後藤象二郎 幕府に大政奉還を建白した功績大だが、尻すぼみの人生

 後藤象二郎は幕末、土佐藩前藩主・山内容堂の信任を受けて、坂本龍馬が立案した新国家構想「船中八策」をもとに1867年10月3日、「大政奉還」を幕府に建白、土佐藩の存在感を示した。当時は薩長両藩が武力倒幕を画策しており、龍馬が考え出した、血を見ずに革命を実現させる大政奉還は、薩長両藩を出し抜く、まさに妙案だった。将軍慶喜は同年10月13日、諸藩の重臣に大政奉還を諮問、翌日朝廷に奏上し、ここに徳川幕府による政治が終わりを告げたのだ。

ここに取り上げる後藤象二郎は、その新しい歴史の一ページを開く突破口をつくったわけだ。
 後藤象二郎は土佐藩の上士、馬廻格・後藤助右衛門(150石)の長男として、高知城下片町に生まれた。諱は元曄(もとはる)。象二郎は通称、幼名・保弥太、のち良輔。雅号は暢谷。幼いときに父と死別、少年期に叔父(姉婿)の吉田東洋に養育され、その小林塾で学んだ。後藤の生没年は1838(天保9)~1897年(明治30年)。

 1858年(安政5年)、後藤は東洋の推挙により、幡多郡奉行、1861年(文久元年)には御近習目付、その後は普請奉行として活躍する。ところが、出世の道筋をつけてくれた東洋が、土佐勤王党に暗殺されると失脚。しかし1863年(文久3年)、藩政に復帰し、前藩主・山内容堂の信頼を得るとともに、江戸の開成所で蘭学や航海術、英学も学んだ。1864年(元治元年)、大監察に就任した。こうして後藤は、公武合体派の急先鋒として、土佐勤王党の盟主、武市半平太(武市瑞山)らを切腹させるなど、土佐勤王党を弾圧した。
 1867年(慶応3年)、政治姿勢を攘夷論に転換。尊皇派の坂本龍馬と会談し、龍馬の提案とされる「船中八策」に基づき、第十五代将軍・徳川慶喜の大政奉還を提議。これを山内容堂にまで上げ土佐藩の藩論とし、あの歴史的役割を演じることになるのだ。

 後藤の生涯を語るとき、やはり一際、異彩を放っているのがこの時期だ。この時期の土佐藩や国政に関わった功績だ。後藤が龍馬の大政奉還策を容堂に進言し、藩論として仕上げ、大政奉還の実現に寄与したことは紛れもない事実だ。ただ、彼はこの大政奉還策が龍馬の発案である旨を述べなかったことから、龍馬の功績を横取りしたという汚名を被っている部分もある。

しかし、後藤の立場に立って考えると、度し難い身分格差のある土佐藩にあって、下士出身で、脱藩罪まで犯している龍馬より、上士の自分の名で提議した方が、容堂も取り上げ、この策を実現しやすいと考えたのではないか。とすると、後藤が龍馬や容堂、慶喜のパイプ役を担って、明治維新への原動力となった点を考慮すれば、十分評価に値する。
 後藤は維新後、政府に入り参与・外務掛・工部大輔・参議を歴任するが、征韓論をめぐる政変で西郷隆盛、板垣退助らとともに退官。翌年、板垣と民選議院設立を建白し、憲政史上に一期を画した。その後、黒田清隆内閣、第一次山県有朋内閣、第一次松方正義内閣で第二代逓信大臣を、そして1892年、第二次伊藤博文内閣で第十代農商務大臣を務めた際に、取引所設置問題に不正ありとされ、弾劾された。

以降は再起の機会に恵まれなかった。自由民権運動や実業界へ転身しても、幕末期のあの“輝き”は完全に失ってしまっているのだ。とにかく活動に一貫性がない。とくに自由民権運動では政府の買収に応じるなど、自由民権運動の活動家を何度も失望させ、彼の評価を下げる一因となっている。
奈良本辰也氏は後藤について、終始策士としてあり続けた男で、生涯を通じて醜聞がつきまとい、第一級の政治家として終わりを全うすることはできなかった。凄腕、切れ者の評価は勝ち得たけれど、大看板にはなれなかった-としている。

もちろん、後藤に限らず維新の元勲たちに中にはカネにルーズで、ダーティなイメージの持たれている人物も少なくない。だが、彼が維新後、岩崎弥太郎への利益供与と同等の、不明朗な仕置きなどを含め、そうした部分を差し引いても特筆される事績を残せなかったからなのか、いわゆる“尻すぼみ”の印象は拭えない。このため維新の元勲の中では知名度も低く、評価も高くない。徳川慶喜に大政奉還を建白したときのあの“熱”や“覇気”はどこへいったのか。惜しい気がする。

(参考資料)奈良本辰也「日本史の参謀たち」、司馬遼太郎「歴史の中の日本」、豊田穣「西郷従道」

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