高木兼寛・・・海軍の脚気撲滅に尽力した最初の医学博士「ビタミンの父」

 高木兼寛は1880年代、海軍の脚気罹病者の増大で国防上の大問題となった際、その原因を突き止め、脚気の撲滅に尽力し「ビタミンの父」とも呼ばれる人物だ。明治・大正期の海軍軍医で、東京慈恵会医科大の前身を創設した。生没年は1849(嘉永2)~1920年(大正9年)。

 高木兼寛は日向国諸県郡穆佐郷(現在の宮崎県宮崎市、平成の大合併前の東諸県郡高岡町)で高木兼次の子として生まれた。兼寛(かねひろ)から「けんかん」とも呼ばれた。幼名は藤四郎。8歳から山中香山に漢学を学び、13歳のときに医学を志し、18歳で鹿児島に出て蘭医石神良策に師事した。明治元年、鹿児島九番隊付の20歳の軍医として戊辰の役に従軍。東北征討軍とともに遠く会津若松の戦場に赴いた。

しかし、この戦争に参加した兼寛は、医師として激しい衝撃を受けた。各藩の医者の大半は漢方医で治療が拙劣であり、それに比して西洋医学を身につけた軍医たちは豊かな医学知識と技術をもって治療にあたっていた。医師として無力であることを恥しく思った彼は、西洋医学を修めねばならないと思った。 
 
そして、細々と貯えておいた13両2分の金を懐に、再び鹿児島に戻って医学開成学校に入学した。ここで、彼はその後の人生を決定づける人物にめぐりあう。西郷隆盛の推薦で鹿児島へ校長として赴任してきたイギリス人医師ウイリアム・ウイリスだ。彼はこのウイリスに、イギリス医学と英語を教えられるとともに、その才能を認められイギリス留学を勧められた。

 1872年(明治5年)、海軍軍医となり、1875年(明治8年)イギリスへ留学。ロンドンのセント・トーマス病院医学校に入学し、1880年(明治13年)に同校を優秀な成績で卒業した。帰国後、海軍病院長、海軍省医務局長を歴任。1885年(明治18年)に海軍軍医総監、1888年(明治21年)にわが国最初の医学博士の一人となった。

 その間、兼寛は1881年(明治14年)に成医会を結成し「成医会講習所(東京慈恵会医科大の前身)」を創立、また1883年(明治16年)には「大日本私立衛生会」の創立にも加わった。
 高木兼寛の最大の功績は、脚気の原因究明および、その撲滅に尽力したことだ。1882年(明治15年)ころの海軍の脚気罹病者は1000人当たり400人にも達し、国防上の大問題となった。当時、脚気は細菌による伝染病と考えられていた。この学説の急先鋒が一等軍医森林太郎(鴎外)で、異説を唱える兼寛に痛烈な批判を浴びせかけていた。

これに対し兼寛は、ある種の栄養素の欠乏によるものと考え、食事にその原因があることを突き止め、海軍兵食の改善を図った。白米の中に大麦を混ぜた麦飯食で、脚気の発症を封じ込めるのに成功した。海軍が果たした役割の大きさを考えるとき、脚気撲滅作戦の成功は、日露戦争における日本海海戦の間接的な勝因の一つという評価もあるほど。

 やがて、明治44年、東大農学部の鈴木梅太郎によって動物の栄養上欠くことのできない成分としてオリザニンが発見され、ほとんど同時にポーランドの化学者フンクによって同様成分が得られ、それがビタミンの発見となった。そして、脚気病はビタミンB1の欠乏により起こることが分かった。つまり兼寛はビタミンの発見にまでは至らなかったが、実証的にその存在を暗示した医家だったのだ。イギリスのビタミン学界の第一人者レスリ・ハリスは世界の八大ビタミン学者を写真入りで紹介したが、その際、兼寛を二番目に取り上げ、彼の偉大な功績を称えている。

(参考資料)吉村昭「白い航跡」、吉村昭「日本医家伝」

前に戻る