彼に恨みを持つものがいかに多かったかが分かる。弾劾状を提出された二代・頼家が、これを景時に示したとき、彼は一言の弁解もせずに鎌倉を去り、相模一宮の本拠に引き籠もってしまったのだ。これが「梶原景時の変」と呼ばれる事変の伏線となった

 1199年(正治元年)事態は動き出した。そして、景時はその翌1200年(正治2年)の正月、手勢を率いて上洛しようとした。だが、結局、駿河の清見が関の近くにきたところで土地の御家人たちに討たれて、一族とともにあっけない最期を遂げた。路上には景時以下、嫡子・景季(39歳)、景茂(34歳)、さらに景国、景宗、景則、景連ら一族33名の首が架けられた。頼朝の死から1年後のことだった。そして、このことが結果的に二代将軍・頼家の時代をより短命にしたといえる。なぜなら、景時の妻は頼家の乳母の一人だったから、景時は頼家の乳母夫だったのだ。したがって、景時は本来、頼家にとって信頼に値する存在だったはずなのだ。だが頼家はこのことに気付かず、あるいはほとんど意識せず、景時を追い込んで、自らの存立基盤を弱めてしまったのではないか。

(参考資料)永井路子「炎環」、永井路子「源頼朝の世界」、永井路子「梶原景時があっけなく失脚した理由」、永井路子「北条政子」