勝海舟・・・ 「党派をつくるな、子分をもつな」

 勝海舟が遺した言葉には様々な名言があるが、これは『氷川清話』に出てくる言葉だ。
その件(くだり)を引用すると

「なんでも人間は子分のない方がいいのだ。見なさい。西郷も子分のために骨を秋風にさらしたではないか。おれの目でみると、大隈も板垣も始終自分の定見をやり通すことができないで、子分にかつぎ上げられて、ほとんど身動きもできないではないか。およそ天下に子分のないのは、おそらくこの勝安芳一人だろうよ。それだから、おれは、起きようが寝ようが、しゃべろうが、黙ろうが、自由自在、気随気ままだよ」

人を食ったような、皮肉たっぷりな口ぶりで語っている。
確かに、勝海舟は徒党を組んで事を運ぶということはなかった。幕末~明治維新の大きな節目の一つとなった江戸城の“無血開城”にしても、幕府軍すべての実権を掌握、軍事取り扱いに昇進した海舟が、西郷隆盛との会談でまとめあげたものだ。

当時は慶応4年(明治元年、1868)鳥羽伏見の戦いに幕軍を撃破し、勢いに乗る官軍が江戸城総攻撃を叫んでいたわけで、西郷に対する相手が海舟だったからこそできたことといわざるを得ない。
 とはいっても海舟は幕臣であり、生涯“一匹狼”的に行動したわけではない。海舟のもとに様々な人が群がり集まった時期もあった。万延元年(1860)正月、海舟は軍艦咸臨丸の艦長として太平洋を横断、米国へ渡った。帰国後海舟は14代将軍家茂の信任を得て軍艦奉行並、従五位下安房守となり、神戸海軍操練所を建設。

こんな幕府海軍きっての高官で、当代随一の海外新知識の持ち主である海舟のもとに勤皇・佐幕を問わず様々な人材が集まった。坂本龍馬、吉村寅太郎、桂小五郎(木戸孝允)などで、中には“人斬り以蔵”の異名で恐れられた土佐の岡田以蔵までやってきて、結局は海舟に説かれて心服し、彼の身辺警護を務めるという時期もあったほど。

しかし、海舟は彼らと“党派”を組むこともなければ、誰かを“子分”にすることもなかった。大胆かつ沈着冷静な進言により、抜擢・登用と失脚を繰り返した幕臣、海舟。彼は最終的に「西南戦争」で散った盟友、西郷に対し、「西郷も、もしあの弟子がなかったら、あんなことはあるまいに、おれなどは弟子がないから、このとおり今まで生きのびて華族様になっておるのだが、もしこれでも、西郷のように弟子が多勢あったら、独りでよい顔もしておられないから、何とかしてやったであろう」と人間の弱さを認めつつ、「なんでも人間は子分のない方がいいのだ」と子分を持つことを戒めている。

(参考資料)「氷川清話」(勝海舟 勝部真長編)、「男 この言葉」(神坂次郎)
      「江戸開城」(海音寺潮五郎)、童門冬二「小説 海舟独言」

河村瑞賢・・・「なすところはみな夢幻にして、実相を悟るべし」

 これは河村瑞賢が晩年、その著書『農家訓』の中で語っている言葉の一節だ。長いので中略して主旨部分を記すと「夢幻の身を以って夢幻の身を養い、夢幻の身を育て夢幻の身を厭い、なすところはみな夢幻にして、不思議(思考を超えた)の法門に入り、すなわち実相(真理)を悟るべし。(略)すみやかによろしく有縁(仏法に縁のある)の教法によって、未来の解脱(現世の苦しみから解放され絶対自由の境地に入る)を得るべし」だ。

 徳川・元禄時代、天下有数の政商となり、旗本にまでのし上がった瑞賢にしては、ずいぶん気弱な無常観に満ちた言葉だ。これが功成り名遂げた人間がたどりついた、枯れた境地なのか。
 瑞賢は元和4年(1618)伊勢国度会郡東宮村の貧しい農夫太兵衛の長男に生まれた。通称を十(重)右衛門。生活の道を求めて13歳で江戸へ。だが、江戸での車力(車曳き)暮らしに絶望した彼は、やがて都落ちする。その失意の道中の小田原宿で、彼は旅の老僧に諭され、再び江戸へ引き返して行く。そして品川の海岸まで来たとき、折から盂蘭盆過ぎで浜辺には仏前に供えた、おびただしい量の胡瓜や茄子が打ちあげられていた。「これだ」と感じた彼は、乞食たちに銭をやり、それを拾い集めさせ漬物にして売り出し、大もうけした。一般によく知られている瑞賢の出世譚の一つだ。 

こうして稼いだカネを資金に、大八車を買い求め車曳きたちを集め車力業の第一歩を踏み出した。大江戸開発ブームの花形である車両運送の親方になった十右衛門は、稼ぎ集めたカネを投入して材木商となり、さらに普請と作事、つまり土木と建築の請負業へと転進する。 

 そして明暦3年(1657)江戸城をはじめ江戸市街の大部分を焼き尽くした未曾有の大火が起こる。「いまだっ」と感じた瑞賢は手元にあった10両を懐中にして木曾へ走った。江戸大火の風評も届かぬ先に木曾にたどりついた彼は、山林王といわれる屋敷の門に駆けつけ、庭先で遊んでいたその家の子供を見ると、懐から小判3枚を取り出し、小柄で穴を開けこよりを通してガラガラ玩具をこしらえて与えた。

子供がもらった小判の玩具に驚いた主人は、瑞賢をよほどの分限者(富豪)と思い、後からカネを持ってくる番頭を待っているという瑞賢を信用し、持ち山すべての材木を売り渡す証文に印を捺した。そして、瑞賢が雇った人夫たちが伐り出してきた材木に「河村」の刻印を打っているころ、ようやく江戸の材木商たちが木曾材の買い付けになだれ込んできた。

 が、もう遅い。彼らは瑞賢から彼の言い値で高価な材木を買うしかなかった。材木商たちに売却した代金で山林王への支払いを済ませ、残りの大量の材木を江戸に運んだ瑞賢は、他の材木商よりはるかに安い材木を売り出し、すべて売り尽くして巨利を博したという。抜群の知恵者、瑞賢の一端を示すエピソードの一つだ。

 ディベロッパーとしての瑞賢の偉大さも見落とせない。彼は「幕府御用」の金看板のもとに海運界の地方分権(諸国大名領)を解体し、幕府のお声がかりの事業として奥州(福島、宮城、岩手、青森)からの東廻りの航路、そして近世海運史上画期的ともいう出羽(山形)からの西廻り航路を開発したのだ。この航路の出現によって、江戸、大阪はもとより諸国の都市に飛躍的な繁栄をもたらした。

(参考資料)童門冬二「江戸の賄賂」、神坂次郎「男 この言葉」

                             

黒田官兵衛・・・ 「分別過ぐれば大事の合戦はなし難し」

 これは、黒田官兵衛が臨終の床で紫の袱(ふくさ)に包んだ草履片方、木履片方と溜塗の面桶(弁当箱)を形見として嫡子長政に与え、語った言葉の一部だ。全体を記すと、「軍(いくさ)は死生の界なれば、分別過ぐれば大事の合戦はなし難し」だ。戦さは生きるか死ぬかの大ばくちゆえ、思慮が過ぎては大事の合戦はできぬ。時によっては草履と木履を片々にはいても駆け出す心構えがなくてはならぬ。また、食物がなければ何事もできぬものなり。ゆえに金銀を使わず、兵糧を貯え、一旦緩急の軍陣の用意を心がけておけ-そう語ったという。

 黒田官兵衛(孝高・号して如水、1546~1604)。幼名を万吉といい、播磨国(兵庫県)御著(ごちゃく)城の主、小寺政職の猶子(養子)、美濃守職隆の子。黒田家の出自は、戦国大名の多くがそうであるように、はっきりしたものではないが、近江国伊香郡黒田だといわれている。黒田氏が近江から備前国福岡に転じたのは永正のころで、戦乱を逃れてさらにそこから播磨の御著に移り住んだ。この地で黒田家は家伝の目薬「玲珠膏」を商い、小地主になった。官兵衛の父のころになると、近隣に鳴り響くほどの大地主にのし上がり、黒田家の郎党、下男は200人にも及んだという。こうして彼は小寺官兵衛の名で歴史の舞台に登場する。

 中国攻めの軍を率いて播磨に下向した当時の羽柴秀吉を姫路城に迎えた官兵衛は、秀吉に三つの策を献じている。いずれも卓越した策だった。この智謀に舌を巻いた秀吉は官兵衛と誓書を交わし、兄弟の約を結んだといわれる。以来、官兵衛は秀吉の参謀の竹中半兵衛とともに、帷幄(本陣)の謀臣として数々の卓絶した作戦を展開した。

中でも京都・本能寺の変に接したときの官兵衛の策は見事だった。ただ、少しやりすぎた。本能寺の変の飛報を受けて秀吉が呆然としているのを見て、官兵衛は微笑を浮かべて「ご運の開かせ給うべき時が来たのでござりまする。この機を逃さず、巧くおやりなされ」と囁いた。秀吉は自分の心中の機微を苦もなく見抜いた官兵衛の鋭さに驚き、以後、警戒し心を許さなくなったという。

秀吉が官兵衛ほどの天下第一流の参謀に生涯、豊前中津で12万2000石の小禄しか与えなかったのは、このことがあったからとだといわれる。後に官兵衛は、このことを秀吉が側近の者に洩らしたという噂を耳にするや、髪を下ろして隠居し、如水を号し、家督を嫡子の長政に譲ってしまった。さらに官兵衛は、秀吉の疑心を避けるために側近を離れず参謀として小田原征伐、朝鮮の役に従っている。官兵衛の芸の細やかなところだ。

秀吉の死後、官兵衛は家康に与したが、心底では「あわよくば天下を」と虎視眈々、野心を燃やし続けた。関が原の争乱に乗じ、豊前中津を打って出て豊後、筑前、筑後など手当たり次第に攻略し、我が手に納めるという怪物ぶりを発揮した。そして、官兵衛の心中はこうして九州全土を制圧したうえで、徳川家康と石田三成が戦い疲れたころを見計らって中央に進出し、天下を掴もうという魂胆だったという。しかし、世の形勢が家康に動いていると見るや、関が原の戦後、いままでの謀反気など全くなかったかのように、ぬけぬけと家康に祝いを述べ、息子の長政のために筑前福岡52万石をちゃっかりせしめている。戦国の勝負師、黒田官兵衛の面目躍如といったところだ。

(参考資料)司馬遼太郎「播磨灘物語」、加来耕三「日本補佐役列伝」、神坂次郎「男 この言葉」

西行・・・ 「願はくは花のもとにて春死なむ そのきさらぎの望月のころ」

 この歌は西行が62~63歳のころ詠んだものといわれるが、後世、その辞世の歌と喧伝されるようになった。きさらぎ(陰暦2月)の望月(満月)のころ-釈迦の命日-に満開の桜の下で死にたい-の意。建久元年(1190)2月16日、南河内の弘川寺において、享年73歳で西行はその数奇に富んだ生涯を閉じているから、冒頭の歌の通り、10年後ほぼ望みどおりの死を迎えたといえる。

 西行は俗名を佐藤義清といい、元永元年(1118)、武門の伝統を誇る検非違使・佐藤康清の嫡男として生まれた。同年、平家の総帥となる平清盛も生まれている。義清の佐藤氏は平将門の乱を平定した“俵藤太”こと、藤原秀郷の流れで、義清の祖父・佐藤季清も、出雲国に狼藉を働いた源義親(義家の子)の処刑に立ち合うなど、その名を知られた人物だった。父・康清も検非違使の宣旨を受け、白河院(第七十二代天皇)の「北面の武士」にも召されている。

 この「北面」は白河院の時に設置された制度で、御所の北面に詰める警備の者。下級官人の子弟から厳選され、弓・馬術に優れているのはもとよりのこと、容姿端麗で詩文・和歌・管弦・歌舞の心得も必須であり、官位は五、六位と低かったものの、宮廷の花形として注目を集める役職だった。義清も北面の武士にやがて選抜されるが、任官まで苦労し時間がかかった。父が若くして急逝したため、父の功績によっての任官が叶わず、当時盛んに行われていた財物によって官職を買い取る道-「年給」、「成功(じょうごう)」-によらねばならなかったからだ。18歳の時一族、必死の「成功」に応募、やっとの思いで「兵衛尉」へ任官した。これだけ苦労した末の任官だったが、保延6年(1140)、名を「西行」と改め23歳の若さで出家してしまう。

 西行の実家は紀伊国に「田仲庄」という荘園を持っていた。家庭は裕福である一方、西行の母は「監物源清経の女(むすめ)」(尊卑分脈)とあり、この清経は今様の達人として世に聞こえた粋人だった。西行はこの祖父にも薫陶を受けていた。その結果、西行は蹴鞠では世に聞こえた使い手だった。また騎馬・弓術の精華といわれる「流鏑馬」にも熟達。文武を極めた彼の前途は洋々たるものがあったはずだが、突然、世の栄達を捨て出家した真相は明らかではない。

 西行はまず洛外の嵯峨に草庵を結んだが、仏法修業と和歌に励みながら陸奥、四国、中国、九州と諸国へ漂泊の旅を繰り返した。彼は平清盛の全盛期、その主催の法会にも参加し、平家一門とも親しく付き合っている。治承4年(1180)伊勢に居を移し、平家滅亡後、平重衡が焼いた東大寺復興の勧進にも携わり、奥州・平泉に藤原秀衡を訪ねる途中、鎌倉で源頼朝と語り明かしている。

 西行の遺した秀歌は数多いが、伊勢参宮の際の歌を取り上げておこう。
 なにごとのおはしますかは知らねども かたじけなさに涙こぼるる
この歌は日本人の自然観、宗教観を歌った名歌だ。五十鈴川の清冽な流れを見て、聳え立つ杉並木の参道を歩む時に、恐らく万人が感じるであろう敬虔な気持ちがそのまま表れている。

(参考資料)辻邦生「西行花伝」、松崎哲久「名歌で読む日本の歴史」、加来耕三「日本創始者列伝」

                             

渋沢栄一・・・ 「一物に接するにも必ず満身の精神を以てすべし」

 これは渋沢栄一が生涯の信条とした家憲三則の「処世接物の綱領」の条のごく一部の言葉だ。主な部分を抜き出してみよう。

一. 凡そ一事を為し、一物に接するにも必ず満身の精神を以てすべし。瑣事(さじ)たりとても之をゆるかせ(おろそか)に付すべからず。
一. 富貴に驕るべからず、貧賤を患(うれ)うべからず、唯知識を磨き徳行を修め          
  て、真誠(まこと)の幸福を期すべし。
一. 口舌は禍福の因って生ずる処の門なり、故に片言隻語と雖も、必ずこれをみだりにすべからず。
一. 人に接するには必ず敬意を主とすべし、宴楽遊興の時と雖も、敬礼を失うこ          
  とあるべからず。
一. 益友を近づけ、損友を遠ざけ、苟(いやしく)もおのれにへつろう(諂う)者を友とすべからず。

 渋沢栄一は天保11年(1840)2月、武蔵国血洗島村(現在の埼玉県深谷市血洗島)に生まれた。本家では、当主は代々市郎右衛門と名乗った。父の市郎右衛門美雅は晩香と号するような雅人だったから、子供の教育には熱を入れた。物心がつくと栄一はこの父から孝経、小学、大学、中庸、そして論語を学んだ。7歳になると、父は栄一の従兄弟に当たる尾高惇忠という学者に学問を習わせた。惇忠は、福沢諭吉と同じように「士農工商」という身分制に激しい怒りを抱く、かなり激しい思想の持ち主で、単なる学者ではなかった。論語をテキストの中心に置いていたが、頼山陽の『日本外史』など日本の歴史に関する本も副読本として使っていた。

 栄一は24歳のとき、尾高惇忠と従兄弟の渋沢喜作とともに69人の同士を集め武装蜂起して「高崎城乗っ取り、横浜焼き打ち」の一大攘夷計画を企てる。が、幕吏の知るところとなり、計画は頓挫。彼は血洗島村を出奔、江戸に向かう。この後、彼は人生の大転換を迎える。一橋家の用人、平岡円四郎の勧めで攘夷論を捨てた栄一は、一橋慶喜の御用談下役として出仕するが、たちまち算勘の才を認められ一橋家の財務を預かる御勘定組頭となる。2年後の慶応2年(1866)一橋慶喜は徳川宗家を継ぎ十五代将軍に。家臣の栄一もまた幕臣となる。

翌年、慶喜の命を受けた栄一は、パリ万国博に向かう慶喜の弟、徳川昭武に随行して欧州各国を巡歴することになった。この西欧視察の旅で栄一は、攘夷思想の無意味さと、欧州の工業や経済制度の重要さを、嫌というほど思い知らされた。そして、これからの日本は「一に経済、二に経済」だと、経済の仕組みや金融制度、株式制度の知識の吸収に没頭する。こうして明治元年(1868)11月、徳川昭武一行は帰国。が、この間、日本は大きく変わっている。徳川幕府はすでに瓦解し、将軍慶喜は静岡の地で謹慎の身だった。

その静岡藩に勘定組頭として出仕した渋沢栄一は、わが国最初の「共力合本法(株式会社制度)」組織の商事会社、商法会所(取引所)を設立した。この成功がやがて明治新政府の知るところとなり、大蔵省に招かれた栄一は、租税正(局長クラス)として大蔵省の実力者、井上馨の右腕となって活躍する。が、政府内部の各省と意見が合わず、井上とともに辞職し、野に下った。以来、60年、合本主義の旗手として実業界に乗り出し「経営の指導者」「会社づくりの名人」として彼が果たした役割は極めて大きい。

第一国立銀行を設立し頭取となり、続いて国立銀行条例の改正、銀行集会所の設立、日本銀行の設立…。彼が着手した事業で成功しなかったものはないといわれたくらい、経営の世界における彼の洞察力と指導力は卓絶していた。渋沢栄一が関わった業種は500余り、日本の産業すべてが網羅されているといっても言い過ぎではない。
 
(参考資料)城山三郎「雄気堂々」、童門冬二「渋沢栄一 人間の礎」、神坂次郎「男 この言葉」                            

菅原道真・・・ 「東風吹かば匂い起こせよ梅の花 主なしとて春な忘れそ」

 これは延喜元年(901)正月、菅原道真が政敵、藤原時平一派の讒言、策謀にはめられ九州・太宰権帥に降され、出発するときに詠んだ有名な歌だ。この数日前に九州への配流が決まった時、宇多法皇に哀訴した歌が次だ。

 流れ行く我は水屑となりはてぬ 君柵(しがらみ)となりてとどめよ
 老齢で病を持つ道真は、すっかり打ちのめされ抵抗するすべもなく、恐らく出発する直前まで宇多法皇の執り成しによる窮状打開を期待していたことだろう。しかし、それは結束した時平一派のクーデターの前に叶わず、道真は無念の思いで太宰府への旅程についた。任官していた子息たちも左遷されて、それぞれ任地に下向した。その後の大宰府での幽閉に等しい生活をうかがわせるものに、道真自身の手で編まれた『菅家後集』という詩文集がある。この中から一首を次に掲げる。

  家を離れて三四月。
  涙を落とす百千行。
  万事皆夢の如し。
  時々彼蒼(大空)を仰ぐ。

延喜3年(903)2月、道真は失意のうちに大宰府で病死した。59歳だった。
 桓武天皇の孫を母として生まれ、藤原氏とは全く血縁関係がない宇多天皇と、道真の敵は摂関政治を独占する藤原氏だった。寛平3年(891)1月、太政大臣で、人臣で最初の「摂政」となった藤原基経が没すると、英邁な宇多天皇はこれを千載一遇の好機ととらえ、讃岐守だった道真を起用。蔵人頭(天皇の秘書官長)に抜擢し、政界にデビューしたのが3月29日。そして4月11日には佐中弁、翌年の12月には左京大夫と昇進し、次の年の2月には公家会議に参加できる参議にまで出世するのだ。道真49歳のことだ。現代の会社に置き換えて表現すれば、係長がわずか2年で取締役になるのと同じようなものだろう。この出世の早さはやはり異常だ。バランス感覚を欠いた“ひいき”と映ったことは間違いない。そして、道真は51歳で中納言に昇任する。

寛平9年(897)7月、宇多帝は31歳の壮年でありながら、敦仁親王(13歳)に譲位。この折も帝は道真ただ一人と相談したといわれている。目指すは“天皇親政”の復活だった。宇多上皇と道真は二人で醍醐帝を教導し、その治世中に権門藤原氏を排除し、律令政治本来の姿へ、朝廷を戻そうと考えたわけだ。昌泰2年(899)2月、左大臣となった時平は29歳。一方の道真はこの時、すでに55歳になっていた。
 道真をめぐる形勢は延喜元年(901)正月に急変する。時平一派が醍醐天皇に対して道真追放の工作を開始したからだ。時平は道真が天皇を廃し、皇弟で自分の女婿の斎世親王を皇位に立てようと企み、すでに宇多法皇の同意を得ていると述べた。時平は年少の天皇の不安感に鋭く触れて、道真の陰謀なるものを認めさせることに成功した。天皇はことの真否を法皇に質すいとまはなかった。その25日に詔を発して道真の行動に非難を加え、これを貶して太宰権帥とした。

こうして時平一派のクーデターが遂行された。
 ところで、道真がなぜ学問の神様である天神様に祀り上げられたのか。現在でも全国各地に天神様を祀る社は1万2000もあるという。道真の死後、京の都では異変が続出。まず彼を死に追いやった時平が6年後に39歳の若さで死去し、気象は荒れ放題で都では旱魃や飢饉が続いた。さらに死後20年後の923年に皇太子の保明親王が亡くなったことで、誰もが道真の怨念を感じたのだ。930年には左遷を認めた醍醐天皇までもが急死し、怨霊は「御霊」と呼ばれるようになり、恐怖が貴族たちに蔓延する。
そこで、霊を鎮めるための御霊会が始まるのだ。これは次第に公のものとなり政府が主催することにもなり、天暦元年(947)には京都の北野に神殿が建てられ天満天神として奉られる。だが、時代を経るにしたがって、怨霊は人々によって別の解釈がされるようになった。菅原氏が多くの学者を輩出したこともあり、学問の神様に変化していくのだ。さらに、それは発展し書道や文学の神様としても崇められるようになる。神様は皮肉にも藤原氏によって作り出されたのだ。波乱の人生を歩んだ道真は、その後没落していく藤原氏とは対照的に、1000年以上の時の中を生き続け、21世紀の現代でも学問の神様として毎年受験生たちの心の支えとなっている。

(参考資料)北山茂夫「日本の歴史4 平安京」、加来耕三「日本補佐役列伝」、歴史の謎研究会編「日本史に消えた怪人」