徳川長期政権の運命を決めた「大坂の陣」

 

徳川長期政権の運命を決めた「大坂の陣」

 2014年(平成26年)の今年は「大坂冬の陣」(1614年)から400年にあたります。翌年、1615年の「大坂夏の陣」で天下の大坂城は落城し、徳川家との決戦に敗れた豊臣家は滅亡しました。周知の通り、この戦いに勝利した徳川将軍家はこれ以降、250年以上の長きにわたる徳川政権を確立したのです。

歴史の分岐点・大坂の陣-豊臣方に欠けた視点

 歴史に「if」をいってもしようがないのは十分承知していますが、やはり、どうしても言いたくなります。結果が分かっている後世の人が何を言っても始まらないと言われても。なぜ、豊臣方はもっと冷静に徳川方の意図を読めなかったのか?もっと、豊臣家を残す策を考えなかったのか?と。
 豊臣方が徳川方の度重なる挑発をもう少しうまくかわし、長期戦に持ち込んで、大坂城を保持しつつ、徳川家康の”死”を迎えていたら、この後の時代はどうなっていたか全く分かりません。それほどに、日本の歴史にとって、いや徳川政権にとって、大坂の陣は大きな、ある意味で関ヶ原を上回る天下分け目の戦(いくさ)であり、歴史の分岐点だったのです。

まだまだ盤石ではなかった大坂の陣前の江戸幕府

 家康は慶長8年(1603年)、征夷大将軍に任ぜられ江戸に幕府を開きますが、体制はまだまだ盤石なものではなく、自分の余命と徳川政権の行く末を考えたとき、いまのままでは、後継の秀忠では諸藩の大名に対するにらみは利かない。とすれば、遠くない時期に徳川政権は瓦解する危険性があると考えたはずです。一方、豊臣家は関ヶ原の戦いの後、摂津・河内・和泉の3カ国65万石に封じ込められたが、それでも厳然として残っている豊臣恩顧の大名に対する豊臣家の威光や、秀吉が築いた天下の名城・大坂城、金銀財宝、武器・弾薬などの莫大な遺産はまだまだ無視することができません。こう考えると、家康は安閑と待っているわけにはいかなかったのでしょう。そこで、様々な謀略を仕掛けます。

方広寺鐘銘事件で淀君・秀頼母子を挑発 

 関ヶ原の戦いから14年、慶長19年(1614年)、豊臣家を挑発するまたとない事件が起きます。淀殿・秀頼母子が十数年かけて取り組んでいた方広寺鐘銘事件です。家康は梵鐘に刻まれた銘(文言)の中にあった、「国家安康」「君臣豊楽」に着目。ここぞとばかり、国家安康は「家」と「康」を切り離して徳川家を呪い、「臣」と「豊」をつなげて豊臣家の繁栄を願う意味だと難癖をつけ、豊臣家を挑発します。そして、「国替えをするか、淀殿を人質として江戸に送るか」という選択を迫ります。その結果、同年10月、遂に追い詰められた豊臣家は挙兵します。大坂冬の陣です。家康は恐らく「してやったり」と、ほくそえんだことでしょう。

外堀埋められた大坂城 悔やまれる安易な講和

 攻め手の徳川軍は兵30万、大坂城に籠城する豊臣方は兵10万でした。軍備の差は歴然としていましたが、秀吉築城の大坂城を攻めあぐねた家康はひとまず講和を結びます。そして、その条件の一つとして大坂城の総構えの堀を埋める際、本多正信に命じて故意に二、三の丸の堀まで埋めさせ、大坂城を裸同然にしてしまいます。
 問題はこの講和受諾に至るまで、なぜのらりくらりと、もっともっと時間をかけなかったかです。豊臣方の上層部は恐らく家康の老い先を考えれば…と織り込んだはずです。ならばこその疑問です。なぜ、家康がイライラするくらい引き延ばさなかったのでしょうか。徳川方からの講和の申し入れなのですから、熟慮する時間(期間)をかけ、もう少し有利な条件を打ち出せたのではないでしょうか。後世の人間の目からは、安易すぎる、もっといえば不用意な講和にまんまと乗せられてしまった言わざるを得ません。

家康の謀略に翻弄され続けた豊臣家の最期

 そして、今度は豊臣方が城を旧状に復そうとしていることを理由に、徳川方は翌年(1615年)4月、再び15万の大軍で大坂城を攻撃します。大坂夏の陣の始まりでした。豊臣方の牢人衆は奮戦しますが、真田幸村をはじめ次々と討ち死にを遂げ、遂に大坂城は炎上。紅蓮(ぐれん)の炎の中で淀殿・秀頼母子は自害。太閤秀吉が全国を統一してからわずか25年後、豊臣家は滅亡します。家康の謀略に翻弄され続けた豊臣家の最期でした。

結果は明白-指揮官・参謀不在の豊臣方の布陣

 周知のことですから、流れを一気に記しましたが、冷静に大坂の陣を検証すると、豊臣方は負けるべくして負けたということが分かります。最初から豊臣方に勝ち目はありませんでした。豊臣方の総大将は、恐らく22歳くらいの若きプリンス・豊臣秀頼のはずですが、彼は母・淀殿を含めた側近が戦いの場に出そうとしませんでした。したがって、最高指揮官がいなかったのです。また、戦に長けた作戦参謀もいませんでした。これでは戦に勝てるはずはありません。豊臣方の側近を自任したのは大野治長でしたが、彼も文官であって、戦の経験など全くなかったといいます。

悲劇の名軍師・真田幸村

秀頼から直々に書面で手厚く招かれた幸村
 唯一といってもいいくらいの、豊臣方に歴戦の雄といえる人物がいました。真田幸村(信繁)です。幸村は関ヶ原の合戦で西軍に属し、敗れたため幽閉中の身でした。1614年、大坂冬の陣が始まる数カ月前、その幽閉先に豊臣秀頼から直々の書面による招きを受け、大坂城に入城。金200枚、銀30貫を贈られています。

献策ことごとく退けられ、孤立感深めた幸村

 ただ、それにしては大坂城内での待遇は決していいものではありませんでした。軍議の席での、あくまでも外様の扱いに終始した幸村の献策や提案は、ことごとく退けられる始末で、豊臣方の上層部はなかなか受け入れようとはしませんでした。城の外に出て野戦で勝負しようという幸村の献策もはねつけられ、採用されていません。幸村にとって自分の力を発揮する場所は、真田隊という第一線部隊の指揮以外にありません。こうして幸村が大坂城の外に作戦基地として築いた真田丸で活躍すればするほど、幸村の立場は悪くなって孤立感を深めていったのです。

戦経験なく幸村の活躍を快く思わなかった豊臣上層部

 戦に長けた幸村とは異なり、豊臣方の上層部には武官は不在で、大野治長はじめ戦の経験がない、いわば文官のみで、不幸なことに幸村の打ち出す作戦の意図を理解できる人物はほとんどいなかったのです。また、彼らは自分の存在価値を貶(おとし)められることへの恐怖から、幸村の活躍そのものを快く思わなかったのです。こんな心理状態で徳川方と対峙しているのですから、徳川方が自滅してくれない限り、まず勝てるはずがなかったのです。
 

豊臣方上層部に、幸村に徳川方との内通疑う噂も

 
 幸村への秀頼の篤い思いをよそに、豊臣方上層部および家臣団には幸村への信頼すら希薄だったようです。これは徳川方、豊臣方いずれが勝利しても真田家を後世に残すための、父・昌幸の決断でもあったのですが、兄の信幸(信之)が徳川方についたことで、幸村が城の外に真田丸を築いたことさえ、敵と内通するためだとの噂が立ち始めたといいます。

関ヶ原の合戦直前までは徳川軍に従軍した真田家

 このあたりは、もう少し詳しく説明しないと分かりにくい点です。事の発端は関ヶ原の合戦直前に遡ります。慶長5年(1600年)6月、徳川家は会津の上杉景勝征討の軍を発します。徳川秀忠を総大将とする征討軍に従って、真田昌幸と信幸(後に信之)・幸村の父子も出陣します。そして、下野国犬伏まで進んだとき、石田三成から打倒家康の決起を知らせる密書が届きます。

秀吉に気に入られ、豊臣姓まで賜った幸村

 ここでもこの経緯を説明しておく必要があります。父昌幸は天正10年以降、武田、織田、北条、徳川、上杉と、めまぐるしく主君を変える離れ業を演じています。これは仕えた主君が合戦に敗れたり、非業の死を遂げたり、関係がこじれたりした結果でした。そして天正14年、豊臣秀吉に臣従し、その証として幸村が大坂城に出仕し、秀吉に仕えるようになります。幸村は秀吉に気に入られたとみえ、豊臣政権の奉行・大谷吉継の娘を妻に迎えたうえ、後に豊臣の姓まで与えられています。その秀吉が亡くなったことで、真田家はまたも揺れることになるわけです。権謀術数を駆使し、戦略・戦術に長けた一族というイメージが強い真田家の印象はここからもうかがえます。

三成の密書で父子が両軍に別れ戦うことを決断

 三成からの密書を前にして真田父子は協議します。このまま家康に従うか、それとも三成に味方するか…。長子信幸は、家康の養女を妻にしていることもあり、三成の企てを私心からのものとみなし、このまま家康に従うことを主張しました。これに対して昌幸と幸村は、全く別の道を選びました。会津・上杉征伐に出陣した大名の中で、三成に味方したのは昌幸ただ一人です。

徳川方の寝返り工作の誘いに応じなかった幸村

 大坂城内での幸村の立場を知り、徳川方は幸村に寝返りを促しています。味方になれば10万石を与えるという条件から、さらに信濃一国を与えるとまで拡大されていきます。それほどに幸村の能力を評価していたのです。しかし結局、幸村はこの誘いに応じようとはしませんでした。
 それは、何故か?幸村が豊臣方についたのは、①彼自身の年齢からみて、立身出世や世俗的な欲望のためではなかった②かつての主君、秀吉の遺児・秀頼から直々に誘いを受け招かれたことの重さを理解していた③父昌幸が戦で徳川を二度にわたって破っていながら、しかしこれを倒すことができず、最後は家康の命により、紀州・九度山に幽閉され、無念の死を遂げた。その家康に一矢報いたいとの思いがあった-からでしょう。

歴史のヒロインや歴史群像、豪商列伝を幅広く、独自の目線で書き上げています。