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知恩院「御影堂」天蓋は寛永年間の作 繊細な文様で特定

知恩院「御影堂」天蓋は寛永年間の作 繊細な文様で特定

 修理事業関係者によると、約100年ぶりに大規模修理されている浄土宗総本山知恩院(京都市東山区)の国宝「御影堂」の内陣天井を飾る天蓋が、彫金技術などから、御影堂が再建された寛永年間(1624~44年)の製作と判明した。天蓋は本体が約3㍍四方、高さ約1.5㍍。木製で、メッキと彫金が施された銅板で装飾されている。

 銅版に施された文様の繊細さや、文様の間に細かな円を浮き立たせる技術「七魚子(ななこ)」の精緻さ、再建時の作とされる厨子(ずし)「宮殿」の金工とも様式が似ていることから、寛永年間の製作と特定した。御影堂は1604年に建立、焼失を経て、39年に再建された。

鳳凰堂の翼廊の屋根飾り「露盤宝珠」も平安期の製作か

鳳凰堂の翼廊の屋根飾り「露盤宝珠」も平安期の製作か

 京都府宇治市の世界遺産、平等院は4月19日、国宝の鳳凰堂左右にある翼廊の屋根飾り「露盤宝珠(ろばんほうじゅ)」が平安時代に作られた可能性があるとの調査結果を発表した。平等院によると、露盤宝珠は翼廊の屋根に、それぞれ取り付けられ、重さは140㌔と150㌔。高さはいずれも105㌢で、6つの部材からなり、大部分が青銅製。

 平成の修理のため2013年11月に取り外され、蛍光エックス線で成分調査したところ、銀とアンモニアの割合が平安時代の作とされる鳳凰像と共通していたことから、露盤宝珠の製作も同時期だった可能性があるという。

東日本大震災の被災旧家から戊辰戦争の文書見つかる

東日本大震災の被災旧家から戊辰戦争の文書見つかる

 戊辰戦争(1868~69年)の際、仙台藩の村人が旧幕府勢力に宿や食料を提供したと記した文書が、東日本大震災の津波で浸水した宮城県石巻市長面地区の旧家から見つかったことが4月17日、分かった。解読した宮城学院女子大の平川新学長は、地域の村々が戊辰戦争にどう関わっていたのかを示す貴重な史料-と話している。

 文書は仙台藩にあった尾崎浜(現石巻市)の代表者が残していた。子孫が住んでいた旧家は津波で1階が浸水したが、文書は神棚に保管されていて無事だった。表紙に「徳川様御人数旅宿御賄諸事入料並金代請払手控帳」とあり、1868年の記録だった。明治新政府への降伏を決めた仙台藩と交渉するため、尾崎浜にきた旧幕府勢力に、村人が宿や食料を提供したとみられ、米のほか、サケや豆腐、酒などが記されていた。

木曾義仲 後白河法皇の術中にはまり、死に急いだ悲劇のヒーロー

木曾義仲 後白河法皇の術中にはまり、死に急いだ悲劇のヒーロー

 木曾義仲(源義仲)は1180年(治承4年)、以仁王の令旨によって挙兵、都から逃れた以仁王(もちひとおう)の遺児を北陸宮として擁護し、「倶利伽羅(くりから)峠の戦い」で平氏の大軍を破って、源氏の中でもいち早く上洛した。ところが、①都の治安維持・回復に失敗した②皇位継承問題に介入した-ことなどから、後白河法皇と対立。不幸にも従兄弟にあたる源頼朝・義経と戦う破目になり、「粟津の戦い」で義経の軍勢に討たれた。わずか30年の生涯だった。

   歴史に「たら」「れば」を言っても仕方がないのだが、それを承知で、あえていわせてもらうなら、義仲がいま少しうまく立ち回っていれば…と考えざるを得ない。義仲が嫡子・義高を頼朝のもとに人質として差し出していることを考え合わせると、頼朝・義経との共闘・同盟を視野に入れて行動するという選択肢はなかったのだろうが、こうも簡単に後白河法皇の術中にはめられて身動きできなくなった格好で、“自滅”に陥ることもなかったのではないか。

   後白河法皇は、西国に退却した平氏を追討するように、義仲をけしかけながら、裏では鎌倉の頼朝と取引し「征夷大将軍職」を与えて、義仲追討の院宣を出しているのだ。法皇の腹黒い、したたかさには舌を巻かざるを得ない。これに対し義仲は手も足も出ない。木曽の山中で育ったためか、格式が重んじられる、都での公家との交渉ごとに不慣れだったことも当然あろう。不幸にもそういうことに長けたブレーンもいなかった。だが、どうみても粘り強く難局をしのぎ、打開していくというような姿勢が全くみられないのだ。そこには武骨で、死に急いだ悲劇のヒーローの姿があるだけだ。

 木曾義仲は河内源氏の一族、源義賢の次男。母は遊女。幼名は駒王丸、のち義仲。別名は木曾次郎、木曾冠者、朝日将軍。生没年は1154(久寿元)~1184年(寿永3年)。義仲の前半生に関する史料はほとんどなく、出生地は武蔵国の大蔵館(現在の埼玉県嵐山町)とする伝承もあるが、義賢が居住していた上野国多胡郡(現在の群馬県多野郡)の可能性もある。父義賢は甥の義平(頼朝の兄)に殺され、義仲は木曽に逃れ、元国司・中原兼遠の手で育てられた。義仲13歳のとき、京へ行き石清水八幡宮で元服し、「木曽次郎義仲」と名乗った。

 義仲が平家追討のため挙兵したのは1180年(治承4年)、27歳のときのことだ。そして、倶利伽羅峠の戦いで自軍のほぼ2倍の平家の大軍を破り、1183年(寿永2年)、遂に都へ攻め上った。上洛した義仲軍にとって期待されたのは、飢饉続きと、我が世を謳歌する平氏の狼藉で荒廃した都の治安回復だった。しかし、義仲はまずこの都の治安維持・回復に失敗してしまった。また、義仲軍の大軍が都に居座ったことにより食糧事情の悪化を招いた。さらには挙兵から上洛までの経緯から、以仁王の遺児、北陸宮を強引に推して、皇位継承問題に介入したことで、最高権力者・後白河法皇と不和となってしまったことも、取り返しのつかない、大きなつまずきとなった。

 義仲軍は西国へ退却した平氏を追討するため、山陽道にいた。義仲は水島で平家の水軍に破れ、法皇に裏切られたことを知る。頼朝が兵を差し向けてきたことを知ると、義仲麾下の軍は次々と離脱していった。必死の思いで都に戻った義仲軍3000は、八方塞がりの状況に直面し、いつのまにかわずか700になっていた。だが、ここで義仲は反転、攻勢に出る。法皇を討つ覚悟を決め、院の御所、法住寺を攻めて後白河法皇を捕らえ、幽閉した。

 1184年(寿永3年)、義仲は待望の征夷大将軍になったが、悲しいことに命運は尽きた。源範頼・義経率いる約2万の鎌倉軍が迫っていたのだ。そして、近江国粟津(現在の滋賀県大津市)が最期の舞台だった。義仲が戦死したとき、嫡子・義高は頼朝の娘・大姫の婿として鎌倉にいた。彼は身の危険を感じ、逃亡を図ったが討たれ、義仲の家系は絶えた。

 今日、木曾義仲の功績を正当に評価する史料は極めて少ない。ほとんだが義仲=敗者=悪-を前提に論じたものだ。意外にも江戸時代の学者の中には公正に評価した人物がいる。徳川六代将軍家宣の侍講、新井白石は著書『読史余論(とくしよろん)』で、「すべて平家の兵をやぶりて、都を追い落とせし事、ことごとく義仲が功なり」と義仲の功績を称える義仲論を説いている。そして、『平家物語』や『源平盛衰記』などは鎌倉時代になって作られた物語で、これらは後白河法皇、源頼朝の立場を正当として位置づけ、義仲の功績を覆い隠し、悪の一切を義仲の責めにして押し付けている-と後世の義仲に対する低い評価を断罪している。

(参考資料)杉本苑子「悲劇の風雲児」、海音寺潮五郎「武将列伝」、安部龍太郎「血の日本史」、松本利昭「木曽義仲」、永井路子「絵巻」、加来耕三「日本補佐役列伝」

 

平城天皇 早良・伊予両親王の亡霊に抗し切れず譲位した病弱な人物

平城天皇 早良・伊予両親王の亡霊に抗し切れず譲位した病弱な人物

 平城(へいぜい)天皇は皇太子(安殿親王)のとき、母の藤原薬子(ふじわらくすこ)が長女を後宮に入れるため、付き添いとして宮中に上がった際、気に入り、関係を結ぶに至り、後宮の秩序を著しく乱した人物だ。皇族としての品格や常識に欠ける側面があったことは確かだ。また、生来病弱だったため、在位わずか3年余りで弟。嵯峨天皇に譲位、平城上皇となった。だが、ほどなく健康はにわかに回復したため、国政への関心を示すようになった。そして上皇の威を借りた、側近の薬子やその兄の藤原仲成の暗躍に任せ、上皇の命令と称して政令を乱発。その結果、弟の嵯峨天皇と対立、「二所の朝廷」と呼ばれる分裂状態をつくり出し、国政を混乱させた。

    平城上皇は精神的に幼く、様々な行動が“悪あがき”や“○○ごっこ”と表現した方が的を射ているような幼児性が随所に垣間見られ、弟の嵯峨天皇の器量と比較すると悲しいほどだ。平城天皇の生没年は774(宝亀5)~824年(天長元年)。

 平城天皇は、桓武天皇の第一皇子。諱は安殿(あて)といい、皇后・藤原乙牟漏(おとむろ)を母として生まれた。父・桓武帝の弟、早良親王の廃太子に伴い、785年(延暦4年)12歳で立太子した。参議、藤原繩主(ただぬし)と藤原種継の娘・薬子の間に生まれた娘を後宮に迎えた。ところが、皇太子はこの娘の母・薬子との間でも関係を結んでしまったのだ。このとき薬子は三男二女の母親だったが、よほど中年の魅力的な女性だったのだろう。皇太子は薬子に夢中になってしまったのだ。父の桓武天皇はこれを知って激怒し、薬子を後宮から追放した。

 だが、806年(大同元年)、桓武天皇が崩御し、安殿親王が皇位に就くと、まもなく薬子は呼び戻されて、後宮を束ねる尚侍(ないしのかみ、天皇に常侍する女官の長)に就任した。これ以後、平城天皇と人妻、薬子との関係は一層深まった。薬子の兄は仲成だ。彼は薬子の支援もあって昇進、参議の地位に昇った。仲成は藤原式家、造長岡京の長官で暗殺された父の中納言種継の長子だっただけに、藤原四家の勢力争いを強く意識。妹・薬子を通して平城天皇との関係を強めることが、式家の繁栄および今後の栄進の第二の保証と考えた。

 平城天皇は809年(大同4年)、詔を発して皇太子(賀美能親王)への譲位を公表した。生来病弱だった天皇が、その年の初めに発病し、なかなか回復しなかったためだ。彼は、体の不調を怨霊の仕業だと思い悩み続け、王位を離れさえすれば、その禍から免れて生命を保ち得るのではないかと考えた。彼は遂に、無念の死を遂げた早良親王、伊予親王の亡霊の鬼気には抗し得なかったのだ。皇太子・賀美能(かみの)親王は平城天皇の12歳年少の同母弟だ。彼は即位し嵯峨天皇となった。ところが、譲位してから7カ月ほど経つと、上皇となった平城の病が快方に向かい、天皇との対立が表面化してきたのだ。疫病から逃れようという一念から、不本意にも退位した、後悔の思いが強まってきたのだ。恐らくは側近の仲成・薬子の兄妹が助言あるいは、たきつけ、煽った面もあったろう。

 平城上皇がその新居の地を旧都(平城京)に求め、慌しくそこに移ったころから、上皇と天皇との対立が表面化した。薬子と仲成がその動きを助長した面はあったろうが、そのきっかけをつくったのは上皇本人だった。いまや上皇の居所は、反嵯峨朝廷の策源地となった。愚かにも平城上皇は「二所の朝廷」の対立時代をつくってしまったのだ。そして、嵯峨天皇が発病、病臥中、上皇はとんでもないサプライズをやらかしてしまう。異例のことだが、上皇は独断で平安京を廃して都を平城の故地に遷すことを命令したのだ。嵯峨天皇と政府にとっては、この遷都宣言はまさに青天の霹靂ともいうべき大事件だったろう。全く子供じみた“暴挙”としかいいようがない。

 上皇の独りよがりの無謀な朝廷挑発行為には全く支持者は得られず、事態は早々に収拾された。嵯峨天皇は兄・平城上皇の王権への叛逆の罪を追及しなかったが、上皇の皇子・高岳親王から皇太子の地位を奪った。 

(参考資料)北山茂夫「日本の歴史④平安京」、笠原英彦「歴代天皇総覧」、杉本苑子「檀林皇后私譜」

平維盛 源平争乱の荒波に押しやられた、清盛の嫡孫・純愛カップルの愛

平維盛 源平争乱の荒波に押しやられた、清盛の嫡孫・純愛カップルの愛

 平維盛(たいらのこれもり)は、平重盛の嫡男、つまり清盛の嫡孫だ。彼は美貌の青年公家だった。そんな彼が見初めたのが、権大納言成親(なりちか)の娘。15歳と13歳で結婚した二人は、人もうらやむ似合いのカップルだった。しかし、源平争乱の荒波は、この二人にも情け容赦なく押し寄せてきた…。維盛の生没年は1157(保元2)~1184年(寿永3年)。

 維盛は、無事なら清盛の跡を継ぐはずだった重盛の嫡男として宮廷では順調に昇進。若くして従三位、小松三位中将などと呼ばれた。母は官女とされるが、出自など詳細は不明。一方、妻は権大納言成親の娘。妹は平清経の妻室になっていた。彼女たちの母・京極局は、歌人、藤原俊成の娘。後白河法皇に仕え、院中女房の第一といわれ、したがって姉妹は藤原定家の姪になる。彼女は10歳をすぎたころ、義理の叔母になる建春門院に仕えた。女院から特別に目をかけられ、御座所近くに局を与えられていた。

 二人が結婚した男子15歳、女子13歳は、往古に定められた『大宝令』以来の結婚可能な年齢だ。ほどなく二人の間に続いて子供が生まれた。兄を六代丸(ろくだいまる)と名付けられた。平家隆盛の基礎を築いた兵庫頭・平正盛(ひょうごのかみ・たいらのまさもり)から数えて六代目の嫡孫の意で付けられた。2年後に生まれたのは姫だった。夫婦の中は、二人の幼な児をはさんでいよいよ睦まじかった。

 ところが、夫婦にとって不幸な事件が突発した。治承元年、鹿ケ谷山荘で平家打倒の謀議がなされたとして、二人の状況が一変したのだ。事件の中心的や役割を果たしたとみられたのは、新大納言局の父、藤原成親だ。兄の成経(なりつね)も同じとされた。成親は同年1月の除目(じもく)で、望んでいた左近衛大将(さこんえのたいしょう)の地位を清盛三男の宗盛(維盛の叔父)に奪われた。その不満から西光(さいこう)法師が唱える平家打倒の強硬論に加担したのだ。

 皮肉なことに、成経の妻は清盛異母弟の平教盛(たいらののりもり)の娘だった。さらに、父重盛の妻も成親の妹だった。古代国家体制を維持してきた藤原氏と平家一門の公達は、幾重にも婚姻を結び、完全に貴族化し、一朝事があれば、身内が敵味方となる特異な側面を備えていた。この事件で、維盛の舅、妻の父、成親は備前の配流地で串刺しにされ殺された。清盛が断固とした処置を打ち出した結果だった。

 宮廷での評判とは裏腹に、武将としての維盛の経歴は散々なものだ。鎌倉軍と対峙した「富士川の合戦」には大将軍として出陣したものの、水鳥の羽音に驚いて、戦わずして逃げ帰り、そのころはまだ健在だった清盛に大目玉を食らっている。その後、木曽義仲の上洛を阻むために北陸路へ出陣したときも、彼は大将軍だったが、「倶利伽羅峠の合戦」に大敗し、平家滅亡の端緒をつくっている。ただ、彼にも同情の余地はある。富士川の合戦のとき、彼は23歳だった。武将として何の経験もないままに、重盛の嫡男だからというだけの理由で、将軍の座に据えられたのが悲劇だったのだ。この立場は彼には重荷に過ぎたのだ。この2度の合戦に彼は叩きのめされた。

 維盛の、いやこのカップルの悲劇は、平家の総帥・清盛の死から2年後、平家一門が幼い安徳天皇を奉じて西海に逃れたことに始まる。二人の子供、六代丸は10歳、姫は8歳だった。このとき、妻子や、ほかの家族も伴うべしという一門の総指揮・宗盛の命令に従わず、維盛はなぜか、泣きすがる妻と二人の子供を京に残したのだ。維盛は、自分もお前たちを伴って行きたいが、途中で敵勢が待つともいう。そんな厳しい逃れの旅にお前たちを伴って、辛い思いをさせたくないのだ-と自分にも言い聞かせた。彼は、それほどに前途に全く光明を持ち得なかったからだ。そして、たとえ自分の討ち死にを聞いても、尼などになってくれるな。再婚しても幼い子供たちを育ててくれ-と言い残した。

    翌年、平家一門は屋島に戦陣を構えた。ところが、維盛は妻子恋しさのあまり、わずかな郎党を頼りとして、密かにこの屋島の陣から抜け出した。京に潜入して妻子の行方を探すためだった。だが、源氏軍の平家狩りは厳しかった。京への潜入は断念せざるを得なかった。立場上、都で万一捕われて生き恥をさらすことは、絶対避けなければならなかったからだ。彼は妻子に再会できないまま、高野山に逃れ、失意のあまり、1184年(寿永3年)、那智の海に入水して果てた。享年27。しかし維盛は、実際には生き延びていたという様々な伝説が日本各地に残っている。平家落人伝説の一つだ。

 維盛の妻子はその後、妻は『吉記(きっき)』を著した権中納言・藤原経房(つねふさ)に後妻として嫁いだ。六代丸は頼朝の死後、平氏嫡流の根絶やしをはかる幕府の一部勢力により、当時彼は僧籍にあったものの26歳のとき斬首された。六代丸の妹の姫は、母とともに経房の屋敷に住み、18歳のとき経房外孫の藤原実宣(さねのぶ)に嫁している。夫婦として二人が生きたのは王朝時代の末期。維盛と妻の新大納言局の愛は、時代を激しく変貌させた源平争乱の中で泡沫と消えたわけだ。

(参考資料)永井路子「歴史の主役たち」、澤田ふじ子「平維盛と新大納言局 純愛カップルを待ち受けていた運命」、杉本苑子「平家物語を歩く」