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野口英世 黄熱病研究などで知られる細菌学者で、自身も感染し死亡

野口英世 黄熱病研究などで知られる細菌学者で、自身も感染し死亡

 野口英世は黄熱病や梅毒などの研究で、現代の日本人によく知られている、戦前の日本の細菌学者だ。ガーナのアクラで黄熱病原を研究中に自身も感染して亡くなった。2004年から発行されている日本銀行券の千円札の肖像になっている。野口英世の生没年は1876(明治9)~1928年(昭和3年)。

 野口英世は、福島県耶麻郡三ツ和村三城潟(現在の猪苗代湖)で、貧農の野口佐代助・シカ夫妻の長男として生まれた。名前は清作と名付けられたが、22歳のとき英世に改名した。野口清作は1歳のとき、彼の運命を決めることになった事故(?)に遭う。囲炉裏に落ち、左手を大火傷(やけど)したのだ。幸い命に別状はなかったが、左手に大きな障害が残ってしまった。7歳のとき三ツ和小学校に入学した。この年、母から左手の障害から家業の農作業が難しく、将来は学問の力で身を立てるよう諭された。

 母の言葉を守って勉強に精出した結果、清作は13歳のとき、猪苗代高等小学校の教頭だった小林栄に優秀な成績を認められ、小林の計らいで猪苗代高等小学校に入学した。そして、清作にとって幸運にもハンディキャップ克服への道が開かれる。清作が15歳のときのことだ。左手の障害を嘆く彼の作文が、小林をはじめとする教師や同級生らの同情を誘い、彼の左手を治すための手術費用を集める募金が行われ、会津若松で開業していたアメリカ帰りの医師、渡辺鼎(かなえ)のもとで左手の手術を受けることができたのだ。その結果、不自由ながらも左手の指が使えるようになった。この手術がきっかけで、彼は医師を目指すことを決めたのだ。

 猪苗代尋常高等小学校卒業後、会津若松の渡部鼎の医院の書生となり、4年間医学と外国語を習得。1896年(明治29年)上京、医術開業前期試験に合格。ただちに歯科医、血脇守之助の紹介で、高山歯科学院の用務員となり1897年、済生学舎に入り5カ月後、医術開業後期試験に合格した。翌年、大日本私立衛生会、伝染病研究所(所長は北里柴三郎)助手に採用され、細菌学の道に入った。1899年、アメリカの細菌学者、フレクスナーが来日。その通訳を務めたことを機に渡米を決意した。

 その後、横浜港権疫官補、続いて中国の牛荘(営口)でのペスト防疫に従事した。1900年(明治33年)、血脇の援助を得て渡米し、ペンシルベニア大学のフレクスナーを訪ね、彼の厚意で助手となり、またヘビ毒研究の大家、ミッチェルを紹介された。野口はヘビ毒の研究を始め、1902年フレクスナーと連名で第一号の論文を発表した。1903年デンマーク・コペンハーゲンの国立血清研究所でアレニウスとマドセンに血清学を学び、翌年アメリカに戻り、フレクスナーが初代所長を務める新設のロックフェラー研究所に入所した。1911年(明治44年)、梅毒病原スピロヘータの純培養に成功。世界的にその名を知られ、京都帝国大学から医学博士を得た。この年、アメリカ人女性、メリー・ダージスと結婚した。

 1914年(大正3年)、東京大学より理学博士の学位を授与された。ロックフェラー医学研究所正員に昇進した。野口は何度かノーベル医学賞候補になっているが、この年最初の候補となった。1918年(大正7年)、ロックフェラー財団の意向を受けて、まだワクチンのなかった黄熱病の病原体発見のため、当時黄熱病が大流行していたエクアドルへ派遣された。その後、南米ペルーやアフリカのセネガルなどを訪れ、10年間にわたり黄熱病や風土病研究に携わり、遂にその黄熱病に倒れたのだ。

 野口自身、黄熱病に感染したと認識していなかったのだが、1928年(昭和3年)イギリス領ガーナのアクラのリッジ病院で、51年の生涯を閉じた。遺体はアメリカ・ニューヨークのウッドローン墓地に埋葬された。

(参考資料)小泉 丹「野口英世 改稿」、渡辺淳一「遠き落日」

明治天皇 一世一元と定めた近代立憲国家の指導者だが、人物評価は輻輳

明治天皇 一世一元と定めた近代立憲国家の指導者だが、人物評価は輻輳

 明治天皇は薩長両藩による討幕運動が風雲急を告げる中、俄に崩御した父、孝明天皇より皇位を継承、王政復古により新政府を樹立。1868年、明治と改元して、天皇の代替わりに合わせて元号を変更する「一世一元」と定め、京都から東京へ遷都。大日本帝国憲法や教育勅語・軍人勅諭などを発布して、近代立憲国家の指導者として活躍、その功績から戦前には「明治大帝」とも呼ばれた。ただ天皇として、前例のない時代を生き抜いた人物だけに、人間として彼の意思がどこまで貫けたか?とくに大日本帝国憲法下における「統帥権」の問題とからみ、その人物評価は輻輳するところで、極めて難しい。明治天皇の生没年は1852(嘉永5)~1912年(大正元年)。

 明治天皇は第123代天皇(在位1867~1912年)。名は睦仁(むつひと。幼名は祐宮(さちのみや)。孝明天皇の第二皇子。母は権大納言、中山忠能(ただやす)の娘、中山慶子(よしこ)。幼少時を祖父、忠能のもとで過ごした後、1856年(安政3年)内裏へ移った。睦仁親王は父、孝明天皇ともども多難な時代と遭遇し、政治の渦中に巻き込まれた。嘉永、安政年間(1848~1860)には黒船の来航をはじめとして欧米列強による開国要求が相次ぎ、幕府の権威が失墜。朝廷が政治の中心に組み込まれると、天皇も国難に直面せざるを得なくなった。

 「八月十八日の政変」(1863年)、「禁門の変」(1864年)を経て、事態は薩長両藩による討幕運動へと発展する中、孝明天皇は俄に崩御。1867年(慶応3年)睦仁親王が満14歳で践祚の儀が行われ、即位した。1868年(明治元年)、五箇条の御誓文に基づき、太政官の権力集中、三権分立主義、官吏公選などを規定した政体書によって、新しい政治制度を確立するなど新政府の基本方針を表明した。また、明治と改元して「一世一元」の制を定めた。

 明治天皇は若年で即位したため、明治維新は側近の岩倉具視らの主導で推進されたが、公武合体論者の孝明天皇から明治天皇への即位は、それまでの朝廷の政治的風土を一変するのに十分で、それ以後、急速に討幕・王政復古の路線へと突き進んだ。端的には、1868年1月からの「戊辰戦争」で旧幕府勢力を打倒、その環境が整ったわけだ。1871年(明治4年)6月、明治天皇は廃藩置県を断行して中央集権体制を固めていった。と同時に宮中改革も実施され、天皇の生活環境も大きく変わっていった。学問所では元田永孚(ながざね)や加藤弘之が侍講として漢学や洋学を進講した。また侍従となった山岡鉄舟や村田新八によって、武術などの訓練を受けた。これにより、ややひ弱だった若年の天皇が、次第に文武両道に長じた柔和な青年君主に成長していった。

 話は相前後するが、明治初年以降、天皇は全国各地を巡幸することも増え、国内民衆に広く接して、新しい日本の君主としての存在を印象付けた。加えて、外国の使節や賓客と会見することも多く、明治12年に来日した前アメリカ大統領グラントとの会議では、近代国家建設のための多くの助言を得ている。1889年(明治22年)、大日本帝国憲法を発布。帝国議会開設後は政党勢力と藩閥政府との対立の調停者的機能を、また日清・日露戦争では大本営で戦争指導の重要な役割を果たすなど、近代日本の指導者として活躍。その功績から戦前には明治大帝とも呼ばれた。

 明治維新後を展望した坂本龍馬の語録がある。龍馬はその中で、「本当なら、幕府が倒れた後の日本人の精神的な拠り所はキリスト教がいいのだが、これは日本に馴染まない。では、代わりにいったい何を持ってくるか、天皇以外にない」といっている。明治政府の首脳陣はこの考えを実行した。つまり、天皇を「生きた神様」として、日本国民の上に君臨させようとしたのだ。ある意味で、当時の首脳部にすれば、やむを得なかったことかもしれない。ただ、その天皇がいままでのように、御所の奥に隠れ住み、いわゆる“雲の上の存在”として、そのままいたのでは、国民にとってありがたみが薄い。もっと民衆の前に現れる存在としての、世界に類例のない帝王学が明治天皇に望まれたことは確かだ。そのための行き過ぎもあった。

 明治天皇は幕末から明治維新、そして明治という前例のない時代を生き抜いた。しかし、人間として明治天皇の意思がどこまで貫けたかは極めて難しい問題だ。日清・日露戦争など心ならずも、そういう決定をしなければならないことも多々あったに違いない。ただ、かといって明治天皇の生涯をみていると、すべて周囲の言いなりになったわけではない。あるときには頑固なまでに自分の意思を貫いた。総合的な人物評価は難しい。

(参考資料)笠原英彦「歴代天皇総覧」、杉森久英「明治天皇」、童門冬二「明治天皇の生涯」、豊田穣「西郷従道」、司馬遼太郎「この国のかたち 四」

本田宗一郎 エンジン一代、強烈な個性と独創性で世界を疾駆した人物

本田宗一郎 エンジン一代、強烈な個性と独創性で世界を疾駆した人物

 本田技研(ホンダ)の創業者・本田宗一郎は、エンジンの猛烈な改良・開発熱にとりつかれながら、権威や常識を覆した自由競争の時代に、強烈な個性と独創性で世界を疾駆した人物だ。生没年は1906(明治39)~1991年(平成3年)。

 本田宗一郎は静岡県磐田郡光明村(現在の静岡県浜松市天竜区)で、父・本田儀平、母・みかとの間に長男として生まれた。父は農機具などをつくる村の鍛冶屋だった。もともと農家に生まれたが、手先が器用なことから、15歳のとき袋井の鍛冶屋へ奉公に出、20歳のとき村へ帰って独立した。日露戦争では応召して満州へ行き、復員。27歳のとき、近くの農家の娘で7つ年下のみかと結婚、初めてもうけた子が、宗一郎だった。「宗一郎」と名付けたのは祖父だった。

 本田は1913年、光明村立山東尋常小学校(現在の浜松市立光明小学校)に入学。1922年、二俣町立二俣尋常高等小学校を卒業。東京市本郷区湯島(現在の東京都文京区湯島)の自動車修理工場「アート商会」に入社。同社に6年間勤務し1928年、のれん分けの形でアート商会浜松支店を開業した。1935年、僧学校教員の磯部さちと結婚。1937年、自動車修理工場の業容は順調に拡大、1939年「東海精機重工業株式会社」(現在の東海精機株式会社)の社長に就任。1945年、三河地震により東海精機重工業浜松工場が倒壊。所有していた東海精機重工業の全株を豊田自動織機に売却して退社、「人間休業」と称して1年間の休養に入った。

 1946年、本田は浜松市に本田技術研究所を設立、所長に就任した。39歳のときのことだ。そして1948年、本田技研工業株式会社を浜松市に設立。同社代表取締役に就任。資本金100万円。従業員20人でのスタート、二輪車の研究を始めた。1949年は、本田にとってターニングポイントとなった年だった。この年、後に本田技研(ホンダ)の副社長となる藤沢武夫を、東京の知人に経理を任せられる人物として紹介されたのだ。藤沢は本田より4歳年下で、技術には弱いが、販売や経理には極めて明るかった。そこで、本田は以後、藤沢に経営の一切を任せ、研究・開発に没頭。この役割分担により、職人肌の技術者、本田はカネや販売の苦しみを味わうことなく、才能を存分に発揮し、本来の仕事に没入できたのだ。

 二代目社長の河島喜好は、藤沢さんと出会わず、あのまま本田さんだけでやっていたら、本田技研は10年ももたなかったのではないか-と語っている。また、藤沢と出会わなかったら、本田は浜松の中小企業のオヤジで終わっていたのではないかともいわれている。それほどに、藤沢は稀代の経営の天才ともいわれる手腕を発揮、本田の生涯の分身ともいえる存在だった。こうして二人は本田技研(ホンダ)を世界的な大企業に育て上げたのだ。1973年、本田は本田技研工業社長を退任、藤沢とともに取締役最高顧問に就任した。1989年、日本人として初めてアメリカ合衆国の自動車殿堂入りを果たした。 

(参考資料)城山三郎「燃えるだけ燃えよ 本田宗一郎との100時間」、日本経済新聞社「20世紀 日本の経済人 本田宗一郎」、清水一行「器に非ず」

豊田喜一郎 「純国産」技術で自動車産業の礎築き「TOYOTA」創業

豊田喜一郎 「純国産」技術で自動車産業の礎築き「TOYOTA」創業

 2010年、トヨタ自動車は販売台数で、長期にわたり繁栄を謳歌してきた巨大なアメリカの象徴、ゼネラル・モーターズ(GM)を抜き世界一となった。豊田喜一郎は20世紀の、いや21世紀に入ってもさらに飛躍を続ける、日本を代表する企業、トヨタ自動車の創業者だ。欧米に50年遅れて出発した日本の「純国産」自動車産業。技術も産業基盤もおぼつかない当時の状況を認識しながら、豊田喜一郎は戦前戦後の激動期、日本の自動車産業の礎を築いていった。米国フォード、GMの日本進出を横目で見ながら、喜一郎に迷いはなかったのか。今日の世界企業「TOYOTA」の姿が果たして想像できたのか。豊田喜一郎の生没年は1894(明治27)~1952年(昭和27年)。

 1933年(昭和8年)喜一郎は豊田自動織機製作所に自動車部を設立した。1923年(大正12年)の関東大震災以降、急成長した日本の自動車市場に米国のフォード、GMが相次いで進出してきていたころのことだ。そんな中、大財閥も二の足を踏んだ純国産乗用車生産の難事業。技術の蓄積が段違いのこれら米国の巨人に、彼は純国産車で挑むことを表明したのだ。そして、長期にわたる欧米視察で、自動車産業の隆盛をつぶさに見て回った。その結果、自動織機ではどこにも負けないという自負に加え、自動車産業を興すには製鉄、ガラス、ゴムなどの産業基盤の充実が不可欠という技術者の冷静な判断もあった。

 喜一郎は自動織機の開発にあたっても最終的に仕上げた。そして英国のプラット社にG型自動織機のライセンスを与え、見返りに10万ポンドを得ている。それを元手に自動車エンジンの試作に必要な鋳造や鍛造という金属加工の基礎の基礎から、経験と知識を積み上げていった。だが、自動車事業の産業基盤を整備・充実するには莫大な資金が必要だ。恐らく当時、豊田グループを切り盛りしていた豊田自動織機社長で義兄の豊田利三郎の了解のもと、準備段階から相当な資金が出ていたのだろう。だからこそ、高価なプレス機械、最新の鋳造装置などに惜しげもなく資金を投じることができた。また、二高、東大を通じての人脈が自動車事業を支えた。自動車はその国の科学技術の総合力が試される産業なのだ。

 喜一郎の持論は「技術はカネでは買えない」だ。個別の技術で優れたモノは海外から導入してもいいが、大きな技術の体系、産業のシステムは、自前で組み上げないと、決して定着しないという哲学だ。技術者・研究者を育て、関連の産業の振興も視野に入れてこそ、日本に自動車産業が根付くと考えていたのだ。1938年(昭和13年)、愛知県西加茂郡挙母(ころも)町(現在の豊田市)に、自動車専用工場が完成した。喜一郎はこのころから、必要なモノが必要な時に供給されるしくみについて「ジャスト・インタイム」という言い回しを盛んに使うようになったとされる。世界に冠たるトヨタの看板方式の哲学的な原初だ。

 独学で発明の才を磨いた父・豊田佐吉と異なり、喜一郎は旧制二高(現在の東北大)から東京帝国大の機械工学科を卒業した、当時日本屈指の機械技術者だった。豊田式自動織機発明者として教科書にも登場する喜一郎の父佐吉は一人一業を説いて、喜一郎に自動車づくりの道を歩ませた。そして喜一郎は、長男の章一郎(トヨタ自動車社長・会長)に、住宅産業への進出を勧めたといわれる。

(参考資料)日本経済新聞社「20世紀 日本の経済人 豊田喜一郎」、城山三郎「燃えるだけ燃えよ 本田宗一郎との100時間」

尾崎紅葉 明治の文豪は子規の革新性はなかったが俳壇の一方の雄

尾崎紅葉 明治の文豪は子規の革新性はなかったが俳壇の一方の雄だった

 『金色夜叉』で広く知られる尾崎紅葉は明治時代半ば、若くして文豪と仰がれた。その彼に作家とは別の顔がある。文学作品ほどには知られていないが、俳人としての顔だ。実は、彼は俳人としても一家を成す作者だった。ただ、井原西鶴崇拝の彼は、初期俳諧談林調の影響が尾を引き、同世代の正岡子規の革新性には欠けていた。しかし彼には、清新な作風の句も少なからずあり、明治俳壇の一方の雄だった。紅葉の生没年は1868(慶応3)~1903年(明治36年)。

 尾崎紅葉は江戸・芝中門前町(現在の東京都港区浜松町)で生まれた。本名は徳太郎。号は「縁山(えんざん)」「半可通人(はんかつうじん)」「十千万堂(とちまんどう)」などがある。帝国大学国文科卒中退。父は根付師の尾崎谷斎(惣蔵)、母は庸。

 徳太郎は1872年(明治5年)、4歳で母と死別し、母方の祖父母、荒木舜庵・せんのもとで育てられた。寺子屋・梅泉堂(現在の港区立御成門小学校)を経て府中学校(現在の日比谷高校)に進学。一期生で同級に幸田露伴、ほかに沢柳政太郎、狩野亨吉らがいた。だが、事情はよく分からないが、彼は中退した。その後、徳太郎は岡千仭の綏猷(かんゆう)堂で漢学、石川鴻斎の崇文館で漢詩文を学んだほか、三田英学校で英語などを学び、大学予備門入学を目指した。そして1883年(明治16年)東大予備門に入学。1885年(明治18年)、紅葉は山田美妙らと硯友社を設立し、「我楽多文庫」を発刊。『二人比丘尼色懺悔』で認められ、これが出世作となった。1890年(明治23年)、彼は学制改革により呼称が変わった帝国大学国文科を中退した。

 ただ、彼はこの前年末に大学在学中ながら読売新聞社に入社していた。これにより以後、紅葉の作品の重要な発表の舞台は読売新聞となった。『伽羅枕』(1890年)、『多情多恨』(1896年)などが同紙に掲載され、読者の間で高い人気を得た。その結果、幸田露伴と並称され、明治時代の文壇で重きを成した。このため、この時期は「紅露時代」とよばれた。紅葉は1897年(明治30年)から読売新聞に『金色夜叉』を連載開始し人気を博したが、病没で未完のままに終わった。泉鏡花、田山花袋、小栗風葉、柳川春葉、徳田秋声など優れた門下生がいる。

 冒頭にも述べた通り、紅葉には小説家ほどには知られていないが、俳人としての顔もあった。彼は、門下の小説家たちに句作りを指導し、句会を催す時には実に真剣に精進したという。俳句を作るときの観察力の訓練や、凝縮した表現法が、小説を作るうえでも大いに役立つと考えたかららしい。1895年(明治28年)、「秋声会」という俳句の会を結成し、指導したほど、俳句に熱心だった。秋声会のメンバーには泉鏡花(きょうか)、広津柳浪(りゅうろう)、川上眉山(びざん)その他小説の門弟たちがいた。

 最後に紅葉の句を紹介しておく。

 「春寒(しゅんかん)や日闌(た)けて美女の嗽(くちすす)ぐ」

 これは、彼の句の特徴の一つとされる艶麗な情緒の句だ。恐らく遊里の情景を歌ったものだろう。春は浅く、風はまだ肌寒い。早起きを怠った美女が、日もたけて起き出して嗽いでいる。

 もう一句、春の作品を紹介する。

 「鶯(うぐいす)の脛(すね)の寒さよ竹の中」

 庭先の竹の林にきている鶯。枝から枝へ飛び移る姿はいかにも春のものだが、その足がなんともきゃしゃで、寒そうだ-というものだ。普段なら気にもとめない鳥の「脛の寒さ」にふと気付いた風情の句で、春とはいえ、寒さが身にしみる日の一情景とみられる。

(参考資料)大岡 信「名句 歌ごよみ 春」

塙 保己一:数万冊の古文献を記憶し『群書類従』を 盲目の国学者

塙 保己一 数万冊の古文献を記憶し『群書類従』を編纂した盲目の国学者

 塙保己一(はなわほきいち)は、盲目ながら実に40年もの刻苦(こっく)研鑽の末、古典籍の集大成『群書類従(ぐんしょるいじゅう)』を編纂した江戸時代後期の国学者だ。彼は、盲目のために人が音読したものを暗記して学問を進めたのだが、実に数万冊の古文献を頭に記憶した驚異の人物だった。その学識の高さは幕府にも知られ、総検校(そうけんぎょう)となり、「和学講談所」に用いられた。

 塙保己一は、武蔵国児玉郡保木野村(現在の埼玉県本庄市児玉町保木野)の農家の長男として生まれた。父・荻野宇兵衛、母・きよ。幼名は寅之助、失明後に辰之助と改めた。また一時期、多聞房(たもんぼう)とも名乗った。雨富検校に入門してからは千弥(せんや)、保木野一(ほきのいち)、保己一と改名した。塙は師の雨富須賀一検校の本姓を用いたもの。弟・卯右衛門。塙保己一の生没年は1746(延享3)~1821年(文政4年)。子に幕末の国学者、塙次郎がいる。次郎は保己一の四男で、本名は忠宝(ただとみ)。次郎は通称。『続群書類従』『武家名目抄』『史料』などの編纂に携わった。次郎は1863年(文久2年)、伊藤博文、山尾庸三の2人に暗殺された。

 塙保己一こと荻野寅之助は、7歳のとき肝の病がもとで失明した。あるとき修験者に生まれ年と名前を変えることを勧められ、年を2つ引き、名を辰之助と変えた。だが、視力が戻ることはなかった。荻野辰之助は1760年(宝暦10年)、15歳のとき江戸へ出て盲人として修行。17歳で盲人の職業団体、当道座の雨富須賀一検校に入門し、名を千弥と改め、按摩、鍼、音曲などの修行を始めた。しかし、生来不器用で、いずれも上達しなかった。また、座頭金の取り立てがどうしてもできず、自殺しようとした。その直前で助けられた千弥は検校に学問への思いを告げたところ、3年間経っても見込みが立たなければ国許へ帰すという条件付きで認められた。

 保己一の学才に気付いた雨富検校は、彼に様々な学問を学ばせた。国学・和歌を荻原宗固(百花庵宗固)に、漢学・神道を川島貴林に、法律を山岡浚明に、医学を品川の東禅寺に、和歌を閑院宮にそれぞれまなんだ。書物を見ることができないので、人が音読したものを暗記して学問を進めた。1769年(明和6年)には晩年の賀茂真淵に入門、わずか半年だったが『六国史』を学んだ。1775年(安永4年)、衆分からこう当に進み、塙姓に改め、名も保己一と改めた。

 塙保己一は1779年(安永8年)、彼にとっては生涯をかけたライフワークとなる『群書類従』の出版を決意した。1783年(天明3年)、保己一は遂に検校となった。1784年(天明4年)、和歌を日野資枝(すけき)に学んだ。1785年(天明5年)には水戸・彰考館に招かれて『大日本史』の校正にも参画し、幕府からも学問的力量を認められた。そこで保己一は1793年(寛政5年)、幕府に土地拝借を願い出て、「和学講談所」を開設、会読を始めた。ここを拠点として記録や手紙に至るまで様々な資料を蒐集し、編纂したのが『群書類従』だ。また歴史史料の編纂にも力を入れていて、『史料』としてまとめられている。この『史料』編纂の事業は紆余曲折あったものの、東京大学史料編纂所に引き継がれ、現在も続けられている。

 1819年(文政2年)、保己一のライフワークとなっていた『群書類従』が完成した。保己一は74歳になっていた。出版を決意し、その作業に着手したのが1779年(安永8年)、34歳だったから、実に40年の歳月が経過していた。この時点で併行して進められていた『続 群書類従』は、自らの手で完成させられなかったが、彼がこの事業を推進したからこそ、わが国の貴重な古書籍が散逸から免れ、人々に利用されてきた意義は大きい。

 保己一はまた、既述の通り様々な師に学んだ和歌でも優れた資質を発揮した。

 「鴨のゐる みぎはのあしは 霜枯(しもが)れて 己(おの)が羽音ぞ 独り寒けき」

  保己一の和歌は新古今調で、華麗鮮明な影像に富み、とても盲目の人の作品とは思えない。

 盲人学者・塙保己一の名は海外にも知られているようで、「奇跡の人」ヘレン・ケラーは幼少時から「塙保己一を手本にしなさい」と両親から教育されたという。1937年(昭和12年)に来日した際も、彼女は保己一の記念館(生家)を訪れている。

(参考資料)大岡 信「名句 歌ごよみ 冬・新年」