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歴史検証『If』

「歴史に『I f 』はない」。よくいわれる言葉です。が、その「I f」があったら、その後の歴史は大きく変わっていたのではないか-というケースは決して少なくありません。いや、かなり多いといった方が的を射ているかも知れません。そんなケースをこれから一つひとつ見ていきたいと思います。

『If』①「石田三成があれだけ武功派に嫌われていなかったら」 ▼

豊臣政権下では「武功派」と「文治派」の争いが生まれていました。むろん、秀吉がまだ健在だったころのことです。直接の争いは、秀吉の朝鮮出兵時に起こりました。朝鮮に渡った諸大名の監察を行うために、石田三成が派遣されました。

三成の軽率な報告が招いた、その後の歴史をを左右した”禍根”
このとき福島正則、黒田長政、細川忠興、加藤清正たちは心を合わせて戦闘に従っていましたが、ある日、小康を得、たまたま碁か将棋を打っていました。その光景を、監察に来た三成が目撃、秀吉に報告しました。秀吉は怒って、諸将に引き揚げを命じたのです。このことが遺恨として残りました。前線で苦労していた諸将は、たまたま三成がやってきたときに将棋を打っていただけで、長い間のわずかな安らぎに過ぎない。それを三成は誇大に報告した-と一致して三成を恨んだのです。

「三成憎し」なければ、東軍・西軍の勢力図は大きく変わっていた
石田三成は近江(滋賀県)出身の文治派です。武功派の大名は三成を「算盤勘定と悪知恵だけで出世した奴」と軽蔑していました。ですから、三成とのこれほどの対立がなければ、これらの大名も果たして初めから徳川家康に味方したかどうか、全く分かりません。
関ヶ原の合戦で、豊臣恩顧の大名で、ひたすら「三成憎し」の思いから徳川家康に味方した人物は相当多かったのです。福島正則や加藤清正ら有力大名がそうでした。ですから、三成がそこまで武功派に嫌われていなかったら、東軍・西軍の勢力図は相当変わってしまい、様子見をしていた西軍の大名たちの戦への臨み方をも含め、勝敗の行方も分からなかったのです

『If 』②「豊臣秀頼が関ヶ原の合戦場に立っていたら」 ▼
豊臣政権下の武功派大名の、豊臣秀頼の父・秀吉に対する恩は極めて深いものがありました。そのため秀吉が亡くなった後も、これら武功派大名が秀吉の妻、北政所(ねね)のもとへ相談に出向く者も少なくなかったのです。

豊臣家滅亡は関ヶ原の戦いで秀吉恩顧の大名を味方にできなかったためそれだけに、豊臣秀頼が大坂城から出て来て関ヶ原の合戦場に立っていたら、これらの大名はくるりと向きを変えて、秀頼のもとに駆け付けたのではないでしょうか。福島正則、加藤清正、黒田長政などはとくにそうです。そんな、秀吉恩顧の大名たちをつなぎとめ、味方にできなかったことが、豊臣
家の敗北、そして滅亡に追い込まれていくのです。
黒田長政は、小さいときに織田信長の人質となりました。父・黒田如水の行動が曖昧だったため、怒った信長が秀吉に「人質を殺せ」と命じたことがありました。が、秀吉は「そうします」といいながら、そうしなかったのです。長政の命を助けたわけです。したがって、長政にすれば豊臣秀吉は命の恩人なのです。

秀頼が戦場に赴かなかったことが、敵方の豊臣恩顧の大名を助けたその意味では、秀頼が大坂城から出なかったことは、この合戦の勝敗を決めた上で大きな役割を果たしたといえるでしょう。徳川家康にとっては実に幸運でした。周知の通り、小早川秀秋の裏切りもありましたが、それだけではありません。むしろ、この秀頼不出場の方が、影響が大きかったといえるのではないでしょうか。彼らは戦場で、敵方に恩ある太閤の遺児・秀頼の姿を見たら、とても討伐に向かえなかったことでしょう。

最後まで豊臣恩顧の大名を信用しなかった家康

それだけに、家康もこの豊臣系大名たちが、自分の味方をしても心の底からは信じませんでした。「何かあれば、彼らは必ず裏切る」と警戒していたといわれています。とくに福島正則や加藤清正に対してはその思いを深めていました。が、どうしたわけか加藤清正は、大坂の陣の前に急死しています。「徳川家康に毒饅頭を食わされた」という噂がとんだほど、彼の死に方は不自然でした。

関ヶ原の功績で120万石の大封得た福島正則は秀忠の代に改易に
福島正則は関ヶ原の合戦の功績で、毛利氏の拠点だった広島城を与えられ、120万石もの大封を得ました。ところが、家康が亡くなり、秀忠の代になって改易されてしまいました。徳川政権が安定したいま、警戒しながら大封を与えておく必要がない。「もう御用済み」というわけだ。不満があるならいつでも相手になるぞ-と威嚇されているにも等しい対応でした。
そして福島正則は辛うじて家名を残され、信州(長野県)川中島でわずかな俸禄をもらう存在にまでおとしめられてしまったのです。正則も、自分がここまで徳川将軍家に警戒され、信用されていないのだということを思い知ったことでしょう。

『If 』③「蒲生氏郷が会津へ移封していなかったら」 ▼
あまり知られていないことですが、天下人になった豊臣秀吉が最も恐れていたのが蒲生氏郷(がもううじさと)です。なぜなら氏郷は織田信長子飼いの直臣だったからです。

信長のもとで子飼いの直臣として育った氏郷
氏郷は近江国(滋賀県)日野城主だった蒲生賢秀(かたひで)の息子です。賢秀は地方豪族にしては先見の明があり、それまで佐々木源氏系の六角氏に仕えていましたが、これからは織田信長の時代になると見抜き、そこで密かに使いを出し、従属を誓いました。
信長にはそういう豪族がたくさんいたので、すべて人質を取っていました。賢秀も息子の氏郷を岐阜城に人質に出しました。岐阜城には当時100人余りの同じような少年がいたといいます。しかし、信長はその中から氏郷に目を向けていました。というのは、氏郷が非常に賢く、今日風に表現すれば“経営感覚”を持っていたからです。

楽市・楽座での”規制緩和”など信長の都市経営を学んだ氏郷

信長は、今後の大名はすべて領国経営に算盤勘定をいれなければいけないと考えていました。また、岐阜の城下町で展開した楽市・楽座で、単に呼び集めた商工業者の負担減だけではなく、今でいう“規制緩和”を積極的に
行いました。撰銭令の発布、道路を整備し物流ルートを設定したほか、関所や船番所の撤廃なども行いました。
こうした信長の新しい都市経営に、蒲生氏郷少年は目を向け、同時に信長の理念を自分のものとして体得していきました。そこで信長は人質の中でも氏郷は非常に期待できると考え、自分の娘を氏郷の嫁にしました。したがって、蒲生氏郷は信長の婿なのです。

信長の娘婿・氏郷を警戒し、会津に移封した天下人・秀吉
豊臣秀吉は巧妙な政略によって天下人の座を占めましたが、内心では若いながら人使いがうまく、人望もあるこの氏郷を恐れていました。そこで、秀吉は「伊達政宗は油断できない。これを抑えられるのはあなただけだ」とうまい名目を付け、思い切って氏郷を会津に移封しました。近畿・東海地区から何とか、危険な氏郷を遠ざけ、伊達政宗を抑える駒として使う“一石二鳥”の妙案だったのです。

会津移封で天下取りを断念した氏郷
この異動命令を受けた氏郷は、秀吉の巧みな意図をくみ取り、会津で大禄を得たにもかかわらず、「会津に行ったのでは、もはや天下の座は得られない。それが悲しい」と家臣に語り、さめざめと涙を流したと伝えられています。このことからも分かるとおり、一般にはほとんど知られていないことですが、実は氏郷にも天下取りの野望があったということです。
氏郷が近畿もしくは東海地区にとどまっていたら、“信長の婿”の立場を最大限に活かし、天下人はともかく、豊臣政権から徳川政権へ移行する過程で、少なくとも後世に残る様々な影響力を行使していたのではないでしょうか。

利休の死後、千家の息子を匿った秀郷
千利休の不慮の死の後、千家の息子たちはそれぞれ諸国に散っていきました。その一人を匿ったのが蒲生氏郷でした。秀吉は当然そのことを知っていました。現在、会津若松市にはこの千家の息子の匿われた家が、歴史的遺産として保存されています。

氏郷急死に、秀吉による毒殺説も
氏郷のこういう行為を秀吉は気に入りません。秀吉にすれば、氏郷はいぜんとして信長公の婿という誇りを持ち、自分(秀吉)に心から臣従していない。対抗心を持ち続けていると受け取ります。やがて、氏郷は京都に呼び戻され、そして急死するのです。世間では「蒲生氏郷は秀吉に毒殺された」と噂されました。

『If 』④「足利尊氏が鎌倉で幕府を開設していたら」 ▼
足利尊氏が幕府を鎌倉に置いていたら、足利氏による幕府政治も随分、様
相の異なったものになっていたでしょう。

南朝勢力の帰趨を大きく左右した幕府設置場所
まず後醍醐天皇率いる吉野の南朝勢力が勢いを盛り返していたのは間違い
ないところです。楠木正成や新田義貞など後醍醐天皇の軍事勢力がそれまで
とは違った攻勢にでることも十分考えられます。それに伴って、南朝方に付
く勢力も出てきていたはずです。
ただ、それには、天皇親政のスローガン一点張りではなく、武家に対する
論功行賞も約束する姿勢を打ち出すことが必要だったでしょうが。
九州で勢力を挽回した尊氏は1336年(建武3年、延元元年)4月、上洛行
動を開始し、5月、楠木正成を大将とする建武政府軍を湊川の戦いで破り、
6月には再び入京に成功。そして、重要なのはこのとき、尊氏が光明天皇を
擁立した点です。一方、吉野に逃れた後醍醐天皇も「自分こそが正統の天皇
である」と主張したため、ここに北朝と南朝の二つが並立する60年にわたる
南北朝の争乱が始まることになったのです。

尊氏は「鎌倉」か「京都」か、幕府開設場所を諮問
尊氏は1338年(暦応元年、延元3年)8月に待望の征夷大将軍に任命され
ました。将軍になれば、当然、幕府をどこに置くかという問題が、にわかに
クローズアップされることになりました。候補として挙げられたのは鎌倉と
京都です。源頼朝以来の武家政権の伝統から考えると、鎌倉ということにな
るでしょう。それが、京都に決められたのはどうしてなのでしょう。
この問題を考えていくうえでヒントになるのが、1336年11月7日に制定され
た「建武式目」です。これは全文17カ条からなる尊氏による成文化した施政
方針というべきものですが、その冒頭に、幕府をそれまで通り鎌倉に置いた
方がいいか、他所(京都)に置いた方がいいか諮問した一文があります。
尊氏関係者の間でも意見が分かれていたことが分かります。上層武士たちの
多くは、鎌倉にそれぞれの屋敷を持っていたため鎌倉に幕府を置くことを主
張したでしょう。尊氏の弟・直義(ただよし)は「建武の新政」のときも
鎌倉の守りについていたので、鎌倉を主張したのではないでしょうか。

南朝勢力を牽制するため尊氏が「京都」に決断
ところが、鎌倉主流と思われた情勢の中で、尊氏本人は鎌倉より京都の方
がよいと考えていたようです。一つは軍事的に、幕府を鎌倉に置くと、吉野
にいる南朝勢力が勢いを盛り返してくる可能性があるためです。吉野の動き
を牽制するためには、幕府は京都に置かなければならないという論法です。
そしていま一つは政治的な理由で、「国家行政権を握るには、国家の中央に
位置する必要がある」という考え方です。鎌倉にいて朝廷をリモートコント
ロールするのは大変です。それで京都に幕府を置いて直接的にコントロール
しようとしたのではないでしょうか。

鎌倉に幕府を置いていたら南朝の御所奪還の動きは強くなっていた
もし、尊氏が周囲の意見に押されて鎌倉に幕府を置いていたら、後醍醐天
皇の配下の者たちが暗躍し、その京・御所奪還への動きは活発になっていた
でしょう。後醍醐天皇はかなり自己中心的な人物だったという印象は強いの
ですが、よくいえば「強烈な個性でぐいぐい引っ張って行った」ということ
です。賢明な判断に基づいて京都に幕府を置いた尊氏が京にいたにもかかわ
らず、後醍醐天皇はあれだけ粘り強く戦い続けたのですから。

『I f 』⑤「乙巳の変で蘇我入鹿が殺害されていなかったら」 ▼

蘇我入鹿は周知の通り、皇極女帝の時代、「乙巳(いっし)の変」で暗殺
され、それが大化の改新の口火となります。そして、蘇我本宗家が滅びます。
しかし、もしここで蘇我入鹿が殺害されず、この難を逃れていたら、彼は最
終的に大王位の禅譲を受けていたかも知れません。

学識者で大陸の情勢にも明るかった入鹿
蘇我入鹿は開明的な人物で、学識も備えていました。遣隋使として中国に
渡り、隋・唐と24年間にわたって留学していた僧・旻(みん)は帰国後、学
問所、講堂を開いています。その講堂に入鹿も中大兄皇子、中臣鎌足も通っ
ています。その僧・旻が「わが講堂に入る者で、宗我(蘇我)大郎(=そが
のたいろう)より優れた者はいない」と伝えています。

入鹿は禅譲制で大王位に就くことを考えていた?
通説では、入鹿は大王になることまでは考えていなかったといわれている
のですが、彼は相当な学識者で大陸の政治情勢や文化に明るい人物でした。
ですから、蘇我本宗家の権勢を永続させるためにも、大王位に就くことを考
えたはずです。
入鹿が狙いとしたその方法が、中国帰りの学問僧たちによってもたらされ
た禅譲制という制度です。入鹿は、祖父・蘇我馬子の娘が舒明天皇の妃にな
って産んだ古人(ふるひと)大兄皇子を大王にして、その大王から位を禅譲
させるという方法を考えていたようです。実はこれは、隋・唐で行われた方
法なのです。

いくつもある、入鹿が大王位を意識していた傍証
蘇我入鹿が大王位を意識していた傍証は実はいくつもあるのです。『日本
書紀』によると、入鹿の父・蝦夷が葛城の高宮で、中国の天子にのみ許され
る「八佾(やつら)の舞い」を行ったり、今来(いまき)に双墓をつくって、
これを「大陵・小陵」と呼ばせ、大きい方を自分の、小さい方を息子の入鹿
の墓と定めたとも書かれています。
それから、645年には甘橿(あまかし)丘に巨大な屋形を建て、蝦夷の家を
「上の宮門(みかど)」、入鹿の家を「谷(はざま)の宮門」と呼ばせ、
子供たちを王子(みこ)と呼ばせています。これらはすべて入鹿の発案で、
彼が父の蝦夷を説得して行ったことなのです。中国では禅譲の前に権力者
が皇帝と同じようなことをするのです。

最大の豪族の家に生まれたエリートの弱さが、野望を未達に終わらせた
ここまで準備しながら、入鹿の野望はなぜ成就しなかったのでしょうか。
それは入鹿が最大の豪族の家柄に生まれたエリートで、人間の苦界を見ない
で育った点にあるのではないでしょうか。「乙巳の変」の主導者の一人、
中臣鎌足などは地を這うようにして育ち、そこからのし上がってきた人物で
す。そんな鎌足に比べると、やはり入鹿には性格の甘さが感じられます。
入鹿の野望(=大王位)を真っ先に見抜いたのは恐らくこの鎌足でしょう。

歴史検証シリーズ『Why』Ⅰ

「家康はなぜ、将来の拠点として何もない江戸を選んだのか?」 ▼

 実は当初、徳川家康は江戸に居城を構えるつもりはありませんでした。周知の通り、家康に江戸を拠点とするよう命じたのは豊臣秀吉でした。秀吉は天下人となっても、最大のライバルとして警戒していたのが家康の存在で、その家康を京・大坂からできるだけ遠ざけるための策略だったともみられています。

家康は入府後の江戸開発の青写真を描いたうえで決断
 ただ、家康のこの国替え、秀吉に全面的に屈服して受け容れたというより、天下獲りの野望を胸に秘め、入府後の江戸開発の青写真を描いたうえで決断したのではないかとの見方があります。というのは、1590年(天正19年)小田原攻めの最中、すでに家康は家臣を江戸に派遣し、詳細な実地調査をさせていたといいます。
 家康の伝記『武徳編年集成(ぶとくへんねんしゅうせい)』(1740年)によると、1590年(天正19年)7月5日の小田原城陥落に先立って、家康は5月に秀吉から関東への転封(てんぽう)の打診を受けていたといいます。そして6月には、拠点を江戸とすることを約束していたと記されています。

ゼロからの町づくりに家臣たちはこぞって不満もらす
 しかし、この転封に対し、家康の家臣たちは大きな不満をもらしました。駿府や小田原に比べ、より京から離れた辺境の地へ国替えになるのですから当然でしょう。だが、家康は家臣たちをなだめ、北条氏滅亡後、東海5カ国を治めていた家康は、関東7カ国(伊豆・相模・武蔵・上総・下総・上野・下野の一部)への国替えに素直に応じました。そして、自らの居城を江戸に置くことになります。
 とはいえ、歴史と文化があり、ある程度発展をみせていた小田原や鎌倉を拠点とすることと比べると、江戸入府は格段にマイナスからのスタートだったことは確かです。辺境の、東国のさびれた農村・江戸での、ゼロからの町づくりは、次代の覇権を目指す戦国武将にとって大きなハンディだったといえます。

朝廷、豊臣政権の影響を受けにくく発展の可能性秘めた江戸に賭ける
 だが逆に言えば、これは朝廷や豊臣政権の影響を受けにくい新たな土地で、自由に町づくりができるというメリットにもつながります。江戸の背後に広がる広大な関東平野も、発展の可能性を秘めた魅力的なものでした。

江戸は「海運の拠点、交通の要衝地」を認識していた家康
 また、意外に知られていないことですが、江戸は昔から海運の拠点となっていたのです。江戸は西から運ばれてきた物資が荷揚げされる海の玄関口でした。家康が入る以前は、北関東と南関東の対立があまりに激しく世情が不安定だったため、江戸で政権を樹立するほどの武将が現われなかったのです。
 ところが、2度にわたる朝鮮出兵などで豊臣政権が疲弊していく中で、家康は着々と関東で力を蓄え、周知の通り天下分け目の関ヶ原の戦い(1600年)で大勝利を収めます。その結果、天下をほぼ手中に収めた家康にとって、海運の拠点、交通の要衝としての江戸は、非常に大きなメリットであり、江戸に拠点を構えた家康の思惑が理解できるのです。

「家康はなぜ、大々的な天下普請で築城と修築、河川の改修を行ったか?」 ▼

 徳川家康が「天下普請」で、盛んに城郭の修築や河川の改修工事を行ったのは、ずばり大坂の豊臣秀頼、そして各地の豊臣恩顧の外様大名の力をじわじわと削いでいくためでした。

天下普請の狙いは豊臣恩顧の大名の金と労力使い、力を削ぐこと
 江戸幕府が諸大名に命じて行わせた「天下普請」とは、この工事にかかる費用(労務費・交通費・宿泊費)は原則として命じられた諸大名が負担しなければならない公共工事でした。
 そこで、国内における徳川家の磐石な体制を築くため、敵対する可能性のある勢力に、できるだけ多くの工事=天下普請を行わせることで、金と労力を使わせて弱体化を図ること。「天下普請」の狙いは、まさにこの点にあったのです。

豊臣家の経済力&権威を警戒し続けた家康
 では、豊臣家の力とはどれほどのものだったのでしょうか。「関ヶ原の戦い」の敗戦後、所領が激減し、一大名に過ぎなくなった秀頼ですが、その遺産は推定値で現在の1000億円とも2000億円ともいわれる莫大な”経済力”がありました。また、その家柄からくる権威も侮れませんでした。豊臣姓は秀吉が関白に就くにあたり、朝廷から勅許を得て使用が認められた家格で、秀頼は時の朝廷との関係も強かったのです。豊臣家の経済力&権威が再び西国大名の武力と結び付き、徳川に刃向かってくるかも知れないという不安は、家康の脳裏に染み付いていたのでしょう。

関ヶ原直後から西国の外様大名監視と朝廷対策の拠点の築城開始
 家康は関ヶ原の戦い(1600年)が終わるや、秀頼や西国の外様大名たちを監視するための拠点を築き始めます。膳所(ぜぜ)城(滋賀県大津市)の築城と、伏見城(京都市伏見区)の改修です。
 また、朝廷対策の拠点として二条城(京都市中京区)の築城も開始します。娘婿にあたる池田輝政には居城の姫路城(兵庫県姫路市)の修築を、藤堂高虎には今治城(愛媛県今治市)の築城と甘崎(あまざき)城(愛媛県今治市)の修築を命じ、瀬戸内の海上路に砦を築くことで、中国・四国の外様大名の監視にあたらせました。10数名の大名に命じ、彦根城(滋賀県彦根市)の築城も行っています。

征夷大将軍の宣下受け、名実ともに武家のトップに
 1603年(慶長8年)2月、家康は念願叶って征夷大将軍の宣下(せんげ)を伏見城で受けます。将軍職に就いたということは、豊臣家の臣下という立場から脱し、自ら武家のトップとして全国の大名と主従の関係を持ち、主君となることを意味しました。徳川の世の到来でした。

連日3万人以上の人夫が動員された江戸城の改修
 江戸城の改修も「天下普請」の一環でした。家康の将軍宣下の翌月、天下普請による江戸の町の拡張・整備工事がスタートします。これらの工事には13組に分けられた70家の大名が参加。各大名は知行1000石当たり1人の人夫を出すように命じられました。毎日3万以上の人員が現場に動員されたであろう大公共工事でした。
 築城される江戸城の規模は、秀頼の居城・大坂城をはるかに凌ぐものでした。この助役を命じられた外様大名たちに、徳川将軍家の威光を示す効果も大いにあったことでしょう。

福島正則、加藤清正、前田利常ら親豊臣派大名を根こそぎ動員
 1610年(慶長15年)、名古屋城の築城を命じられたのは、前年に篠山城の普請を終えたばかりの福島正則を含む西国大名20家、加藤清正をはじめとする九州大名11家、そして加賀の前田利常らでした。豊臣と関係の深い大名は根こそぎ動員させられているのです。しかも、その普請は大坂方が江戸に攻めてきた場合に備えた防衛の要を築くというものでした。

”一石三鳥”の天下普請で外様大名の牙を抜く
 豊臣恩顧の大名の力を使ってその力を削ぎながら、徳川家の防衛と豊臣家を封じ込める拠点を築き、その過程で将軍家の威光をも認識させるというわけです。まさに”一石二鳥”、いや”一石三鳥”の妙案です。こうして家康の天下普請戦略の前に、多くの外様大名はその牙を抜かれていったのです。

「外様大名の加賀藩がなぜ、百万石もの体制を長く保持できたか?」 ▼

 江戸時代、全国で多くの藩が改易や、藩の取り潰しを経験した中、これはかなり稀有なケースといえますが、加賀藩・前田家は、遂に百万石を超える家禄を幕末まで維持し、生き抜きました。

幕藩体制確立に向け、横行した大名の改易
 実は、江戸幕府による大名統制は厳しく、家康・秀忠・家光の徳川三代を通じて幕藩体制の確立に成功するのですが、この過程で多くの大名が改易となっています。福島正則49万石、小早川秀秋50万石、最上義俊57万石、松平忠輝75万石、松平忠直68万石、松平忠吉52万石、加藤忠広52万石、徳川忠長55万石、本多正純15万石といった具合です。大名が改易(領地没収)となる主な理由は、跡継ぎ断絶、武家諸法度違反、乱行でした。
 大名の改易があまりに多く、これによって主君を失った武士たち(家臣)=牢人が激増、新たな社会問題に直面することになりました。そのため、四代将軍・家綱の治世下で、それまで禁止されていた「末期(まつご)養子の禁」が緩和されたほどです。こうした文治政策を推進したのが、家光の弟で将軍を補佐した会津藩主の保科正之らでした。文治政策への転換でした。

忍耐強く将軍家とつかず離れずの関係を維持した前田家=加賀藩
 このように大名の改易が横行した中、無傷で徳川260年余を過ごすことができたのは、前田家が代々、ポリシーとする、将軍家とつかず離れずの関係を忍耐強く保持したからに他なりません。これを実践することは、実は生易しいことではありません。なぜなら、当時、諸大名は幕府の意を迎えるために、学問・芸能や宗教行事、日常の作法に至るまで、徳川家へ右へ倣(なら)えしていました。でなければ、いつ幕閣の機嫌を損じて改易の憂き目に遭うかも知れないと怖れたのです。

太閤治世下では「徳川とは同輩」意識、半面、恭順の意
 ところが前田家は、「加賀には加賀の伝統がある」として、徳川将軍家に倣う風がなかったのです。それは、もともと徳川と前田は、太閤・秀吉治世下の武将という点では同輩で、家のしきたりはそれぞれの伝統によるべきもの-との意識が強かったからです。それが自然で無理がない-と。
 とはいえ、権力者=徳川将軍家と、つかず離れずの関係を保持するには、藩主は自分自身を抑え込み、感情のコントロールを図り、将軍家に恭順の意を表するという姿勢が必要です。したがって、こうした姿勢を維持し続けるには格段の苦労があったに違いありません。

「お家第一…母を棄てなさい」と戒めた利家の正室・松子
 加賀藩の藩祖・前田利家の正室・松子にこんなエピソードがあります。利家没後、徳川家康はいつかは前田家を潰そうと謀り、二代藩主・利長に「謀反の動きあり」の噂を流して揺さぶりをかけます。そんなとき、母の松子は自らすすんで人質として江戸に赴き、両家の安全に寄与しようと努めます。
 その際、思い悩む息子・利長に「武士はお家第一、(徳川将軍家から、投げかけられる揺さぶり・謀りごとに対し)思い迷うことがあれば、母を棄てなさい!」ときっぱり言い切ったといわれています。松子は、利長ら子供や家臣たちが、自分の身を気づかって家を棄てることを強く戒めたわけです。

将軍家に嫌われず、媚びず、独自の伝統文化を維持
 こんな松子の精神が代々、藩主に継承され、前田家の独自の伝統文化は維持しつつ、権力者=徳川将軍家に嫌われず、媚びず、つかず離れず、という何とも難しい、微妙なバランス感覚が求められる藩運営に努めたのです。
 つまり幕府から無理難題持ちかけられても、耐え忍んで家を存続させ、文化の面で徳川を凌ごうと期するものがあったようです。家が滅びてしまったら、文化も何もないわけですから。

万全の防衛体制を敷き、文化にうつつを抜かす振りを貫く
 そのために前田家は万全の防衛体制を敷き、それをひた隠しにし、その隠れ蓑として表看板に文化政策を華々しく掲げていたのです。「非武装」では、藩の意思は決して貫けないことを理解していたのです。
 その軍備が少しでも漏れたら大変な騒動になるので徹底的に隠し、前田
は幕府に臣従して、文化にうつつを抜かしている振りを貫いたのです。幕府は絶えず隠密を放ってそれを探りますが、証拠がつかめません。しかし何となく薄気味悪いものを感じて、うかつには手出しできず、江戸時代は経過してしまいます。
 見てきたとおり、前田家は危機感もなく、お人好しにのんびりと文化を楽しんでいたのではないのです。三代藩主・利常の時代、五代藩主・綱紀の時代はとくに華やかな文化が花開いた印象があります。しかし、実は表と裏があったのです。表面上、そう見えるということは、前田家歴代藩主が、それだけ演技が上手だったということでしょう。
 その結果、加賀藩前田家は他には例のない、無傷のまま幕末まで百万石を超える家禄を保持できたのです。見事というしかありません。