堅塩媛 欽明天皇の后となり用明・推古天皇の母となり蘇我氏隆盛に貢献

堅塩媛 欽明天皇の后となり用明・推古天皇の母となり蘇我氏隆盛に貢献

 堅塩媛(きたしひめ)は蘇我稲目の娘で、第二十九代・欽明天皇の妃となって、後の第三十一代・用明天皇、第三十三代・推古天皇の2人の天皇の母となるなど皇子7人、皇女6人の計13人の子供を産み、強力な閨閥により大和朝廷における蘇我氏の勢力拡大・隆盛に大きく貢献。その大王家・皇族との血脈により、さながら“蘇我王朝”とも評された当時の、文字通り産みの親だ。

 堅塩媛は飛鳥時代、大和朝廷の実権を掌握、大豪族の頂点に立った蘇我氏の総帥・蘇我馬子の姉だ。百済渡来人の総領として、大和政権・国家の財政を仕切った蘇我氏の巨大な権力の基盤は、冒頭で述べた通り、この女性、堅塩媛によって築かれたといえる。まさに、日本古代史における蘇我氏の繁栄を約束付けた存在だった。

    蘇我氏が政治の実権を掌握した後、彼女は「大后」や「皇太夫人」という称号で呼ばれたといわれる。彼女の生没年は不詳。多くの皇子・皇女を産んだだけに、それほど長く生きたとは思えない。529年(継体23年)ごろに生まれ、572~585年ごろ没したとみられる。45年から58年の人生だったと思われる。

 堅塩媛は橘豊日大兄皇子(たちばなのとよひのおおえのみこ、後の用明天皇)、磐隈皇女、●嘴鳥皇子、豊御食炊屋姫尊(とよみけかしきやひめ、後の推古天皇)、椀子(まろこ)皇子、大宅(おおやけ)皇女、石上部(いそのかみべ)皇子、山背(やましろ)皇子、大伴皇女、桜井皇子、肩野皇女、橘本稚(たちばなのもののわか)皇子、舎人皇子(当麻皇子夫人)の7皇子・6皇女合わせて13人の子をもうけた。

 『日本書紀』は、堅塩媛の名前をわざわざ「きたしひめ」と詠むように注釈を入れている。「きたしひめ」とは、汚い、醜いに通じる、ひどい名前で、その名の由来は悲しいものだ。それは、後世の人たちが蘇我家につけたあだ名ともとれるのだ。「きたし」は後に天智天皇となった皇太子・中大兄皇子の最初の夫人、蘇我造媛(そがのみやっこひめ)の、父の、そして一族の死にまつわる、おぞましい記憶に由来するものだと紹介されている。

 中大兄皇子と中臣鎌足、そして蘇我倉山田石川麻呂らによる「乙巳の変」で、専横を極めた蘇我蝦夷・入鹿の蘇我本宗家を滅ぼし、大化の改新が断行。孝徳天皇の御世、中大兄皇子の妃・蘇我造媛が、謀反を計ったとの嫌疑で父・蘇我倉山田石川麻呂が「物部二田作塩」に斬られたと聞いて、心を傷つけられ、悲しみもだえた。このため造媛は「塩」の名を聞くことさえ忌み嫌い、彼女に近侍する者は塩の名を口にすることを避け、改めて堅塩(きたし)といった。造媛は、あまりに心に深い傷を負って、遂に亡くなった。

(参考資料)笠原英彦「歴代天皇総覧」、黒岩重吾「古代史への旅」、黒岩 重吾「北風に起つ 継体戦争と蘇我稲目」、神 一行編「飛鳥時代の謎」、永井路子「冬の夜、じいの物語」、井沢元彦「逆説の日本史②古代怨霊編」

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