おもしろ故事物語 Ⅰ(東京編)

おもしろ故事物語 Ⅰ(東京編)
「大江戸八百八町」

 よく江戸八百八町といいますが、江戸に町が八百八町あったというわけではなく、多いという意味の言葉です。正徳三年(1713年)にはそれまで代官支配だった町を町奉行支配にして九百三十三町になっています。江戸中期には発展が目覚しく、享保八年(1723年)に千六百七十二町となり、後には千七百町余になっていったといいます。これは寺社の門前町を町奉行支配地域に繰り入れたためで、八百八町の倍になってしまったのです。
 江戸の総面積からいえば、武家地60%、社寺地20%、町地20%となります。その20%に過ぎない町地の中で、千七百何町もの町々がひしめいていたのです。一つの町といっても知れたものでしたが、これらの町が、素晴らしい活況を呈し、幕末まで人口世界第一、ロンドン・パリなどものの数でない、という大都会の中心を成していたのです。
 ところで、江戸の町づくりの変遷について少し触れておきましょう。徳川家康が江戸に幕府を開いて以来、江戸は関八州の城下町から日本の政治の中心地となり、急速に発展していきました。慶長八、九年(1603~1604年)の埋め立て工事は千石賦、つまり石高千石について一人の人夫を出すことを諸大名に命じ、神田山の台地を引き崩させ、日本橋から新橋に至る今のメイン・ストリートを埋め立ててつくりあげました。それを諸国の町人に商工業街として開放することにより、江戸の町は次第に活況を呈していきました。秀忠、家光と三代にわたる江戸の市街の発展への努力は並々ならぬものがありました。
 江戸の市街は、恐らく初期には上方の町のように京間で曲尺(かねじゃく)六尺五寸を一間(けん)として町割が行われたようです。しかし、明暦大火後、田舎間の一間六尺(江戸では一間が五尺八寸の江戸間という独特のものになった)が用いられ、京間の町、田舎間の町と併用されるようになっていきました。
 どうして田舎間が急に行われ出したかよく分かりませんが、初期の六十間四方一区画を九等分し、真ん中の二十四間四方を会所地として共同で使用するという町の基準が壊れて、真ん中の土地も町地として発展するようになったためと考えられています。こうして家康入国以来、幕府の商人誘致策が集まってきた全国の商人たちによって形成された町は、寛永の三代将軍家光のころには三百町ほどになっていたといいます。

「生き馬の眼ぬく江戸」

 この背景にあるのが江戸の繁昌、そして人口の多さに他ならないでしょう。うっかりすると、生き馬の眼さえぬかれかねない。それほどの、凄まじい人間がうようよしていた都市が江戸でした。
 では、いったい江戸の人口はどのくらいあったのでしょうか。ただ、不思議なことに江戸の人口は、正確には幕府崩壊まで分かりませんでした。それは、武家の人口については一切タブーで、手をつけることができなかったからです。元禄六年(1693年)、町方人口35万3000という数字があります。しかし、正確に江戸の町方の人口調査が行われるようになったのは、享保六年(1721年)のことで八代将軍吉宗の功績の一つに数えられています。米価の調節政策を採っていた幕府として、町方人口を把握しておく必要があって始まったのです。
 江戸の人口調査は大体6年ごとに行われましたが、寺社門前町に住む町人、およそ6、7万人ぐらいを加えたり省いたりしていて、年によって差はありますが、享保以後幕末まで、寺社門前町の人口を加えると、およそ53万~54万人だったようです。天保の改革(1841年)当時58万7458人という数字が最大で、享保以降、総計では大きな差がなく経過したといえます。
 しかし、江戸には他に寺社人口、僧侶・山伏・神官などが78万人はあり、吉原だけは別人口で1万人ぐらい。そのほか、非人などの類が1万人ぐらいあったといわれており、これらを合計すれば町方人口60万人程度といえるでしょう。
 武家の人口は一切不明ですが、断片的な記録などから、諸大名数265家前後、これらの大名が明暦大火(1657年)後、復興した江戸で、少なくとも上・中・下の三屋敷を持ち、1000人から数百人に及ぶ藩臣を在府中は常住させ、国許へ帰り不在中も留守居の者を置いていました。ですから、その数は使用人、仲間などを含めれば夥しい数だったことは確かで、まず35万~36万人はいたと推定されます。
 旗本・御家人は、家族、使用人などを合わせると、およそ23万人ぐらいから、25万~26万人といったところで、両方を合計すると60万人ぐらいという数字が出てきます。これらを推計すると、享保以降、江戸には120万人という人口があったことになります。
 これを、西欧の都市と比べると、ロンドンは17世紀末に50万人を超し、1801年に86万人に達しました。パリも1776年には65万8000人、1802年には67万人に達しています。江戸人口120万人とすれば、欧州のどんな大都市も、江戸を凌ぐところはなかったのです。東洋の島国、日本の幕府所在地・江戸は、世界第一の人口を擁する都市でした。だからこそ、まさに「生き馬の眼をぬく江戸」だったのです。

「宵越しの銭は使わぬ」

 江戸っ子の気質を表現した言葉として、よく使われる言葉です。しかし、この言葉には実は、江戸が長い間、文化的にも経済的にも関西に負うところが大きかったことで、関西精神や関西人に対する強烈な対抗意識が内包されているのです。
 江戸の文化が関西の文化を凌ぐに至るのは、田沼政治の明和・安永年間のころからで、寛政から「化政文化」と呼ばれるように文化・文政ごろを頂点とします。江戸初期においてはすべて関西のものを尊しとし、関西の模倣吸収に努めるありさまでした。それが、明暦の大火後、万治・寛文ごろから町人の台頭と、参勤交代制度の影響による文化交流で、江戸の独自の文化が生まれる基礎がつくられていきました。そして、田沼政治の自由解放的空気のあふれた時代を通過し、文化的にも経済的にも、江戸はようやく関西と対抗するだけの実力を備えるようになりました。
 江戸っ子が銭を貯めるのをあざ笑うのは、大商店の人々に対する反感にあります。というのは、江戸で店を構え、江戸の商権を一手に収めて君臨する人々は関西商人の出店です。それに対して、「この野郎」といった憤懣が積み重なっているのです。
 関西商人、伊勢松坂や近江の商人たちは江戸へ出て商業界に覇を唱えながら、彼らはあくまで江戸は出店であって、本店は関西という意識でした。盆暮れの決算には全部関西に送って収支を出すというわけです。
 商店経営においても、番頭から丁稚に至るまで、すべて郷里から呼び寄せ、郷土的な慣習をそのまま店内に残し、江戸化するのを防止しました。こうして関西精神は生き続けたのです。こうした状況を目の当たりにして、とても彼らのようには蓄財のできないことを知り抜いている江戸の職人たちの負け惜しみが、「江戸っ子」精神をつくっていったのです。
 江戸の元禄から天保ごろまでの繁栄ぶりは素晴しいものでした。火事さえなければ、随分富豪が輩出したでしょう。だが、江戸は「火事は江戸の華」といわれたほど、大火が頻発しました。火災保険のない時代のことです。その損害は大変なもので、江戸ほど火災が多く、焼失被害の大きかった都市は世界でも稀でした。
 「宵越しの銭は使わぬ」「明日は明日の風が吹く」とばかり、今日の収入は全部使ってしまっても安心というほどに、いくらでも仕事があったといいます。事実、大火が一度あると職人たちは三年食えるという言葉がありました。ただ、宵越しの銭を使わないのは、いつ焼け出されるかも知れぬという不安が、財を積んでも仕方がないという気持ちにさせていたことも事実です。江戸市民の性格の中に諦観主義が根をおろすもとはここにありました。その後、大火の悲惨を放置できないと、享保年間、八代将軍・徳川吉宗が、町奉行の大岡越前守に命じ、町人による消防隊「町火消」が組織されることになります。

「火事と喧嘩は江戸の華」

 東京は三度、焦土となり、三度生まれ変わっています。その最初は、東京がまだ江戸だった徳川時代の明暦三年(1657年)の大火です。松飾りもやっと取れた正月の十八日の昼過ぎ、本郷丸山、徳永山本妙寺から出火。火は朝から吹いていた北西の風に乗って広がり、湯島、神田を焼き払い、夕刻から変わった西風とともに、またたくまに地をはって広範囲に燃え広がり、江戸の町をなめ尽しました。
 この有名な振袖火事は翌十九日も衰えず、大雪となった二十日朝になってやっと鎮火しました。江戸の大部分を焼き払ったこの火事で、大名屋敷五百、旗本屋敷七百七十、神社仏閣三百、江戸城も西丸以外の本丸、二の丸、各櫓も焼失し、死者はやや誇張されているとみられますが、十万八千人と伝えられています。
 その後も江戸では毎年のように火事を出しています。例えば寛文八年、天和二年、天禄十一年、同十六年、享保二年、宝暦六年、明和九年、天明六年、寛政四年、同六年、文化三年、文政十二年、天保五年、弘化二年、同三年と枚挙に暇がない。どうしてこのように火事が多いかといえば、第一に関東の風が激しいことが挙げられます。乾燥期に武蔵野台地を吹く空っ風です。第二には家屋が粗末で耐火性に乏しいことです。そして第三には何よりも密集度が高かったことです。
 こうして江戸における火事は、むしろ不可抗力のように捉えられてしまったのです。こうして年に一度や二度の焼け出されは当然となり、司馬江漢の『春波楼筆記』ではこうした江戸庶民の社会心理を「火事を待つ事、吉事をいのるがごとし」と表現されています。不思議なものです。
 既述の通り、こうして「町火消」が組織されることになりますが、今日とは違って当時は満足な消防器材もなく、頼むは胆力と腕力のみで、すこぶる意気で威勢がよかった。ジャンと半鐘が鳴ればまっしぐらに火事場に駆け付け、紅蓮の炎に一番の纏を立てることを誇りとしたのです。こうした精神は同時に、”喧嘩早いが玉に傷”という鳶の気質を生み出しました。火事場に維持と張りの喧嘩は付き物、時には町火消同士の戦場のような大喧嘩の光景を演出することになりました。
 町方の面目を張ろうとした大名火消の加賀鳶、有馬火消との喧嘩、また文化二年九月四日、芝神明境内の相撲興行に端を発した相撲とめ組人足との喧嘩などは、当時のマスコミに乗った有名なできごとです。
 東京を二度目に焦土としたのは、大正十二年の「関東大震災」です。焼けた家屋が三十六万戸、被災者百四十八万人でした。しかし、東京市民の意気は軒昂でした。家は焼けても「江戸っ子の意気」は消えぬとばかり、たちまち安バラックを建て並べ、、やがて大復興をしてしまったのです。
 三度目は、周知の太平洋戦争の「東京大空襲」による戦災です。昭和二十年二月二十五日、三月十日、そして四月十六日から五月末までに致命的な打撃を被り、焼失七十一万戸、死亡九万人、重軽傷十三万人、被災者三百万人に上りました。しかし今度も、再起不能とみられた、その廃墟の中から、不死鳥のように立ち直ったそのヴァイタリティは、まさに驚異的です。

「おはこ(十八番)」

 得意芸とか、癖といった意味に用いられています。「十八番」と書いて「おはこ」と読ませているのは、歌舞伎十八番に由来しているからです。
 歌舞伎十八番という名称は、古くは享保年間のころから用いられていて、市川団十郎がお箱にしまっておいたような秘蔵の伎芸-という、宣伝的なタイトルとして用いられていました。後に、幕末の七代目団十郎が、先祖のおはこだった荒事のレパートリーから、古劇十七種を選び、それに自分が能楽によって創作した「勧進帳」を加え、これを「家の芸」と銘打ち、「歌舞伎十八番」と命名しました。
 歌舞伎十八番は、暫・不破・鳴神・毛抜・不動・助六・外郎売・矢の根・嬲・景清・関羽・解脱・鎌髭・象引・蛇柳・七ツ面・押戻・勧進帳の十八狂言を指しています。そのうち、七代目が制定した当時、脚本が備わっていたいたものは半分に過ぎず、実質は八番でした。残りを復活したのは、江戸が東京に変わって後のことです。
 それでも、歌舞伎十八番は市川宗家の「家の芸」だというので、宗家の許可なくして上演してはならない-という不文律が長く続きました。下級俳優が手を取り合い、劇界に反旗を翻して立ち上がった前進座が、昭和八年、新橋演舞場で初めて「勧進帳」を上演したとき、古い因習を破ったということで社会的注目を集めたものでした。
 元来、「家の芸」というものは、親から子へ、子から孫へと相伝していくうち、代々の芸が積み重ねられ、その家の芸風にふさわしい形に洗練され、見物の公認があって初めて成立するものとされます。市川家の荒事一般や、松本幸四郎の家に伝わる「先代萩」の仁木などは、その意味で金箔付きの「家の芸」でした。
 しかし、明治から大正、さらには昭和、昭和も戦後になると、俳優自身の手によって制定された、夥しい数の「家の芸」には一代きりの、しかも他家の「家の芸」に対抗する意味でつくり出されたものが少なくなかったのです。その点では、明治から大正にかけての一時期は「家の芸」ブームと表現していいくらいでした。そこには、見物の公認などを必要とせず、一部後援者と興行師が、宣伝的にでっち上げた感じさえあるものも、少なくありませんでした。
 なお、「一世一代」という、一生の仕納めとして、役者がおはこを披露することがあります。

「ひやかし」

 買いもせず、ひと回り素見していく客を「ひやかし」と言っています。江戸の遊郭・吉原から出た言葉で、他の「ぞめき」とか「とおりんぼ」といった廓言葉と同意の言葉です。
 柳原の庄司甚右衛門らの陳情で、日本橋葺屋町界隈(現在の人形町一円)の葭の原二町四方に、常盤橋あたり、所々の娼家を集めて「廓」をつくる許可が出たのは、徳川家康の江戸入府から12年後、元和三年(1617年)のことでした。それから承応の末まで、ここを吉原と呼び、”不夜城”が現出したのです。
 娼家を廓の中に押し込んで、江戸市中に売春婦がいなくなったかというと、そうではありませんでした。街道の出入りの四宿といわれた、板橋・千住・品川・新宿の飯盛女(めしもりおんな)のほか、風呂屋の垢かき女で「湯女(ゆな)」と称する売春を兼ねたものが現われ、これがなかなかの繁昌をみせたのです。少し前までの言葉で表現すれば、”トルコ嬢”といったところでしょう。この湯女がやがて吉原を脅かすようになります。
 そこで、見兼ねた奉行所はこれらの風呂の営業を止め、同時に吉原を浅草千束村へ移転するよう命じました。明暦二年(1656年)のことです。この移転を早めたのが明暦三年(1657年)、江戸の三分の二を焼き尽くした「振袖火事」でした。この火事で吉原も灰燼に帰し、一斉に移転を始めています。

「サラリーマンのルーツ」

 サラリーマンという言葉は、B・G(ビジネス・ガール)などと同様、英語ではありません。わが国でこうした呼び方が使われたのは大正時代からです。大正八年にサラリーマンの生活擁護を目的とした「サラリーマン・ユニオン(SMU)」が結成されたのが、その一般的普及度を示す最初の出来事といえるでしょう。
 しかし、実質としてのサラリーマンは明治時代から出現し、それが「手代」「腰弁(こしべん)」「月給取り」「勤め人」「会社員」「俸給生活者」「サラリーマン」「ビジネスマン」「ホワイトカラー」「社用族」などいろいろな呼び方で呼ばれてきました。
 「会社員」ということに重点をおけば、わが国において株式会社が誕生したのは明治二年(1869年)正月、渋沢栄一の指導によって静岡の紺屋町に生まれた「商法会所」がその第一号であり、これにわずかに遅れて、福沢諭吉の指導によって東京に生まれた「丸屋商社」(今日の丸善)がその第二号ということになるから、東京のサラリーマンの先祖は「丸屋商社」の人々ということになろう。
 しかし、この時代は「会社員」という言い方はまだ一般的ではありませんでした。旧来のお店(たな)制度における「番頭・手代・丁稚」の言い方が「会社員」に対しても用いられていました。こういう旧制度の名残りは呼称だけではなく、雇用条件や待遇の面にも残っていました。「使用人」と「主家」の関係が気風として生き続けたのです。この関係が基にあって、わが国のサラリーマン社会に近年まで残っていた「終身雇用制」と「年功序列」が生まれました。それは会社制度導入期にこそ、その遠因があったのです。

「官員の給料ランキング」

 ところで、同じように「月給取り」といっても、官員と会社員とでは身分的、物質的に大きな格差がありました。官員が圧倒的に良かった。明治十年の官員録でみると、役人は一等から十七等まであり、一等から七等までが高等官、八等から十七等までが判任官と分かれ、また高等官も一等から三等までが勅任官、四等から七等までが奏任官と分かれていました。
 高等官一等は太政大臣、左大臣、右大臣、参議、大将、卿で、このうち太政大臣の俸給は飛び抜けて高く八百円、これが当時の日本における月給の最高額でした。これに次ぐのが左右大臣の六百円、そして参議(今日の大臣)、大将、卿(今日の長官)が同じく五百円でした。
 具体的には三条実美(さねとみ)が太政大臣で八百円、岩倉具視が右大臣で六百円、西郷隆盛や大久保利通、木戸孝允などの元勲がそれぞれ大将や参議や卿で、五百円もらっていました。 ただ、このころは兼官の場合、兼任した役職分の俸給も加算されましたから、例えば大隈重信は参議兼大蔵卿兼台湾蕃地事務局長官の時代には毎月千五百円もらっていたといいます。最高位の太政大臣・三条実美の2倍近くの俸給を得ていたわけです。
 二等官は大輔(たゆう、次官)、中将、特命全権公使で月給四百円、三等官は少輔、少将、大警視、侍従長で月給三百円、四等官は大書記官、代理公使、大佐、知事で月給二百円、五等官は権大書記官、総領事、中佐、県知事で月給百五十円、六等官は少書記官、領事、少佐、府県大書記官で月給百円、七等官は権少書記官、副領事、大尉、府県少書記官で月給八十円でした。
 八等以下十七等までの判任官は、六十円、五十円、四十五円、四十円、三十五円、三十円、二十五円、二十円、十五円、十二円と小刻みになっていました。当時の物価をみると、西南戦争のためにインフレとなっても米が一升五銭五厘、一流旅館が一泊二食付きで二十五銭という時代でした。したがって、十二円の月給でも十分いい暮らしができたのです。

「会社員の給料」

 官員と比べると、会社員の月給、すなわち民間給与はぐっと落ちていました。民間最高の月給取りは三菱の創始者・岩崎弥太郎で、彼は太政大臣と同額の八百円を取っていました。が、これは彼がワンマン経営者だったから、いわば”お手盛り”でできたことで、自分以外の社員はぐっと低く抑え、例えば福沢諭吉門下の荘田平五郎が入社したとき、最高首脳部の高給は、岩崎を除けば百円が一人、七十円が三人に過ぎませんでした。
 荘田はホワイトカラー第一号、インテリサラリーマンの大先輩として岩崎に高く評価され、いきなり七十円をもらい、、一年目に八十円、さらに半年で九十円、その後三カ月して百二十五円、第七級管事心得兼会計局長という役付きになったが、これは当時の民間給与としては破格の待遇で、まさに異例のことでした。
 例えば、後に日本郵船の社長となる近藤廉平は、荘田より二年早く25歳で三菱に入社したのに、初任給五円、三年経って吉岡鉱山事務長心得に抜擢されたとき三十五円、七年目に本社調役になったとき、ようやく七十円になったのです。住友では子供のときから別子銅山で働いて、大番頭となった広瀬宰平が最高級とはいえ月給百円でした。一生かかって、ようやく役人の少書記官の収入というわけですから、いかに民間給与が低かったかが分かります。事実、福沢門下生の犬養毅、尾崎行雄などがまだ20代半ばで役人となったとき、初任給は百円でした。このことからも、当時の官界と民間の格差の大きさが十分うかがえます。

「銀ブラ」

 昭和の中ごろまでは、この「銀ブラ」という言葉、まだ使われていたと記憶していますが、その後、平成になってからはほとんど使われなくなってしまいました。明治以来三度目の露店全廃令によって、昭和二十六年(1951年)十二月に露店が完全に姿を消してから”銀座八丁”をブラつくことの意味が一変してしまったせいでしょう。
 もともと「銀ブラ」とは「銀座でブラブラしているもの」を指す、あの界隈だけに通じた用語らしい。明治四十四年(1911年)、日本で初めて日吉町(現在の銀座西八丁目)にカフェーを出した松山省三(前進座の女形、河原崎国太郎の父)が「互いにブラ省とかブラ権とか呼んだ」と書いています。
 銀座に住んでいない人々が、銀座通りをブラブラひやかす意味に使われ出したのは、大正の初めからです。当時は人の込み合う四丁目の交差点から新橋へ向かって歩くよりも、逆に京橋の方へブラつく-それも夜店のない西側をひやかすのが”通”とされました。
 戦前は京橋・新橋間の銀座八丁を南北に歩くのがオーソドックスな「銀ブラ」とされましたが、戦後は日比谷から築地までのコースに変わりました。有楽町に東宝、築地に松竹が娯楽センターをつくり、地下鉄銀座総合駅も完成して、東西に横切るコースがニュー・パターンになっています。

「ハイカラ」

 「ハイカラ」という言葉はそもそも高い襟のことで、紳士服でいえば、つまりワイシャツの襟越が高くハイカラーで、それが上着の襟からグッと外に出ているのが流行だったところから、表現が飛躍して西欧風の新しい服装なら、何でも「ハイカラ」だといったものです。 婦人服にしても同様で、ハイカラーでなくても、目新しいものでありさえすれば「ずいぶんハイカラね」などといわれました。明治から大正期にかけてのことです。

「銭湯」

 平成の今日でもある銭湯ですが、ルーツは江戸時代にあります。もっとも銭湯のはしりは、天正十九年(1591年)夏のころといいます。安土・桃山時代で豊臣秀吉が千利休に切腹を命じた時期にあたります。湯屋、風呂屋の名はその前からありますが、浴場専門の営業だったかどうか、その点は不明です。公衆浴場の営業者で、享保年代の後で「湯女風呂」というものをつくり、昭和期に繁栄したトルコ風呂のように、湯女を置きました。このときの湯女は私娼同様の者でしたから、専門の営業とはいえません。
 江戸の銭湯は朝の六時(六ツ刻)から夕方の六ツ刻までが営業時間となっていて、それ以後は許されませんでした。火の用心のためです。規定の銭湯で、夕方六時に終了すると、半時間後の七ツ時から、湯女風呂を営業するものもありました。一軒で二枚看板を使っているわけです。
 明治の初期まで銭湯の湯槽(ゆぶね)は入り口に、破風作りの板戸があって、その下を潜って湯槽に入った。これを「ざくろ口」といいました。湯が冷めるのを遅くするためでした。風呂場の一切の世話は、三助という名前で呼ぶ男がいて、釜たき、水汲み、掃除一切をしました。この男だけは女湯への出入りは自由になっていました。
 明治以後、女湯、男湯の別がありますが、かつては混浴でした。銭湯の行事は、正月早々を初湯、三月に桃の湯、五月に菖蒲湯、十二月に柚子湯がありました。諸物価の変化、燃料の値上がりとともに、湯銭も上昇し、明治末期の大人三銭、子供一銭、大正期に入ると五銭と三銭になり、その後、大人は十銭、十二銭となりました。そして昭和四十二年、大人二十八円、子供十五円、流し(特別に体えを洗ってくれる)五十円と規定されました。昭和四十三年初めには大人三十二円、子供二十円になっています。

「丙午(ひのえうま)」

 江戸時代から昭和期にかけて、人々は丙午に生まれた者、とりわけ丙午生まれの女性を忌み嫌う風習がありました。また、丙午の年に結婚式を挙げることも嫌っていました。丙午は十二支を五行に配してあてはめたもので、その干支(えと)にあたる者が嫌われるというのは、何の根拠もありません。
 巷談によると、「八百屋お七」が丙午の生まれで、男性関係で処刑されていることから、嫌うという迷信が出たといわれています。これについても江戸時代に、学識者がこれは迷信である-とその非を記しています。
 曲亭馬琴は文化八年の『燕石雑志』に「丙午の年を世の中の人が恐れるのは、もっとも甚だしい。女子の丙午生まれの者は、その良人を食うという、ただそれだけで、その年だけを忌み、その日を忌むという理由はおかしい。年を忌むならば月も忌まなくてはなるまい。そうすると日を忌み、日を忌むなら時も忌むわけである。子(ね)丑(うし)寅(とら)卯(う)の十二支に禽獣(けだもの)を当てたのは、支那では後漢の頃から既にいっている。(中略)かかる故に、丙午の年には必ず火災あるという、もしこの様に世俗のいう事に従って、丙午年に火災があるならば、壬子(みずのえね)の年には水の災厄があるという事になる。世の人が丙午の年に火災があるというのみで、壬子の年に水災ありといわないとなると、丙午年は信ずるに足りない。たとえその善し悪しがあったとしても、それは偶然というより外には考えられない」としている。
 どうやら陰陽家という占い師や、おまじない師という連中の中に、金儲け主義の者がいて、そのようなことを考えて言い触らしたのが、誠らしくなったとしか考えられません。

「厄年(やくどし)」

 陰陽家という職業人にいわせると、人の一生の中には厄難のある年齢があります。それは男性が二十五歳、四十二歳、六十歳。女性が十九歳、三十三歳、三十七歳です。ことに男性の四十二歳、女性の三十三歳は大厄年だといいます。その前の年齢を「前厄」、後を「後厄」の年齢といっています。
 ただ、これは頭にちょん髷(まげ)をつけていた時代からの言い伝えであり、現代には通用しないかも知れません。ところが不思議なことに、平成の現代でも十人のうち八人までが信じるようです。信じない人は迷信だと決めつけていますが、一概にはそうもいえません。
 この厄年は「人生わずか五十年」といった時代につくられたもので、現代のように八十歳前後まで平均寿命が延びると、順次厄年齢も変わってくるわけです。昔の男性の二十五歳は、もう結婚して、早い人は子供の二、三人はいて、仕事に油の乗っている年代でした。それだけに体に無理をしがちです。したがって、今までの無理を嵩じ重ねていくと、体の調子が狂ってくる。そこで体の血行が平常でなく、濁ってくるというわけです。この「にごる」を「二五」るに当てはめたのです。
 「四二歳」は、これも既述の論法で「死に」と解したのです。当時は平均寿命五十年なのに、無理が高じると、この世をおさらばすることになりますよというわけです。「六十」歳は「無零(むれい)」です。零は数の中に入りません。それも無くなってしまうのですから、これも「四二」歳と同じです。
 女性は男性より体の成長が早い。十九歳までに結婚していないのは、大抵、病身者です。それで「重苦」を「十九」歳に掛け、病気で死ぬという、苦の重ねからでいいことではない。「三三」歳「さんざん」な目に遭う時代で、大病するか、あの世行きです。それで大厄と特に指定しているのです。それを越すと、「三七」歳、これは「みんな」で、皆おしまいという略語です。皆お仕舞いは男性の「四二」歳と同様です。
 これらの年齢を巧みに過ごせば、長命長久の組です。つまり、体に変化のくる年齢期なので、注意せよということです。そこで陰陽師一族は「厄払い」という行事をしてあげましょうという金儲けを、これから編み出した、いや編み出すための方法として、厄というものがつくられたのかも知れません。厄落とし、厄払いもという行事も、人間の心理の弱さを巧みに利用してつくられたものです。

「パチンコ」

 この「パチンコ」という言葉は相当古い。ただ、その中身は現代のパチンコではありません。明治時代はY字形の二股にゴムを張って、その中央に投げつける物質、多くは丸状のもの、または石のようなものを挟んで、ゴムを手前に引き伸ばして放つと、挟まれた物質が飛び、、弓で矢を放す呼吸と同じ理由で、これをパチンコと呼んでいたのです。太平洋戦争(1941~1945年)が始まるころに、子供相手に玉ころがし式のもので、棒を持って玉を送って、それが一定の溝を通って、いくつもの穴の開いた平板の上を転がって、そのいずれへかの穴へ玉が落ちる式のものがありました。今日のパチンコのイメージに近いものです。  
 その穴に点数が記してあって、その点数を多く取った者が、菓子などを景品として貰えるという勝負台が、子供を対象に駄菓子屋の店に出ていたものです。玉の出る音がパチンとして、穴へ落ちる音がコロコロ鳴るのでパチンコといわれていたのです。この勝負台は下に寝かしてありました。
 太平洋戦争後、まだ娯楽の少ないころ、名古屋方面から突如として駄菓子屋用のパチンコを立体にして、玉の棒送りを、バネの上げ下げによって、小さい鉄玉を跳ね上げて、半月形の溝を伝わり飛び出し、はね揚りの力で落下する玉を壁面にある受け皿に入れるというものが現われ、これをパチンコ遊戯と称するようになりました。それが各地に氾濫するようになってから、遊戯を取ってパチンコという呼び名になったのです。
 この遊びは所定の鉄玉を一個二円で買い、当たり穴へ一個入る毎に、十五個の玉が賞として戻ることになっていました。この玉数によってタバコ、キャラメル、チョコレートなどから実用品まで、玉と交換されることになっていました。
 すると、そのうち一日中に百円程度を資本玉にして、景品稼ぎをして遊ぶ者もだんだん出てきました。交換した景品も、すぐその場で金銭に換える者もおり、また往来で売買する者も出てきました。そんなケースが後を絶たず、そうした行為は賭博要素ありとして、一時売買を禁止したことがありました。その後、買い手がパチンコ店の店頭から離れ、路地の入り口のようなところに電話ボックスのような小屋を建て、小さい窓を設け、内外とも顔が見えない方式を取るなど工夫して売買が行われ、今日に至っているのです。

歴史のヒロインや歴史群像、豪商列伝を幅広く、独自の目線で書き上げています。