井伊直弼・・・ 視点は幕府のみで、日本の将来見据える視点に欠けた超保守派

 井伊直弼といえば「安政の大獄」で、吉田松陰、橋本左内、頼三樹三郎など将来日本の様々な分野で名を成したであろう、多くの有為の人材を罪に陥れ、処断した“極めつきの悪役”というイメージが強い。だが、果たして彼は本当に根っからの悪人だったのか?

 井伊直弼は近江彦根藩第十一代藩主井伊直中の十四男。幼名は鉄之助、鉄三郎。字は応卿、号は埋木舎・柳王舎・宗観。本来なら他家に養子にいく身だったが、庶子だったため養子の口もなく17~32歳までの15年間を300俵の捨扶持の部屋住みとして過ごした。1846年(弘化3年)、第14代藩主で兄の直亮の世子だった井伊直元(直中の十一男、これも兄にあたる)が死去したため、兄の養子という形で彦根藩の後継者に決定した。1850年(嘉永3年)直亮の死去により家督を継いで第15代藩主となり掃部守(かもんのかみ)に遷任する。

 直弼は1858年(安政5年)、幕府の大老に就任すると、孝明天皇の勅許なしで米国と日米修好通商条約を調印し、無断調印の責任を配下の堀田正睦、松平忠固に着せ、両名を閣外へ放遂した。また、違勅調印を断行した直弼らの責任を問うため、大挙して江戸城に登城した越前藩主松平慶永、水戸藩前藩主徳川斉昭、水戸藩主徳川慶篤、尾張藩主徳川慶勝、一橋慶喜らを、逆に大弾圧に乗り出した。いわゆる「安政の大獄」の始まりだ。弾圧の嵐は止まるところを知らず、反井伊派の公家、幕臣、藩士らに及んだ。吉田松陰、橋本左内、頼三樹三郎らは死罪、近衛忠煕は辞官に、公卿だけでも90数人を処罰した。

また、十三代将軍家定の後継問題では、直弼は紀州藩主の慶福(よしとみ)を擁立し、第十四代将軍家茂を誕生させたが、対立した一橋派の徳川斉昭、松平慶永、徳川慶勝、一橋慶喜、宇和島藩主伊達宗城、土佐藩主山内豊信らを、違勅調印を唱えたことをからめて永蟄居や隠居などに処罰した。このほか川路聖謨、水野忠徳、岩瀬忠震、永井尚志らの有能な吏僚らを左遷した。

 通商条約の違勅調印に続く安政の大獄は、尊皇攘夷派の反発、憤激を呼び1860年、大老井伊直弼は桜田門外で脱藩した水戸浪士ら総勢18人による襲撃で暗殺された。この日、3月3日朝、夜通しの雪が降りしきっていた。そのため、井伊家の120人余の供方は、いずれも菅笠に桐油合羽(とうゆかっぱ)といういでたちで、刀には柄袋をかけていた。不意の事件で、身支度も整わず斬られた者も多い。
井伊家の届け出には、井伊大老は負傷ということにして、子・愛麿が家督を相続し三十九代掃部頭直憲となった後、病死として処理された。ありのままに発表すれば、井伊家改易は幕府従来の規律だからだ。この「桜田門外の変」を境に、幕府の権威はかげりを帯びるようになる。この事件は白昼、お膝元、江戸城の間近で幕府最高の権力者が惨殺されたものだっただけに、世間に大きなショックを与えた。

 幕閣でこれだけの強権・独裁・恐怖政治を断行した井伊直弼だが、これは、あくまでも大老という職責を担う公人として、“徳川幕府の威信”を守るためにやったことだった。だが、この時代、求められていたのはもう少し俯瞰で、日本の将来にとってどうあるべきかを考え、行動できる人物だったのだろう。ところが、現実に幕閣を担った井伊直弼は、そうした視点に欠けた、超保守的な人物だったのではないだろうか。

 井伊直弼は、彦根藩主時代は藩政改革を行い名君と呼ばれた。彼は部屋住み時代、長野主膳と師弟関係を結んで国学を学び、自らを咲くことのない埋もれ木にたとえて「埋木舎(うもれぎのや)」と名付けた住まいで世捨て人のように暮らした。この頃、熱心に茶道(石州流)を学んでおり、茶人として大成する。そのほかにも和歌や鼓、禅、槍術、居合術を学ぶなど聡明さを早くから示していた。したがって、彼は幕末・安政年間、幕閣に大老として登場して、その時代の幕府側にとって求められた“役割”を粛々と実践したに過ぎないのかも知れない。それだけに忌まわしい「安政の大獄」「桜田門外の変」に直結した井伊直弼の極端な“悪役”イメージを、彼自身はちょっと心外に思っているのかも知れない。

(参考資料)吉村昭「桜田門外の変」、松本清張・奈良本辰也「日本史探訪/開国か攘夷か」、奈良本辰也「不惜身命 如何に死すべきか」、奈良本辰也「歴史に学ぶ」、立原正秋「雪の朝」、平尾道雄「維新暗殺秘録」、白石一郎「江戸人物伝」

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