歴史を味わう 万葉集
万葉集を味わう①<巻頭歌-早春の妻問(つまど)い>
一.雄略天皇
「籠(こ)もよ み籠持ち 掘串(ふくし)もよ み掘串持ち この岡に 菜摘ます子 家告(の)らせ 名告らさね そらみつ 大和の国は おしなべて 我れこそ居(お)れ しきなべて 我れこそ居れ 我れにこそは 告(の)らめ 家をも名をも」
歌意は、駕籠も、良い駕籠を持ち、掘串も、良い掘串を持ち、この丘で若菜を摘んでいる娘さん。家がどこか言いなさい、名前をいいなさいよ。この広い大和の国は、ことごとく私が従え、隅々まで私が治めているのだが、この私には教えてくれるでしょうね。あなたの家も名前も。籠は摘んだ若菜を入れる。掘串は土を掘るヘラ。
『万葉集』全20巻の巻頭の歌です。第二十一代・雄略天皇の作とされていますが、万葉の当時から約200年も前の天皇なので、実作ではなく伝承された歌謡と考えられます。古代、名にはそのものの霊魂が宿っていると考えられていました。だから、名告(なの)りは重要なことで、男が女の名を尋ねるのは求婚を意味し、女が名を明かすのは承諾を意味しました。
早春、娘たちが野山に出て若菜を摘み食べるのは、成人の儀式でもありました。草木が芽吹く春の訪れとともに、天皇の結婚は繁栄の象徴です。いかにも万葉らしい素朴で大らかなリズムは、巻頭を飾るにふさわしい生命力に満ちた歌です。
<新羅遠征の途上>
八.額田 王(ぬかたのおおきみ)
「熟田津に 船乗りせむと 月待てば 潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな」
歌意は、熟田津(にきたづ)で、船出しようと月の出を待っていると、潮もちょうどよく満ちてきた。さあ、漕ぎ出そう。
斉明天皇6年(660年)、日本と親交のあった朝鮮半島の百済から、新羅と唐が連携して侵攻したとの報がもたらされました。この百済の支援要請に応えて斉明女帝は船団を組み、新羅に遠征するため西へ向かったのです。この歌はその際、愛媛県松山市、現在の道後温泉あたりにあった熟田津にしばらく留まった後、出港するときの歌です。
皇太子・中大兄皇子(後の天智天皇)、大海人皇子(後の天武天皇)はじめ、大田皇女、鸕野讃良(うののさらら)皇女(後の持統天皇)らも同行した賑やかな旅で、額田王は一行の高揚した気持ちを代表するように歌い上げているのです。額田王は初期万葉随一の女流歌人で、彼女が斉明天皇になり代わって詠んだものと考えられています。月の出と潮流とは密接な関係があり、ともに船旅には重要な条件でした。
この船団は3月末、博多に到着しますが、4カ月後、斉明天皇はその地(朝倉橘広庭宮)で崩御。中大兄皇子は翌々年、朝鮮半島に軍を進めましたが、白村江(はくすきのえ)で大敗を喫してしまいます。
<近江京遷都に伴う三輪山との別れ>
一八.額田 王
「三輪山を しかも隠すか 雲だにも 心あらなも 隠さふべしや」
歌意は、懐かしい大和の国の三輪山をどうしてそのように隠すのか。せめて雲にだけでも思いやりがあってほしい。何度も振り返り、見たい山なのに、そのように雲が隠してよいものか。
この歌は、当時の皇太子・中大兄皇子が断行した近江遷都にあたって、額田王が詠んだ長歌に添えられた反歌です。額田王は恐らく、前夫・大海人皇子と別れ、中大兄皇子(後の天智天皇)に従って、飛鳥から山城を経て近江へと下ったのでしょう。しかも額田にとって朝夕見慣れた懐かしい三輪山との別れだったのです。
当時の飛鳥人にとって、三輪山は単なる山ではなく、山自体が大神(おおみわ)神社の御神体なのです。三輪の神大物主(おおものぬし)は蛇体で、篤く信仰されると同時に、しばしば祟りを及ぼすので怖れられてもいました。
都を遷すには、三輪山をはじめ大和の神々の心を鎮めなければならなかったのです。この歌の前の長歌には、大和を離れ、道の曲がり角ごとに、何度も振り返っては、三輪山を見て別れを惜しむさまが詠われています。
中大兄皇子の代わりに、額田王が大和の神々をなだめるよう仰せつかって詠んだものかも知れません。
<額田王と大海人皇子の贈答歌>
二〇.額田 王
「あかねさす 紫野(むらさきの)行き 標野(しめの)行き 野守(のもり)は見ずや 君が袖振る」
歌意は、美しい紫色を染め出す紫草の野を行き、立ち入りを禁じられた野を行き、野の番人が見るではありませんか、あなたが私にしきりに袖を振るのを。
二一.大海人皇子
「紫草(むらさき)の にほへる妹(いも)を 憎くあらば 人妻故に 我れ恋ひめやも」
歌意は、美しい紫草のように匂い立つあなたが憎いのなら、もう人妻なのに何で私が恋しいと思うだろうか。
天智天皇7年(668年)5月5日、近江大津の宮から一日の行程の蒲生野(がもうの)で、宮廷を挙げて薬狩りが行われました。薬狩りは、薬用の鹿の角袋や薬草を採る宮廷行事で、旧暦5月、夏の行楽でもありました。この贈答の歌は、今は天智天皇の後宮に入り近づくことのできない額田王に、かつての夫・大海人皇子が忍ぶ恋の心情を詠んだとみられます。
ただ、ここまで大胆に、あるいはおおっぴらに心のうちを詠い込んでいるのは、恐らく狩りの後の賑やかな宴席で、天智天皇、額田王、大海人皇子の3人の関係を知っている人たちを前に、宴席を大いに盛り上げるやりとりだったのでしょう。
このとき、大海人皇子は40歳ぐらい、額田王は35歳ぐらいで、当時としてはもうかなりの年配だったはずです。したたかにホンネとタテマエの使い分けができ、そうした状況を楽しむ余裕もあったでしょう。とはいえ、この贈答歌には単なる座興では片付けられない、心のゆらめきが感じられます。
「紫野」は紫草を栽培している野で、根から染料を取りました。「標野」は一般の人は立ち入れない野、袖を振るのは求愛のしるしです。「妹」は男性が妻や恋人を呼ぶ語です。
この贈答歌が交わされたときから、わずか3年後、天智天皇は崩御。翌672年、大海人皇子は吉野で挙兵、近江朝廷の大友皇子との間で、日本の古代史上最大の内乱「壬申の乱」が勃発するのです。
<初夏の香具山>
二八.持統天皇
「春過ぎて 夏来(きた)るらし 白妙の 衣干したり 天の香具山」
歌意は、巷ではもう春が過ぎて夏が来るらしい。天の香具山に真っ白な衣が干してあるから。
したたるような香具山の緑を背景に、目に痛いほど真っ白な衣、そして真っ青な空。初夏の日差しが眩しく降り注いでいるさまが鮮烈に感じられます。夏の到来に弾む気持ちを爽やかに捉えた一首です。
持統天皇は天武天皇の皇后で、天武天皇崩御後しばらく皇后のまま政治を執り、息子・草壁皇子を皇位に就かせようとしましたが、草壁が病没したため自ら即位しました。持統8年(694年)、都を藤原京に遷しました。藤原京は大和三山を近くに臨む地でした。
<近江荒都>
三〇.柿本人麻呂
「楽浪(ささなみ)の 志賀の唐崎 幸(さき)くあれど 大宮人の 舟待ちかねつ」
歌意は、ささなみの志賀の唐崎は、昔のまま変わらずにあるけれど、あのころ大宮人が遊んだ舟は、いくら待っても、再び見ることはできないのだ。
三一.柿本人麻呂
「楽浪の 志賀の大わだ 淀むとも 昔の人に またも逢はめやも」
歌意は、ささなみの志賀の大きな入り江の、湖水は昔のままに淀んでいるが、ここに舟を寄せた昔の人に再び逢うことは、もうできないのだ。
この二首は「近江の荒れたる都を過ぐる時に、柿本朝臣人麻呂(かきのもとのあそんひとまろ)が作る歌」という長歌に添えられた反歌です。
壬申の乱で近江大津の宮は焼亡しました。天智天皇が造営した近江朝の壮麗な宮殿が廃墟と化したことを、人麻呂は自然の姿は変わらないのにと嘆いたのです。「楽浪」は琵琶湖西南岸地方。「神楽浪」の略。「唐崎」は大津市の北、大津の宮があった琵琶湖岸。「幸くあれど」は無事に、の意から、そのまま変わらずにあるけれど。「大わだ(曲)」は川や湖の岸で、大きく湾曲した地形。
柿本人麻呂は『万葉集』を代表する歌人です。生没年未詳。天武・持統・文武天皇の三代に仕えました。役人としての位は高くなかったのですが、とりわけ持統朝に、公的な儀礼の歌を詠む、宮廷歌人として活躍したようです。皇子らの死を悼む挽歌や、行幸を寿ぐ歌などを格調高く詠い上げました。この時代、歌は口承から記載文学へと転換しました。『万葉集』には人麻呂作の長歌約20首、短歌60首余りが収められています。
<廃墟と化した近江大津宮を詠んだ歌>
三二.高市黒人
「古(いにしえ)の 人に我れあれや 楽浪(ささなみ)の 古き都を 見れば悲しき」
歌意は、私が、昔のあの大津の都ころの人だからか、いやそうではないのに、楽浪の古い都を見ると悲しい。
柿本人麻呂の歌と同様、廃墟となった近江大津の宮を悲しむ歌です。この歌の次に、都の荒廃を土地の神の心が荒れすさんだためだ-と詠んだ黒人の一首、
「楽浪の 国つ御神(みかみ)の うらさびて 荒れたる都 見れば悲しも」
(歌意は、近江京が荒廃したのは、土地の神の心が荒れすさんだためだ)があります。
<持統天皇の伊勢行幸>
四〇.柿本人麻呂
「鳴呼見(あみ)の浦に 舟乗りすらむ をとめらが 玉裳(たまも)の裾に 潮満つらむか」
歌意は、あみの浦にお供をして、舟遊びをしているだろう乙女たちの、美しい裳の裾に、いまごろは潮が満ちているのだろうか。 四一.柿本人麻呂 「釧(くしろ)着く 答志(とうし)の崎に 今日もかも 大宮人の 玉藻(たまも)刈るらむ」 歌意は、あの答志の崎で今日もまた、大宮人たちは美しい藻を刈っているのだろうか。
四二.柿本人麻呂
「潮騒に 伊良虞(いらご)の島辺 漕ぐ舟に 妹(いも)乗るらむか 荒き島廻(しまみ)を」
歌意は、潮流がざわめく今ごろ、伊良虞の島のあたりを漕ぐ舟に、愛しい人も乗っているのだろうか。あの波の荒い島のまわりを。
持統天皇の伊勢行幸の折、飛鳥浄御原の宮に留まった人麻呂が、お供をした人々の華やかな舟遊びの様子を思い描いて詠んだ連作です。
「をとめら」は持統天皇のお供をした若い女官たち。「玉裳」の「玉」は美称。「裳」は当時女官が着用していた長く裾をひくロングスカート。「釧着く」は釧(=腕輪)を付ける意で、手首の連想で「答志(=)手節」にかかる枕詞。玉藻を刈るのは海辺の遊び。「潮騒」は潮流による波のざわめき。「伊良虞」は伊良湖岬、もしくは神島。「島廻」は島のまわり。
この行幸は晩春の候、伊勢神宮参拝と舟遊びを兼ねたものだったようです。お供の女官の中には人麻呂の恋人がいたといわれます。 <軽皇子の安騎の野の狩り> 四八.柿本人麻呂 「東(ひむがし)の 野にかぎろひの 立つ見えて かへり見すれば 月かたぶきぬ」 歌意は、荒野の東方に茜色の曙光が射し、振り返ると西方に残月が傾いてかすかな光を放っている。 軽皇子(後の文武天皇)が冬、安騎(あき)の野で狩りをした時の長歌に添えられた、反歌四首のうちの三首目。軽皇子は草壁皇子の息子で、このとき10歳。草壁皇子は天武天皇と持統天皇の間の皇子ですが、皇太子のまま病没しました。その折、人麻呂は挽歌を詠んでいます。すでに父・草壁が亡くなって3年半が経過していました。草壁は生前、安騎の野で狩りをしており、いま軽皇子も父ゆかりの地で狩りをしているのです。 「東の」は軽皇子を曙の光にたとえ、草壁を沈みゆく月の光にたとえて追慕しているのです。冬の荒野の東西の果てに日と月を見る雄大な歌です。 <廃都・飛鳥浄御原に吹く風> 五一.志貴皇子 「采女の 袖吹きかへす 明日香風 都を遠み いたづらに吹く」 歌意は、采女の華やかな袖を翻していた明日香の風も、都が遷り遠くなったので、今はただ、空しく吹いている。 持統朝、藤原京に遷都して間もないころ、廃都・飛鳥浄御原に吹く風を詠んだ歌。遷都に伴って采女たちも飛鳥を去って、いまはただ茫漠とした風景があるだけというさまが脳裏に浮かんできます。 志貴皇子は天智天皇の第七皇子。近江朝の生き残りで、もはや中央から外れた立場にある彼は、懐かしさを覚えつつ、時の流れを意識して、旧都を訪ねたのでしょうか。 「采女」は天皇の食事など日常の雑役に奉仕した後宮の女官。地方の国々の郡の次官以上の娘で、容姿の美しい者が選ばれました。いわば服属の証として献上された選りすぐりの美女で、天皇以外は近づくことができない禁忌の女性でした。 <持統太上天皇の三河国行幸> 五八.高市黒人 「いづくにか 舟泊(ふなは)てすらむ 安礼の崎 漕ぎ廻(た)み行きし 棚なし小舟」 歌意は、安礼の崎を漕ぎ廻っていったあの棚なし小舟は、いまごろはいったいどこに泊まっているのだろう。 大宝2年(702年)10月、持統太上天皇が三河国(現在の愛知県東部)に行幸されたとき、お供した高市黒人が詠んだ歌です。夜、旅寝の床で、昼に見かけた、いかにも頼りない粗末な舟が、今夜はどこで舟泊まりしているのかを想う。それは、そのまま旅をする我が身の拠り所のなさ、不安定さを吐露した部分もあったのでしょう。「棚なし小舟」は船べりの横板もない、粗末な小舟。「廻(た)む」は巡る、の意。 <文武天皇の難波離宮への旅> 六四.志貴皇子 「葦辺行く 鴨のは羽交(はが)ひに 霜降りて 寒き夕は 大和し思ほゆ」 歌意は、葦の間を縫って泳いでいく鴨の羽に霜が降って、寒く冷え冷えする夜は、ふるさとの大和がしきりに想われます。 文武天皇(持統天皇の孫、軽皇子)にお供して、志貴皇子が難波離宮へ旅したときの歌です。難波の葦は古来から有名でした。「羽交ひ」は、鳥の背中で翼の先が交差する部分。 当時の暦で9月末から10月初め、晩秋から初冬にかけての旅でした。寒い時期のたびの夜は殊更に淋しい。鴨の羽に降る霜はいかにも冷たそうで、夜の底冷えが伝わってきます。そんなとき、ひたすら思われるのは故郷であり、残してきた家族、妻や子供のことでしょう。自分の帰りを待っている人を想うとき、胸の奥がぽっと温かくなるようです。 <磐姫(いわのひめ)伝説> 八五.磐姫皇后(いわひめのおおきさき) 「君が行き 日長くなりぬ 山尋ね 迎へか行かむ 待ちにか待たむ」 歌意は、あなたが行かれてから何日も経ってしまいました。山の中を尋ねてお迎えに行こうかしら、それともじっと待っていようかしら。 八六.磐姫皇后 「かくばかり 恋ひつつあらずば 高山の 岩根しまきて 死なましものを」 歌意は、こんなふうに恋い続けていないで、いっそ高い山の岩を枕に死んでしまいたいのに。 八七.磐姫皇后 「ありつつも 君をば待たむ うち靡(なび)く 我が黒髪に 霜の置くまでに」 歌意は、このままいつまでもあなたをお待ちしましよう。長くなびく私の黒髪が白くなるまで。 八八.磐姫皇后 「秋の田の 穂の上に霧(き)らふ 朝霞 いつへの方に 我が恋(こい)やまむ」 歌意は。秋の田の頭(こうべ)を垂れた稲穂の上に、重くわだかまっている朝霞…。私の恋心はいったいどこへ消えてゆくのでしょう…、とても消えていきそうにありません。 仁徳天皇の皇后、磐姫皇后の作と伝えられる4首です。「死なましものを」は、事実と違うことを仮想して、「~だったらよいのに、でも実際は違う」という意。「霜の置くまで」は白髪になるまで。「霧らう」は「霧(き)=霞が立ったり、霧がかかったりする」という動詞に反復の助動詞「ふ」が付いた形。古代、霞と霧は区別がありませんでした。 一首目では、思い切って迎えに行こうか、我慢して待っていようかという二つの気持ちがせめぎあっています。そして二首目で、いっそ死んだ方が増しだと激しく昂ぶる想いを露わにしています。しかし三首目では気持ちは静まって、ひたすら待とうと思い冷静さを取り戻しています。最後の歌は、それでも、この晴らしようもない気持ちをどうしたらいいのか、と重く垂れ込める霧に重ね合わせ表現しているのです。 『古事記』や『日本書紀』には、磐姫皇后はひどく嫉妬深い女性として描かれています。仁徳天皇が侍女や妃を宮殿に入れることを許さず、ふだんと違う気配があると地団駄を踏んで嫉妬したといいます。 <鏡女王の忍ぶ恋> 九二.鏡女王(かがみのおおきみ) 「秋山の 木の下隠り 行く水の 我れこそ増さめ 思ほすよりは」 歌意は、秋の山の木の落ち葉の下を、隠れてそっと流れてゆく水のように、あなたが私を想ってくださるよりは、表には見えないけれど私の方こそ、より深くお慕いしています。 散り敷いた落ち葉の下に流れる水は表面からは見えないけれど、次第に水かさを増していく。それと同じように私も人目を避けて忍ぶ恋をしているが、水の流れが途絶えないように想い続けています-という慎ましい恋心を詠っているのです。 この歌は天智天皇が、 (九一.天智天皇) 「妹(いも)が家も 継ぎて見ましを 大和なる 大島の嶺(ね) 家もあらましを」(愛しいあなたの家だけでも見続けることができたらなあ。大和の大島の高い嶺にあなたの家があれば、いつも見られていいのに)と詠んだのに答えた歌です。 鏡女王は額田王の姉、あるいは舒明天皇の皇女ともいわれています。初め天智天皇の室。しかし、天智天皇の心がだんだん離れていき、やがて史料によると、後に藤原鎌足が妻として賜ったという。 <雪の朝 天武天皇と藤原夫人の贈答> 一〇三.天武天皇 「我が里に 大雪降れり 大原の 古(ふ)りにし里に 降らまくは後」 歌意は、我が里(飛鳥浄御原)に雪が降ったぞ。お前の住んでいる大原の古びた里に降るのはずっと後のことだろう。 一〇四.藤原夫人 「我が岡の おかみに言ひて 降らしめし 雪のくだけし そこに散りけむ」 歌意は、あら、どういたしまして、こちらにもちゃんと降っていますよ。あなたのところに降った雪は、うちの岡の水神にお願いして降らせてもらった雪の砕けたかけらがそちらに降ったのでしょう。 天武天皇と藤原夫人の軽口の応酬といった趣の贈答歌です。二人が我が里、我が岡と言い合っていますが、飛鳥浄御原と大原は1キロも離れていないのです。その日、同じように雪が降ったということを、軽口で詠んだのです。 藤原夫人は藤原鎌足の娘、大原大刀自(おおはらのおおとじ)、別名・五百重娘(いおえのいらつめ)のことです。壬申の乱の後に、天武天皇の妃となり、新田部皇子をもうけました。天武天皇とは父と娘ほど年が離れていたようです。天武天皇の崩御後、異母兄の藤原不比等との間に麻呂をもうけました。